河村たかし

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日本の旗 日本の政治家
河村 たかし
かわむら たかし
Kawamura Takashi 1-1.jpg
愛知県知立市にて
生年月日 1948年11月3日(67歳)
出生地 愛知県名古屋市
出身校 一橋大学商学部
前職 衆議院議員秘書
河村商事専務取締役
所属政党 民社党→)
自由民主党→)
日本新党→)
新進党→)
自由党→)
無所属→)
民主党→)
(無所属→)
減税日本
称号 商学士
公式サイト 名古屋市長河村たかし

Flag of Nagoya.svg 第32-33代 名古屋市長
当選回数 3回
在任期間 2009年4月28日 - 現職

選挙区 旧愛知1区→)
愛知1区
当選回数 5回
在任期間 1993年7月19日 - 2009年4月7日
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河村 たかし(かわむら たかし、1948年昭和23年)11月3日 – )は、日本政治家。第32・33代名古屋市長地域政党減税日本代表。

衆議院議員(5期)、裁判官訴追委員会第二代理委員長、総務省顧問等を歴任した。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

大学卒業後、家業に従事[編集]

  • 名古屋市立桜丘中学校を経て、1967年愛知県立旭丘高等学校卒業。1年間の浪人を経て、1968年(昭和43年)一橋大学商学部入学、1972年(昭和47年)に卒業。大学1年次の途中まで一橋大学硬式野球部に所属。大学時代は第二外国語ロシア語クラスで山内進(法学者・一橋大学学長)と同級生だった。のちに河村支援団体の連合体「ネットワーク河村市長」の代表を務めた鈴木望維新の党衆議院議員・元磐田市長・元厚生省課長)は大学の1年後輩。
  • 大学卒業後は家業の古紙回収業・卸売業の河村商事株式会社に入社(家業からは2002年平成14年)に退き長男が継ぐ)。河村商事株式会社は、河村入社当時従業員5名だったが、リサイクルブームの追い風を受け成長[4]、2014年現在従業員70名の中小企業である[5]
  • 河村商事では専務を務め、営業やトラックの運転手等などを行った。ちり紙交換業者に頭を下げて回り、古紙の回収先では、古紙回収業者が弱い立場にあるため、あごで使われ雑用も行わされた。また、業界でさきがけてプレス機を導入するなど、家業の拡張を図ろうとしたが、新工場の建設を「同業者の仕事を奪うことになる」と父に反対され頓挫した。大学で学んだ労務管理などの学問は役に立たなかった。そのような中で次第に業者のギルド的体質への反発を持つようになり、検察官への転身を志すようになる[6]

司法試験で挫折[編集]

  • 大学時代に知り合った妻と1975年に結婚。その後、1977年(昭和52年)ころから検事を志すようになる。昼間は家族を養うため家業に従事しつつ、商学部出身であり法律の勉強をしたことがなかったため、仕事後に地元の法律学校(中京法律専門学校)の夜学に通って法解釈学及び行政学を10年間勉強し、旧司法試験を9回受験、当時合格率が10%から15%程度だった[7]第二次試験短答式試験には初受験で合格するなど計4回合格し[8]受験指導予備校での成績も良好だったものの、第二次試験論文式試験でいずれも不合格となり断念[9]。人生再チャレンジをできる社会を実現するため政治を志すようになり、後に右派の政治家であり、反共の闘士であった民社党委員長春日一幸の秘書となったが、民社党を離党したため除名となった。

政界入り[編集]

名古屋市長[編集]

  • 2009年(平成21年)1月25日、名古屋市長選挙へ再度かつ今度は「不退転の決意」での出馬表明[10]
  • 2009年(平成21年)4月26日 名古屋市長に初当選。
  • 2009年(平成21年)10月30日 総務省顧問(地域主権関係)に就任。
  • 2010年(平成22年)10月5日 菅改造内閣発足に伴い総務省顧問退任。
  • 2010年(平成22年)11月 自身が主導した市議会リコールの署名数が法定数を下回ったとして、名古屋市長を引責辞任し、出直しのために再出馬することを表明。
  • 2011年(平成23年)2月6日 名古屋市長に再選。
  • 2013年(平成25年)4月21日 名古屋市長に3選。

家族[編集]

人物[編集]

  • 名古屋ことばを公においても使用し、自ら「名古屋から総理を狙う男」と公言してはばからない。選挙期間中は街宣車を極力使わず徒歩や自転車による街宣活動(本人曰く「自転車での街宣活動は自分が最初」と発言)を行い、庶民型政治家をアピールした[15]
  • 大学時代から作業着、草履ばき、名古屋弁で行動しており、大学時代に知り合った鈴木望(元衆議院議員・元磐田市長)は、自分とは違う開けっぴろげな性格に惹かれ、交友を深めたという[16]
  • 方言について「地方の言葉を○○弁と呼ぶのは地方差別で間違っている。東京語標準語ではなく共通語。名古屋弁は名古屋ことばと言うべし」と発言した。かつて逓信委員会で河村がNHK会長に指摘し、その後NHKは○○弁をやめ○○ことばと改めた。また、大河ドラマ花燃ゆ」及び「真田丸」に関して、菅康弘NHK名古屋放送局長に対し、「名古屋ことばが無視されることがないよう、お願い申し上げる。」との申し入れを行った[17]
  • ジャーナリストの佐野眞一は泥臭く分かりやすく短いキャッチフレーズを用いるところなど、河村がかつて秘書として仕えた春日一幸元衆議院議員との類似性を指摘する[18]
  • 長年中小企業に従事していた経験からリアリストを自認する。石川知裕衆議院議員は選挙の鉄則として河村から、「若いウグイス嬢を使うと中年女性の反感を買う」ので若いウグイス嬢は使ってはならないこと、顔を売るために街宣車の100メートル後ろを自転車で走るといいこと、取れない票は割り切って捨てるべきであることなどという現実的・実践的アドバイスを受けたという[19]。また公職選挙法では、公示前に実名入りのタスキを使用することが禁じられていることから、「本人」と書かれたタスキを使用していた。その後、「本人」と書かれたタスキが、政党、候補を問わず広く使われるようになった[20]
  • ビートたけしのTVタックルたけし・逸見の平成教育委員会、日本を救うのは私だ!大改革!!法案ファイト!、スーパーモーニングたかじんのそこまで言って委員会みのもんたの朝ズバッ!などの政治討論番組の他にもクイズ$ミリオネアなどのクイズ番組などメディアへの出演が多く見られ、知名度が高い。
  • 燃えよドラゴンズ!」を「名古屋の国歌」とまで言い切るほどのお気に入り。自身の選挙活動の際には必ず流れる曲でもある。ちなみに、好きな曲は森進一の「おふくろさん」。
  • 前述の「おふくろさん」を十八番(好きな曲)にし、かつファンクラブ会員であるほどの森進一好き。
  • 2010年(平成22年)1月23日に放送の特撮番組トミカヒーロー レスキューファイアー」に市長役でゲスト出演した。
  • 日中国会議員書画展へ書画を提供している。[21]

政策、政治活動[編集]

地方議員はボランティアであるべきとし、議員報酬を廃止し、保護司民生委員らと同じく無給とすべきと主張。

  • 議員活動のためには経費は当然必要だ。ただ、それを税金からいただくのではなく自分で寄付金で集めるべきだ」としている[26]
  • 国会議員時代は「『議員特権廃止』を訴える以上、自らを律するべき」との下、文書通信交通滞在費全額を民主党支部と自らの資金管理団体(「河村たかし政策研究会」)に寄付して、政治活動経費として使い、自らの財布に入れないとした。(寄付した1200万円/年は、「河村たかし政策研究会」と愛知一区総支部の運営資金、主に機関紙の発行(2万9000部/年6回)や人件費に充てていたとし、寄附金控除も受け取っていないとしている。)[26]
  • 河村は自身の著書によると、議員特権廃止に熱心であり、文書通信交通滞在費を「第二給料」と糾弾している[26]。一方で、産経新聞社の記者を政策秘書として登録、秘書給与を河村自身の政治団体に入れていた。[27]
  • 河村は自身の著書によると2004年(平成16年)から政党支部では、企業献金を断っているとしている[26]。しかし中小企業の経営者などからの個人献金は受けており、実質企業献金ではないかという指摘もある。とくに名古屋市長になって以後、自身の給与を半減したため政治資金が枯渇し、経営者からの献金が倍増した[28]
  • 世襲議員」を条件付きながらも非難している。(「寄付金型議員」で世襲するならばまったく問題がない。どれだけ寄付金を集められるかは本人の努力次第だ。[29]
  • 「議員の一番大事な仕事は、減税の実現」と述べた。
  • 静岡空港建設反対の国会議員署名活動で署名者に加わった[30]
  • 衆院初当選以来、一貫して非自民党であり、自身が所属した政党が自民党と連立をしたことがない。河村がかつて所属していた自由党1999年1月14日自自連立政権小渕改造内閣与党に転じたが、河村はその前年の1998年4月に自由党を離党し無所属の会に入党。同年12月には民主党に加わっている。
  • 福島第一原子力発電所事故後は、脱原発を主張している。2012年(平成24年)4月16日には、事故が起きた場合には名古屋市の水源である木曽川が汚染されるとの懸念から、関西電力大飯原発3号機の再稼働に懸念を表明[31]。また自身が率いる減税日本を、中央集権打破・反消費増税・脱原発を政策の3本柱として政党化し、国政への進出を目指すとしている[32]

民主党代表選[編集]

  • 2005年(平成17年)9月民主党代表選挙に名乗りを上げたが、推薦人20人を確保できず立候補を断念した。
  • 2006年(平成18年)3月31日 - 前原執行部の総辞職を受けて民主党代表選挙に立候補を表明し、朝からテレビに出演し政策をアピールし、推薦人確保に奔走したが締切りである4月7日10時までに20人に達せず断念(18名まで確保)。
  • 小沢一郎代表の続投が規定路線だった2006年(平成18年)9月12日民主党代表選挙に出馬意欲表明。8月29日、小沢が初めて出馬表明した翌日に記者会見。この時点での確保推薦人数は5人ぐらい(本人談)であった。
  • 民主党代表選挙に出馬すると明言しながらいつも推薦人20人を確保できないことから、ビートたけしのTVタックルでは浜田幸一に「代表選に出ると言っておきながら推薦人20人確保できないのはお前だけだ」と苦言を呈された。
  • 民主党代表選挙に出馬したい意欲は極めて本物であり、小沢の無投票3選の根回しが民主党内で進んでいた動きに抵抗するかのように、2008年(平成20年)8月19日、『庶民革命[33]』なる政権構想を自身のHPで発表した。しかし、下馬評にさえ満足に取り上げてもらえないほど、民主党の国会議員たちには受けが悪かった。
  • 民主党代表選挙で毎回推薦人20人を確保できないことについて、ムーブ!にゲスト出演した時、「永遠の総理候補」「民主党代表選の風物詩」と励ましとも皮肉とも取れる2つ名で紹介された。

名古屋市長選[編集]

民主党愛知県連は、2009年(平成21年)4月27日に任期満了を迎える名古屋市長選(4月26日投開票)に、過去3回のような主要政党相乗り候補ではなく独自候補を擁立することを早くから目指し、名古屋市教育委員会の山田哲郎教育次長に白羽の矢を立てていた。しかし、1月3日までに山田から固辞されたため、民主党愛知県連の候補者選びは白紙の状態に戻った[34]

1月25日、河村は、名古屋市内で民主党愛知県連代表の伴野豊衆議院議員と面談し、民主党の推薦を得て名古屋市長選に出馬したい旨および「不退転の決意」である旨を申し出た。この際、「36年間の政治生活を経て、名古屋の皆さんに恩返ししたい」と述べたと伝えられる[10]

1月26日夜、民主党愛知県連の幹事会にて、河村は住民税の10%減税や議員のボランティア化など自らの基本政策を説明したが、積極的支持を得られず、幹事会は、周知先行していた元愛知県弁護士会副会長の伊藤邦彦(「邦」は、正しくは こちら。以下同様)を名古屋市長選の民主党愛知県連推薦候補とすることを全会一致で了承した。このため、河村は、党除名覚悟で出馬するかどうか、という瀬戸際に追い込まれることになった[35]

1月27日午前、民主党本部の常任幹事会にて、愛知県選出国会議員団長の佐藤泰介参議院議員が、名古屋市長候補者として民主党愛知県連が伊藤邦彦を全会一致で推薦候補としたことを報告し、党本部の最終判断を仰いだが、党本部常任幹事会は河村の出馬による民主支持層の分裂を懸念し、最終判断を見送った。記者団に対し、常任幹事会に出席していた輿石東参院議員会長は「県連でもっとまとめてほしい」、民主党愛知県連幹部は「正規の手続きを経て、党本部に上申した結果が覆されることはない」、河村は「不退転の決意は全く変わらない」と述べる状態であった[36]

1月29日午後、河村は、代表質問が行われている衆議院本会議場を退席して同じく退席している小沢一郎民主党代表と会い、「(市長選を)ぜひともやりたい。(党推薦を)お願いしたい」と直談判したが、「県連の関係者に一度お願いして回って来い」と突き返された。この日、民主党名古屋市議団は議員総会を開いて元愛知県弁護士会副会長の伊藤邦彦の推薦を再確認するなどしており、全国的に著名な河村といえども地元民主党議員たちの支持を得られる状況にはなかった[37]

2月6日民主党幹事長鳩山由紀夫が記者会見で名古屋市長選の候補者推薦について「時間がかかってもしっかりと落着させることが大事だ」と言明したことにより、前月26日の愛知県連全会一致での伊藤邦彦に対する推薦決定にもかかわらず、党本部の最終判断は更に大幅に先送りされることとなった[38]

3月20日、河村は、名古屋市長候補として民主党名古屋市議団の議員総会に出席し、マニフェスト案を提示して市議団側からおおむね了承された。このため、これを民主党愛知県連が民主党本部に報告すれば河村たかしが正式に名古屋市長選の民主党推薦候補となる見通しとなった[39]

3月24日午前、民主党本部は常任幹事会を開き、名古屋市長選に河村を推薦することを全会一致で正式決定した。河村は、この常任幹事会の冒頭で「何とか当選して(党に)ご恩返ししたい。庶民の政党・民主党の応援団になれればと思っています。しっかりやります」と挨拶し、記者には「本当にありがたい話で、庶民革命を実現させたい」と抱負を語った[40]

3月25日午後、河村は、名古屋市内で記者会見し、名古屋市長選に無所属・民主党推薦で立候補することを正式表明した。同時に、それまでに名古屋市議団との政策交渉で了承を得ていたマニフェストの基本方針「庶民革命[41]」「市民税10%減税」「ボランティア委員会地域委員会Neighbourhood council)」「ナゴヤを日本一税金の安い街にする」等を発表した。席上、河村は、「楽市楽座で庶民にも商売できるようにした織田信長のような『庶民革命』をやりたい」「世の中の人は税金を払うのにどえらい苦労をしている。税金で食っている人が極楽というのは正さにゃいかん」「議員とか役人とかはパブリックサーバント、公僕だ。そういう政治の原点を訴えたい」と熱く訴えかけた[42][43]

4月1日、前述のように、民主党名古屋市議団から民主党本部までの推薦を得ていたものの、民主党を支持するはずの「自治労名古屋市労働組合」が河村を推薦せず、自主投票とすることを決定した。また、連合愛知も同様に、結局、最後まで河村を推薦しなかった。これらは河村の「人件費の総額10%削減」という公約に対する組合員の警戒心が大変強かったためであり、「税金を払う方(市民)が地獄なのに税金で食っている方(市職員や議員)は極楽」などと繰り返す河村たかし候補に対して「自分たちを家来としか見ず給料を下げると豪語している。河村氏を推すなら組合を辞める」という声すら出ていたためである[44][45]

4月4日夜、河村は、名古屋市役所で記者会見し、市民税10%減税、ボランティアによる地域委員会(仮称)の創設、経済対策の3つを柱とするマニフェスト『河村たかしの名古屋政策』を発表した[46]。同日、自身のHPでも解説資料『河村たかしの名古屋政策』[47]を発表した。

  • 日本一 税金の安い街 ナゴヤ、その手始めの市民税10%減税の財源は行財政改革であり、「役人支配を脱し、市役所に根付いた『しがらみ』を一掃、隠し事のない政治を実現する」と強調されている。具体的行財政改革として以下のようなものが挙げられている。
    • 市長との約束に基づく役所内の分権
    • 予算を節約すれば当該部署が報奨される制度の導入
    • 職員の総人件費10%削減
  • 日本一 福祉、医療、住民自治が行き渡った街 ナゴヤ、その中核となるボランティアによる地域委員会は、市民が一定の予算内で福祉や防犯、街づくりなど生活に密着した事業を決めるための仕組みであり、その設置手順は、以下のように示されている。
    1. 希望する地域(中学校区や小学校区など)を募る
    2. 十分な準備を経たうえで、公選に準ずる手続きで委員を選定、モデル実施する
    3. 対象を増やし、予算も拡大する
  • 日本一 早く経済復興する街 ナゴヤのための経済対策では、国直轄事業負担金の削減で生じた財源を以下のようなものに活用するとされている。
    • 中小企業支援
    • 名古屋高速道路の料金の750円から650円への引き下げ

4月6日、名古屋市長選出馬予定の3名、河村たかし(60、民主党推薦)、細川昌彦(54、自民党・公明党の県組織支持)、太田義郎(65、共産党などの推薦)が初めて一堂に会して公開討論会を戦った[48]

4月7日、4月3日に河野洋平衆議院議長に提出されていた河村の議員辞職願が衆議院本会議で受理された[49]

4月26日夜、「庶民革命」を訴えながら1日35キロを自転車で走破するという「庶民派」選挙戦を展開した河村が他の3候補を圧倒的に引き離して次期名古屋市長に当選した[50]。河村への得票数は、1977年に本山政雄が獲得した46万余票を超える過去最高の51万4514票となり、次点の細川昌彦候補をも23万票も引き離すという圧勝であった。また得票率も、過去2番目に低かった前回の27.50%を23.04ポイントも上回って50.54%であった[51][45][52]

小沢一郎を支持する一新会からの裏金授受疑惑[編集]

小沢一郎の資金管理団体「陸山会」による土地取引をめぐり、裏金を受領したとして衆議院議員石川知裕政治資金規正法違反の罪に問われた問題に関連して秘書の金沢敬より裏金が名古屋市長選での河村たかしへの選挙資金に流れていた疑惑がある。 石川の元秘書である金沢敬が2009年の名古屋市長選で、民主党衆議院議員で小沢一郎幹事長を支持するグループ「一新会」で「力があるMさん」が、河村たかし市長の選挙対策関係者に「裏の方」で200万円を渡していたと説明。金沢は「(河村側は)『190万円しかかからなかった。10万円の黒字になった』と話していた」と述べた。 河村は「個人献金の年間上限額の150万円を超え200万円もの裏金をもらった事実はない。記録はあり証明できる。名誉棄損に当たるので抗議したい」と語っている[53]

河村名古屋市政について[編集]

名古屋市議会との対立(市長就任からリコール成立後の市議会選挙まで)[編集]

2009年市長選における市長の当初のマニフェストでは「定率減税(金持ちはゼロ)」とあったが、実際には一定の所得を有している者しか減税の恩恵を受けることができず、市議会でも問題になったが「金持ってる人はゼロのつもりで寄付してちょうよ、というつもりで書いた」などと発言した[54]。また減税の実施により市債の発行高が増加する見込みとなった。これは、「銀行は貸出先がないので金余り状態になっている。国や市が借りてやらないと経済が大変なことになる。市が払う利息は銀行を通して預金者である市民に入るのだから市民にとって(市債は)借金ではない」[55]という市債は借金ではないという市長の持論に基づくものだが、市議会での理解は得られなかった。また当初は減税を行うための予算案の基礎に名古屋市の生活保護受給者が減少するという見込みを出すなど明らかに誤った試算も行っており、減税を肯定するために意図的に誤った試算を行ったのではないかと市議会で問題になった(実際には生活保護受給者は増加傾向にある)[56]。それでも市長側は当初は減税は行政改革で行うという方針を示していたこともあり市議会側は了承し、2009年12月恒久減税は市長の原案どおり可決し条例化されることとなった。

しかし、実際には河村市長本人が行政改革を先頭に立って行うことはなく、名古屋市役所の役人に丸投げを行ったため、予算編成の段階では、既存の事業について無駄な予算のカットではなく、福祉に関する予算も含め一律の予算カットが進んだ。

そのため市議会側は、「第3子以降の保育料無料制度復活」などの2010年度予算の予算修正を行うとともに、減税を単年度とし、各年度ごとに予算内容を確認したうえでチェックするという方針に出た。

一方、市長側は当初の公約では1割削減であった議員報酬を半額に削減するなど極端な案を出したため、議会側の反発を招き、両者の対立は決定的となった。恒久減税、議員報酬削減など市長の提出する条例案は次々に継続審議や否決されることとなり、混乱を招くこととなった。

また、市議会で再可決された議員提案の「名古屋版事業仕分け条例」を市長は公布せず、一方で独自に事業仕分けを実施する方針を決めた。河村市長は地方自治法に基づき、同様に再可決された「中期戦略ビジョン」とあわせ、愛知県知事に是非について2010年10月18日に審査の申し立てを行った。市長は条例を公布しない方針で、議会が可決した条例が効力をもたない異例の状況となった(市議会リコールなどを経て、最終的には無作為抽出で選ばれた一般市民が事業仕分けを行う案が採用されることとなった)。なお、河村市長が「名古屋版事業仕分け条例」を交付しない理由を片山さつき参議院議員は「市長肝いりの名古屋城天守閣の木造での再建案を、この案に反対している市議会が事業仕分けしてしまうことを恐れている。」と指摘している[57]

このような市長と市議会との対立の中、河村市長側は減税日本を立ち上げ、次期、市議会議員選挙で過半数の獲得を目指すとともに、市長主導でのリコールを実現することにより減税、議員報酬削減などの自身の政策の実施を目指した。リコールは紆余曲折はあったが最終的には2011年2月に住民投票が実施され住民投票では69万票を超える賛成票が投じられ名古屋市議会が解散される運びとなった。 一方でリコール運動で35万以上もの署名を集めたことで市議会側にも危機感が広がり、自民党は恒久減税案に賛成する方針を固め、公明党は議員報酬半減案に条件付きで容認するなど市議会側にも歩み寄りの動きが見られた。 しかし、河村市長は問題解決の芽が出たにもかかわらず市長を辞任を表明するにいたった。辞任後、再度市長選を行い、愛知県知事選とのダブル選挙(リコール投票とあわせてトリプル投票)を行うことを表明した。また、民主党名古屋市議団は、減税日本を立ち上げ民主党議員の対立候補擁立しようとする河村名古屋市長の行為を反党行為だとするとともに、当初議員報酬1割削減という約束で市長選を支持したにもかかわらず、実際には議員報酬半減案を市議会に提出した河村市長に反発し、2011年2月の市長選では衆議院議員で元犬山市長の石田芳弘を擁立した。
市長選の結果は現職の河村たかしが得票率の69.8%の得票を得て再選を果たした。その後、3月には名古屋市議会選挙が行われ、河村市長が党首を務める減税日本が現有1議席から大躍進、75議席中28議席を占め名古屋市議会最大勢力となった。

河村市長の施策と論点[編集]

議員報酬半減について[編集]

議員報酬に関する主張と論点

河村は議員の職業化を強く批判しており、議員はボランティアで行うべきだとし、議員が税金で身分保障されることに日本の民主主義が成熟しない根本原因があると主張する。実際に議員の年収を市長の主張する800万円とした場合、名古屋市議の藤田和秀の場合、月495,000円(賞与をのぞく)のうち、年金掛金8万円、所得税8,000円、住民税72,600円、議員互助会45,000円、党費・勉強会など82,950円、事務所費120,000円となり、最終的に手元に残る額は86,450円となり、職業としては議員の仕事は成立せず、河村市長の主張どおり実質ボランティアで議員活動を行うことになる[58]。 一方、 河村市長の報酬は年間800万ではあるが、秘書5名・運転手1名の人件費5160万円、車のリース・ガソリン代36万円、出張費113万円、広報費5億円、交際費120万円など様々な経費を市が持っており、河村市長本人がボランティアで政治活動を行っているとは言えない状況にあり、市長の報酬800万円は政治をボランティアで行おうとしているというより、パフォーマンス的側面が強いといった主張もある。

仮に市議の活動をボランティア的に賄うとすると、政治には様々なお金がかかるため実質高所得者でなければ議員になれなくなるという批判もある。また、選挙費用まで考えると800万の報酬では困難だという指摘もあり、実際に河村市長本人も2009年の市長選時には小沢一郎の資金を一新会の有力議員より裏金として受けていたという報道もある[59]。また、800万の給与では私設秘書が雇えないが、選挙活動に私設秘書が必要なため大西副市長の給与で秘書を雇用するように河村市長の婦人が依頼していた[60]。河村市長は選挙に費用をかけすぎであり、また足らない部分は個人献金で補えばよいとしている。しかし、日本では個人献金を行う慣習が定着しておらず、多くは中小企業の同族会社の経営者が行う個人献金で実質は企業献金の形を変えたものである場合も多い。実際、河村たかし本人も、市長になってから献金が倍になっており、800万の市長給与で足りない部分は中小企業経営者から個人献金を集めているという報道もある[61]

名古屋大学客員准教授で公認会計士の高村徳康は、民間企業の平均給与は大企業で600万円台、中小企業は400万円台であることから、報酬削減に反対する議員は民間と感覚がずれていると批判し、市長の政策を支持している。

また、政治学を専門とする名古屋大教授小野耕二は「名古屋という大都市の運営を考えるには、幅広く意見を聞き、調査できる時間を確保できる人が議員にふさわしく、そのためには一定の報酬額が必要だ。議員活動と市政への貢献を考えれば、安く働く人を集めることだけが、市に経済的メリットがあるとはいえない。議会も改革を進めており、議会案も含め議論すべきだろう。」と述べている[62]

なお、河村市長の主張する根拠となる報酬比較は、それは日本国内間の政令指定都市間の比較ではなく、諸外国の議員報酬との格差が著しいことを根拠にしている。名古屋市の議員報酬年額はおおよそ1,713万円であるが、アメリカのシカゴ市では850万円 ヒューストン市では442万円、フィラデルフィア市では800万円である。また愛知県の議員報酬年額1,514万円よりも多い。[63] ちなみに、イギリスでは10年前までは無報酬の議員活動を行っていた。しかし、議員のなり手がなくなったため、イギリスの地方議員の報酬はどんどんと上がっていき、それにより政治が安定したという事実がある。

また、議員報酬800万を公約にボランティア議員として当選した減税日本の議員の不祥事が続出したことから、ボランティアで地方議員を行うことを批判する向きもある。

議員報酬半減に対する名古屋市議会の対応

 市長側が当初の公約(2009年市長選時)では1割削減であった議員報酬を半額に削減するなど極端な案を出したこともあり、河村市長就任当初は議員報酬半減案は否決される状況が続いていた。一方、河村市長が高い支持率を背景にリコールの構えを見せるなか、市議会の側からも議会改革の動きが徐々に現れ、自民党・民主党は市民や有識者からなる第三者機関により議員報酬を決める案、公明党は議員活動費の保証を条件に議員報酬半減案に賛成、共産党も報酬半減案を容認する方針への転換を示していた。そのような中で名古屋市議会リコール成立及び市議会選挙での減税日本の躍進を受け、2011年4月27日に減税日本、自民、公明、民主、共産の5会派の共同提案により暫定的に市議報酬を半減させる条例案を可決した。議員報酬半減を公約に大躍進をした減税日本ではあるが、その後はこの問題について煮え切らない対応が続いている。暫定的に市議報酬を半減させる条例案は当選1年目の議員は最初のボーナスが少なく800万円に満たない内容であったため、条例案の原案を作成した減税日本は則竹勅仁市議団長以外はすべて1年目議員のため内部でも大きな反発が生じることとなった。そのため、この条例案提出にあたって案をまとめ各会派と調整してきた舟橋猛、玉置真悟が幹事長を辞任する事態となった(これが後の減税日本分裂の伏線になった。)。舟橋は「4月に就任したばかりで満額のボーナスを貰おうとするのは社会の一般常識からしておかしい。」と発言している[64]。また、2011年4月総務環境委員会において当時の減税日本名古屋市議団団長の則竹議員は「本当に800万円で議員活動ができるのか。」という質問に対し、「正直厳しい。やってみないとわからないが、まず努力する。(政治資金)パーティなども努力したい。」と答えている。 その後、河村市長は2011年6月議会に減税日本に対し市議報酬を恒久的に半減する条例案の提出を求めたが、減税日本名古屋市議団は条例案の提出を見送ることとした(減税日本が2011年選挙で躍進をとげて以降は河村市長は議員報酬については市長提案ではなく議会側から提案すべきだというスタンスのため市長提案は行っていない)。2013年9月には市議報酬半減を恒久化する条例案が提出されたが自民、公明、民主、減税日本を離れた新生などの反対で否決された。なお、この条例案を話会う総務環境委員会の審議の中で減税日本の近藤徳久市議から議員報酬半減の妥当性に疑問を投げかけるなど、減税日本内部でも混乱が見られた。また、同委員会で減税日本の真意を問いただされた黒川慶一市議は「(河村)代表の言うことがすべてではない、半分は聞き流している。」と発言している。[65]

減税について[編集]

減税に関する主張と論点

河村市長は『「いいものを安く」というのは商売の鉄則。私は元々商売人だった。商売では、厳しい価格競争は当たり前、「財源がない」などという言い訳も通用しない。だから私は、今の政治に逆行して減税を訴え、少しでも安い税金で、よい行政サービスを目指している。』と市民税の10%減税をテコに行政改革を行い、それを市民に還元することを主張している[66]

減税条例によって2010年に実施された名古屋市の減税では全体の0.2%にあたる高額納税の企業が44%の減税額を受け取っており、庶民革命というスローガンとは裏腹にほとんど庶民に恩恵がないことが指摘されている。これに対し河村市長は、「平成18年から6%の均一税率になり、あえて減税の税率を変えると、この6%が崩れることになるので、法律に従った。」と主張している[67]。また、名古屋市民225万人の52%は扶養家族や非課税のため減税の対象外となっている。減税を実施した2010年度の名古屋市の一般会計の予算総額は既存の事業については予算カットや人件費削減には取り組んだものの、生活保護受給者の増加などもあり、1兆345億円で前年度に比べて437億円増える結果となっている。また、一方で不況による税収入の落ち込みなどもあり、結果として減税を行うことにより、市債発行残高も約360億円増の1兆8587億円となるとともに、地方交付税の交付団体に転落した。また、不足した財源として、財政調整基金を36億円処分をおこなうこととなった。そのため、減税は将来に対してツケを残すものであるという批判もある。さらに、災害時などに利用するための積立としての位置づけでもある財政調整基金の取り崩しは東日本大震災が起きたことなどもあり批判の声もあった。なお、河村市長は減税分160億に対応して予算カットや人員削減を185億円行っており、減税分は純粋に行政改革によりねん出したと主張している。[68](減税分の予算ねん出を市側が行ったのは事実であるが、生活保護受給者の増加などの義務的経費の増加で予算総額はむしろ増加した一方で税収が落ち込んでおり、そのような状況での減税が正しいかどうかが議会の指摘であり、市長の反論はややズレている。)

河村市長は減税をテコに行政の無駄を排除すると主張していたが、市長がリーダーシップをとって無駄の削減を行うことはなく、役人への丸投げを行った。リーダーシップが欠落した状態では減税により無駄を削減するというような力学が官僚組織内部では働かず、予算編成の段階では既存の事業について一律の予算カットの方向ですすめられた。具体的には平成22年度予算編成に向けて各局に15%から30%の一律の予算圧縮が指示され、健康福祉局や子ども青少年局などの福祉的予算は合計で約84億の圧縮を行った[69]

また、河村市長は減税により企業誘致と移住者誘致に資すると主張し、単年度の減税では効果がなく、恒久減税を行う必要があるとも主張している。一方、三菱UFJリサーチ&コンサルティングエコノミストの内田俊宏は、「法人市民税の減税だけでは企業が本社機能を名古屋に移転してくるというのは考えにくい」と指摘するとともに「今回のギリシャショックから、かなり財政の赤字というところに焦点があたっていて、借金をもっている自治体というのはこれから前向きな投資ができにくくなると 柔軟な財政運営ができなくなる」とも述べている[70]。 移住者誘致については名古屋市の依頼に基づいく三菱UFJリサーチ&コンサルティングの調査によると減税により増加する移住者は年間2000人程度見込まれるが、減税による減収分を補う効果がないとしている[71]

市民税恒久減税までの推移

市長就任当初は減税について市長と市議会で激しいやり取りがあったものの、2009年12月恒久減税は市長の原案どおり可決し条例化されることとなった。そのため2010年度には市民税減税が実施されることとなった。しかし、その後の予算委員会で財源や福祉予算のカットなどの市民サービスの低下が問題となり市議会側は減税を単年度とし、各年度ごとに予算内容を確認したうえで減税実施の判断を行うこととした。そのため河村市長は2010年にも恒久減税案の提出を行ったが議会と市長との激しい対立のなか否決される事態が続いていた。その後、一連のリコールの動きと統一地方選を2011年(平成23年)4月に控えた議会側にも減税に対して妥協の動きもみられ、自民党は市民サービスを低下させないことを条件に河村市長案に賛成に回り、公明党、共産党は低所得者に配慮した独自の減税案を市議会に提出した。しかし、結果的にはいずれの案も可決することはなく、減税は2011年度は実施されない運びとなった。減税の否決によって浮いた予算の一部は民間保育所の新設・増築への補助、公立保育所の民間移管による定員増、賃貸物件を活用した保育所整備など待機児童解消のためにあてられるなどの措置が取られた。
その後、河村市長側も消費税増税反対の立場での国政復帰を模索していたこともあり、次期衆院選までに名古屋市長として減税で一定の成果をあげる必要があるため10%減税から7%、5%と妥協する方向に動くこととなった。議会で話し合われた結果、2012年度以降個人・法人とも5%の恒久減税(個人市民税は5.7%)とすることで市長と市議会で折り合いがつき減税条例が可決された。

その他の施策(地域委員会、市職員人件費カット等)[編集]

地域委員会

2010年(平成22年)より8区、8学区をモデル地域として地域委員会を開始した。モデル地区の8地区は人口に応じて500万〜1500万円の予算がつく。委員の任期は1年で、委員会は土日や夜間に小学校の体育館などを利用して開かれる。

社会学者の中田實名古屋大学名誉教授を座長とする学識経験者による研究会は、地域委員会は「自治のあるべき姿を実現させた手法」であると評価する一方で、モデル地区の投票率が8.7%であることを問題視し「(低投票率について)厳しい現実として受け止める必要がある。十分な投票参加を得られなかったことは、地域委員会の正当性に対する疑念や批判の余地を与えた」と指摘するとともに、委員の選任投票に最低投票率制度を導入し、投票率が低かった場合には、その学区では地域委員会の設置を見送るべきだなどという提言を行った。[72]

名古屋城天守閣の木造での再建と「金しゃち横丁」

名古屋城は150億円の経費をかけて本丸御殿の再建を行ったが、本丸御殿の再建に関しては当初より「不況の税収不足の中で続けることが適当なのか」という意見があった。しかし、河村市長はさらに名古屋城天守閣を木造で再建する案を披露している。最大の壁は500億円といわれる建設費であるが、市長は「銀行は不況で預金の貸出先が無く、金余りの状況。政府が仕方なく銀行に国債を買わせて預金を引き受けており、日本は財政危機ではない。天守閣の再建に当てはめると、建設費のために市債を発行する→市債の利子を市が銀行に支払うことで銀行は利子収入を得る→銀行の利子収入は預金の金利という形で市民にも還元される。元本の建設費で建てた天守閣は、市民にとっての財産であり借金ではない」と持論を展開し、建設費は市債で補うことを明言している。これに対し、民主市議団幹部は「膨大な費用がかかり、実現の難しさは本丸御殿の比ではない。不況下にやるべきではないし、市債のとらえ方も意味不明。いくら借金しても良いとの言い方は市民や議会を愚弄(ぐろう)している」と批判している[73]

河村市政誕生前の「平成18年度の名古屋城整備計画」にあった名古屋城周辺に再現する城下町構想について河村市長は「世界の金シャチ横丁」として推進していく姿勢を見せた。2014年2月に河村たかし市長や学識者を交えた公開討論会を市公館で開き、名称を「金シャチ横丁(よこちょう)」に正式決定した。河村市長は「東京でポスターを見た人に『行こう』と思わせないといかん」と、河村市長がネーミングし以前から仮称として用いてきた「世界の金シャチ横丁」を推しており、「わしは不満だけど」と発言している[74]

市職員の天下りへの対応

河村市長は2009年の市長選のマニフェストでは『幹部職員の「天下り」を事実上不可能にする』と掲げており、市長就任早々、副市長など天下りしている市の特別職OBに早期の退職を要求を行った。しかし市長就任後、市の一般職の公務員については「天下りが悪いわけではない。」と天下りの容認に転換、市長の退職要求に応じて退職した2人の後任に市の元幹部(ともに元局長)が就任することとなった[75]

また、一般職の天下りについては以下のような天下りのルール(なごやルール)を設けた[76]

  1. 庁内公募を行うとともに市が再任用して外郭団体に派遣し、最後は市長が選考する。
  2. 外郭団体に再就職する職員は1年ごとに契約を更新、成績評価制度を導入し、低評価者の契約延長は認めないものとする。
  3. 再就職の給与は上限を600万円台とし退職金はゼロとする。

なお、このルールについて実質的に天下りを制度化し、容認したものだという批判が名古屋市民オンブズマンなどからされている[77]。また、実態としては希望者はほぼ再就職しており市長の選考も成績評価制度も機能していない。

人件費10%カット

公務員給与については、当初の市長選時などに河村市長は公務員給与の大幅な削減を示唆する発言もあったが、ボーナスの一部カットと市職員の月給を平均で2.35%分の削減にとどまった。2010年度でCOP10、名古屋開府400年などの主要事業が終了し大幅に定員を減らすことが可能になったこともあり、退職者不補充などにより人員削減を実施し、結果的に2011年度予算で公約である人件費10%カットを達成したと記者発表した。しかし、この値は2ヵ年での積算削減額が総額の10%に達したという意味であり、名古屋市公表の資料[4]によると単年度削減比率は5.5%に留まっている。なお、河村市長は2014年度当初までに1,800人の定員減を達成した。ちなみに、松原市長の12年間で6,296人(全体の19.4%)の職員を削減しており、人員削減じたいは以前から進められているもので河村市長になって特別行政改革が進んだわけではない。むしろ削減率は松原市長時代のほうが高い結果となっている。

市議会リコールと減税日本の躍進[編集]

市議会リコール[編集]

リコールの経緯

市議会との対立が決定的となった河村市長とその支援者は2010年(平成22年)8月27日より市議会リコールのための署名活動を開始した。リコール成立には名古屋市の有権者の2割である36万5795人分の署名を1ヶ月の間に集める必要がある。リコール成立のために必要な署名数が、有権者が40万を超える場合は、「地方自治法等の一部を改正する法律」(平成14年法律第4号、2002年3月30日公布)により「その総数の3分の1(その総数が40万を超える場合にあつては、その超える数に6分の1を乗じて得た数と40万に3分の1を乗じて得た数とを合算して得た数)以上」(原文漢数字)と改正されているためである。

市長側は最終的には46万5582人の署名を提出。リコール成立は確実とも思われた [78]が、署名期間中、代筆や受任者以外の人物による収集などのルール違反を指摘する通報が相次いだことや11万4000人分の署名について受任者欄が空欄になっているなどずさんな状況が判明。そのため、市議会議員出身の選挙管理委員が、「市民の反発をまねく」と主張する事務局の反対を押し切り、審査の厳格化を決定。審査機関を1ヶ月間延長するに至った[79]

1ヶ月後の11月24日、選挙管理委員会は提出されたうち約24%にあたる11万1811人分の署名が無効で、有効数は35万3791人だったと発表した[80]。これは法定数に約1万2千人分届かなかった。異議を申し立ててもリコール成立には1万2千人分という大量の無効票を有効票と認めさせなければならず、この時点で市議会解散リコールは不成立が確実視された[81]

この決定に対して、河村市長は「泣けてきます」と述べ、4人の市選管委員のうち3人が元市議であり、そのため議会よりの厳しい基準で署名の審査をしたと主張。「議会のことだからといって自分たちで(基準を)決めるとは恐ろしい。独立行政委員会は市民の政治的自由を守るため中立にやるものだ」と批判するとともに、選管が最終的に基準を厳格化したことについて「後から基準を変えてもいいのか。後出しじゃんけんだ」と主張。「尊い署名を無効にしたことは極めて不条理。恐るべき民主主義の危機と言わざるをえない」と選管を厳しく批判した[82]

一方、伊藤年一名古屋市選挙管理委員会委員長は「疑義のある集め方をしており苦渋の決断をした。」「大量の無効署名を出し、署名した人の真心を踏みにじったのは、集めた側の責任ではないか。」と河村市長の支援団体を批判している[83]。河村市長の支援団体は有効署名の掘り起こしを精力的に行い、請求代表者の立場で一括して異議申し立てを行った。結果、3万人以上の異議申し立てが行われ[84]、審査の結果、半数あまりが有効とされたため必要な法定数を越え、一転して住民投票の実施が確定した[85]

河村市長側は2011年(平成23年)2月に行われる予定の愛知県知事選挙との同日選挙を狙っており、リコールが成立した場合には河村市長自らも辞任し、市長選を行うことを明言していた。

2011年(平成23年)2月6日、愛知県知事選挙、名古屋市長選挙、名古屋市議会リコール住民投票がそれぞれ施行され、愛知県知事選挙では盟友の大村秀章が当選、名古屋市長選挙でも河村自ら2期目の再選を果たした[86]。そして名古屋市議会リコール住民投票では69万票を超える賛成票が投じられ、名古屋市議会解散が確定する結果となった[87]

受任者欄が空欄である署名の取り扱いをめぐって

署名簿の審査をめぐって二転、三転した経緯には、受任者欄が空欄となる署名のうち1万人以上の署名が無効から有効へと転じた経緯がある。

署名は請求代表者が街頭で集めるケースと委任された受任者が担当の区の範囲で対面で集めるケースの2種類があり、受任者が集めた署名には受任者欄が記載されており、空欄ならば請求代表者が集めたものでなければならない。今回のリコールでは「署名簿が回覧板と一緒に回ってきた」「受任者名が記載されていない署名簿が喫茶店に置かれていた」など、違法な署名集めに関する情報も殺到するとともに、全体の4分の1にあたる約11万4,000人分で、署名集めを担当した「受任者」欄が空白になっており、10人しかいない請求代表者が全体の約4分の1に相当する署名を集めるのは考えにくく、郵送で署名者に直接確認するため審査期間を1ヶ月間延長するに至った。再審査の結果、「受任者から署名を求められた」とした3万6,000人分が無効という結果となった。この3万6,000人分が決め手となって、選管の審査の結果いったんはリコールは不成立となった。ちなみに、「請求代表者から求められた」場合と「誰から求められたかわからない」場合は有効となる。

しかし、縦覧期間中に河村市長の支援団体が精力的にこの3万6,000人をあぶり出し、「受任者から求められた」を「誰から求められたかわからない」に変更する異議申し立てを一括して行った。これに対して選管は、署名者本人の意思を確認できる署名を提出すれば有効であるという見解をしめした。河村市長の支援団体は3万6,000人のうち住所が判明した2万1,000人分に対して「受任者から求められた」という回答を「誰から求められたかわからない」変更する意思の確認を郵送で行い、最終的には1万3,000人あまりから確認書を確保し、無効な署名を有効なものにひっくり返した。

リコールに対する反応

市議会は2011年(平成22年)4月には任期満了で選挙が行われる予定であり、なぜ費用をかけてまで市議会を解散する必要があるのかという疑問の声もある。名古屋市選挙管理委員会の試算によると通常の愛知県知事選、県会議員選挙を行った場合の費用は12億円、議会解散リコールが成立した場合に河村市長の思惑通り県知事選、市長選、名古屋市議会選が同時に行われたとしても18億5000万円の費用がかかるとされている。仮に県知事選と市長選・市議会選のダブル選挙が別々に行われた場合には21億5000万円かかる試算となる。これに対して河村市長は民主主義の費用として容認する構えを見せているが、リコールにより、市民が根強い不信感を持つ市議会との対立を演出することにより自身や減税日本が有利に選挙戦を進めようという思惑が強く働いているという側面もある。

河村市長の元ブレーンの名古屋大学後房雄教授はリコールに関わる一連の騒動について、市議会と河村市長との政策対立というよりは、「地方自治の旗手として」国政復帰するために市民を巻き込んだ市長の政略であったことを指摘している。「河村氏は元々国政に戻るタイミングを計っていて、市長を『仕方なく』やっている。」と指摘したうえで、以下のように述べている。「象徴的なシーンがあった。河村氏と一緒にやっていた09年、議会が減税と地域委員会を認めないので、リコールを準備して圧力をかけた。すると議会が議案を11月議会で通した。大成功だったんだが、河村氏はがっかりしている。理由を聞くと『私は(政令市初の)リコールがやりたいんだ』。リコールは彼の手段ではなく、目的だった。その後、議会がのめないように、公約にない議員報酬半減を打ち出してリコールをやった。『地方自治の旗手』として国政に復帰したかったんだろう。結局、衆院選で失敗し、また市長選に出ることになったけど。」と述べている。[88]

また、リコールという制度の本来の趣旨は市長や市議が著しく民意とずれている場合に住民がおかしさをただす切り札として認められたものであり、市長が議会と対立したためにリコールを使うことは制度の趣旨に反するという批判もある。

前出の名古屋大学の後房雄教授などは今回の署名活動において違法な署名集めがあり、明らかな犯罪行為があり不成立が当然であるとする[89]。違法な署名集めの内容として、次のようなものがあげられる。担当の区でしか署名を集めることができないとされている受任者が地方自治法施行例に違反する担当区以外で署名集めを行っているケースが明るみになるケースがあった。また、この受任者は「支援団体事務所の指示だった」と証言している。なお、河村市長の支援団体は指示を行ったことについて否定している。また、再審査での郵送での署名者への確認作業において、約900人あまりが「実際には署名していないのに勝手に名前を使われた」と回答をしており[90]リコールに反対する学者や弁護士で作る市民団体が地方自治法の署名偽装罪での刑事告訴を検討している。

また、選挙管理委員会に不適切な署名集めを指摘する通報や、これを指摘する報道が相次いだ。例えば「回覧板と一緒に署名簿が回ってきた」[91]、「喫茶店に受任者名が空欄の署名簿が置かれていた」[91]、「受任者が担当の区以外で署名集めをした」[92]、「代筆により大量の署名を作った」[93]、「家族や知り合いの分も署名してくれと頼まれた」などである。

愛知県知事選と名古屋市長選及びリコール住民投票のトリプル投票[編集]

いったん市議会リコールが不成立の見通しとなった2010年(平成22年)11月、河村は責任をとるとして、名古屋市長を辞職して、出直しの市長選挙に再び立候補し愛知県知事選とのダブル選挙を実施する意向を示した[94]。だが結局はリコールが成立することとなった。

しかし、河村市長は「市民税10%減税は誰も疑うことのない『一丁目一番地』。それをやろうと思って市長になった。(減税が1年で終われば)市民にとって増税になる。議会がそれを示したのなら、市民に問わないといけない」と市長の減税案が否決されたことを理由に辞任する意向を表明し[95]、12月20日、市議会議長に2011年1月21日付の辞表を提出し受理された[96]

ちなみに、辞任理由が二転三転しているが、河村市長はリコールの審査結果が出る以前や減税案が否決される以前から辞任して知事選とダブル選挙を実施する可能性を示唆しており、今回の辞任とダブル選挙は愛知県知事に立候補を表明している盟友の大村秀章を支援するための選挙戦略であることが指摘されている。

またリコール住民投票も実施される運びとなったため、同年2月6日に知事選、市長選、リコール住民投票のトリプル投票、ダブル選挙が行われることが決定した[97]

2010年11月現在、知事選には河村の盟友であり出馬を要請された[98]衆議院議員の大村秀章、民主党から元総務省官房審議官の御園慎一郎、自民党からは前総務省課長補佐の重徳和彦、みんなの党から愛知みずほ大学大学院特任教授の薬師寺道代が立候補、共産党からは医師の土井敏彦が立候補を表明した。なお、公明党は大村候補の支持を表明している。

また、大村秀章は自分を応援しない自民党県議に対して2011年4月の愛知県議選で対立候補を擁立した。自民党は大村の出馬が反党行為に当たると判断し除名処分とした。

名古屋市長選には、民主党推薦で元犬山市長の石田芳弘衆院議員、元民主党員で2009年の市長選で民主党公認候補だった河村の対抗馬の細川昌彦支持して離党していた杉山均市議、共産党推薦の八田ひろ子元参院議員の3人が立候補を表明。また自民党市議団は石田候補を推薦、公明党市議団は自主投票となった。

石田芳弘は、「当初は河村市長に期待したが、ここ半年は迷走している。議会との対立をあおる手法は大いに疑問で、予算編成期の辞職は職場放棄だ」と批判し、市政の混乱状態を救うと主張している。また、河村・大村連合の「中京都構想」は「名古屋市の解体論だ」と否定。市民税10%減税は「借金を増やしながらの減税は持続不可能。減税財源は医療や子育てなど格差是正に充てるのが正しい」とし、議員を市執行部に登用する「議会内閣制」も公約にしている[99]

なお、河村市長は一連の(市議会の任期満了まじかの)リコール請求ですでに8000万円の費用をかけており、任期を2年を残しての河村市長の辞任による市長選を行うことにより、さらに2億円追加的な費用が発生するため、大村候補の選挙を支援するために税金を無駄使いしているという指摘もある。

また、35万人の署名が集まったことが市議会議員側の次期選挙への危機感につながり、自民党は減税案に賛成し、公明党、共産党が議員報酬半減案を容認する姿勢を見せるなど市議会側に妥協をする姿勢が見え始めただけに市政を放り投げ辞任した市長の姿勢に疑問の声も上がっている[要出典]。「盟友の大村氏を支援するために選挙を私物化している。署名が示した市民の声を無駄にせずに市政に取り組む時期。」(中日新聞論説)などの批判もなされている。

2011年(平成23年)2月6日、愛知県知事選挙、名古屋市長選挙、名古屋市議会リコール住民投票がそれぞれ施行され、愛知県知事選挙では盟友の大村秀章が当選、名古屋市長選挙でも河村自ら2期目の再選を果たした[100]。そして名古屋市議会リコール住民投票では69万票を超える賛成票が投じられ、名古屋市議会解散が確定する結果となった[101]

2011年名古屋市議会議員選挙[編集]

市議会解散請求署名(リコール署名)に基づいて行われた議会解散の是非を問う住民投票(2011年2月6日)の結果、市議会解散が過半数となった結果に基づいて2011年3月13日に市議会選挙が行われた。 改選議席数75議席に対し、河村市長が代表を務める減税日本が解散前1議席に対し28議席を獲得する大躍進を果たし第1党となった。一方、解散前第1党であった民主党は27議席から11議席に大きく議席を減らし第4党に転落した。

リコール後の河村市政[編集]

減税日本名古屋市議団の動き[編集]

2012年3月、1年交代が慣例の市議会議長の続投の意向を示した中村孝太郎に対し「市議団の意向を無視した」として減税日本は中村を会派から除名する処分をした。減税日本ナゴヤに退会届を提出した市議4人(舟橋猛、堀田太規、玉置真悟、加藤修)と、先に除名されていた1人(中村孝太郎)が新会派「減税日本新政会」を設立した。団長は舟橋猛。減税日本新政会は、会派設立理由として、減税日本ナゴヤが中村前名古屋市議長を処分したこと、その後減税日本ナゴヤから立候補した副議長(田山宏之)が、議会の過半数から信任を受けないまま副議長に就任したことなどを挙げ、そうした状況下で「河村市長の提唱する三大公約」を再構築し、議会全体と対話や議論をしながら実現に向けて行動するため新会派「減税日本 新政会」を立ち上げたと発表した。2013年2月には「減税日本 新政会」には済藤実咲が合流。その後、「減税日本新政会」は「(減税日本は)衆院選での合流劇など、河村市長が何をしたいのか全く見えない。減税日本の名にこだわる必要がなくなった」として、会派名から「減税日本」を取って「新政会」に名称変更。2014年4月には「新生会」も解散され、7名のうち4名は「民政クラブ・一貫正義」を結成した。あとの3名は一人会派をそれぞれ結成した。中村孝太郎は八風の会を、済藤実咲は民和会を、玉置真悟は政和クラブを結成した。
また、2013年2月には宇佐美汝久愛市議(港区選出)が減税日本ナゴヤを離団。宇佐美は一人会派「地方分権改革会」を結成。2013年3月には荒川和夫市議(瑞穂区選出)が減税日本ナゴヤを離団し、一人会派「名古屋市民クラブ」を結成。除名された中村孝道、黒川慶一、河合優も一人会派を結成するなど減税日本は分裂を続け、28の議席数が2014年8月現在で15議席に勢力を縮小。18議席を有する自民党に第1会派の地位を譲ることとなった。さらに、分裂は続き統一地方選挙前の2015年3月時点では11議席まで議席を減らすこととなった。その後、2015年4月の統一地方選挙では現有議席から一議席増の12議席という結果となったものの、前回選挙で28議席獲得した状況からは大きく後退し、自民、民主に続き、公明、共産と同じ議席数の第三会派に転落した。

大村秀章知事との対立と中京都構想[編集]

 2011年2月の県知事選と名古屋市長選で大勝し、一時は「盟友」と呼び合った大村愛知県知事と河村市長であるが、中京都構想をめぐる意見のズレが生じてくる。中京都構想も当初は愛知県と名古屋市の政策・企画立案部門を合体・一本化した「司令塔」をつくるとして大村知事と河村市長は協力関係を築いていた。しかし、大阪市などを解体して東京23区のような特別区に再編するという、「大阪維新の会」代表である橋下徹大阪市長らの唱える「大阪都」とは異なり、11年の知事選出馬の時点で、中京都構想は具体像が示されずイメージのみが突出したものだった。しかし、12年には、財界や学識経験者などによる中京都構想のブレーン組織「中京独立戦略本部」の会合がスタート。具体的方向が模索されてゆくにつれて県と市の構想の違いも鮮明化してきている。近隣自治体を含め人口400万人規模の都市をつくり、その機能を強化して特別自治市をつくるという河村市長の「尾張名古屋共和国」構想に対して、大村知事の構想は知事と市長の兼務を可能とする制度改正により名古屋市を解体して愛知県そのものを「中京都」とするとした。[102]2012年7月には河村たかし名古屋市長は9日の定例記者会見で。「大村さんは愛知県の形のまま名古屋市と一体化すると言うけど、それじゃ名古屋市は解体するんですか。市民は支持しないと思いますよ」と、強い口調で名古屋市「分割」への危機感をあらわにするとともに「このままでは議論を進めることはできない」と述べ、構想推進に向けた有識者らの会議の開催を当面見送ることを表明した。[103]

2012年8月に大村知事が「中京維新の会」を河村市長になんの相談もなく設立したことで両者の対立にさらに拍車をかけることとなった。次期衆院議員選挙で橋下大阪市長の大阪維新の会との連携を模索する河村市長にとって河村外しと受け取ったためである。河村市長は記者団に対して「信頼関係がないのに連携はあり得ない。会うつもりもない」と発言。一方の大村知事も「河村さんは政治家として資質に欠ける。私をおとしめる発言を含め理不尽なやり方に屈するわけにはいかない」と発言している。[104]

一時期は完全に冷え切った両者の仲であるが、大村知事は河村市長の協力で知事になれたこともあり、次期県知事選での協力を仰ぐ必要性などから、大村知事側から関係修復を図る動きもある。2013年の名古屋市長選では大村知事は「河村さんとの盟友関係は変わらない。しっかり応援していきたい」と河村市長の支援を行っている。[105]

国政復帰断念と名古屋市長三選[編集]

河村市長は2012年12月に行われる衆院議員選挙での第三極結集と自身の衆院議員選への出馬を目指し日本維新の会との合流を模索していた。しかし、消費税増税などの基本政策の違いから橋下代表は両党の合流を容認しておらず、最終的には衆院選前の維新との合流を断念する結果となった。その後、国政レベルでは亀井静香元金融相らの反TPPと合併後、小沢一郎らの国民の生活第一とともに嘉田由紀子滋賀県知事の日本未来の党に合流することとなった。なお、地域政党としての減税日本ナゴヤは継続しており、2015年の統一地方選をにらんで日本維新の会などとの連携を模索していたが、こちらも2014年6月に河村市長が合流断念を表明した。

日本維新の会との合流に失敗したこともあり、2012年11月に衆院選への出馬断念を発表。翌年4月の名古屋市長選への再出馬を行い前自民市議の藤沢忠将氏(43)=自民愛知県連推薦、民主県連支持らを破り三選を果たした。

河村市政の評価[編集]

市政1年後の中日新聞の世論調査では市長の支持率は61%となっており依然支持率は高い。一方で、愛知県内の自治体の首長に河村市政の評価を聞いたところ平均50.9点と低い評価であった。

評価できない理由は「パフォーマンスが過ぎる」「手法が独善的」「自分本位の政策」など河村市長の政治姿勢を問題視。「議会制民主主義の根幹である議会との対話がほとんどない」「地方行政や議会への注目度を高めたが、市民生活に寄与する具体的な成果に乏しい」など議会との対立やそれに伴う市政の混乱を指摘する意見も多かった[106]

2013年3月の世論調査では支持率51%で、評価できる政策は「市議報酬の半減」「市民税減税」がそれぞれ65%、47%と高かった[107]

河村市長は高い支持率を背景にリコールなどを通じて直接民意に訴える手法を「民主主義発祥の地、名古屋」であると、民主主義を実践するものとである主張している。

しかし、議会との対話により解決を図ることを行わず、リコールなどの強権的な手法をとる市長の手法に対し、「プレビシット制(人民独裁)」(国民の意思を問うためではなく、時の権力担当者(政治家)が自己の地位や権限を強化する目的や役割をもって行う国民投票制度)であるという認識もある。また、地方自治における二元代表制は市長の独走を議会側がチェックするという機能を担うものである。しかし、河村市長の手法は市議会との対立を演出することにより、議会や行政に対する市民の批判を自身の支持に巧みに転換し、リコールなどを利用して結果的に二元代表制という民主義的なチェック機能を無効にするものであるという点について様々な批判もある。

例えば、大阪経済法科大学客員教授松室猛は「唯我独尊の首長を生み出しているケースと、その逆に首長べったりの議会と議員を生み出していることが今日の自治体の異変に繋がっているのである」と名古屋市、阿久根市、大阪市などを念頭に今日の地方自治の問題点を指摘しつつ、「最近の選挙で感じられることは、プレビシット型を容認する衆愚政治的傾向があることである。今年の2月に施行された名古屋におけるトリプル選挙はこの典型ではないだろうか。」と述べている。[108]神奈川県の松沢成文知事は「議員は市長選と違う民意で選ばれており、『市長公約の反対者は非国民』と議会を否定したら二元代表制が成り立たない」と発言している[109]一方で、河村市長が支持を集める背景には、そもそも地方自治において二元代表制が機能しておらず市長と議会のなれ合いの中で、住民側に根強い政治不信が存在するという認識もあり片山善博総務相は「これまでの二元代表制の下で(市長と市議会が)それぞれチェックし、牽制(けんせい)し合う機能があまりなくて、裏で手を握り、八百長、談合の傾向が強かった、それではいけないというのが阿久根、名古屋で、今までのアンチテーゼ。ただし、それがちょっといびつな形で出てしまった。」と議会と市長双方を批判している[110]河村市長のポピュリズム(大衆迎合主義)政治的な側面に対する批判もある。八木秀次高崎経済大教授は「市民に分かりやすい政策だけで、古代ローマの政治手法『パンとサーカス』だ。パンは減税、サーカスが敵を作り上げてやっつけることだ」と述べている[111]熊本県蒲島郁夫知事は、「トリプル選挙」として注目を集めた2011年2月の名古屋市長選に触れ、「争点は河村たかし市長の公約だった減税だけに集約された。カリスマ性に富む首長が、反対する立場の人を仮想敵として非難し、自ら議会を解散に導く手法はポピュリズムに陥る恐れがある」と述べ、河村の一連の政治手法に批判的な見方を示した。また、政治学者でもある蒲島は選挙の特徴を「既存政党への不信の広がり」「マスコミの注目を浴びる形の劇場型選挙」「候補者のキャラクターと単一の争点への依存」と分析し、「この手法が今後もまかり通れば、日本の民主主義の在り方自体が問われる」と批判した[112]。 また、パフォーマンス一辺倒で、市政の重要事項には興味を示さないという批判もある。河村市長のかつての経営アドバイザーの1人であった政治学者の後房雄名古屋大学教授は、政策については役人に丸投げで、自らリーダーシップを取らず、行政の本質的問題に興味を示さない河村市長の姿勢に対して、「(減税を実施した後)減税をテコとした事業の精査のシステム構築や、地域委員会の実施、拡大のための体制整備などを重点とする方向で局面が転換するものと考えていたが、河村市長は、議員報酬と定数の半減を新たな争点に議会解散路線をさらに加速させた。」として行政経営の本質的問題よりも、「議会解散直接請求という政治ショーこそが(河村市長の)一貫した中心的関心事」と批判している[113]

 また、後房雄教授はさらに、議会と市長の対立からリコールまでの一連の動きは「総理を目指す男河村たかし」が「地方自治の旗手」として国政復帰するための手段であったことも指摘する一方で市と議会で緊張感が生まれたことに関しては一定の評価を与えている。『河村氏は元々国政に戻るタイミングを計っていて、市長を「仕方なく」やっている。』と指摘したうえで、以下のように述べている。『象徴的なシーンがあった。河村氏と一緒にやっていた09年、議会が減税と地域委員会を認めないので、リコールを準備して圧力をかけた。すると議会が議案を11月議会で通した。大成功だったんだが、河村氏はがっかりしている。理由を聞くと「私は(政令市初の)リコールがやりたいんだ」。リコールは彼の手段ではなく、目的だった。その後、議会がのめないように、公約にない議員報酬半減を打ち出してリコールをやった。「地方自治の旗手」として国政に復帰したかったんだろう。結局、衆院選で失敗し、また市長選に出ることになったけど。 ただ、河村市長の誕生には意義がある。以前の市は既成政党が相乗りで行政OBの市長をかつぎ、市職員は議員の世話をするという談合体質。外からのチェックが入らない状況だった。河村氏によって市と議員に緊張感が生まれたし、リコールで現職議員の半分近くが落選し、議会が刷新された。(中略)河村氏を代えるのがいいかどうかは何とも言えないところだ。』[114]

河村シスターズ[編集]

元秘書である田中美絵子佐藤夕子通称

2009年(平成21年)8月30日第45回衆議院議員総選挙に、田中は石川2区から、佐藤は河村の後継として愛知1区からそれぞれ出馬し、田中は比例北陸信越で復活当選、佐藤は愛知1区の小選挙区当選を果たしている。

弾劾裁判(司法作用)における活動[編集]

長年衆議院法務委員会委員を務めており、同委員会野党筆頭理事も務めた。

2008年(平成20年)には裁判官訴追委員会第二代理委員長として、下山芳晴裁判官罷免のための弾劾裁判(司法作用[115])に関わり、臼井日出男委員長および荒木清寛調査小委員とともに、3名で、下山裁判官へ事情聴取を甲府刑務所で行った[116]。事情聴取の際の印象として「なかなか誠実な人柄で訴追は忍びなかったが、罪は罪」などと述べた[117]。また裁判官弾劾裁判所において罷免判決が宣告され閉廷した後、他の委員が下山元裁判官の前を無言で通り過ぎて退廷していく中、一人声をかけ激励し、これに対し下山元裁判官もうなずいて応える一幕があった。

太陽の党との合流問題[編集]

2012年11月15日、石原慎太郎が率いる太陽の党と減税日本の合流が発表された[118]。しかし、その翌日には橋下徹が率いる日本維新の会と太陽の党との合流が決定され、その際に太陽の党と河村氏との合流は白紙にする[119]と確認されている。

国会議員時代に所属していた団体・議員連盟[編集]

出演番組[編集]

国会議員時代よりテレビ・ラジオ関わらず出演することが多い。

国会議員時代

など多数

名古屋市長時代

など多数(不定期で在名ローカルの番組に出演することもある)

著書[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ いわゆる南京大虐殺の再検証に関する質問主意書衆議院
  2. ^ 歴史好き河村市長の先祖は書物奉行 今も蔵書四千冊公開 - CHUNICHI Web 中日新聞 2009年6月22日
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  4. ^ 2011/01/08 日本経済新聞
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  12. ^ 「河村 剛太」
  13. ^ 「訃報:河村剛太さん 62歳=河村たかし名古屋市長の弟 /愛知」
  14. ^ 「12」東京大学
  15. ^ ただし 本人の後ろに街宣車が併走している
  16. ^ 中日新聞2011年1月3日
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  18. ^ 2011/01/08 日本経済新聞
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  41. ^ 「庶民革命」なる河村の同名ビジョンは、2008年8月19日、民主党代表選に備えて既に発表されていたが、名古屋市長選でのこの「庶民革命」は、その地方拡大版である。庶民革命 (PDF) もしくは庶民革命 (PDF) を参照のこと。
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  112. ^ 2011年3月2日の熊本県議会代表質問における、民主•県民クラブの鬼海洋一への答弁より。潮崎知博「ポピュリズムに陥る恐れ 蒲島知事、名古屋市長の手法非難」、『熊本日日新聞』2011年3月3日5面。
  113. ^ 河村市政1年の真実―内側から見た光と影-2010年04月26日中日新聞への寄稿
  114. ^ 4.21名古屋市長選:河村市政1期4年、識者に聞く 毎日jp 2013 3月31日
  115. ^ 清宮四郎『憲法I〔第3版〕』(有斐閣1979年)337頁、芦部信喜『憲法〔新版補訂版〕』(有斐閣1999年)305頁等参照。
  116. ^ “「覚悟決めた」と下山判事 裁判官訴追小委の聴取に”. 47NEWS. 共同通信. (2008年7月7日). http://www.47news.jp/CN/200807/CN2008070701000524.html 2011年3月6日閲覧。 
  117. ^ 毎日新聞 2008年9月9日
  118. ^ [2]
  119. ^ [3]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

公職
先代:
松原武久
Flag of Nagoya.svg 名古屋市長
2009年 -
次代:
現職
党職
先代:
結成
減税日本代表
初代:2010年 -
次代:
現職