王仁

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王仁(『前賢故実』より)
伝王仁墓

王仁(わに、生没年不詳)は、応神天皇の時代に辰孫王と共に百済から日本に渡来し、千字文論語を伝えたと古事記に記述される伝承上の人物である[1](記紀には「辰孫王」の記述は無い)。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記されている。伝承では、百済に渡来した漢人であるとされ[2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14][15][16]、姓である王氏から楽浪郡の王氏とする見解があるが[3][7][15]、王仁が伝えたとされる千字文が、王仁の時代には成立していないことなど史料解釈上実在を疑問視する説も多数存在する[17][18][19][20][21][22][23][24]

記録[編集]

王仁に関しての記述が存在する史書は『古事記』『日本書紀』『続日本紀』などである。それぞれの記述は以下のようになっている。

日本書紀[編集]

王仁に関するもっとも詳細な記述は日本書紀のものであり、百済からの使者阿直岐(あちき)を介して来朝したという。

十五年秋八月壬戌朔丁卯、百濟王遣阿直伎、貢良馬二匹。卽養於輕坂上厩。因以阿直岐掌飼。故號其養馬之處、曰厩坂也。阿直岐亦能讀經典。卽太子菟道稚郎子師焉。於是、天皇問阿直岐曰、如勝汝博士亦有耶。對曰、有王仁者。是秀也。時遣上毛野君祖、荒田別・巫別於百濟、仍徵王仁也。其阿直岐者、阿直岐史之始祖也。
十六年春二月、王仁來之。則太子菟道稚郎子師之。習諸典籍於王仁。莫通達。所謂王仁者、是書首等之始祖也。 — 『日本書紀』 巻第十(応神紀)、[25]
十五年の秋八月六日に、百済王くだらおうは、阿直岐あちきを遣わして良馬二匹を奉った。そのままかる坂上さかのうえうまやで飼わせた。それを阿直岐あちきに管理させて飼わせた。そこで、馬を飼っていたところを名づけて厩坂うまやさかという。阿直岐あちきはまた経典に精通していた。それで、皇太子菟道稚郎子うじのわきいらつこは学問の師とされた。天皇は、阿直岐あちきに尋ねて「あるいはお前に勝る博士が、他にいるか」とおっしゃると、(阿直岐は)答えて「王仁わにという者がおります。この人は優れた人です」と申し上げた。そこで上毛野君かみつけのきみの祖の荒田別あらたわけ巫別かんなきわけを百済に遣わして、王仁わにを呼び寄せなさった。その阿直岐あちきは、阿直岐史あちきのふひとの始祖である。
十六年の春二月に、王仁わにが来て、すぐに太子・菟道稚郎子うじのわきいらつこが師とされ、多くの典籍を王仁わにに習われたが、何事にも通暁し不明とすることはなかった。いわゆる王仁わに書首ふみのおびとらの始祖である。 — 菅野雅雄,『日本書紀』 巻第十(応神紀)、[26]

古事記[編集]

百濟國主クダラノコニキシ照古王以牡馬壹疋ヲマヒトツ牝馬壹疋メマヒトツ 、付阿知吉師 以貢上タテマツリキ此阿知吉師者、阿直史等之祖、タテマツリキ 横刀タチ 大鏡オホカヾミトヲ 又科 賜百濟國クダラノクニニ 若有 賢人モシサカシビトアラバ貢上タテマツレトオオセタマフ故受カレミコトヲウケテ 以貢上人タテマツレルヒト 、名 和邇吉師、卽論語十卷、千字文一卷、幷セテ十一卷、付是人 卽貢進タテマツリキ此和邇吉師者、文首等祖 — 御橋悳言,『古事記』(中巻・応神天皇二十年己酉)、[27]
また、百済国王の照古王しょうこおうが、牡馬一頭、牝馬一頭を阿知吉師あちきしに託して献上した[この阿知吉師は阿直史らの祖先である]。さらに(照古王)は横刀と大鏡とを献上した。また(天皇は)また百済国にお命じになって、「もし賢者がいたならば、献上しなさい」と仰せになった。そこでその命を受けて(照古王が)献上した人は、名は和迩吉師わにきしで、論語十巻・千字文一巻と合わせて十一巻を和迩吉師に託して献上した〔この和迩吉師は文首ふみのおびとらの祖先である〕。 — 菅野雅雄,『古事記』(中巻・応神天皇二十年己酉)、[28]

和邇吉師によって『論語』『千字文』すなわち儒教と漢字が伝えられたとされている。『論語』は註解書を含めて10巻と考えればおかしくはないが、『千字文』は和邇吉師の生存時はまだ編集されておらず、この記述から和邇吉師の実在には疑問符がつけられることも少なくない[29]

古語拾遺[編集]

古語拾遺』では

輕嶋カルシマ 應神天皇豐明トヨアキラ 百濟王貢 博士王仁ハカセワニ 是河内文首始祖フミノオヒトノオヤ 也(中略)
於後磐余イハレノ覆仲天皇稚櫻ワカザクラ貢獻ミツギタテマツルコト 奕世ヨヽ タエ齋藏之カタヘ更建タテヽ内藏クラ 分收ヲサム官物ミヤケ 仍令阿知使主 百濟 博士王仁其出ルヲ 始更サラニ藏部クラヒトベ — 古語拾遺,齋部宿禰廣成、[30]
応神天皇輕嶋かるしま豊明とよあきらみかどに至りて、百済くだらこにきし博士はかせ王仁わにたてまつる。是河内文首かわちのふみのおびと始祖はじめのおやなり。秦公はだのきみおや弓月ゆづき百二十県民ももあまりはたちのこほりを率て帰化まゐおもぶけり。漢直あやのあたひおや阿知使主あちのおみ十七県民とをあまりななつのこほりを率て来朝まゐけり。はだあや百済くだら内附まゐしたがへる民、各々おのもおのもよろづを以つて、かぞふ。褒賞むべきに足る。皆其のやしろは有れども、未だ幣例ぬきたてまつるつらあづからず。

覆仲天皇 のち磐余いはれ稚櫻わかざくらみかどに至りて、三韓貢獻みつのからくにみつきたてまつること、奕世よよ絶ゆること無し。齋藏いみくらかたはらに、更に内藏うちのくらを建てて、官物みやけものをお

け収む。仍りて、阿知使主あちのおみ百済主くだら博士王仁はかせわにとをして其の出納あげおろしを記さしむ。始めて更に藏部くらひとべを定む。 — 西宮一民にしみやかずたに,古語拾遺、[31]

とする。

続日本紀[編集]

続日本紀』によると、子孫である左大史・正六位上の文忌寸(ふみのいみき)最弟(もおと)らが先祖の王仁は高帝の末裔と桓武天皇に奏上したという記述がある。

(原文)○戊戌、左大史正六位上文忌寸最弟・播磨少目正八位上武生連真象等言、文忌寸等、元有二家。東文称直、西文号首。相比行事、其来遠焉。今、東文挙家、既登宿禰、西文漏恩、猶沈忌寸。最弟等、幸逢明時、不曲察、歴代之後、申理尤由。伏望、同賜栄号、永貽孫謀。有勅、責其本系。最弟等言、漢高帝之後曰鸞。々之後、王狗、転至百済。百済久素王時、聖朝遣使、徴召文人。久素王、即以狗孫王仁貢焉。是文・武生等之祖也。於是、最弟及真象等八人、賜姓宿禰


(訓読)○戊戌八日左大史さだいし正六位上ふみ忌寸最弟もおと播磨はりまの少目せうさうくわん正八位上武生たけふ真象まかたまうさく、「ふみ忌寸ら、もと二家有り。東文やまとのふみは直としようし、西文かふちのふみは首とがうす。相比あひならびてわざおこなふこと、そのきたれることとほし。いま東文やまとのふみいへこぞりてすでに宿禰にのぼり、西文かふちのふみめぐみれてなほ忌寸にしづめり。最弟もおとさきはひ明時めいじひて、つばひらかることをかがふらずは、のちことわりまうすとも由尤よしなからむ。してのぞまくは、おなじく栄号えいがうを賜はりてなが孫謀そんぼうのこさむことを」とまうす。みことのり有りて、その本系もとつすぢめしめたまふ。最弟もおとまうさく、「かん高帝かうていのちらんふ。らんのち王狗わうくうつりて百済くだらいたれり。百済くだら久素王くそわうとき聖朝せいでう使つかひつかはして、文人ぶんじんまねきたまへり。久素王くそわうすなはうまご王仁わにたてまつりき。これふみ武生たけふらがおやなり」とまうす。ここに、最弟もおと真象まかたら八人に姓宿禰すくねたまふ。 — 『続日本紀』巻第四十 桓武天皇 延暦十年(791年)四月戊戌、[32]

これに従えば、漢高帝の子孫「鸞」なる人物の子孫の「王狗」が百済に渡来し、その孫の王仁が渡来して文氏、武生氏らの祖先となったことになる。この伝承は後の『新撰姓氏録』の記述にもみえる。

王仁は高句麗に滅ぼされた楽浪郡出身の中国人系の学者とされ、百済に渡来した中国人の家系に連なり、漢高帝の末裔であるとされる。

新撰姓氏録[編集]

新撰姓氏録』には、「諸藩」の「漢」の区分に王仁の子孫の諸氏に関しての記述がある。文宿禰(左京)に「出漢高皇帝之後鸞王也」、文忌寸(左京)に「文宿禰同祖、宇爾古首之後也」、武生宿禰(左京)に「文宿禰同祖、王仁孫阿浪古首之後也」、櫻野首(左京)に「武生宿禰同祖、阿浪古首之後也」、栗栖首(右京)と古志連(河内国と和泉国)にはそれぞれ「文宿禰同祖、王仁之後也」とある。

第三帙

左京諸蕃上 ……
漢。……
文宿禰。 出漢高皇帝之後鸞王 也。
文忌寸。 文宿禰同祖。宇爾古首之後也。
武生宿禰。 同祖。王仁孫阿浪古首之後也。
櫻野首。 同上。……
右京諸蕃下……
漢。……
栗栖首。 文宿禰同祖。王仁之後也。……
河内國諸蕃。……
漢。……
古志連。 文宿禰同祖、王仁之後也。……
和泉國諸蕃。……
漢。……

古志連。 文宿禰同祖、王仁之後也。 — 新撰姓氏録、[33][34][35][36]

祖先が漢の帝室に出自を持つ「鸞王」である点などが、『続日本紀』と対応している。また、孫の名として「阿浪古首」が記されている。

各説[編集]

日本書紀』や『新撰姓氏録』には、百済に渡来した漢人であるとされ、支持する研究者が多い[2][4][5][6][9][10][12][13][14][16][11]。姓である王氏から楽浪郡漢人の王氏とする見解がある[3][7][8][15]。朝鮮半島の人間が中国風の一字姓を名乗りはじめるのは統一新羅以降の風習で、当時の百済の人間が王姓を名乗っているとは考えにくく、この点から考えても中国系渡来人の家系ではないかと推測されている[37][注釈 1]。前漢が紀元前108年に朝鮮半島に置いた楽浪郡では官吏に王氏が多く、313年高句麗楽浪郡を滅ぼすと王氏は百済に亡命した[39]。日本が369年に新羅を征討すると、百済が日本へ政治的保護を求めた際に文化を日本に輸出し、こうした背景のなか王仁も訪日したともいわれる[39]。一方、津田左右吉をはじめ実在を疑問視する説も多数あり[40][39][17][18][19][20][21][22][24]山尾幸久は儒教を伝えた実在の王辰爾(王智仁)の功績に基づいて渡来人らが作成した伝承とする[1]

王仁作とされる歌[編集]

なにはづに さくやこの花 ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな

古今和歌集の仮名序に見る王仁の作とされる難波津の歌百人一首には含まれてはいないが、全日本かるた協会が競技かるたの際の序歌に指定しており、大会の時に一首目に読まれる歌である。歌人の佐佐木信綱が序歌に選定したとされる。なお大会の歌は「今を春べと」に変えて歌われる[41]

遺跡と顕彰運動[編集]

大阪枚方[編集]

大阪府枚方市の伝王仁墓入口石碑

大阪府枚方市藤阪東町にある博士王仁之墓は江戸時代の1731年(享保16年)に建立されたものと伝えられてきた。 昭和46年近畿民俗会の調査では官軍に追われて亡くなった地という地元の村の伝承が記録されている。

<ワニ塚>……村の伝えではワニという人は官軍に追われて長尾の大池の上にあるセメ谷で攻められここに逃げて来て死んだので、ここに墓があるという。 — 近畿民俗会、枚方の民俗[42]

藤坂村字御墓谷の山中に鬼(オニ)墓と呼ばれる2個の自然石があり、歯痛やおこりに霊験があると伝えられていた[43]

設立までの経緯は次の通りである。

王仁墳廟来朝記[編集]

  • 1616年(元和2年)正月付けで藤坂村御墓谷の王仁墓(於爾之墓)について書かれた禁野村和田寺道俊『王仁墳廟来朝記』『王仁裔孫並系譜紀』が1939年10月10日朝日新聞で報道される[44][45]。五畿内志(1735)を補強するために椿井政隆(1770-1837)によって書かれた由緒書という説がある[46]。和田寺は中世廃寺となり康平年間(1058-1065)和田源秀が堂宇を再建、明治七年七月再び廃寺となり明治十三年再興、明治二十三年渚の観音寺を移築し本堂とした[47]
王仁墳廟来朝紀

夫百濟國博士王仁者漢高帝之後裔有鸞ト者、鸞カ之後王狗轉 至百濟ニ、當テ百濟久素王ノ時ニ我 朝人皇第十六代譽田天皇(應神帝)馭宇十六年乙巳春二月遣使召ス文人ヲ、久素王即チ王狗之孫王仁ヲ来貢焉、則来朝以テ難波津(仁)咲屋此花冬篭之哥詠ヲ奉ル我朝御代萬歳ヲ、應神天皇 叡感以テ百濟王仁學士ヲ則二皇子莵道稚郎子及大鷦鷯王(人皇第十七代仁徳天皇)之爲ス師ト習フ諸典籍ヲ、是本朝之儒風之始祖也、儒學於テ是(仁)興ル、則我朝學校之権輿也、爲シテ封戸ト以テ大倭國十市縣ヲ百濟王ノ博士王仁ニ賜フ食禄ヲ、今大和國十市郡百濟郷是也、王仁及テ没ニ河内文ノ首ノ始祖博士百濟墓(與)紀書葬ル河内國交野縣藤坂村ニ造テ墓ヲ、則藤坂村艮(東北)稱ス字御墓谷ト、土俗於爾(オニ)之墓ト誤訛ス

一 百濟王仁社
於テ和泉国大鳥郡ニ王仁ヲ東原大明神ト尊称ス(在向井之北)、祭神百済王仁相殿素戔烏尊ニ坐也
右以本巻紀書之後世備不朽置所蓋如斯者也
       交野郡五箇郷住侍百済裔孫
        西村大学助俊秋次子
          禁野和田寺住侶
               道俊(花押)
元和二辰年正月

— 道俊、[46][48][49][50]

当郷旧跡名勝誌[編集]

  • 1682年(天和2年)津田村尊光寺所蔵『当郷旧跡名勝誌』にて上ノ堂の御墓山の王仁の埋葬と御墓谷の百済王の御墓が記されている。御墓谷に類似する小字は河内国交野郡の他の村々にもみられる(例:現交野市森「墓谷」[51]、現枚方市の墓の谷)[52]
   天和二年壬戌記

当郷旧跡名所誌……
  御墓山之山
一 札場ヨリ十余丁計寅ノ方ニ御墓谷ト云字アリ。古老ノ伝説ニハ中宮村住居之百済王ノ御墓ト云ヘリ。-(中略)-四十年以前迄ハ御墓一段高クアリケルガ、大雨ナドニクエクヅレテ、長サ五尺許ノ焼物ノ櫃顕レ見ヘシガ、其ノ内ニ灰ノ如クナル者アリ。太刀、刀ノ様成ル物アリケレドモ、朽クサリテ手ニモ取ラレズトナリ。切羽(せっぱ―刀身の本につける金具)帚(はゞき-刀の鍔元をかためる金具)笄(こうがい-刀のさやにはさむ金具)ノ様ナルモノハ、金ニテアリケレバ不㆑立タト也。見シ人ノ語リ也。其辺ニ土器、天目、花タテノヤウナルモノ多ク在リケリトナン。……
  上ノ堂ノ事
一 札場ヨリ二丁バカリ寅ノ方ニ上ノ堂ノ古跡アリ。往昔ニハ七堂伽藍作リニテ、十三重ノ石塔二タ組アリトナン。本堂ハ九間四面ニ転輪聖王ノ形一丈六尺ノ土像アリケリトナン。百年以前マデアリシヲ見シト老人ノ云ヒ伝ヘ也。同郡ノ内中宮村ニ百済国王ト申スガ御座シテ、其所ヨリ此所へ一里ノ間廊下相続キタリトナン。然レドモ何レノ時代トモ正説難シ㆑知り。九十余年以前ニ太閤当国小山城(南河内郡)御取立テノ時ニ、奉行小野木六助ト云人、此堂ヲコボチ用木トシマヒシヨリ、一宇モナク、クサムラシゲリ荒果テケリ。サレドモ人畜トモニ悪敷スレバタヽリ有リ。カヽル霊地ノ無下ニ失セ果ンコトナゲカワシトテ、御地頭地下人頭梁シ、寛文九乙酉歴ニ郡中令シ㆓奉加㆒、小庵ヲ結ビ、釈迦ノ木仏安置シケル也。此奉加帳ニ人王十六代応神天皇ノ御宇ニ、百済国ヨリ王仁来朝シテ中宮村ニ殿作リシ居住アリテ、此ノ上ノ堂ヲ建立有り。逝去ノ時石ノ櫃ニ納メテ土入ス。御墓山是ナリト云ヘリ。何レノ記録ヨリ考ヘタルラン、イブカシ。和漢年代記ニ応神十六乙巳二月朔日王子王仁来朝ストアリ。又王代一覧ニハ百済国ヨリ王仁トイヘル博士、論語等ノ書物ヲ持来朝ス。太子莵道稚子是ヲ師トシテ書ヲ読習フトアリ。天和二年マデハ千三百七年成也。然バ仏法来朝ハ欽明十三壬申ナレバ、天和二迄ハ千百三十年ニナルナリ。シカレバ仏法ナキ二百六十七年前キナレバ御菩提寺トハ難シ㆑云ヒ。御墓モ此時代ニハ、ミサヽキト申テナキ事也。但シ石塔ハ後代ニ立テケルヤ、今ニ当村ニ其塔石古キ有リ㆑之レ。……如何様日本ニ珍敷形象也。古老ノ伝ニ
 アサ日サス 夕日カヽヤクコノ堂ニ
 コカネ千両 アルヤナシ
トヨミオキシトテ、コヽカシコヲホリケレドモ、金ハナカリケリトナリ。トカク百済国ヨリ代々人質ニ来リ、中宮住居ノ時ノ祈願堂ナルベシ。……
(御墓山)
札場から十余町ばかり寅(東北)の方角に御墓山があるとしるされているが、その場所を地図でもとめると、大体小鹿工場の南東、宮山という辺になる。そのあたりを実地に探査したが、それらしいところを見出し得なかった。ところが昭和三十一年一月藤坂寺島正計氏は赤褐色の陶片数個を発見したが、それは古墳の上にあるべき埴輪(はにわ)円筒の一片と、他は同様家形埴輪の一部であった。その出土地は、藤阪天神山の南端池の附近で、こゝはすでに多くの崖の土を採り去って、黄色の土砂が露出している。その一端には四五尺はなれて両側に二個づゞの石を積んだ石室様の構造がある。勿論その内部には土砂が充満していて、天井石は見えない。大体古墳の玄室の一部のようで、寺島氏はこの上部で前記埴輪類を発見したのである。したがってこゝは明らかに古墳と見られ、地図で見ると津田村内の札場(昔の札場)から直線で約十一町となり、こゝが御墓山としてしるされたものに相当するようである。しかし札場からの方角は文に示されたものとは一致しないが、この文に記された時はすでに古墳が露出し、破壊されてから四十年を経過した後の口伝えであるから少しの誤があるかも知れない。さてこの上に登ってみると、南側は多くの封土を削り取られてようやく残された半円形の山で、北側はしだいに低くなりその裾には浅い濠の跡がみとめられる。南半の封土がないので、その墳形を知る由もないが、前記のように埴輪を立てならべた頃の墳としては、前方後円墳であつたように想像せられる。前の部分は明治三十一年関西鉄道開通の時、線路堤のために取去られたものであろう。

— 津田村 尊光寺八世教岸,解説:片山長三、[53]
藤阪宮山古墳 昭和三十一年頃に土器を探していた時に偶然見付かりました。下新池流れ口の洗い場の山側に花崗岩が少し頭を出していて、この山では見られない石なので掘っていくと、下から次つぎに石が出てきました。それも積んだような形で、内側は平な面が揃っていて、更に掘り進むと奥の正面に一米位の平たい石があり、その端からまた手前へ石積みが続き、結局幅一米位で、長さが五米程の竪穴式の古墳の様でした。中に埋まっている赤土を掘り上げていくと、陶棺の割れたものが多く出てきたので慎重に掘ると鉄製の塊、錆びた小刀、銅の輪、管玉なども出てきました。急ぎ片山先生に連絡すると、現地へ見にこられ、『古墳に間違いない』と云われました。陶棺や周囲に散らかっていた象形埴輪などは今は大阪市立博物館所蔵になり、遺跡は池端の道路拡張工事で跡形もなくなりました。片山先生から『王仁塚は古墳ではないが近くに古墳らしいものは無いか探してくれ』と云われていましたので、『津田史』の中にこの古墳のことは詳しく説明して下さってます。(一三頁、一四頁) — 寺島正計、[54]
……藤坂宮山の南端では、藤坂寺島正計氏によって一古墳を発見せられ、……尊光寺当郷旧跡名勝誌によるとこれに相当するらしい古墳の存在を記している。(この古墳は明治三十一年関西鉄道が敷設させれた時にその土を採って線路堤とせられたので、現在は大部分破壊せられて後方一部が残っているにすぎない。)以上によって知るところは津田北部の古墳時代村落は相当に栄えてその中に一強族があり、それが当時の民衆を使役してこの墳墓を築造したということである。 — 片山長三、[55]

八幡宮本紀[編集]

河内國交㙒郡津田の新田に王仁の墓あり又泉州にも王仁の社あり境の東なる蓼ゲ池の邉に王仁の社あり — 貝原好古、[56]

馬部隆弘は「津田の新田」とは藤坂村のことであると説明している[57]

本朝学原浪華鈔[編集]

  • 1698年(元禄11年)付けの真野時縄題辞がある松下見林「本朝学原浪華鈔」も津田の新田の王仁の墓について記している。
本朝學原浪華鈔 二……一説ニ云、河内國交野郡津田ノ新田ニ王仁ノ墓アリ、泉州ニモ亦祠アリ、境ノ東蓼ガ池ノ道ニモ亦祠アリト、然ドモ其終レル年月未㆑詳、 — 松下見林、[58]

泉州志[編集]

三國山向泉寺……鎮守東原天王方違三社尚在リ㆓旧迹ニ㆒今寺領九十石 縁起

東原大明神并牛頭天王 在リ㆓北ノ陵ノ東ノ南向井ノ北ニ㆒ 或ノ云當社ハ王仁大神也後合祭牛頭天王㆒王仁者百濟國人也……
方違社 在リ㆓北ノ陵ノ艮ニ㆒

— 石橋直之、[59]
博士王仁之墓と自然石

享保十六年・博士王仁之墓[編集]

  • 1731年(享保16年)明治28年(1895年)11月23日と26日大阪朝日新聞で掲載された前内閣府書記官長高橋健三(別号:吟淵)が内藤虎次郎と王仁墓を訪れた際に村長から聴いた話では、並河誠所が訪問した折に荒廃の嘆き、それを聴いた領主久貝彌右衛門が博士王仁之墓を建立した。
刺を通じて村長に謁を求め先づ此日古墳を訪へる荒增を語出でたるに此人頗る王仁墓在勝の事に熱心にして懇ろに其來由を説きて曰へりけるは彼の長方形の石は享保の頃並川某畿内誌編纂の業を企て資料蒐集のため五畿を巡見せる折柄此地に來りて王仁の古墳を一見し其荒廢を斯くては此名勝も竟に湮滅し了らんと訴へしかば時の領主久貝彌右衛門此事を聞きて享保十六年といふに建立せしものなりという按ずるに並川某とは誠所の事なり — 吟淵(前内閣府書記官長高橋健三の別号)、[60] [61][62]

金英達は、『五畿内志』を編纂していた並河の功名心による歴史の捏造としている[63]

五畿内志[編集]

河内文首始祖博士王仁墓在藤坂村東北御墓谷今稱於爾墓 — 並河誠所、[64]
東原祠 在㆓向井祠南㆒傳云祭㆓王仁㆒
百下鳥耳原中陵 在㆓舳松村東㆒今號㆓大山陵㆒……域外四畔有㆓七冢㆒曰長冢俗云武内宿禰曰長山冢俗云王仁曰孤山曰寺山曰土鼈山曰平塚山曰圓山初 — 並河誠所、[65]

日本書紀通証[編集]

寺嶋氏曰泉州大鳥ノ郡東原大明神相傳所㆑祭王仁也畿内志ニ曰墓ハ在㆓河内ノ国交野ノ郡藤坂村ノ東北御墓谷㆒今称㆓於爾ノ墓㆒ — 谷川士清、[66][67]

謡曲拾葉抄[編集]

河内ノ國交㙒ノ郡津田の新田に王仁の墓あり。又タ泉刕境の東蓼が池の邉に王仁の社あり — 犬井貞恕、[68]

河内名所図会[編集]

堺 東原天王 東原天王ハ百濟の王仁を祀るなり 廟ハ河州交野郡藤坂村山中にあり — 秋里籬島、[69][70]
河内文首始祖博士王仁墓 藤坂村の東北御墓谷にあり石標王仁之墓 — 秋里籬島、[71]

文政十年 博士王仁墳[編集]

博士王仁墳
  • 1827年(文政10年)明治28年(1895年)11月23日と26日大阪朝日新聞で掲載された前内閣府書記官長高橋健三(別号:吟淵)が内藤虎次郎と王仁墓を訪れた際に村長から聴いた話では、荒廃のため資を募り有栖川宮幡仁親王御親筆を賜り博士王仁墳の石碑を建立した。
村長の語れると能く適へり今一つ最も新しと見ゆる石は如何と問へるにこは久貝氏が石を建てしより百數年の後人々古墳の再び荒廢に就かんことを憂ひ交野郡招堤村の家村某山城太秦村の大石某發起して廣く世の義損を促し其資もて文政十年に建てしものなり石面の文字は 有栖川九代の宮幡仁親王の親筆にして其眞跡は今も此に在りとて取り出で示されたり是にて前の疑ひは悉く釋け王仁の眞の墳墓は果して彼の圓形の自然石なりしことも知られたり — 吟淵(前内閣府書記官長高橋健三の別号)、[60][61][72]

戦争と中断[編集]

  • 1892年(明治25年)6月22日菅原村、大阪府へ整備を申請、8月15日許可、周辺民有地を買収し墳墓地へ寄附[73]
  • 1894年(明治27年)2月20日菅原村、大阪府より寄附募集の許可を受け4月22日起工式を挙行。日清戦争で工事中止[73]
  • 1895年(明治28年)11月23日・26日、前内閣府書記官長高橋健三(別号:吟淵)が京都帝国大学講師内藤虎次郎と共に王仁墓を訪れた際に村長から聴いた王仁墓の由来が大阪朝日新聞で報道される[62]

[74] [75][49]

  • 1900年(明治33年)吉田東伍が「大日本地名辞書 」にて藤坂(藤阪)墓谷の於爾墓は大墓公阿弖利為と盤具公母禮の墓、大字藤坂(藤阪)の鬼墓は夷酋の墳歟と記した。
宇山……坂上田村麿蝦夷二酋を河内植山に斬ると云ふは此なるべし。……〇宇山の東一里菅原村大字藤坂に鬼墓あり夷酋の墳歟。……

津田 ……於爾墓〇河内志云、王仁墓、在河内国交野郡藤坂村東北墓谷、今稱於爾墓。按ずるに此は百濟博士王仁にや、又蝦夷酋を植山に斬りたれば、是其墓にあらずや。……

— 吉田東伍、[76]

川北温山らの言葉を引用する[77]

  • 1927年(昭和2年)神社創立を大阪府へ出願[49]
  • 1930年(昭和5年)昭和4年李王家から下賜金を受け、昭和5年奉告祭と地鎮祭を行うが満州事変がはじまり延期。[49]
  • 1934年(昭和9年)5月30日 菅原村、大字藤阪字御墓谷の王仁墳墓と字奥伏山の博士王仁古墳墓の史跡申請をする[78]
  • 1938年(昭和13年)大阪府の史跡に指定される。
  • 1939年(昭和14年)10月10日大阪朝日新聞で東京都渋谷区青葉町王仁神社奉賛会理事文学博士の中山久四郎が前菅原村村長山中氏叔父が明治初年入手した、幕府の系図方で保管されていたという『王仁墳廟来朝記』『王仁裔孫並系譜紀』を重要資料と折紙をつけたと報道される[45]
東京市渋谷区青葉町王仁神社奉賛会では会長山田英夫伯、同理事酒井忠正伯、文学博士宇野哲人・同中山久四郎・同塩谷温らが全国的に寄附を求めて菅原村に王仁神社を建立することになったが、時局から延期されてゐるものの、……まづ神社建立の第一歩として社城の玉垣を造営して先賢の遺徳に報いることになり、…… 折も折、王仁のかくれた研究家である山中前村長は、王仁後裔の僧侶道俊が元和二年に書いた「王仁墳廟来朝記」と「王仁裔孫並系譜紀」の貴重な文献二巻ならびに王仁の肖像画を所蔵してゐることがわかり、このため奉賛会理事中山久四郎博士が、二度も同家を訪れて王仁研究の重要資料として折紙をつけ、目下研究を進めてゐる。この二巻は、昔幕府の系図方が保管してゐたものを、転々として山中氏の叔父で初代の同村村長山中……が明治初年に村の宝として入手したもので、奉賛会では王仁の後裔を広く全国的に捜してゐる際とて、山中氏の協力を得てこの二文献につき各系統別に調査をすゝめてゐる。 — 大阪朝日新聞昭和一四年十月十日朝刊、七面[79][45]
伝王仁墓
  • 1940年(昭和15年)玉垣が完成。小笠原忠春伯爵、小笠原長幹伯爵、山田英夫伯爵、文学博士中山久四郎(東京大学教授)、文学博士塩谷温(文理大教授)、理学博士高橋龍太郎(東大助教授)、南満州鉄道株式会社他の名前が刻まれている[80]。王仁神社建立は戦争でとん挫。
    4月28日東京上野公園に博士王仁記念碑が建立される。1933年建碑発起人山本宗次郎達は趙洛奎の碑文草案を熱海の清浦奎吾伯爵宅で審議したという。四宮憲章が朝鮮のラジオで募金を呼びかけ李王家、朝鮮総督府、朝鮮銀行、小林采男から寄附を受け、除幕式には宮内庁、文部省、拓務省の各大臣、前総理大臣林銑十郎、東京府知事、東京市長、頭山満井上哲次郎中山久四郎他が参加したという[81]

明治時代になるとそ王政復古のなかで、日本に帰化し天皇家に仕えた博士として王仁が顕彰されるようになる[63]

昭和時代になると「内鮮一体」を標榜する朝鮮人皇民化教育政策に利用されるようになり、1927年、王仁神社奉賛会(副会長・内田良平)が結成[63]。1942年には大阪府協和会が王仁神社の建設を決定したが戦争のため計画中断した[63]

戦中は陸軍病院建設に従事した朝鮮半島出身労働者が王仁博士墓所で春秋慰霊祭を続けていた[82]

戦後[編集]

戦後は「日韓友好親善運動」に利用され、1984年以降、王仁祭が開催されるようになり、1985年には地元に「王仁塚の環境を守る会」が発足[63]。1992年には大阪府と枚方市により墓域の整備がなされ、ハングルの通行案内板・休憩所(善隣友好館)・祈念碑などが建設された[63]

枚方音代節雄氏より王仁塚について記述するようにとの書翰により、ふだん私は王仁塚の下の村に住んでいるので、こゝにその資料をまとめることゝした。……私は以上に述べたような期待をもって、この王仁塚附近一帯の地を隈なく幾年間、又幾たび歩きまわったことだろう。私の見たものは南へ三町ばかり距る長尾病院の西南で、須恵器の破片二個が単單獨に落ちているのがあったのみで、外には右にしるした諸条件の中の一にでも該當するもの、即ち考古學上この土地を王仁墳と推定すべき資料の一をも、こゝに見出していないのはまことに残念である。 — 片山長三、[49]
  • 1956年(昭和31年)藤阪宮山古墳発掘(出土品は大阪市立博物館所蔵)。[53][54]
  • 1965年(昭和40年)武島昭道、菅原道真公ゆかりの梅、飛梅紅白寄贈。大阪芸大の学生が植樹(現存無)[82]
  • 1966年(昭和41年)大阪大学懐徳堂々友会橋本利政氏とメタセコイヤ植樹(現存無)[82]
  • 1978年(昭和53年)7月東京大学教授の辻村明が王仁塚の荒廃について韓国文化放送・京郷新聞社長李恒儀氏から苦言を受け、7月31日王仁公園と王仁塚を訪問、荒廃への憤りを雑誌「正論」と新聞上で報告する[83]。11月3日博士王仁会発足。王仁公園の整備がはじまる。
博士王仁の名前が、今や公園の名前になって生きているのは結構であるが、この史蹟の有様は碩学を遇する道ではない。近くには百済寺跡があり、かなりよく整備保存されているのだから、それらと一連の文化財として、プールにくる子供たちに、日本と朝鮮半島との歴史的由来を教える契機にしたらどんなにすばらしいことだろうか。忘恩の徒といわれないためにも、われわれは日本文化の淵源を尊重していかなければならない。ここにも日韓コミュニケーションにおける抜き難いギャップの一面を見る思いがした。 — 東大教授 辻村明、[84][83]
王仁公園平和記念塔
  • 1979年(昭和53年)春秋慰霊祭を在日大韓民国居留民団が引き継ぐ[82]
  • 1984年(昭和59年)春秋慰霊祭日韓合同開催(主催:大阪日韓親善協会)となる。韓国よりむくげ苗木250本寄贈(現存)[82]11月3日第一回博士王仁まつりに韓国領事も参加。
  • 1985年(昭和60年)3月王仁塚の環境を守る会発足。11月、韓国霊岩の王仁廟竣工式招請を受け出席[82]
たとえ、それが伝説上の人物であるにしろ、この地へ古代四-七世紀、日本の大和政権ができる前期の二、三世紀の間、先進学問や技術文化がこの周辺を中心に栄えたことを子々孫々に語り伝えることができる「王仁塚」を中心に日本と韓国を結ぶ〝心の文化財〟として長く伝えていこうではないか。(地域文化誌「まんだ」代表・元朝日新聞社学芸部長) — 長生俊良[85]
  • 1988年(昭和63年)史跡指定五十周年記念慶祝式典。日韓文化親善協会より韓国石造の祭壇の寄贈を受ける[82]
  • 1998年(平成10年)金大中大韓民国大統領より親書[86]
  • 2006年(平成18年)百済門竣工。日本・韓国の寄附金にて大阪府へ寄贈される[86]

韓国の王仁顕彰運動[編集]

三国史記』『三国遺事』などの書籍に王仁、あるいは王仁に比定される人物の記述はなく、朝鮮には王仁伝承は存在しなかった[63]。『三国史記』『三国遺事』などの書籍にも王仁、あるいは王仁に比定される人物の記述は存在しない。1970年代に韓国の農業運動家で民族史観を信奉する金昌洙[87]らの顕彰運動によって、知られるようになった。1968年農協視察のために来日した金昌洙は王仁伝承を知り、1970年に再び来日し王仁の資料を収集した[63]。金は民族史観のための王仁研究所を設立し、1972年(昭和47年)8月、中央日報に『百済賢人 博士王仁 日本に植え付けた韓国魂』を15回連載した[63]。同年10月に霊岩郡の青年会議所会長の姜信遠から巫女の証言で当地に祈祷伝説があると情報を提供された。金昌洙は当地を王仁の生誕地と認定し、1973年(昭和48年)2月、「王仁出生地 霊岩郡」説を発表し、さらに社団法人王仁博士顯彰協会を創立した。1975年(昭和50年)6月、『博士王仁 日本に植えつけた韓国文化』を出版。1975年、全羅南道知事が博士王仁誕生地聖域化事業計画を発表し[63]、金昌洙は全羅南道教育委員会で「王仁博士 遺跡学術セミナー」を開催した。1976年(昭和51年)には全羅南道が霊岩郡鳩林面聖基洞一帯を「王仁博士誕生地遺跡」として全羅南道地方文化財に指定し、遺跡公園として観光地にした[88][63]1984年には王仁祭が開催され、毎年11月3日に年中行事化する[63]1985年には地元に「王仁塚の環境を守る会」が発足、墓域の清掃、むくげの植樹、四天王寺ワッソへの参加、韓国との親善交流などの活動を展開[63]1987年には王仁廟が竣工された[89]1992年には大阪府と枚方市により墓域の整備がなされ、ハングルの通行案内板・休憩所(善隣友好館)・トイレ・祈念碑などが建設される[63]1992年、韓国全羅南道霊岩郡が枚方市に友好都市提携を申し出たが、枚方市は断る[63]

金英達は、“善意”な日本人の協力者のもと、歴史の検証なしに韓国人の日本に対する文化優越史観-実際は文化的コンプレックスの裏返し-、韓国人の民族意識をくすぐる韓日友好親善運動に王仁が利用されているとして、こうした歴史イメージの政治的利用・時代的風潮への悪乗りにより、さまざまな歴史の偽造が行われ、具体的には、大阪府枚方市の王仁の墳墓であるとする王仁塚であり、韓国の全羅南道霊岩郡の王仁の生誕地であるとする王仁廟を挙げ[63]、科学的実証性に全く欠けた歴史の捏造であり、伊豆七島神津島の「ジュリア・おたあ」の墓のでっち上げと韓国キリスト教グループによる「ジュリア祭」の開催、北朝鮮の檀君の遺骨のでっち上げと檀君陵の建設と同様とする[63]。「一学者の願望・思いつき・功名心による歴史の捏造」「金昌洙の妄想がきっかけになって、霊岩が生誕地だとされるようになった。その根拠は、霊岩に王仁に関する伝説があるということだけだが、科学的実証性に全く欠けるものである。道銑国師(新羅末の名僧)らの伝説や地元の遺跡を無理矢理にこじつけたもので、枚方の王仁塚をはるかに上回る大々的な歴史の捏造が公然と行われている。いずれにしても、日本の記紀の記載にもとづいて、日本の文化を開明した人物がまさに韓国人であったとの民族主義的思考が先行しているように思われる。しかし、ここまでくると、もはや王仁廟がでっち上げだと言おうものなら袋叩きに遭いかねない雰囲気」「韓国人サイド主導の王仁顕彰グループは、王仁の枚方墳墓説・霊岩誕生説への学問的批判に対して、韓日友好の歴史モニュメントを否定する『左翼小児病』であると非難している。しかし、実証なしに歴史をでっち上げ、都合のよいように政治利用する側こそ、民族主義・国家主義的偏向によって理性に動脈硬化をおこしている『右翼成人病』」「歴史偽造のパターンを分析してみると、まず、ある学者(一定の政治力のある自称学者)の思い付き、功名心と情熱があり、ついでそれを支える時代的風潮と運動や事業に利用しようとする政治勢力の存在、そしてとにかく碑や建物を建て、行事を挙行して既成事実化」と分析している[63]

韓国や在日韓国人社会においても、王仁は日本の文化を育み、発展に大きく貢献した人物として扱われ、日韓両国で王仁に関する催し物が開かれている[90][91]

韓国の小学校の社会科教科書には王仁について以下のように記述している[92][93]

「百済の文化を日本に伝えてあげた王仁」
「王仁は百済の文化を日本に教えてあげた学者である。彼は『千字文』と『論語』などの本を日本に伝えてあげ、日本にながく暮らしながら、日本国王と王子の先生になって学問をおしえてあげたりした。そうして、日本の人びとに漢文と儒学がわかるようにつとめた。今も日本人は、王仁を日本文化の先生として崇めているし、彼の功績をたたえる遺跡があちこちに残っている」

関連史跡・伝承地[編集]

日本[編集]

  • 伝王仁墓 - 大阪府枚方市藤阪東町二丁目に王仁の墓が伝えられている[94]。伝承は前述の通り並河誠所による捏造だったという説もあるが、それ以前から伝承の存在したという主張もある[95]
  • 高石神社 - 大阪府高石市。高石連の祖である王仁を祀っていたと和泉名所図会にある[96]
  • 方違神社 - 大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町二丁目。東原大明神は博士王仁と伝えられている[97]
  • 出岡弁財天 - 大阪府松原市 岡1丁目 王仁の聖堂址伝承がある[98]
  • 王仁大明神 - 大阪府大阪市北区大淀中3丁目(旧大淀区大仁町)にある一本松稲荷大明神(八坂神社)は王仁大明神とも呼ばれ、王仁の墓と伝えられていた。また近辺に1960年代まであった旧地名「大仁(だいに)」は、王仁に由来していると伝えられている。
  • 永山古墳 - 大阪府堺市堺区東永山園に所在する前方後円墳で、百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。宮内庁仁徳天皇(第16代天皇)のである百舌鳥耳原中陵陪冢に治定しているが、独立した古墳とみられる[99]。王仁の墓とする伝承があった[99]。なお、仁徳天皇と王仁の関係については前述古語拾遺に記載されている。

その他、山梨県韮崎市神山町北宮地に王仁塚(鰐塚)があるが、これは日本武尊の王子武田王の墓と言われるもので、王仁とは無関係である。

韓国[編集]

全羅南道霊岩郡郡西面東鳩林里山に、韓国の農業運動家金昌洙が『博士王仁 日本に植えつけた韓国文化』(1975年)に発表した説に基いて1976年に全羅南道が文化財として認定した遺跡がある[100]

現在[編集]

韓国の民族史観[編集]

韓国で王仁は日本に文化を伝えた韓国人として扱われており、民族史観を信奉する運動家の金昌洙は王仁を「日本に植え付けた韓国魂」として賞賛している[101][63]

韓国では民族史観によって「王仁は日本に進んだ文化を伝えた」と教えられている。洪潤基は王仁が万葉仮名を作り、その子孫が平仮名を作ったと韓国起源説を主張している[102]。王仁が日本へ儒教と漢字を伝えたとされるが、正確でない。古事記によると王仁は論語と千字文をもってきただけであり、日本書紀に王仁が渡来するより以前に阿直岐が儒教経典をよく読んだとあることから、王仁が来た頃の日本にはすでに儒教や漢字があったことがわかる。王仁は論語と千字文という中国の書物をもってきたのであり、当時の朝鮮半島の「文化」を伝えたとはどこにも書かれていない。また、王仁は日本側の資料にのみに登場する人物であるが、韓国は『古事記』の「応神天皇の命令を受け百済が献上した人物」と言う記述や『日本書紀』等の日本の大国ぶりが伺える記述については「捏造」と激しく否定しており、資料の都合の良い部分だけ採用し、それ以外は無視するという「つまみ食い(チェリー・ピッキング)」をし、二重基準を見せている。韓国の歴史解釈について呉善花井沢元彦らは、日本へ「伝えてあげた」という韓国の歴史解釈は、日本の歴史史料を利用したものであるが、同じ史料(『日本書紀』など)にある自国に都合の悪い部分(任那日本府三韓征伐、等)は否定するという客観性のない都合の良い歴史観であり、その矛盾を指摘している[103]

黄禹錫がクローン技術で製作した「BSEに耐性を持つ」と称する牛を日本の検証施設に送ったという報告(実際に日本に送られた形跡はない)においても、黄禹錫チームの一員が「先進文化を伝えた王仁が日本に渡ったのと同じこと」と発言している[104]

祭り[編集]

全羅南道霊岩郡では1976年以降、王仁博士祭が開催されている。

大阪府枚方市藤阪の伝王仁墓では大阪日韓親善協会の主催で、周辺住民や在日本大韓民国民団大阪府本部の協力で「博士王仁まつり」が開催されている[105]

枚方市霊岩郡友好都市提携[編集]

2008年(平成20年)3月1日には枚方市と全羅南道霊岩郡が友好都市提携を実現した[44]。韓国から修学旅行生が訪れることもある[44]

脚注[編集]

  1. ^ a b 山尾幸久「日本国家の形成」岩波新書、1977年
  2. ^ a b 鈴木靖民「王仁の名から6世紀ごろ、中国系百済人が先進文化を携えた博士として百済から倭に渡来した事実を想像させる」朝日日本歴史人物事典王仁』 - コトバンク
  3. ^ a b c 志田諄一「王仁は高句麗に滅ぼされた楽浪郡の漢人系統の学者らしく、朝廷の文筆に従事した西文首の祖とされている」「王の姓は楽浪出土の印章、漆器、せん、封泥、墓壁銘などに多く記されており、楽浪郡の有力豪族であったことが知られる」日本大百科全書王仁』 - コトバンク
  4. ^ a b 加藤謙吉「かかる事実に基づき王仁後裔氏族や家氏、東漢氏を中国系とする説が古くから存在する」加藤謙吉 (1997年7月). “フミヒト系諸氏の出自について”. 古代文化 49 (財団法人古代学協会): p. 428 
  5. ^ a b マイペディア「伝承によると、漢の高祖の子孫」マイペディア王仁』 - コトバンク
  6. ^ a b 石田博「王仁の家系を述べているが、それによると、王仁は漠の高帝の後であるという。漢の高帝の後を蠻といい、鷥の後胤の王狗は、転じて百済に至った」石田博『漢文学概論』雄山閣、1982年6月1日、28頁。ISBN 978-4639001652
  7. ^ a b c 八幡和郎「そこで、天皇が『お前に勝る学者はいるのか』と聞いたところ王仁を推薦したので、百済から招聘したといいます。王仁博士は、漢の高祖の子孫と称しています。山東省から楽浪郡に移住し、さらに百済に移ったので、平安時代の『新撰姓氏録』には、文、武生、櫻野、来栖、古志といった名字の人々が王仁の子孫で漢族として登録されています」「文字を伝えた王仁博士のような百済から来た漢族をどう評価するかという問題もあります。これは、たとえば、在日朝鮮人で日本国籍がない人がアメリカで活躍したようなときに、日本から来たと思われるか、韓国・朝鮮人だとアメリカ人が思うかといったようなものです。漢字を伝えた王仁博士を日韓友好のシンボルとする動きもありますが、在日韓国人3世がアメリカでキムチを広めたのを日米友好のシンボルにするようなもので、ちょっと変な気がします」八幡和郎最終解答 日本古代史 神武東征から邪馬台国、日韓関係の起源までPHP研究所PHP文庫〉、2015年2月4日、132頁。ISBN 978-4569762692「始皇帝の子孫という秦氏や漢字を伝えた王仁博士のように、百済を経由して渡来したとしている氏族も含めて、帰化人の多くが『漢』を出自とすると名乗っていたのです」八幡和郎『最終解答 日本古代史 神武東征から邪馬台国、日韓関係の起源まで』PHP研究所PHP文庫〉、2015年2月4日、36頁。ISBN 978-4569762692
  8. ^ a b 八幡和郎「王仁博士を百済人として日韓友好のシンボルにしたいと韓国の一部の人は考えていろいろ画策しているようですが、百済でも本格的に漢文ができたのは漢族に限られていました。あとで説明するように、山東省にルーツをもつ王仁博士が漢字を日本に伝えたのは、在日朝鮮人がアメリカに行ってキムチの作り方を教えたようなもので、それを日米文化交流とは言わないのと同じく日韓友好のシンボルにはなりません。また、唐が百済を滅ぼすのに荷担した新羅の流れを引く現代の韓国は、百済の継承国家とはいえません」八幡和郎『中国と日本がわかる最強の中国史』扶桑社扶桑社新書〉、2018年9月4日、13頁。ISBN 4594080340
  9. ^ a b 日笠護「後漢孝靈帝の後裔と稱する阿知使博士王仁(漢高祖の後裔)の來朝を見るに至つた」日笠護『日鮮關係の史的考察と其の研究』四海書房、1939年7月15日、40頁。
  10. ^ a b 駒井和愛「東京大学の歴史学者坪井九馬三博士は、かの日本に論語をもたらしたといわれる王仁ももと漢人の子孫で、楽浪から来たって、百済に仕えたもので、楽浪王氏に関係ある」駒井和愛『楽浪―漢文化の残像』中央公論社中公新書〉、1972年1月1日、23頁。ISBN 978-4639001652
  11. ^ a b 請田正幸「西文氏については、その伝承で、漢の高祖の子孫が朝鮮にわたり、その後裔の王仁が日本に渡来して、西文氏の祖となったとしている」請田正幸 (1988年7月). “渡来人論・序章”. 歴史学研究 (582) (青木書店): p. 14 
  12. ^ a b 馬渕和夫出雲朝子「最初の阿直岐・王仁は中国系もしくは準中国系の百済人であったから、漢字の発音も中国音に近かったであろう」馬渕和夫出雲朝子『国語学史―日本人の言語研究の歴史』笠間書院、1999年1月1日、17頁。ISBN 978-4305002044
  13. ^ a b 蔡毅「この『和邇吉師』とは、漢名を王仁と称す。彼の姓氏とその文化教養の点から推測されることは、王仁は朝鮮で生活していた漢民族の移民であるか、あるいは移民の末裔であろう」『日本における中国伝統文化』蔡毅勉誠出版、2002年4月1日、113頁。ISBN 978-4585030874
  14. ^ a b 佐伯有清「井上光貞氏は、王仁の王は中国的な姓で王氏ではないかと指摘され、そして楽浪の官人に王氏が多くいたことから、三一三年の楽浪郡滅亡後に、亡命して百済に入った王氏に王仁はつながりがあるのではないかと推測された」佐伯有清『日本の古代国家と東アジア』雄山閣出版古代史選書〉、1986年11月1日、125-126頁。ISBN 978-4639006121
  15. ^ a b c 竹内理三「漢高帝の後裔王狗という者が百済に来ったが、王仁はその孫にあたるという。楽浪郡跡の発掘の遣品に王光、王肝など王姓の名をしるしたものがあるので、王仁もその名はともかくとしても、その一族のものであろうと言われている」竹内理三『古代から中世へ 上―政治と文化』吉川弘文館、1978年2月1日、33頁。ISBN 978-4642070775「こうしたことから、わが国に文運を最初にもたらした王仁も、じつはまったくの架空の人物ではなくて、この王氏の子孫として実在したものと考えても、案外さしつかえないのではないか。楽浪の王氏は、いずれも平、宜、雲、光などめでたい文字の一字名である」竹内理三『古代から中世へ 上―政治と文化』吉川弘文館、1978年2月1日、63頁。ISBN 978-4642070775
  16. ^ a b 丸山二郎「右に準げた百済の歸化人の中にも、漢人の子孫と稱する者が多く弓月君は秦始皇帝の後だと云はれ、王仁は漢高祖の後裔で百濟に歸化した王豹と云ふ者の子孫だと云ひ、阿知使主はこれ等三國の歸化人の外に支那の歸化人がある」丸山二郎『歸化人の安置』国史研究会岩波書店岩波講座日本歴史8〉、1934年5月、9頁。
  17. ^ a b 田中健夫石井正敏「応神朝に百済の和通吉師(王仁)が『論語』などの典籍をもたらしたという王仁伝説や、継体欽明朝に五経博士が百済から交代派遣されたとする伝承は、そのままでは事実とは認め難い」『対外関係史辞典』田中健夫石井正敏吉川弘文館、2009年1月1日、356頁。ISBN 978-4642014496
  18. ^ a b 斎藤正二「王仁の実在を疑う論者は、津田左右吉以来、それこそ無数にある。『千字文』そのものが三世紀終わりにはいまだ成立していないのに日本に渡来するはずはないとの疑問は、早く江戸時代に新井白石、伊勢貞丈らによつて提起されていた」斎藤正二『日本的自然観の研究 変容と終焉』八坂書房斎藤正二著作選集4〉、2006年7月1日、129頁。ISBN 978-4896947847
  19. ^ a b 中村新太郎「阿直岐や王仁が実在の人物であったかどうかはわからない(津田左右吉博士は、後人の造りごととしている)」中村新太郎『日本と中国の二千年〈上〉―人物・文化交流ものがたり』東邦出版社、1972年1月1日、53頁。
  20. ^ a b 菅原信海「『和邇吉師が論語・千字文を献上したといふのも(中略)和邇吉師が実在の人物でないとすれば、やはり事実とは認められない』と述べており、論語、千字文の阿直岐や王仁は到底実在の人物とは考えられないこと、また和邇吉師が論語、千字文を献上したといふのも、津田左右吉博士は、『王仁の名は阿直岐に対して作られたものであらう』と、架空の名を作り出したもの」菅原信海『日本思想と神仏習合』春秋社、1996年1月1日、24頁。ISBN 978-4393191057
  21. ^ a b 野平 2002, pp. 95–98
  22. ^ a b 星野五彦「応神時代に音読すればオウジンとなる王仁の来朝も実在人物なのだろうかと疑問が生じてくる」星野五彦『万葉の諸相と国語学』おうふう、1999年1月1日、154頁。ISBN 978-4273030520
  23. ^ 井上薫「しかし王仁という人物そのものが実在でなく、『書紀』が彼の来朝を応神朝にかけて記したのは、応神朝に半島との交渉が始まったという知識にもとづいたに過ぎないとする津田左右吉博士の説がある」井上薫『行基』吉川弘文館人物叢書〉、1987年8月1日、14頁。ISBN 978-4642050913
  24. ^ a b 浜田耕策「ところで、韓国の学界では、『日本書紀』に読まれる百済が倭国に送ったとされる王仁や『論語』、『千字文』を代表事例として、百済は倭国より進んだ文化先進国とする文化優越論が根強い。王仁の『千字文』将来説には王仁より後世の作であることや『日本書紀』の歴史構成を批判的に検討する文献学的な批判がある。百済からの知識人や経典の倭国への伝来を百済と倭国との2国間の関係のみに限定してしまい、この背後にある中国王朝との相互の関係に目を向けることの弱さから生まれた『文化優越論』である」浜田耕策 2005, p. 6
  25. ^ 校注:坂本太郎,家永三郎,井上光貞,大野晋 『日本書紀 上』 岩波書店、1967年3月31日、371-373頁。 
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注釈[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ 6世紀の新羅石碑には、多くの者には姓が記されておらず、名と所属のみである。これは、古代朝鮮では、姓がなく、人を名で呼んでいたことを示しており、朝鮮が中国と関わり、中国式の姓を取り入れた。王族や高句麗、百済の貴族が新羅時代の4世紀から5世紀にかけて姓を導入し、6世紀に朝鮮で広まるようになった。このように、王族や高句麗、百済の貴族が中国式の姓を導入したのは、三国時代の後半、統一新羅時代である[38]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

  1. ^ 神埼市観光協会[3]