国鉄583系電車
国鉄583系電車 | |
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ファイル:JNR583-aizuliner.jpg | |
基本情報 | |
製造所 | 川崎車両→川崎重工業・日立製作所・日本車輌製造・東急車輛製造・汽車製造・近畿車輛 |
主要諸元 | |
軌間 | 1,067 mm |
電気方式 |
直流1,500 V 交流20,000 V・60Hz(581系) 交流20,000 V・50/60Hz(583系) |
最高運転速度 | 120 km/h |
起動加速度 | 1.3km/h/s(MT比1:1) |
台車 |
DT32系/TR69系 インダイレクトマウント空気バネ台車 |
主電動機 |
直流直巻電動機 MT54形 (120kW / 基) |
駆動方式 | 中空軸平行カルダン駆動方式 |
歯車比 | 22:77 (1:3.50) |
出力 | 120kW |
定格速度 | 72.0km/h(全界磁)・116.0km/h(40%界磁) |
制御装置 |
CS15系制御器 抵抗制御・直並列組合せ・弱め界磁 |
制動装置 |
発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキ 勾配抑速ブレーキ |
保安装置 |
ATS-S(登場時) ATS-SN・ATS-P(JR東日本所属車) ATS-SW・ATS-P(JR西日本所属車) |
備考 |
国鉄583系電車(こくてつ583けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した動力分散方式の寝台電車。交直両用特急形電車。最初に使用された列車にちなんで「月光形電車」の異名を持つ。
概要
登場の背景
寝台設備を持つ動力車は、20世紀初頭のアメリカにおけるインターアーバン(都市間電車)や、1950年代中頃の西ドイツの寝台気動車(VT10.5形)など数例が見られ、営業運転も行われていたが、静粛性の問題や昼夜兼行とする経済的メリットが存在しなかったことから、いずれも少数・短期間にとどまり、本格的な寝台電車は本系列が世界で最初のものである。
本系列の開発の経緯は、以下に示す日本の鉄道の特異性が関係していた。
- 地形が複雑で勾配や曲線の多い日本においては、1960年代初頭より、昼行列車は加・減速性能や上り勾配での速度に優れている電車ないしは気動車による動力分散方式が一般化してきた。一方、夜行列車は一部が動力分散方式に切り替えられたものの、寝台車については静粛性の観点から、従来どおり機関車牽引の客車で運行される動力集中方式が一般的であり、高速化には限界があった[1]。
- 1960年代に入ると好景気による輸送需要増大に伴い、全国的に優等列車の増発が進められた。この過程で、運転本数が多くなった急行・特急列車に対し、運行する車両を留置する車両基地の容量の問題が浮上してきた[2]。
- さらに、必要な車両を新規製造する費用の捻出が問題にもなってきた[3]。
これらの解決策として、昼夜兼行で使用可能な寝台兼用電車を設計することになったものである。
当初は、寝台車の接客設備水準から昼行列車では急行列車で使用する運用が想定されていたが[4]、平均時速が遅い急行列車で使用する場合十分な転換時間が得られないこと、昼行列車使用時の居住性を考慮すると「Bロネ[5]の3段化」が望ましいが大幅な定員減[6]であり収入減となるなどの理由から、特急形電車として設計された[7]。その結果として以下のメリットが発生した。
- 寝台列車としては、当時の日本の在来線では最速の120km/h[8]での走行を可能にした。
- 朝夕のラッシュ時に通勤用車両が出払っていて余裕のある車両基地で寝台設備の解体・組立を行うことにより、新規の地上設備投資を抑えた。
- 昼夜兼行形の車両とすることで、1日により多くの車両運用が可能になり、投資に対する費用対効果を高めた。
- 主に首都圏・近畿圏での早朝到着の列車を電車化することで、ダイヤカット(列車の運転間隔の短縮)に寄与した。
こうして1967年(昭和42年)に電動車が直流・交流60Hz対応の581系電車が登場。翌1968年(昭和43年)には電動車が直流・交流50/60Hz対応となり、これを機にそれまでの581系グループも含めて583系電車となった。
外観
それ以前の国鉄特急形電車が、ボンネット形の先頭形状と低い屋根による速度感の強い外観だったのに対し、本系列は寝台スペースの確保のため、ほぼ車両限界いっぱいまで広げられており車高が高く、側構が垂直(他の特急形電車は側構上半が内傾)の車体を持ち、国鉄の特急形電車としては初めて前面貫通路が設置された。
従来の特急形電車では静粛性から電動発電機と空気圧縮機を客室から遠ざけるため、車両先端のボンネットに搭載していた。だが、本系列では貫通構造にしたため、このレイアウトは取れなくなった。しかし、本系列は寝台列車としても使用するため昼行列車以上の静粛性が求められた結果機器を客室から遠ざけることは必須であるため、先頭車のクハネ581形には電動発電機(MG:容量150kVA)および空気圧縮機 (CP) を搭載する機器室が運転台後位に設けられた。CPは181系や481系のC3000形に対してC2000形(容量2,000L/min)を搭載し、容量の関係で食堂車のサシ581形の床下にも搭載した[9]。なお、機器室スペース確保のためにこの部分は側通路構成を採用した。
運転台の窓周りは、従来の特急型と趣きが変わっている。前窓は151系や481系などの「こだま形」のような曲面ガラスを使わず、0系新幹線と同じように平面ガラスで構成されている。側窓は0系同様に傾斜させることで、屋根部との面変化を少なくしている。ただし、0系は流線型であるが故に、側窓の1枚は正面と側面を繋ぐ形で斜めに配置しているが、581系の側窓は同表面で構成しており、在来線の車両限界の制約から、0系よりも傾斜がきつくなっている[10]。側窓後部の屋根への処理は独特なものとなり、この処理は100系新幹線にも受け継がれた。
正面愛称表示器は、183系以降の貫通型・非貫通型先頭車のそれと比べ横長で、かつ天地の寸法が小さい。また文字のみで列車愛称を表示していた頃は、他系列とは異なり書体は切紙風で、黄色または黄緑色に黒色の細い縁取り付きで描かれていた[11]。
塗色は在来特急車の窓周り赤色(赤2号)に代わって窓周り青色(青15号)とした。この色は、20系などの寝台車に使われているものと同じである。また、新大阪で東海道新幹線に接続するため、0系新幹線と共通するイメージを持たせることも考慮された[10]。地色のクリーム色も、青15号との相性から、在来特急車のクリーム4号からクリーム1号として、落ち着いたイメージを持たせた。塗り分けは「こだま形」のものを踏襲したが、窓周りの青は、寝台車としての性格を強調するため幅広となった[10]。また、運転台前面上部は反射防止のため青15号で塗装された。
客扉は戸袋ができるのを避けるため折戸とし、腐食防止のためステンレス製とした。また、側面出入口付近に正方形(この形状は本系列独自)の自動巻取式側面愛称・行先表示器(20コマ対応)が装備され、新製時より使用された[12]。
上記の点から、本系列が151系電車・20系客車・0系新幹線などの優等列車の要素を受け継ぎ、貫通構造などの新要素を加えて完成したことが分かる。
貫通形デザインと波及
貫通扉のスタイリングについて、開発を担当する車両メーカーの設計陣の他、鉄道車両工業会に当時設けられていた鉄道工業デザイン委員会のメンバーが加わって検討が行われた。その中で、貫通扉と幌を覆う構造、運転台の窓構成、大きな車体断面から先頭部にかけての形の変化などが議論された[10]。
貫通路方式は将来の列車分割・併合を見越して設けたもので、連結器もボンネット形で採用された自動連結器とカバーの構成から密着連結器に変更されている。昭和40年代、特急列車は長距離輸送の主役であり、優等列車の先頭形状には優雅さが求められたため、貫通扉・幌・さん板を隠す、左右2分割式の外扉が設けられた[10]。特急マークは外扉の表面に付けられており、これも外扉同様に左右2分割式となった。
デザインも含めてこれらは後年の国鉄特急形電車に影響を与えている[13]。
しかし、当時の電車特急は長編成での運行が基本であり分割・併合が実施されることはなく、のちに正面デザインは前面貫通型をベースとしつつも貫通扉路を省略した先頭車(クハ481形300番台など)が登場することとなった[14]。なお、本系列は非貫通型先頭車登場前に製造が終了したため、落成した先頭車はすべて貫通型である。
また、腐食や寒冷地での隙間風防止の観点から外扉の溶接を実施した車両が存在し、中にはクハネ581-7(→クハ715-3)のように事故復旧時に非貫通型に改造された車両もあった。
国鉄時代末期からJR化後にかけ特急列車の短編成化と分割・併合運転が増加し、本系列も含め従来は使用することがなかった貫通型先頭車を活用する例がでてきた(詳細は後述)。また681系や285系のように、最初から分割・併合を視野に入れ本系列に類似した外見・構造を持つ貫通型先頭車が登場するようになった。
なお、JR東日本の秋田車両センター配置車(2011年8月20日に仙台車両センターから転属)は一見すると外扉に切れ目が入っており開くように見えるが、修繕に際し完全に貫通路が埋められ非貫通型先頭車になっている。同編成の青森時代は外扉を溶接しただけで貫通路はそのままであったが、外見上はオリジナルに近付けられている。
主要機器
前後して登場した485系グループと同等であり、電動車にはMM'ユニット方式が採用されている。
MT54系モーター(定格出力120kW)を採用し、山岳区間での使用も考慮して、抑速ブレーキを搭載した自動ノッチ戻し機構付きのCS15系制御装置を採用している。
走行部は、交流電化区間では交流を直流に整流して用いる401系・421系電車から一貫した手堅い間接式の機器構成が踏襲されており、M'n車にはモーターなどに直流電源を供給する主変圧器・主整流器などの機器が搭載されている。
集電装置は菱形パンタグラフであるPS16B形をもとに、降雪対策として押上げ力の強化、構造の簡素化を図ったPS16D形を採用した。
台車は車重の増加に伴い、DT32系台車の板厚を増して軸受等を強化した上で枕ばねをベローズ式からダイアフラム式に変更したDT32D形(動力車)・TR69D形(付随車)を採用した。
したがって本系列ともども485系グループとの併結も可能であり、営業運転では分割民営化後に京都総合運転所所属車を充当した「シュプール号」において以下の実績がある。
- 485系側6両編成[15]のクハ481形200番台と本系列8両編成[16]のクハネ581形を向い合わせで連結(10M4T)[17]。もしくは485系側7両編成[18]のクハ481形200番台と本系列7両編成[19]のクハネ581形を向い合わせで連結(8M6T)[20]
- 北陸トンネル通過時の安全対策上から貫通路も使用。
- 本系列10両編成からサロネ581形を抜き485系MM'ユニットを組込んだ11両編成(8M3T)[21]。
どちらも加速力補強という観点から電動車比率が高められた。
動力車を寝台車に用いるという特殊事情から、遮音・防振の対策は非常に徹底されており、その後に登場した寝台客車と比較しても遜色のない水準にある。
車内設備
当初は、B寝台車兼用の普通車(1969年までは2等座席・寝台)モハネ581形・モハネ580形・クハネ581形・サハネ581形と食堂車サシ581形のみが製造された。これは、A寝台車(1969年までは1等寝台)については昼間に使用する際に特急列車用グリーン車(1969年までは1等車)に必要な居住性を確保する方策がなかったためである。食堂車についても車体断面形状・側窓・冷房装置等を他形式と同一とした。
B寝台車の内装については、20系までの寝台客車で標準とされた片側通路式を廃し、座席車としての運用時に4人掛ボックスシートとして使用できる中央通路式の「プルマンスタイル」が採用された。そのため、上段・中段寝台用にプルマン式A寝台車と同様の明かり窓が備えられている。パンタグラフの取付部は、屋根高さの関係から中段・下段の2段とした。この部分は中段寝台の寝台舟および荷物棚の方式が一般部と異なっている。
- なお、構造上の都合により[22]原則として営業列車の走行中における転換作業は行わないこととされたが、約1000kmの長距離を走った「きりしま」や臨時「日本海」等で走行中に転換作業を行った実績がある[23][24]。
寝台幅は従来の52cmから居住性改善のため、上段・中段寝台については70cmとし、下段については座席幅2人分を確保するため1等開放寝台並の106cmとなった[25]。
昼間使用時の4人掛ボックスシートについても、人間工学に基づいて設計された深い背ずりと1,970mmのシートピッチにより、その居住性は客車における一般型1等車(並ロ)に匹敵するものであり[26]、同時期の181系や485系グループなどの回転式クロスシートに対し、決して劣るものでなかった。ただしボックスシートの構造上、リクライニング機能は搭載されていない。
食堂車を除く各車両では寝台使用時を考慮し、車端部にトイレは2基、洗面台は3基設置としたほか、開閉できる窓のついた外開式非常口を備えた乗務員室が設置された。これにより車体外観を含めて本系列の独特のスタイルが形成されている。
窓の日よけは、通常のカーテンや布製ブラインドでは寝台セット時に邪魔になるため、2枚のガラスの間に回転式ブラインド(通称:ベネシャンブラインド)を仕込む方式とした[27][28]。ブラインドの上下は窓上部に設けたハンドルの手動操作による[29][30]。この回転式ブラインドはその形状・色彩から内装だけではなく外見上も良く目立つものとなった。これ以外にも、サシ581形から採用されたFRP製座席や、折りたたみ可能な片持式テーブルなどは、同時期以降における他形式の食堂車に波及した。
冷房装置は、風の吹出方向および車両限界の関係から新設計した小型のAU15形分散式冷房装置を寝台区画ごとに設置し、クハネ581・583形に8基、モハネ580・582形に4基、その他の形式に9基搭載した。ただし、パンタグラフを2基搭載するモハネ580・582形はAU15形だけでは容量が不足するため床置形のAU41形も3基搭載する。
車両形式
581系
1967年・1968年に京阪神地区発着の九州直通特急列車用に製造されたグループで、電動車ユニットが交流60Hz対応。第11回(1968年)鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。
日立製作所・日本車輌製造・川崎車輛[31]・近畿車輛が製造を担当した。
- モハネ581-1 - 12
- Mn:座席定員60人(4人掛ボックス×15)・寝台定員45人(3段×15)
- 主制御器:CS15C形
- 主抵抗器:MR52B形
- モハネ580-1 - 12
- M'n:座席定員56人(4人掛ボックス×14)・寝台定員36人(3段×8・2段×6)
- 主変圧器:TM10形
- 主整流器:RS22A形
- クハネ581-1 - 9
- Tnc1:座席定員44人(4人掛ボックス×11)・寝台定員33人(3段×11)
- サハネ581-1 - 12
- Tn:座席定員60人(4人掛ボックス×15)・寝台定員45人(3段×15)
- サシ581-1 - 5
- Td:食堂40席(4人掛テーブル×10)
- このうち1968年(昭和43年)製造分のモハネ581・580-12・クハネ581-9・サハネ581-11 - 12・サシ581-5は、車内蛍光灯交換時の作業手順統一と屋根上点検時の通路確保の要請から、通風器の配列が冷房機を挟んで交互に配置する千鳥式から片側一列に変更され、空いたもう一列には滑り止めを設置するなどの設計変更が行われた。
583系
1968年(昭和43年)10月の東北本線青森電化ならびに山陽本線・九州地区の増発にあわせたダイヤ改正に際して開発されたグループ。製造は1972年まで前述の4社に加え汽車製造・東急車輛製造も担当した。581系での使用実績の反映も含めて以下の設計変更や改良が実施された。
- 電動車は、主変圧器を485系同様の3電源(直流1,500V/交流50・60Hz20kV)で運行可能なTM14形[32]に、主電動機をMT54形からMT54B形に変更したモハネ583・582形に移行。
- モハネ581形では専務車掌室が後位海側に設置されており、山側のホーム看視や車掌スイッチの取り扱いに不都合が生じていたことから、モハネ580形の後位側車端部に中央の通路を挟んで左右に配置されていた床上冷房装置室(山側)と乗務員室(海側)をモハネ582形では反対に配置して山側ホームの看視と車掌スイッチ操作をこの乗務員室で実施可能に変更。
- モハネ582形のパンタグラフを耐雪強化されたPS16H形に変更。
- 各車の一方の車端部に2カ所設置されているトイレのうち、車体中央寄りの方の出入り口を客室出入り口戸との干渉を避けての移設と向きを反転。
- 寝台の使用時の騒音減少を目的として、各部へのパッキン類の追加や構成部材の材質変更が行われ、さらに組立解体時の仕切り折り畳みや荷棚固定操作が容易となるよう寝台そのものの構造修正を実施。
- 東北地区で使用される青森運転所(現・青森車両センター)配属車は、耐寒耐雪構造などを施工。
- 南福岡電車区配置車では標準化の観点から構造は共通とされたが、これらの装備はいずれも準備工事あるいは未設置とされた。
- モハネ583-1 - 106
- Mn:座席・寝台定員ともモハネ581形に同じ。
- モハネ582-1 - 106
- M'n:座席・寝台定員ともモハネ580形に同じ。
また、増備途中で主要機器の設計変更が行われた。以下の表に示す。
形式 | 車両番号 | 主制御器 | 主抵抗器 | 主整流器 |
モハネ583形 | 1 - 87 | CS15E形 | MR52B形 | |
88 - 106 | CS15F形 | MR52D形 | ||
モハネ582形 | 1 - 90 | RS22A形 | ||
91 - 106 | RS40A形 |
- 備考
- CS15E形:CS15C形の耐雪強化形で応荷重装置を搭載。
- CS15F形:CF15E形を無接点化。
- RS40A形:大容量素子による小型化。
主変圧器の対応周波数に関係しない先頭車他の付随車は、581系から継続となった。
- クハネ581-10 - 41
- サハネ581-13 - 57
- サシ581-6 - 35
また583系登場と同時にサロ581形が、1970年にはクハネ583形が新たに製造された。
- サロ581-1 - 35
- Ts:座席定員48人(4列×12)
581系登場当初用意されなかった1等車については、国鉄部内でも東北線の昼行特急には不可欠[35]と考えられ、583系の開発と並行して座席専用車両のサロ581形が設計・製造された。
- 系列内他形式車両と車体断面を揃えたため、同様に寝台設備をもたないサシ581形ともども天井が高いという特徴のほか、日よけも他形式と同じく回転式ブラインドを採用。
- 車内設備はサロ481形に準じた通常のリクライニングシートであるが、以下の点でサロ481形と異なる。
- トイレは両車端に各1カ所ずつ設置したサロ481とは異なり、2等寝台車に準じて一方の車端に2カ所とし、一方を和式、一方を洋式として設置。
- 洗面台は平面鏡付きで3組設置とした一般車とは異なり、鏡を三面鏡として2組を設置する設計を採用。
当初はA寝台車と1等車との設計も考慮されたが、国鉄職員として両系列の設計に中心として関わった星晃は、後年雑誌のインタビューで「寝台からリクライニング座席への転換方法についてアイデアはまとまった[36]ものの、モックアップを作っていては時間切れになる恐れが出てきたため採用を断念した」と語っている。
- クハネ583-1 - 30
- Tnc3:座席定員52人(4人掛ボックス×13)・寝台定員39人(3段×13)
1968年の3電源方式電動車の583系移行後も制御車はクハネ581形で増備されており、寒冷地である東北地区使用車は、警笛用シャッターや凍結防止用ヒーター回路が追加される等の対策が施工されていた。さらに東北地区では寝台特急の人気により編成を15両化することが検討された。しかし、15両編成にした場合クハネ581形の150kVAMGでは編成全体の電力容量を確保できないことから、1970年以降製造の制御車は通勤形電車の冷房電源用として開発された210kVAMGを搭載する設計変更が行われ、新たに登場したのが本形式である[10]。
資料によってはクハネ581形が581系、クハネ583形が583系の制御車として製造されたように記述されているものがあるが、これは誤りである。
クハネ581形からの変更点は以下の通り。
- 運転台後位の機器室を廃止し、小型・大容量の210kVA・MGは床下搭載とし、CPを助士席下の床上に移設[37]。
- 機器室区画は、座席8名・寝台6名の客室2区画となり定員を増加。
本形式は優先的に青森配置とされたため、同所所属のクハネ581-10 - 17・22 - 26は南福岡に転属した[38]。このため南福岡に新製配置された本形式は、最終製造分に該当する27 - 30の4両のみである[39]。
改造形式・区分番台
- サロネ581形
1985年3月、急行「きたぐに」に本系列を充当することになった際、同列車はA寝台の需要が高いことから[40]、サハネ581形6両をA寝台車化する改造が同年2月から3月にかけて施工された[41]。
- サハネ581-25・48 - 50・55・56 → サロネ581-1 - 6
施工は1・5が広島工場、2 - 4・6が幡生工場(現・下関総合車両所)[41]。改造内容を以下に示す。
- 元々のプルマン式3段寝台を2段寝台化。これにより寝台定員28人(Tns:2段×14)となった。
- 寝台使用時の明かり窓も2段化のため1列分撤去。
- モケットをA寝台用の緑系色に変更(オリジナルは青)。
- 後位側の乗務員室前の1ボックスを喫煙席に変更。
- 座席背もたれの上部に備わる仕切を完全に固定化。
昼間使用時[42]は、普通座席車として使用される。
- サロ581形100番台
1989年(平成元年)にJR西日本が「シュプール号」用として、サロ581形に吹田工場で改造施工した区分番台である。
- サロ581-12・27・34→サロ581-101 - 103
改造内容を以下に示す。
- 車端部の座席を前後3列撤去してサロンとテーブルを設置。
- トイレ・洗面所を撤去して車販準備室とリネン室を新設。
- 座席定員は24人(Ts1:4列×6)に半減。
「シュプール号」のみならず「きたぐに」でも運用されていたが、2010年までに全車廃車・廃区分番台となった。
他系列への改造
事故廃車
1989年(平成元年)2月11日に仙台駅構内を通過中の「ゆうづる1号」が、結線ミスにより発生したポイントの誤動作のため脱線転覆した。この事故によりモハネ583・582-59・モハネ583・582-95・サハネ581-53の5両が、1990年7月23日付けで廃車となっている[43]。
問題点
本系列は、1967年から1972年の間に434両が製造され、輸送需要の激増に大きく貢献した。しかしながら、以下のような問題点が生じてきた。
- 寝台と座席の転換には極めて複雑な工程を要する。
- 登場時点ではそのゆとりを歓迎された昼間の4人掛ボックスシートも、以下のような事由により徐々に敬遠されるようになった。
- 1974年に幅広で二段式B寝台を備えた24系25形が開発されると、以後利用者側では以下のことが問題となった。
- 三段式寝台であることから、特に上・中段寝台の空間の狭さとそこへの出入りの窮屈さ。
- また、運用サイドでは二段式B寝台導入による寝台定員減はそれほど問題とはとならず[44]、むしろ座席・寝台相互の転換時に人的コストが多大に掛かる点といったマイナス面が否応なく意識されるようになった。
- 1975年に山陽新幹線、1982年に東北新幹線開業によって並走する在来線昼行特急が廃止されると寝台兼用電車は運用上のメリットを失い、夜行列車、殊に長距離を運用する車両としてはむしろ運用上の利便性を欠くようになった。
- 東北本線での運用は厳寒地域を最高120km/hで昼夜運行しており、1日あたり1,500km近い距離を走る極めて過酷な条件下にあった。このため、車両へのダメージは大きく、老朽化を早める一因となった。
運用の変遷
本系列は青森から西鹿児島(現・鹿児島中央)までを包含する広範囲の地域において、昼夜兼用で広汎に使用された。
国鉄時代
国鉄時代は、南福岡電車区(現・南福岡車両区)→向日町運転所・青森運転所に配置された。本項では配置車両区別に解説するものとする。
南福岡電車区(門ミフ)
1967年(昭和42年)に581系44両(12両編成3本・予備車8両)が新製配置され、10月のダイヤ改正より以下の列車で運用が開始された。
運用は以下の形で設定された。
- 博多(上り「月光」)新大阪(下り「みどり」)大分(上り「みどり」)新大阪(下り「月光」)博多
本来ならば夜行2編成・昼行2編成の計4編成必要なところ本系列では3編成で済み、昼夜兼行とする経済的メリットを証明した。
- 関西側における昼夜設備の転換作業は野洲電車区(現・京都総合運転所野洲派出所)が担当。
翌1968年(昭和43年)3月には予備車増強を名目に6両の追加製造が行われ配置50両(12両編成4本・予備車2両)となっている。
大量増備が行われ141両(12両編成11本・予備車9両[45])配置となった。
- 3号車にサロ581形が組み込まれた。
運用面では「みどり」が485系化されたために日豊本線運用は消滅。以下の列車に充当された。
- 夜行
- 昼行
- 「つばめ」
- 名古屋 - 熊本
- 「はと」2往復(うち1往復は季節列車)
- 新大阪 - 博多
- 「つばめ」
- 1970年3月1日ダイヤ改正
大阪府吹田市で開催された日本万国博覧会に対応するため、配置168両(12両編成14本)となる。
- この増備でクハネ581形の製造が終了。
充当列車は「はと」の季節列車が定期列車化、新たに「明星」1往復が追加されたが、検修能力の関係から「明星」追加分は下り木曜日・上り水曜日運休という変則運用が採られた。
- 夜行
- 「月光」2往復(うち1往復は季節列車)
- 新大阪 - 博多
- 「明星」2往復
- 新大阪 - 熊本
- 「金星」
- 名古屋 - 博多
- 「月光」2往復(うち1往復は季節列車)
- 昼行
- 「つばめ」
- 名古屋 - 熊本
- 「はと」2往復
- 新大阪 - 博多
- 「つばめ」
- 1970年10月1日ダイヤ改正
鹿児島本線西鹿児島(現・鹿児島中央)電化により、新たに「きりしま」のほかに九州島内の「有明」、本州内の「しおじ」にも充当されることになった。配置は232両(12両編成19本・予備車4両)。
- 青森運転所にクハネ583形を優先配置したために当区へは捻出されたクハネ581形が転属する形となった[46]。
- 夜行
- 「月光」2往復(うち1往復は季節列車)
- 新大阪 - 博多
- 「明星」2往復
- 新大阪 - 熊本
- 「きりしま」
- 京都 - 西鹿児島
- 「金星」
- 名古屋 - 博多
- 「月光」2往復(うち1往復は季節列車)
- 昼行
翌1971年には1編成分の製造が行われたために243両(12両編成20本・予備車3両)。
- 10月1日から増備編成を投入して毎日運転の季節列車扱いで「しおじ」1往復に充当。
- 夜行
- 「月光」2往復(うち博多発着の1往復は季節列車)
- 岡山 - 博多・西鹿児島
- 「明星」4往復
- 京都・新大阪 - 博多・熊本
- 「きりしま」
- 京都 - 西鹿児島
- 「金星」
- 名古屋 - 博多
- 「月光」2往復(うち博多発着の1往復は季節列車)
- 昼行
- 「つばめ」4往復
- 岡山 - 熊本
- 「しおじ」
- 新大阪 - 下関
- 「有明」3往復
- 門司港・博多 - 西鹿児島
- 「しらさぎ」
- 名古屋 - 富山
- 「つばめ」4往復
新たに「しらさぎ」で北陸本線での運用が開始されたが、冬期は降雪区間を走行することから一部車両に耐寒耐雪工事を行なって限定分離運用とされた[47]。
日本車輌製造と川崎重工業で12両編成1本ずつ計2本新造され配置は267両(12両編成22本・予備車3両)。
- 本系列最終製造分で、制御車も青森のクハネ581形置換えが終了したためにクハネ583形が南福岡区に初めて配置された。
以後のダイヤ改正では、運用に以下の小変更が発生している。
- 1973年10月1日ダイヤ改正
- 「月光」の季節列車を定期列車化。
- 「きりしま」を下り京都発、上り新大阪着に変更。
- 「つばめ」充当を1往復減の3往復とし、うち1往復を西鹿児島まで延長。
- 「しおじ」充当を1往復増の2往復とする。
- 1974年4月25日ダイヤ改正
- 「明星」1往復を季節列車に格下げ。
1975年(昭和50年)3月10日の山陽新幹線博多開業に伴うダイヤ改正により、山陽本線から九州各線へ連絡する特急列車のうち、昼行列車が全廃された。南福岡区所属の本系列はすべて転出となった。
こうして、本系列誕生以来の車両基地であった南福岡電車区の配置は0となった。
- 南福岡電車区配置車編成
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向日町運転所(大ムコ)
1975年(昭和50年)3月10日のダイヤ改正で南福岡電車区から254両が転入し本系列の車両基地となった。当初は次の列車に充当された。
- 夜行
- 「明星」3往復
- 京都・新大阪 - 博多・西鹿児島
- 「なは」
- 新大阪 - 西鹿児島
- 「彗星」2往復
- 新大阪 - 大分・宮崎
- 「金星」
- 名古屋 - 博多
- 「明星」3往復
- 昼行
- 「有明」3往復
- 門司港・小倉・博多 - 西鹿児島
- 「しらさぎ」
- 名古屋 - 富山
- 「有明」3往復
- 「彗星」運用で6年半ぶりに日豊本線運用が再開。
- 運用に余裕が発生したために臨時「雷鳥」にも投入。
- 食堂車は全列車営業休止。
- 「明星」1往復は寝台組立要員不足で一部座席車のままで運転。
- 利用率は芳しくなく1980年10月の改正でこの運用方法は廃止。
- 夜行
- 「明星」2往復
- 新大阪 - 博多・西鹿児島
- 「なは」
- 京都 - 西鹿児島
- 「彗星」
- 新大阪 - 宮崎
- 「金星」
- 名古屋 - 博多
- 「明星」2往復
- 昼行
- 九州方夜行運用が2往復減。
- 「しらさぎ」運用の終了。
- 北陸本線冬期降雪による遅延のため、共通運用となる「金星」への転換作業時間が確保できずに度々遅れや運休が発生し問題化[49]。
- 「雷鳥」4往復に投入され、サシ581形の営業再開。
1979年10月1日には検収設備の関係から2・3号車(サハネ・サロ)と4・5号車(モハネユニット)を入替える編成変更を行った。
- 1980年10月1日ダイヤ改正
国鉄再建計画の一環として、オイルショック以降の鉄道輸送退潮に伴い、夜行列車の供給自体を調整した。この結果、在来の20系を置換えた新型客車のみでの運行で輸送需要がまかなえるようになり、居住性・メンテナンスなどに難のある寝台電車の必要性が薄れており、向日町配置車は夜行定期運用が減少した。
- 夜行
- 「明星」
- 新大阪 - 西鹿児島
- 「なは」
- 新大阪 - 西鹿児島
- 「彗星」
- 新大阪 - 宮崎
- 「金星」
- 名古屋 - 博多
- 「明星」
- 昼行
- 「有明」2往復
- 小倉・博多 - 西鹿児島
- 「にちりん」2往復
- 小倉・博多 - 宮崎
- 「雷鳥」4往復
- 大阪 - 金沢・富山
- 「有明」2往復
- 夜行
- 「なは」
- 新大阪 - 西鹿児島
- 「彗星」
- 新大阪 - 宮崎
- 「なは」
- 昼行
- 「有明」
- 博多 - 西鹿児島
- 「にちりん」2往復
- 小倉・博多 - 宮崎
- 「雷鳥」2往復
- 大阪 - 金沢
- 「有明」
夜行では「金星」「明星」からの撤退、「雷鳥」も2往復になるなど大幅な運用減により、12両編成5本と19両の計79両が余剰となりモハネ581・580形など初期製造の車両が定期運用から外れた。
- 余剰車のうち48両が715系0番台に改造された(詳細は次項で記述)。
このため編成組成も大幅に変更となり、従来の12両編成7本・10両編成9本・予備車のクハネ581形1両の計175両配置となった。
北陸本線系統の昼行急行列車は全廃となったが、夜行「立山」1往復は季節列車として残存。試験的に余剰車を投入し、本系列の格下げ運用が開始された。
山陽本線 - 九州地区での運用が終了となり、定期運用は「雷鳥」2往復と季節列車の急行「立山」のみとなった。
余剰休車が121両まで増加し、稼動車として残存する車両は85両(12両編成7本・予備車1両)まで減少した。
- 1983年以降、これらの余剰車を中心に一部が419・715系近郊形電車に改造された[51]。
- 改造までは長期処分保留車として通常の車両基地に収容されたが、あまりにも大量だったために収容し切れない一部車両は電動車ユニットを中心に遊休化しつつあった車両基地近傍の貨物側線に留置された[52]。
「雷鳥」「立山」の定期運用が終了し、新たに次の定期運用に投入された。
- 急行「きたぐに」
- 大阪 - 新潟
「立山」の大阪 - 富山間では運転時間が短く、12両中3両を寝台としても利用率は低かったため廃止。しかし、余剰車両の活用には有効であった結果から「きたぐに」に充当となり、編成もサロネ581形を組み込んだ12両編成となった。
- 波動輸送対応を含め上記編成6本を組成し稼動車は72両。
- サハネ・サシ581形が編成から外され、モハネユニットを1組追加しているために従来と同じ12両編成であるが、6M6Tから8M4Tに変更。このため青森からモハネユニット3組(モハネ583・582-1 - 3)が転入しており、需給調整の点からサロ581-24が転出している。
- 余剰のサシ581-5・19が2月28日付けで廃車となった。これは本系列初の廃車である。
この改正以後は「きたぐに」の新潟での間合い運用となる急行「庄内」や臨時「日本海」・「雷鳥」などの波動運用が増加した。
新潟寄のモハネユニット1組が減車され10両編成6本の計60両配置。419系・715系改造車両以外の余剰車はすべて廃車となった。
- 向日町運転所配置車編成
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青森運転所(盛アオ)
1968年の東北本線全線電化完成により青森運転所に84両(13両編成6本・予備車8両)が新製配置された。編成あたりの出力は勾配区間を考慮して西日本地区の6M6Tから8M5Tに強化された。 10月1日のダイヤ改正を前に6月から配置が始まり、9月9日からは「はつかり」に使用されていたキハ81系の改正に伴う転配と改造日程などの関係により、常磐線経由のまま前倒しで置き換えられた[53]。そして、ダイヤ改正からは以下の列車に充当された。
- 夜行
- 「はくつる」
- 上野 - 青森(東北本線経由)
- 「ゆうづる」
- 上野 - 青森(常磐線経由)
- 「はくつる」
- 昼行
- 「はつかり」2往復
- 上野 - 青森(東北本線経由)
- 「はつかり」2往復
- 1970年10月1日ダイヤ改正
配置が132両(13両編成10本・予備車2両)となり増発が行われた。
- 夜行
- 「はくつる」
- 上野 - 青森(東北本線経由)
- 「ゆうづる」2往復
- 上野 - 青森(常磐線経由)
- 「はくつる」
- 昼行
- 「はつかり」3往復
- 上野 - 青森(東北本線経由)
- 「はつかり」3往復
この増備車から、制御車が将来の15両編成化を見越したクハネ583形となり、従来車も差し換えの対象となったためにクハネ581形は南福岡区に転属となった。
- 早期落成車はこの年の8月に仙台 - 青森の臨時特急「とうほく」や常磐線経由で運転された「はつかり51号[54]」に充当された。
- ユニークな臨時列車への充当では、1972年に北海道札幌市で開催された札幌オリンピックの輸送対象となった「オリンピア1号」がある。青函連絡船を挟んで連絡する函館 - 札幌のキハ82系による「オリンピア2号」と姉妹列車であったが、運転時間の関係で下りは夜行寝台、上りは昼行座席列車として運転された。
- 1972年3月15日ダイヤ改正
配置が167両(13両編成12本・予備車11両)となり、大幅に運用増となった。
- 夜行
- 「はくつる」
- 上野 - 青森(東北本線経由)
- 「ゆうづる」3往復
- 上野 - 青森(常磐線経由)
- 「はくつる」
- 昼行
- 「はつかり」3往復
- 東京・上野 - 青森(東北本線経由)
- 「みちのく」
- 上野 - 青森(常磐線経由)
- 「ひばり」
- 上野 - 仙台(東北本線経由)
- 「はつかり」3往復
「みちのく」は「常磐はつかり」を定期化する形で「はつかり」の補完列車的存在であった。また、上野口の間合い運用で「ひばり」1往復にも充当。「はつかり」は1往復が東京駅発着となったが、翌1973年3月31日をもって東海道新幹線ホーム増設工事のため、再び上野発着に戻されている。
- 1975年3月10日ダイヤ改正
南福岡区より13両編成1本が転入[55]し総配置が180両となったが、予備車増強用のため定期運用に変化はない。寝台組立要員の不足から「ゆうづる」1往復が全車指定席の座席列車での運転に変更となったが、翌1976年の3月に再び寝台列車に戻された。
- 1978年10月2日ダイヤ改正
- 夜行
- 「はくつる」
- 上野 - 青森(東北本線経由)
- 「ゆうづる」3往復
- 上野 - 青森(常磐線経由)
- 「はくつる」
- 昼行
- 「はつかり」3往復
- 上野 - 青森(東北本線経由)
- 「みちのく」
- 上野 - 青森(常磐線経由)
- 「はつかり」3往復
上野口間合い運用の「ひばり」が485系に移管され消滅。また、翌1979年(昭和54年)10月1日のダイヤ改正でグリーン車の連結位置を183・189・485系と統一するために6号車に変更となった。
- 1980年10月1日ダイヤ改正
夜行列車の需給見直しが行われ「ゆうづる」1往復が季節列車に格下げ。
- 夜行
- 「はくつる」
- 上野 - 青森(東北本線経由)
- 「ゆうづる」3往復(うち1往復は季節列車)
- 上野 - 青森(常磐線経由)
- 「はくつる」
- 昼行
- 「はつかり」3往復
- 上野 - 青森(東北本線経由)
- 「みちのく」
- 上野 - 青森(常磐線経由)
- 「はつかり」3往復
- 1982年11月15日ダイヤ改正
東北・上越新幹線開業により、東北本線の昼行特急列車は軒並み廃止となり、「はつかり」は盛岡 - 青森の新幹線連絡列車となった。
- 夜行
- 「はくつる」2往復
- 上野 - 青森(東北本線経由)
- 「ゆうづる」3往復(うち1往復は季節列車)
- 上野 - 青森(常磐線経由)
- 「はくつる」2往復
- 昼行
- 「はつかり」2往復
- 盛岡 - 青森
- 「はつかり」2往復
- 1985年3月14日ダイヤ改正
- 夜行
- 「はくつる」2往復(うち季節列車1往復)
- 上野 - 青森(東北本線経由)
- 「ゆうづる」
- 上野 - 青森(常磐線経由)
- 「はくつる」2往復(うち季節列車1往復)
- 昼行
- 「はつかり」5往復
- 盛岡 - 青森
- 「はつかり」5往復
この改正では、次の車両移動が発生した。
- 向日町所との間でモハネユニット3組転出とサロ1両転入の車両交換を行った。
- 編成から外されたサシ581- 6・8が2次利用目的のために仙台運転所に転属し同年10月までに廃車なったが、他の12両は余剰休車となった。
- サハネ581-51が盛岡工場でクハ418-1に改造され、金沢運転所(現・金沢総合車両所)に転出。
この結果、青森運転所の583系は配置174両・稼動車160両(12両編成13本・予備車4両)まで減少した。
改正直前に485系転配措置の関係から「鳥海」にも一時的に投入されたほか、同年茨城県で開催された国際科学技術博覧会(通称:つくば博・科学万博)の臨時輸送に投入され、臨時快速「エキスポライナー」や列車ホテルとした「エキスポドリーム」に充当された。
- 1986年11月1日ダイヤ改正
定期運用列車に関しては変更はなかったものの基本編成が9両編成となり、多客期には青森方にモハネユニット+サハネの3両を組み込み対応する組成に変更となった。
分割民営化直前には北海道承継用サハネ581形7両が札幌運転所に転属したほか、サシ581形全車と状態の悪い余剰車12両が廃車となった。この結果、配置両数が141両まで減少した。
- 青森運転所配置車編成
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分割民営化後
1987年の国鉄分割民営化では、以下の旅客3社に承継された。
- 北海道旅客鉄道(JR北海道):7両
- 東日本旅客鉄道(JR東日本):141両
- 2次利用を前提としない営業用車としてのサハネ581形は残存する5両全車承継。
- 西日本旅客鉄道(JR西日本):60両
- クハネ581形・サロネ581形は全車承継。
サシ581形はJR移行直前までに全車廃車となったほか、サロ581形も35両中20両が承継されたのみである
JR北海道
JR北海道ではサハネ581形7両を承継したが、経年による痛みや改造計画自体の見直しから苗穂駅周辺で留置されたままで営業運転に就くことなく、1990年(平成2年)に全車廃車された。なお、台車のみがクリスタルエクスプレス トマム & サホロのキサロハ182-5101に流用された。
JR東日本
国鉄時代から引き続き青森運転所に所属し、夜行では「はくつる」「ゆうづる」、昼行では「はつかり」に充当された。その後の改正で若干の変化が発生した。
東北新幹線八戸開業(2002年)まで
- 1988年3月13日ダイヤ改正
- 青函トンネル開通によるダイヤ改正で「はつかり」の一部は函館駅まで延長されたが、これには485系のATC-L搭載車が充当され、本系列は従来からの青森までの列車のみに充当された。
- このほか、間合い運用で津軽線青森駅 - 蟹田駅間の普通列車に充当された。これは、2011年まで本系列を使用した唯一の定期普通列車運用[56]であった。また、ダイヤ改正後は臨時列車として「あけぼの」にも投入された。
- 1990年3月10日ダイヤ改正
- 津軽線での運用が終了。なお、同年8月31日からは新たに急行「津軽」に充当された。
- 1990年9月1日より山形新幹線の第一期工事が始まったことで仙山線経由に変更され、それに伴う電気機関車付替えの省力化が目的である[57]。
- 1992年7月 - 1993年9月の間は485系に車種変更されたものの1993年12月1日の定期運転終了まで運用された。
- 1993年12月1日ダイヤ改正
- 前述の「津軽」のほか、長年充当されていた「ゆうづる」「はつかり」の定期運用から離脱。一方で、1988年以降1往復のみ充当されていた「はくつる」は2往復となり、東日本最後の本系列定期運用となった。
- 翌1994年12月3日をもって1往復減、さらに24系客車へ変更となり青森所属車による定期列車運用は消滅した。
- 残存車両のうち9両編成×3本について、1992 - 1993年度に下記更新工事を受け波動用車両として臨時列車や団体列車に充当された。
- ドアエンジンを交換。
- 客室窓の2重窓構造を1枚窓とし、ブラインド方式からプリーツ式カーテンに交換。
- 洗面所は従来の3箇所から2箇所としスペースを拡大。湯水混合栓・自動センサー付き蛇口を取付けたユニット洗面台とし、照明器具等も交換。
- サロ581形は以下のリフレッシュ工事を施工。
- 座席を無段階リクライニング機構内蔵のバケットタイプシートに交換。
- 天井を吊り構造とし、間接照明を採用。
- 荷物棚に読書灯を設置。
1995年以降は以下の理由で急速に廃車が進行した。
- 車両そのものの老朽化。
- E751系新製により臨時「はつかり」での運用削減。
2002年の東北新幹線八戸駅開業時点では9両編成2本と増結用中間車6両の計24両のみとなったが、後述する15両が転出したほか残存したモハネ583・582-83・94・98・サハネ581-46・52・サロ581-32の9両も翌2003年に廃車となり、青森運転所は1968年以来35年にわたる本系列の車両基地としての歴史を閉じた。
東北新幹線八戸開業後
定期運用はないもののATS-Pが搭載されており首都圏各線への乗入れが可能なことや波動運用では広域での運行かつ高稼働率が期待できることから、秋田支社・仙台支社の要望もあり同年度中に以下の転配が行われた。
- クハネ583-5・20・モハネ583・582-6・12・79・サロ581-33の9両は南秋田運転所(現・秋田車両センター)に転出。
- クハネ583-6・17・モハネ583・582-100・106の6両は仙台電車区(現・仙台車両センター)に貸出扱いとし、書類上は2003年2月23日に一旦青森運転所へ返却。翌24日付けで仙台電車区に転出。
仙台所属車はN-1+N-2編成となった。正式転入後には郡山工場(現・郡山総合車両センター)で徹底的な修繕工事が施工され、国鉄時代の状態が再現された。以後の検査も引き続き郡山総合車両センターが担当となったため床下機器・台車はグレーに塗装される。また2007年には首都圏でのデジタル列車無線整備にあわせてデジタル列車無線車上装置が取付けられた。
秋田所属車は、転入当初は保留車扱いながら波動用車として運用される珍しい形態が採られた[58]。また冬期の大雪や塩害など厳しい気候条件にある日本海側の奥羽本線・羽越本線での運用から、外観は雨樋の歪みをはじめ補修跡や所々に錆が目立ち、前灯のレンズ部分が黒ずむなど痛んだ状態となった。そのため、サロ581-33[59]・モハネ583・582-79は廃車。残存した6両は2006年4月より秋田総合車両センターに入場し、1年かけて仙台所属車と同様に検査と車体全体の再塗装を含めた徹底的な修繕を行い2007年4月16日に出場し、同月20日から「わくわくドリーム号」で運用を再開した。
特急「かもしか」に投入されることもあったほか、当初よりすべて国鉄特急色のため2001年に運転された「リバイバル月光」(新大阪駅 - 下関駅間)・2004年に運転された「リバイバルつばめ」(品川駅 - 名古屋駅間)などJR他社に貸出されるケースもある。
2011年6月、東武鉄道直通列車に使用されてきた小山車両センターの485系6両編成が253系1000番台の落成・運用開始により用途廃止となったため仙台車両センターへ転属することとなった。これにより仙台所属の波動用485系は6両編成2本となることから、老朽化の進行していた秋田所属車を比較的車齢の若い仙台所属車で置換えることとし、8月20日付で転配が行われた。
- 廃車となる秋田所属車は同年3月25日の甲子園臨時「秋田県立大館鳳鳴高等学校応援列車」を最後に運用離脱[60][61]。そして同年9月20日 - 21日にかけて長野総合車両センターへ回送され[62]、翌9月22日付けで廃車となった[63][64]。
これによりJR東日本配置車は6両編成1本のみである。
秋田車両センター(秋アキ)
上述のように仙台車両センターから2011年8月20日付けで転入してきた編成[64]である。
- 運用はこれまでの編成と同様、主に秋田地区発着の臨時列車や団体列車「わくわくドリーム号」に投入される。
- 転属後に愛称表示機・行先表示機・第2パンタグラフの交換(PS16H → PS16H改)が施工された。これらは旧所属編成からの廃車発生品である[64]。
- JR東日本所属583系編成
← 東京 青森 →
| ||||||
所属 | クハネ583 | モハネ582 | モハネ583 | モハネ582 | モハネ583 | クハネ583 |
秋田 | 8 | 106 | 100 | 17 |
JR西日本
分割民営化時には10両編成(B編成)6本60両が承継され、引き続き向日町運転所(現・京都総合運転所)に配置された。
← 大阪 新潟 →
| ||||||||||
編成番号 | クハネ581 | モハネ582 | モハネ583 | モハネ582 | モハネ583 | サロ581 | サロネ581 | モハネ582 | モハネ583 | クハネ581 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
B01 | 24 | 71 | 18 | 27 | 2 | 85 | 25 | |||
B02 | 28 | 74 | 73 | 34 | 6 | 78 | 35 | |||
B03 | 30 | 50 | 53 | 12 | 3 | 45 | 29 | |||
B04 | 22 | 75 | 68 | 29 | 4 | 87 | 37 | |||
B05 | 3-28 | 89 | 66 | 16 | 5 | 102 | 33 | |||
B06 | 36 | 88 | 70 | 25 | 1 | 101 | 3-27 |
- 備考
- 3- は、クハネ583形
京都総合運転所(京キト)
「雷鳥」をはじめかつては「シュプール」・「シャレー軽井沢」・「東北夏祭り」・「あおもり」などの臨時列車のほか、寝台設備を活かして「ナインドリーム甲子園[65]」・「エキスポトレインわしゅう」などのいわゆる列車ホテル運用にも投入された。2012年3月のダイヤ改正までは定期列車の急行「きたぐに」に投入されたが、ダイヤ改正後は臨時列車のみとなり定期の583系運用は消滅している。その他金光教参拝臨時列車(通称『金光臨』)や奥羽・羽越沿線から京阪神への修学旅行用臨時列車などにも充当されることがあった。
「シュプール」の廃止ならびに交換部品確保の点から2007年にB01編成が、2010年にB02・B03編成が廃車され3編成30両の配置となったが、その際に車両組み換えが行われ、先頭車両はクハネ581形に統一された。これまでに以下に示す改造が施工された。
1989年にB01 - B03編成へ施工。
- サロ581形は100番台に改造(施工内容は前述)。
- 一部のモハネ583形・582形の乗務員室を撤去し、スキー板荷物置場・更衣室を新設(ATS-P装備のB04編成にも「シュプール野沢・苗場」に充当される関係から追加改造)。
- 洗面所は従来の3箇所を2箇所としスペースを拡大。
- 大理石風カウンター・温度調節機能付き自動水栓とした他に通路との仕切りカーテンを設置。
- 客室化粧板を従来のクリーム9号からやや明るい柄に変更。
- 寝台灯を常夜灯付き9w蛍光灯に変更。
- 延命N40工事
1991年から施工。
- 塗装を淡いブルーをベースに紺と緑の帯をまとうデザインに変更。
- 1997年(平成9年)頃からはグレーを基調とした塗装に再変更。
- 腐食した外板の取替。
- 乗務員室の外開式非常口ならびに窓の埋込み。
- 屋根の塗り塗装化。
- 床下配管の再整備。
- 座席使用時に乗客が勝手に寝台を組立てしまうことを防止するロック装置を一部車両に取付。
- 座席モケットの張替ならびにデザインの変更。
- ブラインドのカーテン化。
- トイレ・洗面所の床下地SUS化ならびに壁面にタイル調の壁材を貼付。
- B04 - B06編成の洗面所はシュプール編成に合わせた構造に変更。
- B02・B03編成の1 - 3・8 - 10号車は臨時夜行急行「シャーレ軽井沢」寝台使用時2段使用が可能な仕様に改造。
また各形式ごとに施工された改造を以下に示す。
- モハ582形
- パンタグラフをPS21形に交換。
- サロ581形
- クハネ581形
- 京都総合運転所所属583系編成表
← 大阪 新潟 →
| ||||||||||
編成番号 | クハネ581 | モハネ582 | モハネ583 | モハネ582 | モハネ583 | サロ581 | サロネ581 | モハネ582 | モハネ583 | クハネ581 |
B04 | 30 | 75 | 68 | 29 | 4 | 87 | 29 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
B05 | 28 | 89 | 66 | 16 | 5 | 45 | 33 | |||
B06 | 36 | 70 | 88 | 25 | 1 | 53 | 35 |
使用列車
以下は2012年3月17日改正までの定期列車での使用例である。一部列車の愛称は2012年現在でも存在するが、運行経路は本系列充当時と異なる。
中部・関西 - 中国・九州方面直通列車
昼行列車は1975年(昭和50年)の山陽新幹線博多開業時まで、夜行列車は1984年(昭和59年)2月までに廃止もしくは運用から離脱した。山陽本線優等列車沿革も参照。
夜行
昼行
- 「みどり」
- 「つばめ」
- 「はと」
- 「しおじ」
九州内昼行列車
いずれも1984年(昭和59年)2月に運用から離脱し485系に統一。
北陸本線運行列車
- 「しらさぎ」
- 「金星」の間合い運用[71]。南福岡所属時より充当。
- 「雷鳥」
- 向日町転属後充当。JR化以降も季節・臨時列車として運転されていた。
- 臨時急行「シュプール」
- 向日町車の主要運行の一つ。485系との併結も頻繁に見られた。
- 急行「きたぐに」
- 定期列車としては最後の運用。2012年3月のダイヤ改正以降は臨時列車のみ。
東北本線・常磐線運行列車
東北本線優等列車沿革も参照。 特急
急行
- 「津軽」
快速
普通
- 津軽線・青森 - 蟹田間
保存車
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静態保存車
なお保存車ではないが、片町線(学研都市線)同志社前駅では駅の開業当初から本系列の廃車両を2次利用した喫茶店(後に休憩室に改造)が設置されたが、2005年(平成17年)の駅舎全面改修工事の実施により撤去された。
民間譲渡車
国鉄末期に余剰車両が大量に発生し、民間・個人などに譲渡された車両も多く、飲食店などの店舗に転用判明している車両と設置先を以下に示す。
- サロ581-20・サシ581-17
- 大阪府貝塚市
- サロ581-26
- 京都府京田辺市
- サシ581-3・15
- 兵庫県神戸市垂水区
- サシ581-6・8
- 宮城県仙台市青葉区
- サシ581-10・30
- 大阪府大阪市住之江区
- サシ581-24
- 愛媛県松山市
- サシ581-25
- 兵庫県加古川市
- サシ581-32
- 千葉県市原市
これらの車両も譲渡から20年以上を経過しており、2008年(平成20年)時点で現存するものは数箇所のみで、保存状態が良いものはほぼ皆無と見られている。
JR化後も民間譲渡車両は発生しており、JR北海道へ承継された7両中5両が1990年(平成2年)の廃車後に道内の民間に転用されている。
- サハネ581-19
- 中川郡美深町の旧国鉄美幸線仁宇布駅跡地にあるトロッコ王国美深の宿泊場所として使用。
- サハネ581-14・36
- 勇払郡むかわ町字汐見にあるドライブインに転用され、サロ481-41と共にこの場所に移設された。閉店後は現場に放置され、横転するなどして状態も非常に悪く、2005年頃に解体された。
- サハネ581-15・18
- 登別市にあるゴルフ練習場売店に転用された。
また1989年(平成元年)11月に発生した仙台駅構内脱線転覆事故の被災車両が、廃車後に譲渡されたケースもある。
- モハネ583・582-95
- 翌1990年(平成2年)キハ58 92・キユニ28 20・サシ481-27・サロ455-31と共に宮城県大崎市の「たかともワンダーファーム」が購入し、館内施設として使用されていた。しかし、2008年(平成20年)9月に車体腐食のため解体された。
脚注・出典
- ^ 日本の鉄道は、幹線でも軌道が弱い区間やカーブが少なくなく、機関車牽引による高速運転は難しかった。そこで速度向上を図れる電車方式の方が有利だった。
- ^ 車両の保守や留置を行うための検修設備や留置線が不足しており、できるだけ無駄な時間を省いて、回転率を上げるほうがよかった。
- ^ 昼行用の電車と夜行用の客車を両方保有することは、製造コストやメンテナンスコストの点からも不利で、共通化が可能なら進める方が良かった。
- ^ このため、当初の設計案ではナハネ10形を基本とし、昼行列車運用を考慮して座席に肘掛けを設けるなどの改良を施すという方向で検討されていた。
- ^ プルマン式開放形1等寝台(現・開放形A寝台)を指す。当時の1等寝台は3等級時代の流れからA・B・Cの3クラスに区分されており、プルマン式開放形は1等寝台Bクラスに該当していたため「Bロネ」と通称されていた。
- ^ 設計検討時の定員は45名。当時の特急用寝台車ナハネ20の定員は54名。
- ^ 2等寝台を基本にしたものと、中段の収納方式が異なる2種類のプルマン式開放形1等寝台を3段化した、計3種類のモックアップにより比較検討が行われた。
- ^ 1968年10月1日ダイヤ改正以前は110km/h。
- ^ そのため、昼夜ともに運用列車での食堂営業が休止されてからも、1985年(昭和60年)までサシ581形を編成中に連ねた形で運転せざるを得なかった。
- ^ a b c d e f 『鉄道ファン』2003年12月号 No.512「特集:月光形 その顔の世界」
- ^ 原則として昼行列車は黄緑色、夜行列車は黄色の文字で愛称名を表示していた。ローマ字表記は昼行・夜行ともに赤文字である。
- ^ 自動巻取式行先表示器の採用は本系列が初めてではないが、実際に使用を開始したのは本系列が初めてである。
- ^ 183系と381系は当初より、また485・489系では1972年(昭和47年)度のマイナーチェンジ形(クハ481形200番台・クハ489形200・600番台)より本系列をベースにした貫通型先頭車が登場した。
- ^ この非貫通型先頭車のデザインはアレンジを加え、781系・キハ183系さらには事業用車(443系・193系など)にまで波及した。
- ^ 9両からMM'ユニット+サロ481形を抜いた編成。
- ^ 10両からサロネ・サロ581形を抜いた編成。
- ^ 1993年度 - 1996年度に運転
- ^ 9両からMM'ユニットを抜いた編成。
- ^ 10両からサロネ581とMnM'nユニットを抜いた編成。
- ^ 1997年度に運転
- ^ 1999年度 - 2003年度に運転
- ^ 583系寝台電車座席<>寝台転換作業(団体列車「犬吠号」)_HD - YouTube
- ^ 大阪発の臨時「日本海」では酒田付近で寝台から座席に組替えるために係員が乗車し乗客の目の前で作業を行ったが、慣れない作業ということもあり、非常に効率が悪く予定していた秋田到着までに全座席の転換ができないケースも多発した。
- ^ 本系列を充当する定期夜行列車については、22時頃出発して翌朝8時頃到着する列車、やむを得ず薄暮出発とする場合には早朝に終着駅に到着する列車、反対に朝遅く終着となる場合には深夜に出発する列車に優先的にな充当を行っていた。愛称を同じくする姉妹列車では、走行中の寝台セットまたは解体が必要な列車には、20系などの客車を使用していた。
- ^ このため、客車2等寝台とは料金に格差が付けられ(設定当初の料金は電車2等寝台上中段1100円、下段1300円。客車2等寝台上段800円、中段900円、下段1000円)、その引き換えの形で2等寝台としては初めて浴衣がサービスされることとなった。ただし提供されるリネンは中上段と同一の70cm幅のものである。
- ^ ちなみに80系の1等車(並ロ)のボックスシートのシートピッチは1,910mmであり、単純に数値だけ見れば581・583系普通席はこれを凌いでいる。
- ^ 食堂車での採用は1966年・サシ181形100番台→1967年・キシ80 37→581系の順である。
- ^ 後年一般的なカーテンに交換された車両も存在する。
- ^ サロ581形のみは、旅客が座ったままで操作できるように、ハンドルが窓下に移されている。
- ^ 他車とのイメージ統一およびカーテンが食卓に支障するのを防ぐため、食堂車のサシ581形も回転式ブラインドとしている。
- ^ 1969年に親会社の川崎重工業へ合併、2001年に社内カンパニー化され川崎重工業車両カンパニーとなった。
- ^ 絶縁油にPCB(ポリ塩化ビフェニル)を使用していたため1972年以降製造中止となり、代替絶縁油にシリコン油を使用した互換性のあるTM20形が開発され、1977年(昭和52年)度より交換された。
- ^ その後同区間においては、定期列車に比べて居住性が劣ることも考慮して、最繁忙期に運賃・料金の合計が比較的低廉となる急行として運転されるのみである。
- ^ 黒磯駅は全列車に停車を要求する地上切換方式を採用していたが、新たに同駅通過列車が設定されたために構内配線を一部変更し車上切換方式とし、信号と電源切換が連動している関係上搭載が必要になった。詳細は列車選別装置#黒磯駅通過列車用も参照
- ^ 当時は青函連絡船を介して鉄道利用の渡道客も多く、その中で富裕層を中心に1等車の需要も強かった。
- ^ 「(下段は)リクライニングシートを改造して水平になるようにし、側壁から仕切を引き出して個室になるようにして、上段は天井に格納したものを降ろす方法だったと思う」[1]
- ^ クハネ583形では第1エンドの点検蓋は空気圧縮機点検用である。
- ^ 車両需給の関係上、この時期に製造された車両には同一製造ロットであってもクハネ583形のみ青森、中間車は南福岡配置という事例がある。このため、該当編成ではメーカーで落成後一旦青森に立ち寄って、クハネ583形をクハネ581形と置き換えて南福岡に配給される措置が採られた。
- ^ この4両は、東北地区用各種装備ならびに耐雪耐寒構造(後に全車に施工)は準備工事とされた。このためタイフォンにはシャッターがなくスリット形状で落成している。
- ^ 『名列車列伝シリーズ3 特急はつかり&形式583系』、イカロス出版、1998年、p.106、ISBN 4-87149-134-X
- ^ a b 『名列車列伝シリーズ3 特急はつかり&形式583系』、イカロス出版、1998年、p.117、ISBN 4-87149-134-X
- ^ 使用例は臨時の「雷鳥」での運用がある程度。
- ^ 『名列車列伝シリーズ3 特急はつかり&形式583系』、イカロス出版、1998年、pp.113 - 116、ISBN 4-87149-134-X
- ^ モハネ581・583が各45名。オハネ25が34名。二段化改造後のオハネ24が32名。
- ^ 当初はサハネ581形の予備車なしのため6月25日付けで青森新製配置となったサハネ581-13の11月20日付け転入を含む。
- ^ これが後にJR東日本に継承されたクハネ583形が先に廃車となってしまうのに対し、JR西日本に継承されたクハネ581形の方が後まで多く残るという所謂“逆転現象”の要因である。
- ^ このような「同一区所・同系列および編成内容での編成分離運用」は、現在でも885系・783系・681系などで行われている。なお、耐寒耐雪装備の必要がない夏期については限定が解除された。
- ^ 1972年川崎重工製造の最終ロット(クハネ583-29・30・モハネ583・582-104 - 106・サハネ581-56・57・サロ581-35・サシ581-35)からサハネ581-56を日本車輌製造の最終ロットであるモハネ583・582-103と差し換え、東北地区用13両編成を組成した。このうちモハネ583・582-106(本系列のラストナンバーでもある)は2011年現在もJR東日本秋田車両センターに在籍している。
- ^ 当時の本系列運用には余裕があったため「金星」充当編成は、昼間は名古屋滞留となった。
- ^ 後に耐寒耐雪工事は限定運用をなくすため、徐々に他の車両にも体質強化も兼ねて行なわれるようになった。
- ^ 既電化区間でありながら、多数残存していた客車や気動車による普通列車を置き換える目的があった。
- ^ 具体例としては向日町運転所近くの山陰本線二条駅などで、これは後年に同時代の山陰本線をゲーム化した電車でGO!でも再現された
- ^ そのため列車番号は9001M・9002Mとされた。
- ^ 日暮里 - 岩沼で東北本線経由を前提した利用客の誤乗が相次いだため、後に「常磐はつかり」の列車名に変更された。
- ^ 耐寒耐雪構造準備工事のままであった事から、同年末までに編成全車に耐寒耐雪工事が施工された。
- ^ 急行列車の末端部分で普通列車もしくは快速列車になる運用は存在したが、全区間普通列車での運用はこれのみである。
- ^ 「津軽」は交流区間だけでもED75形0・1000番台・ED78形もしくはEF71形・ED75形700番台と3種の牽引機を必要とし、これを奥羽本線経由から仙山線経由に変更すると途中で進行方向を変える手間も生じたためである。
- ^ これは保留車(廃車前の車両はこう呼ばれている)扱いすることで全般検査までの使用期間を最大限延長するための処置であった。
- ^ これにより旧国鉄特急色のサロ581形は消滅。
- ^ 秋田〜ディズニー間の寝台列車が一時運休 今秋に再開 - 朝日新聞 asahi.com アサヒ・コム鉄道 2011年1月27日
- ^ 大館鳳鳴高校応援列車運転 - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp 鉄道ニュース 2011年3月25日
- ^ 秋田車両センターの583系が長野へ - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp 鉄道ニュース 2011年9月22日
- ^ 交通新聞社「JR電車編成表 2012冬」
- ^ a b c イカロス出版 季刊「j train」2011年冬(vol.44)
- ^ 甲子園口駅が7両編成までの対応のためにサロネ581形とモハネ1ユニットが抜かれた7両編成で運転された。
- ^ 1998 - 1999年に「シュプール野沢・苗場」で北越急行ほくほく線乗入れするため。
- ^ クハ481形100番台の廃車発生品を流用
- ^ 乗入れ先のJR東日本信越本線宮内 - 新潟間対応のため
- ^ 後の787系「つばめ」と同区間。
- ^ 一部は現在の「にちりんシーガイア」に相当。
- ^ 運転開始時の「金星」は名古屋 - 熊本間運転の「つばめ」と共通運用であった。後に「つばめ」が岡山発着となり名古屋までの運転がなくなると、代わりに富山までの「しらさぎ」1往復に充当されることになった。その際に必要車両数について耐寒耐雪工事を施工している。
- ^ 定期運用ではない。
- ^ 485系の代走。
- ^ 同時に修復工事が行われたクハ481-603(←クロ481-5)や、同じ日立製作所製である885系などとともに公開された。
参考文献
- 福原俊一・佐藤哲也・中村剛『寝台・座席両用581・583系特急形交直流電車』(車両史編さん会、2001年)
- 『季刊j train Vol.7 特集:有終へ「583系」の旅路』(イカロス出版、2002年)
- イカロスMOOK『国鉄型車両の系譜シリーズ02 形式583系』(イカロス出版、2005年)
- 『季刊j train Vol.26 特集:今を走る583系』(イカロス出版、2007年)
- 『季刊j train Vol.44 特集:国鉄色583系今昔』(イカロス出版、2011年)
- 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』
- 1983年8月号 No.420「特集:581・583系寝台電車」
- 1993年6月号 No.576「特集:JR583系電車の現状」
- 2012年1月号 No.858「寝台特急電車583系とその一族」
- 交友社『鉄道ファン』
- 1967年10月号 No.76「新車インタビュー : 581系特急電車」
- 2003年12月号 No.512「特集:月光形 その顔の世界」
- 2007年8月号 No.556「特集:ラストスパート485・583系」
- 鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル』
- ^1980年7月号 No.161 「寝台電車の12年」
- 1982年7月号 No.185 「車両と共に30年 - 大井工場OBの思い出ばなし・37」田邊幸夫
- 1984年5月号 No.207 「特集 : 581・583系電車の旅路」
- ネコ・パブリッシング『レイルマガジン』
- 浅原信彦『ガイドブック最盛期の国鉄車輌』581・583系篇 2007年11月号 No.290 - 2008年1月号 No.292
- 2011年1月号 No.328「特集:ラストチャンス!583系」
- 交通新聞社 『鉄道ダイヤ情報』
- 2009年2月号 No.298「特集:波動輸送用車両2009」
- 2010年10月号 No.318「特集:世界初の寝台電車 581系・583系」
- JTBパブリッシング 『JTBキャンブックス』
- No.108「581・583系物語 月光・みどりからきたぐにまで」福原俊一
関連項目
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