ミケーレ・アルボレート

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ミケーレ・アルボレート
ミケーレ・アルボレート(1987年)
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
出身地 同・ミラノ
生年月日 (1956-12-23) 1956年12月23日
没年月日 (2001-04-25) 2001年4月25日(44歳没)
F1での経歴
活動時期 1981-1994
所属チーム '81-'83,'89 ティレル
'84-'88 フェラーリ
'89 ラルース
'90-'92 フットワーク (アロウズ)
'93 スクーデリア・イタリア
'94 ミナルディ
出走回数 215 (194スタート)
タイトル 0
優勝回数 5
表彰台(3位以内)回数 23
通算獲得ポイント 186.5
ポールポジション 2
ファステストラップ 5
初戦 1981年サンマリノGP
初勝利 1982年ラスベガスGP
最終勝利 1985年ドイツGP
最終戦 1994年オーストラリアGP
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ミケーレ・アルボレートMichele Alboreto, 1956年12月23日 - 2001年4月25日)は、イタリアミラノ出身のレーシングドライバー。F1ル・マン24時間レースなどで活躍した。

経歴[編集]

ランチア・ベータ・モンテカルロ (1981年)

ジュニアフォーミュラ - スポーツカー世界選手権[編集]

1976年、19歳の時にモンツァ・サーキットで行われたフォーミュラ・モンツァに友人の作った車で初出場しキャリアがスタートした。1978年になるとイタリアF3マーチ・トヨタで参戦開始。1979年に3勝を挙げランキング2位となる。同年はヨーロッパF3にも進出し、翌1980年までに4勝と3度のポールポジション獲得など成功をおさめ、ティエリー・ブーツェンコラード・ファビフィリップ・ストレイフらを破りシリーズチャンピオンを獲得した。ランチアの認める新しい才能としてランチア・ワークスより声がかかり同年よりフォーミュラと並行してスポーツカー世界選手権(WEC)にランチア・ベータ・モンテカルロで参戦することになった。

フォーミュラ2[編集]

1981年からヨーロッパF2にステップアップし、ミナルディから参戦。第7戦ポー市街地コースで初PP獲得、第11戦ミサノで優勝を果たす。同年、若い才能の発見に長けるケン・ティレルからF1デビューのチャンスを与えられた。

ティレル時代[編集]

ティレル時代(1981年オランダGP
1981年

ヨーロッパF2に参戦中だった1981年、ティレルのF1シートを得て第4戦サンマリノグランプリでデビューすることになった。チームは新型マシンの製作が遅れ、旧作010での参戦となっており、リタイアが多く予選落ちも経験したが、第12戦オランダグランプリでチームメイトのエディ・チーバーから3戦遅れでようやくアルボレート用の新車011が投入され、9位(DNF完走扱い)の同シーズン最高成績を出した。マルティーニ・ランチアから出場したWECではリカルド・パトレーゼとのコンビでワトキンスグレン6時間レースを制覇した。

1982年

ティレルは資金不足だったが、011のサスペンション構造変更や軽量化により信頼性は改善され、成績は上向く。第2戦ブラジルGPで4位に入り、F1初入賞。続くアメリカ西GPでも4位に入ると、第4戦サンマリノGPでは3位入賞、3戦連続のポイント獲得と共に初表彰台を達成した。その後何度かの入賞を経て、最終戦ラスベガスGPでF1初優勝を飾った。この勝利を見たエンツォ・フェラーリは、「フェラーリにイタリアンを乗せれば、イタリア中のファンやマスコミによる過度のプレッシャーでそのドライバーをつぶしてしまう」という自身のポリシーに背いてでもアルボレートを獲得したいと思うきっかけになったという[1]マルティーニ・レーシング(ランチア・ワークス)からランチア・LC1で出場したWECでは、パトレーゼやテオ・ファビピエルカルロ・ギンザーニとのチームで出場した3戦すべてで優勝、スポット参戦であったがランキング5位となった。

1983年

参戦マシンは引き続き011であり3シーズン目の使用となったが、レギュレーション変更によるフラットボトム化、フロントウィング装着によるサイドポンツーンの小型化などがマッチングし011は戦闘力を維持できていた。またチームをベネトンがメインスポンサーとして支援し運営資金面も充実していた同年は、第7戦デトロイトGPで優勝しF1での2勝目を挙げる。この勝利は、フォード・コスワース・DFVエンジン(スペックは進化バージョンのDFYエンジン)の最後のF1勝利(通算155勝目)であるとともにティレル最後のF1勝利(通算23勝目)でもある。これを含め入賞は2回、リタイヤは15戦中8回と完走率は低かったが、チームメイトのダニー・サリバンよりも好結果を出し、ターボエンジン化の波に乗り遅れていたティレルでの活躍は高く評価された。エンツォ・フェラーリも前年から引き続き高評価していた一人であり、正式オファーを受けてスクーデリア・フェラーリへの移籍が決定。1973年アルトゥーロ・メルツァリオ以来となる久々のイタリア人フェラーリドライバー誕生に、地元の期待は高まった。なお、ランチアからのWEC参戦はフェラーリ加入によりこの年で終了となった。

フェラーリ時代[編集]

フェラーリ時代(1985年ドイツGP
1984年

名門の一員となったアルボレートは、第3戦のベルギーGPで初のポールポジションを獲得、決勝でも独走でフェラーリでの初優勝(通算3勝目)を挙げる。この年は16戦中8回のリタイヤを喫すが、6度の入賞を記録してドライバーズランキング4位に食い込み、在籍2年目だったチームメイトのルネ・アルヌーを上回り、フェラーリのエースとなった。イタリアのファンからの支持を得ることにも成功し、往年の名ドライバーアルベルト・アスカリの再来と呼ばれるなどティフォシ達の人気者になった。

1985年

マクラーレンアラン・プロストとチャンピオン争いを繰り広げ、F1生活でのハイライトと言われる年となった。アルボレートは第9戦ドイツGPでシーズン2勝目を挙げ、ランキングトップに立ち、この時点ではアルボレートも「タイトルを絶対獲れると思っていた」という[1]。しかし、第11戦オランダGPにてプロストに逆転を許した。その後アルボレートは、それまで2度のリタイアを除いて全てのレースで表彰台と安定していた成績が突然乱れ、最終戦まで5戦連続ノーポイントに終わった(リタイア4回)。この失速の原因を1992年に受けた取材でアルボレート自身が説明しており、フェラーリとマクラーレン共にドイツのKKK社(Kühnle Kopp und Kausch)製のターボチャージャーシステムを使用していたが、マクラーレンのパートナーであるポルシェが同国であるKKKに「イタリアのフェラーリに加担しないで」と圧力をかけているという情報を知ったエンツォ・フェラーリが激怒。即時にKKK製ターボの使用中止を命令し、チームマネージャーのマルコ・ピッチニーニはターボ一式をアメリカのギャレット(Garrett Motion)社製に変更する決定をした。この変更はエンジンにも大きな仕様変更が必要で、新システムとのマッチングは当然時間を必要とするものだった。このターボ変更によってチャンピオンはわたしから消えてしまった、と述べている[1]。このシーズン終盤の失速により、ランキングは2位に留まった。このドライバーズチャンピオンシップ2位はキャリアピークの成績となった。

1986年

チームが低迷期に入り、フェラーリ・F186もエンジンパワーで劣り戦闘力を欠いた同年は入賞4回、2位表彰台が1回。ランキングでもチームメイトのステファン・ヨハンソン(ランキング5位)を下回る8位に終わった。開幕直後からフェラーリの戦闘力のなさに失望したアルボレートは、早々と第7戦デトロイトGP開催期間からフランク・ウィリアムズと本格的な移籍交渉を開始し[2]、ウィリアムズ・ホンダ内で不仲となっていたネルソン・ピケナイジェル・マンセルのどちらかが移籍することになった場合はアルボレートがウィリアムズに行くことで合意に達していたが、この時はピケ・マンセルとも残留となったため話は無かったことになりフェラーリ残留となった。

1987年

完走できれば入賞・表彰台を獲得でき、高い性能を有していたがシーズン中盤までは熟成不足だったフェラーリ・F187のトラブルによるリタイアも多く、8戦連続リタイヤを含む10度のリタイヤを喫した。マシンの熟成が進んだ終盤に2連勝したチームメイトゲルハルト・ベルガーが台頭、2年連続でランキングでチームメイトに敗れる(ベルガー5位、アルボレート7位)など、総帥エンツォの存在が無ければエースドライバーの座が危うくなりつつあった。しかしベルガーはアルボレートに一目置いており、日本GPでの優勝は予期していたか?と問われた際には「もしミケーレがスタートを失敗していなければ(アルボレートはスタートでストールし最後方に転落していた)、彼との戦いになったはずだ。予選を終えた段階で彼か僕のどちらかが勝つだろうという予感はあったが、僕が前とは限らないと思っていた。」とシーズン後のインタビューで述べている。

1988年

マクラーレンホンダMP4/4の圧倒的な強さにフェラーリは歯が立たず。8月には総帥エンツォ・フェラーリが91歳で死去。その直後の開催となった第11戦ベルギーGPではアルボレートはレース序盤からマクラーレンのプロストとセナに食いつき3位を走行し続け、レース終盤35周目までその位置をキープする亡きエンツォに捧げる力走を見せたが、ターボエンジンが白煙を吹きコース脇にストップ。マシンを降りたアルボレートが悔しさから手に巻いていたテーピングを剥がし投げつける様子がTVカメラで映し出されており、サーキット内のプレスルームでは「あの紳士的なアルボレートがこんなに悔しそうにするとは」と驚きの声が上がったという[3]第12戦イタリアGPでは優勝したベルガーに次ぐ2位でフィニッシュし、フェラーリのモンツァでの1-2フィニッシュに貢献。ファステストラップも記録している[4]
総帥死去後は成績でリードしていたベルガーがフェラーリのエースとなり、アルボレートはデザイナーのジョン・バーナードとの対立が深刻化(フェラーリ・639のシャシーコンセプトとセミオートマチックトランスミッションをめぐってバーナードと大喧嘩した、と自身で語っている[5])。チームは新たにナイジェル・マンセルと契約。アルボレートはこの年限りでフェラーリを離れた。ウィリアムズ、ブラバムオニクスと交渉したが合意に至らず[6]、ティレルへの復帰を最有力に年末を迎えた。

ティレルへの復帰 ラルースへのスポット参戦[編集]

1989年

古巣のティレルに6年ぶりに復帰する。しかし契約金等はなく、マールボロからの支援と獲得賞金の何パーセントかが手に入るだけだった。この年ティレルはハーベイ・ポスルスウェイトの手による非力ながらも洗練されたマシン、ティレル・018を使用。サンマリノGPは予選落ちとなったが、モナコGPで5位入賞、第4戦メキシコGPでは3位表彰台を射止めた。
このころ、足の故障が悪化したジョニー・ハーバートの解雇を考えていたベネトンから移籍の誘いを受ける。しかしベネトン側が資金の持ち込みを要求したことから交渉が難航。そのうちにベネトンとの交渉の話が外部に洩れたことから、ケン・ティレルは代わりのドライバーとして新人ジャン・アレジを確保、ベネトンもエマニュエル・ピロと契約したことからシートを失ってしまう[7]

その後2戦欠場を経て、スランプに陥っていたヤニック・ダルマスの後任を探していたラルースのチーム代表・ジェラール・ラルースから声が掛かり、第9戦西ドイツGPからラルース・ローラ・LC89の29号車のシートを得た。ラルースはマールボロのライバルであるキャメルからの支援を受けていたことから、長年支援を受けてきたマールボロとの契約を打ち切ってのラルース加入であった。完走は第13戦ポルトガルGPの1回に留まった(11位)。4回のリタイヤを喫し、ラスト3戦は決勝に進むことができなかった。特にスペイングランプリとオーストラリアグランプリは、予備予選すら通過出来ずに終わっている。

こうしてシート獲得に苦労した一年となり、不安定な状況を繰り返したくないと前年より早めに数チームと来季シート交渉を進め、ここ数年は常に複数回入賞し安定感のある中堅チームであったアロウズに「1stドライバーとして」契約、第14戦スペインGPの時点で来季体制を確保し復活を期した[8]

フットワークA11C ポルシェ(1991年)

フットワーク時代[編集]

1990年

アロウズにNo.1ドライバーとして移籍加入。チームメイトはイタリアの若手アレックス・カフィとなった。日本の運輸会社「フットワーク」がメインスポンサーとなりチームの財政基盤の安定が期待されたが、トップチームと比して非力な存在となっていたDFR・V8エンジンと、前年度シャシーの熟成版であったアロウズ・A11Bは戦闘力が低く、カフィ共々3度の予選落ちも喫した。全16戦中8戦で完走を果たしたが、カフィがモナコGPでサバイバルレースを生き残りポイントを獲得したのに対し、アルボレートの最高位は9位で入賞には遠いシーズンとなった。

1991年

鳴り物入りでのF1復帰となるポルシェのワークスV12エンジンを獲得し、斬新なフロントノーズを持つニューマシン「FA12」に多大な期待が掛けられたが、このV12エンジンは重量が非常に重い[注釈 1]だけでなく、パワーや信頼性も欠けており、開幕戦から予選通過にも苦労するテールエンドでの戦いが続いた。序盤の6レース限りでポルシェエンジンを諦め、第7戦からは前年使用していたフォードDFRエンジンを搭載する事態となった。「ポルシェV12用に設計したのにV8エンジンを載せてるから重量配分がめちゃくちゃ」とアルボレートがマシンを語る状況で[9]、シーズン終盤に2度完走するに留まり、豪雨のため中断終了となった最終戦オーストラリアGPで記録した13位が最高成績と散々なシーズンに終わった。シーズン前半の成績が低調だったため、同年後半から予備予選の出走義務が課され、1989年のラルース時代以来2年ぶりの予備予選不通過(ベルギーGP)の屈辱も味わった。予備予選落ち(ラルースでの2回を含め通算3回)の経験があり、なおかつF1優勝経験のあるドライバーは、アルボレート唯1人だけである。

1992年

チームは新たに無限ホンダV10エンジンを獲得し[10]、新シャシー「FA13」での参戦。フットワーク社がF3000時代から支援する鈴木亜久里がチームメイトとなった[11]。フットワーク大橋渡オーナー肝いりである亜久里は複数年契約での加入であり[12]、実質上ファーストドライバー待遇であったため、フットワークには1台が昨年後半に続き予備予選の出走義務を課されていたが(アンドレア・モーダの欠場により1、2、8戦目の予備予選は中止)、予備予選出走はアルボレートの担当となった。前年より明らかに速いマシン及びアルボレート自身の好調で予備予選は全戦通過。亜久里がリタイアや予選落ちをする中、アルボレートは第3戦ブラジルGPで6位入賞し自身1989年以来となる久々のポイントを獲得すると、第4戦スペイン・第5戦サンマリノと連続で5位に食い込み3戦連続入賞など状況が整えば速さが発揮できることを示した。ポイント獲得により後半戦は予備予選を免除され、全16戦中14戦を完走し、前年の最終戦からこの年のベルギーGPをエンジントラブルによりリタイアするまでの12レース連続完走も達成。7位完走が16戦中6回などあと一歩で入賞を逃す(当時は入賞ポイント獲得は6位まで)レースも多かったが、この年最も多くの周回数をこなしたF1ドライバーとなり[13]その実力が再評価される[14]。アルボレート自身ものちに「いま思うと、この年がコンペティティヴなドライバーとして僕の最後のシーズンだった。」と述べている[15]

夏頃にはいくつか翌年に向けてオファーが届きはじめる中、フットワークに残ることもできたが、アルボレートは「ジュゼッペ・ルッキーニ英語版から、来季フェラーリV12エンジンを載せるから来ないか、という話が来た。加えて、フェラーリ社長のルカ・ディ・モンテゼーモロも、僕がまたフェラーリエンジンで走れたらうれしいと言って後押ししてくれて、なびいてしまったんだ。フットワークに残るにしろ優勝を争えるわけではないので、それならイタリアンチームで戦ったほうが良いのではないかとその時は思ったんだ。結果は完全なる破錠に終わったけどね。」という理由で、スクーデリア・イタリア・フェラーリへの移籍を決断した[15]。フットワークはアルボレートの後任として同年のSWCプジョー・905をワールドチャンピオンに導いたデレック・ワーウィックと新たに契約することになった。

スクーデリアイタリア時代(1993年イギリスGP

スクーデリア・イタリア、ミナルディ時代、引退[編集]

1993年

BMSスクーデリア・イタリアにNo.1ドライバーとして移籍。チームメイトに前年F3000でチャンピオン争いをした新人ルカ・バドエルが加入し新旧イタリアンコンビとなった。しかしこの年チームが使用したローラ製シャシー「T93/30」はホイールベースが3030mmと長大すぎる欠点があり[16]、予選通過にも苦しむ出来であった。搭載するフェラーリV12エンジンとのマッチングも最悪であった。本家フェラーリも大不振のシーズンであり「カスタマーエンジン」はそれに輪を掛けたようにパワーが無く[16]、5回の予選落ちを喫し決勝での入賞は一度もないという屈辱の年となった。アルボレートはこのシーズンを「スクーデリア・イタリアには現場でリーダーシップを取れる人間が誰もいなかった。そのしわ寄せを最も受けたのはドライバーだった。フットワークに残れていた方がよかったね。」と振り返った[15]

シーズン終盤には同じく資金難にあえぎF1参戦危機となったミナルディとのチーム合併へ向けた作業が本格化し、第14戦ポルトガルGPでヨーロッパラウンドが終了すると、スクーデリア・イタリアは終盤2戦(日本オーストラリア)の渡航費用を捻出できずF1から撤退したため、アルボレートも欠場となった。予選成績ではバドエルに対し6勝8敗であった。

同年シーズン終了後の11月、リカルド・パトレーゼと契約終了し翌年に向けてエースとなったミハエル・シューマッハのチームメイトを探していたトップ4チームの一角であるベネトンからテストドライブのオファーを受けた[17]12月13日からカタロニア・サーキットベネトン・B193を4日にわたって走らせ、延べ222ラップを担当。ベネトンのオーナーであるイタリア出身のルチアーノ・ベネトン英語版は、10年前にティレルを支援した時から旧知であるアルボレートの獲得を希望し[18]、シューマッハも若いチームメイトではなく経験豊かなアルボレートの加入を強く推していた[19]。この合同テストではJ.J.レートもオーディションとしてベネトンで走行しており、ベストラップ(アルボレート1分19秒77、レート1分18秒66)で1秒以上アルボレートを上回ったレートがベネトンに選ばれ、アルボレートはこのあと母国のミナルディと交渉することになった[20]。また、ミカ・ハッキネンのパートナーが決定していなかったマクラーレンのロン・デニスとも交渉したという[18]

ミナルディ時代(1994年モナコGP
1994年

トップチームのシートは得られず、前年所属したスクーデリア・イタリアと合併したミナルディから参戦することになった。ミナルディにはF2時代以来12年ぶりの帰還であった。ローランド・ラッツェンバーガーアイルトン・セナの死亡事故が発生した第3戦サンマリノでは、決勝レース中にタイヤ交換を終了したアルボレートの後輪がピットアウト時にホイールごと外れてしまい、高速で転がったタイヤホイールが他チームのメカニックにぶつかったため複数の負傷者が出てしまった。この事故はそれまで無制限だったピットレーンでの制限速度規制をF1に導入するきっかけとなった[21]第4戦モナコではサバイバルレースを生き残り、6位入賞を果たす。しかし、夏場になるとミナルディ・M194に搭載のフォードHB・シリーズVIIエンジンにトラブルが続発し3戦連続リタイア[21]など完走率が低下。ハンガリーGPでは7位で完走したが終盤戦では目立った活躍は出来ず、この年でのF1引退をメディアにほのめかすようになった[22]。F1を去る要因として、パシフィックGPドイツGPでのスタート直後の多重クラッシュで赤旗が提示されずレースが続行されたことなど、F1のレース運営への強い不満があり、ドイツGPではクラッシュに巻き込まれていたため競技委員から状況説明のため呼び出されていたが、「無理にでもレースを強行させる連中に何を言っても無駄だ。」と怒りのコメントをして聴取を拒否し帰宅。この行為に執行猶予付きの出場停止処分が下されるなど、アルボレートとF1競技委員との関係が悪化していた[21]

F1最後のシーズンを終えた後でアルボレートは、「常々最後はミナルディで走りたいと思っていたんだ 。僕のレース人生が始まったのも、無名の僕を最初にフェラーリに紹介してくれたのもジャンカルロ・ミナルディなんだ。'94シーズン前は戦力の高いチームを諦めきれなくてベネトンやジョーダンとかなり接近したのは事実だけど、信頼できる友人であるジャンカルロの元でF1の幕を引けたのは良かったと思っている。F1以外の、ほかのおもしろそうな選択肢をじっくり考えてみるよ。F1の代替えになりうるのはDTMかな。」とコメント、ミナルディとの強い絆を述べている[15]

DTM時代(1995年)

事故死[編集]

1995年からアルファロメオ・155DTM(ドイツツーリングカー選手権)に参戦。インディル・マンなどにも参戦し、1997年ル・マン24時間耐久レースではトム・クリステンセン、ステファン・ヨハンソンと組み優勝に輝いた。しかし2001年、ドイツラウジッツリンクにてル・マン24時間耐久レースのために行っていたアウディ・R8のテスト走行中にタイヤがバーストしクラッシュ、ほぼ即死であった[23][24]。44歳没。

事故の一報はF1スペイングランプリ開催ウィークだったカタロニア・サーキットのパドックにも伝えられ、ミカ・ハッキネンミハエル・シューマッハルーベンス・バリチェロなど共にグランプリを戦ったドライバーがアルボレートへの追悼コメントを述べた[25]

エピソード[編集]

フォルツァ・ミケーレ[編集]

イタリア人ファンにとっては「イタリア人が運転するフェラーリが優勝する事」が唯一最大の願いであり、そのファンの中でもミケーレ・アルボレートはイタリア人ファンに愛された。これにはミケーレの不運な境遇、超一流のドライビングテクニックに対する同情・賞賛がある。そのため、イタリア国内で行われるF1グランプリにはティフォシと呼ばれるフェラーリ熱狂支持者が多数訪れるが、そのティフォシ達が絶叫する言葉は常に「フォルツァ・ミケーレ!ミケーレ頑張れ!)」であったと言われている。

テクニック[編集]

F1カーがまだマニュアルトランスミッションを採用していた1980年代、アルボレートは「世界一のシフトチェンジテクニックを持つドライバー」といわれていた[要出典]。F1ドライバーとして自身がもっとも脂がのっていた時期とフェラーリ低迷期が重なったが、そのドライビングテクニックは所属ドライバーに厳しく、時に怒りさえあらわにするエンツォ・フェラーリも高く評価しており、アルボレートからもエンツォにマシンの問題点について常に要求し、お互いにプレッシャーをかけられる関係であったという[1]。エンツォ存命時のフェラーリではエンツォ・フェラーリの前でマシンへの批判的コメントは禁句だったが、それが認められたのは他にはニキ・ラウダだけだった[26]

ヘルメットカラー[編集]

愛用のヘルメットは青地に太い黄色の一本輪で、少年時代から尊敬していたF1ドライバー、ロニー・ピーターソンのヘルメットカラーをモチーフにしたデザインだった。ピーターソンが死去するクラッシュが発生した1978年イタリアグランプリの日も、会場であるモンツァを訪れており人目をはばからず泣いたという[1]。1986年にはピーターソンのトレードマークであったバイザー上部にヒサシ付のヘルメットを使用した[27]

2代目フライング・ミラン(空飛ぶミラノ人)[編集]

1984年の活躍により、「アルベルト・アスカリの再来」と呼ばれ一躍人気者になったアルボレートだが、その彼もアスカリ同様、出身地がミラノであることから、アスカリと同じく「フライング・ミラン」とニックネームを付けられた。 余談だが、これまたアスカリ同様アルボレートも典型的な先行逃げ切り型タイプであり、1度トップに立つ(またはポールポジションを獲得する)とその後はその座を守り続けて優勝というパターンが多かった。

エンツォからの寵愛[編集]

フェラーリ入りを決めたのは、自身がイタリア人であることだけでなく、エンツォ・フェラーリから寵愛を受けたことだという。事実、エンツォは、妻と子どもの居たアルボレートに、4シーターにカスタムしたフェラーリの市販車をプレゼントしたという。しかし、1988年にエンツォの容態が悪化し死去すると、成績もベルガーに先行される事が増えていたアルボレートは後ろ盾を失い、同年限りでフェラーリからの放出が決まったが、それをチームから正式に告げられた時も「それほど悲しくはなかった。わたしはエンツォ・フェラーリあってのフェラーリ・ドライバーだったし、彼がいなければフェラーリに残る理由が無い。イタリア人レーサーにとってF1でフェラーリをドライブすることは人生で最高の出来事だった。素晴らしい日々だった。将来、フェラーリがワールドチャンピオンシップを獲得するのを願ってやまないよ。いまはマクラーレンやウイリアムズが強すぎるからすぐには無理だろうけど、1994年頃になるかな。」とコメントしフェラーリを去った。

人物[編集]

非常に義理堅い人物であった。フェラーリで活躍していた1987年当時、ボロボロのホテルに入る所を川井一仁今宮純が目撃。アルボレートはこのホテルにわざわざご飯を食べに来たのだと言う。ホテルの女性オーナーも「あらミケーレ!よく来たわね!」と喜んでいたという。アルボレートは昔、このホテルには何度も来ていたのだという。

フェラーリ所属最終年となった1988年の夏には、翌1989年に向けて複数チームからオファーがあったが、他のチームのオファーは断り(フェラーリ移籍が決まったナイジェル・マンセルと入れ替わる形で)ウィリアムズとの交渉に一本化し、最終段階まで進んでいたが土壇場でウィリアムズ側から一方的に破棄された[2](ウィリアムズと新たにエンジン供給契約をしたフランスのルノーエンジン搭載に不可欠であったフランス語を話せるティエリー・ブーツェンを起用することが優先され、チームがリカルド・パトレーゼの残留を選択したため)。アルボレートは「イタリアGP前にパトレーゼとブーツェンが正式発表された時、ただただ驚いた。その瞬間から僕は酷い苦境に立たされた。来年ウィリアムズに乗ることは決まったと信じていたから、イタリアGPまでの2か月間他チームとは全く交渉を絶っていた。突然乗るマシンが無くなってしまったなんて」とその時の心境を吐露している[2]。夏にアルボレートにオファーをしていた他のチームは既に別のドライバーで空席を埋めており、このためアルボレートはまだ空席を残していたが資金難で苦しい状況だった古巣・ティレルと契約した。

1989年のティレルでは、開幕時にチームスポンサーが無く、アルボレートが個人的に支援を受けていたマールボロたばこからの資金も重要なものだったが、6月カナダGP終了後にオーナーのケン・ティレルからアルボレートに電話が入り「チームは今週からキャメルがスポンサーについてくれることになった。今後もティレルで走りたいなら、君とマールボロとの契約はすぐに破棄してほしい」との内容だった。アルボレートは「僕は今までのマールボロから大きな支援を受けてきた。ケンはそれを知ってて今季僕と契約しておいて、今回事前に何の相談も無く一方的なこんな電話をしてきて、こういうやり方に僕は大いに気分を害している」とコメント[28]。アルボレートがマールボロブランドを持つフィリップモリス社に事の顛末を報告すると、マールボロの担当者は「君のキャリア継続に重要なことだから、スポンサーフィーを返したりしなくて良いし、何も気にせずキャメルカラーのマシンに乗っていいよ」と寛大な言葉を掛けられたが[29]、これを聞いたアルボレートは自分が身を引くべきと考えティレルを離れた。こうして一度はF1シートを喪失したが、1ヵ月後、結果的にキャメルの支援を受けるラルースへと加入することになった[30]

1993年オフにはベネトンの空席シートをかけてJ.J.レートと同じ合同テストに参加する状況となり、トップチームのシートを争うライバルとなったが、同テスト中にまだ若いレートに話し掛けマシンについてディスカッションをし、走行後取材では「僕も彼も十分に速いってことはもう誰もが知ってると思う。どちらが選ばれるかはチームの判断で、それはチームに任せるよ」[18]と話し友好的な関係を築いていた。

趣味[編集]

趣味は「F1でレースすること」と公言し、フェラーリを離れて以後、他カテゴリーの好条件のオファーがあっても、低迷するチーム状況で不遇にあってもF1でレースすることにこだわって走り続けた。不遇でも明るさは失わず、1993年にナイジェル・マンセルがインディカーに転向した際にインディ仕様のローラ・シャシー「T93/00」に乗り優勝するなど好走を見せ、自身がドライブするF1用のローラ・シャシー「T93/30」はF1最下位に低迷する状況をして「僕はもう、インディドライバーと呼ばれているよ」とジョークを言っていた。また、1993年オフのベネトンテスト(前述)後にベネトンのシートを得られなかったら?との質問にも「ベネトンのテストドライバー就任は全く考えていない、僕はF1でレースがしたいんだ。F1ドライバーとしてまだまだ良い仕事ができると思っている。テスト走行でのF1ドライブも好きだけど、レースがしたいね」[18]とコメントし、レギュラーシートを求めてミナルディに移籍した。

プライベートでは読書も趣味であった。

死後[編集]

フェラーリを去った後も「エンツォの寵愛を受けた最後のドライバー」として、ティフォシ達に敬愛、尊敬されていたアルボレートは死後に行われたF1グランプリのスタンドで、その死を悼んだティフォシによって喪章を付けたカバリーノ・ランパンテのフラッグを掲げ、ミケーレコールが行われた。また、1985年西ドイツGPで果たした優勝は、30年以上が経過した2020年時点でも『フェラーリで優勝した最後のイタリア人ドライバー』の記録となっている。

没後20年となった2021年イタリアグランプリにて、モンツァ・サーキットの最終コーナー「パラボリカ」の名称が、アルボレートに敬意を表し「クルヴァ・アルボレート」と名付けられたことが発表された[31]。夫人や家族、F1グループ最高経営責任者(CEO)ステファノ・ドメニカリも式典に参加し、アルボレートにあらためて敬意が示された[32]

レース戦績[編集]

ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権[編集]

チーム シャシ エンジン タイヤ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 順位 ポイント
1979年 ユーロレーシング マーチ・793 トヨタ・2T-G G VLL
12
ÖST
5
ZOL
2
MAG
18
DON ZAN PER
4
MNZ
3
KNU KIN JAR KAS 6位 19
1980年 マーチ・803 アルファロメオ G NÜR
3
ÖST
1
ZOL
11
MAG
DSQ
ZAN
4
LAC
1
MUG
2
MNZ
1
MIS
Ret
KNU
4
SIL
3
JAR
Ret
KAS
1
ZOL
3
1位 60

ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権[編集]

チーム シャーシ エンジン タイヤ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 順位 ポイント
1981年 チーム・ミナルディ ミナルディ・フライ 281 BMW・M12/7 P SIL
11
HOC
8
THR
Ret
NÜR
8
VAL
Ret
MUG
14
PAU
Ret
PER
3
SPA
8
DON MIS
1
MAN 8位 13

F1[編集]

所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 WDC ポイント
1981年 ティレル 010 USW BRA ARG SMR
Ret
BEL
12
MON
Ret
ESP
DNQ
FRA
16
GBR
Ret
GER
DNQ
AUT
Ret
NC
(27位)
0
011 NED
9
ITA
Ret
CAN
11
CPL
13
1982年 RSA
7
BRA
4
USW
4
SMR
3
BEL
Ret
MON
10
DET
Ret
CAN
Ret
NED
7
GBR
NC
FRA
6
GER
4
AUT
Ret
SUI
7
ITA
5
CPL
1
8位 25
1983年 BRA
Ret
USW
9
FRA
8
SMR
Ret
MON
Ret
BEL
14
DET
1
CAN
8
GBR
13
GER
Ret
AUT
Ret
12位 10
012 NED
6
ITA
Ret
EUR
Ret
RSA
Ret
1984年 フェラーリ 126C4 BRA
Ret
RSA
11
BEL
1
SMR
Ret
FRA
Ret
MON
6
CAN
Ret
DET
Ret
DAL
Ret
GBR
5
GER
Ret
AUT
3
NED
Ret
ITA
2
EUR
2
POR
4
4位 30.5
1985年 156/85 BRA
2
POR
2
SMR
Ret
MON
2
CAN
1
DET
3
FRA
Ret
GBR
2
GER
1
AUT
3
NED
4
ITA
13
BEL
Ret
EUR
Ret
RSA
Ret
AUS
Ret
2位 53
1986年 F1/86 BRA
Ret
ESP
Ret
SMR
10
MON
Ret
BEL
4
CAN
8
DET
4
FRA
8
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
Ret
AUT
2
ITA
Ret
POR
5
MEX
Ret
AUS
Ret
9位 14
1987年 F1/87 BRA
8
SMR
3
BEL
Ret
MON
3
DET
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
Ret
AUT
Ret
ITA
Ret
POR
Ret
ESP
15
MEX
Ret
JPN
4
AUS
2
7位 17
1988年 F1/87/88C BRA
5
SMR
18
MON
3
MEX
4
CAN
Ret
DET
Ret
FRA
3
GBR
17
GER
4
HUN
Ret
BEL
Ret
ITA
2
POR
5
ESP
Ret
JPN
11
AUS
Ret
5位 24
1989年 ティレル 017B BRA
10
11位 6
018 SMR
DNQ
MON
5
MEX
3
USA
Ret
CAN
Ret
FRA GBR
ローララルース LC89 GER
Ret
HUN
Ret
BEL
Ret
ITA
Ret
POR
11
ESP
DNPQ
JPN
DNQ
AUS
DNPQ
1990年 フットワーク (アロウズ) A11B USA
10
BRA
Ret
SMR
DNQ
MON
DNQ
CAN
Ret
MEX
17
FRA
10
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
12
BEL
13
ITA
12
POR
9
ESP
10
JPN
Ret
AUS
DNQ
NC
(24位)
0
1991年 A11C USA
Ret
BRA
DNQ
SMR
DNQ
NC
(35位)
0
FA12 MON
Ret
CAN
Ret
MEX
Ret
FA12C FRA
Ret
GBR
Ret
GER
DNQ
HUN
DNQ
BEL
DNPQ
ITA
DNQ
POR
15
ESP
Ret
JPN
DNQ
AUS
13
1992年 FA13 RSA
10
MEX
13
BRA
6
ESP
5
SMR
5
MON
7
CAN
7
FRA
7
GBR
7
GER
9
HUN
7
BEL
Ret
ITA
7
POR
6
JPN
15
AUS
Ret
10位 6
1993年 ローラスクーデリア・イタリア T93/30 RSA
Ret
BRA
11
EUR
11
SMR
DNQ
ESP
DNQ
MON
Ret
CAN
DNQ
FRA
DNQ
GBR
DNQ
GER
16
HUN
Ret
BEL
14
ITA
Ret
POR
Ret
JPN AUS NC
(29位)
0
1994年 ミナルディ M193B BRA
Ret
PAC
Ret
SMR
Ret
MON
6
ESP
Ret
24位 1
M194 CAN
11
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
7
BEL
9
ITA
Ret
POR
13
EUR
14
JPN
Ret
AUS
Ret

ル・マン24時間レース[編集]

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回数 総合順位 クラス順位
1981年 イタリアの旗 マルティーニ・レーシング イタリアの旗 エディ・チーバー
イタリアの旗 カルロ・ファセット
ランチア・ベータ・モンテカルロ Gr.5 322 8位 2位
1982年 イタリアの旗 テオ・ファビ
ドイツの旗 ロルフ・シュトメレン
ランチア・LC1 C 92 DNF DNF
1983年 イタリアの旗 ピエルカルロ・ギンザーニ
イタリアの旗 ハンス・ヘイヤー
ランチア・LC2 C 121 DNF DNF
1996年 ドイツの旗 ヨースト・レーシング ベルギーの旗 ディディアー・セイス
イタリアの旗 ピエルルイジ・マルティニ
ポルシェ・WSC95 LMP1 300 DNF DNF
1997年 スウェーデンの旗 ステファン・ヨハンソン
デンマークの旗 トム・クリステンセン
LMP 361 1位 1位
1998年 ドイツの旗 ポルシェ AG フランスの旗 ヤニック・ダルマス
スウェーデンの旗 ステファン・ヨハンソン
ポルシェ・911 GT1-98 LMP1 107 DNF DNF
1999年 ドイツの旗 アウディ スポーツ チーム ヨースト イタリアの旗 リナルド・カペッロ
フランスの旗 ローレン・アイエロ
アウディ・R8R LMP 346 4位 3位
2000年 イタリアの旗 リナルド・カペッロ
ドイツの旗 クリスチャン・アプト
アウディ・R8 LMP900 365 3位 3位

ドイツツーリングカー選手権[編集]

チーム 使用車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 順位 ポイント
1995年 シューベル・エンジニアリング アルファロメオ・155 V6 TI HOC
1

15
HOC
2

7
AVU
1

12
AVU
2

8
NOR
1

14
NOR
2

Ret
DIE
1

11
DIE
2

11
NÜR
1

13
NÜR
2

Ret
SIN
1

Ret
SIN
2

DNS
HOC
1

16
HOC
2

15
22位 4

国際ツーリングカー選手権[編集]

チーム 使用車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 順位 ポイント
1995年 シューベル・エンジニアリング アルファロメオ・155 V6 TI MUG
1

Ret
MUG
2

DNS
HEL
1

Ret
HEL
2

Ret
DON
1

Ret
DON
2

17
EST
1

Ret
EST
2

DNS
MAG
1

DNS
MAG
2

Ret
28位 0

アメリカン・オープンホイール[編集]

インディ・レーシング・リーグ[編集]

シーズン チーム シャーシ No. エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 Pos. Pts Ref
1996 Team Scandia ローラ・T95/00 33 フォード コスワース・XB V8t WDW
4
PHX
8
11位 189 [33]
レイナード・95i INDY
30
1996–97 NHA
3
LVS
5
WDW PHX INDY TXS PPR CLT NHA LVS 32位 62 [34]
シーズン 所属チーム数 レース数 ポール 優勝 表彰台
(Non-win)
Top10s
(Non-podium)
インディ500
優勝
選手権タイトル
2 1 5 0 0 1 3 0 0

インディ500[編集]

シャシー エンジン スタート フィニッシュ チーム
1996年 レイナード・95I フォード・コスワース・XB 12 30 チーム・スカンディア

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1987年までマクラーレンが使用していた80度V6ターボエンジンからターボを外し、そのV6エンジンを2つ繋げたものが基本構成となっていた。次期NAエンジンとしてこのV12を提案されたマクラーレンは、設計図を見てポルシェとの契約を終了してホンダエンジンと契約を望む一因となった。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e ロングインタビュー ミケーレ・アルボレート To The Next Win「敗れざる夢」by Leo Turrini / Sports Graphic Number 297 F1クライマックス'92 50-54頁 1992年8月20日発行 文芸春秋
  2. ^ a b c '89注目ドライバーインタビュー ミケーレ・アルボレート F1GPX 1988年NA回帰元年記念号 27頁 山海堂 1989年2月8日発行
  3. ^ from PRESSROOM 事情通 F1GPX 1988年ベルギーGP号 8頁 山海堂
  4. ^ ラップチャート&リザルト F1GPX 1988年イタリアGP号 6-7頁 山海堂
  5. ^ アルボレート 新型NAフェラーリを語る F1GPX 1988年ハンガリーGP号 44頁 山海堂
  6. ^ アルボレートの行方はオニックスか GPX '88ポルトガルGP号 28頁 1988年10月15日発行
  7. ^ ミケーレ・アルボレートの告白 Racing On No.058 1989年 武集書房
  8. ^ アルボレート来シーズンはアロウズに決定! F1GPX 1989年第14戦スペインGP号 29頁、山海堂
  9. ^ フットワーク・フォード 9ミケーレ・アルボレート 1991F1日本グランプリ公式プログラム 50頁 (株)鈴鹿サーキットランド発行
  10. ^ フットワーク体制発表 エンジンは無限 F1GPX 1991日本GP号 46頁 山海堂 1991年11月07日発行
  11. ^ 正式発表!鈴木亜久里+フットワーク F1GPX 1991スペインGP号 30頁 山海堂 1991年10月19日発行
  12. ^ 超戦 鈴木亜久里F1エグゾースト・メモ / Sports Graphic Number 297 F1クライマックス'92 59頁 1992年8月20日発行 文芸春秋
  13. ^ 総周回数911周 1992年もっとも走った男アルボレート F1グランプリ特集 Vol.43 1993年1月号 106頁 CBSソニー出版
  14. ^ 完走周回数ベストテン・アルボレートが1位 "完走周回数"が示すチームとドライバーの実力 F1グランプリ特集 Vol.43 1993年1月号 100頁 今宮純のF1ルールなるほどザ・解説 CBSソニー出版
  15. ^ a b c d ついに消えゆくF1界最後のプロフェッショナル ミケーレ・アルボレートインタビュー F1グランプリ特集 vol.069 72-77頁 1995年3月16日発行
  16. ^ a b スクーデリア・イタリア 劣悪マシンの苦悩 F1グランプリ特集 1993年7月号 50頁 ソニー・マガジンズ
  17. ^ バルセロナテスト完全密着ドキュメント F1 PRIX オフ最新情報号 5頁-9頁 双葉社 1994年2月19日発行
  18. ^ a b c d アルボレートの熾烈な争い ベネトン第2シートをめぐりレートと火花! F1 PRIX オフ最新情報号 35頁 双葉社 1994年2月19日発行
  19. ^ 熱き冬 Barcelona Testing F1速報 1994年テスト情報号 14頁 ニューズ出版 1994年2月12日発行
  20. ^ ミナルディ・スクーデリア・イタリア誕生、P-L.マルティーニ、アルボレートと契約へ F1速報 1994年テスト情報号 21頁 ニューズ出版 1994年2月12日発行
  21. ^ a b c Minardi M194 チーム合併も活動継続以上の効果はなかったか 完全保存版・AS+F 1994F1総集編 66-68頁 三栄書房 1994年12月14日発行
  22. ^ ついにF1引退決意のアルボレート、来季はアルファロメオでDTMに参戦か AS+F '94年第15戦日本GP号 66頁 三栄書房 1994年11月24日発行
  23. ^ 元フェラーリドライバー、アルボレートが事故死 | webCG”. webCG (2001年4月27日). 2014年5月29日閲覧。
  24. ^ アルボレートの事故原因はパンク | webCG”. webCG (2001年5月7日). 2014年5月29日閲覧。
  25. ^ アルボレートの死、ドライバーに衝撃 Response 2001年4月27日
  26. ^ 『スクーデリア・フェラーリ 1947-1997 50年全記録』103頁 1998年 ソニーマガジンズ
  27. ^ ミケーレ・アルボレート(フランスGP/ポールリカール、1986年7月6日)ESPN F1フォトギャラリー
  28. ^ 資金源獲得の立役者・アルボレートの危機 F1GPX 1989年フランスGP号 29頁 山海堂
  29. ^ from PRESSROOM 事情通 F1GPX 1989年フランスGP号 8頁 山海堂
  30. ^ F1シートに復帰!流浪のアルボレート F1GPX 1989年西ドイツGP号 28頁 山海堂
  31. ^ モンツァのパラボリカコーナー、元F1ドライバーにちなみ『アルボレート』に名称変更 オートスポーツweb 2021年9月10日
  32. ^ F1イタリアGPの舞台モンツァ、名物コーナー「パラボリカ」を改称…故ミケーレ・アルボレートに敬意 Formula1-deta.com 2021年9月1日
  33. ^ Michele Alboreto – 1996 Indy Racing League Results”. Racing-Reference. NASCAR Digital Media, LLC. 2023年8月7日閲覧。
  34. ^ Michele Alboreto – 1997 Indy Racing League Results”. Racing-Reference. NASCAR Digital Media, LLC. 2023年8月7日閲覧。

関連項目[編集]

タイトル
先代
アラン・プロスト
ヨーロッパF3選手権 チャンピオン
1980年
次代
マウロ・バルディ
先代
アレクサンダー・ヴルツ
デイビー・ジョーンズ
マヌエル・ロイター
ル・マン24時間優勝者
1997 with:
ステファン・ヨハンソン
トム・クリステンセン
次代
アラン・マクニッシュ
ローレン・アイエロ
ステファン・オルテリ