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恭恵王后

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
恭恵王后
朝鮮王妃
在位 成化5年11月29日 - 成化10年4月15日
1470年1月1日 - 1474年4月30日

別称 徽懿慎粛恭恵王后(諡号)
出生 景泰7年10月11日
1456年11月8日
死去 成化10年4月15日
1474年4月30日
埋葬 順陵
配偶者 成宗
氏族 清州韓氏
父親 韓明澮
母親 驪興閔氏
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恭恵王后 韓氏(きょうけいおうこう かんし、コンヘワンフ ハンシ、공혜왕후 한씨1456年11月8日 - 1474年4月30日)は、李氏朝鮮の第9代国王成宗の最初の正室

上党府院君 忠成公韓明澮と黄驪府夫人驪興閔氏の娘。姉に第8代国王睿宗の王妃の章順王后がいる。本貫清州韓氏諡号は徽懿慎粛恭恵王后。

生涯

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世祖13年(1467年)1月12日、当時王子の身分で山君に封じられていた成宗と婚姻した。婚姻後は天安郡夫人と称された。この婚姻は、夫の祖父の世祖の意向によるものだと言われている。睿宗元年(1469年)に成宗が国王に即位すると、正室であった彼女は王妃に冊立された。成宗4年(1473年)に病気療養のため、実家の韓家に移り住む。成宗も一日置きに見舞いに訪れた。その後病状が回復し、王宮に戻るが、同年12月に再発してしまった。自身の病が治ることはないと悟った彼女は、自らの希望で昌徳宮求賢殿に移った。成宗は毎日見舞いに訪れ、貞熹王后昭恵王后安順王后も毎日見舞った。

成宗5年(1474年)、病のため死去。享年18歳。成宗との間に子供はいなかった。

人物

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  • 姑の昭恵王后は厳格な人物で、彼女に対しても厳しく接した。中国の賢母良妻に関する話である『烈女伝』を読むようにするなど儒教倫理により徹底的に教育した。
  • 王妃となった以降も懐妊の兆しがなく、後宮を持つこととなった。そのことに対して、嫌な顔一つしなかった。また、後宮の側室達に服等を贈ったという。
  • 求賢殿に移ってから両親が看病に訪れた。娘が心配であるあまり食事をとることができなくなってしまった。それに対して、食事を取るよう命じたという。なお、これは死の数日前のことであった。

家族関係

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  • 父:韓明澮(上党府院君 忠成公、1415年-1487年
  • 母:黄驪府夫人 驪興閔氏(生年不詳-1479年
  • 姉:名前不詳(高霊府院君 申叔舟の長男の申澍の夫人)
    • 義理の大姪:恵淑翁主(1478年-没年不詳)- 夫の成宗と後宮の淑儀洪氏の娘。甥の申従濩(長姉と申澍の子)の子の申沆の夫人
  • 姉:名前不詳(尹師路(成宗の継室の貞顕王后の同族)と世宗の娘の貞顕翁主の長男の尹磻の夫人)
  • 姉:章順王后1445年-1461年)- 睿宗の最初の正室
  • 兄:韓堡(琅城君 襄胡公、1447年-1522年
    • 義理の姪:恭慎翁主(1481年-1549年)- 夫の成宗と後宮の貴人厳氏の娘。甥の清寧尉 韓景琛(韓堡の三男)の夫人
  • 夫:成宗

出典

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  • 『王妃たちの朝鮮王朝』尹貞蘭・著、金容権・訳 日本評論社 2010年

脚注

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先代
安順王后
朝鮮王妃
在位:1470年 - 1474年
次代
斉献王后