高麗史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

高麗史』(こうらいし)は、朝鮮高麗王朝(918年 - 1392年)のことを記した紀伝体の官史。編纂は李氏朝鮮鄭麟趾らによって行なわれ、文宗元年(1451年)に完成した。成立の際、高麗国王歴代の実録をはじめ多くの公私文書[1]・書籍が参照されたが、すべて焚書または消失[2]し、大部分は現存しないので、この『高麗史』と独立に編纂された春秋館編纂の編年体形式の『高麗史節要』(1452年)が高麗時代の史書となる。

概要[編集]

1392年李成桂の命で、鄭道伝を中心に編年体の『高麗国史』が1395年に完成した。ただし、高麗は国内的に皇帝を称していたため、朱子学的に中国明朝への配慮で、用語を格下のものに改める必要があったこと、李成桂が権力を握り簒奪するまでの経緯の記述などが問題となった。1398年第一次王子の乱で鄭道伝も倒れる。1414年太宗河崙・卞季良らに改修を命じ、世宗の代になって1421年に卞季良・柳観らが完成させた。1424年に柳観らが再び改修を行い、更に辛禑・辛昌を偽の王族とする名分論が高まり、1443年に権踶・申槩らが改修したが、不出来として公開されなかった。最終的に金宗瑞・鄭麟趾らによって、編年体を紀伝体に改めて『高麗史』が成立した。従来の編年体の原稿は、『高麗史説要』の編纂に活用されている。

日本では江戸時代に1部のみ輸入され、前田綱紀徳川光圀が競り合った結果加賀藩が入手したが、コレクションとして死蔵されている。日本において朝鮮半島史・日朝関係史の典拠となったのは、光圀が刊行させた『東国通鑑』であり、これは明治初期まで続いた。『高麗史』を参照した研究書は、1891年の山田安栄による『伏敵編』が最初とされる。

構成[編集]

高麗史は

  • 世家 巻第1 - 巻第46 初代太祖から恭讓大王までの王の記録
  • 志 巻第1 - 巻第39(天候気候、天文等)
    志のうち、巻24 樂一には雅樂 巻25 樂二には俗樂 三國俗樂 用俗樂節度が記載されており、高麗史樂志ともよばれる。
  • 表 巻第1、2の2巻(高麗の宗主国の暦年と高麗暦年の表)
  • 列伝 五十巻の50巻 后、子、重臣、逆臣等
    恭譲王から禅譲で王位を譲られた朝鮮王朝の始祖李成桂とその特殊な経緯もあって、第32, 33代高麗王の王禑王昌王は偽の王族として 王権保持者ではなく、辛禑 辛昌と卑称で記述している。

合計 137巻となっている。

脚注[編集]

  1. ^ 朝鮮王朝実録に相当する高麗王朝実録があったとされる。この実録の存在は、世宗実録からも存在が確認されるが、高麗史成立後の存在は不明となっている。具体的には、高麗の実録は世宗 22年までは忠州開川寺史庫に収蔵されてから 高麗史纂修のために京中に輸送されて、纂修が終わった後の行方ははっきりしない。 出典は[1]である。 また史庫に関する詳細は、 [2]を参照されたい。 なお、焚書された元天錫の「野史」6巻によれば、高麗史は高麗王朝実録の書き換えであり、「高麗実録」を「高麗史」に書き換えた事情が書かれ、高麗末の禑王は辛旽の子ではなく、恭愍王の子と書かれていたという。現存は転記の耘谷集等詩歌の部分と記録のみである。
  2. ^ 李氏朝鮮 太祖の時代に 「書雲觀」等の記録を焚書した。さらに一般民の史書の所持と輸入は厳しく禁止していた。具体的には明朝會典 皇明通紀 明紀輯略等多岐にわたる。 例えば、平安道の儒生 桂徳海が中国からの史書を所持していた事件(1771年)で断罪されている。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 高麗史編纂始末(申奭鎬、韓國史學會)
  • 麗朝忠烈錄 編者未詳 2冊 筆寫本(ソウル大学奎章閣 Ref.奎12713)
  • 高麗史』(国書刊行会、1908年)
  • 高麗史日本伝(上・下)』(岩波文庫、2005年。武田幸男編訳。 日本関連記事の抜粋。)

外部リンク[編集]