アニメの歴史

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アニメの歴史(アニメのれきし)では、特にことわりがなければ日本のテレビアニメ史についてあつかう。アニメーション映画も参照のこと

目次

[編集] 歴史

[編集] 前史

[編集] 世界

アニメーションは、セル画によるものだけでなく、人形やCG、スライドによるものを含む。1902年のメリエスの『月世界旅行』の最後の、ロケットが港に戻るシーンで、すでに切り絵アニメーション(静止した背景画の前で、船の切り絵を少しずつずらしてコマ撮りする)が用いられ、これが映画のコマ撮り(ストップモーション)によるアニメーショントリックである。

作品としては、1892年フランスで作られたエミール・レイノーの『哀れなピエロ』(原題:Pauvre Pierrot)を初めとする一連の作品がある。しかし、レイノーの作品は純粋な意味での映画ではなく、テアトル・オプティークと呼ばれるゼラチンフィルムに別々に描かれた手書きの人物と背景をプロジェクターで同時にスクリーンに投影する装置によって上映されていた。他にアメリカジェームズ・スチュアート・ブラックトン監督による『愉快な百面相』(1906年、原題:Humorous Phases of Funny Faces)などがある。これは黒板に白チョークで描く実写と、そのコマ撮りを組み合わせた線画アニメであり、この最後のピエロの部分では白い枠線の切り絵がチョークアニメーションと組み合わされて用いられている。またアメリカでは1928年から『アメリカン・アニメーションの黄金時代』が始まっている。

世界最初の実写部分を含まない純粋な短編アニメーション映画は、フランスの風刺画家エミール・コールによる『ファンタスマゴリー』(1908年、原題:Fantasmagorie)である。以後、数年間でアメリカおよび映画発明国フランスで線画アニメ映画の製作が盛んになった。世界初の純粋長編アニメーション映画は1917年にアルゼンチンキリーノ・クリスティアーニによって製作された。

1914年にセル画によるアニメーション技術がアール・ハードによって開発、特許申請される。しかし、当時、一般には、背景を印刷した紙にペン描き、というのが、一般的だった(『クレイジー・カット』シリーズ(1916年、原題:Krazy Kat)、『フェリックスの初恋』(1919年、原題Feline Follies)など)。また、アルゼンチンドイツなどでは、切り紙や人形アニメが盛んに創られていた。

アジアでは1941年に中国において万籟鳴万古蟾の監督で公開された『西遊記 鉄扇公主の巻』がアジア初の長編アニメーション映画とされる。1942年には戦時下の日本に輸出され、当時16歳の手塚治虫に影響を与えると共に、海軍省に長編アニメーション映画『桃太郎 海の神兵』(1945年)を制作させる動機となった。

[編集] 日本

日本では大正期のものが記録に残る最古のアニメである。外国から輸入されたアニメーション映画の人気を受けて製作されたものである。下川凹天幸内純一北山清太郎の3人がそれぞれ別個にアニメの製作を手がけ(セル画によるものではない)、時期的にも同時期だったため、3人のいずれもが日本のアニメの創始者と位置付けられている。より古いものとしては、遅くても明治40年代のものとみられるフィルムが2005年に発見されており、記録がさかのぼる可能性はある[1]。諸外国と同じく当初作られていたアニメは数分程度の短編映画が多かった。作り手も個人もしくは少人数の工房での家庭内手工業に準ずる制作体制で、生産本数も少なく、生産の効率化を可能とするセル画の導入も遅れていた。1930年前後にセル画が使われ始まるまでは、日本では、フランスなどと同様、切り絵によるアニメが主流であった。

第二次世界大戦を迎えると、戦意高揚を目的とする作品が制作され瀬尾光世監督による日本初の長編アニメーション『桃太郎の海鷲』(1942年、37分)が生まれ、1945年には松竹動画研究所により『桃太郎 海の神兵』(74分)が産み出された。この時期軍部が提供した潤沢な予算は技術力の向上に繋がったとの評価がある。

戦後、映画会社の東映1956年日本動画社(日動)を吸収合併しアニメスタジオ「東映動画」を発足。1961年には手塚治虫虫プロダクションを発足させた。東映動画は劇場用アニメーション映画の製作を開始し日本初のカラー長編アニメ映画白蛇伝』(1958年、79分)が制作され「東洋のディズニー」を目指した目論見通りに海外へも輸出された、一方虫プロダクションは日本で最初の本格的連続テレビアニメ『鉄腕アトム』(1963)とそれに付随する日本初のテレビアニメからの長編アニメ映画鉄腕アトム 宇宙の勇者』』(1964年、87分)を制作している。

[編集] テレビアニメの始まり

1953年にテレビ放送が始まると、番組内の一コーナーでアニメを使用する番組が作られたが、一回の放送も数分程度のものが多かった。テレビCMにも盛んにアニメーションが用いられるようになり、後のエイケンのTCJや漫画家横山隆一の「おとぎプロ」が制作に携わっている。また同年に日本初のフルコマ撮り人形アニメ『ほろにが君の魔術師』が持永只仁川本喜八郎らの手によってCMとして制作されている。1960年1月15日に30分番組として一回放送された『3つのお話』(NHK)は、実際は中村メイコのトークや実写を交えて3つの童話をアニメ化したものだが、恐らくはアニメを主目的にした番組では日本初だろう。この時代に始まった短いアニメを利用した番組は、『みんなのうた』(NHK、1961年放送開始)がある。同年、おとぎプロ制作による日本初の連続短編テレビアニメ『インスタント・ヒストリー』(放送時間1分、1961年5月8日~1962年2月24日)がフジテレビで放送された。だが、新聞のラジオ・テレビ欄には読売が毎回載せ、朝日が数回載せた他は、毎日、日経は掲載しなかった。さらに、アニメーションは長い制作期間と制作費がかかるというのが当時の映像業界の常識であり、『ポパイ』・『恐妻天国(後に『原始家族』として再放映)』・『宇宙家族』などNHKと民放とを問わず海外のアニメが盛んに放送される中、日本では本格的なアニメ番組を制作しようというテレビ局は現れず、1963年の鉄腕アトムを待たなければならなかった。

[編集] 少ない制作費

東映動画は、手塚治虫原作の『ぼくのそんごくう』をベースとして『西遊記』を制作する際、手塚自身からの申し出もあって、ストーリーボードなどのスタッフとして手塚を招聘することになった[2]。手塚は独自にアニメーションについて研究していたが、フルモーションの長尺作品をベースとする東映動画の考え方とは必ずしも馴染まなかった点があり、独自のアニメ制作を模索することになる。

1961年放送開始の『インスタント・ヒストリー』は3分番組で実質は1分にすぎなかった。1963年に放送が始まった『鉄腕アトム』は、週1回放送の30分番組という後のテレビアニメの基本形態を作り、日本におけるテレビアニメシリーズの嚆矢と位置付けられている。このために、原作者の手塚治虫自らが制作会社虫プロダクションを興し制作を指示、虫プロスタッフの坂本雄作、山本暎一の両名がテレビアニメ企画を広告代理店・萬年社(99年に破産)に持ちかけ、企画が実現した。なおタイトルが『鉄腕アトム』と当初から決まっていたわけではなく、元虫プロ営業部次長の須藤将三によると、スポンサーが明治製菓に決まる直前まで、『鉄腕アトム』か『0マン』かは未定であったという[3][4]。ただし、手塚のテレビアニメは、撮影そのものが秒8コマのリミテッドであるだけでなく、立絵紙芝居や切り絵アニメーション、古い30年代の部分アニメなどの技法を組み合わせて、止め絵、引き絵、口パク、バンクなどを多用し、カメラによって絵を動かしており、セルの動画とはまったく別の、より古いアニメーション原理に則っている(それはフラッシュアニメなどに近い技術でありテレビアニメの技術が後に日本をゲームで成功へ導く)。

この時、手塚は「(一本につき)五十万で売って。それ以上高くしないでください。それ(くらい低価格)なら他でつくれないでしょ」と指示、「手塚さんはテレビアニメを独占するつもりだったのかどうか。萬年社は『安すぎる』と、手塚さんに内緒で百五十万円を虫プロに払っていました。実際は制作費がいくらなんて、どうでもよかった。ロイヤリティーが日銭で何百万円と入ってきたんですから。」 (虫プロ・元営業部次長・須藤将三)[3] この時の価格が業界での標準となったため、現在に至るまでアニメ業界は低予算に苦しめられることになる。しかしその反面で、一部に以下の反論もある。

虫プロのアニメを、東映動画の現場の大塚康生らは「電気紙芝居」と批判したが、東映動画の経営陣は、テレビアニメを製作しなければならないという経営上の必要性から、手塚のアシスタントを務めたこともある月岡貞夫の企画をもとに、『狼少年ケン』を製作する。また、やはり手塚に近かった石ノ森章太郎の絵で『レインボー戦隊ロビン』を作り、その友人の赤塚不二夫、横山光輝、永井豪などのアニメを量産することになる。宮崎駿は長編中心だが、高畑勲はテレビアニメにも関わっている。

[編集] 再放送と海外輸出

低予算な為1回だけの放送では制作費が回収出来ず、1970年代辺りから海外輸出が重要な資金回収手段となった。 輸出の際は、わざと放送権を安く販売し、その代わりに多くの国に輸出するという販売戦略が採られた。この方が短期間で資金の回収が可能だった為である。これにより日本のアニメは海外へも広がっていった。

最初に輸出されたテレビアニメは『鉄腕アトム』である。1963年にはアメリカ合衆国で放送されていた。『鉄腕アトム』は1話1万ドル(当時のレートで360万円)で104話がアメリカ三大ネットワークNBCの関連会社NBC FILMSに販売され、当時の金額で約3億円を稼いだ。『鉄腕アトム』は実際の制作費が150万円だったのに対して、フジテレビでの放映権料は50万円と完全に赤字だったのを、この輸出によって補った。 なお、アメリカでの放送はその後も『ジャングル大帝』などがあるが、アメリカからの下請けという形を除いて、ネットワークに乗ることはなく、『鉄腕アトム』も『ジャングル大帝』もNBC FILMSが番組販売された。その後のアメリカでの日本製アニメの放送は、シンジケーション販売による地方ローカルとケーブルテレビが主流となっており、またアメリカでの売り上げは相対的に低くなった。1995年東映動画の海外販売は全世界で約10億円だったというが、金額別内訳ではヨーロッパが全体の85%を占め、東南アジアが9%、中近東が3%、アメリカは3%であった。東映では30分もの1本の価格は4000ドルから5000ドル(40万円から50万円)に設定され、40年前の1本1万ドル(360万円)の鉄腕アトムからは格段に購入しやすくなっている。自国でアニメを制作するよりは輸入した方が安いという点が、世界で日本のアニメが放送される理由の一つになっている。

日本のアニメでフィルムが散逸したものは少ないが、これは再放送・海外輸出のためにフィルムが保存されたためである。

この他、玩具・菓子・文具メーカーにキャラクターの絵の付いた製品の製造権を売る、版権ビジネスが重要な資金回収手段となった。特に玩具メーカーは積極的で『おはよう!スパンク』(1981年)のように、メーカー主導で製作された番組もある。これらのメーカーは製品の在庫が払底するまでは、突然に資金提供を降りるということもなかったので、ある程度長期見通しを持って番組制作を続けられるという利点も生まれた。このため、数回または数十回に渡って長いストーリー展開がある番組も作られるようになった。それまでのアニメは、海外のテレビアニメーション番組や『鉄腕アトム』に倣い、1話完結のものが多かったのである。続きもののストーリーを持つアニメの極初期のものとしては『巨人の星』(1968年)があり、その後1974年頃には特に珍しいものではなくなっていた。

[編集] モノクロアニメとカラーアニメ

1893年に今日の映画であるシネマトグラフが発明される以前から、フィルムを用いない映像玩具がありアニメーションの元祖とされるが、その一種であるゾートロープを改良したプラキシノスコープを使って1888年からフランスエミール・レイノーパリの蝋人形館で「光学劇場」と称して作品を上映していた。その内容は物語付きの数分間のアニメーションと言えるもので、着色も成されたものだったという。フィルムによるアニメが制作されると、カラーフィルムの発明されるのを待たずに、フィルムに1コマずつ直接着色するという手法で早くからカラーのアニメが制作されている。例えば、ウィンザー・マッケイの短編作品「リトル・ニモ」は1911年の公開である。1932年ディズニーが初めてフルカラーで製作した『花と木(Flowers and Trees)』を公開して以降、第二次大戦前にはアメリカではカラーによる短編アニメが盛んに製作され、1937年にはディズニーの初のカラー長編アニメ『白雪姫』を公開している。日本では1958年東映動画による劇場版『白蛇伝』は初のカラーによる長編の劇場作品だったが、それ以前に大藤信郎が色セロファンや千代紙を使った短編のカラー作品を発表している。このように劇場作品に於いては、海外作品を始めとして、カラーアニメは既に制作されていたが、初期のテレビアニメはテレビ放送のカラー化及びカラーテレビの普及が進んでいない事情もあって、全て白黒だった。最初のカラーテレビアニメ『ジャングル大帝』(1965年)は、アメリカ合衆国での放送を前提に資本が集められて実現した。なお、『ドルフィン王子』全3話が『ジャングル大帝』(1965年10月)に先立つこと半年前に放映されているが、放送回数が少なかったことに加え、放送自体はモノクロだったため、「ジャングル大帝」が事実上の日本カラーテレビアニメの嚆矢とされる。なお1963年12月20日から1964年にかけて全15話が放送された人形アニメーション『シスコン王子』、1964年1月25日に放映された『鉄腕アトム』の第56話はカラーで制作されたが、放送自体はモノクロであり、カラーのテレビアニメではなかった。

カラーによるテレビアニメは、制作費がかかることと、カラーの受像機が普及していなかった事情から、この後も数年間は新作はカラーと白黒の作品が混在していた。ただしこれはアニメに限った話ではなく、この時代、他の多くの番組も同様にカラーと白黒が混在していた。

楠部大吉郎によるとテレビアニメはカラー化によって制作費が大幅にアップしたそうである。モノクロの時は30分240万-250万だった所がカラーで540万になった。楠部によれば歴史的にいって日本のテレビアニメの制作費がこれほど上がったのはカラー化の時だけである[5]

[編集] 低年齢層に受け入れられたアニメ

当初、アニメは日本では子供達の間で特に人気があった。大人達はそれまでに見慣れていた時代劇やホームドラマのようなものに関心が高く、アニメには余り興味を示さなかった。そして初期に作られたアニメで成功した作品はほとんどが子供向きのものであった。この事情から、1960年代から1970年代にかけて制作されたアニメはほとんどが子供、特に12歳以下を対象とした内容であった。キャラクターグッズを欲しがる年齢層もこの年齢層に重なっていたため、アニメ制作会社にとってもこれは好都合であった。

このように、初めてのテレビアニメが制作されてからの約10年間は、良くも悪くもアニメは『鉄腕アトム』に多くの影響を受けていた。現在の日本のアニメは原作を持つ作品が多いが、これは黎明期のテレビアニメに原作付きの物が多かったという例に倣った結果と言える。

[編集] 内製システムの崩壊

テレビアニメは大人気となり、大量のプロダクションが生まれ、作品数も飛躍的に増加したがその結果、アニメーターの数が不足した。多くのプロダクションは美術系大学の卒業生などを集めたがそれでも足りなかった。優秀なアニメーターの引き抜きが恒常的に行われるようになり、アニメーターの人件費はみるみる内に高騰した。反面、テレビ局の製作費はそれほどは増えなかった。

それまでほとんどのアニメ制作プロダクションは内製システムを採っていた。キャラクター設定から原画・動画・動画チェック・彩色・撮影など、全ての工程を社内で行うことによって、作品の品質を保てていた。外注は1963年には既に存在したが、恒常的には行われていなかった。しかし、1971年から東映動画は主だった工程のみを自社内で行い、動画・彩色などの比較的単純な工程については外注や出来高払いに移行をし始め、実質的な人員整理を開始した。これに対しては組合側が激しく反発したが、経営側は応じず、1972年、指名解雇が始まる。経営側は組合側の反発にロックアウトを行って応酬した。経営側が強硬だったのは、赤字が嵩み、人件費の削減が行えない限り、会社の存続が困難だったためだと言われている。

一方、虫プロダクションでは1973年に労働争議が起き、解決しないまま倒産した。社長の手塚治虫は虫プロ設立当時「僕は何かあったら労組の先頭に立って一番に会社を糾弾する」と冗談を言っていたことがある。

内製システムを採っていた大手2社でこのような事態になり、同じく内製システムだったタツノコプロも1970年代半ばに賃金問題と社長の死去で、70名から80名の有力な人材が流出して結果的にリストラを行ったことと同じ状態になった。これらの事件を切っ掛けに、ほとんどのプロダクションは多くの作業を外注に頼るようになり、また、以後、アニメーターの給与は極めて低く抑えられるようになった[6]。例えば、虫プロダクション出身者によって設立された日本サンライズは、虫プロダクションを教訓に、制作管理スタッフだけを正社員として発足した。この状況は現在も続いている。1980年代後半以降、動画 (アニメーション)・彩色という低賃金の工程はほとんどが東アジアで行われるようになり、アニメ制作の空洞化が指摘されている(なお東映動画は海外発注を1973年に開始している)。

[編集] オリジナルビデオアニメ (OVA) の登場

1980年代になり廉価な家庭用ビデオデッキが量産され始めるとOVAが登場した。これは劇場用映画でもなければ、テレビ放送もされないアニメの総称で、主にビデオソフトの形で販売された。最初のOVAは『ダロス』(1983年)で、この後も続々と新作が発売され、現在では日本アニメの柱の1つになっている。OVAは、作品そのものを購入できるような収入を持つ独身男性を主要購買層に定めた作品が多く、それらを対象にしたアニメは自然とOVAで発表されることが増え、結果的に、低年齢層・家族向けにはテレビアニメ、高年齢層向けにはOVAという流通形態に分化することとなった。

その後、高年齢層向けの作品を高年齢層向けの時間帯に放送し、その宣伝効果でビデオソフトやキャラクター商品を売り上げ、制作資金を回収する方法が確立された。これにより、高年齢層向けの作品のテレビアニメも増えてきた。これらの作品は深夜帯や独立UHF局、アニメ専門のケーブルテレビ局で先行放送した直後にビデオソフト化し、話題になっているうちに販売するという販売戦略が採られている。この形態での放送・ソフト化が広まり、現在では狭義のOVAは衰退し、高年齢層向けの作品が加わる形でテレビアニメの対象年齢層が拡大している。

[編集] コンピュータグラフィックス

コンピュータグラフィックス (CG) の利用は、1960年代から始まり、アメリカでは映画『2001年宇宙の旅』にも参加したジョン・ウィットニー(John Witney)が先駆者として評価され、1961年に『カタログ(Catalog)』を制作。日本でも、1967年11月に第1回草月実験映画祭において、山田学と月尾嘉男によるコンピュータ制御のプロッタで描画したアニメ『風雅の技法』を発表。日本初のCGアニメと目されている。黎明期のCGは表現力の乏しさから抽象的なアートアニメーション、計算に基づいたシミュレーションに用いられた。初期のコンピュータゲームも図形的なデザインによる、リアルタイムで生成されるアニメーションと見ることができる。

商業的な娯楽作品にCGを大々的に用いる切っ掛けとなったのは、1982年ディズニー制作のアメリカ映画『TRON』の登場が大きい。その影響からか、日本でもコンピュータを部分的に用いたアニメが登場するようになる。1983年には映画『ゴルゴ13』とテレビアニメ『子鹿物語』、1984年には映画『SF新世紀レンズマン』『超人ロック』などが制作された。これら1980年代前半の作品は話題性や新奇性による宣伝効果狙いを含んだ、実験的なものであった。

従来のアニメは長い間、紙に描いた線画をセルと呼ばれる透明なシートに転写し、それを手作業で着色した上で、順番に取り替えながら撮影する制作方式だった。これは人海戦術的な方式でありながら技術も必要であり、その放送時間と比較して大変な労力を要した。CGもしばらくは特殊効果としての補助的な使用中心だったが、技術革新となったのは1990年代後半頃からのセルの廃止や3D-CGである。セルの廃止は、原画を従来通り人間が手描きし、それをコンピュータに取り込んで以降の過程をコンピュータ上で処理する。着色はデジタル彩色となり、使用可能な色数はそれまでのアニメ専用絵具(アニメカラー)の80色程度から一気に1600万色となった。3D-CGは原画段階から3Dモデリングを元にコンピュータが作画を行う。基本的に紙への作画はしないので、手書きとは質感が異なるものの、立体物などがリアルに表現できる。これらにより、フィルムでの撮影や編集もコンピューター上での作業に移行することになった。

ディズニーとピクサーは共同で、CGアニメ制作用システム、コンピュータ・アニメイテッド・プロダクション・システム (CAPS) を開発した。CAPSは、1989年の『リトル・マーメイド』で試験的に最後の一部に用いられ、続く1990年に公開された『ビアンカの大冒険』で全面的に採用となった。1991年には『美女と野獣』、1992年には『アラジン』にも用いられ、興行的にも成功を収めた。セルアニメーションで培われた技法と、CG独自のカメラワークや表現を違和感なくを調和させて、1992年にはアカデミー賞の最優秀科学技術賞を獲得した。さらに1995年にはピクサーが制作した3D-CGによる『トイ・ストーリー』が大成功を収める。フルCG映画の登場によりCGの話題性や新奇性は薄れ、CGは単なるアニメ制作の手法の一つとして定着していった。

日本でも1995年に最初の3D-CG連続テレビアニメ『ビット・ザ・キューピッド』が放送開始された。新作アニメはセル非使用前提で開始されるようになり、セルの需要が減少したため、1997年に富士写真フイルムは利益の少ないセルの生産を停止、それを期に東映動画はほぼ全作品でセル非使用に切り替えた。2002年には旧来の長寿アニメの大半もセル非使用に切り替わった。『忍たま乱太郎』が4月放送から、『クレヨンしんちゃん』が5月放送から(例外あり)、『名探偵コナン』が6月放送から、『ドラえもん』が10月放送からなどである。『おじゃる丸』、『ポケットモンスター』、『ちびまる子ちゃん』も同年に切り替わっている。連続作品内での切り替えであるため、セル画との画質の違いに気づいた視聴者も多いはずである。現在毎週新作でセル制作をしている作品は実質的に『サザエさん』のみになった。

現在ではトゥーンレンダリングなどの開発により、手書きの質感を3D-CGで表現する試みも進んでいる。それ以外でもコンピュータの利用は進み、ペンタブレットによる作画工程からのデジタル化や、デジタル通信ネットワークの利用による分業(海外などの下請けスタジオまで原画データをデジタル通信で送り、完成したデータもデジタル通信で受けとる)も行われている。

[編集] テレビアニメの本数増加

詳細は「テレビアニメ#1990年代におけるテレビアニメの激変」を参照

1997年以降、(特に高年齢層のアニメ愛好者を対象とした)テレビアニメの本数が増加傾向を見せ始めた。俗にアニメバブル[7]と呼ばれている。

要因としては少子化による玩具の売り上げ低下で玩具メーカーがスポンサーから撤退しゴールデンタイムのテレビアニメ放送が難しくなってきたこと[7]、1995年の『新世紀エヴァンゲリオン』の大成功、1997年頃に実用化されたコンピュータ彩色による制作費の低下・制作期間の短縮化、複数の企業が制作費を出し合う製作委員会方式によって制作費の調達が容易になったこと、テレビアニメのビデオソフト化で制作費を賄う仕組みができたこと、そして地上波の深夜放送枠、ケーブルテレビ局、WOWOWノンスクランブル枠、独立UHF放送局CS放送BSデジタル放送といった新たな放送枠が開拓されたことが挙げられている。

[編集] 国によるアニメ産業育成

1977年から、文化庁は毎年数作品の「こども向けテレビ用優秀映画」を選定し、テレビアニメに製作援助金を交付する制度を開始した。1998年には一般向け作品を含む「文化庁優秀映画作品賞」に統合された。

2004年5月、アニメや漫画など日本のソフト産業の保護・育成に官民一体で取り組む為の「コンテンツ法」[8]が参院本会議において全会一致で可決、成立した。

[編集] OVA

詳細は「OVA」を参照

[編集] アニメーション映画

詳細は「アニメーション映画」を参照

1953年にテレビ放送が開始されるまで、アニメ作品を鑑賞するには短編のアニメ映画が添え物として上映されるのを映画館で見るのが主流であり、アニメと言えばアニメ映画以外に存在しなかった。1917年に当時続々と輸入されていた日本国外の短編アニメが人気を呼んだのを受けて、日本で商業アニメが制作されるようになる。その後もディズニーなど輸入されたアニメとの競争にさらされながら、小規模なスタジオで制作されていた。大正末期から昭和初期にかけては人気漫画をアニメ化するなどしたが、映画がトーキー化すると制作費が高騰し、興行主は同じ値段なら見劣りがする日本産より質が高いアメリカのアニメを選ぶようになり、第二次世界大戦前の日本で人気を呼んだアニメはアメリカのアニメだった。

第二次世界大戦が始まるとこうした状況は一変し、アメリカ映画は輸入禁止となり、さらに軍に協力する形で資本が投入され、これまで大量に使えなかったセル画や大量の人材を投入したアニメ映画が制作されるようになる。こうして日本で初めて長編アニメが作られ始め、長編の戦意高揚アニメ、『桃太郎の海鷲』(1942年)や、その姉妹編の『桃太郎 海の神兵』(1945年)などがある。中でも、桃太郎海の神兵はディズニーの『ファンタジア』の影響もあり、戦前のアニメーション映画に於ける集大成と言われるほど優れた技巧が見られる作品であった。

第二次大戦後も、細々とながら短編アニメ映画は製作され続けていた。この時代の代表作に『すて猫トラちゃん』(1947年)がある。

第二次世界大戦後の本格長編アニメ映画は前述した東映動画のカラー映画『白蛇伝』(1958年)に始まるが、1963年に『鉄腕アトム』がテレビ放映されるとその影響はすぐに現れ、長編アニメ映画を制作していた東映動画も同年に『狼少年ケン』でテレビアニメに進出。その後、ノウハウを積み重ねて、それまでフル・アニメーションでアニメ映画を作っていた東映動画がテレビアニメのノウハウを取り入れたB作と呼ばれる『サイボーグ009』を1966年に制作し、この後は、映画の世界でもリミテッドアニメは珍しくなくなった。1960年代は、アニメーション映画はほぼ東映動画と映画『鉄腕アトム』を創った虫プロダクションだけの時代が続いた。ただし、東映動画の長編作品は年に1 - 2本程度、虫プロダクションの制作頻度はそれよりも遅く、当時、莫大な数の邦画が作られていたことから考えると、アニメーション映画はほとんど作られていなかったと言っていい。

1970年代に入ると、他社の参入によりアニメ映画の本数は増加するが、テレビアニメを単に再編集したものが多かった。しかしビデオデッキが全く普及していない時代であり、熱心な愛好者は、テレビの名場面が再び劇場の大スクリーンで見られるというだけで、喜んで劇場まで足を運んだ。比較的有名な再編集アニメ映画には、『宇宙戦艦ヤマト』(1977年)がある。同作品と翌年公開された『さらば宇宙戦艦ヤマト-愛の戦士たち-』は大成功を収め社会現象となった。この成功でアニメが一般社会に認められることとなり、この後に日本でアニメーション映画が多数作られる切っ掛けにもなった。

1980年代は再編集アニメに加え、『AKIRA』など、新作映画も多く作られた。この他、東映まんがまつりに代表される、テレビアニメでの人気作の新作を映画にし、数本立てで上映する形態が恒常化した。これなどの作品はアニメ愛好者よりは家族を狙った作品が多い。1990年代から成功を続けている宮崎駿作品の『風の谷のナウシカ』や『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』などが登場したのもこの時代である。『ドラえもん』の劇場用長編も公開が始まっている。

1990年代のアニメーション映画は、本数は増加したが、高年齢層を狙った作品は少なく、児童・家族向けの作品が多かった。アニメ映画は観客の層が偏り、資本の回収が困難なことが多く、また、高年齢層のアニメ愛好者は劇場に足を運ぶよりは自宅でビデオで繰り返し見るほうを好んだため、製作側が自然とテレビアニメやOVAを重点に置き始めたためだと考えられる。また、テレビアニメの映画化が非常に多いのがこの時代の特徴である。1990年代アニメーション映画はほぼ毎年日本映画興行成績の上位に位置しており、1989年の『魔女の宅急便』を始めとして、1991年は『おもひでぽろぽろ』、1992年は『紅の豚』、1994年は『平成狸合戦ぽんぽこ』、1995年は『耳をすませば』、1997年は『もののけ姫』、1999年は『劇場版ポケットモンスター 幻のポケモン ルギア爆誕』と、以上がその年の日本映画興行成績の最上位を記録している。

2000年代になると、アニメなしでは日本映画は成り立たないとまで言われるほど、アニメ作品の比重が増加した。キネマ旬報によると、2002年度の日本映画の興行収入10位までの内6本がアニメで、1位と2位、4位、5位は全てアニメだった。ただし、2003年度は、アニメの本数は5本に減り、1位はアニメではなかった。またこれなどのアニメ映画のほとんどは『ポケットモンスター』に代表されるテレビアニメ番組の新作を映画にしたものである。 教育の現場では比較的アニメは多用される。比較的初期の作品に、『カチカチ山の消防隊』(1948年、日本漫画映画社、消防庁)がある。現在では、麻薬防止用の啓発ビデオ『ダメ。ゼッタイ博士のゼミナール』(1995年)や、税金著作権銀行などの啓発・広報ビデオなど、アニメの使用は広がっている。教育映画は実写でのドキュメンタリー作品が中心で、従来、アニメの比率は高くなかったが、近年、割合は増えつつあり、歴史教育映画・番組でも、アニメを使用したものは多い。嘗てアニメは幼児・低学年向けに限られていたが、近年では中学生向け程度まではアニメ作品が創られるようになっている。

[編集] 海外輸出の歴史

日本アニメの主な輸出先は北米で、金額では過半数を占めると言われる。しかし、日本のアニメは、北米だけではなく、フィリピン韓国などの東・東南アジア地域、南米、当時社会主義国時代だった東欧諸国を含むヨーロッパ、オーストラリアロシアなど、全世界で放映されており、それらの国の映像文化・児童文化に与えた影響は非常に大きい。ただし、放映状況については明確な統計もなく、それぞれの製作プロダクションにもはっきりとした記録が残っていない場合が多い。本小項目内では、主に北米向けの輸出状況について述べ、分かる範囲で他国の状況をも列挙する。

本格的なアニメの輸出は、1963年、アメリカ合衆国で『鉄腕アトム』が放映されたことに始まる。『鉄腕アトム』は現在までに30か国以上で放映された。これを皮切りに、1970年代までにかけて『ジャングル大帝』、『エイトマン』、『マッハGo Go Go』、『科学忍者隊ガッチャマン』、『宇宙戦艦ヤマト』などがアメリカ合衆国で放映された。また、アメリカ向け専用番組の下請け制作も広く行われた。

これら日本のアニメの進出に対し、明確な拒否反応を示した国もいくつかあった。ほとんどの国での拒否的反応の理由は、古くから日本でも行われた批判と同じで、暴力的であり、性的な表現を含む、というものだった。国によってはそれなどには過敏に反応し、かなり大きな内容の変更が行われた場合もある。ただし、いずれにしても、当時主な視聴者であった子供らからははっきりとした拒絶はされず、ほとんどの国では現在でも同じように日本製アニメが放映されている。

外国で放映されたテレビアニメは、日本製であることを隠すため、スタッフ名が削除されたり、現地風の名前に差し替えられて放映された作品もある。また、内容が現地に合わせて改変されるのは恒常的に行われた。例えば、前述の『科学忍者隊ガッチャマン』では、アメリカ放映の際、戦闘場面が暴力的であるという理由で削除され、関係ないロボットを登場させたり、別ストーリーを構成したりして放映時間を調整した。

また、ある国で受け入れられた作品が他国でも人気になるとは限らなかった。例えば『超電磁マシーンボルテスV』は、日本ではさほど成功しなかったが、フィリピンでは主題歌が軍歌に採用されるほどの大成功を収めた。日本風の生活風景の出るもの(『ドラえもん』)や、特定の国を扱った作品(『ベルサイユのばら』)は、国によって受容されるかどうかが明確に違う。

1980年代になると、アメリカでは日本と同じように、玩具を売るためのアニメの製作が盛んになり、日本のスタジオも下請けの形でこれらの作品製作に加わった。実際にはほとんどを日本で製作した作品が多い。ただし、元となる玩具販売がアメリカ国内限定という事情もあり、これら作品のほとんどは日本では放映されていない。例外として『戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー』は、アメリカ向けに製作された玩具販促アニメであるが、日本に逆輸入されて放映された。

この時代になると、アメリカの日本アニメの愛好者団体の活動(ファンサブ)が活発化してくる。最古参のファンによればこれらの団体は北米で家庭用ビデオデッキが販売されてすぐ、1976年に活動を始めた。起源については、ロサンゼルスのアジア人向けUHF局が流していたロボットアニメを鑑賞する会から始まったという説がある。当時から、日本製アニメに対してanimeという語が使われていたという。

日本アニメの海外での評価と進出は、1989年12月の『AKIRA』の北米公開を境に大きく変化する。当初ハリウッドではこの映画はあまり注目されず、北米での配給権を買ったのは中小の配給会社だった。しかし、各地の芸術系映画専門館で巡回的に公開する策が功を奏し、観客や批評家に日本のアニメは芸術的なものがあるという印象を与えることに成功した。『AKIRA』は、ヨーロッパでも同様の公開方式を採り、こちらでも同様の印象を与えることに成功した。

1992年から1993年にかけ、『超神伝説うろつき童子』が、イギリス、アメリカで劇場公開された。この作品は成人アニメである。日本では特に評判の高い作品ではなかったが、そのようなアニメ作品に見慣れていなかったヨーロッパ人、アメリカ人には衝撃的な作品であり、おびただしい数の批判が寄せられた。また、一時期、animeはそのような成人アニメの代名詞ともなった。ただし、海外でこの作品と同程度の印象を与えた成人アニメ作品は、この後は出ていない。

1995年以降、日本のアニメシリーズがほぼそのままの形で放映される形態での輸出もされるようになった。ただし、国によっては相変わらず大きな改変がされることも多い。特に、通常のテレビで子供が直接見る時間帯に放映されるものに多い。この時代から輸出されるようになった作品に、『美少女戦士セーラームーン』、『ドラゴンボール』、『遊☆戯☆王』などがある。1996年に『攻殻機動隊』が、アメリカのビルボードでビデオソフト週間売り上げ1位をとったことも、アニメ輸出へ有利に働いた。なおビルボードで日本の映像作品がビデオ販売1位となったのはこれが初めてである。

1999年には新たな転機があった。前年から放映されていた『ポケットモンスター』が全米を初めとして世界各地で大成功を収めた。映画版『ポケットモンスター』と、映画『リング』のハリウッドリメイク版の成功から、日本映画、特にアニメ作品への注目が高まった。これらの作品の成功により、ハリウッドの映画会社の中では、日本映画や日本アニメの専門部署を設け、北米向け輸出や改作が可能な作品がないか検討を始める所も出てきている。この頃、アニメのアメリカへの輸出量は、前年比で3倍まで増えたこともあったが、その後の伸びは鈍化した。

また、中国政府は自国のアニメを発展させるため、ゴールデンタイムの時間帯の外国制作のアニメの放映を禁止し、さらにアニメ放映の約8割以上を自国制作のアニメにする措置を2006年9月から行うと発表した。

[編集] 年表

[編集] 1892年

[編集] 1899年

[編集] 1900年

[編集] 1906年

[編集] 1907年

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[編集] 1910年代

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[編集] 1990年代

[編集] 2000年代

ドリームワークスの劇場作品『シュレック2』(アメリカ)が、前年公開の『ファインディング・ニモ』(アメリカ)を越え、アニメ映画歴代第一位となる興行成績を挙げる(この時点で世界歴代7位、全米歴代3位)。しかし、アカデミー賞は『Mr.インクレディブル』に奪われ、シリーズ2作連続での受賞はならず。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

[編集] 脚注

  1. ^ 日本最古?明治時代のアニメフィルム、京都で発見”. asahi.com (朝日新聞社). (2005-07-31). http://arch.asahi.com/culture/entertainment/news/OSK200507300049.html 2009年2月15日 閲覧。 
  2. ^ 「WEBアニメスタイル」の白川大作(元東映動画専務)のインタビュー[1]を参照。
  3. ^ a b 『アニメ大国の肖像』(中日新聞連載、2006年)
  4. ^ ただし、須藤ら虫プロ関係者に対して独自に取材を行った津堅信之は、虫プロの本命はあくまで『アトム』で『0マン』は『アトム』を通すための比較用に持ち出されたのではないかと推論している(津堅信之『アニメ作家としての手塚治虫―その軌跡と本質』NTT出版、2007年、98-100ページ )。
  5. ^ 『動画王』vol.7 キネマ旬報社、1998年、68頁
  6. ^ 「くま番長」. これがアニメ業界の真実だ!. 2009年11月15日閲覧。
  7. ^ a bアニメ批評』創刊準備号、マイクロマガジン社、1999年2月9日、10-11・17頁。
  8. ^ 総務省 (2004年). コンテンツの創造、保護及び活用の促進に関する法律. 2009年11月15日閲覧。
  9. ^ 出典は『キネマと砲声―日中映画前史』佐藤忠男
  10. ^ 出典は『キン・フー武侠電影作法 The Touch Of King Hu』山田宏一と宇田川幸洋の共著
  11. ^ 『魔法のプリンセス ミンキーモモ THIS IS ANIMATION SPECIAL』 小学館、1992年、46頁。ISBN 978-4-0910-1572-3
  12. ^ その他2008年に受賞した主な映画賞・第8回飛騨国際メルヘンアニメ映像祭(第7回メルヘンアニメコンテスト)2008.11.30-12.13最優秀作品賞受賞,子どもメルヘン賞受賞[2] ・CINANIMA 2008 32nd International Animated Festival of Espinho (ポルトガル) 2008.11.10-15 Grand Prize Cinanima 2008受賞,Prize Rtp2受賞,Prize Alves Costa受賞,[3] ・ANIMANIMA INTERNATIONAL ANIMATION FESTIVAL(セルビア)2008.9.10-13 Golden peg bar受賞,Special Distinction of the Jury for the Best Directing受賞[4] ・Concorto 2008(イタリア)2008.8.27-31 Winner of Golden Donkey 2008受賞,Best Animation受賞[5] ・第12回LA SHORT FEST(アメリカ)2008.8.15-21 Best Animation受賞[6] ・Anima Mundi International Animation Festival of Brazil(ブラジル)2008.7.11-20,27,The Best Script受賞[7] ・"Message To Man" International Documentary, Short and Animated Films Festival(ロシア)2008.6.15-22,The Best Animation Film受賞[8] ・Annecy International Animation Festival(フランス)2008.6.9-14,The Annecy Cristal受賞,Junior Jury Award for a short film受賞[9] ・ANIMABASAURI International Animated Film Festival(スペイン)2008.5.7-13,Best Short Film in Karratu Section受賞[10]

[編集] 参考DVD

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