紀長谷雄

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紀長谷雄
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長谷雄草紙』(作者不詳)より、紀長谷雄(左)と朱雀門の双六勝負
時代 平安時代前期
生誕 承和12年(845年
死没 延喜12年2月10日912年3月6日
別名 紀納言、紀寛(
官位 従三位中納言
主君 清和天皇陽成天皇光孝天皇宇多天皇醍醐天皇
氏族 紀氏(紀朝臣)
父母 紀貞範
淑望淑人淑信淑光淑行淑間淑方淑久淑江
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紀 長谷雄(き の はせお)は、平安時代前期の公卿文人弾正大忠・紀貞範の子。

竹取物語』の作者の候補者の一人であり、『長谷雄草紙』の主人公。

経歴[編集]

貞観18年(876年文章生元慶5年(881年文章得業生を経て、元慶7年(883年対策に丁科で及第して三階昇進し従七位下に叙せられる。またこの間の元慶6年(882年)には右衛門大尉坂上茂樹とともに掌渤海客使を務めている。その後、讃岐掾少外記を経て、仁和4年(888年従五位下叙爵

宇多朝前半は、図書頭文章博士式部少輔を歴任する。寛平6年(894年)に従五位上・右少弁に叙任されると、寛平7年(895年正五位下、寛平8年(896年従四位下と宇多朝後半は急速に昇進を果たし、この間の寛平7年(895年)には式部少輔・大学頭・文章博士を兼ねて三職兼帯の栄誉に浴した。また、菅原道真に才能を見込まれ、寛平6年(894年)に計画されるも道真の建議により中止となった最後の遣唐使では副使に補されている。

醍醐朝に入ると左右大弁の要職を務め、延喜2年(902年参議に任ぜられ公卿に列した。議政官として左大弁を兼帯し、延喜10年(910年従三位権中納言、延喜11年(911年中納言に至る。醍醐天皇の侍読を務める一方、都良香菅原道真大蔵善行に師事して『菅家後集』の編纂に携わり、『延喜格式』の編纂にもあたった。

延喜12年2月10日(912年薨去享年68。

人物[編集]

漢詩文集に『紀家集』があり、和歌が『後撰和歌集』に4首入集している。『竹取物語』の作者の候補者の一人。

官歴[編集]

紀長谷雄(菊池容斎『前賢故実』)

注記のないものは『公卿補任』による。

系譜[編集]

注記のないものは『尊卑分脈』による。

  • 父:紀貞範[2]
  • 母:不詳
  • 生母不詳の子女

脚注[編集]

  1. ^ a b c 『日本三代実録』
  2. ^ a b 『公卿補任』
  3. ^ 「紀氏系図」『続群書類従』巻第168所収

参考文献[編集]

関連項目[編集]