李安社

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李安社
各種表記
ハングル 이안사
漢字 李安社
発音: イ・アンサ
日本語読み: り あんしゃ
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李 安社(り あんしゃ、? - 至元11年(1274年)12月)は、李氏朝鮮の初代君主・太祖李成桂の高祖父。李成桂が朝鮮を建国すると穆王と追尊し、太宗廟号穆祖(목조)、号を仁文聖穆大王(인문성목대왕)とした。

生涯[編集]

高麗で兵馬使の職にあった。全州で地元の役人といざこざを起こし、一族郎党と共に三陟に移ったものの、その時の役人が人事異動でやってきたため、さらに宜州(의주、現在の元山市)に移った。1254年に投降し、元から遼陽等処行中書省開元路zh)の斡東(알동、慶興豆満江対岸で現在はロシア領)のダルガチに任命された。

池内宏は、神道碑朝鮮語版は李氏の遠祖を新羅時代の光禧として、以後十数世後の陽茂をもって李安社の父とするが、 定陵碑(1393年、王命によって撰した碑文[1])は、光禧より遡り天祥・自延・翰に及び系図が延長していること、神道碑朝鮮語版において、李安社の居住地が南京より孔州(現在の慶興)に移転して、江陵の三陟より南京に移り、5千戸所の達魯花赤となったというように、事績を激しく変化させていることから、李安社は李成桂の領土拡張の理想を寄せた架空の人物であることは殆ど疑う余地がないという。そして、「安社」という名前は、伝説を創作する際に、簒立の志を抱いていた李成桂が、その義を当代の功臣安社功臣(안사공신)から付けたものではないかという。そして、李成桂は、李子春の墳墓が根拠地の咸興に存在することをもって、李椿の墳墓をその地に存在するとみなして、架空の人物である李安社を設定して、それぞれの墳墓を構築したという。そして神道碑朝鮮語版と定陵碑において伝説を創作した翌年、李穡朝鮮語版(『神道碑』の作者)をして『墳墓記』を制作させ、虚偽を飾って真実とみなそうとしたという[2]池内宏によると、李穡の墳墓記には、李安社の陵は斡東倉に存在するとするが、李成桂の即位の初め、四祖の陵墓を祭るために東北面に派遣された芳遠が、復命して「徳陵・安陵在孔州」といい、これらの二陵の南京附近より孔州に移転したのは、この遣使の頃か或いはそれ以前であり、李成桂が亡父のために神道碑を建立する際に、高麗の領土を豆満江方面に拡張するという抱負を有して、その抱負を李安社という空想の人物に結合して、李安社の南京移住説となり、それにともない李安社の墳墓は斡東に存在するとしたが空想の産物に過ぎず、南京といい、斡東というのも、それらの地名の存在する豆満江方面に関する当時の地理的知識の浅薄なことが説話を作為せしめた素因の一つだという。その後、この方面の経略が北進して豆満江畔の孔州に達し、李成桂が即位して、四祖の陵室を祭るに至って、祭儀を執り行う必要上、李安社の空想の墳墓を、経略の及ばない布爾哈圖河畔の地に置くことはできず、東北面に派遣した芳遠が帰朝して「徳陵・安陵在孔州」と復命したのはその証左であり、芳遠の復命は、李成桂の即位を定陵・和陵・義陵・純陵等の諸陵に告げると同時に、李安社及びその妃の空想の陵墓を孔州の地に具体化して、築造する使命を帯びた結果だという[3]。太祖六年十二月、鄭道伝を東北面に遣わし、翌年二月孔州以南の州・府・郡・県の名を分定し、この時に孔州を慶源府と改めたが、徳陵・安陵の二陵の築造の自然の結果としての李安社の伝説の事実上の移転を、文字の表面に示したものであり、慶源の名は、鄭惣碑に「世積動徳、肇基王迹、善鍾慶發、源遠流光」といっていることに基づき、祖先の発祥地をその府に擬した命名であることは明白だという[3]

三田村泰助は、全州李氏出身という主張を「全羅道全州の名門の出といわれるが、疑わしく、数代まえより、北鮮の咸鏡道にいた。」と述べている[4]

李氏朝鮮史が専門の六反田豊東京大学教授)は、高祖父李安社の時代に全州から東北面に移住した、元朝に入仕した、その後各地を転々としたなどというのは「伝説」として[5]、「こうした伝説は、『高麗史』・『太祖実録』・『竜飛御天歌』等にみられるが、どこまで史実を反映したものであるかは疑問である。」と述べている[6]

子孫[編集]

6人の男子が知られている。

  1. 安川大君 李於仙
  2. 安原大君 李珍
  3. 安豊大君 李精
  4. 翼祖 李行里[7]
      1. 咸寧大君 李安
      2. 咸昌大君 李長
      3. 咸原大君 李松
      4. 度祖 李椿(モンゴル名:孛顔帖木児)[8]
      5. 咸川大君 李源
      6. 咸陵大君 李古泰
      7. 咸陽大君 李腆
      8. 咸城大君 李応巨
  5. 安昌大君 李梅拂
  6. 安興大君 李球寿

脚注[編集]

  1. ^ 六反田豊 1986, p. 46
  2. ^ 池内宏「李朝の四祖の伝説とその構成」『満鮮史研究 近世編』中央公論美術出版1972年、p35-p37
  3. ^ a b 池内宏「李朝の四祖の伝説とその構成」『満鮮史研究 近世編』中央公論美術出版1972年、p46-p47
  4. ^ 「明帝国と倭寇」『東洋の歴史8』人物往来社1967年、p153
  5. ^ 六反田豊 1986, p. 45
  6. ^ 六反田豊 1986, p. 77
  7. ^ 達魯花赤
  8. ^ 三興地誌 度祖生名之善來(小字)蒙古諱孛顔帖木児(竜飛御天歌)天方擇矣匪白衲師海東黎民其肯忘斯

参考文献[編集]