仙台東照宮

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仙台東照宮
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石鳥居(国の重要文化財)
所在地 宮城県仙台市青葉区東照宮一丁目6-1
位置 北緯38度16分48.7秒
東経140度53分6.3秒
座標: 北緯38度16分48.7秒 東経140度53分6.3秒
主祭神 東照大権現
社格 県社
創建 承応3年(1654年
本殿の様式 入母屋造
例祭 例祭(4月17日)
神楽奉納(4月第3
神輿渡御(5年ごと)
ほか
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1927年昭和2年)頃の仙臺市(第一次合併前)および近郊地図。旧奥州街道沿いの堤町と当社の周辺のみ、藤川(梅田川)の北側ながら市域に含まれた。なお、仙臺軌道は当社を迂回して路線を敷いた。

仙台東照宮(せんだいとうしょうぐう)は、宮城県仙台市青葉区東照宮にある徳川家康をまつる神社承応3年(1654年)に仙台藩2代藩主伊達忠宗が創建した。正式名称は東照宮

明暦元年(1655年)より神輿渡御を斎行しており、2018年(平成30年)には御遷座365年を記念して行われた。

地理[編集]

仙台市都心部から見て北に横たわる七北田丘陵の南部は、広瀬川侵食により河岸段丘を形成している[1]が、同丘陵から仙台平野に突き出した樹枝状丘陵の1つがその地理的に凸な形状から玉手崎と呼ばれている[2]。この標高五十数メートルの玉手崎に仙台東照宮はあり、台原段丘面に社殿が造営され、段丘崖を参道としている[1]。参道前の鳥居周辺は、台原段丘面から約10メートル低い仙台上町および中町の両段丘面であり、ここには別当寺仙岳院などがある[1]

門前から南に宮町通り東六番丁清水小路が直線的に通じ、広瀬川を超えて大年寺山(愛宕山)と相対する。

東照宮造営の背景[編集]

東北諸藩の動き[編集]

[3] 徳川家康をまつる東照宮は諸大名が競って勧請しており、現在でも全国に508社ある。東北地方では弘前藩元和3年(1617年)に造営したのを皮切りに、会津蒲生氏が元和8年(1622年)、鶴岡藩正保2年(1645年)に造営した。

徳川氏と伊達氏の姻戚関係[編集]

[3] 慶長11年(1606年)、仙台藩祖伊達政宗の長女五郎八姫は徳川家康の七男松平忠輝に嫁ぎ徳川・伊達両氏の間に姻戚関係が生じた。また慶長13年(1608年)に政宗が陸奥守に任じられた時、松平の家号を許された。元和3年(1617年)には忠宗のもとに2代将軍徳川秀忠の養女振姫が輿入れした。忠宗は家康の娘市姫を正室と迎え入れる約束があったが、早世によりこの縁組がなされたのである。

仙台藩財政難における幕府の支援[編集]

[4] 伊達政宗が寛永13年(1636年)6月に没すると、瑞鳳殿を造営した。同年10月仙台に大火があり、12月には若林の倉庫が焼失し領内の検地帳は失われた。翌年6月には大洪水があり、仙台藩は財政難のため幕府に約10万両の借用を願い出た。これは20余万石に匹敵した金額である。寛永15年には仙台城二ノ丸工事も着工した。これらの費用をまかない藩を豊かにするため新田の開墾が奨励された結果仙台藩内は大いに田が開けた。幕府より借りた金子は藩の急場を救ったものと考えられる。

東照宮造営[編集]

  • 伊達忠宗は幕府よりうけた恩恵と幕府に対する忠誠の印として3代将軍徳川家光に願い出、直々に許可を得ると、仙台城の北東の方角にあたる小田原村、玉手崎の地に社殿を造営することにした。この場所には寛永17年(1640年)に忠宗が修築した天神社があり、葛西大崎一揆鎮圧の後伊達政宗の案内で徳川家康が休息をとった場所と伝わる。東照宮造営にあたり天神社を東側に移して小田原天満天神社とし、さらに寛文7年(1667年)には現在の仙台市宮城野区榴岡に移し、榴岡天満宮とよばれるようになった。
  • 東照宮造営奉行は富塚内蔵重信・山口内記重如、大工棟梁は梅村彦作之山である。彦作之三の祖父である梅村家次は松島瑞巌寺を担当し、その子頼次は大崎八幡宮を担当した。従って瑞巌寺と大崎八幡宮、東照宮には詳細な箇所に寸法の酷似がみられる。[5]
  • 慶安2年(1649年)8月から工事をはじめ、承応3年(1654年)3月に完成した。神体は承応3年(1654年)3月6日江戸を立ち、騎馬・鉄砲・槍などに守られながら13日に仙台に到着した。この時藩主忠宗をはじめ一門・一族総出で出迎えている。
  • 建立には834,835人の人手と総小判22,443両を要した。

門前町「御宮町」[編集]

  • 御宮町は東照宮造営にあたり、忠宗自ら玉手崎に立って見通しのもとに宮町を門前町と割り出したと伝わる。[4]御宮町は東照宮社領ではなく、他の町人地と同じく町奉行の管轄地であった。
  • 御宮町は「東照宮御用」として東照宮に奉仕することが義務とされた。「境内掃除役」や東照宮祭礼時においては「神輿飾方」などがあった。
  • 東照宮御用の代償として、諸役負担が免除され、軽微な年貢負担のみが課される耕地を持っていた。又東照宮祭礼時には禁止されていた操り芝居、相撲などの興行を特権的に許可され、経済的恩恵を受けていた。

祭礼行事[編集]

江戸時代の祭礼

東照宮の祭礼は藩主在国の時は城下18カ町の山車が出て祭りも賑わい「仙台祭」と称された。江戸時代は9月17日に行われた。

現在の祭礼

  • 例祭(4月17日)。徳川家康の命日に行なわれる。
  • 神楽奉納(4月第3土曜日、日曜日)仙台市の登録無形民俗文化財。
  • 神輿渡御 仙台祭とも称され、明暦元年(1655年)に始まり、江戸時代末期まで続いた。明治時代に中断したが、大正10年 (1921年) 4月に再興した。(編者には不明な時期を経て)昭和29年(1954年)に斎行。昭和59年(1984年)から5年に一度実施されている。
  • 歳旦祭(1月1日)、どんと祭(1月14日)、節分祭(2月3日)、祈年祭(2月17日)、宵祭(4月16日)、夏越の大祓式(6月30日)、七五三祝祭(11月15日)、新嘗祭(11月23日)、年越の大祓会(12月31日)
  • 月に一度、境内の参道を借りて骨董市が開かれている。

建造物[編集]

重要文化財建造物
  • 東照宮 5棟[6]
    • 本殿(附 厨子1基、石燈籠34基、棟札1枚) 
    • 唐門 
    • 透塀 
    • 石鳥居 
    • 随身門 

以上の建造物は承応3年(1654年)創建時のもの。本殿以下の4棟は昭和28年(1953年)3月に国の重要文化財に指定され、随身門は昭和55年(1980年)1月に追加指定されている。昭和52年 - 53年(1977年 - 1978年)に唐門と透塀の、昭和54年(1979年)に本殿の修理が行われている。

その他の主要な建造物
  • 幣拝殿 昭和10年(1935年)8月に火災で失われ、昭和39年(1964年)に復元再建された。
  • 神餞所 昭和10年(1935年)8月に火災で失われた。昭和39年(1964年)に復元再建された。
  • 手水舎 宮城県の有形文化財。
  • 石段 仙台市の登録有形文化財。

関連寺社[編集]

天神社[編集]

東照宮の造営以前にあった神社である。天正19年(1591年) 、葛西大崎一揆の鎮圧の帰途、徳川家康が天神社の境内で休息したことが、この地に東照宮を建てる縁になったという。東照宮建立のため、榴ヶ岡に移転した。

仙岳院[編集]

天台宗の寺院である。仙台東照宮の別当寺として創建され、江戸時代を通じて一体の関係にあった。仙台藩の筆頭寺であり、仙台藩の保護を受けていた平泉中尊寺の総別当を兼ねていた。明治時代の神仏分離令で東照宮から分けられた。

創建時から今に伝わる本尊は、釈迦三尊(釈迦如来文殊菩薩普賢菩薩)で、日光菩薩月光菩薩十二神将とともに京仏師左京幸和の作である。

延寿院[編集]

仙岳院の傍院として万治3年(1660年) に阿弥陀如来を本尊として建立された。文政元年(1818年) に火災で焼失した。文久元年(1861年)に再建され、このとき浄円房大権現をあわせ祀った。

古峯神社[編集]

仙台東照宮の境内、山の麓に祀られた小さな神社である。

アクセス[編集]

関連する作品[編集]

近隣施設[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c 広瀬川沿いの地形・地質と人々との関わり(仙台市「広瀬川ホームページ」)
  2. ^ 昔の仙台を見てみよう Archived 2013年7月25日, at the Wayback Machine.(仙台市)… 「玉田崎」は仙台七崎の1つ。「玉田ヶ崎」「玉手崎」とも呼ばれる。
  3. ^ a b 仙台市史 通史編3 近世1. 仙台市. (2001年9月1日). 
  4. ^ a b 重要文化財東照宮修理委員会 (1980). 重要文化財東照宮本殿唐門透塀修理工事報告書. 重要文化財東照宮修理委員会. 
  5. ^ 坂田泉 (1964). 仙台東照宮建築考. 
  6. ^ 東照宮”. 仙台市. 2019年9月8日閲覧。

参考文献[編集]

  1. 仙台市史 通史編3 近世1』2001年
  2. 文化財建造物保存技術研究会『重要文化財 東照宮(仙台)本殿唐門透塀保存修理工事並びに災害復旧工事報告書』東照宮 1980年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]