日朝関係史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
日本の国際関係 > 日朝関係史
日朝関係
日本の旗   朝鮮民主主義人民共和国の旗   大韓民国の旗
Japan North Korea South Korea Locator.png
  日本

日朝関係史(にっちょうかんけいし)あるいは日韓関係史(にっかんかんけいし)では、日本朝鮮半島の両地域及びそこに存在した国家間の関係の歴史について概説する。

目次

古代[編集]

旧石器時代から弥生時代[編集]

紀元前1世紀頃の東夷諸国と楽浪郡の位置

初期の交流[編集]

旧石器時代から縄文時代にかけては、黒曜石が丸木舟によって運ばれて長距離交易の品物になった。現在の佐賀県にあたる地域から産出した黒曜石が、朝鮮半島の釜山にある東三洞貝塚からも出土している[1]新石器時代の朝鮮半島の土器は、対馬壱岐から発見されている。7000年前の縄文時代前期には、九州北部と朝鮮半島南部には漁撈民が移動生活をしながら海峡を往来していた。朝鮮半島の南部では縄文土器が発見されており、日本列島では対馬・壱岐、九州北部から朝鮮半島由来の櫛目文土器があり、釣針や中国製耳飾りも運ばれた。こうした交流は、漁の途中で一時的に海岸に立ち寄りながら行われていた。石器時代ののちには、朝鮮半島の金属器を求めて海を渡るようになる[2]

農作物の渡来[編集]

7000年前には中国の長江流域で水田稲作が始まっており、日本に渡来した経路については、朝鮮半島のルート、大陸からの直接ルート、南西諸島のルートに大きく説が分かれる[3]。稲作の渡来経路の研究として、遺伝子の研究、各種遺跡からの出土品からの農具や儀礼の研究、水耕田跡の調査などが行われている。日本および朝鮮半島、遼東半島などの極東アジアに存在する稲は、温帯性ジャポニカ種と熱帯性ジャポニカ種の大きく2種類にわけられる[4]。青森県の高樋Ⅲ遺跡や滋賀県の下之郷遺跡をはじめとして、弥生時代の遺跡からは温帯性と熱帯性の双方が発見された。稲の在来品種のDNAを核SSR(シンプル・シーケンス・リピート)法で分析した結果では、大陸と朝鮮半島の双方からの渡来が認められた[5]。日本で稲作が始まった時期は紀元前10世紀後半、場所は玄界灘沿岸からとされている。大規模な渡来は大きく3回にわたり、紀元前7世紀-8世紀、紀元前4世紀-5世紀、紀元前2世紀-3世紀とされる。朝鮮半島から壱岐を経由した種や、大陸から北部九州に直接渡来した種があったことが判明している[3][6]

国の成立[編集]

弥生時代の後半から、朝鮮半島との交流が活発になる。北部九州と朝鮮半島南部では海人族が沿岸や島々で活動しており、権力者は海民を通して青銅器や鉄器を入手した。弥生時代には、丸木舟に代わって準構造船の船団で航海が可能になり、運搬する物資も増えていった[1]。海村のネットワークにより海路が緊密になり、国々が成立した。大陸からの進出もあり、前漢の武帝衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を建設して、漢の制度にもとづく地域となった。楽浪郡では土器、青銅器、鉄器が生産されて、中国各地からの物産も集まった。高句麗に征服されるまでは、楽浪郡から中国製の器物が朝鮮半島や倭国に流通して技術も伝わっていった。日本と朝鮮半島をつなぐルートは、洛東江の狗邪国と、北部九州の奴国伊都国が結びついた。狗邪国から壱岐、対馬を経由して北部九州に着くルートが『魏志倭人伝』に書かれている。邪馬台国の時代には、外交を管理する一大率という役職が伊都国に派遣されていた[7][8]

倭国と朝鮮三国時代[編集]

三国時代の地図、5世紀終わり頃。半島西南部の解釈には諸説がある。

日本列島が古墳時代のころの朝鮮半島は、北には高句麗、東には新羅、西には百済の3国が並び、三国時代とも呼ばれている[† 1]。三国のほかにも、南部に小国の連合体である伽耶、西南部に栄山江の流域文化があった。日本列島はヤマト王権による統一政権と大宝律令の完成までは、倭国もしくは大倭国と自称していた。日本列島と朝鮮半島のいずれも統一政権ができるまでは各国が独自に外交を進め、中国の影響も受けて情勢が複雑に変化した。倭国の朝鮮に対する外交政策は、当初は百済、加耶、栄山川文化との交流が中心となったが、新羅や高句麗とも交流した[9][10]。当時の外交では質(むかわり)という制度を用いており、質は外交相手国に滞在して交渉をする人物であり、日朝間や朝鮮半島の国家間で頻繁にやりとりがあった。倭国には、百済から質が来たほかに、新羅からも未斯欣という王子が質で派遣されている[11]。統一政権ができる前の倭諸国は、最大の勢力であるヤマト王権の外交に協力するか、渡来人のような集団を独自に用いて外交を行なった。北部九州や瀬戸内海は2つの方法を使い分け、播磨や吉備は独自の外交が多かった[12]

中国の歴史書では、『魏志倭人伝』や『漢書』のほかに『隋書』、『宋書』、『職貢図』、『三国史記』などにも当時の日本列島と朝鮮半島の関係が書かれている[† 2][† 3][† 4][† 5][† 6]

三国時代前半[編集]

三国時代の前半は、高句麗が満州にまで領土を広げて最大の国家となった。百済は高句麗と対立を深めて、新羅は高句麗に従属した。4世紀後半、高句麗に服属を強いられていた百済は、高句麗に対抗するために倭国と交渉をする。倭国と百済の通交では、金官加耶に属する卓淳国が仲介をした[13]。百済は後の腆支王となる王子を倭国へ質として送り修好を結び、倭国は朝鮮半島に派兵をして倭・高句麗戦争となった。倭国は新羅を攻撃するが、高句麗の好太王が新羅を救援したことにより阻まれた。倭国は帯方郡にも侵入をするが、好太王により撃退された[14]

朝鮮半島の前方後円形墳の1つ。日本列島の前方後円墳同様に周堀を有する。

栄山江の流域は百済と異なる文化をもっており、倭国と独自に交流した。倭国は朝鮮半島から物資や先進技術を取り入れつつ、半島に行って生活する者もいた。栄山江流域の海岸沿いには、倭系古墳と呼ばれる日本型の古墳も建設されている。倭系古墳は、海を望む場所に独立して建てられ、石棺は北部九州に似ており、副葬品には倭系の武器や甲冑、そして百済の装飾品が多い。そのため、埋葬されているのは北部九州からの倭系渡来人の可能性もある。栄山江流域では、かつては倭国独特の墓とされてきた前方後円墳も5世紀後半から6世紀前半に建設されている。倭国の墳墓と似ているだけでなく、石室や埴輪型の副葬品などの共通点もあり、被葬者の出自について論争が続いている[15]。古墳は身分や出身にもとづく社会階層や外交関係も示すことから、前方後円墳の出現や大型化には中国や朝鮮半島の政治が関係しているという説もある[16]。日朝の寄港地だった沖ノ島は三国時代にヤマト王権の祭祀場となり、海上交通の祈願が行われた[17]

三国時代後半[編集]

百済から贈られた七支刀のレプリカ。石上神宮蔵。国宝

6世紀には新羅が強大になり、高句麗の領土が削られたため、高句麗は百済や倭国と友好関係を結んだ。継体天皇大伴金村による任那4県割譲など百済へ積極的な支援を行い、近江毛野に伽耶を防衛するため朝鮮半島方面への出兵を命じたが、九州の筑紫国造である筑紫磐井の謀反により磐井の乱が起きて断念した。当時の倭国は、朝鮮半島との外交権や貿易の利益をめぐってヤマト王権と豪族の対立が起きており、吉備氏の乱や、磐井の乱もこれに含まれる[18][19]。磐井の乱は物部麁鹿火によって鎮圧されたものの、出兵は取りやめとなり、新羅は加耶の全域を併合した[20]。磐井の乱を鎮圧した朝廷は外交の統一を進めて、那津に外交施設を建設する。これがのちの鴻臚館の原型となった[21]

百済・加耶・新羅が倭国の臣民であったことを記録する好太王碑

ヤマト王権は高句麗を破り、朝鮮半島に一定の勢威を有する。新羅も伽耶の調を献ずるなど倭国を立てる外交が行われた。朝鮮の三国は仏教や大陸文化を伝えることで倭国との誼を強くしようとする外交政策が行われた。しかし、推古朝の頃に新羅は任那を攻撃したため、倭国は任那救援軍を派遣し、新羅の5城を打ち破った。来目皇子を将軍とする軍が編成されるが、九州で来目皇子が病になり派遣は中止された[22]。新羅との関係は悪化し、代わりとして百済や高句麗との関係は重視された[23]皇極朝の頃に高句麗にて謀反があり、永留王に対し宰相の泉蓋蘇文が王弟を擁立し宝蔵王が即位したことが報じられ、ヤマト王権でも東アジア外交に対する緊張感が高まった[24]

百済・高句麗の滅亡と新羅の統一[編集]

朝鮮半島は、中国の唐と新羅の同盟が成立したことで統一に向けて動き出す。唐・新羅軍は劉仁軌率いる山東の唐軍と金法敏率いる新羅兵が百済を攻撃して扶余を陥落させ、義慈王太子隆が唐の洛陽に送られて百済が滅ぼされた。倭国は百済再興の名義で、安曇連比羅夫河辺臣百枝阿倍連比羅夫物部連熊守君大石らの軍勢を朝鮮に派遣するとともに、百済の遺臣鬼室福信の要請により、倭国への質として送られていた百済の王子余豊璋を護送する狭井連檳榔秦造田来津の別働隊を派遣した。斉明天皇は余豊章(≣豊)が旧百済の地に帰国する直前に百済王として即位させたと『日本書紀』に記録されている。倭国は百済の軍勢と共に白村江(現在の韓国・錦江)で唐・新羅軍と戦った。この白村江の戦いで倭国・百済軍は敗北して、百済の再興はならず、倭国は朝鮮半島から完全に撤退した。高句麗は百済の滅亡で軍事的に孤立し、唐の高句麗出兵宝蔵王らが唐に投降して滅んだ。

唐は新羅の文武王鶏林州都督府の大都督に任命して、朝鮮半島を羈縻州として支配しようとしたために唐・新羅戦争が起きた。唐・新羅戦争が始まると倭国は遣唐使の派遣を中断したが、新羅は戦争中も唐との冊封関係を維持して、唐の年号を使い続けた。新羅が唐を撤退させて朝鮮半島を統一すると、倭国は遣新羅使の派遣を始める。倭国からの遣唐使の航海では新羅の沿岸を通るため、新羅との関係は遣唐使にとって重要だった。倭国は遣唐使の第7次派遣後は新羅との関係悪化によって中断して、五島列島方面の南ルートを選んで第8次派遣を再開した[25]

朝鮮半島統一と日本の対応[編集]

高麗郡のあった地に鎮座する高麗神社の拝殿

朝鮮半島の統一は、倭国に大きな影響を及ぼした。滅ぼされた百済や高句麗からは多数の亡命者が日本列島へ渡り、新羅からも仏教僧らが逃れて来て、倭国はこうした難民を受け入れた。高句麗からの亡命者には高麗郡を与えて、716年には駿河、甲斐、相模、上総、下総、下野に住んでいた遺民を武蔵国に移住させた。同様に新羅人には新羅郡(のちの新座郡)を与えている。上野、下野でも移住は行われた。高麗郡大領となる高麗若光には705年に王(こきし)の姓が贈られて、百済の亡命者は豊璋の弟・善光が百済王(くだらのこにきし)の姓が贈られ、百済王俊哲などの人物を輩出した[26][27]桓武天皇の生母である高野新笠は、百済系渡来人の家系にあたり、2001年今上天皇による「ゆかり発言」に関連している(後述)。

九州本土の古代山城の分布

白村江の戦いの敗北と、同盟国の百済の滅亡によって、唐や新羅から日本列島への攻撃が予想された。天智天皇は防衛のために最前線の対馬、壱岐、北九州に兵士として防人を配備して、連絡用のを用意した。そして西日本に山城の造営を始めて、これに百済の亡命者も協力した。大宰府の防衛は水城大野城が担当しており、大野城と椽城は百済の専門家として憶礼福留らが作業を指導した。天智天皇が近江大津宮へ遷都した理由も、防衛のために交通の便がよい地を選んだとされている。唐が西方の吐蕃から攻撃を受けて東方への進出をやめるまで、日本と新羅は戦時体制が続いた[28]

ヤマト王権は防衛を整えるとともに、外交や貿易の施設として筑紫館(つくしのむろつみ)を設置した。大宰府が行政機能を有したのに対して、筑紫館は使節の宿泊や検問、貿易の取り引きをする施設となり、唐、新羅、渤海との交流に用いられた[21]

渤海・耽羅[編集]

朝鮮半島北部では高句麗が唐に滅ぼされて、高句麗の遺民によって渤海が建国された。渤海は唐や新羅と対立したため、日本は渤海と同盟関係を結んで渤海使遣渤海使を交換した。922年までに34回の渤海使が日本に対して朝貢を行い、当初の渤海使は日本との政治的な結びつきを重視していたが、渤海と唐の関係が改善すると貿易が重視された[29]

日本は、済州島に成立した耽羅との間にも7世紀半ばから遣耽羅使・耽羅使を交換した。のちに耽羅は、莞島とともに海上貿易の拠点となる[30]

律令国家と新羅・高麗[編集]

律令国家の成立[編集]

日本列島では大宝律令が制定されて、それまで「倭国」を自称していたヤマト王権は「日本」を用いるようになった。外国に関する規定は中国の華夷思想をもとに定められて、天皇の統治の及ぶ地は化内、その外は化外となり、化外は隣国(唐)、蕃国(新羅、渤海)、夷狄(毛人隼人)に分類された。これによって、奈良時代以降の日本は、朝鮮半島に朝貢を要求するという外交政策を進めた。一方で朝鮮半島を統一した新羅は対等の関係を望んで対立し、渤海も唐との関係が改善すると日本を冊封による宗主国ではなく貿易相手国と見なすようになった[31]

新羅と日本の緊張関係により、遣唐使が朝鮮沿岸を経由できなくなるなどの影響があったが、新羅の王子金泰廉らは天皇に拝謁し併せて貢物を献上した[32]。朝廷の命を帯びない日本側の兵船300隻が突如、新羅を攻撃し、大敗したとの報が朝廷にもたらされた。朝廷は日本海側の沿岸防衛のために東海道東山道節度使を置き臨戦態勢を整えた[† 7]。その後、九州で天然痘が蔓延したため、朝廷は東国からの防人の徴兵を廃止し、壱岐、対馬の防人は筑紫国の人々とすることを決定した[34]。新羅に敗北した唐は新羅攻撃を計画して、日本にも支援を求める。しかしその頃の日本は天智天皇の崩御の直後であり、唐の使者に武具などを献上して出兵を免除された。唐の新羅攻撃は、チベットの吐蕃が西部の領土を攻撃したために中止された。唐の脅威の後退により、日本と新羅は臨戦体制から平時へと移行して中央集権化を進めた[35]

新羅との断交と貿易の増加[編集]

遣唐使において、新羅との対立が起きる。藤原清河を大使とする遣唐使が唐の大明宮含元殿にて玄宗の拝謁をする席上、日本側副使の大伴古麻呂と新羅使との間で外交席次をめぐる争いが起こった。この時の席次は東畔の第一が吐蕃、第二が日本で西側の第一が新羅、第二が大食であった。古麻呂は新羅は古来、日本の朝貢国であるのに日本が下位であるのはおかしいと抗議し、唐の将軍呉懐実は古麻呂が中々引く気配がないことから席次を改め日本を第一の席に変更したという。この翌年、小野田守が遣新羅使として派遣された。日本からの遣新羅使、新羅からの新羅使9世紀半ばまで断続的に続いた[25]

唐で安史の乱が起きたという情報が日本にもたらされ、藤原仲麻呂大宰府をはじめ諸国の防備の強化を命じる。さらに新羅使の金貞巻が日本を来訪したが、大宰府に派遣された藤原朝狩が貞巻を尋問したところ、貞巻は国書を持参せず、17階中11階と下級官吏であることが判明したため、賓待に値せずと追い返した。日本ではこの外交の非礼に新羅遠征の機運が高まった。朝廷は武蔵国美濃国両国の少年20人に新羅語を収得させるとともに東海道、南海道西海道に節度使を設置した[36]。そして新羅征討計画が立てられるが、後の孝謙上皇と遠征の主導者である仲麻呂との不和により実行されずに終わる[37]。その後も再び新羅使が入朝するがまたも非礼があり、これを追い返した[38]。そして大伴峰麻呂を大使、林真継を副使として予定していた遣新羅使を突如停止し、日本は新羅との国交を断絶した。国交がなくなったために外交使節による管理貿易も停止されたが、これによって日本と新羅の私貿易は増加した[25][39]

9世紀中頃に入ると、新羅は内紛によって政情が不安定となる。統制がゆるんで新羅人が九州や対馬で海賊行為や沿岸の襲撃を行い、新羅の入寇として日本は対策に追われた。断交後も新羅商人の入国・貿易を認めていた朝廷も、貿易を口実に日本の政情をうかがう新羅人の存在を知り、大宰少弐藤原衛の奏上に基づいて、商人以外の新羅人の入国を禁止した[40]。常願入寇の三年前には応天門の変が起こっており、日本国内の政権抗争と同時期に起こった入寇などの対外的緊張の中で、新羅排斥傾向が生み出されたとされる。新羅の弱体化によって朝鮮半島は三国が並び立つ後三国時代となり、混乱は続いた[41]

高麗[編集]

後三国時代から新羅が滅んだのちに、高麗が半島を統一する。高麗の南原府の咸吉兢が対馬に漂着し、次には金海府の李純達が大宰府に到着した。高麗使が日本に入朝して国交を求めたが、日本は朝貢以外は認めないとして拒絶した。このために高麗や女真は日本沿岸を襲撃して、長徳の入寇刀伊の入寇が起きた[42]。高麗は両班制度で優遇された文人と、蔑視された武人が対立して、武人が国王に代わって政治を主導する武臣政権となり、のちの元寇まで続く[43]

経済面[編集]

青銅と鉄の入手[編集]

壱岐の原の辻遺跡。全体の総面積は100ヘクタールにわたり、一支国の首都とされている

朝鮮半島に訪れる弥生人の主な目的は青銅と鉄だった。朝鮮半島で鉄関連の資料がある遺跡のうち45%の場所で弥生式土器も発見されている。鉄鉱石が産する達川遺跡や、鉄交易を行なっていた勒島遺跡などがある。『魏志倭人伝』の一支国の首都とされる原の辻遺跡には人工的な港があり、大陸や半島南部との貿易拠点として建設されていた[44]。漢が建設した楽浪郡では土器、青銅器、鉄器が生産されており、朝鮮人の他に日本人(倭人)も訪れて壱岐、対馬、北部九州へ運んだ。『魏志』弁辰伝には弁韓の鉄を求める倭からの来訪者が書かれており、『漢書』の地理志には「楽浪海中倭人あり」とある[45][46]銅鏡、鉄製品、ガラス玉など大陸の品を入手するために、日本側では海岸で生産した塩、そして稲や生口(奴隷)を送った。伽耶には、鉄を得るために倭人が訪れていたという記述が『魏志』にある[47]。ヤマト王権による統一前には、邪馬台国、九州北部の奴国や伊都国、瀬戸内海の吉備氏などが朝鮮半島と貿易をした。倭国は倭錦や真綿などの絹製品や、九州北部の穀物を輸出した。『魏志』には、壱岐島や対馬が市糴(穀物貿易)を南北で行なったという記述がある[48]

三国時代・新羅[編集]

倭国は三国の中で百済との贈答が盛んとなり、百済から贈られたとされる七支刀石上神宮に現存する。朝鮮半島からは工芸品や技術者、倭国からは兵や武器、穀物、繊維品が贈られた。朝鮮半島から日本列島に来た渡来人には工人もおり、4世紀に帯金式甲冑、4世紀後半に馬具が製作されるようになり、農具や工具も輸入された[48]

新羅が朝鮮半島を統一すると、日本と新羅は遣新羅使と新羅使が管理貿易を行なったが、これが外交の緊張で滞るにともない、新羅の海商が活動した。安史の乱によって唐の政情が不安定になると、陸上より海上の貿易が増加して、日本、新羅、唐、中国沿岸のイスラーム商人などが航海をした。海域の安全保障に貢献したのは、新羅の張保皐だった。保皐は海賊の奴隷貿易を取り締まり、耽羅や莞島を拠点として日本・新羅・唐で貿易を行う。新羅商人を通じ、中国に入ってくる波斯国天竺などの産物も日本にもたらされた。律令法では購入権が朝廷、官司、貴族の順番で決められており、貴族が新羅の輸入品を買うには買新羅物解(ばいしらぎもののげ)という文書で申請が必要であり、こうした記録が正倉院文書として残っている。日本の輸出品は真綿、絹などで、新羅の輸出品は朝鮮人参、佐波理と呼ばれる合金製の食器、顔料、黄金、香料などだった[49]。最後の遣唐使の一員として留学をしていた僧の円仁は、張保皐や新羅商人の助けにより唐からの帰国を果たした。円仁の旅行記『入唐求法巡礼行記』には、治安が悪化する長安での生活、唐人や新羅人との交流、新羅商人の航海の様子が書かれている[50]

渤海・耽羅[編集]

渤海貿易では日本の絹織物が輸出される一方、渤海からは貴族の間で珍重された虎や貂が輸入された。日本では渤海に対する回賜が財政の負担となり、朝貢の期間を12年に1度と変更した。済州島の耽羅も倭国に対して朝貢を行った[30]

貨幣[編集]

日本では無文銀銭富本銭などの貨幣の鋳造が始まっていたが、最初に全国的な通貨となったのは和同開珎とされる。和同開珎の発行は、新羅の渡来人である金上无の発見がきっかけだった。金は、元明天皇の時代に武蔵国秩父郡で和同(にぎあかがね)と呼ばれる純度の高い自然銅を発見して献上した。これを記念して和銅という元号が定められて、和同開珎が発行された[51]

文化面[編集]

漢字[編集]

木簡の分析によって、日本の漢字使用の開始に渡来人が関わっていたことが認められる。日本列島における言語表現としての漢字は5世紀の金石文があり、稲荷山古墳出土鉄剣の漢字には、朝鮮半島の木簡と同じ用法が見られる。飛鳥時代の木簡には、朝鮮半島系の漢字表記があり、音読みの方法として呉音や漢音のほかに古韓音も用いられている。古韓音は古代の朝鮮半島系の音読みで、中国の上古音に由来する。こうして中国語とは構造が異なる日本語を漢字で表現するための試行錯誤がなされていた。漢字は、7世紀までは朝鮮半島を経て日本列島へと伝わり、中国の漢字用法を直接に取り入れるのは遣唐使が始まった8世紀からとなり、新しい音読法として唐音がもたらされた[52][53]

暦・占術[編集]

日本列島に中国式の暦が伝わったのは5世紀後半となる。中国は冊封した国に暦学を送っており、倭の五王が中国南朝のに朝貢をした時に暦を与えられた。『日本書紀』は、456年から697年まで中国の元嘉暦にもとづいて書かれており、中国との交流が絶えていた期間は、百済から暦博士が来日して暦本も送られた。百済の僧観勒は、暦本、天文地理書、遁甲方術書をもたらし、陽胡玉陳大友高聡山背日立らの師匠となった[54]

儒教・仏教[編集]

飛鳥寺(法興寺)復元図

百済からを中心として仏教が伝来した。百済は仏舎利のほかに僧侶、寺師鑪盤博士瓦博士画工などの技術者をもたらした。百済の聖明王が欽明天皇に仏像、仏画、経典などを送り、高句麗は僧を送った。百済から倭国に経論律師造仏工も献じられ、新羅も倭国に対し調と仏像を献じた。こうして三国の文物は日本の飛鳥文化に影響を与えた[55]。入朝した僧には、百済からの観勒、高句麗からの曇徴や、厩戸皇子の師になった恵慈がいた[23]

応神天皇時代に、百済から招かれた博士の王仁が、儒教における四書の1つ『論語』をもたらしたという伝承がある。百済からの渡来人としては王辰爾も儒教の普及に貢献した。王辰爾や王仁のように「王」を姓にもつ者は、中国を出自にもつ百済人の可能性もある[56]

技術・工芸[編集]

朝鮮半島の南東には弥生式土器が発見されており、楽浪郡と北部九州をつなぐ弥生人の拠点があったとされている[57]。焼き物の須恵器、金工や製鉄などの金属加工技術、カマドなどの技術は5世紀に日本列島に伝わって急速に普及した。朝鮮の栄山江には前方後円墳などの倭系古墳があり、日本には女木島古墳など朝鮮半島系の古墳がある[58]。日本最初の仏教寺院である飛鳥寺の造営では、百済や高句麗が支援をした。建設では、蘇我氏の配下である渡来人技術者の東漢氏忍沼氏朝妻氏鞍部氏山西氏らが参加して、本尊の造仏には高句麗が黄金を送った[59]。日本産の青銅器の発見は紀元前3-4世紀、鍛造の鉄器は紀元前3世紀前後で、当初は朝鮮半島から入手した素材を再加工した。鉄鉱石からの製鉄が始まるのは6世紀後半、銅鉱石からの製銅が始まるのは7世紀からとなる[60]。日朝の古墳や交易地の遺跡からは交流を示す工芸品が発見されており、三累環頭垂飾付耳飾土師器筒型銅器晋式帯金具などがある[61]

文芸・芸能[編集]

王仁は、『論語』とともに漢文の長詩『千字文』をもたらしたという伝承もある。『千字文』の成立は6世紀であるため、百済からの渡来人によることが王仁の説話に加えられたとされる[56]。渡来人の歌人では、『万葉集』に歌を収録された田辺福麻呂背奈行文、六歌仙の一人でもある大友黒主らがいる。百済からは味摩之(みまし)の入朝により仮面劇の伎楽が伝えられて、外来芸能として発展していった[62]

中世[編集]

元寇[編集]

モンゴル・朝鮮軍に白兵攻撃を仕掛ける日本軍

高麗への攻撃[編集]

中世では、が2度にわたって元寇と呼ばれる日本への攻撃を行った。元はモンゴル帝国の時代にモンゴルの高麗侵攻によって高麗を服属させ、次に日本を攻撃した。高麗はそれまでの文人政権に代わって武人による武臣政権が成立していたが、モンゴル軍によって文人政権が復帰した。『高麗史』や『元史』によれば、高麗の官僚趙彜や、のちに忠烈王となる王世子の要請があったために日本攻撃が決定された[† 8][† 9]。高麗国王はモンゴル軍によって王権を回復した際に、モンゴルの出征に積極的な協力をするという方針を定められており、そのため日本攻撃を進言したとされる。高麗の軍事組織三別抄は、反モンゴルを掲げて蜂起して、耽羅を拠点として日本へ救援を求めた。鎌倉幕府は救援を黙殺して三別抄は敗北し、朝鮮半島全土がモンゴルの勢力下となった。高麗軍は元軍とともに日本を攻撃したが、高麗国民には多大な負担となり、元の世祖クビライに反対意見を上奏する金方慶のような将軍もいた[63][64]

日本への攻撃[編集]

元に服属した高麗は、日本へ元の国書を送るなど外交交渉を担当した。高麗の使者から国書を受け取った鎌倉幕府では、返書を送らないことを決定する。18歳の北条時宗が執権となり、山門との紛争、御家人の所領、幕府内の権力闘争など国内問題に対応するうちに最初の使者から3年間が経過した。さらに強硬な使者の来訪にも幕府は返書をせずに元の攻撃への対策を進め、元軍による攻撃が行われた。元軍は高麗人のほかに南宋人や女真人も含む多民族構成で、壱岐・対馬や博多において九州の御家人を中心とする鎌倉幕府軍と戦った。当時の様子は日蓮が書簡で触れている[65]。結果的に日本は、元・高麗軍の兵力不足や暴風雨もあったことで防衛に成功した。元・高麗軍が暴風雨で大きな被害を受けた際、日本はモンゴル人、高麗人、女真人の兵は殺したが、日宋貿易で交流があった南宋の兵は捕虜として助命した。幕府では高麗遠征計画が持ち上がり、少弐経資を大将として南海道の御家人や非御家人を動員しようとしたが、御家人の否定的な反応が強く、九州沿岸に石塁を築く工事も始まったことから取り止めとなった。商業の進展による御家人の困窮、御家人を保護するための徳政令、御家人の恩賞問題など、元寇は日本の変化を早める結果となり、幕府は弱体化した。元寇にまつわる逸話は、ヴェネチアの商人マルコ・ポーロにも伝わり、『東方見聞録』に記された[66]

倭寇[編集]

日本の南北朝時代から室町時代、朝鮮の高麗から朝鮮王朝にかけては倭寇と呼ばれる海上勢力が活動して、中国や朝鮮半島の沿岸で海賊や密貿易を行った。14世紀から15世紀にかけての倭寇は前期倭寇とも呼ばれる。倭寇の原因としては、各国の治安悪化や貿易政策があげられる。日本は鎌倉幕府の滅亡後は南北朝の分裂や応仁の乱などで政情が不安定であり、高麗では元軍による占領の影響で国内が疲弊していた。このため両国では海域の治安を維持できなかった。中国では元のあとに建国された海禁政策を行ったため、沿岸の商人が密貿易や海賊行為に手を出していた。倭寇は日本人、朝鮮人、のちの16世紀には中国人やポルトガル人も混在した[67]

早くは元の末期に記録があり、藤原定家は『明月記』で、高麗と戦争をしているのではないかと憂慮している。『高麗史』には、中定王の時代に倭寇の襲撃が始まったという記録があり、日本では観応の擾乱が起きていた時代にあたる。倭寇が固城・竹林・巨済・合浦などに侵入して高麗の崔禅らが迎撃しており、「倭寇の侵」の始まりとしている。前期倭寇の拠点は対馬、壱岐、松浦、済州島、舟山列島であり、襲撃した土地の人間を拉致して強制的に部下にする場合もあった[67]。14世紀の倭寇は、米穀など必需品を狙っており、次第に大規模となって高麗の首都開京付近に迫った。藤経光の誘殺未遂事件による倭寇の活動の活発化も指摘されている。高麗では、倭寇の略奪から防ぐために政府の倉庫を内陸へ移して、全羅道や楊広道の沿岸は生活に適さない地域となった。沿岸部が荒廃して人口が減少すると、倭寇は騎馬隊でさらに内陸へと侵攻して、高麗で差別されていた水尺や才人の中にも倭寇に参加する者が出た[68]

各国の倭寇対策[編集]

高麗や室町幕府は倭寇対策で協力するようになる。高麗使節の金逸金竜が派遣されて、室町幕府に倭寇対策のために交渉が行われた。九州探題として派遣された今川貞世は高麗の鄭夢周らと協力し、大内氏らとともに倭寇を討伐した。倭寇の捕虜となった高麗人の送還も行われて、高麗と対馬宗氏との通交も始まった[69]。高麗は康応の外寇で、慶尚道の元帥である朴威が浅茅湾の西から対馬国を攻撃して日本側は対馬守護宗経茂の弟、宗永が討たれ、和船100隻が焼き討ちされた。一方、高麗軍は高麗人捕虜男女100人を救出し奇襲作戦を成功させている[70]。高麗と室町幕府の使者と国書に対する返礼は、のちの朝鮮王朝では朝鮮通信使として始まった。倭寇との戦闘で名を馳せた高麗の李成桂は、のちに朝鮮王朝(李氏朝鮮、李朝)を建国する。

李朝は倭寇対策として壱岐と対馬の討伐を命じて、1396年の攻撃を行った。李朝は室町幕府に対して倭寇の禁圧を求め、中国のも同様の要請をした。要請を受けて、室町幕府では3代将軍の足利義満が倭寇を鎮圧した。義満は朝鮮へ使節を派遣し、管理貿易として日朝貿易が行われる。李朝の倭寇への懐柔策は効果をあげて、海賊行為から貿易へと変化したり、朝鮮に渡航する者が増えたが、同時に李朝の財政の負担が増えたために渡航者を制限した(後述[71]。明からも倭寇対策を求める使者が来訪して、室町幕府の第3代将軍足利義満は朝鮮と交隣関係を結び、明とは冊封関係を結んだ。

対馬は倭寇の拠点でありつつも、宗氏は倭寇対策で李朝に協力した。李朝は宗氏に使節を派遣し、日本の密航者の取り締まりを求めた。対馬は貿易の利益と自国の防衛のために、倭寇の情報を李朝へ送るようになる。対馬は各地の商人のネットワークを活用して、壱岐、博多、赤間関、肥前が情報源となった[72]

朝鮮王朝[編集]

高麗では倭寇や紅巾賊の討伐に功績のあった李成桂らが宮中で台頭した。李成桂は滅亡に瀕した元の要請で明軍を攻撃するために北上するが、途中で引き返して実権を握り、朝鮮王朝李氏朝鮮、李朝)を創建する。李朝は建国時から明と関係が深く、国号の「朝鮮」は明から下賜されており、冊封関係は明の滅亡まで続いた。李朝は儒教朱子学を信奉して華夷秩序を厳格に守る方針をとり、華夷秩序の中心である明に忠実な国となった[73]。李朝からの朝鮮通信使は室町幕府の将軍に対して行なわれた。天皇は将軍の上位にありつつも国政を行わず、実権は将軍にあると李朝では解釈した。

倭館[編集]

李朝は、倭寇の拠点となっていた対馬を応永の外寇で攻撃する一方で、朝鮮半島に倭館を建設した。倭館は日本人(倭人)向けの客館であり、貿易で来航する日本人の居住や、倭寇の活動を貿易に変えて沈静化する目的も兼ねていた。李氏朝鮮は倭寇の懐柔策を行い、降伏して定住する日本人が増えて投化倭人と呼ばれた。こうして、さまざまな役割で李朝と交流をする日本人が増えた。朝鮮の官職を持って貿易も許された受職倭人や、港に定住する恒居倭人、日本の豪族の使者で使走船に乗る使走倭人などもいた。商人は興利倭人と呼ばれて、商船は興利倭船と呼ばれた。明が海禁政策で日本との貿易を公認しなかったこともあって興利倭人が急増して、李朝は対馬、壱岐、九州の諸大名の渡航許可書を義務づけた。李朝は対馬国に在留期限を超えた恒居倭人の帰国を求める使節の派遣を予定していたが、島主の宗材盛の急逝で使節派遣を延期した[74]。15世紀末には恒居倭人は3000人近くに達して、恒居倭人の暴動は対馬も巻き込んで三浦の乱となった。三浦の乱ののちは、三浦での日本人居住が禁止されて、李朝が軍事機関の備辺司を設置するきっかけとなった。倭寇の影響もあってたびたび国交は断絶して、丁未約条丁巳約条で貿易が再開される。入港地は釜山浦に制限されて、秀吉による朝鮮出兵まで続いた[75]

対馬[編集]

対馬海峡(朝鮮海峡)周辺の地図。対馬は、日朝の貿易や外交で重要な地域の一つとなった。済州島には、古代に耽羅があった。

対馬は日本列島と朝鮮半島の中間に位置することを利点として、古代から貿易を行なっていた。耕作可能な土地が少ない点も、貿易の必要性を高めた。朝鮮国王の世宗は倭寇の根拠地だった対馬を攻撃して、対馬守護の宗貞盛による反撃で撃退された。これを応永の外寇(己亥東征)と呼ぶ[76]。のちに宗貞盛と李朝との間で嘉吉条約(癸亥約定)が締結されて通交が始まり、宗氏は年50艘の歳遣船を認められて活発に貿易を行った。加えて宗氏は特別時に使者を送る特送船も認められた。中世の貿易では中国の陶磁器が重要な商品であり、14世紀以降の対馬は高麗青磁をはじめとする朝鮮半島産の陶磁器も多く輸入された[77]。のちの豊臣秀吉や徳川家康の時代には、対馬が李朝との外交を担当するようになる[78][79]

偽使[編集]

偽使とは、名義を詐称する偽りの外国使節を指す。中世では朝鮮半島に行く偽使がおり、朝鮮側では偽使を中間詐為者や中間奸人と呼んだ。応永の外寇以後は、李朝との貿易には公式の使節である必要があり、使節を名乗って李朝を来訪する者が多数にのぼった。偽使のパターンとしては、(1)通行者の名義を借りる者、(2)通行者の名義を無断で使う者、(3)実在の有力者の名を詐称する者、(4)架空の有力者の名を詐称する者、(5)架空の国家の使節を詐称する者に分かれる。偽使が詐称した立場としては、室町幕府の使節、対馬宗家の使節、大名の使節、琉球王国の使節などがある[71]。琉球王国の偽使は、対馬や博多の商人などが中心となっており、琉球が日本の商人や僧に李朝との通交を委任するようになると発生した[80]。第8代将軍足利義政の使者に夷千島王遐叉と呼ばれる人物が同行したことがあるが、民族の出自が定かではなく、偽使とする説もある[71][81]。偽使ではないが、公式の外交担当者が外交文書を偽造することもあり、のちに事件となった[82]

経済面[編集]

倭銀[編集]

石見銀山。龍源寺間歩(入口)

日本は中世後期から銀や金の産出量が急増する。そのきっかけは、朝鮮半島からの技術だった。博多商人の神屋寿禎が、宗丹慶寿という技術者を朝鮮半島から石見銀山に連れてきて、灰吹法という技術が伝わった[83]。古代からの鉱脈だった石見銀山は再開されて、対馬や壱岐を経由して博多や朝鮮半島へ鉱石が運ばれた。灰吹法が各地に伝わると銀の産出量が増えて畿内や九州、貿易港に銀が流通した[84]。当時は銀が国際的な貨幣であり、日本の銀は倭銀とも呼ばれて日朝貿易の重要な輸出品となる[85]

日麗貿易・日朝貿易[編集]

日本と高麗に外交はなかったが11世紀から貿易が行われ、対馬の人間が最多で、ほかに筑前や薩摩がいた。日本は真珠、刀剣、水銀、柑橘類などを輸出し、日本船は進貢船とも呼ばれて年1回渡航した。元寇によっていったん貿易は途切れる[86]

李朝では、応永の外寇以降に貿易の管理を進めて、貿易を許可された日本人は受図書人と呼ばれた。日朝貿易は大きく分けると、(1)公式な通交である使節の進上と回賜、(2)官僚による公定価格を用いる公貿易、(3)商人同士による市場価格を用いる私貿易の3種類がある。取引額は(2)と(3)が大部分を占めた[87]。(1)や(2)には九州探題守護国人のような外交と公貿易を兼ねた通交が許可されて、公式な使節は使送船を用いた。(3)には興利倭人と呼ばれた商人が多数おり、小規模な者は対馬の海産物や塩を穀物と交換して食料を入手していた。大規模な興利倭人は豪族の早田氏中尾氏小島氏のように朝鮮-対馬-筑前・肥前を結ぶルートで貿易を行った[88]。日本が入港できる場所は、太宗の時代には富山浦乃而浦で、世宗の時代に塩浦が加わって三浦とも呼ばれた。三浦の乱や倭寇の影響で、最終的には入港地は釜山浦となる[89]

倭銀の生産が増えてからは、日本の輸出品は銀、朝鮮の輸出品は木綿布だった。木綿布は帆船の帆布や衣料品として日本に普及した[85][90]。もっとも貿易を活発にしたのは対馬の宗氏であり、他の地域は歳遣船が年1-2艘であるのに対して年50艘が認められていた。朝鮮からの輸出品は博多から国内に流通しており、対馬と博多の間は日朝貿易の往来が多かった[91]。他に大内氏、九州探題の渋川氏、肥前の宗像氏、肥後の菊池氏、薩摩の島津氏なども渡航した。日朝貿易は一時中断したのちに15世紀中頃に再開されるが、これは李朝が密貿易に統制をかけようとした目的があった[75]

中世の東アジアでは中国の陶磁器が大量に流通する一方で、朝鮮半島からは高麗青磁が輸出された。高麗青磁は、朝鮮半島に近い対馬のほかに、東北の安東氏が治めた十三湊でも発見されている[92]

琉球王国と日朝貿易[編集]

琉球王国では明に朝貢していたほかに、日本や東南アジアと中継貿易を行っており、高麗の時代に中山王察度が使節を送って朝鮮半島とも通交した。琉球は日本との関係を参考にして、高麗に対しても朝貢を行った。朝鮮側では琉球を四夷の一つと見ていたが、李朝になると形式的には対等の関係となった。琉球は日朝の貿易ルートに加わる形で、対馬や博多と共同で通交した。琉球船が対馬の倭寇に襲撃されたのちは、朝鮮への航海を停止する。そして安全保障のために倭寇を警固として雇い、通交を再開した。再開時の船主は、対馬の賊首とも呼ばれた早田六郎次郎だった。琉球は通交についても委託をして、博多商人の道安佐藤信重らが琉球の使者として李朝を訪れた。琉球の朝鮮通交の目的の一つは『大蔵経』であり、李朝からの下賜で入手した[93]

文化面[編集]

朱子学[編集]

海東諸国全図

李朝は朱子学を重視して、明以上に儒教を重んじる国となり、華夷秩序の思想は李朝の外交政策に影響した。李朝は、明を中心とする世界観のもとで自国を藩属と定義して、明に宗属しつつ、隣国の女真、日本、琉球は夷狄と見なして対等の関係にあたる交隣関係を結んだ[94]

外交文書の成立[編集]

通信使が始まると日朝では外交書も書かれた。朝鮮側では、宗希璟による『老松堂日本行録』や申叔舟の『海東諸国記』などの日本渡来記が書かれて、日本や琉球王国に対する基礎情報となった。日本側では、瑞渓周鳳が『善隣国宝記』を書き、日本初のまとまった外交文書となった[95]

文化財の流出[編集]

李朝では朱子学が広まるにつれて仏教の圧迫が始まり、日本では禅宗が幕府に保護されて隆盛していた。そのために経典や仏具をはじめとする高麗時代の仏教文化財が日本へ流出した。中でも『高麗八萬大蔵経』は、誤りが少ない良本として日本の諸勢力が求めており、朝鮮通交の大きな目的にもなっていた。木版印刷の『大蔵経』や鐘楼などは高値で取り引きされたために大量に日本に輸入された。

近世[編集]

女直の勃興[編集]

中世から続く日朝貿易は、間接的に明に大きな影響を与えた。日本が輸出した銀は、李朝を通して明と朝鮮の中間に位置する遼東にも流通しており、遼東の交易には女直(女真)が参加していた。女直は高麗人参や毛皮などの高級品を輸出して栄え、ヌルハチの支配によって勢力を拡大した。秀吉による朝鮮出兵以前にヌルハチは挙兵して、民族は満州族と名を変え、やがて明に代わって中国を支配する王朝となる[96]後述)。

文禄・慶長の役(壬辰戦争、唐入り)[編集]

日本を統一した豊臣秀吉は中国の明の征服を企図し、対馬の宗氏を介して朝鮮に服従と明征伐の先鋒となることを求めた。対馬の宗義智は、秀吉の命令を変えて、朝鮮には秀吉の天下統一を祝賀する朝鮮通信使を送ってほしいと要請した。こうして約150年ぶりに通信使が派遣されて秀吉に謁見したが、秀吉は対馬が命令を変えたことを知らないために、李朝が降伏しに来たと錯覚した。秀吉は朝鮮国王に対して明の征服を先導するように求める書を渡す。

李朝には、通信使の派遣前から秀吉の朝鮮侵攻の噂が伝わっていた。そのため通信使の目的は、名目上は秀吉の日本統一を祝いつつ、噂の真偽を確かめることだった。しかし、通信使の正使黄允吉と副使金誠一は、それぞれ西人党東人党という異なる党派に属して対立関係にあった。西人党の黄允吉は侵攻があると報告し、一方で東人党の金誠一は侵攻はないと報告をした。当時の李朝では東人党が力を持っており、金誠一の意見が採用された。のちに日本軍が一気に進軍できたのは、この誤情報も一因とされる[97]。文禄の役ののちに通信使をつとめた黄慎は、関白は人臣であるため礼分の面では対等ではないが、天皇は政治に無縁であると観察した[98]

秀吉は明に行くために朝鮮半島を通行する要求を行ったが、李朝から良い回答がなかったため、朝鮮半島を攻撃した(文禄・慶長の役)。緒戦で日本軍は各地の朝鮮軍を破って平壌咸鏡道まで進撃したが、伸びた戦線に対して義勇軍の抵抗を受け、李朝が宗属している明軍も参戦する。戦争の長期化を望まない小西行長などの領主がおり、明や李朝との講和交渉を優先させて、戦線を後退させたまま戦局は膠着した。秀吉の死去にともない日本軍が撤退して終戦となり、日本と中国・朝鮮軍との間で展開したこの戦争は16世紀東アジア最大の戦闘ともいわれる[99]。交戦と治安悪化、食糧再分配と生産の崩壊と民衆反乱などもあり、朝鮮の国土は疲弊した。また、この時の騒動で役所に保管されていた戸籍なども燃やされ、その結果朝鮮半島では白丁が低減し、両班を自称する者が増加したと言われている。

文禄・慶長の役で荒廃した朝鮮半島の様子は、日本軍に従軍した僧の慶念による『朝鮮日々記』や、興福寺の僧による『多聞院日記』にも書かれた[100]

徳川政権による国交回復[編集]

秀吉の死後、日本では徳川家康による武家政権である江戸幕府が成立した。徳川家康は、秀吉の「唐入り」には消極的で朝鮮半島に派兵せず、朝鮮との国交回復を望み、宗氏を介して使節を派遣した。こうして徳川家康と李朝の間で国交回復の交渉が進められた。光海君は捕虜の送還や貿易交渉に応じ、己酉約条が結ばれて貿易が再開された。李朝は日本との正式な国交がある通信国となった[101]。日朝の交渉を仲介した対馬藩は、早期の国交回復をさせるために徳川幕府の国書やそれに対する李朝の返答書を偽造、改竄していた。改竄が発覚して関係者が処罰される柳川一件が起こり、柳川一件ののちに貿易は幕府が管轄した[82]

日本人が国交のない地で救助された場合は帰国が保証されておらず、滞在が長期にわたったり帰国できない場合があった。日本、琉球、李朝、清では漂流民の送還が行われるようになり、朝鮮に漂着した日本人は、保護のもとで比較的に短期間で帰国できた、秀吉後の断交状態でも日朝相互の漂着民の送還は行われており、江戸幕府の寛永期には両国で漂流民を送還する体制が整えられた。1618年から1872年までに朝鮮から送還された日本人は1200人を超える。外国に漂着した者は、帰国後に他国への往来を禁じられて死亡時は幕府に届け出る必要があったが、朝鮮からの帰国者は緩和が進み、漂着前と同じ生活が送れるようになった[102][103]若狭国以西では、畠山氏のように漂流民の送還とともに李朝との貿易を行おうとする大名や、李朝に使者を送った大名もいた[92]

朝鮮通信使[編集]

狩野安信『朝鮮通信使』大英博物館蔵。1655年承応4年・孝宗6年

正式な国交がある通信国として、外交使節である朝鮮通信使も再開した[101]。室町幕府に対しては4回訪日した朝鮮通信使が、江戸幕府では将軍の代替わりごとに将軍家を祝賀するために来訪して、公式の外交関係が保たれた。通信使は第2代将軍徳川秀忠の時代から始まり、国交回復までの回答兼刷還使3回と通信使が9回、約200年に渡って合計12回の来訪を行った。李朝では文禄・慶長の役の影響で警戒をしており、朝鮮半島での外交交渉は倭館に滞在する対馬藩の使者との間で行われ、将軍の使者は直接に朝鮮国王には派遣されず、日本使節は漢城や内陸部には入らなかった。李朝は江戸幕府の政治について、室町幕府と同じく国政を行うのは天皇ではなく将軍だと解釈した。そこで、室町時代と同様に将軍に対して通信使が派遣された[104]。交渉の実務記録は、対馬藩の記録が宗家文庫として残っており、他に対馬藩儒の雨森芳洲による『交隣提醒』や『交隣始末物語』、松浦霞沼『朝鮮通交大紀』、草場佩川『津島日記』などがある。室町時代の外交文書『善隣国宝記』に続いて、江戸時代には『続善隣国宝記』も書かれた[95][105]。対馬藩の藩儒である雨森芳洲は、第9次通信使の申維翰と親交を結び、申維翰は体験記として『海游録』を書いた[106][105]

日本は徳川家定が将軍となる頃に江戸城の西の丸の火災、凶作、マシュー・ペリーの浦賀来航が起きており、李朝では凶作により通信使の費用調達が困難となった。日朝双方で財政難や外圧の困難がありつつも、対馬での聘礼を合意する。しかし徳川家茂が将軍となる頃には、日米修好通商条約の調印やロシア軍艦対馬占領事件などが相次いだため、通信使の計画は実現されず、釜山の倭館や対馬の厳原で交流を保った[107]。朝鮮通信使は、のちに世界の記憶に登録された(後述)。

華夷変態と小中華思想[編集]

李朝は16世紀末に南方の日本から攻撃され、17世紀には北方の清から攻撃を受ける結果となった。中国で成立したは、日本と朝鮮双方の外交方針に変化をもたらした。遼東地域の女真が勢力を拡大して清となり、明が滅亡すると、日本では華夷変態と呼ばれた。中華の明が夷狄の清に変わったという意味であり、夷狄でも中華となり得るという概念が生まれた。李朝は清と宗属関係を結び、日本とは交隣関係を結んだ[108]。李朝は清の藩属国となりつつも、朱子学のもとで清に対する批判も起きる。漢王朝の明の滅亡によって、中華の継承者は自国にあるという尊華攘夷・尊明排清の思想が主張されるようになり、これを小中華思想とも呼ぶ[109]

幕府と李朝の外交では、名称が問題となった。幕府の将軍は「日本国大君」を用いており、大君という称号は日本では諸侯の長を意味して国王と対等以上を意味したが、李朝では臣子に与える職号であり国王の下位にあった。両国は互いに都合のよい解釈をしており、交渉の窓口は対馬藩が担当していたので深刻な対立とはならなかった。この問題は、幕府が倒れて明治政府となった時に表面化する[110]後述)。

通信使と征韓論[編集]

幕府の公式文書では、通信使には来貢使という用語は使われていないにも関わらず、民間では一方的な従属関係を示す来貢という言葉が広まった[111]。通信使について当時の日本人は「朝鮮が日本に朝貢をしなければ将軍は再び朝鮮半島を侵攻するため、通信使は貢物を持って日本へ来る」という噂もしていた[† 10]。李朝でも、そうした日本人の存在は知られていた。延享度の通信使の帰国報告では、幕府は諸侯に朝鮮入貢として知らせており、それまでの使節も知らぬふりをしていたと記されている[113]。『朝鮮人来聘』や『朝鮮人来朝記』においても、三韓征伐や秀吉の朝鮮出兵を持ち出して朝鮮通信使を朝貢使節と見なしており、日本人が朝鮮通信使を朝貢使節団として捉えていたことがうかがえる[113]。また、山鹿素行の『武家事紀』、本居宣長の『馭戒慨言』なども朝鮮通信使を朝貢使節とみなした。通信使の途絶は両国の財政難が理由だったが、通信使が途絶した際には朝貢を止めたと解釈する風潮が生じた。幕末には、清国広州の新聞に、とある日本人が寄稿した征韓論が掲載される八戸事件が起きる。こうした朝鮮観は、明治時代以降の日本の外交に影響を与えた[114]

経済面[編集]

倭館の再開[編集]

18世紀の釜山浦の草梁倭館図

倭館は豊臣秀吉による文禄・慶長の役で閉鎖されたのちに己酉約条によって再開された。釜山には日本人が生活する倭館が建設され、敷地は10万坪、人口は400人から500人ほどだった。江戸時代から明治初期にかけては、倭館が唯一の公認の日本人町だった。李朝は鎖国政策をとっていたが、日本とは正式な国交を保った。ただし文禄・慶長の役からの警戒もあって、日本人は首都漢城府には入れず、李朝が準備した釜山の倭館まで往来ができた。そのため、朝鮮からの情報は入手しづらい状態であった[115]

秋田藩の家老による『梅津政景日記』によれば、秋田の院内銀山には高麗にゆかりのある人物がいたという記録もある[92]

通貨問題[編集]

対馬藩は幕府から朝鮮との貿易を許され、日朝貿易の窓口になった。また、薩摩藩によって武力で幕藩体制に組み込まれた琉球王国とも通交があったようである。朝鮮は中国産の生糸や、薬用として重宝された高麗人参を輸出して、日本は慶長丁銀で購入した。幕府では貿易による貴金属の流出が問題とされ、銀の含有率を低くした銀貨に切り替える。李朝では含有率が低い銀貨の受け取りを拒否したため、幕府は高麗人参専用の銀貨として人参代往古銀を発行した[115]

日本は輸入品によって貴金属の流出が続いたために、輸入額が大きい品物を国内生産するという、現在の輸入代替にあたる政策も行われた。第8代将軍徳川吉宗の時代には、中国からの砂糖と朝鮮からの高麗人参が国産化された。吉宗の命令で草梁倭館は調査をすすめて、やがて日本では、お種人参という名で国産が実用化された。高麗人参の貿易で多大な利益を得ていた対馬藩にとっては、経済面で衰退する一因となった[116]

文化面[編集]

対潮楼から望む弁天島、仙酔島

朝鮮通信使は日朝の文化交流のきっかけともなった。迎賓館として福禅寺の境内に客殿の対潮楼が建立されて、日本の漢学者や書家らとの交流の場となった。『海東諸国紀』には日本の地図も収められており、江戸時代には日本で同書の写本が流通した[98] [117]

大名行列とは異なり、朝鮮通信使は外交官の他に、美しく着飾った小童や楽隊、文化人、医師、通訳などが随行員に加わっており、異国情緒を持った一種の見世物として注目された。揮毫(現代で言えばサイン)を求める者が多数にのぼって通信使の負担となったため、天和時以降は直接に頼むことは禁じられた[118]

食文化・医学[編集]

トウガラシなどの作物は17世紀以降に日本から朝鮮へ持ち込まれており、サツマイモ趙曮が対馬で栽培を学び、凶作にも役立つ作物だと『海槎日記』に記した[119]。対馬藩は朝鮮の食文化情報を幕府や各藩に提供して、通信使用の饗応料理を発展させた。やがて日本でも朝鮮料理本として『信使通筋覚書、朝鮮好物附之写』が刊行されて、焼肉、モツ料理、きみすい(キムチ)の作り方が解説された[120]

朝鮮には許浚の東洋医学書『東医宝鑑』があり、日本の医師は通信使と情報交換をした。幕府は良医を派遣するように要請して、李朝は内医院正から良医を選んで派遣した。日朝の問答は『桑韓筆語』や『倭韓医談』にまとめられている。

儒教[編集]

藤原惺窩林羅山をはじめとした日本の儒学者は、儒教の教養を持つ通信使と交流した。日本が独自に儒教を発展させていた一方、李朝では朱子学、とくに性理学が中心であり、異説を認めない立場が強固であった[121]。朝鮮の主流は伊藤仁斎荻生徂徠太宰春台らの説を批判したが、主流ではない実学は日本の儒学を評価した[122]

文芸[編集]

通信使は漢詩など中国文化の素養があり、日本の文人墨客や民衆との交流がなされて詩文の唱酬の記録が多数作られた[123] [124]律詩の書軸には、次韻の形式も用いられた。次韻とは、以前の書軸と同じ韻字を用いて唱和する形式であり、日朝交流の継続を希望して書かれた意図がうかがえる[125]

書画・工芸[編集]

羽川藤永筆『朝鮮通信使来朝図』。江戸市中を行列する延享度朝鮮通信使の行列を描く。神戸市立博物館収蔵、池長孟コレクション。

通信使来日の際には行列絵巻が描かれて、『洛中洛外図』や『江戸図屏風』にも通信使が登場する[126]。通信使を描いた画家には狩野安信狩野益信英一蝶奥村政信羽川藤永歌麿葛飾北斎らがいる[127]。通信使の名前や肩書などの情報を載せた浮世絵版画はガイドブックとして人気を呼んだ[128]。通信使の画員は日本画家と親交して、その活動は『古画備考』にまとめられて、日本からは狩野派屏風絵を贈った[129]。通信使は各地に墨蹟も残しており、徳川家光を祀る大猷院霊廟には『霊山法界崇孝浄院』が贈られた。

文禄・慶長の役において、大名は朝鮮から儒学者などと共に多くの陶工も連れ帰り、日本各地で陶芸が盛んになった。中でも肥前国の伊万里焼は、長崎貿易オランダ東インド会社がヨーロッパへ輸出する品物にもなった[130]滋賀県東近江市五個荘小幡人形などには、随行員である小童や楽隊を人形にした唐人人形もある。

芸能[編集]

通信使を模したとされる芸能には、唐人おどり唐子おどりなどがある。通信使が日光東照宮に参拝した影響で、名古屋東照宮仙台東照宮の祭礼でも朝鮮風の唐人行列が出た。神田明神祭山王祭でも通信使の仮装が出し物になったほか、朝鮮風の衣装で辻踊りも流行して幕府から禁止された。歌舞伎浄瑠璃も通信使を題材とした。唐人殺しの事件は有名で、『世話料理鱸包丁』をはじめとして作品が作られ続けた[131]。日本の舞楽は通信使に披露されて、猿楽雅楽の演奏や、歌舞伎も披露された。雅楽の納曽利陵王は朝鮮では楽譜が失われており、通信使に感銘を与えた[132]

近代[編集]

日本と朝鮮の開国[編集]

日本は江戸時代末期に欧米諸国に対して開港した。王政復古により成立した明治政府は近代化を目指し、李朝では国王の父である大院君のもとで鎖国体制が維持されていた。李朝は、欧米からの開港要求に対しては、清が宗属国であるとして独自の外交は行わず、武力行使も辞さなかった。李朝の宗主国である清や、南下政策を続けるロシア帝国に対する政策の一環として、日本は朝鮮半島に注目する。明治政府はまず王政復古を李朝に伝えるために、李朝の東莱府に国書(書契)を送るが、李朝は華夷秩序の観点から受理を拒否した。文書の中に「皇」「勅」などの文字があり、これらは天子である清の皇帝だけが使える文字であり、対等である日本が使うなら交隣はできないという理由だった。閔氏政権となっても交渉は進展せず、日本は武力によって江華島事件を起こして日朝修好条規を結んだ。明治政府はそれまでの対馬藩による交渉を曖昧私交として廃止して、明治時代以降の交渉は対立が先鋭化した。日朝修好条規について、日本側は独立国同士の外交と解釈していたが、李朝側では日本との交隣関係の復活であり、宗属関係には清があるという解釈をした[133]

日朝修好条規[編集]

日朝修好条規は日本側に有利な不平等条約だった。日本が開港の際に欧米諸国と結んだ条約よりも不平等な点が多く、開港場から4キロ以内の旅行や通商権、開港場における日本貨幣の使用、米穀輸出の自由、無関税なども定められていた。これによって、日本の対朝鮮貿易は拡大した[134]。日朝修好条規によって朝鮮は日本に朝鮮修信使を派遣して、開化政策が行われた。日本は倭館の敷地を引き継いで日本人居留地を建設し、朝鮮は釜山港元山港仁川港を開港した[133]1880年に日本公使館が漢城に設置された[135]

日清戦争から韓国併合まで[編集]

日清戦争[編集]

清は、日本とロシアの朝鮮進出を抑えるために、李朝に欧米との条約締結をすすめる。清の駐日公使館の黄遵憲は、修信使として来日していた金弘集に『朝鮮策略』という書物を渡して外交の助言を与えた。しかし清と李朝が宗属関係を強化すると、同等の待遇を求める他国が李朝との不平等条約を強化する結果をもたらした[136]。兵士への俸給遅滞が原因で壬午軍乱が起きると清軍が朝鮮半島への駐屯を始めて、李朝では開化政策をめぐる対立が激化した。清への藩属を守ろうとする事大党と、清からの独立を目指す独立党が対立して、清仏戦争の影響で清軍が減少すると独立党はクーデターを計画する。竹添進一郎日本公使は独立党に協力をして、公使館の日本軍もクーデターに参加する。しかし、独立党と日本軍の攻撃を受けると事大党は清軍と協力して反撃し、日本軍は撤退して独立党は敗北した(甲申政変)。日本はクーデター失敗後に公使館の損害賠償を李朝に求めて漢城条約を結び、清とは天津条約を結んだ[137]

甲申政変後の朝鮮半島では、財政が悪化して収奪をする李朝政府や、不平等条約のもとで進出を強める日本と清に対する反発が高まる。それまでの政府内の運動ではなく、生活を脅かされた民衆の反乱が頻発して、農民軍による甲午農民戦争が起きる。日本軍と清軍は農民軍を鎮圧するために出兵したが、鎮圧後の撤退をめぐって日本と清が対立して日清戦争が勃発した。日本軍が清軍に勝利すると農民軍は再蜂起したが鎮圧された。日本と清は下関条約を結び、朝鮮は清との冊封体制から離脱した[138]

日露戦争[編集]

日清戦争後に李朝は清から独立して、政府には閔氏を中心としてロシアに接近する派閥ができる。日本は金弘集の甲午改革を支持して閔妃と対立して、三浦梧楼日本公使らの計画により乙未事変で閔妃が暗殺される。三浦公使と金弘集は閔妃事件の隠蔽を試みるが、アメリカ人やロシア人に目撃されたために露見して国際問題となり、民衆が日本と金弘集政権への反発を高める結果となった。金弘集は殺害され、高宗はロシア公使館で執政を行って露館播遷と呼ばれた。高宗がロシア公使館にとどまった1年間に、ロシアは鉱山や森林の権利入手、政府軍の訓練、露韓銀行の創設などで進出して、欧米諸国もロシアに続いた。李朝の政府内では高宗が権力を強化して、国号を大韓と改めて高宗は皇帝に即位した[139]

ロシアは下関条約後の三国干渉や清で起きた義和団の乱の後も満州の占領を続け、朝鮮半島にも影響を強めており、日本と対立した[140]日露戦争が始まると、日本軍は漢城を制圧して韓国政府に日韓議定書を調印させて、朝鮮半島での軍事行動と内政干渉を強めた。日露戦争で日本が勝利した結果、ポーツマス条約においてロシアは大韓帝国への日本の優越権を承認した。こうして日本は朝鮮半島へ本格的に進出する。日本は東洋拓殖という国策会社を設立して、日本列島からの移民を朝鮮半島へ送る計画が始まる。日露戦争後には、朝鮮からロシアへ移住をして抗日運動を行う朝鮮人が増えた。ウラジオストックには新韓村という朝鮮人街ができて抗日運動にも活用された[141]

日韓併合条約[編集]

日本は第一次日韓協約により、韓国の財政と外交の顧問に日本の推薦者をおいた。第二次日韓協約により、韓国は外交権を日本に譲渡し、日本の保護国となった。韓国皇帝の高宗ハーグ平和会議に、日本の干渉を排除し韓国の外交権保護を要請する密使を派遣するが、既に日本の権益を認めていた列強からは認められなかった。このハーグ密使事件により、李完用らの勢力が皇帝退位へと動き、大韓帝国議会は高宗を退位させる。第三次日韓協約で日本が設置した韓国統監府によって、内政も日本の管理下に入った。統監となった伊藤博文は、経済面から日韓併合に反対して保護政策の継続を主張した。伊藤は同じく併合反対派の曽禰荒助を次期総監とするが、伊藤の暗殺と曽禰の療養によって山縣有朋らの陸軍閥が対韓政策を主導する。こうして日本は日韓併合条約によって韓国併合を行った[142]

日本統治時代[編集]

李王家の皇太子李垠と結婚した梨本宮方子女王(1923年)。

日本は朝鮮総督府を通じて朝鮮半島全域を統治し、当初は軍事力を前面に押し出した武断政治を行った。三・一独立運動後、日本内地における大正デモクラシーの影響もあって、武断政治は民生面の安定を重視した内地延長主義である「文化政治」に転換し、穏健派の斎藤実が朝鮮総統として派遣された。斎藤は公明正大で寛容な施政を行う一方で、反日運動に厳しい態度で接した[143]。このため、朝鮮半島の統治下での反日運動は沈静化した。しかし、朝鮮北部から満州国にかけては金日成が指揮する抗日パルチザン運動が展開され、シベリアにおける尼港事件で赤軍ロシア人と共同して日本軍を駆逐して、ニコラエフスクの占拠に成功する[144]

インフラストラクチャーと植民政策[編集]

この期間に日本は朝鮮半島のインフラの整備と産業の振興をすすめた[145]。朝鮮にも日本内地同様に民主主義を導入するなどして市民権を与え、朝鮮人にも高級将校や高級官僚への門戸を開放し、後の朝鮮発展の礎となる人材を養成した。朝鮮人は、日本軍陸軍士官学校に入学することができた。朝鮮人士官の多くはのちに韓国軍に引き継がれて、第二次大戦後は朴正煕大統領を筆頭に韓国政界の中枢を占めた。

朝鮮総督府のインフラ整備と並行して、日本国内では朝鮮半島への植民政策が進められた。日本からの移住者は、日韓併合後に33万人に達した。朝鮮総督府の土地政策(後述)によって確保された土地にも移住して、最終的には北部に27万人、南部に50万人となった[146]

土地政策[編集]

土地詐欺を防止するための啓導・啓蒙を繰り返し、農民たちは自分の土地が測量されて地籍に上がるのを見て、積極的に協調したとされる。一方で、朝鮮総督府の土地調査事業産米増殖計画によって、土地を取得する日本人と土地を失う朝鮮人が増加して、間島東辺道を中心として80万人ともいわれる朝鮮人が満州へと流入した。その中には抗日運動に参加する者も多かったが、朝鮮総督府は流入を放置して、抗日運動家の取り締まりという名目で警察権を租借地へ拡大する口実とした。朝鮮人への対応を朝鮮総督府が放置した結果、朝鮮人と中国人の対立が激化して、万宝山事件のような衝突が起きた。これらの事件は、強硬論を盛り上げて満州事変を起こすきっかけの1つとしても利用された[147]。朝鮮人にはソ連国内を拠点にして抗日活動を行う者もおり、日本の満蒙問題には、朝鮮統治の安定化と共産主義対策も含まれるようになった[148]

民族政策[編集]

衆議院議員当選を祝う朴春琴。初の朝鮮人代議士

併合後の大韓帝国の皇族である李王家については、皇帝に対して「大公」という尊称を用いる案を外務省が出した。これは日本の皇太子の下、親王の上に位置する地位を意味しており、アルファベット表記は Grand Duke で、西欧の身分制度を参考にしていた。皇帝を天皇の臣下とするのは反発が予想されたため、その対策も兼ねていた。大韓帝国側では、「韓国」という国号と、清と冊封関係にあった時代の「王」を踏襲を求めた。交渉により、最終的に大韓帝国皇室は王公族となった[149]

日本の植民地では皇民化政策が進められ、朝鮮総督府では朝鮮半島と内地(日本)を平等に扱うという内鮮一体が提唱された。満州国の民族協和である五族協和にも朝鮮人が含まれており、「」となっていた。しかし実態としては平等ではなく、満州国では非公式に日本人が1等、朝鮮人が2等、中国人と満州人は3等とされ、食事や賃金にも格差があった。実質的に満州を支配した関東軍は日系官僚への指導において、朝鮮人と中国人を疎遠にさせて統治するという方法などが書かれた冊子を配布した[150]

兵役・労働[編集]

朝鮮人は住所に関わりなく1945年まで兵役は免除されていたが、朝鮮人にも志願兵の募集が行われ、軍人・軍属として戦地に赴いた者も存在した。当時陸軍を中心に、アジア・太平洋戦争における日本民族の人的消耗を避けるため外地民人の人的資源の活用は避けられないとする意見が広まっており、朝鮮における徴兵制はその帰結であった[151]。終戦前には徴兵制が施行され朝鮮人が入営し訓練が行われたが、終戦により戦闘に投入されることはなかった。密航[152]徴用により内地(日本)に向かった労働者や、慰安婦として働く女性も存在した[153][154][† 11]

経済面[編集]

貿易[編集]

日朝は日朝修好条規にもとづいて日朝通商章程を結び、日本は甲申事変後に政治的進出が後退する一方で、経済的進出を活発にした。日本の輸出はイギリス綿製品で、朝鮮の輸出は米や大豆などの穀物が中心だった。日本の業者は朝鮮商人の客商に資金を提供して穀物を買い集め、朝鮮では米不足と米価高騰が起きた。朝鮮の地方政府は食糧問題を解決するために日朝通商章程で承認されていた防穀令を発令して穀物の域外搬出を禁じる。しかし前貸で穀物を買い付けていた日本の業者は、域外搬出禁止に対する損害賠償を求めて紛争となった。李朝の商人は不平等条約による日本と清の商人の進出に反発して、漢城で撤市(ストライキ)を行った[156][157]日清戦争で清が敗北すると、朝鮮は清への朝貢を終え、日本は朝鮮の植民地化を進める。朝鮮の輸出の80%から90%、輸入の60%から70%が日本向けとなった[158]

金融[編集]

朝鮮銀行10円紙幣(1944年発行)

日朝修好条規によって、日本の通貨が朝鮮の開港場で使用できるように定められた。日本の国立銀行である第一銀行韓国総支店は業務を拡大して、第一銀行券を発行して大韓帝国の通貨として流通させた。のちに設立された中央銀行の朝鮮銀行は、創立事務を日本政府が行い、重役が日本人であり、韓国銀行券は金貨または日本銀行兌換券と交換できる点など、日本への従属を前提とした金融機関であった[159]世界恐慌後の日本は、自国の経済を保護するためにブロック経済を進めた。日本円を中心とする日満支経済ブロックを形成して、朝鮮もこれに含まれた。

朝鮮銀行は朝鮮銀行券を発行した。朝鮮の通貨として日本円を導入する案もあったが、朝鮮で混乱が発生した場合に日本に波及するとの理由で採用はされなかった[160]。日本は日中戦争太平洋戦争の戦費を調達するために、銀行間で預け合い契約という手法をとり、朝鮮銀行は中華民国臨時政府中国聯合準備銀行と契約をした。預け合いによって日本国内のインフレーションは避けられるが、同時に中国では通貨の濫発によるインフレーションが悪化した[161]

文化面[編集]

教育[編集]

教育制度が整備され、初等教育をはじめ日本語教育とともに朝鮮語の教育が行われ、ハングルの普及が進んだ。日中戦争以後、内鮮一体の名の下、それまで公教育で必須科目として教授されていた朝鮮語は朝鮮教育令の改正によって1938年には随意科目となり、皇民化教育の一貫として行われた。小学校国民学校)網や京城帝国大学ソウル大学校)は独立後には韓国政府に引き継がれた[162]

文芸[編集]

日清戦争後に朝鮮から日本に来た留学生は、ヨーロッパ文学を日本語に翻訳しており、やがて独自の作品も書くようになる。これが在日朝鮮人文学の始まりとなった[163]。日本統治時代の朝鮮で娯楽用に広く読まれた本として、タクチ本がある[164]

第二次世界大戦後[編集]

1945年9月、日本はポツダム宣言を受諾して連合国に降伏した。金日成ソ連軍の士官として朝鮮北部の中心都市平壌に入城し、次いで降伏した日本の代わりにアメリカ合衆国が朝鮮半島南部で軍事統治を開始すると、李承晩や金九などの独立運動家がソウルへ戻った。[50]

1946年2月3日には朝鮮人を主体とする共産勢力により日本人数千人が虐殺される通化事件が起きた。1948年済州島四・三事件によって多くの済州島民が南朝鮮政府の虐殺から逃れるため日本に密入国した[165]。また、経済的な成功を目指して南朝鮮から日本に密入国するものも多数いた。密入国者による外国人登録証の偽造が横行したことが、指紋押捺制度の設立理由とされ、これが後の時代には差別的待遇として指紋押捺拒否運動となった。

日本人・在日朝鮮人の帰国[編集]

終戦時の日本移民は、朝鮮半島内の80万人近くに加えて、満州からも12万人が逃れてきており、引き揚げは難航した。軍人や警察官の関係者は輸送手段を使えたものの、多くの一般人は自力での帰国が必要だった。南部ではアメリカの主導により1946年に本国輸送が終了したが、北部では計画的な輸送がなく、1946年には3万人以上が死亡した。在日朝鮮人は終戦時に200万人おり、1946年内に150万人が帰国した[146]

朝鮮戦争[編集]

日本降伏後の朝鮮半島は、38度線を境界として北部にソ連軍、南部にアメリカ主導の連合国軍が進出して、冷戦の対立が朝鮮半島にも影響する。南の大韓民国と北の朝鮮民主義人民共和国の独立をへて、1950年には朝鮮戦争が勃発した。アメリカは国連軍を創設して韓国を支援し、ダグラス・マッカーサーが国連軍司令官となる。当時の日本は連合国軍占領下であり、東京に国連軍司令部が置かれた。在日米軍が韓国に投入されると、マッカーサーは日本の治安を維持するために警察予備隊を創設して、のちに自衛隊に改組された。日本は日本特別掃海隊や港湾労働者を韓国に送り、日本国内での韓国軍の軍事訓練を受け入れるなど韓国を支援した。経済面では、アメリカ軍の物資調達のために日本では特需が起きた(後述)。朝鮮戦争は日本国内にも対立をもたらし、韓国系の在日本大韓民国民団は義勇兵を送り、北朝鮮系の在日本朝鮮人連盟は占領当局と衝突した。北朝鮮側はソ連の援助に加えて中国が参戦して、国連軍と中朝連合軍は朝鮮戦争休戦協定によって休戦したが、終戦ではないため名目上は現在でも戦時中となる[166]

大韓民国[編集]

大韓民国の建国[編集]

韓国政府による日本漁船の拿捕

1948年、朝鮮半島の南部に大韓民国(韓国)が建国され、李承晩が大統領に就任した。アメリカの強い影響下にあり、反共主義を掲げる点では韓国は日本との共通性が高かったが、韓国では独立運動家出身の李承晩を筆頭に反日感情を持つ政治家が主導権を握った。李承晩政権は亡命していた運動家を閣僚にする一方で、行政、軍、警察には日本統治時代の親日的な人員を再雇用した[167]。反李承晩政権の思想をもつ市民に対する弾圧が行われ、麗水・順天事件のような韓国軍の反乱事件の際にも日本への密航者が生み出された。1949年1月17日、李承晩は対馬の韓国領を主張し日本に返還要求する[168]

朝鮮戦争[編集]

朝鮮戦争が勃発すると、反政府的な立場をとる多くの韓国人が日本へ密入国した。朝鮮戦争の休戦交渉が行われ戦闘が終息すると、李承晩は韓国領域周辺の公海上に李承晩ラインを設定して、韓国政府による日本漁船への銃撃・拿捕事件が多発し、数十人が殺傷され数千人が抑留された[† 12]1954年には同ラインで韓国側に取り込んだ日本固有の領土竹島(韓国名:独島)に軍隊を送り込んで同島を占拠した。その後も現在に至るまで韓国の武装警察が駐在し、日本はこれを韓国の武力による不法占拠と抗議している(竹島問題)。在日朝鮮人の帰還事業が始まると、韓国の工作員が北朝鮮への帰還を阻止しようとして新潟日赤センター爆破未遂事件が起きた。両国間の関係は、1960年の李承晩失脚までは大きな改善は見られなかった。[50]

国交回復[編集]

1961年5・16軍事クーデターで韓国大統領となった朴正煕は、旧日本軍出身で、日本の事情にも精通していた。また、北朝鮮の圧迫から国家を守るためには、日本との国交回復による経済支援の実現が不可欠と判断していた。一方、日本の自由民主党政権も、北東アジアでの反共同盟強化や第二次世界大戦における負の遺産の清算のために、韓国との国交回復を望んでいた。1964年3月24日ソウル大学高麗大学延世大学の学生5000人余りが「対日屈辱外交」反対デモを行う[169]1965年日韓基本条約日韓請求権協定が締結され、日韓両国及びその国民間の請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認するとともに、日本は韓国に5億ドルを支払った。この支払いに関して日本政府は賠償ではなく経済協力と位置づけている。日本は韓国を朝鮮半島唯一の合法政府と認めた。

冷戦下の日韓関係[編集]

アメリカのベトナム共和国(南ベトナム)への介入によってベトナム戦争が起き、日韓の政府はともにアメリカに協力した。韓国は約5万人をベトナムに派兵して参戦し、軍需物資の生産や建設、労働者の派遣、兵士への手当てなどをアメリカから得た。日本は南ベトナムをはじめとして韓国、台湾、香港、タイ、フィリピンなどのベトナム周辺地域に輸出を行った。これらはベトナム特需とも呼ばれた(後述)。

日韓国交正常化により、韓国は1979年まで続く朴正煕の軍事独裁政権下で、日本からの円借款などの経済協力も利用して、地下鉄高速道路などの各種交通インフラを整備し、「漢江の奇跡」と呼ばれる工業化・経済発展を実現した。日本の商社は韓国に進出し、労働力の安い韓国は日本への重要な輸出基地となった。また、安全保障においても佐藤栄作総理大臣とリチャード・ニクソン大統領が韓国の平和と安全の維持が日本にとっても重要であるという韓国条項が発表された[170]

梨本宮家出身の李方子は、大韓帝国の李垠の妃となったのちに、終戦後は日本国憲法のもとで在日韓国人とされた。李承晩政権の時代には帰国できず、朴正煕政権になって李垠とともに韓国へ帰国した。帰国後の方子は障害児教育に取り組んで韓国で親しまれ、葬儀は朝鮮王朝の礼式にもとづいて準国葬が行われて、三笠宮崇仁親王夫妻が参列した[171]

日韓の国交は外交と投資に関しては正常化したものの、朴正煕政権の維新体制のもとで金大中事件文世光事件朴正煕暗殺事件が起きて外交問題ともなった[172]。歴史認識をめぐっては歴史教科書問題が起きるなど、必ずしも両国の国民感情は良好ではなかった。日本側では韓国から進出してきた統一協会による霊感商法批判も起こったが、1983年に中曾根康弘総理大臣が就任後の初めての外国訪問先に慣例である米国ではなく韓国を選び、40億ドルの円借款を決定したことから、全斗煥大統領による韓国人初の日本への公式訪問が実現した[173]盧泰愚大統領時代には地方自治の推進、ソウルオリンピック開催、海外渡航の自由化があり、それまでの政府やビジネス主導の交流に加えて、姉妹都市や修学旅行など地域レベルの民間交流が増加した[174]

日韓関係改善への動き[編集]

1995年サッカー・ワールドカップが2002年に日韓で共同開催することが決定すると、これを契機に日韓関係を改善する機運が高まった。日韓共同宣言小渕恵三総理大臣と金大中大統領により発表され、日韓は過去の歴史を克服し、未来志向の日韓関係を発展させることに合意し、韓国での日本大衆文化の流入制限も段階的に解除していくことも表明された。2000年は「日韓国民交流年」に指定され、日韓の「査証(ビザ)なし相互訪問」を恒常化し、特に観光面での交流拡大が行われた。両国の都市には相手国の言語による案内標識などが整備されて、それまで日本側からの訪問人数が多かった観光も、日本の観光地に韓国人観光客の姿が増えるなどの変化が見られるようになった。歴史認識問題も小泉純一郎総理大臣が靖国神社参拝を断念し、日韓歴史共同研究を提唱するなど、韓国に対する歩み寄りを試みた。また、今上天皇が『続日本紀』[† 13]高野新笠が百済王族の遠縁と記されていることについて述べ、いわゆる「韓国とのゆかり」発言をおこなった[175]

現代の日韓関係[編集]

このような経緯を経て、日韓関係は良好になったといわれるが、論争も行われている。日韓問題とも呼ばれる論争の多くは歴史認識に由来しており、教育(歴史教科書問題)、領土(竹島問題[176](韓国名:独島))、第二次世界大戦(靖国参拝問題慰安婦問題[153])、文化(文化財返還問題)などがある。歴史認識については、両国の専門家による日韓歴史共同研究が始まり、第1期の座長は三谷太一郎趙東杰、第2期の委員会は鳥海靖趙珖が委員長となった[177]日韓基本条約で解決された韓国人への賠償問題については、大韓弁護士協会の魏哲煥協会長が和解案を提示した[178]

日韓関係の課題には、北朝鮮に対する安全保障問題もある。2006年10月9日に北朝鮮の核実験が初めて行われて、安倍晋三総理大臣と盧武鉉大統領の日韓首脳会談では日韓連携が確認された。共通の同盟国であるアメリカとの日米韓の相互運用性が問題となっており、軍事情報包括保護協定物品役務相互提供協定英語版は、日米と韓米では締結されているが、2017年1月時点では日韓で締結されていない[179]

日韓の姉妹都市は2016年11月現在で161組となる。福岡市釜山市は姉妹都市協力を進めて、国境を超えても公道を走れるダブルナンバー車を採用した[180][181]

2017年9月20日には、今上天皇皇后が、在位中8度目の私的旅行で高麗神社に参拝した。高麗神社はかつて高句麗からの移住者が住んだ高麗郡にあり、創建以来初めての天皇の参拝となった[182]

朝鮮民主主義人民共和国[編集]

この項目では、南の大韓民国と対比させるため、朝鮮民主主義人民共和国の略称を「北朝鮮」とする。

朝鮮民主主義人民共和国の建国[編集]

1945年、朝鮮半島北部を制圧したソ連は、従来の日本による統治システムを解体し、共産主義による新体制の建設を進めた。朝鮮北部は旧満州国からの日本人移住者・在住者の帰国経由地ともなったが、その中で多くの生命が失われた。1949年には金日成を首相とした朝鮮民主主義人民共和国が成立したが、南の大韓民国との間で朝鮮戦争が勃発し、休戦まで首都平壌[† 14]を含む広範囲の国土が戦場となった。朝鮮戦争中に日本はサンフランシスコ平和条約の発効で独立を回復したが、反共主義国家となった日本の自由民主党政権は朝鮮民主主義人民共和国を承認せず、マスメディアと共に「北鮮」と呼んだ。一方、日本社会党総評など、日本の社会主義勢力や労働組合はこの国を朝鮮半島唯一の合法政権と考え、「朝鮮」と呼称して、大韓民国(韓国)をアメリカの軍事支配下にある「南朝鮮」とした。

朝鮮総連[編集]

北朝鮮の成立は日本国内の政治状況にも影響を与えた。第二次世界大戦後に再建された日本共産党には多くの朝鮮人活動家がいたが、やがて分離し、北朝鮮への帰還か日本国内での在日朝鮮人運動の展開を選択した。その中で、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯、朝鮮総連)が成立した。朝鮮総連による強力な指導により、在日朝鮮人は民族差別解消・生活状況改善などをめざした闘争を全国各地で展開した。韓国での混乱や圧政は日本でも報じられていたため、朝鮮半島南部の出身者でも朝鮮総連に参加する者が多かった。なお、金日成に率いられた北朝鮮の指導政党、朝鮮労働党はやがて日本共産党の議会重視・平和革命路線を批判し、関係を断絶したため、朝鮮労働党の交流相手は日本社会党が中心となった。

在日朝鮮人の帰還事業[編集]

記事「北鮮が日本法律家協会へ書簡」(RPニュース、1958年)。北朝鮮人の韓国への強制送還に関する日本政府と韓国政府とのあいだの合意は国際法違反との旨の抗議が行われた (PDF)。

1959年在日朝鮮人の帰還事業が開始された。これは日本赤十字社が所管した、韓国政府による帰還拒否により帰還出来なかった[要出典]人々を北朝鮮への帰還を支援する事業で、日本政府も積極的に協力した。数十万人の在日朝鮮人が海を渡ったとされるが、「地上の楽園」と自己宣伝していた北朝鮮側の経済状況は厳しく、日本での貧困や差別からの解放を願ったとされる帰国者は一層困難な状況に追い込まれた[† 15]。独裁色を強める金日成政権は、日本からの帰国者の多くを「潜在的スパイ」などと見なして警戒し、その多くを処刑、あるいは強制収容所での長期拘禁に処したとされるが、定かではない。厳しい情報統制をかいくぐって漏れてくる現地の状況を知った在日朝鮮人の間では帰国への情熱が徐々に退き、高度経済成長に伴って日本での生活状況が改善されていった事もあって、帰還事業は1960年代半ばに終了した。ただし、帰国者の再来日は実現せず、日本国籍を持ったまま家族と共に渡航した配偶者や子どもの問題が発生した。韓国側では、北朝鮮への帰還事業を阻止するために妨害工作を計画して、新潟日赤センター爆破未遂事件が起きた。

日韓国交回復以降[編集]

日韓基本条約が締結されると、日本は韓国との国交を締結した。この中で日本政府は韓国を朝鮮半島唯一の合法政府としたため、北朝鮮との国交締結を求める朝鮮総連や日本社会党などの強い抵抗を受けたが、佐藤栄作政権は国会での強行採決でこれを押し切った。この条約により日本は大韓民国の国籍を認めたため、在日朝鮮人の中には朝鮮籍からの切り替えを行う者が表れた。また、これを機に大韓民国は「韓国」という表記が一般に定着し[† 16]、朝鮮民主主義共和国は「北朝鮮」と表記される例が増えた。

1970年日本航空の航空機が乗っ取られるよど号事件が発生した。犯人は日本国内での革命運動に行き詰まり、国外に新たな根拠地を求めた田宮高麿などの新左翼に属する共産主義者同盟赤軍派グループで、北朝鮮は彼らの亡命を受け入れる一方、機体や乗員の日本返還に応じた。田宮達の思想や行動方針は北朝鮮側とは一致しなかったが、やがて田宮らは平壌郊外に小グループを形成し、北朝鮮の意を受けた対日宣伝・工作活動に従事した。

1972年東西冷戦デタント期に入り、南北共同声明により韓国との対立がある程度緩和され、日本が中華人民共和国との国交を回復する中、日朝関係も徐々に貿易額を拡大した。在日朝鮮人の集団帰国事業は、万景峰号による祖国・親族訪問へと変化して続いたが、北朝鮮帰国者の再訪日は認められず、旧態依然としたプロパガンダが唱えられた。

日本人拉致問題[編集]

また、この頃から韓国の経済力が北朝鮮を逆転し、大きく引き離していく。これに危機感を持った北朝鮮側は対南工作に日本人を拉致して自らの工作員に置き換え、韓国に入国させる事を計画した。1973年小浜市2児拉致事件発生。1975年松生丸事件で日本漁船を銃撃・拿捕した。1977年、後に日朝両国政府が事実認定を行う最初の日本人拉致事件が発生した。同年11月15日には、新潟市で13歳の横田めぐみが拉致され、後にこの問題のシンボル的存在として取り上げられるようになったが、1983年まで続く一連の事件が明らかになるのにはさらなる年数を要した[† 17]。この事件には、よど号事件の犯人グループ、及びその妻達が関与したともされ、日本の検察庁から起訴されている。

1980-90年代[編集]

1980年代に日朝間の大きな懸案事項になったのは、拉致問題ではなく、第十八富士山丸事件だった。1983年11月1日、日朝間を航行中だった日本の貨物船、第十八富士山丸が船内に朝鮮人民軍兵士の閔洪九が潜んでいるのを発見した。閔洪九は日本で拘束されたが、日朝間には国交が無く、さらに閔が亡命申請をしたため、日本は彼の国内滞在を認めて放免した[† 18]。一方、11月11日に再び北朝鮮へ入港した第十八富士山丸は乗員が拘束された。紅粉勇船長と栗浦好雄機関長には朝鮮国民を拉致したスパイ容疑で教化労働15年の判決を下され、船体は没収された。日本の国民世論は日本人船員の釈放を求めたが、外交関係が無い両国間では交渉の糸口すら見つけるのが困難だった。この第十八富士山丸事件は、前月に起こったラングーン事件、つまり第三国ビルマの閣僚も巻き込んだ韓国大統領全斗煥暗殺未遂爆破テロ事件が北朝鮮工作員の犯行と発表された直後の事件だった。この重複で日本の対北朝鮮警戒感は再び高まり、日本の対北朝鮮輸出額は減少した[183]。さらに、大韓航空機爆破事件も日朝関係を冷え込ませた。テロ実行犯としてバーレーンで拘束され、服毒自殺を図ったのは日本人を名乗る「蜂谷真一」と「蜂谷真由美」だったが、生き残った蜂谷真由美は韓国に送致され、自らが北朝鮮工作員の金賢姫であることを自白した。さらに、その高度な日本人化教育は李恩恵という日本人女性から受けたと述べたため、謎に包まれた彼女の出自を含め、日本側の対朝不信は増幅した。

90年代に入り苦難の行軍と呼ばれた北朝鮮の経済情勢・食糧事情の悪さが頻繁に報道され、脱北者と呼ばれる亡命者も多く出るようになり、1998年にはミサイル発射実験が行われ、北朝鮮による日本人拉致問題が表面化するようになると、日本側の北朝鮮に対する不信はより一層増加した。

2000年代[編集]

2002年9月、小泉純一郎総理大臣は北朝鮮を訪問して、金正日総書記と初の日朝首脳会談を実現し、17日日朝平壌宣言に調印した。この訪問で金正日は北朝鮮による日本人拉致を「一部の英雄主義者が暴走した」として公式に認め、5人の拉致被害者の帰国となった。しかし「8人死亡・1人行方不明」とする北朝鮮側の回答は日本側から見て到底承諾しかねるものに映り、拉致被害者の家族の帰国が拒まれるなど、関係者を中心に不満が噴出し、世論も北朝鮮に対して強く反発を見せた。日本では特定船舶入港禁止法[184]も成立した。

六者会合の座席図

北朝鮮は2002年に核開発を認め、北朝鮮核問題について六者会合が開かれた。日本、韓国、北朝鮮、アメリカ、中国、ロシアが参加したが、2007年以降は開催されていない。2006年には北朝鮮の核実験が断行され、日韓首脳会談では日韓連携が確認された。この核実験は各国の批判も招き、国連の非難決議にもつながった。地域交流にも影響を及ぼし、日本で唯一、北朝鮮との姉妹都市関係にあった境港市は、核実験後に元山市との関係を破棄した[185]

2016年、日本政府は北朝鮮によるミサイル発射実験および北朝鮮による日本人拉致問題に対する制裁措置として北朝鮮国籍者の入国および再入国を禁止することを決定したが、この措置は東京新聞から「人権後進国・日本」の姿を浮かび上がらせたと非難された[186]

2017年9月、北朝鮮の対外窓口機関である朝鮮アジア太平洋平和委員会は日本が度重なる国連制裁に便乗したとして「日本はわが国の近くに存在する必要ない」[187]「日本人を叩きのめさなければならない」「日本列島四島を核爆弾で海に沈めなければならない」[188]と声明した。また、英語版では日本人への蔑称である「ジャップ」が使われ[188]、朝鮮語ではジャップに相当する「チョッパリ」も使用された[189]。日本政府はこれに「極めて挑発的な内容で言語道断」と抗議した[190]

2017年10月、北朝鮮国営放送の朝鮮中央通信は米国のドナルド・トランプ大統領の対北朝鮮敵視政策に追従しているとして日本の安倍晋三総理大臣を「忠犬」と非難した[191][192]。日本は日韓基本条約により、韓国を「朝鮮半島唯一の国家」としているため、北朝鮮を国家として承認しておらず、2017年現在にいたるまで国交はない[193]

経済面[編集]

朝鮮特需[編集]

朝鮮戦争は、日本経済に朝鮮特需と呼ばれる影響を与えた。アメリカ軍や国連軍の関連機関は、戦争遂行のために日本からドル払いで物資を調達した。この調達の金額は、1951年の日本の外貨収入の26.4%を占めており、1952年は36.8%、1953年は38.2%にのぼる。合計では1000億円から1500億円に達した[194]

ベトナム特需[編集]

ベトナム戦争で韓国がアメリカから得た金額は累計で10億ドル、GNPの3-4%になった[195]。日本からベトナム周辺地域への輸出は、アメリカからの対外軍事支出や援助でまかなわれ、1966年の日本の輸出増加額のうち80%近くはベトナム周辺とアメリカ向けとなった。日本の輸出品は工業製品や金属製品であり、ベトナム周辺地域では工業化が進んだ。戦争はベトナム社会主義共和国の勝利に終わったが、ベトナム周辺地域の経済の変化は、のちの新興工業経済地域の一因にもなった[196]

日韓の輸出入の推移[編集]

日韓貿易協定の締結によって、日韓貿易が始まった。日本と韓国は輸出志向型工業化による経済成長という共通点があり、輸出産業では、自動車、電機、造船、鉄鋼などの分野で競合していた。日韓貿易の特徴として、韓国の輸出と対日輸入の相関関係がある。原因は、韓国の製造業に組み立て産業が多く、日本からの中間財の輸入が大きい点にある。このため韓国では対世界輸出が増えると対日輸入も増えて、対日赤字が増える傾向にある[197]

80年代までの韓国は対日赤字を対米黒字で補填する構造であったが、アジア経済の成長につれて、日本、韓国ともにアジア域内の貿易が高まり、近年は中国の影響が大きい。日本の対韓輸出は1996年にアメリカに次いで2位だった。韓国は1980年代まで対米と対日貿易の比重が大きく、それ以降は東アジア諸国への比重が増え続けた。韓国の対日輸入は1986年、対日輸出は1989年がピークとなった[198]。1992年に韓国は中国との国交を樹立してから輸出が急増を続け、2010年には対中輸出が25.1%となり、日米欧の合計(28.2%)に匹敵した。韓国が世界金融危機からの回復が早かった一因に、対中貿易黒字の大きさがある[199]

財産権と司法[編集]

盧武鉉政権は日本統治時代・親日派問題の清算として「日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法」及び「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」を制定し、反民族行為認定者の子孫の土地や財産を国が事実上没収する事を可能にした[200]

直接投資[編集]

韓国は1980年代前半には香港台湾シンガポールと共にアジア四小龍とも呼ばれた。日米貿易摩擦を発端としたプラザ合意と円高によって、日本企業は海外生産を増加する。日本の資本は韓国を含めた新興工業経済地域(NIEs)に投資され、NIEsで輸出産業の成長と雇用をもたらした。次いでNIEsの経済発展がASEANや中国への投資となって波及した。東アジア内で異業種間の工業製品の相互貿易や、製品や工程の分業が増加した。国内で製品を完成して最終製品を輸出する産業内貿易も進んだ[201]

近年は、日本が研究開発(R&D)において顧客に近い韓国を選ぶことも増加している[202]。消費市場では日本が韓国に進出しており、特に2000年代以降は自動車、外食、小売が多い。文化的な類似点があり、二国間交流も活発であるため進出に適した環境となっている。歴史的経緯から韓国には反日感情があるとされるが、この点では日本製品の受容を阻害していない[202]

韓国からの対日直接投資は、大手財閥の販売やR&Dのための日本拠点が多い。2000年代半ばから増加しており、オンラインゲームなどのIT関連企業、航空、貨客船、放送などで進んでいる[203]

日本の国際協力銀行が2017年に行った「日本の製造業の投資有望地域・国ランキング」の調査において、韓国は10位となった。理由の第1位は「現地マーケットの現状規模」、第2位は「現地マーケットの今後の成長性」となっている[204]

企業提携[編集]

日韓が第3国で企業提携を進める事業も増加している。1990年代には在韓日系企業の中国進出があり、2002年以降は中国に進出した韓国企業向けに日韓で合弁会社を設立した。それまでに技術提携をしてきた韓国企業との協力や、中国語と韓国語の両方に堪能な人材への期待もあった。中国以外の地域での提携も増えており、資源確保、プラント、インフラ事業などがある[205]

日朝貿易[編集]

南北共同声明以降は、日本の工業製品が徐々に北朝鮮側に入り、北朝鮮産の安価なマツタケ海産物が日本へ輸出された。かつては日本への船舶の入港は年間千数百隻に上っていた。内訳は、日本からの輸入は輸送機器が中心で、日本への輸出は水産物が中心であった。2009年以降は輸出入が禁止されている[206]

文化面[編集]

旅行・相互交流[編集]

2001年に開港した、アジアのハブ空港の一つである仁川空港

韓国はソウルオリンピック開催の翌年から海外渡航を完全自由化して、同年の来日外国人旅行者は韓国が1位となった。日本から韓国への渡航もソウルオリンピックきっかけに増加した。日韓の往来者総数は2000年に354万人となり、ビザの相互免除が2006年に実施された。日韓のワーキング・ホリデーは1999年に始まり、日本は訪問先として人気であり、2016年時点で日韓ともに1万人ずつとなっている[207]。2016年には相互交流が700万人を超えて2年連続で過去最高を更新しており、日韓政府は熊本市で開催された「日韓観光振興協議会」で、日韓相互交流1000万人を目標とした[208]

情報[編集]

日韓のニュースメディアには、ネットを用いて相手国の言語でニュースを提供しているものもある。日本メディアの韓国語版サイトはNHK共同通信。韓国メディアの日本語版サイトは、2001年に開設された朝鮮日報をはじめとして、聨合ニュースハンギョレ東亜日報中央日報などがある。朝鮮日報はYahoo!ニュースとも連動している[209]。日韓共同世論調査によれば、相手国や日韓関係についての情報は、日韓ともに9割が自国のメディアから得ている[210]

教育[編集]

李王家の妃であった李方子は、戦後は韓国の一国民として障害児教育に取り組んだ。李方子の活動は韓国で評価され、韓国政府から国民勲章牡丹章が授与された[211]。語学番組としては、1984年にNHKで「アンニョンハシムニカ・ハングル講座」が始まっている。入試においては、日韓首脳会談で森喜朗総理大臣が大学入試センター試験に韓国語を導入することを表明し、2002年から導入された。九州大学は韓国研究センターを設立し、2011年から共同教育プロジェクトとして釜山大学らと日韓海峡圏カレッジを実施した。現在はアジア太平洋カレッジとして、ソウル大学延世大学釜山大学、九州大学、西南学院大学ハワイ大学が実施されている[212]

映像[編集]

朴正煕政権は国交正常化による日本からの文化流入を警戒して、韓国での日本大衆文化の流入制限で大衆文化の接触を禁止した。しかし、1970年代から日本製の番組が放送されていた。アメリカの配給会社を経由して、日本産を隠した子供向けアニメが放送されており、韓国の若年層に影響を与えた。韓国が万国著作権条約に加盟して以降は、著作権法による輸入が始まり、文化の流入制限は金大中政権から緩和が進んだ。国交回復によって共同制作も可能となり、初期のアニメでは『黄金バット』や『妖怪人間ベム』、ドラマでは『フレンズ』などがある[213][214]

1992年には韓国文化放送(MBC)が、李朝の末裔が天皇を狙撃するテレビドラマ番組『憤怒の王国』を放送し、これに実際の明仁親王の天皇即位式の映像を用いた為、日本の外務省から抗議を受けた[要出典]

韓国では日本文化を指す言葉として日流があり、日本では2003年に韓国ドラマ「冬のソナタ」が放映されたのちに2004年の再放送で人気を呼び、韓流という言葉が日本でも用いられるようになった[180]

スポーツ[編集]

アジア初のオリンピックとなった1964年東京オリンピックの開催時には、まだ日韓は国交がなかったが韓国選手も参加した。1988年ソウルオリンピックの開催時には、韓国は国連に未加入だったが、冷戦の東西両国が参加して国際情勢の変化を象徴する大会となった。しかし、北朝鮮は参加を拒否した。ソウルオリンピックをきっかけに日本では韓国ブームも起きた[215]

日韓共催となった2002年のサッカー・ワールドカップでは日韓ともに決勝トーナメントに進出した。開会式には高円宮憲仁親王憲仁親王妃久子夫妻が出席して、皇族としては戦後初の韓国公式訪問となった[170]

音楽[編集]

韓国人歌手として、チョー・ヨンピルが初めて紅白歌合戦に出場した[216]2010年9月10日にSKE48が「2010ソウルドラマアワード」授賞式で「強き者よ」「青空片想い」を日本語で歌う姿が韓国の地上波テレビで生中継された。韓国は、日本大衆文化第4次開放で日本語の歌の放送を許したが、放送局側で録画だけに制限していた。生中継されたのは、これが初めてである。事前に放送通信審議委員会を通した上で、放送が決定された[217]。韓国のポピュラー音楽としてはK-POPがあり、紅白歌合戦では2002年にBoA、2008年に東方神起、2011年には東方神起、少女時代KARAが出場した[218][219][220]

文芸[編集]

第二次世界大戦後の日本では金達寿をはじめとして在日朝鮮人文学の作品が増え、李恢成李良枝柳美里玄月金城一紀崔実らの作品は日本の文学賞を受賞している。翻訳では、日本からは村上春樹の作品が多数翻訳されている[221]日本翻訳大賞の第1回には、パク・ミンギュの小説『カステラ(: 카스텔라)』(ヒョン・ジェフン斎藤真理子訳)が受賞した [222]

世界の記憶への登録[編集]

2017年10月、国際連合教育科学文化機関は江戸時代の朝鮮通信使に関する記録を世界の記憶に登録することを決定した[223]

年表[編集]

出典・脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

  1. ^ 倭国では、高句麗を高麗(こま)と呼んだために、日本列島内に高麗郡や高麗神社などの名称があるが、のちに朝鮮半島で成立する高麗(こうらい)とは別の国を指す。
  2. ^ 隋書 東夷伝 第81巻列伝46 : 新羅、百濟皆以倭為大國,多珍物,並敬仰之,恆通使往來
  3. ^ 宋書 列傳第五十七 夷蠻 : 詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。興死,弟武立,自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王
  4. ^ 職貢図 : 斯羅国 : 斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘
  5. ^ 三國史記 新羅本紀 : 元年 三月 與倭國通好 以奈勿王子未斯欣爲質
  6. ^ 三國史記 百済本紀 : 六年夏五月 王與倭國結好 以太子腆支爲質 秋七月大閱於漢水之南
  7. ^ 実際は海賊との見方もある[33]
  8. ^ 高麗史列伝巻十七 『若依蛮様、則工費多、将不及期..用本国船様督造』
  9. ^ 「元史」 卷十二本紀第十二世祖九 七月の条 『高麗国王請、自造船百五十艘、助征日本』
  10. ^ イギリス商館長リチャード・コックスの日記 1617年8月31日 ある人々(それは庶民であるが)は、朝鮮通信使が来たのは臣従の礼を表し、貢物を献上するためで、もしそうしないと将軍は再び彼らに対して戦争を仕掛けたであろうと噂している[112]
  11. ^ 日本国内で慰安婦についての議論があり、「単なる売春婦であり、性的搾取をはじめとした慰安所における人権侵害など何もない」などの意見や、「日本軍〈慰安婦〉問題は国内外の反日勢力の陰謀」という意見、これに対する「日本版歴史修正主義」とする反論もある[155]
  12. ^ 第一大邦丸事件では漁労長が殺害されている
  13. ^ 『続日本紀』巻第四十「《延暦九年(七九〇)正月壬子【十五】(#延暦八年(七八九)十二月附載)》壬午。葬於大枝山陵。皇太后姓和氏。諱新笠。贈正一位乙継之女也。母贈正一位大枝朝臣真妹。后先出自百済武寧王之子純陀太子。皇后容徳淑茂。夙著声誉。天宗高紹天皇竜潜之日。娉而納焉。生今上。早良親王。能登内親王。宝亀年中。改姓為高野朝臣。今上即位。尊為皇太夫人。九年追上尊号。曰皇太后。其百済遠祖都慕王者。河伯之女感日精而所生。皇太后即其後也。因以奉謚焉。」 P4473《巻首》続日本紀巻第四十〈起延暦八年正月、尽十年十二月。〉」
  14. ^ 法的な首都は1972年の新憲法制定までソウル。
  15. ^ ただし、1960年代後半からの高度経済成長まで、南の大韓民国は北の朝鮮民主主義人民共和国よりもさらに貧しく、国家経済の規模も劣っていた事を理解する必要がある。
  16. ^ 日本社会党や日本共産党でも、1980年代末に韓国の民主化で現地との交流を開始したのを受けて、「南朝鮮」から「韓国」への表記へと切り替えた。
  17. ^ なお、この拉致事件を追及する特定失踪者問題調査会によれば、この事件の被害者になった可能性がある「特定失踪者」は1948年から2004年まで存在し、特に拉致の疑いが濃い事例に限っても1960年から1991年にわたっている。
  18. ^ その後、閔は韓国国籍と日本での在留特別許可を得たが、刑事事件によりしばしば逮捕され、2004年に拘置中自殺した。
  19. ^ 斯盧国は503年に新羅と国号を改めた

出典[編集]

  1. ^ a b 宇野 1998.
  2. ^ 藤尾 2015, p. 37, 117.
  3. ^ a b 藤尾 2015, p. 72.
  4. ^ 佐藤 2002, p. 40.
  5. ^ 佐藤 2002, p. 108.
  6. ^ 佐藤 2002, p. 109.
  7. ^ 高田 2017, p. 31.
  8. ^ 森下 2016, p. 77.
  9. ^ 藤尾 2015.
  10. ^ 高田 2017, p. 17.
  11. ^ 高田 2017, p. 74, 106.
  12. ^ 高田 2017, p. 136.
  13. ^ 高田 2017, p. 72.
  14. ^ 宇野ほか 1990, p. 69.
  15. ^ 森下 2016, p. 167.
  16. ^ 森下 2016, p. 175.
  17. ^ 高田 2017, p. 61.
  18. ^ 高田 2017, p. 213, 218.
  19. ^ 宇野ほか 1990, p. 78.
  20. ^ 宇野ほか 1990, p. 80.
  21. ^ a b 大庭 2005.
  22. ^ 宇野ほか 1990, p. 86,87.
  23. ^ a b 宇野ほか 1990, p. 87,89.
  24. ^ 宇野ほか 1990, p. 95.
  25. ^ a b c 東野 2007.
  26. ^ 市 2012, p. 18.
  27. ^ 市 2012, p. 235.
  28. ^ 吉川 2011, p. 101.
  29. ^ 宇野ほか 1990, p. 135.
  30. ^ a b 中村 2012, p. 31.
  31. ^ 荒野 2012, p. 53.
  32. ^ 続日本書紀 & 天平勝宝4年6月14日.
  33. ^ 宇野ほか 1990, p. 122.
  34. ^ 宇野ほか 1990, p. 235.
  35. ^ 吉川 2011, p. 122, 156.
  36. ^ 宇野ほか 1990, p. 131.
  37. ^ 岸 1987, p. 261-292.
  38. ^ 宇野ほか 1990, p. 133.
  39. ^ 河添 2014, p. 45.
  40. ^ 宇野ほか 1990, p. 145.
  41. ^ 山崎 2000.
  42. ^ 宇野ほか 1990, p. 173.
  43. ^ 網野 2000.
  44. ^ 藤尾 2015, p. 132, 140.
  45. ^ 藤尾 2015, p. 218.
  46. ^ 森下 2016, p. 20.
  47. ^ 森下 2016, p. 95, 99.
  48. ^ a b 森下 2016, p. 78.
  49. ^ 丸山 2010, p. 269.
  50. ^ a b c [[#CITEREF|]].
  51. ^ 三上 1998, p. 174.
  52. ^ 漢字が来た道,犬飼隆,国立歴史民俗博物館研究報告 第194集,2015年
  53. ^ 市 2012, p. 154, 234.
  54. ^ 市 2012, p. 38.
  55. ^ 宇野ほか 1990, p. 82, 86.
  56. ^ a b 市 2012, p. 42.
  57. ^ 高田 2017, p. 43.
  58. ^ 高田 2017, p. 6, 12.
  59. ^ 吉川 2011, p. 3.
  60. ^ 藤尾 2015, p. 117.
  61. ^ 高田 2017.
  62. ^ 宇野ほか 1990, p. 87, 89.
  63. ^ 森平 2011.
  64. ^ 網野 2000, p. 157.
  65. ^ 網野 2000, p. 135-146.
  66. ^ 網野 2000, p. 379.
  67. ^ a b 田中 2012, p. 24.
  68. ^ 田中 2012, p. 36.
  69. ^ 田中 2012, p. 43.
  70. ^ 宇野ほか 1990, p. 322.
  71. ^ a b c 伊藤 2005.
  72. ^ 佐伯 2008, p. 89.
  73. ^ 岡本 2008, p. 12.
  74. ^ 田中 2012, p. 50.
  75. ^ a b 田代 2002, p. 10.
  76. ^ 佐伯 2008, p. 6.
  77. ^ 佐伯 2008, p. 14.
  78. ^ 宇野ほか 1990, p. 186.
  79. ^ 池上ほか 1995, p. 81.
  80. ^ 上里 2012.
  81. ^ 長 2002.
  82. ^ a b 田代 1983.
  83. ^ 本多 2015, p. 16.
  84. ^ 本多 2015, p. 20.
  85. ^ a b 本多 2015, p. 31.
  86. ^ 田中 2012, p. 30.
  87. ^ 村井 1993, p. 127.
  88. ^ 佐伯 2008, p. 98.
  89. ^ 田中 2012, p. 41.
  90. ^ 須川 1999.
  91. ^ 佐伯 2008, p. 14, 89.
  92. ^ a b c 網野 2009, p. 64.
  93. ^ 上里 2012, p. 108.
  94. ^ 岡本 2008, p. 14.
  95. ^ a b 田中 1996.
  96. ^ 田中 2008, p. 28.
  97. ^ 三宅 2006, p. 55.
  98. ^ a b 仲尾 2007.
  99. ^ 鄭ほか 2008.
  100. ^ 津野 2017, p. 383.
  101. ^ a b 田中 1996, p. 116.
  102. ^ 倉地 2001, p. 185.
  103. ^ 池内 2017, p. 94.
  104. ^ 三宅 2006, p. 210.
  105. ^ a b 上垣外 2005.
  106. ^ 申 1719.
  107. ^ 李 1992, p. 284.
  108. ^ 岡本 2008, p. 34.
  109. ^ 糟谷 1996, p. 18.
  110. ^ 岡本 2008, p. 50.
  111. ^ 仲尾 1989, p. 2.
  112. ^ 東京大学史料編纂所 1979.
  113. ^ a b 三宅 1986.
  114. ^ 井上 2016, p. 3-25.
  115. ^ a b 田代 2002.
  116. ^ 仲尾 2007, p. 173.
  117. ^ 吉田ほか 2011, p. 65.
  118. ^ 仲尾 2007, p. 171.
  119. ^ 李 1992, p. 117, 246.
  120. ^ 田代 2002, p. 第5章.
  121. ^ 奥谷浩一 2006, pp. 169.
  122. ^ 仲尾 2007, p. 160.
  123. ^ 李 1992, p. 291.
  124. ^ 村井 1995, p. 32, 38.
  125. ^ 倉地 2001, p. 151.
  126. ^ 倉地 2001, p. 80.
  127. ^ トビ 2008, p. 第5章.
  128. ^ 李 1992, p. 241.
  129. ^ 榊原 2002.
  130. ^ 坂井 1998.
  131. ^ 池内 1999.
  132. ^ 李 1992, p. 254.
  133. ^ a b 岡本 2008, p. 65.
  134. ^ 糟谷 1996, p. 30.
  135. ^ 今日の歴史(4月17日) 聯合ニュース 2009/04/17 閲覧
  136. ^ 糟谷 1996, p. 31.
  137. ^ 糟谷 1996, p. 37.
  138. ^ 糟谷 1996, p. 46.
  139. ^ 糟谷 1996, p. 58.
  140. ^ 岡本 2008, p. 162, 181.
  141. ^ 劉 2012, p. 111.
  142. ^ 新城 2015, p. 33.
  143. ^ アイルランド 1926.
  144. ^ 劉 2012.
  145. ^ エッカート 1991.
  146. ^ a b 李ほか 2017, p. 33.
  147. ^ 山室 1993, p. 37.
  148. ^ 山室 1993, p. 41.
  149. ^ 新城 2015, p. 37.
  150. ^ 山室 1993, p. 279.
  151. ^ 宮田 1985, p. 102-103.
  152. ^ 大阪毎日新聞 1943年6月15日付『内地密航増加 釜山水上署で厳罰』
  153. ^ a b 朴 2014.
  154. ^ カミングス 1997, p. 第3章.
  155. ^ 高橋 2001, p. ⅲ.
  156. ^ 糟谷 1996, p. 43.
  157. ^ 李 2014.
  158. ^ 武田編 2000.
  159. ^ 糟谷 1996, p. 68.
  160. ^ 多田井 1997, p. 下巻.
  161. ^ 多田井 1997, p. 下巻240.
  162. ^ 宮田 1985.
  163. ^ 任 1994.
  164. ^ 김기철 (2010年7月14日). “일제시대 휩쓴 베스트셀러 '딱지본'을 아십니까” (韓国語). 朝鮮日報. http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2010/07/13/2010071302149.html 2016年10月20日閲覧。 同記事日本語訳の前半:金基哲 (2010年7月18日). “日本統治時代のベストセラー「タクチ本」(上)” (日本語). 朝鮮日報日本語版. オリジナル2010年7月20日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100720045043/http://www.chosunonline.com/news/20100718000004 2017年11月25日閲覧。 
  165. ^ “拷問・戦争・独裁逃れ…在日女性60年ぶり済州島に帰郷へ”. 朝日新聞. (2008年3月29日). オリジナル2008年4月1日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20080401232255/http://www.asahi.com/national/update/0329/TKY200803290044.html 2011年8月閲覧。 
  166. ^ 李ほか 2017, p. 38.
  167. ^ 李ほか 2017, p. 35.
  168. ^ 今日の歴史(1月7日) 聨合ニュース 2009/01/07
  169. ^ 今日の歴史(3月24日) 聯合ニュース 2009/03/24 閲覧
  170. ^ a b 李ほか 2017, p. 227.
  171. ^ 新城 2015, p. 230.
  172. ^ 木村 2008, p. 149.
  173. ^ 木村 2008.
  174. ^ 李ほか 2017, p. 157.
  175. ^ 宮内庁. “天皇陛下のお誕生日に際しての記者会見の内容”. 2017年11月25日閲覧。
  176. ^ 池内 2016.
  177. ^ 李ほか 2017, p. 208.
  178. ^ 日本経済新聞 2013/7/16 19:33 強制徴用訴訟で和解を提案 韓国弁護士協会会長 [1]
  179. ^ 李ほか 2017, p. 224.
  180. ^ a b 李ほか 2017, p. 231.
  181. ^ “日韓ダブルナンバー”. 西日本新聞. (2017年11月25日). http://www.nishinippon.co.jp/wordbox/article/8575 
  182. ^ “韓国紙、「歴代天皇で初」と詳報=埼玉の高麗神社参拝”. 時事通信. (2017年9月21日). https://www.jiji.com/jc/article?k=2017092100859 2017年9月21日閲覧。 
  183. ^ 三菱総合経済研究所レポート、2005年3月14日付 [2]
  184. ^ 特定船舶の入港の禁止に関する特別措置法”. e-Gov. 2017年11月25日閲覧。
  185. ^ 朝鮮民主主義人民共和国江原道元山市との友好都市盟約について”. 境港市. 2017年11月25日閲覧。
  186. ^ 東京新聞 2017/2/1 【特報】 米国の入国禁止に静観決め込む日本 そもそも人権後進国
  187. ^ “北朝鮮が「核で沈める」と日本を威嚇-「言語道断」と菅官房長官”. Bloomberg (ブルームバーグ). (2017年9月14日). https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2017-09-14/OW90MS6TTDS101 2017年11月17日閲覧。 
  188. ^ a b 時事通信 (2017年9月14日). “北朝鮮「列島、核で海に沈める」=制裁に便乗と日本非難”. Jiji.com (時事通信社). https://www.jiji.com/jc/article?k=2017091400289 2017年11月17日閲覧。 
  189. ^ “【北朝鮮見本市】朝鮮の声放送はちょっとマイルド「チョッパリども」から「凶悪な日本の者たち」に”. ZAKZAK (夕刊フジ). (2017年9月25日). http://www.zakzak.co.jp/soc/news/170925/soc1709250007-n1.html 2017年11月17日閲覧。 
  190. ^ “北朝鮮が「核で沈める」と日本を威嚇-「言語道断」と菅官房長官”. Bloomberg (ブルームバーグ). (2017年9月14日). https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2017-09-14/OW90MS6TTDS101 2017年11月17日閲覧。 
  191. ^ 「トランプ氏は狂犬、安倍氏は忠犬」北朝鮮、日米を非難”. 朝日新聞 (2017年11月16日). 2017年11月17日閲覧。
  192. ^ “「忠犬の振る舞いは実に疎ましい」 トランプ米大統領支持の安倍晋三首相を北朝鮮が非難”. 産経新聞. (2017年11月14日). http://www.sankei.com/world/news/171114/wor1711140053-n1.html 2017年11月17日閲覧。 
  193. ^ “北朝鮮基礎データ”. 外務省. (2017年11月25日). http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/n_korea/data.html 
  194. ^ 井村 2000, p. 100.
  195. ^ 李ほか 2017, p. 84.
  196. ^ 井村 2000, p. 237.
  197. ^ 百本ほか 2012, p. 151.
  198. ^ 櫻谷 1999, p. 50.
  199. ^ 百本ほか 2012, p. 19.
  200. ^ 2007年8月13日 読売新聞
  201. ^ 大野、桜井 1997, p. 32, 38.
  202. ^ a b 百本ほか 2012, p. 168.
  203. ^ 百本ほか 2012, p. 184.
  204. ^ “わが国製造業企業の海外事業展開に関する調査報告 -2017年度 海外直接投資アンケート結果(第29回)-”. 国際協力銀行. (2017年11月25日). https://www.jbic.go.jp/wp-content/uploads/press_ja/2017/11/58812/shiryo00.pdf 
  205. ^ 百本ほか 2012, p. 189.
  206. ^ “北朝鮮基礎データ”. 外務省. (2017年11月25日). http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/n_korea/data.html 
  207. ^ 李ほか 2017, p. 157, 230.
  208. ^ “日韓相互交流1000万人目標 観光振興協議会、熊本市で開催”. 日本経済新聞. (2017年11月25日). https://www.nikkei.com/article/DGXLZO10461240Y6A201C1LX0000/ 
  209. ^ 李ほか 2017, p. 232.
  210. ^ “第5回日韓共同世論調査 日韓世論比較結果”. 特定非営利活動法人 言論NPO ・ 東アジア研究院. (2017年11月25日). http://www.genron-npo.net/world/archives/6677.html 
  211. ^ 新城 2015.
  212. ^ “プログラムの特徴”. アジア太平洋カレッジ. (2017年11月25日). http://rcks.kyushu-u.ac.jp/cap/?page_id=298 
  213. ^ 金 2014.
  214. ^ 李ほか 2017, p. 180.
  215. ^ 李ほか 2017, p. 153.
  216. ^ “第38回紅白歌合戦”. NHK紅白歌合戦ヒストリー. (2017年11月25日). https://www.nhk.or.jp/kouhaku/history/history.html?count=38 
  217. ^ “韓国地上波放送で日本歌手が日本語の歌、初の生放送”. 聯合ニュース. (2010年9月13日). http://japanese.yonhapnews.co.kr/society/2010/09/13/0800000000AJP20100913000800882.HTML 2011年2月16日閲覧。 
  218. ^ “第53回紅白歌合戦”. NHK紅白歌合戦ヒストリー. (2017年11月25日). https://www.nhk.or.jp/kouhaku/history/history.html?count=53 
  219. ^ “第59回紅白歌合戦”. NHK紅白歌合戦ヒストリー. (2017年11月25日). https://www.nhk.or.jp/kouhaku/history/history.html?count=59 
  220. ^ “第62回紅白歌合戦”. NHK紅白歌合戦ヒストリー. (2017年11月25日). https://www.nhk.or.jp/kouhaku/history/history_62.html 
  221. ^ “韓国の「村上春樹旋風」と「東野圭吾人気」に見る時代の変化”. 文春オンライン. (2017年11月25日). http://bunshun.jp/articles/-/3427 
  222. ^ 第一回日本翻訳大賞受賞作決定”. 日本翻訳大賞. 2017年11月25日閲覧。
  223. ^ ユネスコ 世界の記憶に「朝鮮通信使」「上野三碑」登録”. 毎日新聞. 2017年10月31日閲覧。

参考文献[編集]

単行本[編集]

  • アレン・アイルランド; 日高義樹、持田直武訳 『THE NEW KOREA』 桜の花出版、2013年 (原書 THE NEW KOREA, (1926) 
  • 網野善彦 『蒙古襲来 - 転換する社会』 小学館〈小学館文庫〉、2000年 
  • 網野善彦 『海民と日本社会』 新人物往来社〈新人物文庫〉、2009年 
  • 荒野泰典、「日本から見た環日本海交流圏」、姫田光義編 『北・東北アジア地域交流史』 有斐閣〈有斐閣アルマ〉、2012年 
  • 池内敏 『「唐人殺し」の世界 - 近世民衆の朝鮮認識』 臨川書店、1999年 
  • 池内敏 『竹島 - もうひとつの日韓関係史』 中央公論新社〈中公新書〉、2016年 
  • 池内敏 『日本人の朝鮮観はいかにして形成されたか』 講談社〈東アジアの近現代史3〉、2017年 
  • 池上裕子; 小和田哲男; 小林清治 他編 『クロニック - 戦国全史』 講談社、1995年 
  • 市大樹 『飛鳥の木簡 - 古代史の新たな展開』 中央公論新社〈中公新書〉、2012年 
  • 井上泰至、「朝鮮観の変転 - 近世の歴史叙述と対外認識を論ずるために」、井上泰至編 『近世日本の歴史叙述と対外意識』 勉誠出版、2016年 
  • 井村喜代子 『現代日本経済論〔新版〕』 有斐閣、2000年 
  • 上垣外憲一 『雨森芳洲 - 元禄享保の国際人』 講談社〈講談社学術文庫〉、2005年 
  • 上里隆史 『海の王国・琉球 - 「海域アジア」屈指の交易国家の実像』 洋泉社〈歴史新書〉、2012年 
  • 宇野俊一; 小林達雄; 竹内誠 他編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 講談社、1990年 
  • 宇野隆夫、「原始・古代の流通」、田中琢; 金関恕編 『古代史の論点3 都市と工業と流通』 小学館、1998年 
  • カーター・エッカート; 小谷まさ代訳 『帝国の申し子 - 高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源』 草思社、2003年 (原書 Offspring of empire: the Koch'ang Kims and the colonial origins of Korean capitalism, 1876-1945, (1991) 
  • 大庭康時、「鴻臚館」、上原真人; 白石太一郎; 吉川真司 他編 『列島の古代史4 人と物の移動』 岩波書店、2005年 
  • 岡本隆司 『世界のなかの日清韓関係史 - 交隣と属国、自主と独立』 講談社〈講談社選書メチエ〉、2008年 
  • 大野健一; 桜井宏二郎 『東アジアの開発経済学』 有斐閣〈有斐閣アルマ〉、1997年 
  • 鹿毛敏夫 『アジアのなかの戦国大名 - 西国の群雄と経営戦略』 吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2015年 
  • 糟谷憲一 『朝鮮の近代』 山川出版社〈世界史リブレット〉、1996年 
  • ブルース・カミングス; 横田安司小林知子訳 『現代朝鮮の歴史』 明石書店、2003年 (原書 Korea's Place in the Sun: A Modern History, (1997) 
  • 河添房江 『唐物の文化史 - 舶来品からみた日本』 岩波書店〈岩波新書〉、2014年 
  • 岸俊男 『藤原仲麻呂』 吉川弘文館、1987年 
  • 金成玟 『戦後韓国と日本文化 - 「倭色」禁止から「韓流」まで』 岩波書店〈岩波現代全書〉、2014年 
  • 木村幹 『韓国現代史 - 大統領たちの栄光と蹉跌』 中央公論新社〈中公新書〉、2008年 
  • 倉地克直 『近世日本人は朝鮮をどうみていたか - 「鎖国」のなかの「異人」たち』 角川書店〈角川選書〉、2001年 
  • 佐伯弘次 『対馬と海峡の中世史』 山川出版社〈日本史リブレット〉、2008年 
  • 坂井隆 『「伊万里」からアジアが見える - 海の陶磁器と日本』 講談社〈講談社選書メチエ〉、1998年 
  • 榊原悟 『美の架け橋 - 異国に遣わされた屏風たち』 ぺりかん社、2002年 
  • 櫻谷勝美、「アジア経済圏内の貿易」、丸山惠也; 佐護譽; 小林英夫編 『アジア経済圏と国際分業の進展』 ミネルヴァ書房、1999年 
  • 佐藤洋一郎 『稲の日本史』 KADOKAWA〈角川選書〉、2002年 
  • 申維翰; 姜在彦訳 『海游録 - 朝鮮通信使の日本紀行』 平凡社〈平凡社東洋文庫〉、1974年 (原書 海游録, (1719) 
  • 新城道彦 『朝鮮王公族 - 帝国日本の準皇族』 中央公論新社〈中公新書〉、2015年 
  • 須川英徳、「朝鮮時代の貨幣 - “利権在上”をめぐる葛藤」、歴史学研究会編 『越境する貨幣』 青木書店〈シリーズ歴史学の現在〉、1999年 
  • 瀬野精一郎; 佐伯弘次‎; 小宮木代良; 新川登亀男; 五野井隆史 『長崎県の歴史』 山川出版社〈新版 県史42〉、2012年 
  • 高田貫太 『海の向こうから見た倭国』 講談社〈講談社現代新書〉、2017年 
  • 高橋哲哉 『歴史/修正主義』 岩波書店、2001年 
  • 武田幸男編 『世界各国史2 朝鮮史』 山川出版社、2000年 
  • 田島公、「大陸・半島との往来」、上原真人; 白石太一郎; 吉川真司 他編 『列島の古代史4 人と物の移動』 岩波書店、2005年 
  • 田代和生 『書き替えられた国書 - 徳川・朝鮮外交の舞台裏』 中央公論新社〈中公新書〉、1983年 
  • 田代和生 『倭館 - 鎖国時代の日本人町』 文藝春秋社〈文春新書〉、2002年 
  • 多田井喜生 『大陸に渡った円の興亡(下巻)』 東洋経済新報社、1997年 
  • 田中健夫 『前近代の国際交流と外交文書』 吉川弘文館、1996年 
  • 田中健夫 『東アジア通交圏と国際認識』 吉川弘文館、1997年 
  • 田中健夫 『倭寇』 講談社〈講談社学術文庫〉、2012年 
  • 津野倫明、「従軍記(文禄の役・慶長の役) - 『朝鮮日々記』(慶念)に記された惨状と告白」、松園斉; 近藤好和編 『中世日記の世界』 ミネルヴァ書房〈史料で読み解く日本史〉、2017年 
  • 鄭杜煕; 李ギョンスン; 金文子小幡倫裕訳 『壬辰戦争』 明石書店、2008年 (原書 壬辰戦争 
  • 東京大学史料編纂所編 『日本関係海外史料 イギリス商館長日記 訳文編之上』 東京大学出版会、1979年 
  • 東野治之 『遣唐使』 岩波書店〈岩波新書〉、2007年 
  • ロナルド・トビ 『「鎖国」という外交』 小学館〈全集 日本の歴史9〉、2008年 
  • 長節子 『中世国境海域の倭と朝鮮』 吉川弘文館、2002年 
  • 仲尾宏 『前近代の日本と朝鮮』 明石書店、1989年 
  • 仲尾宏 『朝鮮通信使 - 江戸日本の誠信外交』 岩波書店〈岩波新書〉、2007年 
  • 中村和之、「北・東北アジアの先住民族と環オホーツク海・環日本海交流圏」、姫田光義編 『北・東北アジア地域交流史』 有斐閣〈有斐閣アルマ〉、2012年 
  • 任展慧 『日本における朝鮮人の文学の歴史 - 1945年まで』 法政大学出版局、1994年 
  • 朴裕河 『帝国の慰安婦 - 植民地支配と記憶の闘い』 朝日新聞出版、2014年 
  • 藤尾慎一郎 『弥生時代の歴史』 講談社〈現代新書〉、2015年 
  • 藤木久志 『新版 雑兵たちの戦場 - 中世の傭兵と奴隷狩り』 朝日新聞社〈朝日選書〉、2005年 
  • 本多博之 『天下統一とシルバーラッシュ - 銀と戦国の流通革命』 吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2015年 
  • 丸山裕美子 『正倉院文書の世界 - よみがえる天平の時代』 中央公論新社〈中公新書〉、2010年 
  • 三上隆三 『貨幣の誕生 - 皇朝銭の博物誌』 朝日新聞社〈朝日選書〉、1998年 
  • 三宅英利 『近世日朝関係史の研究』 文献出版、1986年 
  • 三宅英利 『近世の日本と朝鮮』 講談社〈講談社学術文庫〉、2006年 
  • 宮田節子 『朝鮮民衆と『皇民化』政策』 未来社〈朝鮮近代史研究双書〉、1985年 
  • 村井章介 『東アジア往還 - 漢詩と外交』 朝日新聞社、1995年 
  • 百本和弘; 李海昌 『韓国経済の基礎知識』 JETRO、2012年 
  • 森下章司 『古墳の古代史 - 東アジアのなかの日本』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2016年 
  • 森平雅彦 『モンゴル帝国の覇権と朝鮮半島』 山川出版社〈世界史リブレット〉、2011年 
  • 山室信一 『キメラ - 満洲国の肖像』 中央公論新社〈中公新書〉、1993年 
  • 山本博文 『対馬藩江戸家老 - 近世日朝外交をささえた人びと』 講談社〈講談社学術文庫〉、2002年 
  • 劉考鐘、「国境にまたがる民の20世紀 - ロシア・ソ連朝鮮人の歩み」、姫田光義編 『北・東北アジア地域交流史』 有斐閣〈有斐閣アルマ〉、2012年 
  • 吉川真司 『飛鳥の都』 岩波書店〈岩波新書〉、2011年 
  • 李秀允、「近代開港場の形成と商人 - 近代朝鮮を中心に」、内田日出海; 谷澤毅; 松村岳志編 『地域と越境 - 「共生」の社会経済史』 春風社、2014年 
  • 李鍾元; 木宮正史; 磯崎典世; 浅羽祐樹 『戦後日韓関係史 - 隣り合う2国間,70年の歩み』 有斐閣〈有斐閣アルマ〉、2017年 
  • 李進熙 『江戸時代の朝鮮通信使』 講談社〈講談社学術文庫〉、1992年 

論文、記事[編集]

関連項目[編集]