高麗若光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

高麗 若光(こま の じゃっこう、生没年不詳[1])は、奈良時代豪族氏姓は高麗王(こま の こにきし)。官位は従五位下

出自[編集]

外国の王族の子孫を意味する(カバネ)[2]である王(こにきし)の賜与を受けており、高句麗王族と見られるが出自不詳。

生涯[編集]

『日本書紀』天智天皇5年(666年)10月26日条に、高句麗から日本に派遣された使節の一員に玄武若光なる人物がいたとの記述がある。

ついで『続日本紀大宝3年(703年)4月4日条に、従五位下高麗若光に王(こにきし)のカバネを与えたとの記述がある。『日本書紀』の玄武若光と『続日本紀』の高麗若光が同一人物ならば、高句麗王族の一人として王姓を認められたということになるが、傍証がないため確認できていない。若光のその後の履歴、また若光以外の高麗王氏の人々について六国史は何も記録を残していない[3]

霊亀2年(716年)、武蔵国東海道7ヶ国から1799人の高句麗人を移住させ、高麗郡を設置しているが[4]、若光もその一員として移住したものと推定されている[3]

墓所・霊廟[編集]

埼玉県日高市新堀にある聖天院・勝楽寺は高麗氏菩提寺で、若光の三男とされる聖雲が建立した。寺の雷門手前右側に、若光のとされる高麗王廟があり、聖天院本堂左側には若光の銅像がある。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 新編武蔵風土記稿』には若光の没年として、誤って「高麗氏系図」(高麗純雄『高麗神社と高麗郷』所収)による嫡男家重の没年748年(天平20年)を記しており、これをそのまま引用した研究書などに若光の没年が定かであるかのように記されているが、これは誤り。
  2. ^ 「高麗王」以外で王のカバネを称したケースに、肖奈王(高句麗王族)・百済王百済王族)がある。
  3. ^ a b 新説『埼玉県史』
  4. ^ 『続日本紀』霊亀2年5月16日条