中華思想

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中華思想の概念図

中華思想(ちゅうかしそう)は、礼教という思想体系およびそれらを背景にした政治・社会上の諸制度を総体とする中国文明におけるエスノセントリズムのことである。

歴史学社会学上においては「中国の天子が世界の中心であり、そのなどが神聖なものであるとして、朝廷が自らを華夏中国と美称[1]し、辺境の異民族を天子の徳が及ばない夷 (野蛮) であるとして卑しむこと」から「中華」の華、「夷狄」の夷を併せて華夷思想(かいしそう)と叙述する。

特に封建制による政治制度上では華夷秩序(かいちつじょ)とも称する[1][2]

意味

以下の6項目は学術的に最重要なので本記事の前に特に留意されたい。

  • 中国」という用語は: 「世界の中心」を意味する「中華の国という意味を持つ普通名詞の用法が古代から存在しており、近現代の用法である固有名詞としての「中国」とは区別される。また今日の「China」はなどと同様王朝名の意味と古代から大陸に存在する王朝の変遷を超えた通史的な意味の2つが存在する。普通名詞であるので対義語が存在しておりこれを「蕃国」(ばんこく) と称し「野蛮・未開」な「蕃夷 (蛮夷)・夷狄の国を意味する。Chinaのみならず日本朝鮮ベトナムなども自らを「中国」(なかつくに、チュンコック) と美称した。黎朝でも、蕃国 (夷狄) としてのラオスカンボジアに対して自らを中国 (中華) とする形での中華思想が存在した。また同義語として「本朝」(ほんちょう) 「天朝」(てんちょう) などがありいずれも「天子朝廷」を意味し、転じて「我が国」を意味し、中華中国と同義である
  • 蕃国」(ばんこく) という用語は: 古代中国で、王室を護衛する諸侯を藩と呼んだことに由来し諸侯が治める領地、およびその統治組織のことを、(はん)と称するところから転じて、国を冊封された諸侯一般、およびその領地を指す歴史用語である。
  • 天子」(てんし) という用語は: 日本では「神々の子孫」を意味し、天照大御神の子孫である神武天皇のこと、および今上帝のことを指す。「中国」では、「 (日本神道の森羅万象・キリスト教の創始神に当たる)」から「天命 (天から受け継ぐ運命)」を授かって「天下 (全世界)」を治める「天の子」の意味である。日本の「神の子孫」という意味は全く無い。
  • 天下」(てんか) という用語は、「天子による時間 () の支配と空間 (領土) の支配の両方が及ぶ範囲」を指しそれ自体が「世界全体」という意味を持つ語で、天子の暦 (太陽暦太陰暦) を奉じることを「正朔を奉ず」と称し、「」は年の初め、「」は月の初めを意味する。さらに天子が替わると改暦したところから天子の統治に服する (空間 (領土) の支配が及ぶ)ことを意味した。Chinaのみならず琉球・朝鮮・ベトナムと飛鳥時代・奈良時代・室町時代の日本なども各々の「天下」を形成しており、蕃国 (夷狄) が中国 (中華) に冊封される名目的な関係を伴う政治体制のことを華夷秩序 (かいちつじょ)(簡体字: 华夷秩序、英語ではHua-Yi distinctionと呼ぶ。
  • 外国」(がいこく) という用語は: 「天子の徳が及び、礼を知る中華の国」を即ち中国と称するのに対し「天子の徳が及ばず、礼も知らない蛮夷の国」を意味する語で「中国」とは対義となる語であり、「蕃国」とほぼ同義である。またその国の人々のことを「外国人」と称する。「外国人」の対義語は「中国人」でありChinaのみならず日本・朝鮮・ベトナム・琉球なども各々が「天子の徳が及び、礼を知る中華の国」即ち中国と規定し、自分たちのことを「中国人」と自負し、周辺としての他を「天子の徳が及ばず、礼も知らない蛮夷の国」即ち外国と峻別し、その国の人々のことを「外国人」と区別または差別しているのである。また同義語として「異朝」(いちょう) があり「外国朝廷」を意味し、「外国」と同義である
  • 帰化」(きか) という用語は: 帰順帰服ともいい、反逆や抵抗をやめて天子に服従することを意味し、原義では「王化に帰す」の意で「王化」とは「中国の天子の徳化」のことを指す。つまり周辺の夷蛮・化外(けがい)の国々・外国などの為政者は中国の天子のにより教化・感化されて治下に入り来るという意味の古代的民族差別の上に立った、中国中心の大義名分の立場からのイデオロギー用語なのである。用例としては『旧唐書』などに見られ、また古い表現では化帰 (かき)とも称し、『日本書紀』などに見られる表現である。
  • 日本は中華思想への脱出と対立化: 聖徳太子煬帝に渡した国書の一節「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」は「日出づる処」は太陽、「日没する処」は月、「天子」はここでは普通名詞における「中国」の用法を意味し、聖徳太子以前の為政者は月神 (教皇) の命 (天命) により国を治めていたが、以後は太陽神 (天皇) の命により同国を治めるということを表現している。以上により「太陽神 (天皇) の子 (聖徳太子) が月神 (教皇) の子 (煬帝) に致す」という意味である。また「アイヌ神話」にも「ペケレチュプ(日の神)クンネチュプ(月の神)という二柱の光り輝く美しい神々は、この国(タンシリ)の霧(ウララ)の深く暗い所を照らそうと、ペケレチュプはマツネシリ(雌岳)から、クンネチュプはピンネシリ(雄岳)からクンネニシ(黒雲)に乗って天に昇られた」と太陽神と月神に関する記述があり、「旧約聖書」の天地開闢の項にも太陽と月に関しての言及がある。*太陽と月の関係については悪魔崇拝およびイルミナティを参照

中国文明のエスノセントリズム

エスノセントリズム (自民族中心主義) としての中華思想は漢民族を中心としたものであり「中国 (中華) の天子が世界の中心」であり、そのなどが世界で最高の価値を持つとみなされる[3]。そのため、外国夷狄の侵入に対しては、熾烈な排外主義思想として表面化することがある[3]

中国史においては、はじめは北の遊牧文化に対し,漢民族の農耕文化が優越であることを意味した[2]春秋戦国時代以後は礼教文化王道政治[3]にもとづいて天子を頂点とする国家体制を最上とし、からはずれた禽獣(鳥やけだものを意味する)に等しいものとして東夷・西戎・南蛮・北狄などと呼んだ[2]

四夷

中華思想では、「天子が世界の中心であり離れたところの人間は天子のが及ばず愚かで服も着用しなかったり獣の皮だったりし、秩序もなく、も知らない」ということから、四方の異民族について四夷という蔑称を付けた[4]

ただし、その範囲は時代により異なる上、これらが蔑称かどうか議論がある。例えば「東夷」については孟子に古代の聖王は東夷の人であるという説があり、またの同類とされ習俗がで君子不老の国とされており、蔑称かどうか議論がある。蔑称ではないという主張も存在し、外国宛の文書に相手国を「東夷」と記して蔑称であるか、そうでないか問題になったこともあるという[5]

現代中国・台湾・日本などでは、これらの言葉は鴨南蛮カレー南蛮等で名前を残す以外、ほとんど死語となっているが、学術的には使われ続けている。

華夏

中華という名称は「華夏」という古代名称から転じて来たものともいわれる。古代中国の呼称は夏、華、あるいは華夏(かか)と云われていた。「華」ははなやか、「夏」はさかんの意で、中国人が自国を誇っていった語であった[3]。そこから、文化の開けた地、(みやこ)を意味した[3]

満州族が支配層であった清朝を打倒するために中華民族ナショナリズムを構築したひとりの章炳麟[6]は次のように「華夏」を国土の名称・地名でもあり種族の名称でもあると解説している[7]

我が国の民族は古く、雍、梁二州(陝西甘粛四川)の地に居住して居た。東南が華陰で、東北が華陽、すなわち華山を以って限界を定め,その国土の名を「華」と曰く。その後、人跡の到る所九州に遍(あまね)き、華の名、始めて広がる。華は本来国の名であって、 種族の号ではなかった。

「夏」という名は、実は夏水 (河の名前)に因って得たるものなり、雍と梁の際(まじは)りにあり、水に因って族を名付けたもので、邦国の号に非らず。漢家の建国は、漢中(地名)に受封されたときに始まる。(漢中は)夏水に於いては同地であり、華陽に於いては同州となる故、通称として用いるようになった。本名(華夏)ともうまく符合している。従い、華と云うのも、夏と云うのも、漢と云うのも、そのうちどの一つの名を挙げても、互いに三つの意味を兼ねている。漢という名を以って族を表している、と同時に、国家の意味にもなる。又、華という名を国に付けたと同時に、種族の意味にも使はれているのはそのためである。

また民族の名称だけでなく地理的国土的な名称ということについては中国の辞典 「辞海」も、漢民族の発祥地が黄河流域で、国都も黄河の南北に建てたので、そこが国の中央となり「中原」や「中国」と呼んだとし、「中つ国」も蛮夷戎狄の異民族とは内と外の関係、地域の遠近を表わすために用いられたとする。

歴史

春秋における中華と夷狄

中華夷狄の峻別を理論的に説いた文献のうち、現在確認できる最古のものは孔子によるものとされる春秋である。春秋において、孔子は初の礼楽を制度化し、夷狄起源の文化要素を排除すべきことを主張したとされる。漢代に春秋学が理論化される過程で、中華思想も前述の「四夷」のようなまとめがなされていき、理論化されていった。

戦国末期の荀子は儒家の理想国家であるの華夷秩序について、中原の王者が治めた地を中心に、畿内、畿外、、衛、蛮、夷、戎、狄の順に500ごとの距離をとった同心円状の構造であり、遠近に応じてそれぞれにふさわしい制度で帰服したと説明した[8][9]

の皇帝の王莽は、前漢において夷狄を王に冊封していた慣習を華夷秩序の観点から改め、匈奴高句麗に降格せしめようとしたが、これらの諸国の離反を招いてしまった。

夷華同一

西晋滅亡後、いわゆる五胡といわれる北方異民族が中国本土に侵入して相次いで国を建て、混血が進んだことから「中華思想を越え、中華夷狄も平等だ」という、仏教に基づく「夷華同一」という思想も誕生した。

煬帝太宗は中華と夷狄の融合政策を取り、の太宗は930年3月、中華皇帝に加えて四夷の族長たちに推薦された形でハーンの位にも即位している。隋・唐では西域を主とする異国文化を珍重し、また外国人が宮廷で登用されることも珍しくなかった[10]

宋学の中華思想

ところが、唐が滅び五代十国を経てになると、唐が支配していた北方民族を宋が支配できなくなり、北方はといった北方騎馬民族による征服王朝を建国。南宋は北方に常に見下され、毎年多額の贈与金を支払う実質的な従属国家に過ぎなくなった。これは漢民族にとって極めて屈辱的なことであり、その負け惜しみから、宋学では華夷秩序が強調され、宋こそ中華であり、敵対する遼や金は夷狄だと主張した。それにより歴史の改ざんも行われ、宋学の司馬光が編纂した資治通鑑では、五胡十六国からの歴史があたかも漢民族が最強であるかのように書かれるようになった[11]

江戸時代日本の中華思想

が異民族王朝のに支配されると、朱子学者の一部、林羅山などは、神武天皇は中華正統王朝であるの分家である太伯の子孫であるから、日本こそは中華であると主張し始めた。更に、明の遺臣の一部は清に仕えることを潔しとせず抵抗もしくは亡命し、そのうちの一人である朱舜水は、夷狄によって治められている現在の明はもはや中華でなく、亡命先の日本こそが中華であると述べた。また、儒学者山鹿素行も著書『中朝事実』の中で同様の主張をした。これが後に水戸学平田派国学へも思想的影響を与え、幕末尊王攘夷論に結びつくこととなる。国学者本居宣長は世界の国々は日神の子孫である天皇に朝貢してそのを奉じるのが正しい姿であり中国皇帝は「戎王」に過ぎないとして、中国中心の華夷秩序を反転させて日本中心の華夷秩序をあるべき姿であると日本外交史を扱った歴史書『馭戒慨言』の中で主張した[12]太平洋戦争中に天皇を現人神として崇め奉り、軍部が敗色濃厚になるや神州(中華正統王朝)不滅を唱えるに至ったのも、朱子学に基づく中華思想に影響されたものである[13]

朝鮮の小中華思想

清の中華思想

「夷」である満洲人が作り上げ、中華圏を支配したでは漢人の王朝とはやや異なっていた。儒教仏教イスラムも単独で絶対視せず、支配地域それぞれの世界観に基づく王権像と秩序論を踏まえ、共通する価値を拾い上げながら、しかも個別の世界観とは一定程度の距離を置いて統治していた。雍正帝は「大義覚迷録」で古代の聖王であるや、文王の出自が「夷」であったことを例に挙げて出自では無くの有無が重要とし、中華支配を正当化した。政策としても辮髪などのの強制や反清勢力の鎮圧と並行して科挙の存続やかつて反清運動の中心となった者たちを明史の編纂をさせるなど、中華思想も尊重して漢人知識人に対し名誉と利権に与る道を開く懐柔政策を行い清朝への夷狄視を減らしていた。ただし漢人の科挙官僚が政治を担えたのは旧明領だけである。また北方から来たロシアとは対等なネルチンスク条約を締結しているが、乾隆帝の時代に中華として南方経由で来たイギリスとの対等外交を拒絶した。逆に日清戦争で敗れた後、中華思想は後退する。魯迅は中華思想に染まって現実を見ようとしない人々を痛烈に批判し、「狂人日記」「阿Q正伝」などを記して中華思想からの覚醒を呼びかけた。

中華民国

章炳麟孫文梁啓超らは中華民族ナショナリズムを原動力として[6]清朝を倒し、1912年に中華民国を建国し、「中華」を正式な国名に使用した。この国号の提議は孫文によるものであり、中国同盟会の誓詞「恢復中華」があげられている[14]。しかし日本の駐清大使伊集院彦吉は、立憲君主制国家の成立を目指していたため共和政体に不満を持っており、日本国内において「中華民国」の国号を用いず、欧米の「China」の用法にしたがって「支那共和国」と呼称するように具申した[15]。この意見は閣議決定によって承認され、日本側は外交文書に「支那共和国」の国号を用い、中華民国政府側はこれに反発するという動きが続いていた。日本の知識人には「中華」がかつての中華思想に基づくものであると見て、強い反発を持つ者も少なくなかった[16]。1930年に中華民国側の要請が盛り上がった際にも、那賀王霞は伊集院の意図が「中華民国と呼べば世界の中心の国として認めることとなり、日本をその付属国としてしまう」ものであったからだと分析している[17]。このため日本国内において中華民国という国号を呼ぶ動きには反対も多く見られた[18]。しかし幣原喜重郎外相は中国国民の感情などにも配慮し、外交文書上での正式国号は中華民国と呼ぶ方針を決定した[19]。この決定は幣原の軟弱外交の証拠であるとして、批判の対象となった[20]

中華人民共和国

1949年、毛沢東らは中華人民共和国を建国し、中華民国に続いて、「中華」を正式な国名に使用した。

批判

現代の中国人において、この中華思想(あるいは華夷思想)が理解されていると直断ずるには疑問があるとする説がある。元外交官宮家邦彦[21]は、現在の中国では教科書に「中華思想」がなく、学術的に研究・考証する専門家もいないされている、としている。その上で、これらは中国に限らずアラブ諸国などの開発途上国に概ね共通する以下のような「対先進国劣等感」の裏返しとした。

  1. 世界は自分を中心に回っていると考える
  2. 自分の家族・部族以外の他人は基本的に信用しない
  3. 誇り高く、面子が潰れることを何よりも恐れる
  4. 外国からの経済援助は「感謝すべきもの」ではなく、「させてやるもの」だと考える
  5. 都合が悪くなると、自分はさておき、他人の「陰謀」に責任を転嫁する

ところがあろうことか夷狄であるはずの欧州列強アヘン戦争で大敗してしまったため、その後、洋務運動、とりわけ中体西用によって国力回復を目指した時点では近代化の手本をヨーロッパに求め、そこに卑下する態度は見られない。

ただし、概ねこうした運動は、かつての中華思想を奉じた「漢族」を当時の支配者である「満族」から開放する滅満興漢を目的としたものであり、国名を「中華」にこだわることなどに、改革者によって思想は変貌しつつもいまだに中華思想と完全に決別できていないことは認めている。アヘン戦争敗北から長い歳月を経っても、いまだに欧米諸国に対しては新しい中国の国家像や国際秩序モデルを示しえているとはいえず、この途上国共通の「劣等意識」こそが根底にあるのでは、と論じている。

脚注

  1. ^ a b 世界大百科事典,コトバンク
  2. ^ a b c 百科事典マイペディア
  3. ^ a b c d e デジタル大辞泉
  4. ^ 竹内実『中国の思想』NHKブックス。以下、竹内の引用する説文解字の説や、歴史上の文献により概略を述べる。
  5. ^ 陳舜臣の説。
  6. ^ a b [1]
  7. ^ 章炳麟『太炎文録』、『中華民国解』
  8. ^ 『荀子』「正論」
  9. ^ 中島隆博 『悪の哲学:中国哲学の想像力』 筑摩書房〈筑摩選書〉、2012年ISBN 9784480015433 pp.194-196.
  10. ^ 後藤多聞『ふたつの故宮』NHK出版
  11. ^ 堀敏一「律令制と東アジア世界」、岡田英弘「中国文明の歴史」。日本の東洋史学における通説となっている。
  12. ^ 田中康二「国学者の歴史認識と対外意識-本居宣長『馭戒慨言』をめぐって-」井上泰至『近世日本の歴史叙述と対外意識』勉誠出版、2016年7月 ISBN 978-4-585-22152-4
  13. ^ 狩野君山山本七平『現人神の創作者たち』の説
  14. ^ 于紅 2002, pp. 81.
  15. ^ 于紅 2002, pp. 81-82.
  16. ^ 于紅 2002, pp. 85.
  17. ^ 于紅 2002, pp. 87.
  18. ^ 于紅 2002, pp. 88.
  19. ^ 于紅 2002, pp. 89-92.
  20. ^ 于紅 2002, pp. 98-99.
  21. ^ 宮家邦彦『語られざる中国の結末』、PHP新書。その要約

参考文献

紀伝体を参照

関連項目

外部リンク