吉川進
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| よしかわ すすむ 吉川進 |
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| 生年月日 | 1935年10月13日(77歳) |
|---|---|
| 出生地 | |
| 民族 | 日本人 |
| ジャンル | プロデューサー |
| 活動期間 | 1958年 - 1997年 |
吉川 進(よしかわ すすむ、1935年10月13日 - )は、東映の元プロデューサー。東京都出身。
東映株式会社テレビ事業部企画営業第二部部長[1]として、80年代から90年代前半まで東映特撮路線の作品を総合的にプロデュースした。スーパー戦隊シリーズの立ち上げ、長期シリーズ化、海外進出に寄与。またメタルヒーローシリーズの生みの親である。
目次 |
経歴 [編集]
- 1935年(昭和10年)、東京都世田谷区に生まれる。生家は東京発声映画製作所(後に新東宝第二撮影所 - 大蔵映画撮影所となり1974年閉鎖)に近く、小中学校時代には通学途上で撮影風景を眺めていたという。
- 1958年(昭和33年)、22歳。東映に入社。
- 1964年(昭和39年)、28歳。新設された「東映テレビ部」へ配属。仮面ライダーシリーズや特撮戦隊シリーズ、東映アニメーションなどの育ての親である渡邊亮徳の下で製作者の道を歩みだし、退職するまで渡邊のサポートを受けながら数々のヒットを飛ばす。
- 1968年(昭和43年)、32歳。『日本剣客伝』よりプロデュースを手がける。以後あらゆる作品を担当。
- 1972年(昭和47年)、37歳。『人造人間キカイダー』で特撮作品に初参加。
- 1975年(昭和50年)、39歳。『秘密戦隊ゴレンジャー』に平山亨とともに参加。スーパー戦隊シリーズの立ち上げに寄与。以降『大戦隊ゴーグルファイブ』第1話までプロデュース。
- 1982年(昭和57年)、46歳。『宇宙刑事ギャバン』を担当、メタルヒーローシリーズの立ち上げに携わる。以後『機動刑事ジバン』第39話までプロデュース。
- 1987年(昭和62年)、52歳。これまでのライダーシリーズを担当した平山に代わり『仮面ライダーBLACK』を担当、第3期ライダーシリーズを立ち上げた。
- 1992年(平成4年)、57歳。バンダイとの提携でオリジナルビデオ『真仮面ライダー序章』を担当。翌1993年には映画『仮面ライダーZO』、1994年に『仮面ライダーJ』とテレビ以外のライダーシリーズに関わった。
- 1995年(平成7年)、59歳。『超力戦隊オーレンジャー』終了後、東映を退職。その後、東映ビデオに異動。
- 1996年(平成8年)、60歳。『超光戦士シャンゼリオン』が東映での最後のプロデュース作品となる。
- 1997年(平成9年)、61歳。東映ビデオを退職。
現在では時折、自身のプロデュース作品のDVDインタビューや特撮関係のムック本などで、インタビューに答えるなどしている。
エピソード [編集]
- プロデューサーという職務上とはいえ、曽田博久、杉村升、宮下隼一の特撮作品への脚本家としての登用、新堀和男の「レッド役」のスーツアクターへの復帰、円谷作品主体だった東條昭平監督の東映作品への招聘、澤井信一郎監督の特撮作品招聘など、スタッフ編成における采配の功績は多大なものがある。自身が現役で仕事をしていた当時は、特撮番組の東映社内における地位は低く、スタジオが空いていても使用許可をもらえないなど、苦労も多かったという。こうした傾向に変化が生じたのは、『パワーレンジャー』ヒットの影響があったと回想している[2]。『スパイダーマン』において、数々の劇場映画でも知られる降旗康男監督に「監督をやってみないか?」と無理を承知で声をかけたところ、終盤近くの時期になって「いつになったら俺に監督をさせてくれるんだ」という、意外な返事が戻ってきたこともあった[3]。
- 『スパイダーマン』について、渡辺宙明の証言によると、『誰が為に鐘は鳴る』をヒントにエンディングを八手三郎名義で作詞していた。
- 『バトルフィーバーJ』に東千代之介を出演させる事ができたのは、吉川が「東京放映」社長・香山新二郎と懇意で、「東京放映」所属の東千代之介とも交流があったため、声をかけやすかったからだという[4]。またミミズが大嫌いで、『バトルフィーバーJ』の話題でミミズの怪人に触れ、「こいつだけは愛せない」とコメントしていた。
- 俳優の杉義一と知り合いだったのが縁で、彼の息子である杉欣也を『太陽戦隊サンバルカン』のバルシャ―ク/鮫島欣也役に起用した[5]。
- 『宇宙刑事ギャバン』で主役に大葉健二を起用しようとしたとき、東映社内で反対の声が多数を占めたという。「僕の周りで大葉君に賛成する人は少なかった」そうで、そういう時には当事者に「あんたが大葉がイヤだというならわかった。じゃ、代わりにだれか連れてきてよ」と言って反対の声を捻じ伏せたうえで強引に大葉をキャスティングしたという。このことについて後にインタビューで「大葉君はアクションはできるし、愛嬌はあるし、勉強熱心だし……十分じゃないですか。そりゃ、新企画の立ち上げだから反対の声もあったけど、僕はガンとして大葉君を推しました。ギャバンの、大葉君の魅力は皆さんのほうがよくお分かりなんじゃないですか」と語っている。
- 仕事を多く共にした監督の田中秀夫は吉川について「ケツを叩くのがうまい人だったね」と評していた。『宇宙刑事』で小林義明が撮った作品について「あの部分がよかった」「ああいう風に撮ってほしいなぁ」と感想を述べて常にプレッシャーをかけ続けられたという。
- 鎌倉市在住で、同市には水木一郎も在住している。昭和61年に吉川宅で新年会が催されたが、そこに参加した水木に吉川直々に『時空戦士スピルバン』の主題歌を依頼したという。
- 杉村升が昔ワープロで入力したシナリオを吉川に提出したら「心がこもっていない!」と激怒されたと述懐している。ただし東映退職後は、インターネットに夢中になってしまったという[6]。
- 扇澤延男が近年インタビューで語ったところによると、とにかく最初は吉川にしごかれたという。扇澤はテレビ朝日の小関明プロデューサーの紹介で、『超人機メタルダー』に参加する事になったのだが、「たぶん(吉川は)それが気に入らなかったのでしょうね。吉川さんの考えでは、脚本家というのは制作サイドが見つけてくるのが基本で、局のプロデューサーの紹介の横滑りの人材なんて認めたくないんでしょう。とにかく最初はしごかれた」と語っており、プロットをどれだけ提出しても吉川がボツにして、『メタルダー』で最初に採用されたシナリオも吉川に言われ、第6稿まで書き直したとのこと。ただし翌年の『世界忍者戦ジライヤ』では吉川も認めるようになったのか、特に何も言わなかったという。
- 『秘密戦隊ゴレンジャー』でアクションを務めていた大野剣友会が、色々な特撮作品に関わり疲れていると見えたため、JACに交代させたところ、剣友会のメンバーが怒り、「吉川殴ってやる」と険悪な空気になった。それを知ったJACの金田治は「吉川さんは僕らが身体を張って守ります」と言ったという。その後、剣友会とはちゃんと和解したとのことである[7]。
- 小学館の仮面ライダー大百科のコメントで、『仮面ノリダー』に対し露骨に不快感を示していた。『RX』を持って第3期ライダーシリーズが終了したのも「とんねるずがくだらないパロディばかり作るので真面目に作るのが馬鹿馬鹿しくなった」とのことである。
- 東映ビデオの加藤和夫プロデューサーは『超力戦隊オーレンジャー オーレVSカクレンジャー』の制作打ち合わせの席で初めて吉川と対面したが、そのときの印象は「とにかく怖そうで厳しそうな人」というものだったという。
- プロデュース最終作品の『超光戦士シャンゼリオン』では、サブプロデューサーの白倉伸一郎に作品の実質的な采配を任せていたが、白倉によると第5話のあたりで吉川とかなり激しい衝突をしたという。その後吉川と白倉は一切口を利かなくなったそうだが、原因についてはいまだオフィシャルに理由は明かされていない[8]。
- ヒーローが悪役を倒した後に、悪役の倒れた姿は決して画面には出さないように徹底していたという。児童層への暴力描写を抑えると同時に、「悪は死んでいない」という正邪相克の永続性を意識した上での配慮であるという[2]。
- 仕事を共に多くした小林義明が作品中に人間の死体を出そうとしたが、「それだけは絶対にやってはいけない」と吉川から厳しく言われたという。
仮面ライダーBLACK [編集]
以下は『仮面ライダーBLACK』絡みのエピソードである。
- 当時プロデューサー補を務めた高寺重徳によると、ほとんどのサブタイトルを吉川が考案した[9]。
- 原作者の石ノ森章太郎に「新しい仮面ライダーを作るから、今までのライダースタッフは一切入れない」と宣言している[7]。
- 戦闘員との立ち回りが廃されたのは、「従来のライダーバトルとは大きく変えたい」という吉川の意向と言われている。
- 撮影監督の松村文雄によると、当初吉川から依頼を受けた際、松村は『あぶない刑事』を担当しており、またそちらの現場が思いのほか楽しかったため断りを入れたが、「お前がやらないなら一体誰がやるんだ!」と何故か怒鳴られたという。結果的にライダーシリーズに関わったことのない小林義明がパイロット監督を務めるなどの魅力にも惹かれるなどし、松村は『あぶない刑事』を途中降板して、チーフ撮影監督に就任している[10]。
- 当時まだ新人脚本家だった荒川稔久が提出するプロットが上原正三のものに似たものばかりだった事から、吉川は「上原正三は2人もいらないんだよ」と一喝した。結局この後は独自の作風に意識的になったそうで、後年に上原との対談でこのエピソードに触れたり[11]、エッセイでこの件について記す[12]など、荒川にとってはエポックメイキングな出来事になったようである。
- 長坂秀佳が脚本に参加しようと旧知の東映・齋藤頼照プロデューサーを通して吉川にアプローチしたところ、「ギャラが高すぎるから無理」という理由で断っている。
- パイロットグループの監督の小林義明や辻理が時間をかけて撮影したため、スケジュールがキツくなったときに参加した小笠原猛にはいきなり「8日間で2本撮れ」と要求した。小笠原が「それなりの作品しかできませんけど、よろしいですか」と答えたところ、吉川もそれを了承したという。小笠原の作品はそういった状況で作られた点を考慮して、いつも吉川は評価をしてくれたという(近年の雑誌インタビューにて小笠原本人がコメント)。
主な作品 [編集]
テレビ [編集]
- 日本剣客伝
- 新・日本剣客伝
- あひるヶ丘77(フジテレビ系)
- ブラックチェンバー(フジテレビ系)
- 特命捜査室(フジテレビ系)
- 冠婚葬祭屋(1972年1月8日 - 4月1日、NET(現:テレビ朝日)系)
- 人造人間キカイダー(1972年7月8日 - 1973年5月5日、NET系)
- キカイダー01(1973年5月12日 - 1974年3月30日、NET系)
- ザ・ボディガード(1974年、NET系)
- ザ★ゴリラ7(1975年、NET系)※途中まで
- 五街道まっしぐら!(1976年、NET系)※企画
- 透明ドリちゃん(1978年1月7日 - 7月1日 テレビ朝日系)※『ジャッカー電撃隊』の後番組
- スパイダーマン (東映)(1978年5月17日 - 1979年3月14日、東京12チャンネル(現・テレビ東京))
- スーパー戦隊シリーズ(旧NET・テレビ朝日系)
- 秘密戦隊ゴレンジャー(1975年4月5日 - 1977年3月26日)
- ジャッカー電撃隊(1977年4月9日 - 1977年12月24日)
- バトルフィーバーJ(1979年2月3日 - 1980年1月26日)
- 電子戦隊デンジマン(1980年2月3日 - 1981年1月31日)
- 太陽戦隊サンバルカン(1981年2月7日 - 1982年1月30日)
- 大戦隊ゴーグルファイブ(1982年2月6日 - 1983年1月29日)※企画。第1話のみ
- 忍者戦隊カクレンジャー(1994年2月18日-1995年2月24日)
- 超力戦隊オーレンジャー(1995年3月3日-1996年2月23日)
- メタルヒーローシリーズ(テレビ朝日系)
- 機甲艦隊ダイラガーXV (1982年、テレビ東京系)
- 星雲仮面マシンマン前半まで(1984年、日本テレビ系)
- ビデオ戦士レザリオン(1984年、TBS系)※第22話から
- 仮面ライダーシリーズ(毎日放送系)
- 仮面ライダーBLACK(1987年10月4日 - 1988年10月9日)
- 仮面ライダーBLACK RX(1988年10月23日 - 1989年9月24日)
- 超光戦士シャンゼリオン(1996年4月3日 - 1996年12月25日、テレビ東京系)
80年代後期(おそらく85年前後)から1996年まで、東映の実写特撮作品、東映本社制作のアニメを全体的に統括する立場にあった模様。[13]
映画 [編集]
上記作品の映画版は除く
- 仮面ライダーZO(1993年4月17日封切り。東映スーパーヒーローフェア)
- 仮面ライダーJ(1994年4月16日封切り。東映スーパーヒーローフェア)
- 人造人間ハカイダー(1995年4月15日封切り。東映スーパーヒーローフェア)
Vシネマ [編集]
- 女バトルコップ(1990年11月9日)
- 真・仮面ライダー 序章(1992年2月20日)
- 大予言 復活の巨神(1992年4月23日)
- 超力戦隊オーレンジャー オーレVSカクレンジャー(1996年3月8日)
脚注 [編集]
- ^ 『テレビマガジン特別編集 ビジュアル全集 人造人間キカイダー』p125(1987年 講談社)
- ^ a b 『日本経済新聞』2010年8月25日
- ^ DVD-BOX『スパイダーマン』付録冊子 「スパイダーマン大検証」
- ^ DVD『バトルフィーバーJ』Vol.2
- ^ 2004年に開かれたトークショーでの杉の発言による。
- ^ 『宇宙船』Vol.98(2001年、朝日ソノラマ)
- ^ a b 『特撮ニュータイプ』2011年1月号(角川書店)
- ^ 『超光戦士シャンゼリオンバイブル』(2002年、朝日ソノラマ)
- ^ 『宇宙船』2011年1月号(ホビージャパン)
- ^ 『東映ヒーローMAX SPECIAL さらば仮面ライダー電王』(2008年、辰巳出版)
- ^ 『宇宙船』Vol.103 2002年11月号(朝日ソノラマ)
- ^ 『ドラマ』号数不明(映人社)
- ^ 『東映ヒーローMAX』Vol.26でのインタビュー(p74)より。