北越急行ほくほく線

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ほくほく線
683系8000番台とHK100形
683系8000番台とHK100形
北越急行ほくほく線の路線図
路線総延長 59.5 km
軌間 1,067 mm
電圧 1,500 V(直流
最大勾配 33 パーミル
最小半径 400 m
最高速度 160 km/h
STR
上越線(↑高崎方)
STR STRrg
上越新幹線
HST HST
越後湯沢駅
LSTR TUNNELa
STRrg ABZrf tSTR
BHF BHF tSTR
0.0 六日町駅
STRrf hSTRa tSTR
上越線(←宮内方)
hBHF tSTR
3.6 魚沼丘陵駅
TUNNELa tSTR
赤倉T 10,471.50m[1]
tSTRq tKRZt tSTRrf
tDST
8.5 赤倉信号場
tBHF
12.2 美佐島駅
TUNNELe
hBHF
14.4 しんざ駅
STRq hKRZ STRlg
飯山線(←越後川口方)
hBHF BHF
15.9 十日町駅
TUNNELa STRlf
飯山線(豊野方→)
TUNNELe
十日町T 1,695.10m[1]
WBRÜCKE
信濃川 406.7 m[2]
TUNNELa
薬師峠T 6,199.17m[1]
tDST
23.8 薬師峠信号場
TUNNELe
TUNNEL2
犬伏T 667.30m[1]
TUNNEL1
第一田沢T 125.00m[3]
TUNNEL1
第二田沢T 1,934.00m[1]
WBRÜCKE
渋海川 148.0 m[2]
TUNNEL2
松代T 295.00m[3]
hBHF
29.2 まつだい駅
TUNNELa
鍋立山T 9,129.50m[1]
tDST
34.1 儀明信号場
TUNNELe
hBHF
38.6 ほくほく大島駅
TUNNEL1
深沢T 1,585.40m[1]
TUNNEL1
霧ヶ岳T 3,732.98m[1]
hBHF
44.8 虫川大杉駅
TUNNEL2
有島T 697.50m[1]
hBHF
46.8 うらがわら駅
TUNNEL1
第一飯室T 3,287m[1]
TUNNEL1
第二飯室T 272.50m[3]
hBHF
51.7 大池いこいの森駅
TUNNEL2
中島T 250.00m[3]
hBHF
53.6 くびき駅
WBRÜCKE
潟川 109.9 m[2]
hAKRZo
北陸自動車道
STRq hKRZ STRlg
信越本線(←新潟方)
hSTRe STR
BHF BHF
59.5 犀潟駅
ABZrg STRrf
LSTR
HST
直江津駅
ABZlf STRq
信越本線(篠ノ井方→)
STR
北陸本線(↓米原方)

T:トンネル

北越急行ほくほく線(ほくえつきゅうこうほくほくせん)は、新潟県南魚沼市六日町駅を起点とし、新潟県上越市犀潟駅までを結ぶ北越急行鉄道路線である。

鉄道敷設法第1条別表第55号の3に「新潟県直江津より松代附近を経て六日町に至る鉄道」として規定されたことに由来する路線で[4]日本国有鉄道(国鉄)北越北線として敷設が計画された[4]。首都圏と北陸方面を短絡する路線として[5]1968年(昭和43年)に着工されたが[6]、国鉄の経営悪化に伴い1982年(昭和57年)に建設工事が凍結された[4]。運営を引き継ぐべく設立された北越急行によって1985年(昭和60年)から建設が再開され[7]、1989年(平成元年)からは運輸省(当時)が打ち出した「幹線鉄道活性化」の方針を受けて高規格化の対象となり[7]、難工事を経て1997年(平成9年)3月22日より営業を開始した[4]。開業以来、上越新幹線に連絡する列車の運行が行われており、特に1998年(平成10年)12月からは在来線最高速度となる150 km/h運転が[8]、2002年(平成14年)3月以降はさらに高速となる160 km/h運転が開始されている[8]

本項では特段の説明がない限り、「高速走行」とした場合は130 km/hを超える速度による走行をさすものとする。

歴史[編集]

鉄道誘致活動の始まり[編集]

大正末期に松代村(合併により十日町市の一部)においてバス会社が設立されて運行を開始したが、この時代には道路の除雪体制がまったく整っておらず、冬季には運行できなくなり各集落は完全に孤立状態となるのが常であった。道路の除雪体制の整備が本格化する1960年(昭和35年)頃までは、冬期の降雪により5月上旬までは道路交通が完全に不能となっていた[9]。1980年代のほくほく線建設が進められている時期になってもなお、十日町と松代を結ぶ国道253号の薬師峠は毎年雪で不通となり、直線距離で13キロメートルのところを、柏崎・直江津を通る120キロメートルもの迂回をしなければ行き来ができないという状況であった[10]。冬にはまったく役に立たなくなる自動車のために、鉄道の重要性・必要性を痛感していた地元の関係者は、1931年(昭和6年)に当地を訪れた朝日新聞の記者が「この不便な山間地を開くには鉄道を貫通させなくては」と発言したことに刺激され、民間中心の鉄道誘致運動が開始された[9]

既に1916年(大正5年)5月4日には、頸城鉄道が新黒井 - 浦川原間を全通させていた[11]。当初はこの頸城鉄道とつなぐ形で松代までの「東頸城縦貫鉄道」の建設請願を1932年(昭和7年)8月に国会へ提出した。この時点では松代から信越本線側へ結ぶだけの鉄道で、急峻な地形のために実現が困難と判断されたのか、十日町や六日町と結ぶという構想はなかった[12]。その後さらに発展的な構想として、北陸地方と東京を結ぶ「上越西線」という構想となり、魚沼三郡東頸城郡の町村長が六日町 - 直江津間に鉄道を敷設する陳情書を国会に提出した[12]。1938年(昭和13年)4月になると時勢から軍事用の色彩が付加されて、軍都と呼ばれた高田を起点とする北越鉄道の構想が打ち出され、国防にも役立つという位置づけとされた[12]。1937年(昭和12年)8月から9月にかけて、鉄道省による路線測量と経済調査が実施され、路線案の比較検討が行われるとともに、地元による国会への請願が繰り返された[13]

この時点までは、路線の北側は直江津案と高田案の2案があったが、南側については六日町で統一されていた。しかし1940年(昭和15年)になり、南側を越後湯沢とする案が持ち上がった。これは松之山温泉に宿泊してスキーをしにきていた鉄道省の技師が、越後湯沢と直江津を結ぶ経路の方が有力であるかのように話したことが発端であるとされるが、真偽ははっきりしていない。ともかくこの年の10月から11月にかけて越後湯沢案に基づく路線の経済調査が実施され、両案の資料が揃うことになった。1942年(昭和17年)から両案の誘致活動が繰り広げられたが、第二次世界大戦中でもありこの時点ではそこまで厳しい対立ではなかった[14]。1944年(昭和19年)には、国鉄信濃川発電所のある千手町(現在の十日町市の一部)と十日町を結ぶ工事用の軽便鉄道を延長する形で松代までを結ぶ路線の建設が決まり、工事予算1800万円が計上されたが、翌年の敗戦により計画は中止された[14][15]

南北戦争からルートの決着まで[編集]

北越北線と北越南線の計画ルートと実際のほくほく線

第二次世界大戦後は、高田と結ぶ軍事路線という動きは消滅し、佐渡航路ならびに北陸本線との連絡という観点から直江津起点とすることで決着して、直江津と上越線を結ぶ鉄道とすることになった[16][17]。1950年(昭和25年)9月3日に、北陸上越連絡鉄道(上越西線)期成同盟会の発会式が高田市(現在の上越市の一部)で行われ、戦後の鉄道建設運動が開始された。しかしルートの一本化はできず、起点は直江津とされたものの終点は六日町と越後湯沢の双方の案が会則に併記される形となった。以降、北越北線案と北越南線案の間で14年に渡る鉄道誘致合戦「南北戦争」が勃発することになった[17]

北線案の利点は、新潟県内の主要都市を結び産業開発や経済面で優れ、国鉄の採算性に優れること、地すべり地帯が無く防災上有利であることであり、これに対して南線案の利点は上野 - 直江津間の距離を短縮することができること、勾配を北線の25パーミルに対して20パーミルに抑えることができ輸送力を大きくできること、苗場や高倉の森林および地下資源、三国、清津の温泉の開発ができることであるとされた[18]

この当時、国鉄の新線は1922年(大正11年)年に制定された鉄道敷設法に基づいて建設されており、新線を建設するには法律を改正して鉄道敷設法別表に路線経路を記載する必要があった。そして別表への記載は、諮問機関である鉄道建設審議会の検討を経て決定されることになっていた[19]。中央の政界では、南北両案の一本化ができさえすればいつでも審議会で了承されるというところまで機が熟していた。しかし一本化ができないままに1953年(昭和28年)2月の第9回鉄道建設審議会が開催され、両案の対立が激しくて審議会でも決断を下しかね、「経過地に関する地元の意見の不一致並びに現地調査の不十分」を理由に審議未了・保留となった[18]。こうした事情もあり、両線の一本化を図るために期成同盟会では、前年に新潟県知事の岡田正平に経過地の裁定を一任することを決議していた。岡田は、新潟県七市長会および商工会議所連合会に諮問して、北線案が妥当との答申を受け、8月に北線案採択の裁定を下した。しかしこの裁定を説明するために9月に開催された期成同盟会総会を南線側がボイコットするという事態となって、さらに時間が空費されることになった[18]

それからさらに両派の争いは続き、事態が動いたのは1962年(昭和37年)のこととなった。この頃、南線案の予定通過地である松之山町の中心部で地すべり災害が発生しており鉄道の通過ルートとしてふさわしくないとされたことと、道路交通の発達でそれほど鉄道にこだわる必要がなくなったことなどから、一方の路線が採択された際にはもう一方の路線側から鉄道へ連絡する道路を整備するということを条件に、国鉄に裁定を一任することになった。1962年(昭和37年)4月22日に鉄道建設審議会が上越西線を予定線に採択することを決定し、5月12日に鉄道敷設法1条別表第55ノ3に「新潟県直江津より松代附近を経て六日町に至る鉄道及松代附近より分岐して湯沢に至る鉄道」が追加されて、南北両案が鉄道予定線となった[20][21]

1962年(昭和37年)7月から、国鉄では人口分布や産業構成などの経済調査を新潟県に依頼して実施した。地元でも、従来の上越西線期成同盟会を発展的に解消して新たに北越線連合期成同盟会を1963年(昭和38年)6月27日に発足させ、工事線への昇格に向けて積極的な運動を行った。1964年(昭和39年)4月22日に運輸大臣は北越北線を調査線に指示し、続いて9月28日には工事線に格上げした上で、南線は北線によって効用を満たし得るとの判断から、調査線から南線を削除した。こうして北越北線が正式に採択され、南北戦争は終結することになった[22]。なおちょうどこの頃、1964年(昭和39年)3月に日本鉄道建設公団(鉄道公団、以下公団と略す)が設立され、国鉄の新線建設事業は公団が引き継ぐことになって、北越北線も公団に引き継がれた[23]

北越北線が調査線となって以降、詳細なルートの検討が進められた。地元が北越北線に期待することは旅客輸送であったが、国鉄から見れば首都圏と北陸地方を短絡する有力な貨物線であり、上越線信越本線との間の方向転換・機関車交換作業を廃止し輸送時間を短縮することが狙いであった。そのため1000トン牽引を想定した貨物輸送が路線選定の要となり、当初は六日町駅黒井駅を可能な限り直線的に結ぶルートが考えられていた[5]。これにより十日町では飯山線と直交するルート案となり[5]、飯山線の十日町駅とは別に北越北線の十日町駅を約1,300メートル離れた位置に設け、地下駅とする案もあった[24]。しかしこれには地元からの強烈な反発があり、実際の経路は飯山線十日町駅に乗り入れるクランク状のものとなった[5]。また東頸城地方では、安塚大島、室野(松代町西部)を経由する南側に膨らんだ路線を要望されて決着に時間を要したが、最終的にほぼ原案通りとなった。ところが、国鉄側と最終的に詰める段階になり、直江津駅構内の貨物ヤード(操車場)が処理能力の限界を迎えていたことから、黒井駅の犀潟駅寄りに新たな操車場を建設する構想が持ち上がった。これにより北越北線の乗り入れは操車場に支障しない犀潟駅とならざるを得ず、旧頸城鉄道沿線から経路が外れて頸城村の中心地も通らないことになった[5]。うらがわら - 犀潟間は、後の工事凍結時点で未着工であったため、黒井の操車場計画が結局実現しなかったこともあって、工事再開時に新たな路線問題となりかけたが、最終的に六日町と犀潟を結ぶ経路で確定した[25]

国鉄新線としての建設[編集]

1964年(昭和39年)9月28日に運輸大臣が定めた基本計画では、北越北線は起点を直江津市、終点を南魚沼郡六日町とし、単線非電化で、線路等級は乙線とされていた。これを基に工事実施計画の指示が行われた[6]。設計にあたっては、有数の豪雪地帯を通ることから雪崩や地すべりの起こらないような場所を選んでルートの設定を行い、将来的に貨物列車や急行列車の運行を行う優等線とすることを考えて勾配や曲線を少なくするようにした[26]

まず六日町 - 十日町間について、1968年(昭和43年)3月28日に工事実施計画が認可され、8月14日に着工となった[6]。この区間を先に着工したのは、まつだいとうらがわらの間でのルートの決着が付いていなかったためであった[5]。基本計画とは逆に起点は六日町、終点は十日町で、途中停車場は西六日町(→魚沼丘陵)、赤倉(信号場)、津池(→美佐島)と仮称されていた。最小曲線半径は400メートル、最急勾配は14パーミル、40キログラムレールを使用し、橋梁の設計活荷重はKS-16、概算工事費は50億1800万円とされた[27]

続いて1972年(昭和47年)10月11日に十日町 - 犀潟間の工事実施計画が認可され、1973年(昭和48年)3月24日に着工された[28]。この区間の途中停車場は薬師峠(信号場)、松代(→まつだい)、儀明(信号場)、頸城大島(→ほくほく大島)、沢田(→虫川大杉)、増田(→くびき)と仮称されていた。最小曲線半径は1,000メートル、最急勾配は14パーミル、40キログラムレールを使うが長大トンネル内は50キログラムレールとし、橋梁の設計活荷重はKS-16、概算工事費は239億3400万円となった[29]。1979年度完成を予定していた[27]

停車場の配線についても貨物列車の運行を前提とした計画になっており、単式ホームとされた西六日町、津池の両停車場以外のすべての停車場で列車交換が可能で、貨物列車相互の行き違いを想定してすべての交換可能駅で1,000トン貨物列車に対応した有効長460メートルを確保していた。在来線併設の六日町、十日町、犀潟を除くすべての停車場に、上下線とも安全側線を設置して、上下列車の待避線への同時進入を可能とすることになっていた。六日町、十日町、松代の各停車場については、機関車牽引の10両編成を想定してプラットホームの有効長を240メートルとし、これ以外の停車場については電車列車の6両編成を想定した140メートルとしていた[30]

その後、国鉄新潟鉄道管理局からの防雪設備の完備や保守の軽減化への要望があり、さらに運輸省の通達で工事実施計画に含めるべき事項が加えられたこともあり、1978年(昭和53年)7月20日に工事実施計画が変更された。これにより十日町 - 犀潟間の工事実施計画について、犀潟駅への取り付けの変更が行われ、最小曲線半径が1,000メートルから600メートルとなり、50キログラムレールの使用とスラブ軌道の採用、電化対応設備を設けることが記載された。十日町 - 犀潟間の工事予算は511億8600万円に改定され、完成予定期日は1983年(昭和58年)に延長されることになった[31]

この頃、全国新幹線鉄道整備法により全国的な新幹線ネットワークの整備計画が進められており、東京と北陸地方を結ぶ新幹線として北陸新幹線の基本計画が1972年(昭和47年)に制定されていた。北陸新幹線は北越北線と重複する高速鉄道計画となったが、高度経済成長の時期でもありそれほど問題視はされず、また北陸新幹線が旅客輸送、北越北線が貨物輸送と役割分担することも考えられていた。しかし1973年(昭和48年)に第一次オイルショックに見舞われると、北陸新幹線の建設は延期されることになった[32]

北越北線はその間も工事が続けられていたが、全国各地にある鉄道新線のうちの1か所でしかなく、配分される建設予算に限りがあったことや、トンネル工事が難航していたことで遅れていた[33]。そうしているうちに国鉄の経営悪化が進み、その対策として1980年(昭和55年)に日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)の施行により鉄道新線の工事は凍結されることになった[34]。国鉄再建法での工事続行基準は、推定輸送密度が4,000人/日以上とされていたが、北越北線の推定輸送密度は1,600人/日であった[35]。この時点で用地取得は73パーセント、路盤工事は58パーセントまで進捗しており、工事費は415億円が投じられていた[31]。1982年(昭和57年)3月に完成施設の保安工事が完了すると、建設工事は全面ストップすることになった[36]

第三セクター方式での建設再開と高速化[編集]

国鉄再建法では、建設が中断された地方鉄道新線について、地元が第三セクターを設立して引き受けることが可能であると定めていた[37]岩手県三陸鉄道のように、早々にこの方針で動き出して、第三セクターでの開業を果たした鉄道もあった[38]。しかし北越北線については、鉄道の経営への不安があったことに加えて、新潟県出身の田中角栄元首相が「北越北線だけは特別に貨物幹線としてやらせる」と発言していたことなどもあり、沿線自治体は第三セクター化に興味を示さなかった。だが結局北越北線が国鉄新線として工事再開されることはなかった[39]

1983年(昭和58年)6月22日に東京で開催された北越北線建設促進期成同盟会総会に突然田中角栄が出席し、それまでの国鉄での建設再開の考えを撤回した上で、第三セクターでの引き受け案を持ち出した[40][36]。この提案は突然のことであり、沿線自治体の関係者を困惑させた[36]。当時の君健男新潟県知事は第三セクター化に慎重であったが[7]、期成同盟会会長の諸里正典十日町市長は田中の動きに呼応して第三セクター化を目指し、独断で国や公団との接触を開始した。沿線の他の市町村は、こうした諸里市長の独断専行に不満を持っていたとされる[41]

「プロの国鉄がやってもダメなものを、素人の県や市町村がうまくやれるはずがない」として慎重であった君知事は、第三者のコンサルタントを入れて経営分析を行わせ、また第三セクター化は越後湯沢 - 六日町間と犀潟 - 直江津間での国鉄への乗り入れを行うことを条件としてつけた。コンサルタントも、秋田内陸縦貫鉄道秋田内陸線に対して「永久に黒字転換する見込みがない」と厳しい診断を下した会社に依頼した。ところが新潟県の予想に反し、コンサルタントは「5年で単年度黒字、10年で累積黒字」との報告書を出し、また国鉄も直通運転を了承した[42]。こうして梯子を外された格好となった新潟県は、第三セクター化推進の方針に転換することになった。裏側では、田中元首相の政治力を背景に諸里市長が立ち回り、君知事を政治的に追い込んだ、と伝えられている[43]。こうして1984年(昭和59年)8月30日に北越急行が設立され、1985年(昭和60年)2月1日に鉄道事業の免許を取得し、3月16日に工事が再開された[44]

第三セクター鉄道として建設を再開するにあたり、建設計画が修正された。気動車による1 - 2両編成程度を想定し、最大で4両編成とし、旅客輸送のみに限定することになった。これにより全体にプラットホームと待避線の有効長が短縮され、頸城大島駅の交換設備は省略されることになった。上下列車の待避線への同時進入を考慮しないことにして安全側線も省略された。JR線と接続する六日町・十日町・犀潟の駅配線は大幅に変更され、特に十日町は飯山線と平面交差であったのが立体交差に修正された[45]。橋梁の設計活荷重については、国鉄時代にはKS-16荷重を想定していたが、旅客のみに改められたこともあり、第三セクター化以降に建設される場所についてはKS-12荷重を採用することになった[46]

工事を中断した時点で鍋立山トンネルは中央部で645メートルの未掘削区間が残されていた[47]。1986年(昭和61年)2月24日に掘削が再開されたが、このわずかな区間にさらに10年余りの歳月と146億円の工費が投入されることになった[48]。当初の中央導坑先進工法では強大な土圧により支保工が座屈するなどの問題を生じた[47]。続いてトンネルボーリングマシンを導入したが、これも掘削中に土圧により発進地点より手前まで押し戻されてしまう事態となった[47]。さらに注入剤を入れて[47]、最終的には手掘りも実施する[49]などして、645メートルを掘るために実に29の工法が駆使された[50]。1992年(平成4年)10月29日にようやく先進導坑が貫通し、1995年(平成7年)3月7日に掘削完了、11月7日に竣工に漕ぎ着けた[51]。ほくほく線の開業を左右したのは政治でも採算上の数値でもなく、鍋立山トンネルの工事であったと評され、このトンネルの完成によってほくほく線開業のめどが立つことになった[52]

1988年(昭和63年)になり、整備新幹線問題の関係で北陸新幹線の建設の見通しが立たなかったことから、北越北線を高速化してスーパー特急を走らせる計画が運輸省から打ち出された[35]。もともと優等列車の運転を想定して高い規格で建設されていたこともあり、翌1989年(平成元年)5月31日に高速化に伴う工事実施計画の変更が申請され、高速化事業が動き出した[53]。これにより、JRと直通の特急列車を走らせるために電化が実施されることになった[7]。高速化事業に要するとされた310億円は、建設に当たっていた公団の地方新線工事費から70億円、幹線鉄道活性化事業費補助金が42億円、北越急行出資金が40億円、JR東日本の負担金が158億円とされた[54]

当初計画では、六日町駅では北越急行専用プラットホームよりも高崎方でJRとの線路の接続を行うことになっていたが、専用プラットホームで発着する普通列車とは別に、越後湯沢からの特急列車が北越急行に直接進入できるようにする渡り線が追加されることになった[55]。十日町駅では、JR線を乗り越した後に地上に降りてプラットホームを設ける計画であった[55]が、プラットホーム前後に生じる急勾配と急曲線を解消するために高架上にプラットホームを設置することになった[55]。犀潟駅では、高架でJR線を乗り越した後に海側に北越急行専用プラットホームを設ける計画であったが、信越本線の上下線の間に降りてJR線に乗り入れる構造に改めた[55]。また、高速化の制約となっていた分岐器の通過速度制限を緩和するために、一線スルーにする改良を実施した[56]。軌道を強化するため、スラブ軌道区間を延長し、レールも一部を50キログラムレールから60キログラムレールに変更し、道床厚の増大や枕木の追加を実施した[57]。特急列車の最大10両編成に対応するようにプラットホームや交換駅の待避線有効長が再び延長された[58]。信号設備として、高速進行現示のできる信号機を設置し、また自動列車停止装置 (ATS) をATS-P形とした[59]。このほか、ホーム柵の設置、雪害対策の強化、騒音防止などの措置が採られた[60]

最終的に総工費は、地方新線建設費として1026億円、高規格化255億円の合計1281億円となった[61]。工事期間中、死者は10名、負傷者は54名であった[62]

開業[編集]

東京と北陸を結ぶルートの変遷、ほくほく線開業前は東海道新幹線米原乗換の「きらめき」ルートと、上越新幹線長岡乗換の「かがやき」ルートがあったが、ほくほく線開業により上越新幹線越後湯沢乗換の「はくたか」ルートが使われるようになった。北陸新幹線が金沢まで開業すると、最速かつ乗換なしのルートとなる

ほくほく線は、1997年(平成9年)3月22日に開業した[63]。路線名の「ほくほく線」は、国鉄新線としての予定線名である北越北線を略して平仮名書きしたものだが、愛称ではなく、正式な路線名称である[64]。開業前に正式路線名を決定するにあたり、北越急行と沿線自治体が沿線住民を対象に実施したアンケートにおいて「ほくほく線」と「北越ロマン線」の2つが上位を占めた[64]。そして選考の結果「温かいイメージで親しみやすく、呼びやすい」という理由で「ほくほく線」が選ばれた[64]。路線名は開業の5年前の1992年(平成4年)に決定されており、異例の早い時期の路線名決定は、工事再開後もトンネル工事の遅延と高規格化工事で開業が遅れた結果であった[65]

開業と同時に、上越新幹線と越後湯沢駅で接続して首都圏と北陸地方を結ぶ特急はくたか」が、ほくほく線経由で運転を開始した[63]。ほくほく線が開業する以前は、首都圏と北陸地方を結ぶ手段は東海道新幹線で米原を経由するルートが一般的であった[49]が、ほくほく線が開業してからは上越新幹線と「はくたか」を乗り継ぐルートのほうが有利になる範囲が拡大された[66]。上越新幹線と越後湯沢で接続しての東京と金沢の間の最速所要時間は3時間43分となり、長岡経由に比べて15分短縮された[67]

当初から160 km/h運行に対応する設備で開業したが、さらなる技術的な検討を待ってから実際の160 km/h運転を開始することにしたため、当初の特急列車の最高速度は140 km/hとされた[63]。その後、段階的な検証を行い、1998年(平成10年)12月から「はくたか」が150 km/h運転を開始し[8]、続いて2002年(平成14年)3月から当初の予定通りの160 km/h運転が開始されている[8]。なお、ほくほく線開業後、まつだい駅から松之山温泉を訪れる行楽客が増えたという[68]

2004年(平成16年)10月23日の新潟県中越地震では発生後全線で運転を見合わせた。10月26日より被害の少なかった犀潟 - まつだい間で普通列車に限った臨時ダイヤによる運転を再開。11月2日に全線で運転を再開した。当初は速度制限つきの運転で、12月17日から160 km/h運転を再開している。また、2005年(平成17年)2月11日より上越線が全面復旧する3月24日までの間、週末を中心にのべ13日にわたって急行能登」がほくほく線を経由して運転された[69]。2007年(平成19年)7月16日に発生した新潟県中越沖地震では、特急「はくたか」が終日運休となり、翌17日から運転を再開した[70]

一方、ほくほく線の高規格化が行われるきっかけとなった整備新幹線計画問題については、その後北陸新幹線について計画が見直されるたびに順次フル規格での建設が進められていった。北陸新幹線高崎 - 長野間については、ほくほく線のおよそ半年後の1997年(平成9年)10月1日に開業したが、この時点では上越新幹線・ほくほく線経由が北陸地方への最速ルートであり、北陸へ向かうには北陸新幹線ではない新幹線に乗らなければならない状態となり、長野新幹線という名前が付けられる一因となった[71]。しかし2015年(平成27年)春に予定されている北陸新幹線の金沢開業後は、特急「はくたか」は廃止されてほくほく線はローカル線に転落してしまうことになる[72]

ほくほく線は10日間しか営業していなかった初年度を除いて毎年数億円の黒字となっている[73]。2001年度の営業収支率は73.0パーセントであり、第三セクター鉄道の中では経営状態は良好であるが、全体の9割が特急による収益で普通列車の収益は全体の1割にも満たない[74]。北陸新幹線開業によるローカル線転落に備えて、これまでの利益を赤字補填用に蓄えてあり、2013年(平成25年)3月31日時点で剰余金は約92億円に上る[75]。また2012年(平成24年)時点で「はくたか」利用者の22パーセントから25パーセントが北陸新幹線でも乗り換えを要する直江津で乗降している[76]。これらのことから、北越急行では「ほくほく線経由の需要も残るのではないか」と予測しており[76]、事業を継続することは可能であるという見通しをもっている[76]

年表[編集]

  • 1931年(昭和6年)8月 - 地元の関係者が国会に請願書を提出し、鉄道敷設運動が始まる[77]
  • 1940年(昭和15年) - 越後湯沢と結ぶ北越南線構想が持ち上がる[14]
  • 1944年(昭和19年) - 信濃川発電所工事線を延長する形で松代と結ぶ路線の建設が決まるが、後に敗戦により計画中止[14]
  • 1950年(昭和25年)9月3日 - 北陸上越連絡鉄道(上越西線)期成同盟会発会式[17]
  • 1953年(昭和28年)
    • 2月 - 第9回鉄道建設審議会で地元意見の不一致を理由として審議未了・保留[78]
    • 8月 - 新潟県知事裁定により北越北線採択[18]
    • 9月 - 期成同盟会総会を南線側がボイコット[18]
  • 1961年(昭和36年)2月23日 - 南北両派が一本化で協力推進する協約を締結[79]
  • 1962年(昭和37年)
    • 4月22日 - 鉄道建設審議会が上越西線(北越北線)を予定線に採択[79]
    • 5月12日 - 鉄道敷設法第1条別表第55ノ3号により、予定路線に編入[21]
  • 1964年(昭和39年)
    • 4月22日 - 運輸大臣により、北越北線を調査線に指示[22]
    • 9月28日 - 工事線に昇格[22]、運輸大臣が路線の基本計画を定め、日本鉄道建設公団(鉄道公団)に対して工事実施計画の指示[6]
  • 1968年(昭和43年)
    • 3月28日 - 六日町 - 十日町間工事実施計画認可[6]
    • 8月14日 - 六日町 - 十日町間着工[6]
  • 1972年(昭和47年)10月11日 - 十日町 - 犀潟間工事実施計画認可[6]
  • 1973年(昭和48年)3月24日 - 十日町 - 犀潟間着工[6]
  • 1978年(昭和53年)7月20日 - 停車場有効長の延伸、スラブ軌道の採用、電化準備工事などを含めた工事実施計画変更[31]
  • 1980年(昭和55年)12月27日 - 日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)施行[80]により工事凍結[31]
  • 1982年(昭和57年)3月 - 完成済み施設の保安工事完了、工事全面停止[36]
  • 1983年(昭和58年)6月22日 - 北越北線建設促進期成同盟会総会において、田中角栄元首相から第三セクター化の構想が提示される[40]
  • 1984年(昭和59年)
    • 3月1日 - 第三セクター設立準備会設立[44]
    • 8月27日 - 北越急行創立総会を新潟市で開催[44]
    • 8月30日 - 北越急行株式会社設立登記[44]
    • 11月8日 - 国鉄再建法第14条第1項に基づく国鉄新線の告示[44]
  • 1985年(昭和60年)
    • 2月1日 - 北越急行が地方鉄道業の免許を受ける[44]
    • 2月25日 - 運輸大臣により鉄道公団へ工事実施計画の指示[44]
    • 3月16日 - 鉄道公団により工事再開[44]
  • 1988年(昭和63年)8月 - 運輸省が「整備新幹線運輸省規格案」を発表、北陸新幹線と連携した幹線鉄道とするための、北越急行の電化・高規格化を提唱[81]
  • 1989年(平成元年)
    • 3月28日 - JR東日本と北越急行の間で北越北線高規格化に関する基本協定を締結[82]
    • 5月31日 - 北越急行、事業基本計画の変更申請、最高速度を95 km/hから130 km/hへ、動力方式を内燃から電気へ、別途160 km/h対応で基礎的施設の工事を行っておくことを表明[83]
    • 7月31日 - 運輸大臣が鉄道公団に対して工事実施計画の変更指示[84]
    • 10月2日 - 高規格化対応工事に着手[84]
  • 1996年(平成8年)4月15日 - まつだい駅構内にてレール締結式[85]
  • 1997年(平成9年)3月22日 - ほくほく線開業[63]
  • 1998年(平成10年)12月8日 - 「はくたか」を150 km/hにスピードアップ[86]
  • 2002年(平成14年)3月23日 - 「はくたか」を160 km/hにスピードアップ[86]
  • 2004年(平成16年)
    • 10月23日 - 新潟県中越地震発生、全線で運休となる[69]
    • 10月26日 - 犀潟 - まつだい間で運転再開[69]
    • 11月2日 - 全線で運転を再開[69]
  • 2007年(平成19年)7月16日 - 新潟県中越沖地震発生、「はくたか」の運転を1日休止[70]

施設[編集]

構造物[編集]

構想当初から首都圏と北陸を結ぶ優等列車や貨物列車の運転が考えられており、それに備えてKS-16荷重を採用していた[26]。しかし国鉄再建法に伴う工事中断とその後の第三セクター方式での建設再開に際して、旅客専用線として計画を改めており、重い機関車の入線は不可能となっている[76]。第三セクター化後に建設された区間の活荷重はKS-12荷重を採用している[46]。ただし雪かき車の通行は想定されており、設計に際してDD14形DD53形の両ロータリー式雪かき車の重量が考慮されている[46]

魚沼丘陵と東頸城丘陵を横断する線形からトンネルが14か所と多く[4]、すべてのトンネルの長さを合計すると40,342メートルとなり、これは路線長59,468メートルの67.8パーセントに相当する[87]。他の構造種別は、土路盤が9,679メートルで16.3パーセント(うち切取1,042メートル、盛土8,637メートル)、橋梁が9,447メートルで15.9パーセントである[87]

全長が3,000メートルを超えるトンネルについて、起点側から順に以下に示す。

赤倉トンネル
赤倉トンネルは、魚沼丘陵 - しんざ間に位置する全長10,471.5メートルのトンネルで、トンネル内に赤倉信号場と美佐島駅が存在する[3]。JR以外の日本の鉄道トンネルではもっとも長い[3]。東工区4,281.5メートル、中工区4,140.0メートル、西工区2,050.0メートルの3つの工区に分割して施工され、東工区および中工区では膨張性地圧と大量の湧水により工事が難航した[88]。トンネル内で上越新幹線の塩沢トンネルと立体交差となっており、交差部でのトンネル間隔は1メートルもない条件で、先に赤倉トンネルが施工されたことから塩沢トンネル施工前に赤倉トンネルに補強工事を行っている[89]。1969年(昭和44年)から1974年(昭和49年)にかけて建設され[90]、工事凍結時点では既に完成済みであった。
薬師峠トンネル
薬師峠トンネルは、十日町 - まつだい間に位置する全長6,199.17メートルのトンネルで、トンネル内に薬師峠信号場が存在する[3]。東工区3,647メートル、西工区2,522メートルに分割されて施工され、西工区では地質に恵まれ順調に掘削できたものの、東工区は大規模な異常出水に直面したほか、国鉄信濃川発電所用の水路トンネル2本との立体交差があり、特別な対応が求められた[91]。1973年(昭和48年)から1979年(昭和54年)にかけて建設され[90]、工事凍結時点では既に完成済みであった。
鍋立山トンネル
鍋立山トンネルは、まつだい - ほくほく大島間に位置する全長9116.5メートル(スノーシェッド13メートルを含めて9129.5メートル)のトンネルで、トンネル内に儀明信号場が存在する[3]。東工区1750.5メートル、中工区3,387.0メートル、西工区3979.0メートルに分割して施工され[92]、東工区は予定通りの工期で完成したが、西工区の後半(トンネル中央側)と中工区は膨張性地山と可燃性ガスの湧出により苦しめられた[93]。1973年(昭和48年)に着工したが、1982年(昭和57年)の工事凍結時点で645メートルが未掘削で残されており、工事再開後も日本のトンネル工事史上未曽有とされる困難を極める工事となった[93]。最終的に1995年(平成7年)に完成し[48]、途中の中断期間を含めると21年11か月を要した。
霧ヶ岳トンネル
霧ヶ岳トンネルは、ほくほく大島 - 虫川大杉間に位置する全長3726.98メートル(スノーシェッド6メートルを含めて3732.98メートル)のトンネルである[3]。東工区1,826メートル(入口側の六夜沢橋梁を含む)、西工区1,828メートル、出口側開削区間140メートルの3工区に分割して施工された。地質に恵まれた工事であったが、西工区は建設中に工事凍結を迎え、東工区は工事再開後の着工であった[94]。1978年(昭和53年)から1992年(平成4年)にかけて建設された[90]
第一飯室トンネル
第一飯室トンネルは、うらがわら - 大池いこいの森間に位置する全長3287メートルのトンネルである[3]。東工区1,610メートル、西工区1,672メートルに分割して施工され、一部崩壊性地山に遭遇して難渋したが全体的には順調な進行で[95]、工事再開後の1988年(昭和63年)に着工し1991年(平成3年)までかけて建設された[90]

全線で橋梁が28か所、高架橋が35か所、架道橋が69か所、線路橋が3か所、溝橋が2か所ある[96]。最長の橋梁は、十日町 - 薬師峠信号場間にある信濃川橋梁で、全長406.73メートルである[97][98]。橋脚や橋台は国鉄線として施工されたためKS-16荷重で設計されているが、橋桁は第三セクター化されてからの施工のためKS-12荷重となっている。1径間68メートルの3径間連続トラスを2連用いた橋梁となっている[99]

軌道[編集]

ほくほく線は全線が単線で[100]軌条(レール)は60キログラムレール[注釈 1]が大半を占めるが、50キログラムレールを使用している区間もある[101]。また全線の約7割がスラブ軌道であり、バラスト軌道が約2割であるほか、事情に応じて合成まくらぎ直結軌道、弾性まくらぎ直結軌道、鋼直結軌道、パネル軌道などの区間がある[101]

建設中数度に渡り工事実施計画の変更が行われたが、最終的に最小曲線半径は400メートル、最急勾配は33パーミルとなっている[102]。半径の小さな曲線はすべて、JR線と接続する六日町・十日町・犀潟の駅付近に位置し、それ以外の区間では半径800メートル以上である[103]。もっとも曲線のきつい半径400メートルのカーブは犀潟駅の1か所のみで、制限速度は80 km/hである[103]。高規格化にあたって、緩和曲線長の延伸などの改良が行われている[103]

本線上において高速走行の列車が通過する場所にある分岐器12組をノーズ可動クロッシングとした[104]が、これは開業時点では、新幹線以外の日本の鉄道ではほくほく線を含めても20組程度しか導入されていなかった特殊な分岐器である[104]。ただし、十日町駅構内については、駅前後の曲線で速度制限を受けることによって130 km/h以下の速度での通過となる[105]ため、ノーズ可動クロッシングを使用していない[105]。また、交換設備はすべて1線スルー方式で[56]、直進側を通過する際には最高速度のままで通過可能である[56]

踏切は、始終端の六日町駅・犀潟駅構内の2か所のみであり[106]、線区の中間にはまったく踏切が存在しない。この2か所の踏切では、前後に存在する曲線や分岐器に伴う速度制限により、列車の通過速度が130 km/h以下に抑えられることから、他の線区の踏切と同等であるとして、特段の保安措置は採られていない[59]

駅・信号場[編集]

列車の行き違いを行う交換設備は、起終点を除くと十日町・まつだい・虫川大杉・くびきの4駅と、赤倉・薬師峠・儀明の3信号場にあり、すべて10両編成同士の列車交換が可能である[56]。駅数は両端の六日町駅・犀潟駅を含めて12駅で[4]、自社管理の駅員配置駅は十日町駅だけで[4]、起点・終点駅である六日町駅・犀潟駅十日町駅以外は、すべて無人駅である。また、特急の停車しない駅のプラットホームはすべて2両分のみである[107]が、虫川大杉駅の下り線に限り9両分の長さである[107]。また、信号場は3か所ともトンネル内にある[4]。トンネル内の信号場は、国鉄新線としての建設時に貨物列車の運行を計画していたことから、有効長460メートルを実現するために、複線断面となっている延長が680メートルに達しているが、実際の待避線有効長は240メートルとなっている[108]

「はくたか」・快速が停車しない駅では、列車が高速で通過して危険であることから、ホームへの入口にはスイングゲートが付いていて、列車に乗降する時以外はホームに入らないようにとの注意書きがしてある[109]。特に美佐島駅はホームがトンネル内にあり、通過列車が接近した場合、風圧によって飛ばされる危険が高い[注釈 2]ことから、列車到着後2分以内にホームから出る必要がある。このため、無人駅ながら危険防止のため、ホーム部分は常に監視カメラによって管理されており、列車が発着した後もホームに残っているとアナウンスで注意される[110]

車両基地は六日町駅に隣接しており[1]、2両編成×3編成が収容可能な収容庫と、検修庫に分かれている[1]

閉塞方式[編集]

閉塞方式は単線自動閉塞式で[56]、出発信号機8機と閉塞信号機22機を使用[56]、1閉塞平均の距離は1,566mである[56]列車集中制御装置 (CTC) とプログラム式進路制御 (PRC) を併用し[56]、進路設定の上で支障となる要因がなくなると30秒で進路を設定できる[56]

保安装置[編集]

160 km/h走行を指示する高速進行現示、緑が2灯点灯している

保安装置(自動列車停止装置)はATS-P形を採用した[111]。当初、運輸省では高速運転に際して、新幹線と同様に自動列車制御装置 (ATC) の導入を求めていた[104]が、導入コストの問題のほか[104]、各地からの臨時列車の乗り入れが車種の制限なく行えるようにするため[104]、ATS-P形の導入となった。また、交換駅での同時進入は通常なら警戒現示により25km/h制限となるところ[56]、ATS-P形の導入によって本線側55km/h・分岐側45km/hに制限速度が緩和されている[56]。また、130 km/h以上での走行を許可する「高速進行現示」として主信号機では緑2灯の点灯、中継信号機では縦に6灯の点灯をもって、高速進行現示とする「GG信号」が導入された[111]。このGG信号は、ATS-Pトランスポンダを搭載した車両に限って現示されるもので、トランスポンダ搭載車が信号機を通過する数十秒前にG信号(進行現示)からの変換によりGG信号が現示される[112]。このGG信号の導入により、それまでの緑1灯の点灯となる進行現示(G信号)は130 km/hの制限信号となった[113]

電力設備[編集]

160 km/h走行を考えれば電流を小さくできる交流電化の方が有利な面が多いが、トンネル断面が小さくて交流の絶縁離隔確保ができないことから直流電化が採用されている[114]架線支持方式は、地上区間では新幹線と同様のコンパウンドカテナリ方式を使用している[104]が、もともと非電化路線として建設されたため断面積の小さいトンネル内では、上下寸法の小さいツインシンプルカテナリ方式を採用しており[104]、さらに吊架には長幹碍子という特殊な碍子を使用している[104]変電所は、おおむね10キロメートル間隔で六日町、津池、十日町、松代、大島、浦川原、大潟の7か所に設置されている[115]

最高速度[編集]

ほくほく線の最高速度は160 km/hで、これは新幹線を除く鉄道では京成成田空港線の「スカイライナー」とともに日本では最速である。160 km/hに設定された背景には、国鉄時代に湖西線で行われた高速走行試験の目標が160 km/hであったこと[49]や、「新幹線の在来線の軌間の比率を考えると、200 km/hに対して160 km/hとなる」という考えもあったことが挙げられる[111]。「140 km/hでも十分」という意見もあった[111]が、関係者や技術者の多くは「絶対に在来線鉄道の将来に役立つ」と協力を惜しまなかったという[111]

しかし、1996年から開始された開業前の試運転の際には、高速走行時の車内で予想以上の気圧変動が発生しており[116]、気密構造でなかった681系を使用した試運転で窓の接着部分には指が入るほどの隙間ができてしまったことすらあった[111]。これらの現象は、ほくほく線のトンネルが単線断面であり、かつトンネル断面が複雑であることが要因であった[116]が、これに伴い、ほくほく線で高速運転を行う特急形車両については、扉が閉じた際に圧着させるなどの対策を施した簡易気密構造の車両に限定されることになった[116]。その後の半年にわたる試運転で安全性は立証された[63]ものの、万全を期して、開業当初の最高速度は140 km/hとした[63]。その2年後に行われた特急形車両の重要部検査時には、車両の構体に亀裂などがないかを微細に確認した上で[63]、1998年12月8日から150 km/h運転を開始した[86]。さらに2年後に行われた全般検査時にも構体に対して同様の確認を行い[8]、2000年11月21日には160 km/h運転の試運転を行った上で問題がないことを確認[8]、2002年3月23日から160 km/h運転が開始されている[86]

通常ダイヤであれば155km/h程度で定時運行が可能で[117]、160 km/hは列車が遅延した際の余裕と考えられている[117]。また、最高速度である160 km/hで走行できる区間は、下り列車が赤倉・鍋立山・霧ヶ岳の各トンネル内とくびき駅から犀潟駅までの高架橋区間[8]、上り列車では薬師峠トンネル内となっている[8]。さらに、気圧変動の緩和のため、ATS-Pによってトンネル進入時に130 km/hに速度を落とし、進入後のトンネル内で160 km/hまで加速させている[8]

なお、うらがわら駅と大池いこいの森駅の間の曲線では135 km/hに制限されている[117]が、これは在来線ではもっとも高速の速度制限である[117]

運行形態[編集]

ほくほく線では、上越新幹線と接続して北陸方面を結ぶ特急列車[4]と、地域内利用を主眼とした普通列車が運行されている[7]。正式な起点は六日町駅だが、列車運行および旅客案内では犀潟駅から六日町駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている[118]。これは、特急「はくたか」がJR西日本主体の列車であり[118]、北陸本線に合わせたためである[118]

特徴[編集]

開業当初から、越後湯沢での上越新幹線連絡を最優先にしたダイヤ設定が行われている[119]

この結果、1999年時点では特急「はくたか」同士のすれ違いは、56回中24回がほくほく線内で行われていた[119][注釈 3]。また、ほくほく線内のみを運転する普通列車は、数駅ごとに特急列車の待避や交換待ちなどで長時間停車する列車が多い[120]。1999年の時点では、通過駅のない普通列車で最も短い所要時間が直江津から六日町までで49分45秒であったのに対して[119]、最長の所要時間を要する列車では六日町から直江津までに1時間24分かかっていた[121]

JR線内へ乗り入れる快速・各駅停車はJR線内で通過運転を行っており、上越線の上越国際スキー場前駅(冬期のみ)と塩沢駅に一部列車が停車する[107]が、上越線の石打駅大沢駅と信越本線の黒井駅は全列車が通過となる[107]。これは、短い編成でワンマン運転を行うほくほく線の列車では、JR線内での突発的な需要に応じ切れないことが理由と考えられている[107]

ほくほく線内の列車に乗務する乗務員は、特急列車では境界駅の犀潟駅・六日町駅に停車しない関係で(六日町駅は一部の列車が停車)運転士・車掌共にJR東日本直江津運輸区が担当している。かつてはJR西日本の車掌もほくほく線区間を乗務することがあった[122]が、2012年時点では車掌も運転士と同様の区間に乗務している[123]。一方、普通列車については、JR東日本の区間も含めて北越急行の運転士が担当する[122]

列車の乗降方法[編集]

駅員が配置されている六日町駅、十日町駅、犀潟駅ではすべてのドアが開き乗降が可能だが、これらの駅以外の駅で乗降する場合は、2両編成で運転される普通・快速列車の2両目のドアは開けず、1両目の後部のドアより乗車し、1両目の前部のドアより降車する後乗り前降り方式を取っている[124]

運行管理[編集]

ほくほく線の運行管理は、六日町駅に隣接した運転指令所により行われている[73]

開業当初からJR東日本新潟支社の運転指令との連携が行われていたが、当初はJR西日本の区間での遅れ情報がJR東日本を通じて提供されるシステムであった[117]ため、ダイヤの乱れが大きい場合には情報の遅れが生じ[117]、ひどいときには越後湯沢行きの列車の遅れ状況が直江津に到着しないと判明しなかったことすらあった[117]。このため、他社線での遅れ状況を把握するためのディスプレイが運転指令所に設置され[117]、JR西日本エリアも含めた運行状況をリアルタイムで把握できるようになった[117]

また、運転通告についても、JRなどで行われている運転通告券による方式は無人駅の多いほくほく線では困難であるため[66]、無線伝達をもって運転通告としている[66]。このため、全線にわたって漏洩同軸ケーブル (LCX) が敷設され[56]、列車がほくほく線内のどの位置にいても運転指令所との通信が明瞭に行える[56]

ほくほく線区間の特急の運転士は前述の通りJRの乗務員が担当しているが、ほくほく線内では一切の指揮系統は北越急行の運転指令によるものとなる[123]。逆に、普通列車の乗務員については、JR東日本区間ではJR東日本の指揮下となる[123]

雪対策[編集]

前述の通り、ほくほく線は路線長の68パーセントがトンネルであるが、沿線は1日の間に数十センチの積雪があるほどの豪雪地帯である[1]。このため、残る地上区間については数々の雪対策が施されている。

高架橋
高架橋の中に雪が溜まらないようにする対策として、くびき付近では線路と側壁の間が吹き抜けとなっている「開床式高架橋」を採用している[55]ほか、周囲が田園地帯の区間の高架橋には、そもそも側壁自体が設けられていない[107]。一方、しんざ駅と十日町駅の間の高架橋では、赤倉トンネルの湧水をそのまま線路脇に流している[110]
消雪溝
車両が排雪した後も線路脇に雪の壁を作らないようにするための装備。六日町駅構内に設けられており、線路脇に溝を作って地下水を流す[125]。六日町では地下水汲み上げによる地盤沈下が激しく、地下水の利用には制限がある[125]ため、使用後の水は循環使用される[125]
融雪ピット
六日町駅構内の踏切脇に設けられており[125]、レールの間の枕木上にFRP製のトレーを置き、地下水を流すことによって列車に押された線路内の雪の量を減らす[125]。これによって線路から踏切内へ持ち込まれる雪が少なくなる[125]。前述の取水制限があるため、使用後の水は循環使用されている[125]
パネル式融雪装置
車両が排雪した後も線路脇に雪の壁を作らないようにするための装備。地下水によって加温した不凍液をパネルの中に循環させるもので[126]、民家や施設が周囲にあって除雪の際に投雪ができない場所に設けられている[126]。六日町駅構内では地下水は循環利用である[125]が、関越自動車道を跨ぐ場所では取水制限がないため地下水は循環利用していない[127]
スプリンクラー
六日町の車両基地構内、十日町駅構内などに設けられている。六日町では地下水を利用するが、前述の取水制限があるため使用後の水は循環使用されているほか、車両基地内も路盤をアスファルト舗装とし、その上にバラストを敷いた強化路盤としている[1]。十日町駅手前の飯山線を跨ぐ部分は赤倉トンネルの湧水を[110]、十日町駅構内では薬師峠トンネルの湧水を利用しており[128]、使用後の水は十日町の市街地道路の融雪に利用された後、信濃川へ放流されている[128]
熱風ヒーター
地下水脈が全くないため地下水を利用する手段が採れず[129]、水利権の関係で川の水も利用できない[129]まつだい駅構内の分岐器に装備される[129]。ボイラーで摂氏100度まで加温された温風をダクトで分岐器に導くもので[129]、温風噴射口では摂氏40度程度の温風となる[129]。なお、松代地区では道路の融雪も水が利用できず、ロードヒーティングが主体である[129]
温水ジェット噴射装置
分岐器の可動部分で雪氷が詰まることによって、分岐器の不転換を引き起こすことがある[130]。無人駅がほとんどのほくほく線では、直ちに人力で対応することは難しい[130]ため、不転換の分岐器があった場合には温水を噴射して氷雪を溶かす方法を採用した[130]。この装置は運行指令所から遠隔操作され、噴射口からは摂氏25度の温水が60秒間噴射される[129]。この装置は、ほくほく線の本線上にあるすべての分岐器に装備されている[130]。降雪のないトンネル内の信号場にも設置されているのは、通過車両から落下した雪塊をも考慮したものである[129]
除雪機械(モーターカー)
JRから譲受した旧式の排雪用のモーターカー1台のほか、ほくほく線開業時に新造した2台が用意されている[131]。新造したモーターカーは、犀潟寄りに雪を両脇に押し出すラッセルヘッド[131]、六日町寄りに線路脇の雪の壁を崩した上で投雪するロータリーヘッドを装備している[131]ほか、架線に付着している霜や雪を除去するためにパンタグラフを装備している[130]

このような地上側での雪対策の装備について、定期点検を含めた総経費は年間約1億円である[129]

地上側の設備に加え、線内列車に使用されるHK100形のスロープロウの先端部分は櫛の歯のような形状にしている[125]が、これは2本のレールの間の雪が圧雪状態の塊になると脱線事故の原因になりかねない[125]ため、この先端部分で雪をほぐし、圧雪状態にならないようにするためである[125]。また、六日町駅構内の車両基地では、冬季は屋外での車両留置は行わず、すべて留置用の収容庫か検修庫を利用する[1]。このため、車両洗浄機や洗浄台も収容庫内に設けられている[1]。さらに、前述の運行体制の一環として、大雪であっても列車の運行を行うことによって、線路上への積雪を最小限に抑えている[74]。北越急行では、「最大の除雪手段は、列車を走らせ続けること」としている[74]

こうしたさまざまな雪対策を開業当初から装備した[74]ことにより、ほくほく線は接続するJRの路線が不通になった時でも運休することはほとんどなく[132]、雪対策で不備をきたしたことも皆無に近い[74]

利用状況[編集]

ほくほく線の沿線は大きく南魚沼地域(南魚沼市のうち旧六日町)・中魚沼地域(十日町市)・東頸地域(十日町市のうち旧松代町)・平野部(上越市のうち旧大島村浦川原村頸城村大潟町)の4地域に分けられる[7]。それぞれの地域はもともと丘陵地帯によって隔てられていた[7]ため、平常時の流動はほくほく線のルートとは平野部以外は一致していない[7]。しかし、東頸地域はもともとの交通事情が悪かったため、ほくほく線の開業に伴い利便性が向上した[7]。また、十日町市にある十日町総合高等学校は新潟県全域を学区とする高校であり、ほくほく線開業により自宅からの通学が可能となった[7]。しかし、ほくほく線の沿線は最も過疎化と高齢化が進んでいる地域で[7]、マイカー保有率も1.5人に1台の割合で[7]、当初より線内需要は厳しいと見られていた[7]

こうした事情もあり、ほくほく線開業と同時に公共交通体系の再構築が行われた。北越急行に出資するバス事業者である頸城自動車は、1996年10月に東頸地区自治体との共同出資による東頸バスの営業を開始し[133]、ほくほく線の開業後は各駅前に乗り入れる路線を設定した[133]。また、同様に北越急行に出資するバス事業者の越後交通は、ほくほく線の列車と競合する越後湯沢 - 十日町の路線バスを減便している[133]

越後湯沢 - 十日町は峠越えとなるために自動車でも1時間程度の所要時間を要していた[133]が、ほくほく線が開業すると普通列車でも30分台で結ばれるようになった[133]。また、前述した雪対策によって安定した輸送を目指したことが評価され[74]、沿線の家庭では進学時にほくほく線沿線の高校を選ばせたり、上越線が不通になると越後湯沢と六日町のタクシー利用が増加する事例もみられるようになった[74]。現実の線内利用者数も、開業当初に年間65万人程度だったものが2012年には110万人に増加している[129]

輸送実績[編集]

収入実績[編集]

車両[編集]

車両の特徴[編集]

ほくほく線の特急形車両は、JR西日本の保有する車両と同一形式である。これは、車両選定の段階で160 km/hの高速走行を考慮して設計されていたのがJR西日本の681系しかなかったこと[134]、全くの新形式を製造することは会社の体力的に無理であったことが理由として挙げられている[134]。その一方、他社からの乗り入れのみでなく自社の車両を保有することになったのは、各社間協議で「大規模な相互直通運転を行うには各社が初期の設備投資をするのが絶対条件」とされていたこと[135]、高速走行を実施するために長期にわたる試験が必要となった[134]が、JR西日本の車両を長期間借用するのは困難であった[134]ことが理由として挙げられる。

一方、ほくほく線内の普通列車は、ローカル線の普通列車としては高速の部類に入る最高速度110 km/hで運転され、特急列車「はくたか」への影響を小さくするため[76]普通列車用の車両であるHK100形は優れた加速性能を持つ[76]。普通・快速列車は全列車がワンマン運転である。ほくほく線ではトンネルが多くあまり景色が見られないという路線特徴を逆手に取り、トンネル走行時に車内にて映像を鑑賞できる「ゆめぞら号」という車両が運行されている[76]。この「ゆめぞら号」は主に土曜・日曜・祝日に運行中で、季節によって異なる映像が上映される。詳しい運行状況は北越急行株式会社のホームページで確認することができる[136][137]

HK-100形は全車両が新潟鐵工所新潟トランシス)製[76]、681系2000番台は川崎重工業製であるが一部車両は委託製造として近畿車輛・新潟鐵工所で製造した[138]。683系8000番台は構体と電装品を川崎重工業で製造し、最終組み立てを新潟トランシスで行っている[139]

車両各説[編集]

自社車両[編集]

HK100形
ほくほく線内の普通列車として運用される車両で、開業時点では9両が製造された[4]。1999年に1両[73]、2003年に2両が増備された[76]。2003年に増備された車両のみ片運転台の2両編成で[76]、それ以外は両運転台の車両である[76]
681系2000番台
特急「はくたか」に運用される。JR西日本681系電車と同一仕様の車両で、「スノーラビットエクスプレス」という愛称を有する[122]。9両編成が2編成製造されたが、整備・検査などはすべてJR西日本に委託されており[122]、車両自体もJR西日本の金沢総合車両所に常駐である[122]。開業当初はJR西日本の車両とは運用が区別されていた[122]が、2002年3月ダイヤ改正以降はJR西日本681系との共通運用となっている[140]
683系8000番台
特急「はくたか」に運用される。JR西日本の683系電車とほぼ同一仕様で、2005年にJR東日本の車両を置き換える形で、9両編成が1編成導入された[141]。簡易気密構造を有しており[141]、高速走行に対応するためにブレーキ装置がキャリパー式ディスクブレーキとなっている[76]。681系2000番台・JR西日本681系との共通運用となっている[142]

乗り入れ車両[編集]

JR東日本[編集]
485系
開業当初から特急「はくたか」で乗り入れ[122]。2005年のダイヤ改正で北越急行683系8000番台に置き換えられた[141]
JR西日本[編集]
485系
開業当初から特急「はくたか」で乗り入れ[122]。2002年のダイヤ改正で681系に置き換えられた[8]
489系
485系の代わりに特急「はくたか」で乗り入れていることがあったほか、急行「能登」が臨時にほくほく線経由で運行された際に乗り入れた[69]
583系
冬季のみ「シュプール号」で乗り入れていた[143]
681系
開業当初から特急「はくたか」で乗り入れ[122]。簡易気密構造を有しており[122]、高速走行が可能。「ホワイトウイング」という愛称を有する[144]。開業当初は北越急行の車両とは運用が区別されていた[122]が、2002年3月のダイヤ改正以降は681系2000番台との共通運用となっている[140]
683系
特急「サンダーバード」用の4000番台が、運用上の都合で681系の運用に入ることがある[145]。高速運転には対応しておらず、最高速度は130 km/hとなる[117]

データ[編集]

路線データ[編集]

  • 路線距離(営業キロ): 59.5 km
  • 軌間: 1,067 mm[102]
  • 駅数(起終点を含む): 12
  • 最高速度: 160 km/h(特急、右記の区間以外。京成成田空港線と共に営業在来線日本国内最速)、140 km/h(薬師峠信号場 - まつだい間、虫川大杉 - くびき間)、110 km/h(普通・快速)
  • 複線区間: なし(全線単線
  • 電化区間: 全線(直流1,500 V[102]
  • 最小曲線半径: 400 m[102]
  • 最急勾配: 33 パーミル[102]
  • 設計活荷重: KS-16(国鉄時代に完成した区間)、KS-12(第三セクター化後に完成した区間)
  • 最長トンネル: 赤倉トンネル(10,472 m、魚沼丘陵 - しんざ間。トンネル内に赤倉信号場と美佐島駅があり、地下鉄JR線以外では日本最長の鉄道トンネル[3]
  • 閉塞方式: 単線自動閉塞式[102]
  • 保安装置: ATS-P[102]
  • 運転指令所: 六日町指令所[102]

駅一覧[編集]

  • 全線新潟県内に所在。
  • 便宜上、ほくほく線の列車が直通するJR上越線・信越本線の区間も合わせて記載する。なおJRの普通列車は上越国際スキー場前駅を除き下表のJRの駅すべてに停車する。
凡例
停車駅 … ●:全列車停車、|:全列車通過、*:一部の列車が停車、※:夏季・冬季のみ一部の列車が停車、△:一部の下り列車が通過。
線路 … ∥:複線区間、◇:単線区間(列車交換可能)、|:単線区間(列車交換不可)、∨:ここより下は単線、∧:ここより下は複線
運営会社 路線名 駅名 駅間キロ 六日町
からの
営業
キロ
北越急行普通 北越急行快速 特急はくたか 接続路線 線路 所在地
JR東日本 上越線 越後湯沢駅 - 17.6 東日本旅客鉄道上越新幹線上越線水上方面・ガーラ湯沢支線) 南魚沼郡
湯沢町
石打駅 6.4 11.2   南魚沼市
大沢駅 4.0 7.2  
上越国際スキー場前駅 1.0 6.2  
塩沢駅 2.3 3.9  
六日町駅 3.9 0.0 東日本旅客鉄道:上越線(小出方面)
北越急行 ほくほく線
魚沼丘陵駅 3.6 3.6  
赤倉信号場 - (8.5)   十日町市
美佐島駅 8.6 12.2  
しんざ駅 2.2 14.4  
十日町駅 1.5 15.9 東日本旅客鉄道:飯山線
薬師峠信号場 - (23.8)  
まつだい駅 13.3 29.2  
儀明信号場 - (34.1)  
ほくほく大島駅 9.4 38.6   上越市
虫川大杉駅 6.2 44.8  
うらがわら駅 2.0 46.8  
大池いこいの森駅 4.9 51.7  
くびき駅 1.9 53.6  
犀潟駅 5.9 59.5 東日本旅客鉄道:信越本線柏崎方面)
JR東日本 信越本線
黒井駅 4.4 63.9  
直江津駅 2.7 66.6 東日本旅客鉄道:信越本線(長野方面)
西日本旅客鉄道北陸本線(特急「はくたか」直通)

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 1mあたりの重さが60kgのレール。
  2. ^ 特急が140 km/hでトンネルに進入した場合、トンネル内を吹き抜ける風は、風速25メートルにも及ぶ[107]
  3. ^ この当時の特急「はくたか」は10往復[119]

出典[編集]

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参考文献[編集]

工事誌[編集]

書籍[編集]

雑誌記事[編集]

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  • 君塚和夫・金子誠・川井重男・吉田真琴・奥谷民雄・芳村照士「北越北線160km/h高速走行の電気設備」、『鉄道と電気技術』第8巻第4号、日本鉄道電気技術協会、1997年4月、 45 - 57頁。
  • 柴田剛志「回顧21年3カ月 北越北線・鍋立山トンネル掘削完了」、『日本鉄道施設協会誌』第33巻第10号、日本鉄道施設協会、1995年10月、 765 - 767頁。
  • 鈴木文彦「北越急行開業の経緯と沿線」、『鉄道ジャーナル』第368号、鉄道ジャーナル社、1997年6月、 54-57頁。
  • 種村直樹「在来線初の150km/h特急 快走」、『鉄道ジャーナル』第392号、鉄道ジャーナル社、1999年6月、 31-41頁。
  • 鶴通孝「681系電車特急はくたか発車!」、『鉄道ジャーナル』第368号、鉄道ジャーナル社、1997年6月、 42-51頁。
  • 鶴通孝「高規格第三セクター鉄道 北越急行ほくほく線の素顔」、『鉄道ジャーナル』第368号、鉄道ジャーナル社、1997年6月、 52-53頁。
  • 鶴通孝「在来線高速化をリードする北越急行のチャレンジ」、『鉄道ジャーナル』第428号、鉄道ジャーナル社、2002年6月、 20-33頁。
  • 鶴通孝「在来線最速特急の誇り」、『鉄道ジャーナル』第557号、鉄道ジャーナル社、2013年3月、 18-33頁。
  • 羽賀修「北越北線の高速化と新軌道構造等」、『新線路』第45巻第1号、鉄道現業社、1991年1月、 34 - 39頁。
  • 古川裕之「開業5周年を迎えた北越急行・ほくほく線」、『運転協会誌』第44巻第7号、日本鉄道運転協会、2002年7月、 25 - 28頁。
  • 「北越急行の16年と将来」、『鉄道ジャーナル』第557号、鉄道ジャーナル社、2013年3月、 34-45頁。

外部リンク[編集]