高麗若光

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高麗 若光(こま の じゃっこう、生没年不詳[1])は、奈良時代豪族在庁官人氏姓は高麗。官位は従五位下武蔵国高麗郡大領

出自[編集]

外国の王族の子孫を意味する姓[2]である王(こきし)姓の賜与を受けており、高句麗王族と見られるが出自未詳。一説では高句麗王族の背奈福徳(肖奈福徳)と同一人物とする。

生涯[編集]

天智天皇5年(666年高句麗からの使者の一員として来日、この際は玄武若光を名乗っている[3]。その後、天智天皇7年(668年新羅の連合軍によって高句麗が滅ぼされたため、若光は高句麗への帰国の機会を失ったと考えられる。

従五位下叙爵されたのち、大宝3年(703年)に高麗王(こまのこきし)の氏姓を賜与された[4]。但しこれ以後、六国史に若光及び高麗王との氏姓を称する人物は全く現れない。『日本書紀』の玄武若光と『続日本紀』の高麗若光が同一人物ならば、高句麗王族の一人として王姓を認められたということになるが、証明出来ていない推定であり、その生涯も記載がなく不明である[5]

霊亀2年(716年武蔵国高麗郡が設置された際、朝廷東海道七ヶ国から1799人の高句麗人を高麗郡に移住させているが[6]、若光もその一員として移住したものと推定されている[5]

墓所・霊廟[編集]

埼玉県日高市新堀にある聖天院・勝楽寺は高麗氏菩提寺で、若光の三男とされる聖雲が建立した。寺の雷門手前右側に、若光のとされる高麗王廟があり、聖天院本堂左側には若光の銅像がある。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 新編武蔵風土記稿』には若光の没年として、誤って「高麗氏系図」(高麗純雄『高麗神社と高麗郷』所収)による嫡男家重の没年748年(天平20年)を記しており、これをそのまま引用した研究書などに若光の没年が定かであるかのように記されているが、これは誤り。
  2. ^ 「高麗王」以外で王姓を称したケースに、肖奈王(高句麗王族)・百済王百済王族)がある。
  3. ^ 『日本書紀』天智天皇5年10月26日条
  4. ^ 続日本紀』大宝3年4月4日条
  5. ^ a b 新説『埼玉県史』
  6. ^ 『続日本紀』霊亀2年5月16日条