池長孟
池長 孟(いけなが はじめ/たけし、1891年〈明治24年〉11月24日 - 1955年〈昭和30年〉8月25日)は、日本の教育者、美術品収集家。旧姓井上、号は南蛮堂。
経歴[編集]
神戸市出生。幼少時に叔父池長通の養子となり池長姓に改姓。京都帝国大学を卒業。初め戯曲を書いた。
育英商業学校の校長を務める傍ら南蛮美術の収集を行い、1940年(昭和15年)、池長美術館を開館したが、戦局の悪化から同美術館は1944年(昭和19年)に閉鎖された。戦後の1951年(昭和26年)、戦災を免れた美術館の建物とコレクションを神戸市に寄贈した。これを元に開館した市立神戸美術館は後に統合され神戸市立博物館の中核となった。小川安一郎設計のアールデコ建築は、神戸市文書館として使用されている。
その他[編集]
植物学者である牧野富太郎の研究を経済面で支援したことでも知られる(詳細は後述)。谷崎潤一郎とも交友があった。
牧野富太郎と池長孟[編集]
牧野富太郎は1916年(大正5年)12月、生活苦から収集した植物標本10万点を海外の研究所に売ることを決断する。
富太郎の窮状を知った渡辺忠吾は、『東京朝日新聞』に「篤学者の困窮を顧みず、国家的資料が流出することがあれば国辱である」との記事を書き、『大阪朝日新聞』がこれを転載した。
記事は反響を呼び、神戸から二人の篤志家が現れた。一人は久原房之助、もう一人が当時20歳で京都帝国大学在学中の孟であった。
12月21日、富太郎は壽衛子夫人と共に神戸に向かう。孟は父、通の遺産の中から3万円で標本を買い取り、改めて富太郎に寄贈しようと申し出た。感激した富太郎はこの申し出を固辞、標本は通が建てた池長会館に所蔵されることになり、会館は池長植物研究所と改称される。
これで富太郎は困窮時代の危機を脱することになる。また、孟は富太郎にその後も研究費を援助する[1]。
家族・親族[編集]
生涯に3回結婚。最初の妻・正枝は荒木村重の末裔と言われる家系の出身で孟との間に3子を儲けたが、次男出産時に体調を崩し死別。2番目の妻・富子は淀川長治の姉。結婚2年目に富子が家出して離婚。3番目の妻・とし子との間に2子[2]。
長男は摂南大学教授だった倫理学者・池長澄 (1920 - 2001) 。三男にカトリック大阪大司教区第7代大司教を務めた池長潤。
著作[編集]
- 『荒つ削りの魂 戯曲集』弘文社 1929
- 『開国秘譚 戯曲 別名・ラシヤメンお蘭一代記』弘文社 1930
- 『「狂ひ咲き」 戯曲集』福音社 1933
- 『邦彩蛮華大宝鑑 池長蒐集品目録』編 創元社 1933
- 『対外関係美術史料年表』編 創元社 1937
- 『紀元二千六百年記念開館陳列品目録』池長美術館 1940
- 『南蛮堂要録』池長美術館 1940
脚注[編集]
参考文献[編集]
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