和同開珎

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和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)は、708年8月29日和銅元年8月10日[1]に、日本で鋳造・発行された銭貨である。日本で最初の流通貨幣と言われる。皇朝十二銭の1番目にあたる。

概要[編集]

直径24mm前後の円形で、中央には一辺が約7mmの正方形の穴が開いている円形方孔の形式である。表面には、時計回りに和同開珎と表記されている。裏は無紋である。形式は、621年に発行された開元通宝を模したもので、書体も同じである。律令政府が定めた通貨単位である1として通用した。当初は1文で2kgが買えたと言われ、また新成人1日分の労働力に相当したとされる。

現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から、和銅(にきあかがね、純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出した事を記念して、「和銅」に改元するとともに、和同開珎が作られたとされる。ただし、銅の産出が祥瑞とされた事例はこの時のみであり、和同開珎発行はその数年前から計画されており、和銅発見は貨幣発行の口実に過ぎなかったとする考え方もある[2]。唐に倣い、貨幣制度を整えるため、また、ちょうど平城京遷都の直前だったため、遷都の経費を、銅地金と貨幣価値との差額で補う目的もあった。

和同開珎銀銭

708年5月には銀銭が発行され、7月には銅銭の鋳造が始まり、8月に発行されたことが続日本紀に記されている。銀銭が先行して発行した背景には当時私鋳の無文銀銭が都で用いられていたのに対応して私鋳の無文銀銭を公鋳の和同開珎の銀銭に切り替える措置が必要であったからと言われている。しかし、銀銭は翌年8月に廃止された。和同開珎には、厚手で稚拙な「古和同」と、薄手で精密な「新和同」があり、新和同は銅銭しか見つかっていないことから、銀銭廃止後に発行されたと考えられる。古和同は、和同開珎の初期のものとする説と、和同開珎を正式に発行する前の私鋳銭または試作品であるとする説がある。古和同と新和同は成分が異なり、古和同はほぼ純銅である。また両者は書体も異なる。古和同はあまり流通せず、出土数も限られているが、新和同は大量に流通し、出土数も多い。ただし、現在、古銭収集目的で取引されている和銅銭には贋作が多いので注意を要する。

当時の日本はまだ米やを基準とした物々交換の段階であり、和同開珎は、貨幣としては畿内とその周辺を除いてあまり流通しなかったとされる。また、銅鉱一つ発見されただけで元号を改めるほどの国家的事件と捉えられていた当時において大量の銅原料を確保する事は困難であり、流通量もそれほど多くなかったとの見方もある。更に地方財政(国衙財政)が一貫して穎稲を基本として組まれている[3]ことから、律令国家は重農主義の観点から通貨の流通を都と畿内に限定して地方に流れた通貨は中央へ回収させる方針であったとする説もある[4]。それでも地方では、富と権力を象徴する宝物として使われた。発見地は全国各地に及んでおり、渤海の遺跡など、海外からも和同開珎が発見されている。

発行はしたものの、通貨というものになじみのない当時の人々の間でなかなか流通しなかったため、政府は流通を促進するために税を貨幣で納めさせたり、地方から税を納めに来た旅人に旅費としてお金を渡すなど様々な手を打ち、711年(和銅4年)には蓄銭叙位令が発布された[5]。これは、従六位以下のものが十貫(1万枚)以上蓄銭した場合には位を1階、二十貫以上の場合には2階進めるというものである。しかし、流通促進と蓄銭奨励は矛盾しており、蓄銭叙位令は銭の死蔵を招いたため、800年延暦19年)に廃止された。

政府が定めた価値が地金の価値に比べて非常に高かったため、発行当初から、民間で勝手に発行された私鋳銭の横行や貨幣価値の下落が起きた。これに対し律令政府は、蓄銭叙位令発布と同時に私鋳銭鋳造を厳罰に定め、首謀者は死罪、従犯者は没官、家族は流罪とした。しかし、私鋳銭は大量に出回り、貨幣価値も下落していった。760年天平宝字4年)には万年通宝が発行され、和同開珎10枚と万年通宝1枚の価値が同じものと定められた。しかし、形も重量もほぼ同じ銭貨を極端に異なる価値として位置づけたため、借金の返済時などの混乱が続いた。神功開宝発行の後、779年宝亀10年)に和同開珎、万年通宝、神功開宝の3銭は、同一価を持つものとされ、以後通貨として混用された。

その後、延暦15年(796年)に4年後をめどに和同開珎、万年通宝、神功開宝の3銭の流通を停止する詔が出された[6]ものの、実際に停止できたのは大同2年(807年)のことであり、それも翌年には取り消された[7]。また、延暦15年の詔では全ての貨幣を隆平永宝に統一する方針が出され、そのための材料として回収された3銭が鋳潰された。和同開珎が流通から姿を消したのは9世紀半ば[8]と推定されている[9]

読み方[編集]

「わどうかいちん」と読む説と、「わどうかいほう」と読む説とがあり、江戸時代後半から論争が続いている。

「ちん」と読む説は、「珎」は「珍」の異体字であり[10]、「国家珍寳」を「国家珎寳」と表記していると考えられる事例があること、などを根拠にしている。[11]

「ほう」と読む説は、「珎」は「寳」の異体字であり、「天平勝寳四年」を「天平勝珎四年」と表記している事例のほか、『東大寺献物帳』に「寳」の意で「珎」を用いている事例があること、「寳」は「貨幣」の意であり、手本とした開元通寳以来の中国銭のほとんど、また皇朝十二銭のすべてが「寳」であり「珍」の例は皆無であること、などを根拠にしている。[12][13]

また上下右左に「和開同珎」という読み順の可能性を指摘する説もある。[14]また、「和同」とは官民が互いに納得して取引が出来るように願いを込めた名称であるとする説もある[15]

和同開珎以前に存在した貨幣[編集]

和同開珎以前に存在した貨幣として、無文銀銭富本銭が知られている。1999年1月19日には、奈良県明日香村から大量の富本銭が発見され、最古の貨幣は和同開珎という定説が覆る、教科書が書き換えられるなどと大きく報道された。しかし、これらは広い範囲には流通しなかったと考えられ、また、通貨として流通したかということ自体に疑問も投げかけられている。現在のところ、和同開珎は、確実に広範囲に貨幣として流通した日本最古の貨幣であるとされている。

脚注[編集]

  1. ^ 続日本紀』の記述による。
  2. ^ 岡田芳朗「『和同開珎』について」『女子美術大学紀要』1号、1967年。
  3. ^ 森明彦は律令国家が全国的に通貨を流通させる考えを持っているのであれば、国衙が現地にて行う交易において和同開珎を用いるのが最も早い普及手段であるのに交易で使われた形跡はほとんど確認できないとする(森、『日本古代貨幣制度史の研究』P203-204)。
  4. ^ 森明彦「和同開珎の価値規定と流通構造」『日本古代貨幣制度史の研究』(塙書房、2016年) ISBN 978-4-8273-1283-6
  5. ^ 森明彦の説では、雇役や納税の旅人にお金を渡したのは通貨が国家としての支払手段であったからで、地方に流出した通貨は速やかに中央に回収される性格のものであった。税を貨幣を納めさせたり蓄銭叙位令を出したのもそのための手段としている(森、『日本古代貨幣制度史の研究』P204)。
  6. ^ 『日本後紀』延暦15年11月乙未条
  7. ^ 『日本後紀』大同3年5月己丑条
  8. ^ 『類聚三代格』承和元年10月9日付太政官符に引用された鋳銭司解に「旧銭既尽、無銅可鋳」とある。
  9. ^ 森明彦「日本古代初期貨幣制度の変遷」『日本古代貨幣制度史の研究』(塙書房、2016年) ISBN 978-4-8273-1283-6
  10. ^ 『辞海』(1999年版 普及本)上海辞書出版社、3433頁
  11. ^ 至文堂 2009.
  12. ^ 王維坤 7・8世紀の長安の考古学 2010年3月
  13. ^ 中江圭 和同開珎銭に関する一考察 2011年3月
  14. ^ 中江圭 和同開珎銭に関する一考察 2011年3月
  15. ^ 森明彦「銭文〈和同〉〈開珎〉の意味と貨幣観」『日本古代貨幣制度史の研究』(塙書房、2016年) ISBN 978-4-8273-1283-6 。なお、森は天武天皇が無文銀銭の使用を禁じて銅銭である富本銭を発行・流通させようとしたところ、人々の反対を受けて3日間で事実上の廃止になったとする見解に立っており、和同開珎がその二の舞にならないように慎重に発行準備を進めたとする。

参考文献[編集]

  • 「和同開珎の発行」、『日本の美術』第512号 出土銭貨、至文堂、2009年1月10日ISBN 9784784335121
  • 森明彦 『日本古代貨幣制度史の研究』 塙書房、2016年ISBN 9784827312836 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]