成宗 (朝鮮王)

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成宗
李氏朝鮮
第九代国王
王朝 李氏朝鮮
在位期間 1469年12月31日 - 1495年1月20日
姓・諱 李娎
諡号 康靖仁文憲武欽聖恭孝大王
廟号 成宗
生年 1457年8月19日
没年 1495年1月20日
懿敬世子(次男)
仁粋大妃
后妃
陵墓 宣陵

成宗(ソンジョン、せいそう、天順元年7月30日1457年8月19日) - 弘治7年12月24日1495年1月20日))は、李氏朝鮮の第9代国王(在位:1469年11月28日(12月31日) - 1494年12月24日(1495年1月20日))。姓は、名はは康靖仁文憲武欽聖恭孝大王。君号は者乙山君(しゃおつさんくん、チャウルサングン)を経て者山君(しゃさんくん、チャサングン)

第7代国王世祖の第1王子李暲(桃源君、義敬世子、懿敬世子、追尊して徳宗)の第2王子にして世祖の孫。母は懿敬世子嬪韓氏(仁粋大妃)。前王睿宗は叔父にあたる。成宗は王道政治を貫き通した名君として知られており、士林派を積極的に登用したのも成宗の時代に入ってからである。

世祖~中宗の略系図[編集]

7世祖 李暲(徳宗) ━━ 9成宗 10燕山君

8睿宗 11中宗

生涯[編集]

成宗は世祖の長男である義敬世子(後に徳宗と追尊)と世子嬪韓氏(後の仁粋大妃)の二男として生まれた。幼い頃から聡明で度量が広く、世祖から太祖に似ていて気性と学識に優れているだろうという称賛を受けるほど、とても可愛がられたという。

世子であった父は、成宗の生後間もない1457年9月2日に病没。1461年、5歳の時に者乙山君に、後に乽山君に封ぜられたが、1469年、義敬世子の弟である海陽大君が睿宗として即位してわずか1年2ヶ月で死去すると、当時睿宗の息子は4歳と幼く、また兄の月山大君は病弱だったため、祖母・慈聖大妃の命によって朝鮮国王に即位した。
13歳で王位に卽いたので、当初には慈聖大妃の垂簾聴政を受けた。当時有力な国王候補たちを皆追い抜いて韓明澮と慈聖大妃の意向によって王位に就いたので、摂政を受けた7年間の国政の全決定権は申叔舟、韓明澮などの元老大臣にあった。

しかし垂簾聴政を終わらせた1476年からは、元老大臣が国政の重要な決定に参加する院相制度を廃止して決裁権を取り戻し、1482年には廃妃尹氏を支持していた任士洪を筆頭とした功臣勢力を左遷させる一方、新進勢力を果敢に登用することで士林勢力の政治的基盤を作った。

成宗の治世は“文化の黄金期”と呼ばれるほど、世宗世祖が成した政治的功績を土台に輝く文化政策を拡大させた時期であった。
1474年には『経国大典』を完成・頒布し、1492年には経国大典を補った『大典続録』と『東国輿地勝覧』、『東国通鑑』、『楽学軌範』など多様な書籍を編纂、刊行した。世祖代に廃止された集賢殿と似た役割を引き継いだ弘文館を設置する一方、文臣中、すぐれた才を持った人物を選んで家で読書するようにさせる賜暇読書(湖堂制度)を実施するなど文化的発展に貢献した。
また僧侶たちを厳しく統制して、大部分の寺院を閉鎖するなど崇儒抑仏政策を徹底的に実践した。対外的には鴨緑江周辺の女真族を追い出して、豆満江地域の女真族の巣窟を掃討、辺方を安定させた。

朝鮮時代初期の文物制度は成宗の代にほぼ完成され、民衆は建国以来最も太平聖代な歳月を迎えた。しかしこのような太平聖代は、成宗の治世後半に退廃的風潮を助長したりした。

在位期間25年の間始終善政を敷いた成宗は、1494年12月24日(旧暦)に38歳で薨去した。御陵は宣陵。

宗室[編集]

后妃[編集]

後宮[編集]

  • 明嬪金氏
  • 貴人鄭氏:後に燕山君に処刑される。
  • 貴人権氏:本貫は安東。
  • 貴人嚴氏:本貫は寧越。後に燕山君に処刑される。
  • 貴人南氏:本貫は宜寧。燕山君と姦淫を犯したという。母は孝寧大君の子孫。
  • 淑儀洪氏:本貫は南陽。(同知中樞府事 洪逸童の娘で洪吉童の姪。)
  • 淑儀河氏
  • 淑儀金氏
  • 淑容沈氏
  • 淑容権氏
  • 淑媛尹氏:中宗28年に卒。

子女[編集]

王子

名称 生母 生没年 配偶者 子女 備考
孝信 不詳 1475年 なし なし 生母に関しては廃妃尹氏という説もある。夭逝。
燕山君 廃妃尹氏 1476年-1506年 廃妃慎氏(本貫は居昌) 8男7女 第10代国王。中宗反正により廃位。
中宗 貞顕王后 1488年-1544年 端敬王后慎氏、章敬王后尹氏、文定王后尹氏 仁宗明宗 第11代国王。王子としての号は晋城大君。
桂城君 淑儀河氏 1478年-1504年 安城郡夫人 原州元氏 なし 実子が無かった為、成宗の兄 月山大君の孫 桂林君 (李瑠)を養子にした。
安陽君 貴人鄭氏 1480年-1505年 沔川郡夫人 綾城具氏 なし 実母が廃妃尹氏の廃位主張をしたとして殺害されると、それに連座して島流しにあった。燕山君の命令で死刑(賜薬)。
完原君 淑儀洪氏 1480年-1509年 沔川郡夫人 全州崔氏、旌善郡夫人 陽川許氏 2男2女
檜山君 淑儀洪氏 1481年-1512年 寧原郡夫人 竹山安氏 1女 後嗣が無かった為、弟 甄城君の次男・桂山君 壽誡)を養子にした。
鳳安君 貴人鄭氏 1482年-1505年 宜春郡夫人 平壤趙氏 1男 実母が廃妃尹氏の廃位主張をしたとして殺害されると、それに連座して島流しにあった。兄 安陽君と共に死刑。
甄城君 淑儀洪氏 1482年-1507年 永陽郡夫人 平山申氏 2男1女
益陽君 淑儀洪氏 1488年-1552年 順川郡夫人 迎日鄭氏 6男3女
利城君 淑容沈氏 1489年-1552年 昆山郡夫人 南平文氏、 豊山郡夫人 安東權氏 5男1女
景明君 淑儀洪氏 1489年-1526年 江陽郡夫人 坡平尹氏 2男2女
全城君 貴人權氏 1490年-1505年 丹陽郡夫人 安東権氏 なし 後嗣が無く、兄 益陽君の次男・廣川君を養子にした。
茂山君 明嬪金氏 1490年-1525年 郡夫人 平山申氏 8男4女
寧山君 淑容沈氏 1490年-1538年 金陵郡夫人 靑松沈氏、交城郡夫人 慶州鄭氏、咸興郡夫人 黃氏 4男10女
雲川君 淑儀洪氏 1490年-1524年 鶴城郡夫人 安東權氏 4女 後嗣が無く、兄 完原君の次男・伊川君を養子にした。
楊原君 淑儀洪氏 1492年-1551年 文川郡夫人 豊壤趙氏、楊根郡夫人 文化柳氏 4男8女
大君 廃妃尹氏 不詳-1479年 なし なし 夭逝。母が廃妃になった年に死去。
王子 淑容權氏 不詳 不詳 不詳

王女

名称 生母 生没年 配偶者 子女 備考
順淑公主 貞顕王后 1478年-1488年 なし なし 夭逝。
慎淑公主 貞顕王后 1481年-1486年 なし なし 夭逝。
恵淑翁主 淑儀洪氏 1478年-不詳 高原尉 文孝公 申沆 1男1女(二子とも早世) 夫は申叔舟と韓明澮の曾孫で恭恵王后の大甥に当たる。
徽淑翁主 明嬪金氏 不詳 豊原尉 任崇載 3女 夫は任士洪の息子。夫の兄弟豊川尉 任光載の夫人は、いとこ伯母の顕粛公主(第8代王睿宗の娘)
恭慎翁主 貴人嚴氏 1481年-1549年 淸寧尉 韓景琛 なし 夫は恭恵王后の甥。
慶順翁主 淑容沈氏 1482年-不詳 宜城尉 南致元 1男1女
敬淑翁主 明嬪金氏 1483年-不詳 驪川尉 閔子芳 1男
静順翁主 淑儀洪氏 不詳 奉城尉 鄭元俊 1男
淑恵翁主 淑容沈氏 1486年-1525年 漢川尉 趙無疆 1男
慶徽翁主 淑容權氏 不詳 鈴原尉 尹鼎 1男
徽静翁主 明嬪金氏 不詳 宜川尉 南燮元 1女
静恵翁主 貴人鄭氏 1490年-1507年 淸平尉 韓紀 なし 母が廃妃尹氏の廃位主張に関わったとして、燕山君に殺害された後、同母兄の安陽君、鳳安君らと共に廃され、島流しにされた。剥奪後は単に、韓紀の妻と呼ばれた。中宗反正により身分が回復した。
静淑翁主 淑儀洪氏 1492年-1573年 鈴平尉 尹燮 1男 本名は如蘭
淑慎翁主 不詳 不詳 不詳 不詳
翁主 淑儀金氏 不詳 不詳 不詳 夭逝。

成宗が登場する作品[編集]

映画
テレビドラマ

関連項目[編集]