ドラえもん (1973年のテレビアニメ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ドラえもん > ドラえもんの派生作品 > ドラえもん (1973年のテレビアニメ)
ドラえもん
ジャンル ギャグアニメ
アニメ:ドラえもん
監督 上梨満雄(チーフディレクター)
音楽 越部信義
アニメーション制作 日本テレビ動画
製作 日本テレビ
日本テレビ動画
放送局 日本テレビ系列
放送期間 1973年4月1日 - 9月30日
話数 52話/26回(15分2話完結)
その他 完全な状態で現存するのは第18回、第20回~第26回のみ
ドラえもん
野比のび太
源静香
剛田武(ジャイアン)
骨川スネ夫
富田耕生(1 - 13回)→野沢雅子(14回以降)
太田淑子
恵比寿まさ子
肝付兼太
八代駿
テンプレート - ノート

ドラえもん』は、藤子・F・不二雄漫画ドラえもん』を原作とするテレビアニメである。 『ドラえもん』のアニメには以下の3作品が存在する。

  1. 1973年に放送されたシリーズ
  2. 1979年から2005年3月まで放送されたシリーズ
  3. 2005年4月より放送中のシリーズ

これらを区別する呼称は公式には発表されていない[注 1]。一方、アニメ誌では2005年4月より放送中のシリーズを『ドラえもん(新・第2期)』としている。ウィキペディアではそれにならい、1973年に放送されたシリーズを第1作、1979年より放送されているシリーズをまとめて第2作とする。また第2作において、1979年から2005年3月まで放送されたシリーズを第1期、2005年4月より放送中のシリーズを第2期とする。

本記事では第1作について記述する。

概要[編集]

ファンからは「旧ドラ」、「日テレ(NTV)版ドラえもん」、「日本テレビ版ドラえもん」、「ドラえもん(旧)」と呼ばれる。

本作は、日本テレビ動画新倉雅美(渡邊清)らが企画を立ち上げた。当初、新倉は硬派任侠物の『少年次郎長三国志』のアニメ化を切望したが、企画が頓挫。つなぎとして本作が放映されることになった経緯がある。

半年間の放送だったため、「不人気で打ち切り」という噂が一般説と化していたが、実際は元々2クールの放送契約である。

元スタッフの真佐美ジュン(本作の制作主任を担当した「下崎闊」の別名)の証言によると、当時『ドラえもん』をアニメ化するのは凄い冒険で、今でこそ国民的漫画だが、当時は単行本も出てないので、子供でも『ドラえもん』を読んでるのは学年誌を買ってもらってる一部の子供だけ。他の週刊漫画のアニメ化とはわけが違うと述べている。

また、低学年向けの雑誌に掲載された作品はページ数が少ない上ストーリー性が薄く、アニメ化すると尺が余ってしまうため原作を元にしつつ、アニメオリジナルの要素を随所に入れていき、半年の放送でも後半は、かなりオリジナル要素が増えたという。原作の連載は始まって3年程度で、原作のストックも少なく、すぐに使い終わり、そのまま放送を続けていても1年が限度だったという。なお原作不足のためテレビ用に書き起こしたオリジナル設定は藤子F承諾であったとされる。

メインスタッフには旧虫プロダクション出身のメンバーが集い、アニメ制作は日本テレビ動画の東京本社、そして同社の新潟スタジオと幾つかのグロス請けスタジオがローテーションを組んで制作がスタートした。1973年4月1日にパイロット版を流用し再構成した「出た!ドラえもんの巻」を第1話として放映がなされた[注 2] 。ドラえもんの声はまず富田耕生が担当した。現在放送中のアニメ第2作とはイメージがやや異なる印象を持たれるが、当初スタッフは、ドラえもんというキャラクターに「世話好きなおじさん」というイメージを抱いていた。動物役も多く演じていた富田に初めから配役するよう決めていたという。

上梨満雄をチーフディレクターに選んだ下崎闊は、彼を選んだ理由として、一人の演出家が全体の流れを統一したほうが原作者の意向を反映出来るため。そして全体を任せられて、若手で力のある演出家を選びたかったからと述べている。しかし藤子Fから注文や要望は、ほとんど無かったとされる。上梨満雄も最後まで藤子Fと会うことは無かった。

現在放送中のアニメ第2作に比べて、色指定のコントラストが穏やかであった。これは、当時のアニメが一度35mmネガフィルムで撮影し、その後、16mmポジフィルムに転写してテレシネスコープで放映するという物だったのに対し、本作は、直接16mmフィルムで撮影していたことにも起因する。

小学生向けの原作で製作された『ドラえもん』は、対象年齢が低かったこともあり当初、視聴率に苦戦した。ドラえもんは2クールの契約であったが、ある程度の視聴率が確保出来れば、その後も継続するという契約であった。1クール終了間際に制作会議を招集、テレビ局は視聴率10%こえれば、放送を継続。番組の対象年齢の引き上げとドラえもんの年齢を下げることを目的にドラえもんの声優を担当していた富田耕生を降板させるに至る。

2クール目に入ると、『小学五年生』『小学六年生』にも連載がはじまったこともあり、高学年にも視聴に耐えうるよう[要出典]、原作では余り登場しなかったアヒル型ロボット「ガチャ子」をレギュラー入りさせるなどスラップスティック要素を強調した。またドラえもんの声優も2代目となる野沢雅子に交代するなど、テコ入れを図った。その甲斐もあり、徐々に視聴率も上がっていた。収益自体も黒字で、1年延長の予定があったという。

突然の中断[編集]

しかし、2クール終了間際の1973年8月に制作会社の社長の新倉雅美が突然失踪した(その後、新倉はフィリピンに移住し、1986年5月に拳銃密輸で逮捕、送検されている。逮捕後の報道は無く、それ以後の消息などは不明[1])。経営を引き継いだ同社会長は、アニメ会社の経営に無関心な人物で、「もう止めよう」の一言で会社は解散した。理由は本作の黒字経営で、過去に経営していた東京テレビ動画時代からの赤字を補填出来るまでに至った時点で、アニメ事業に興味をなくしたためだという。会社の解散という混乱の中、同年9月30日放送の「さようならドラえもんの巻」を作り上げ最終話とし、半年で終了となった。最終回ではドラえもんは未来に帰り、自転車が漕げなかったのび太が泣きながら自転車を漕ぐ練習をするところを、未来の世界から見守るところで物語が終わる。

放送終了後[編集]

残された本作の元スタッフらは、グロス請け先の支払い金を充てるため、会社の備品など売れるものは全て売り払い、社屋引き払いのため本作に関する資料やセル画のほとんどを止むを得ず廃棄処分したという。当時のスタッフが個人的に所有しているごく一部のもの以外、現存しないことが明らかにされている。

なお、本作フィルムは放送終了後、日本テレビで7年間管理され、その間は地方局へ貸し出されたりしていた。再放送はテレビ朝日系での放映が始まる1979年までの5年余りの間に、日本テレビ平日朝の再放送枠『おーい!まんがだヨー』(関東ローカル)をはじめ、地方局などで比較的多くされていた。

フィルムは日本テレビでの管理期間終了後、廃棄処分されたものと思われていたが、安藤健二『封印作品の憂鬱』(洋泉社)によると、1995年当時のIMAGICAで後半16話分のネガフィルムが発見され、保管されているという。ただし、日本テレビ動画の著作権の引継ぎ手が不明なため、宙に浮いた状態となっている。

編成上、日曜夜7時枠は読売テレビ制作枠に切り替えられ、月曜夜7時半に放送していた「全日本歌謡選手権」に、空いた月曜夜7時半枠は一旦日本テレビ制作枠に変更し、木曜夜7時半に放送していた「ほんものは誰だ?!」に、木曜夜7時半枠は夜8時に放送していた「木曜スペシャル」を枠拡大するように変更された。

なお日曜夜7時枠でアニメが放送されたのは、1968年4月7日から1969年9月まで放送された「ディズニーランド」以来だが、「ディズニーランド」は「海外作品」「1時間番組」「実写と併用」であったため、「国産」「30分作品」「オールアニメ」は「ドラえもん」が開局以来初、そしてこの後同枠では、1989年に「シティーハンター3」、1991年に「シティーハンター'91」がそれぞれ放送されるが、いずれも読売テレビ制作作品であるため、日本テレビ制作作品は「ドラえもん」が唯一となった。また、声優を担当した野沢雅子肝付兼太は本作をモノクロ作品だと記憶しているが本作はカラー作品であり[注 3]、これは誤りである。

旧から新へ[編集]

最終回の際、当時の製作スタッフは、日本テレビ動画再建と続編の製作の希望を込めて、あえてラストのアイキャッチを「次回もお楽しみに」(前週までは「来週もお楽しみに」だった)として終了させた。残されたスタッフは債権処理などに追われたが、ついに日本テレビ動画が再建されることはなかった。

これに対し、テレビ朝日版のアニメ第1話は「ドラえもんが未来からやってくる」という原作第1話のエピソードを避け『ゆめの町ノビタランド』とした。これが普通に本編から始まっている所からも、まるで第1作の続編を意識したかのような形がとられ、両者の間で受け渡しがあったかのような構図になっている。

封印の理由[編集]

現在では再放送はもとより、特番などでも紹介されることはほとんどない(稀に紹介されても詳しい説明はない)。その理由と経緯については、上述の『封印作品の憂鬱』において小学館関係者などの証言が詳しく述べられている。

作者である藤子Fは「原作とは似て非なるものだ」と本作の内容に否定的[注 4]であったとされる(雑誌やムック本などのドラえもんの年表に本作のことが掲載されていないケースが多い)。元々このアニメ化は日本テレビのプロデューサーが小学館への「新潟の会社に作らせるアニメの適当な原作を紹介して欲しい」との申し入れによって決まったものだが、番組の内容については小学館と原作者(特に実質的な作者である藤子F)は全くといっていいほど関われず(これは藤子Fの仕事の都合などがあり、その時は、当時原作者に含まれていた藤子不二雄[注 5]に校正など打ち合わせをした。当時のスタッフは藤子Fと打ち合わせをするためスタジオゼロのビル内にあった藤子スタジオで半日待ったという)また放映中に制作会社が解散したため、番組が打ち切られたことすら小学館に報せが来なかった[注 6]。当時の漫画界では「アニメが終わったら原作も終わる」というのが常識であり、そのため『ドラえもん』も一時は連載を終わらせ新キャラクターと入れ替えようという話が小学館から出ていたという。自作『ドラえもん』に愛着のあった藤子Fは、それを押し切る形で新連載である『みきおとミキオ』との2本立ての形で連載を続行したが、1974年より刊行が始まった『ドラえもん』の単行本が予想外の大ヒットとなったため、『みきおとミキオ』の連載は1年で打ち切られた。

1979年、アニメ第2作1期が放送され始めたころ、7月から8月にかけて藤子Fの故郷でもある富山県富山テレビ放送フジテレビ系)で本作が再放送された。それを知った小学館は藤子F名義での放送中止の警告状を送った。そのためこの再放送は9回目の放送で打ち切られた。また、小学館関係者は「旧作を公開すると新作の『ドラえもん』のイメージを損ねるマイナス露出になるだけで、権利者サイドにも特にメリットがないから露出に向け積極的に動かすこともない。触れてはいけないものという感じ」とも述べていて、作品が現在封印されているのは、権利者側が原作者の意思を尊重しているためと「ドラえもんのイメージはテレビ朝日版が唯一、それ以外のものを出す必要性が無い」というビジネス面での問題があるためとされる。

こうした公式サイドによる本作を全否定する見解や、雑な偽物のセル画[注 7]が出回る上、誤った情報や事実無根のデマ、資料の焼却、フィルムの散逸などから情報、露出の非常に乏しい作品となり、必要以上に低い評価、悪い扱いをされる時期があった。英語版Wikipediaの本項にも「製作 東京ムービー新社」「アニメーション制作 日本放送映画社」「非常に低い評価で、視聴者にも原作ファンにも受け入れられず6カ月間で打ち切られた幻の失敗作」「フィルムは火災事故で破壊された」など本作を誤解した記述が散見される。

正確な情報を下崎が公開するまで、誤解された情報が伝わり、チーフディレクターが上梨満雄でなく大貫信夫とされていた[注 8]。なおスタッフ情報が間違って伝わっていた理由に日本テレビ動画が解散し、アニメ誌が当時のスタッフや状況の調査が困難になった末、日本テレビ動画の前作品『モンシェリCoCo』のスタッフ情報を元にして記事にしたためと思われる。

藤子プロおよび小学館が監修発刊したムック『ドラえ本3』(小学館、2000年)には写真入りで本作がわずかに解説されており、「原作のイメージと違っていて半年で終了した幻の番組」と紹介されている。当時は「原作ストックの絶対数が限りなく足りない」「原作が試行錯誤の時期で作風が安定していない」「藤子Fと藤子Aの作品ごとの分業がまだ完全ではなかった」「原作の世間的認知が乏しい」など製作条件が違う旧作と現行のシリーズとを比較し「イメージが違いすぎる」と批判するのは酷な話であり、こうした公式サイドの本作に対する対応に批判の声も少なからず存在する。事実、藤子プロは本作についての詳細な情報を認知していないとされる。

後に大山のぶ代が、藤子Fから本作の再アニメ化に対し「嫁に出し傷ついて帰って来た娘を再び世に出すのは嫌だ」と、難色を示す発言をしていたと語っている[2]

その一方で、下崎によれば、当時の制作スタッフは音声まで入った完成フィルムを惜しげもなく全面リテイクするなど、クオリティの向上には常に真摯に取り組んでいたという[3]。そして、放送終了後も作者は作品内容とは逆に個々のスタッフの姿勢に対しては好意的であり、放送終了後に藤子本人に会いに行った際には「是非またやろうよ」と言って握手してもらったと述べている[4]

制作中のエピソード[編集]

※ ここでのエピソードは本作の元スタッフである下崎闊による記述によるものである。

出会い[編集]

元スタッフの下崎闊は1972年手塚プロダクションを退社。その後、日本テレビ動画制作のテレビアニメ『モンシェリCoCo』を手伝った(ただし、下崎は製作側との金銭的トラブルにより放映当初に制作主任を降板している)。日本テレビ動画では『モンシェリCoCo』の後作品として企画の1つに『ドラえもん』があり、[注 9] 『ドラえもん』に企画が絞られた頃、中野サンプラザ近くの高級焼肉店で、同社日本テレビ版ドラえもんの制作担当を日本テレビ動画の佐々木一雄プロデューサーに依頼された。下崎は原作を初めて見た際、子供たちに夢を与える内容で、下崎はアニメの世界に入ってから常に「子供に夢のある作品を」という精神があった。下崎と佐々木は「今後このスタジオから、将来のアニメ界を背負っていくような人材を育てていこう」と将来の夢を語り合い、快く協力することを約束。1972年11月に日本テレビ動画へ入社した。下崎が演出を担当したパイロットフィルムのメインとなるヘリトンボで空を飛べるという、夢のシーンの紹介では、作画の人たちも子供に返って一生懸命昼夜を問わず作り上げたシーンだったと述べている。

『ドラえもん』は、対象年齢が低かったこともあり当初、視聴率に苦戦した[注 10]。ドラえもんは2クールの契約であったが、ある程度の視聴率が確保できれば、その後も継続するという契約であった。2クール目に入ると、テコ入れを図った甲斐もあり、徐々に視聴率も上がっていった。スタッフらは、千葉県房総半島にある日本テレビの保養所に招かれ豪華な接待を受け、1年延長の話も持ちあがった。収益も黒字であり順調に準備を進めていたが、とんでもない落とし穴が待っていた。

落とし穴[編集]

8月に入ってすぐに、日本テレビから呼出しがあり、日本テレビのプロデューサーから「日本テレビ動画が消滅するという話が下請から出ている。それが本当なら下請側は死活問題なので、入金の保証があるまで納品しないという状況になっている。その話は本当か?」と聞かれ、下崎は否定したが、「絶対に放送に穴はあけないでくれ」と日本テレビから釘を刺された。しかし、同年8月20日頃に社長の新倉雅美が突如失踪した。引き継いだ会長は全くアニメの経営に興味がなく、あっという間に会社の解散が決まり、結果的に最初の予定通り2クールで完結となった。

会社の解散の中、わずか2週間で作ったという最終話「さようならドラえもんの巻」は原作漫画で描かれたいくつかの最終回の中から、下崎の提案で『小学四年生』1972年3月号掲載の話が選ばれた。ドラえもんが未来へ帰らねばならなくなったため、のび太が猛練習をして自転車に乗れるようになるという話で、下崎が幼いころ、板金塗装会社に勤めていた父親を浦和駅まで迎えに行くために、自転車を練習した思い出と重なったからだという。

最後の日[編集]

解散決定後、残されたスタッフは会社の清算に伴う残務処理に追われた。グロス請け先の支払金を充てるために会社の備品で売れる物は全て売却し、日本テレビからも出してもらうが足りず。一部の外注先には未払いとなったが、日本テレビ動画が解散していたこともあり、うやむやにされた。

資料の保管場所が無くなったため、資料はゴミとして処分されることになった。だが大量の資料を業者に頼んで処分する金は無く、管財人からクレームの声もあり、業者に依頼は結局出来なかった。最終回の放送は、奇しくも日本テレビ動画が解散した9月30日であった。その日の内に事務所は引き払われ、ブラウン管に映るドラえもんを描いたスタジオに既に人影は無かった。

その夜、埼玉県浦和市(現・さいたま市桜区)の荒川河川敷ライトバン一杯に詰まったセル画、せりふ台本、絵コンテ、カット表、色見本、色指定キャラクター集、シナリオ原本、現金出納帳を残された元スタッフらが灯油をかけ火をつけた。炎の中、セル画はぐにゃりと歪み消えた。全てを燃やすのに翌朝まで掛かり、スタッフの顔は目の周りがすすで真っ黒だったという。様々な想いを馳せた設定集やセル画が燃えていったことを、下崎は「わが子を荼毘に付す気持ちでした」と、当時置かれた心境を回想している。

その他エピソード[編集]

  • 本作のプロットは「笑いとペーソスあふれる人情ドタバタ喜劇」というものだった。
  • 最終回放映時には制作会社の「日本テレビ動画」は既に解散していた。この最終回ラストのアイキャッチは「次回もお楽しみに」として終了させており、これは制作主任の下崎闊による演出であった。これを疑問に思った制作進行の木沢富士夫に、下崎は「こんな形で日本テレビ動画のドラえもんは終わってしまったがスタッフのみんなは、まだ続けたかった。もう1度日本テレビ動画で同じスタッフと一緒に『ドラえもん』の続編を製作したい思いを込め“次回をおたのしみ“にしたんだ。」と語り、意図を明かした。また番組最後の「おわり」のカットでドラえもんの丸い手から黄色い小鳥が飛び立っていくシーンがあり、これにも続編製作の希望として「再会」の意味が込められている。ヒントに下崎が昔見た映画で「無事に帰って来て」という願いが黄色いリボンで描写されていたことに由来する。
  • 2004年頃、日本テレビで放送されていた教養番組『特命リサーチ200X』において再放送する企画があったが、権利などの理由から実現できなかったという。
  • 現在では、テレビ朝日版が唯一のアニメ版とされることがあり、ドラえもんの初代声優は時折、大山のぶ代とされている節があるが、フジテレビトリビアの泉 ~素晴らしきムダ知識~」内でドラえもんに関するトリビアの補足の中で「野沢雅子がドラえもんの声優をやっていた」と紹介された際、本作を知らない視聴者からテレビ朝日に問い合わせが来たという逸話もある。
  • 製作にあたり、ドラえもんの色を決めるのに、スタッフは大変苦労したという。原作のカラーページのドラえもんが青色であったので、青いドラえもんを何色か作り藤子Fの校閲を受け青色に決定した。しかし青色にしてしまったため、空の色と一緒になってしまい、背景に雲を入れるなどする羽目になってしまう。
  • 制作会社が突然解散したことは、現場を混乱させ、下請や外注にギャラが払えなくなるという未払金トラブルを起こした。この時、外注スタッフと局側で意見の食い違いがあり、美術監督の川本征平の証言によると、日本テレビのプロデューサーに「制作費は既に日本テレビ動画に支払っているから、これ以上は払えない」と言われたという。少なくとも日本テレビ動画が外注したアトリエロークスタジオじゃっくには最終2話分のギャラを未だに払えていない。外注への未払いが、どの程度のものか詳細を誰も把握していない。この件に関して日本テレビ動画スタッフの「売れるものは全部売って支払いに充てた」という証言の他「私の後任のプロデューサーは局と外注スタッフとの板ばさみになって非常に苦労された」という企画当初のプロデューサーである川口晴年の証言も存在する。
  • 富田耕生が降板したのは交通事故を起こしたからだという噂があったが、これは『モンシェリCoCo』の製作打ち合わせのため、日本テレビ動画の新潟スタジオに行く途中に下崎闊が交通事故を起こしたことに起因する。後に下崎は『モンシェリCoCo』放送時、スタッフとのトラブルで制作主任を降板。そのため「『モンシェリCoCo』のプロデューサーが交通事故を起こしたため辞めた」と言う噂がたち、その噂が一人歩きし、いつのまにか「交通事故で富田耕生が降りた」という噂になっていたという。
  • 本作の声優を担当した声優の一部は、シンエイ版にも主要人物を演じており、太田淑子はのび太からセワシ、小原乃梨子はのび太のママからのび太、肝付兼太はジャイアンからスネ夫。我成先生(のび太のクラス担任)を担当した加藤治は同じく先生を担当していた時期がある。劇場版では、富田耕生は『ドラえもん のび太の海底鬼岩城』においてポセイドンを演じているほか、野沢雅子は『ドラえもん のび太と奇跡の島 〜アニマル アドベンチャー〜』にて、少年のび助を演じた。また1983年の(シンエイ版)実写アニメ合成の特別番組『ドラえもん・ヨーロッパ鉄道の旅』では、しゃべるひみつ道具キャラクター「なんでもナレーター」の声として登場している。
  • 本作でドラえもんの声優を務めた野沢雅子は、シンエイ版のテーマ曲「ドラえもんのうた」「ドラえもん音頭」のキングレコード版カバー音源にてドラえもんの声を担当している(初出は1980年発売の2枚組オムニバスLP『最新アニメ主題歌ベスト28』K13A-71/2である)。
  • ドラえもんの声優を務めた野沢雅子は、2013年3月放送『1億人の大質問!?笑ってコラえて!』のインタビューで実に40年ぶりに「ぼくドラえもん。」とドラえもんの声を演じた。
  • 制作主任であった下崎闊は本作を持ってアニメ業界を引退した。理由に会社の解散による金銭トラブル(前述)で下請や外注に迷惑をかけてしまい、自ら責任をとった結果であった。後に「ドラえもんの続編を作りたくないといえばうそになります。でも虫プロには約600人以上の社員が存在しましたが、現在60人以上の方が亡くなっていて120人以上の方が所在不明です。私などアニメ馬鹿があのような仕事の仕方で現在まで続けていたとしたら、間違いなくその中にいたでしょう。」と述べている。
  • ほぼ全てのセル画や資料などは、放送終了後、焼却処分され、スタッフの私物が残っている程度のはずだが、時折まんだらけに本作のセル画や複数の決定稿台本が出品されるケースがある。
  • 面接の時に「麻雀できますか?」と尋ねるほどスタッフらは麻雀好きであった。ある日、意を決して上階の高級雀荘店で朝まで遊んでしまったスタッフらは請求書を見て青ざめたという。
  • 当時の小学館は本作の宣伝・広報・特集をほとんど行わなかった。
  • 日本テレビ動画が『ドラえもん』を企画しなかったら、それまで多くの藤子アニメを製作した東京ムービーが『新オバケのQ太郎』の後番組として製作する可能性があったという[注 11]
  • 藤子不二雄FCネオ・ユートピア会誌43号(2006年12月発行、2009年08月改訂発行)にて、書籍において初めて本作を重心に置いた特集が行われ、チーフディレクターであった上梨満雄のインタビューや、下崎闊が提供したオープニング絵コンテ、第1回スケジュール表、サブタイトルリスト、スタッフ・キャストデータ、作画設定資料、フィルムストーリー、中間報告書などの資料が掲載された。
  • スタッフらには虫プロ出身者が多数在籍していたため、のび太が通う小学校の設定は虫プロ近くの小学校がモデル。スネ夫の家は下崎によると「明らかに手塚先生の自宅がイメージ」とのこと。
  • 日本テレビ動画が本作を企画した1972年には、ピー・プロダクションうしおそうじによるフジテレビをキー局とした、もう一つの『ドラえもん』の企画があったとされる。作者の藤子不二雄両人もピープロに訪れ「実写でやろう」と同意。この際にドラえもんの声優として挙がっていたのが、奇しくも大山のぶ代だった。大山の起用は、先にピープロ制作のアニメ『ハリスの旋風』での演技を見込まれてのことだった。既にドラえもんの着ぐるみまで試作されていたものの、この企画がどの程度具体化し、どの時点で頓挫したかについては不明[5]
  • 第1話「出た!ドラえもんの巻」に相手の頭も体も弱くさせるクルクルパー光線銃という秘密兵器が登場している。後に下崎闊は、今では放送不可能な名称だが、当時はまったく問題無かったと述べている。
  • 下崎闊は自身の所持するフィルムを元に無償で上映会を催していたが、藤子プロから上映会を中止するよう要求され、下崎側は「非営利」「無償」「無報酬」の上映会であれば、著作権者の許可を得ずに開催可能(著作権法第38条1項)であること。現在の作品自体の権利状況において上映に問題が無いことを訴えたが、結果的に両者とも交渉は決裂した。以来、本作の視聴は絶望的な状況にある。

原作及び第2作との相違点[編集]

初期原作の設定やアニメオリジナル設定を用いているので、第2作以降とは異なる設定が複数存在する。

  • 本作の脚本を担当した鈴木良武は本作の方向性に、「何につけてもドラえもん頼みである原作のび太の性格に、もう少し自主性を持たせる少年にする方向で始めた番組」と明かしており、文芸担当の徳丸正夫や脚本陣が話し合い“自主性のあるのび太少年“の方向性を決定づけたという。このことに関して「藤本先生としては原作の思い通りになっていないと感じていたんでしょうね。ただ、あの先生はそういうことをはっきり拒否しなかったから、僕らがそのまま勢いづいてやってしまった」と鈴木良武は原作とアニメに違いが生まれたことを認めている。なお最終話のラストシーンでは、ドラえもんに頼らず転げ落ちながらも自転車の練習をする“自立したのび太“が見事に描かれている。
  • ドラえもん自体がトラブルメーカーで、のび太のために秘密兵器を出すものの、結局失敗してしまうというパターンが多く“保護者“という後年に出来上がったドラえもんの像と正反対なキャラクター像である。これは連載当初のドラえもんに顕著である。
  • 序盤は中年男性だった富田耕生がドラえもん声優を担当したこともあって、非常におっとりとした哀愁漂う親父臭い性格に設定されていた。担当声優が野沢雅子に代わって以降、原作の連載初期のような短気で自己主張が強く活発で好戦的な性格に変更され、近所の相撲大会や小学校のラジオ体操などの行事に参加したり、のび太と一緒にのび太の父親に海水浴に連れていくことを強請る描写があり、原作以上に子供らしい性格に描かれている。このように声優の性別が入れ替わるドラえもんの声変わりは、当時の視聴者に大きな衝撃を与えた。
  • 原作に5話だけ登場し、唐突に姿を消したガチャ子だが、アニメ化にあたり当時の原作数の少なさを補うために、レギュラーとして登場させたという。なおガチャ子は、野比家でなく静香家に居候している。最終話では未来に帰らず、引き続き20世紀の静香家に居残る。
  • 静香の家には、ボタ子という訛りが特徴的なお手伝いさんがいる。
  • ドラえもんに男の声優を採用して、“おじさん“というキャラクター像を持たせた点。
  • 富田耕生演じるドラえもんは秘密兵器を出す際、「あ~らよっ」と江戸弁でかけ声をかけていた。
  • のび太とジャイアンの普段着が赤色。
  • セワシがのび太と同じく眼鏡をかけている。
  • タケコプターの名称がヘリトンボ(原作でも初期作品で使われていた)。
  • 小学校の名称は下町小学校。
  • のび太の担任の姓が我成(がなり)。
  • 本作ではドラえもんは21世紀から来た設定になっている(原作初期設定より)。
  • ジャイアンの母は故人であり、ジャイアンは父子家庭で育つ。
  • ジャイアンの父は体格が小柄で、人柄が良く息子思いの面が強調されていて、息子のためを思って無理をすることがある。腕力はとても弱い設定。名前は「小助」。雑貨屋「正直屋」を営む。元スタッフによると普段は乱暴者の剛田武の優しい一面をどうしたら表現できるかということで、このような剛田家の設定になったという。
  • ジャイ子は不在。
  • れっきとした最終話が存在し、ドラえもんとの“別れ“が描かれている。そして『ドラえもん』はテレビ画面から実に5年半に渡り姿を消す。

キャスト[編集]

所属事務所別では青二プロダクションテアトル・エコーが協力している。

スタッフ[編集]

※ ここでのスタッフ情報は本作の元スタッフである下崎闊による記述に拠るものである。

  • 原作 - 藤子不二雄(小学館学習雑誌連載)
  • 企画 - 藤井賢祐(日本テレビ)
  • プロデューサー - 川口晴年、米沢孝雄(日本テレビ)、佐々木一雄
  • チーフディレクター - 上梨満雄
  • 担当演出 - 岡迫和之、腰繁男
  • 脚本 - 山崎晴哉鈴木良武、井上知士、吉原幸栄、馬嶋満、園屁蔵士
  • 原画 - 日本テレビ動画新潟スタジオ、スタジオジョーク、上條修、竹市正勝、田中保、永樹たつひろ
  • 動画 - スタジオジョーク、秋山博雅、荒井政良志、岡山陽子、加藤輿治、楠田悟、滝波いつ子、八武崎好郎
  • 背景 - スタジオじゃっくアトリエローク、高野正道、西巻晶子、亀川尚子、平川やすし、細谷秋男、阿部行夫
  • 仕上 - 日本テレビ動画新潟スタジオ、江口マキ子、大橋啓子、黒田英里子、小林一幸、島崎あつ子、長村葉子
  • 仕上外注 - スタジオ古留美、狩野節子、若井喜治、石田康美、石田国松、石田ヤゴ、川上直子、中野則子、三宅敏博
  • 絵コンテ - 生頼昭憲、奥田誠二、棚橋一徳、矢沢則夫、村田四郎、岡迫和之、石黒昇、腰繁男
  • 作画監督 - 鈴木満、村田四郎、宇田川一彦、生頼昭憲、白川忠志
  • 美術監督 - 鈴木森繁、川本征平
  • 撮影 - 菅谷正昭(株式会社 珊瑚礁)
  • 撮影監督 - 菅谷信行(株式会社 珊瑚礁)
  • 録音 - 番町スタジオ
  • 編集 - 西出栄子
  • ネガ編集 - スタジオ・ゼロ
  • 現像 - 東洋現像所
  • 調整 - 田中英行
  • 効果 - 片岡陽三、小川勝男(E&Mプランニングセンター)
  • 文芸 - 徳丸正夫
  • 選曲 - 宮下滋
  • 音楽 - 越部信義
  • 音響演出 - 近森啓祐
  • 音響制作 - E&Mプランニングセンター
  • 制作進行 - 木沢富士夫、小野忠、増田厚美、 山下一郎 
  • 制作事務 - 増田一恵
  • 制作主任 - 下崎闊
  • 制作 - 日本テレビ • 日本テレビ動画

主題歌[編集]

オープニングテーマ - 「ドラえもん」
歌 - 内藤はるみ劇団NLT / 作詞 - 藤子不二雄 / 作曲・編曲 - 越部信義
この曲を採用しているカラオケメーカーがある。曲名は「ドラえもん(旧)」という表記が用いられている。
なお、本放送時では音色とテンポがフルコーラス版と異なる。
エンディングテーマ - 「ドラえもんルンバ」
歌 - 内藤はるみ / 作詞 - 横山陽一 / 作曲・編曲 - 越部信義
クイーカの「合いの手」が多用されたルンバ風の曲。「ドラえもんのルンバ」と表記されることもある。
挿入歌
「あいしゅうのドラえもん」
歌 - 富田耕生 / 作詞 - 横山陽一 / 作曲 - 越部信義
「ドラえもん いん できしいらんど
歌 - コロムビアゆりかご会と劇団NLT / 作詞 - 藤子不二雄 / 作曲 - 越部信義
レコードは主題歌・挿入歌の4曲を収録したコンパクト盤が先行して発売、後に主題歌2曲入りのEP盤が発売された。主題歌2曲に関してはオムニバス盤CDなどにも収録されている。

各話リスト[編集]

サブタイトルクレジット部では、ドラえもんが四次元ポケットからボードを取り出した所で、ドラえもんのナレーションで「○○の巻。」と読み上げる。なおサブタイトルが「の巻」で構成されているのは、本作が唯一。

回数 放送日 サブタイトル (1) サブタイトル (2)
第1回 1973年
4月1日
出た! ドラえもんの巻 ペコペコバッタ大騒動の巻
第2回 4月8日 屋根の上のすてきな子の巻 のび太のご先祖さんの巻
第3回 4月15日 キューピットで好き好き作戦の巻 弱味をにぎれの巻
第4回 4月22日 ねずみに弱いねこもあるの巻 ガキ大将をやっつけろの巻
第5回 4月29日 おせじ鏡の巻 パパとママの結婚記念日の巻
第6回 5月6日 のろいのカメラの巻 宝くじ大当たり作戦の巻
第7回 5月13日 決闘! のび太とジャイアンの巻 私は誰でしょうの巻
第8回 5月20日 アベコンベ騒動の巻 お化け屋敷の謎の巻
第9回 5月27日 クイック・スロー大作戦の巻 のび太は雨男の巻
第10回 6月3日 ウルトラミキサーの巻 ねがい星流れ星の巻
第11回 6月10日 ふしぎなふろしきの巻 のび太のおばあちゃんの巻
第12回 6月17日 大リーグの赤バットの巻 男は力で勝負するの巻
第13回 6月24日 ガチャ子登場の巻 おしゃべりくちべにの巻
第14回 7月1日 すきすきカメラの巻 天の川でデイトしようの巻
第15回 7月8日 へんなロボットカーの巻 ニコニコせっけんの巻
第16回 7月15日 おれ署長のだいりの巻 さあ夏だ! スキーをやろうの巻
第17回 7月29日 成績表はいやだなあの巻 自分の影をつかまえろの巻
第18回 8月5日 潜水艦で海に行うの巻 くるったハラ時計の巻
第19回 8月12日 キャンプ騒動の巻 忘れな草って何だっけの巻
第20回 8月19日 クーラーパラソルの巻 いつでも日記の巻
第21回 8月25日 宿題お化けが出たの巻 お天気ボックスの巻
第22回 9月2日 ぼくに清き一票をの巻 まんが家修行の巻
第23回 9月9日 すてきなガールフレンドの巻 花いっぱい騒動の巻
第24回 9月16日 そっくりクレヨンの巻 静香の誕生日の巻
第25回 9月23日 宇宙飛行士になりたいの巻 まいごマゴマゴ大騒動の巻
第26回 9月30日 ネンドロン大騒動の巻 さようならドラえもんの巻

関東地区の平均視聴率は6.6%、最高視聴率は9.1%(ビデオリサーチ調べ)[6]

第16回と第17回の間の7月22日は、「オールスターゲーム・第2戦中継大阪球場。読売テレビ制作。枠は19:00 - 21:25)のため休止。

放送局[編集]

本放送[編集]

系列については放送当時のもの。

放送地域 放送局 放送期間 放送日時 放送系列 遅れ
関東広域圏 日本テレビ 1973年4月1日 - 9月30日 日曜 19:00 - 19:30 日本テレビ系列 制作局
北海道 札幌テレビ 同時ネット
青森県 青森放送
秋田県 秋田放送
山形県 山形放送
山梨県 山梨放送
富山県 北日本放送
福井県 福井放送
中京広域圏 中京テレビ
近畿広域圏 読売テレビ
山口県 山口放送
香川県 西日本放送
愛媛県 南海放送
徳島県 四国放送
高知県 高知放送
福岡県 福岡放送
岩手県 テレビ岩手 日本テレビ系列
NETテレビ系列
宮城県 ミヤギテレビ
福島県 福島中央テレビ
鳥取県島根県 日本海テレビ
広島県 広島テレビ[注 12] 日本テレビ系列
フジテレビ系列
長崎県 テレビ長崎
熊本県 テレビ熊本 フジテレビ系列
日本テレビ系列
NETテレビ系列
大分県 テレビ大分
宮崎県 テレビ宮崎
鹿児島県 鹿児島テレビ
新潟県 新潟放送 1974年9月4日 - 10月11日 平日(帯放送) 17:00 - 17:30[7] TBS系列 本放送終了後に放送

静岡県テレビ静岡(フジテレビ系列)、沖縄県琉球放送(TBS系列)が放送したが放送時期は不明。石川県長野県岡山県佐賀県、での放送状況は不明。

再放送[編集]

一部地域では、本放送時代とは別の局で放送されていたが、その局も記載する。

  • 日本テレビ 1974年3月27日 - 5月2日、1975年4月1日 - 5月6日
    • 1974年度 月曜~金曜 朝8時20分~8時55分→月曜~金曜 8時00分~8時30分(休止1回、全26話)
    • 1974年4月29日は「おめでとう天皇陛下」を放送。
    • 1975年度 月曜~金曜 8時00分~8時30分
  • 青森放送 1974年12月5日 - 1975年1月17日
    • 月曜~金曜 16時55分~17時25分(5回休止)
  • テレビ岩手 1975年1月5日 - 2月17日(5回休止)
    • 月曜~金曜 17時00分~17時30分
  • 福岡放送 1975年4月17日 - 5月22日
  • 読売テレビ 1975年5月12日 - 6月12日
    • 月曜~金曜 18時00分 - 18時30分、全25話。
    • 最終回は未放送。
  • 広島ホームテレビ(NETテレビ系列) 1975年5月22日 - 6月26日
  • 宮城テレビ 1975年7月9日 - 8月18日
    • 月曜~金曜 8時00分 - 8時30分、全25話。
    • 最終回は未放送、休止は4回。
    • 「パパとママの結婚記念日の巻」と「おせじ鏡の巻」が別の日に書いてあるなど、順番が混乱している。
  • 熊本放送(TBS系列) 1977年もしくは1978年
  • 富山テレビ(フジテレビ系列) 1979年7月24日 - 8月3日
    • 藤子F名義による小学館からの打ち切りを求める警告状が富山テレビに送られ、8月3日の第9回をもって強制的に打ち切られる。これ以降再放送は途絶える。
    • 1980年に日本テレビでのフィルム管理期間が終了。その後のフィルム管理先は一切不明。

現存映像[編集]

本作のフィルムは、日本テレビで7年間管理され、その間は地方局へ貸し出されたりしていたが、管理期間終了後、散逸したとされている。

元スタッフの下崎闊が個人的に保管している8話分のラッシュフィルムとIMAGICAに保管されている第18回、第20回〜第26回のフィルム以外、現存が確認されていない。

なお、IMAGICAでは、日本テレビ動画の前身にあたる東京テレビ動画が製作した劇場用作品の『ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!』も近年ネガフィルムが発見された。こちらは2005年ゆうばり国際ファンタスティック映画祭で上映が行われたことがある。

下崎闊が本作のラッシュフィルムなどを保管している理由は、現像して上がってきたフィルムの映像の色具合が悪いときにリテイクを行った16ミリフィルムを保管していたためである。現在は、それらをデジタル化し上映会を不定期に行っていた。しかし、藤子プロからのクレームで中止に追い込まれた模様(前述)。

現存が確認されているもの[8]
  • オープニング(※下崎保管のものは音声・クレジットなしのラッシュフィルム、IMAGICA保管のものは音声・クレジットあり)
  • エンディング(※下崎保管のものは第2回、IMAGICA保管のものは第18回、第20回〜第26回)
  • パイロットフィルム(※音声なしのラッシュフィルム) - 下崎保管
  • 第7話「ガキ大将をやっつけろの巻」(※音声なしのラッシュフィルム) - 下崎保管
  • 第8話「ねずみに弱い猫もあるの巻」(※音声なしのラッシュフィルム) - 下崎保管[注 13]
  • 第9話「おせじ鏡の巻」 - 下崎保管
  • 第20話「ねがい星流れ星の巻」 - 下崎保管
  • 第24話「男は力で勝負するの巻」 - 下崎保管
  • 第35話「潜水艦で海へ行うの巻」 - 下崎・IMAGICA保管
  • 第36話「くるったハラ時計の巻」 - 下崎・IMAGICA保管
  • 第39話「クーラーパラソルの巻」 - IMAGICA保管
  • 第40話「いつでも日記の巻」 - IMAGICA保管
  • 第41話「宿題おばけが出たの巻」 - IMAGICA保管
  • 第42話「お天気ボックスの巻」 - 下崎・IMAGICA保管
  • 第43話「ぼくに清き一票をの巻」 - IMAGICA保管
  • 第44話「まんが家修業の巻」 - IMAGICA保管
  • 第45話「すてきなガールフレンドの巻」 - IMAGICA保管
  • 第46話「花いっぱい騒動の巻」 - IMAGICA保管
  • 第47話「そっくりクレヨンの巻」 - IMAGICA保管
  • 第48話「静香の誕生日の巻」 - IMAGICA保管
  • 第49話「宇宙飛行士になりたいの巻」 - IMAGICA保管
  • 第50話「まいごマゴマゴ大騒動の巻」 - IMAGICA保管
  • 第51話「ネンドロン大騒動の巻」 - IMAGICA保管
  • 最終話「さようならドラえもんの巻」 - IMAGICA保管

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

  1. ^ 2005年4月より放送中のシリーズのDVDは『NEW TV版 ドラえもん』というタイトルで発売されている。
  2. ^ 第1話の原作は『小学一年生』1970年11月号掲載の『クルパーでんぱのまき』に改定を加えたもの。
  3. ^ 同系列である『1億人の大質問!?笑ってコラえて!』(2013年3月放送)でも伝えられた。
  4. ^ ただし明確に本作を否定した発言はない。
  5. ^ 作品初期は、まだ藤子Fと藤子Aの作品ごとの分業が完全に確立しておらず、藤子Aとその関連スタッフも本作品に若干関わっていたとされる。
  6. ^ そのため、最終回後に発行の『小学四年生』1973年11月号掲載の『ドラえもん』の扉絵には「テレビ大人気放送ちゅう」とのあおり文句がある。
  7. ^ のび太がドラえもんに洗面器を渡している構図のセル画で、下崎闊(真佐美ジュン)は日本テレビ動画で使用されたセル画ではないと否定した。
  8. ^ アニメ誌には本作のスタッフ情報に正延宏三辻真先永樹凡人などの表記もあったが、後に関わっていなかったことが判明する。
  9. ^ 『ドラえもん』の企画は1972年7月には、すでに存在した。
  10. ^ 放映当時、キー局の関東地区など民放4局マストバイ地域では裏番組として『マジンガーZ』(フジテレビ)や『アップダウンクイズ』(毎日放送制作・NETテレビ)などが放映されていた。一方、広島県や福岡県を除く九州各県など日本テレビ系とフジテレビ系をクロスネットとしていた地域では、『マジンガーZ』を遅れネット(または競合他局への放映譲渡)とした上で、本作を同時ネットしていた。なお本作でドラえもんを演じた富田耕生は、『Z』でもレギュラーキャラクターであるドクターヘルとヌケ(ボスの子分)の二役を演じていた。
  11. ^ 結果的には、北日本放送国際放映制作のテレビドラマ『ゲンコツの海』が『新オバケのQ太郎』の後番組となった。
  12. ^ フジテレビ系列で同時間帯の『マジンガーZ』は2日遅れの火曜18:00 - 18:30枠で放送した。
  13. ^ 決定稿台本(まんだらけ)は現存している。

出典[編集]

  1. ^ 安藤健二『封印作品の憂鬱』78-79頁
  2. ^ 砂川啓介著『カミさんはドラえもん』より
  3. ^ 旧ドラえもん製作者証言(記憶のかさブタ)
  4. ^ 【幻のドラえもん】(下)突然の最終回、セル画は河川敷で燃やされた (2/3ページ) - MSN産経ニュース、2009年1月12日(インターネット・アーカイブ)
  5. ^ 幻の「ドラえもん」アニメ企画書”. くだん書房. 2014年2月16日閲覧。
  6. ^ 安藤健二『封印作品の憂鬱』18頁
  7. ^ 北國新聞縮刷版 1974年9月および10月分より。
  8. ^ 安藤健二『封印作品の憂鬱』31頁

参考文献[編集]

  • 安藤健二『封印作品の憂鬱』(洋泉社 2008年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

日本テレビ 日曜19:00枠
前番組 番組名 次番組
ドラえもん
全日本歌謡選手権
(ここから読売テレビ制作枠、月曜19:30から移動)