李承晩ライン

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李承晩ライン
Dokdo Photo.jpg
竹島(韓国名:独島)
戦争日韓問題
年月日1952年1月18日1965年12月18日
場所日本海竹島付近
結果竹島問題に発展。
交戦勢力
連合国軍占領下の日本の旗 日本 Flag of South Korea (1949–1984).svg 韓国
指導者・指揮官
連合国軍占領下の日本の旗 吉田茂 Flag of South Korea (1949–1984).svg 李承晩
戦力
Ensign of the Japanese Coast Guard.svg 海上保安庁 Flag of South Korea (1949–1984).svg 海洋警察庁
損害
不詳
大韓民国 初代大統領 李承晩
李承晩ラインの地図

李承晩ライン(りしょうばんライン[注釈 1])は、1952年(昭和27年)1月18日韓国初代大統領李承晩が大統領令(国務院告示第14号)「隣接海洋に対する主権宣言」[1]を公表して設定した「韓国と周辺国との間の水域区分と資源と主権の保護のため」と主張する海洋境界線である。

戦前の朝鮮総督府時代、朝鮮半島の周囲に機船トロール禁止区域線および機船底曳漁業禁止区域線が設けられ、これによって日本本土からの漁船の侵入を防止する漁業規制が講ぜられていた[2]第二次世界大戦後、1945年9月27日に連合国軍総司令部(GHQ)[注釈 2]が日本漁業の操業区域として所謂「マッカーサー・ライン」を設定した[4]。そのマッカーサー・ラインが1952年のサンフランシスコ平和条約発効によって無効化されることを見越した韓国が、マッカーサーラインの代替として1952年1月18日の大統領令によって一方的に設定したものである[5]。同年2月8日、李承晩政府はこの境界線を設定した主目的は、日韓両国間の平和維持にあると発表し、韓国では「平和線(평화선)」と宣言された。

1952年2月12日 にはアメリカも韓国政府に対し、李承晩ラインを認めることができないと通告したが、韓国政府はこれを無視した。

その境界線内には竹島も含まれ、その後には韓国海洋警備隊の常駐も行われた。そして「(竹島帰属問題の)先送り」とも評される[注釈 3]日韓交渉および日韓基本条約締結後も、韓国による竹島の占拠は続いていくこととなった。日本政府はこの占拠について、国際法上何ら根拠がないまま行われた不法占拠であるとしている[7]

また韓国は日韓基本条約によってこの境界線が無くなるまでの13年間、日本の漁船327隻を拿捕し、漁師2791人[8][9][注釈 4][10](拿捕・抑留死亡8人)を拘束した[11]。しかし拿捕の多くは済州島周辺で行われた[12][注釈 5]

1956年、韓国政府は日本政府に対し、拿捕による抑留者の返還との事実上の引き換えとして、長崎県大村収容所に収容されたままになっていた抑留者の解放を要請した。抑留者の殆どは、不法入国や在留期限切れによる不法滞在で取り締まられた者で、強制退去処分のための船待ちとして[注釈 6][注釈 7][注釈 8]収容されていた。この「交換」要請については、その後何年も両国間での交渉が続けられ、また日本国内でも国会などで議論が重ねられた。その間に韓国側は拿捕者解放の条件に日韓交渉の全面会談開催も加えた[注釈 9]。1957(昭和32)年12月31日に日韓による抑留者相互釈放に関する協定が締結され[15][注釈 10]、この協定に基づき翌年に、日本の入国者収容所に収容中の第二次世界大戦後の韓国人不法入国者(1003人)と韓国の外国人収容所に収容中の日本漁船員(922人)の相互送還が行われた[16]。また、日本政府は第二次世界大戦の終了前から日本に居住している在日韓国人で日本の入国者収容所に収容中の在日韓国人刑余者474人[注釈 11]を仮放免し、法務大臣による期間6ヵ月の特別在留許可を与えた[18]。同時に日本政府は1952年3月6日の日韓会談で日本側代表が行った在韓日本財産に対する請求権の主張の撤回と1953年10月15日の日韓会談における久保田代表の発言を撤回した[注釈 12]

こうして、1953年10月の会談決裂以後、悪化を続けていた日韓関係は、4年余でようやく交渉の軌道に乗せられることになったものの、この協定締結までに韓国の外国人収容所において日本人抑留者2人が死亡[20][21]、日本の大村入国者収容所および川崎入国者収容所浜松分室では数十人の韓国人が死亡した[22]。 他方、1955年2月27日に大阪刑務所において服役中の韓国人が日本人看守による暴行で死亡する事件も起きている[23]

概要[編集]

韓国による日本船舶の拿捕(1953年12月)
李承晩ライン反対デモ(1953年9月15日)

李承晩ラインは、建国されたばかりの韓国が海洋資源の独占を目的としたものであり、サンフランシスコ平和条約の発効によって廃止されることが目前に迫っていたマッカーサー・ラインの代わりに公海上に設定した排他的経済水域である。

日本の主権回復に伴いマッカーサー・ラインの消滅が確実となり、以前からマッカーサー・ラインの存続を希望していた韓国により設定された。これにより、多くの日本人が人権侵害を受けたほか、李承晩ラインはマッカーサー・ラインと同じく、韓国側に竹島を含むものであったため、韓国が竹島の実効支配や竹島周辺海域での行政権行使を始める契機ともされる。

その海域内では、韓国以外の漁船による漁業は行えないものとされ、これに違反したとされる漁船(主として日本国籍、ほか中華人民共和国国籍など)は韓国側によって臨検、拿捕接収された。ときには銃撃を受け乗組員が死亡する事件も起こっている(第一大邦丸事件など)。

ただし李承晩ライン宣言以後、1965年の日韓国交正常化までの時期に、竹島近海において韓国に拿捕された日本漁船はなく[10][24]、また竹島および竹島近海で死傷した日本人は確認されていない[25]。日本漁船拿捕が多く死者まで発生したのは、主として対馬から済州島にかけての底曳網漁業や旋網漁業の好漁場を持つ海域であった[24]

またこのような海上境界侵犯を理由とした日本漁船の拿捕は1946年(李承晩ライン宣言前(マッカーサー・ライン廃止前)のソ連による事案が発生している。翌1947年からは南朝鮮米軍政庁[注釈 13](韓国)による拿捕が、そしめ1948年からは国府(台湾)、さらに1950年から中華人民共和国(中国)による拿捕も始まり、逐年拿捕船数は増加。拿捕時の銃撃等で漁船乗組員が死亡するなどの事件も発生する。

南朝鮮米軍政庁による日本漁船拿捕は1947年2月4日から始まった。山口県下関市の漁船「幸漁丸」が、マッカーサー・ライン侵犯の理由で拿捕され、釜山で米軍政裁判にかけられ漁船は没収、船員は執行猶予となり日本へ送還されたのが最初であり、韓国独立前に20隻の日本漁船が拿捕されたが[注釈 14][27]、その1例が1948年5月14日に発生した瑞穂丸拿捕事件である[28]

1948年10月30日、第21・第22雲仙丸が農林漁区269区で国府艦船から銃砲撃を受け、第21雲仙丸は沈没して1人死亡、第22雲仙丸でも1人死亡という事件があり、第二次世界大戦後、外国艦船による日本漁船乗組員死亡の最初となった[29]

韓国政府成立後の1949年には、第12万栄丸、第6ゆたか丸、大繁丸[30]が拿捕の際に韓国警備艇から銃撃を受け、乗組員それぞれ1人が死亡するという事件が起きた。

朝鮮戦争勃発(1950年)以降は国連軍命令により拿捕または送還されたものが多く、1951年に入って拿捕が急増。同年3月から4月に33隻の日本漁船が拿捕された。しかし、これらの多くは作戦中の国連軍海軍艦艇に遭遇したためである[31]

李承晩ライン宣言以前の1947年2月から1951年末までに拿捕された日本漁船は94隻、抑留された漁船乗組員は1120人(死亡3人)である[11]

中国による日本漁船拿捕では、1951年から1954年の間に中国船からの銃撃で16人の漁船乗組員が死亡しており、抑留中に乗組員が自殺するなどの事件も起きた。

台湾による拿捕でも艦船からの銃砲撃等で13人の漁船乗組員が死亡している。

ソ連(ロシア)の拿捕では、北方領土周辺水域において、1946年から2007年12月までで1302隻の日本漁船が拿捕され、9023人(死亡30人)の漁船乗組員が抑留され[32]、2006年には歯舞諸島に属する貝殻島付近において日本漁船第31吉進丸への拿捕銃撃が発生し、乗組員1人が死亡するなどの事件が近年に至るまで発生している[25]

また李承晩ラインが設定された1950年代、ソ連は北方領土を含むオホーツク海およびベーリング海水域にブルガーニン・ライン(1956年)を、中国は華東ライン(1951年)を設定した。

国連軍も1952年9月27日に朝鮮戦争に伴い朝鮮半島周辺に韓国防衛水域(クラーク・ライン)を設定した[33]。翌年、このライン内(済州島沖)で操業していた日本漁船第1・第2大邦丸が憲兵隊から銃撃を受け、第1大邦丸の乗組員1人が死亡する事件が起きている。

オーストラリアでは、1953年に日本の真珠貝漁業を対象として真珠貝漁業法を制定された。オーストラリアの大陸棚上に管轄権を及ぼす措置をとった[34]。この問題は日本・オーストラリア間で国際司法裁判所に提訴されるに至っている。

このように戦後は多くの日本漁船が周辺諸国等によって拿捕され、乗組員が抑留された。その数は、終戦の1945年(大韓民国成立前)から1965年の20年間で

  • 中国によるもの187隻(2233人)
  • 米軍政庁・国連軍・韓国327隻(3911人)
  • 台湾51隻(680人)
  • ソ連1154隻(9808人)
  • 北朝鮮9隻(115人)
  • 米国53隻
  • インドネシア23隻
  • フィリピン13隻
  • オーストラリア3隻

に上った[28][35]

李承晩ラインに対し日米両国は「国際法上の慣例を無視した措置」として強く抗議したが、当時はサンフランシスコ平和条約発効3か月前あり、日本の主権回復しておらず、また日本の海上自衛隊や、その前身である海上警備隊(約三ヶ月後の1952年4月に発足)・警備隊(同年8月に発足)も存在していなかった[注釈 15]

1949年9月以来、マッカーサー・ラインを侵犯する日本漁船の監視に当たっていた日本水産庁の監視船は、1952年5月23日の閣議決定により、海上保安庁の巡視船と協力して操業秩序の維持と漁業保護を行うこととなり、1952年7月以降は、李承晩ライン水域に常時4隻、最高7隻が配置された。それらは釜山等韓国警備艇の基地の領海外に待ち受けてその動静を把握し日本漁船の退避を助ける「特別哨戒」の任務に当った[36]。また海上保安庁巡視船は竹島巡視も行っており、1953年6月27日の最初の巡視から1965年末まで計51回の巡視を行うなかで[37]、1953年と1954年には韓国人から銃撃・砲撃される事件が起きている[25][38][注釈 16]

日韓基本条約締結の際の日韓漁業協定の成立(1965年昭和40年〉)により、李承晩ラインが廃止されるまでの13年間に、韓国に拿捕された日本漁船は233隻、抑留された漁船乗組員は2791人、拿捕・抑留に伴う死者は5人を数えた[11]。抑留者は6畳ほどの板の間に30人も押し込まれ、僅かな食料と30人がおけ1杯ので1日を過ごさなければならないなどの劣悪な抑留生活を強いられた[40]

日本弁護士連合会は、「凡そ、1国の領海は、3海里を限度とすることは国際法上の慣行であり、公海内に於ける魚族其他一切の資源は人類共同の福祉の為めに全世界に解放せらるべきである。然るに、韓国大統領は、これを封鎖して、平和的漁船を拿捕し、漁民を拉致し且つ刑事犯人として処罰するが如きは国際正義に悖る行為である。よって、本委員会は、正義平和の名において、茲に韓国の反省と漁船、漁民の即時解放を求め、以って、相倚り相助け東亜の再建に貢献することを期待する。」といった内容を含む「李ライン問題に関する日本漁民拉致に対し韓国の反省を求める件(宣言)」[41]を満場一致で議決して人権擁護の抗議運動を全国で展開した。

一方で、韓国側は李承晩ラインの存在を日本側に知らしめるため、また李承晩ライン付近で拿捕した日本漁船の乗組員に関する情報を伝える目的で、国際放送『自由大韓の声』に日本語放送の実施を命じた。これが現在のKBSワールド・ラジオ韓国の始まりである。

李承晩ラインの問題を解決するにあたり、日本政府は韓国政府の要求に応じて、日本人抑留者の返還と引き換えに、苦慮しつつも、常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として入国者収容所に収容されていた在日韓国・朝鮮人474人[42][注釈 17]を仮放免し、法務大臣による期間6ヵ月の在留特別許可を与えた[18][43]

背景[編集]

第二次世界大戦後、日本漁業の経済水域はマッカーサー・ラインによって大きく制限されたものであったが、1951年2月7日に「吉田・ダレス書簡」が発表され、サンフランシスコ講和条約の発効による日本の主権回復後にマッカーサー・ラインが撤廃されることが確実となった。

2月16日、金龍周韓国駐日代表部公使は林炳稷外務部長官に宛て「もしマッカーサー・ラインが撤廃されたならば彼ら日本漁業者たちの行為は露骨化して公然と韓国の漁場を攪乱するので、韓国の水産資源を必然的に枯渇させ韓国の経済に及ぼす損失は莫大なものと思われる」とし、早急な対策を要望した[44]

4月3日、韓国政府は対日漁業協定委員会を発足させ、同月11日、同委員会は第2回会議にて3段階の対日漁業政策を決定した[45]

  • 第1段階:マッカーサーに対し、韓国外務部から、マッカーサー・ラインを今後も永存続させるという要請を行う。
  • 第2段階:日本の侵略を防ぐために、マッカーサー・ラインを存続させる項目をサンフランシスコ講和条約に入れるよう強力に推進する。
  • 第3段階:マッカーサー・ライン撤廃を想定して、総司令部と漁業協定を締結し有利な条件を技術的に定める。またその交渉はマッカーサー・ライン撤廃前にするのが有利である。

その第2段階に沿い、4月17日、同委員会から張勉国務総理に対し行われた「対日講和条約草案に関する意見具申」では、この問題は「政治的経済的事項に属することは第二次的な問題で、実は韓国のひいては極東の安全保障に属する」とされマッカーサー・ライン存続を対日講和条約草案の第4章「安全保障」に挿入することが求められていた。

4月26日、韓国政府はジョン・フォスター・ダレス国務長官顧問宛に要望書を提出。しかしマッカーサー・ラインの存続の要望は、上記の意見具申の内容とは異なり、対日講和条約の第4章「安全保障」ではなく第5章「政治および経済条項」に組み込まれており、安全保障の観点から行われたものではなかった。韓国政府はその後も7月9日に書簡と直接要請によって、7月19日に直接要請によって、8月2日に書簡によって、アメリカに対しマッカーサー・ライン存続の条項を講和条約に挿入するよう要求したが、これらもすべて安全保障の観点からのものではなかった。

また7月19日の要望書では日本の在朝鮮半島資産の韓国政府およびアメリカ軍政庁への移管、竹島波浪島を韓国領とすることも要求していた[46]8月10日、これらの要望に対しアメリカは「ラスク書簡」にて回答。在朝鮮半島の日本資産の移管についてのみを認め、その他の韓国政府からの要求を拒否した。

「ラスク書簡」の約1ヶ月後の1951年9月8日にサンフランシスコ講和条約は調印された。翌1952年4月28日に条約が発効される手筈となっており、この発効と同時にマッカーサー・ラインは廃止される予定となっていた。しかし、サンフランシスコ講和条約の発効3ヶ月前の1月18日朝鮮戦争下の韓国政府は、突如としてマッカーサー・ラインに代わるものとして「李承晩ライン」の宣言を行った。これに対し日米両政府は非難の声を挙げたが、日韓間に国交がないことから、その解決には長い道のりを要することとなった。

国際法上の評価[編集]

李承晩ラインの設定はサンフランシスコ平和条約に反したものであるが前述のとおり韓国はこれに調印していない。しかし、韓国は同条約起草時に要望をアメリカ政府に述べることが可能な立場であり、実際に一部の要求(在朝鮮半島における日本資産の韓国政府および在韓米軍による接収[3])はサンフランシスコ条約に採用されている。マッカーサー・ライン継続、竹島の領有などの韓国の要望が却下されているのは前述の通りである。

経済水域一般に関する状況[編集]

トルーマン宣言[編集]

1945年9月28日にアメリカのハリー・S・トルーマン大統領は、「公海の一定水域における沿岸漁業に関する大統領宣言[47]を行った。この宣言は、「アメリカ国民のみが利用していた水域をアメリカの統制と管理下におくことが適当であり、他国民とともに共同利用されてきた水域は他国と合意された規程により統制管理される」としており、アメリカの資源の将来政策を述べるにとどまった[48]

南米諸国による漁業独占権宣言とそれに対する欧米諸国の抗議[編集]

トルーマン宣言に触発され、アルゼンチン(1946年)、パナマ(1946年)、チリ(1947年)、ペルー(1947年)、コスタリカ(1948年)、エルサルバドル(1950年)、ホンジュラス(1951年)、チリ・ペルー・エクアドル(1952年)が漁業資源に関する宣言を行ったが、トルーマン宣言と異なり自国民による排他的な漁業独占権を一方的に設定するものであった。

アルゼンチン、チリ、ペルー、ホンジュラス等は自国の宣言を正当化するためにアメリカのトルーマン宣言を援用したが、アメリカはこれら宣言に対して抗議を行っている。1948年7月2日のアルゼンチンに対する抗議文では「アルゼンチンの宣言に含まれている原則は、アメリカ合衆国の宣言と極めて異なっており、国際法の一般に認められた原則に違反しているように思われる」とし、他国への抗議も同様であった。ハーマン・フレガー国務省法律顧問は1955年のニューヨークでの講演で、トルーマン宣言が漁業独占権を主張しているとするのは「誤解」としている。しかし、アメリカの抗議にも関わらず1954年にペルーはパナマ船籍船を拿捕し、エクアドルは1955年にアメリカ漁船に発砲・拿捕している。

イギリスは3海里を越える水域の排他的管轄権を認めないと1948年にチリ、ペルーに抗議を行っており、1952年にもチリ、エクアドル、ペルーの共同宣言にもアメリカと共同で抗議している。フランスは、1951年の覚書においてメキシコ、ペルー等の国名を挙げたあとに、一方的宣言により公海で主権を拡張し、他の国々の権利をおかしてはならないとした[48]

国際法学者及び国際法委員会[編集]

1951年の国際法委員会における大陸棚及び関連事項についての条約の草案では、「沿岸国の領海より100海里以内にある場合には、沿岸国は資源保存の規制に参加し得る」とし沿岸国の特殊的地位を認めたが、「いかなる場合にも、いかなる水域も漁業を行おうとする他国民を排除してはならない」として排他的独占権は認めていない。1953年の国際法委員会の草案も同様であった。国際法学者のハーシュ・ローターパクトは1952年の国際法委員会の席上「いかなる国際裁判所もエルサルバドルの領海200海里の主張や他国の同様な最近の主張を認めないであろう」とし、フランソアも同様の発言をしている[48]

韓国の主張とアメリカ等の抗議[編集]

韓国は1952年1月27日に李承晩宣言韓国政府声明を発表し李承晩ラインを国際法において確立されたものであると主張。その主要な点は以下のとおりである。

  • トルーマン宣言、メキシコ、アルゼンチン、チリ、ペルー及びコスタリカ諸国政府による宣言と同性格である
  • マッカーサー・ラインは有効に存続している
  • 接続水域の地位は国際法上確立しており、接続水域において漁業の絶対的自由は認められない

しかし、ラスク書簡によりマッカーサー・ラインの継続はアメリカから拒否されている。韓国政府は60海里に及ぶ漁業独占権を接続水域として整理しているが、当時のアメリカ、イギリスが主張する接続水域は12海里(22km)であり、フランスは20kmであった。また、接続水域とは、関税や検疫のために限定された管轄権を行使できる水域を示しており、漁業独占のための水域ではなかった[49][50]。 李承晩の宣言を受けて、2月11日にアメリカ政府は公海上での行政権行使に対する懸念を示す口上書をもって抗議を行った[51]。また、6月11日には中華民国が、翌1953年1月12日にはイギリスが抗議を行った[52]

更に、1954年に作成された米国機密文書・ヴァン・フリート特命報告書によれば、アメリカ政府は竹島問題をサンフランシスコ平和条約により日本領として残したこと、李承晩ラインの宣言が一方的で違法であると韓国政府に伝達している。

問題解決への道のり[編集]

問題解決には長い年月を要した。その原因は、

  1. 日韓両国に正式な国交がなかった。
  2. 国交正常化交渉は賠償請求権を巡って紛糾し、遅々として進まなかった。
  3. アメリカが二国間問題であるとの立場を取り積極的に介入しなかった。

である。

冷戦初期の中、日本と韓国は共にアメリカの庇護下で反共主義自由主義)を旨とする西側諸国に属していた。しかしながら、李承晩1910年日韓併合以来一貫した反日民族独立運動家であり、1948年7月20日に正式に成立した韓国の初代大統領として常に強硬な対日外交を行っていた。それでも李承晩ラインを発表した直後の1952年(昭和27年)2月から日本の保守政権と韓国の李承晩政権とは国交樹立を目指した交渉を開始した。李承晩政権の強硬な反日姿勢のため両国間の溝は大きく、交渉はしばしば中断した。両国政府間の共同声明などにより韓国側は拿捕した日本人漁民の釈放に応じはしたものの、李承晩ライン自体は存続させ続け、1960年(昭和35年)の李承晩失脚後もこの状態が続いていた。

1963年(昭和38年)10月15日、李承晩退陣後の政治的混乱を収拾した朴正煕が大統領に就任した。彼は工業化を進めることで国を富ませ、民族の悲願である南北統一を促進することを考えた。そのためには資本と技術が必要と考えた。しかし、大韓帝国時代と同様、朝鮮戦争後の荒廃した韓国には国際的信用力がなかったため資本を集めることが難しく、どこからどう調達するかが悩みの種であった。朴正煕大統領が目をつけたのが日本である。そのために日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)の締結を急いだ。一方、日本政府も戦後処理の一環として韓国との国交回復は重要な外交テーマであり、李承晩ラインを撤廃させて安全操業の確保実現を求める西日本の漁民からの要望も受けていた。朴正煕政権は、竹島の領有権についての紛争を棚上げにすることで日韓基本条約の締結がなしえると判断したところで、その関係協定の一つである日韓漁業協定を締結した。この日韓漁業協定が締結された1965年(昭和40年)6月22日[53]以降、相矛盾する李承晩ラインは自動的に無効・廃止とされた。

1965年6月22日に締結された日韓請求権協定(韓国との請求権・経済協力協定)において、日本側の漁船拿捕の賠償請求権と韓国政府が請求権を主張していた置籍・置水船舶返還問題[54]との相殺により、日本政府は韓国による日本漁船の拿捕から生じたすべての賠償請求権を放棄した[55][注釈 18][注釈 19][注釈 20][注釈 21]。対韓賠償請求権の放棄に伴い国内補償に方針が決定、拿捕保険および見舞金等(約14億円)既に処置済みのものを差引き、日本政府は拿捕被害者に特別給付金(約38億円)を支給した。1967年3月16日、水産庁「韓国拿捕漁船特別給付金の支給状況について」による拿捕漁船認定数は、拿捕漁船325隻、抑留乗組員3796人、障害者84人、死亡者29人(第6あけぼの丸追突事故死亡者21人を含む)である。同時に特別融資も決定し、漁船船主および遺族等に対し総額10億円の範囲内において農林漁業金融公庫より融資が開始された。拿捕漁船認定の対象外とされていた韓国独立前の米軍による拿捕および第6あけぼの丸(死亡乗組員を含む)については最終的に認定に含めることに決定し特別給付金支給の対象となった。[注釈 21]

解釈[編集]

  • 1952年2月8日、李承晩政府はこの境界線を設定した主目的は日韓両国間の平和維持にあるとし、韓国では「平和線(평화선)」と宣言された。
  • 後に日本の外務大臣を務めた大平正芳は著書において、李承晩ラインは韓国が日本海東シナ海に設定した軍事境界線[61]と記した。
  • 日韓による漁業協定交渉時、李承晩ラインを国境線と誤解し「平和線(李承晩ライン)の譲歩は領土の縮小を意味する」と日韓会談妥結に反対する韓国世論が存在した。韓国与党は彼らの主張に対し『そのような主張は「大韓民国を国際的に嘲笑の種にして孤立化させる仕打ちとしか見ることができない」』と強くたしなめることとなった。[62]

李承晩ラインを描いた作品[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 現在の日本では韓国・朝鮮人の氏名は韓国・朝鮮語読みにするのが慣例になっているが、当時は日本語音読みにする慣例があった。金大中事件#脚注を参照。
  2. ^ 外交防衛委員会調査室 高藤奈央子『竹島問題の発端 ~韓国による竹島占拠の開始時における国会論議を中心に振り返る~ 』によれば翌年6月である。「1946年6月から、連合国総司令部はSCAPIN第 1033 号をもって、「マッカーサー・ライン」を規定し、日本の漁業及び捕鯨許可区域を定めていた。 」[3]
  3. ^ 「1955年3月、重光外務大臣は「日韓関係はどうしても一つ正常な関係また有効な関係を樹立したいと思っている。竹島問題の処理は譲るわけにはいかないが、そこに全体の空気を改善して、日韓関係の友好化の道がもし開かれるとするならば、この問題も将来解決する道がつくのではないか。しばらく 議論はこの問題に集中しない方がいいと考えている」と述べ、国交正常化交渉の進展を優先させる方針を示した。」[6]
  4. ^ 「お尋ねについては、統計により様々な数字があると承知しているが、政府としては、千九百五十三年から千九百六十五年までの間、大韓民国政府がいわゆる「李承晩ライン」を一方的に設定することにより鉱物資源、水産資源等に対して同国の主権を行使する水域であると主張して設定した区域において、同国政府にだ捕又は抑留された日本漁船及び日本人の数は、二百三十三隻及び二千七百九十一人と承知している。」 「竹島問題に関する質問」に対する日本政府答弁書(五について)2013年2月8日,第183回国会 亀井亜紀子参議院議員提出「竹島問題に関する質問主意書」
  5. ^ 「韓国の拿捕は対馬北方から東シナ海北部そして黄海南部にかけての広い海域で行われ、とりわけ済州島周辺に集中している。」[13]
  6. ^ 「大村収容所に今千数百名の韓国人が抑留されております。これはいずれも法務省により韓国に強制退去処分を受けまして、船待ちの者でございます。そのうちの大体千百名ぐらいの者は、これは韓国から不法入国をいたした者でありまして、いわば密入国いたしました者がつかまりまして、それでそのまま退去処分になったという者でございます。それ以外の三百五十名程度の者は、これは終戦前から日本に居住しておりました韓国人でありますが、日本の法規を犯した等の理由のために、出入国管理令によりまして強制退去処分に付せられておる者であります。」第22回国会 参議院 外務委員会 1955(昭和30)年10月20日 中川融 外務省アジア局長
  7. ^ 「これは刑の執行のために収容しておるのではございません。刑が執行されたその後の何であります。」参議院 内閣委員会 1955(昭和30)年11月1日 重光葵 外務大臣
  8. ^ 「実際刑務所で刑期を終りまして出て参りました者の中から、大体、われわれの基準で申しますと、非常に凶悪な悪質な犯罪者、たとえて申しますならば殺人とか強盗とかいう種類の犯罪者、あるいはたとえば麻薬関係、それからヒロポンの、これも単に媒介とか使用したというのでなくして、製造をやっておるというような非常に悪質な者、あるいは普通の犯罪者でございますと大体三犯以上くらいの者で、われわれの観念からいたしまして犯罪の上に生活が成り立っておるのではないかというふうに認めざるを得ないような悪質者を退去強制処分に付しております。そうしてそれを大村に送っておるのでございますが、これは大村に収容すること自体が目的というわけでは毛頭ないのでございまして、通常の場合退去強制処分に付しました者はその退去の確保をいたしますために収容しておるのでございます。」「大村におります全員は千六百八十五でございます。そのうち密入国が千二百六十三でございます。それで、これを引きました数が四百二十二となりますが、この中には、いわゆる犯罪以外のもの、と申しますのは、いわゆる不法残留、正規に入りまして、その在留資格がなくなったにもかかわらずとどまっておるというような者、そのほかの理由で逮捕になった者も含んでおりまして、先ほど申しましたような、いわゆる凶悪犯罪あるいは累犯というような理由で逮捕した者は、このうち三百七十という数字でございます。」「今、日韓間におきまして問題になっておりますのは、この密入国者は除かれておるのであります。」衆議院 法務委員会 1955(昭和30)年12月8日 内田藤雄 入国管理局長
  9. ^ 伊関佑二郎(法務省入国管理局長)「御承知のように、この問題は一昨年の春から起って参ったわけでありまするが、当初は純然たる日本に抑留されておりまする韓国人と、それから韓国に抑留されておりまする漁夫との釈放というだけの問題で出発したわけでございまするが、後になりまして、韓国側で、この問題に全面会談を必ず開くのだという、まあ一種の政治的な条件をつけて参りました。多少交渉が長引いたわけでございまするが、日本側といたしましても、いずれ全面会談も開かれなくちゃならぬ。そうなれば全面会談の内容そのものに入るわけではございませんけれども、できるだけこの機会に、全面会談で取り上げるべき諸問題についても意見を交換しておくということが有意義であろうかとも考えました。全面会談を開くこと自体については異議がございませんでしたので、その問題に関連して交渉が行われて参ったのであります。」[14]
  10. ^ 「韓国抑留日本人漁夫の釈放を早期に実現せしめ、併せて日韓関係正常化への途を拓くことを目的として、日韓両国代表間に、かねて交渉を行ってきたところ、本12月31日韓国抑留日本人漁夫と入国者収容所にある韓人との相互釈放についての日韓両国政府間の了解に関する覚書および日韓全面会談再開に関する覚書等の各文書について双方の意見一致を見、本日外務大臣公邸において関係各文書の署名を了した。右覚書の全文および関係文書ならびに共同コミュニケは別添のとおりである。【共同発表】昭和32年12月31日に日本国藤山愛一郎外務大臣と在本邦大韓民国代表部代表金裕沢大使との間で行われた会談において、日本国政府が、第二次世界大戦の終了前から日本国に引き続き居住している韓人で日本国の入国者収容所に収容されているものを釈放すること及び大韓民国政府が、韓国の外国人収容所に収容されている日本人漁夫を送還し、かつ、第二次世界大戦後の韓人不法入国者の送還を受け入れることが合意された。同時に、日本国政府は、大韓民国政府に対し、日本国政府が、昭和28年10月15日に久保田貫一郎日本側主席代表が行った発言を撤回し、かつ、昭和32年12月31日付の合衆国政府の見解の表明を基礎として、昭和27年3月6日に日本国と大韓民国との間の会談において日本側代表が行った在韓財産に対する請求権主張を撤回することを通告した。その結果、日本国と大韓民国との間の全面会談は、東京で昭和33年3月1日に再開されることが合意された。(以下関係文書省略)」 外務省情報文化局「韓国抑留日本人漁夫と入国者収容所にある韓人との相互釈放等についての取極成立について」1957年12月31日発表
  11. ^ 解放途中の日本政府答弁によれば「474人」: 伊関佑二郎(法務省入国管理局長)「刑期を終えて大村に収容されております者の、いわゆる刑余者の釈放問題と、それから不法入国者の韓国への引き取りの問題、この二点ございますが、不法入国者、現在浜松並びに大村に収容されておりまする不法入国者約千二百名の韓国への引き取りの問題につきましては、まだ韓国側の準備が整わないものと見えまして開始されておりません。刑余者の国内釈放はすでに実施しておりまして、本日夕方までには四百七十四名のうち約三分の二が釈放されることになっております。私どもの方は身元引き受けのある者を最初に釈放するという方針でおりまして、大体本日の釈放によりまして、身元引受者のある者は全部出ることになっております。身元引き受けのない者は少し延ばしまして、大体今月の十日前後に全部これを終える予定であります。」[17]
  12. ^ 「1.抑留者相互釈放及び全面会談再開に関する日韓両国政府間取極の締結。日韓間取極は昭和32年12月31日締結されたが本取極の主たる内容は次のとおり。(1)日本政府は在日韓人刑余者で入国者収容所に収容中の者474名を国内釈放する。取極発効後は在日韓人刑余者の収容をしばらく自制する。(2)韓国政府は刑を了した日本人漁夫922名を送還し、及び第二次大戦後の韓人不法入国者の送還を受け入れる。(3)両国政府は右(1)及び(2)の措置を取極発効後1月半以内に完了する。(4)日韓全面会談を昭和33年3月1日東京で再開する。(5)日韓両国政府は財産請求権問題に関し、「アメリカの解釈」に同意する。(6)日本政府は久保田発言を撤回し、且「アメリカの解釈」を基礎として、在韓財産に対する請求権の主張を撤回する。(7)日本政府は国有韓国美術品で直ちに引渡し可能なものを韓国政府に引渡す。その他の韓国美術品の引渡しについては、全面会談で討議及び処理する。(口頭伝達事項)」[19]
  13. ^ 「1943年11月27日、米英中三国の首脳(ルーズベルト大統領、チャーチル首相、蒋介石総統)の署名したカイロ宣言で「三大国は朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由かつ独立のものたらしめる決意を有する」と述べ、さらに1945年7月26日に同じ三国首脳の署名したポツダム宣言で「カイロ宣言の条項は履行せらるべく・・・」と朝鮮の独立を再確認した。ソ連は対日宣戦の中にポツダム宣言に同意したことを明らかにした。その年(1945年)9月2日、ミズーリ号艦上で日本政府が降伏文書に署名した日、連合国総司令部が出した一般命令第1号(陸海軍)の中で「38度線を米ソの軍事分界線として、朝鮮にある日本軍は北緯38度以北はソ連軍に、北緯38度以南は米軍に降伏すべきこと」を記した。9月7日付の太平洋米国陸軍総司令部布告で南朝鮮に米軍政実施が宣言され、米軍は9月8日に仁川に上陸し、9日に京城(ソウル)に進駐し、その日、日本軍司令官・朝鮮総督との間に38度線以南地域の降伏文書調印式が行なわれた。南朝鮮米軍政庁が京城(ソウル)に成立したのは(1945年)9月20日である。」 外務省アジア局北東アジア課内 日韓国交正常化交渉史編纂委員会「日韓国交正常化交渉の記録 総説第1章(1.日本統治の終末と南北朝鮮政府の樹立)」
  14. ^ 「拿捕漁船請求権については、拿捕された時期が(1)韓国独立の時期(昭23.8.15)以前、(2)独立より平和条約発効の時期(昭27.4.28)まで、及び(3)平和条約発効時以降のいずれかに属するかによって次のように性格を異にする。(1)韓国独立前に拿捕されたもの(20隻)在韓米軍によって拿捕されたものについては、わが方は請求権を有しないことになる。(平和条約第4条(b)項該当)(2)韓国独立後平和条約発効までに拿捕されたもの(77隻)韓国側の不法行為によって拿捕されたものと認められるから、わが方は対韓請求権を有している。この請求権は、平和条約第4条(a)項に規定する請求権として両国間の特別取極の対象として処理されるべきものである。(注)「李ライン」は、昭和27年1月18日に設定されたが、設定後の拿捕は77隻中3隻である。(3)平和条約発効後現在までに拿捕されたもの(229隻)これらは、李ライン侵犯を理由として、韓国側に拿捕されたものであって、わが方は上記77隻の場合と同じ理由により対韓請求権を有している。この請求権は、平和条約発効後に発生したものであるから、平和条約第4条(a)項に規定する請求権には該当しない。」[26]
  15. ^ 李承晩ラインが宣言された約3か月後(1952年4月)に海上警備隊(海上保安庁)が発足。同年8月に後進の警備隊 (保安庁)が発足した。
  16. ^ 海上保安庁巡視船の竹島巡視(1953年~)「昭和28年6月27日:海上保安庁、第1次竹島巡視。島根県所属の設標。来島中の韓国人6名に退去勧告。昭和28年7月12日:海上保安庁、第4次竹島巡視。韓国漁船3隻、韓国警察7名、漁民30名に対し退去を要求したが、韓国側から数十発の銃撃を受ける。昭和29年5月3日:海上保安庁、第23次竹島巡視。竹島に上陸、日本漁船竹島でわかめ漁実施。昭和29年6月17日:韓国内務部、竹島に海洋警備隊を派遣したと発表。昭和29年7月28日:海上保安庁、第27次竹島巡視。韓国警備員6名を確認。昭和29年8月23日:海上保安庁、第28次竹島巡視。韓国旗の掲揚を確認。韓国側から銃撃をうける。昭和29年10月2日:海上保安庁、第29次竹島巡視。無線柱、大砲の設置を確認。昭和29年11月21日:海上保安庁、第30次竹島巡視。砲撃をうける。」(年表より抜粋)[39]
  17. ^ 第23回国会での内田藤雄入国管理局長答弁によれば対象者の人数は370人。「いわゆる凶悪犯罪あるいは累犯というような理由で逮捕した者は、このうち三百七十という数字でございます。」「向う(韓国)は、終戦後に日本に入った者は当然受け取る義務があるということを彼ら自身認めております。ただ、韓国の場合には一般的に義務を認めてもなかなかそれを履行しないという問題がございます。しかし、いまだかって、戦後の密入国者を自分たちは引き取らないということは一ぺんも申しておりません。問題は、戦前からおります朝鮮人につきましての、いわゆるこれが犯罪等の理由によってどうしても日本に置くのは困る、この人間について問題を生じておるわけでございます。従いまして、ただいま向うが国内において釈放せよと要求しておりますのは、まさにこの三百七十名の犯罪者だけでございます。従いまして、今の話がかりにでき上ると仮定いたしますならば、密入国者の送還というものはすぐにできるし、向うが引き取ると思います。そういう状況でございます。」[43]
  18. ^ 「同条1にいう完全かつ最終的に解決されたこととなる両国及びその国民の財産、権利及び利益並びに両国及びその国民の間の請求権に関する問題には、この協定の署名の日までに大韓民国による日本漁船のだ捕から生じたすべての請求権が含まれており、したがつて、それらのすべての請求権は、大韓民国政府に対して主張しえないこととなることが確認された。」[56]
  19. ^ 「この拿捕漁船損害に対して、政府は当初は法律的には補償する義務はないとの見解であったが、対韓賠償請求権の放棄にともなって国内補償に方針が決定、その補償額査定などの主管官庁として水産庁が当たることになった。水産庁は、協議会から提出された調査資料を基礎に検討に入った。その結果、損害額は推定72億円であろうと発表したが、協議会の調査では76億円と計算されていた。そこで損害額の再調査を行うとともに、速かなる補償の実施を要望する陳情を行なうこととした。(1965年)4月9日、協議会は日韓漁業対策西日本地方連合会・日本遠洋底曳網漁業協会・日本機船底曳漁業協会・日本遠洋旋網漁業協同組合・全日本会員組合・全国漁業協同組合連合会・日本鰹鮪漁業協同組合連合会・大日本水産会と連名で、次ぎの「拿捕抑留による損害の補償に関する要望書」をもって関係方面に陳情した。日韓漁業交渉の妥結に伴い、漁業の安全が確保される見通しがついたことは、われわれ漁業者のよろこびとするところであります。しかし、今日まで韓国に拿捕された漁船は326隻に達し、未だ帰還せざる漁船は185隻(沈没3隻を含む)におよび、また抑留された乗組員は3903名(うち死亡8名)で、最高3年半という長期の抑留をしいられたものもあります。これら漁船・乗組員の不法拿捕・抑留によって蒙った物的・精神的損害は極めて大きく、物的損害だけでも70数億円にのぼっているのであります。この損害については機会あるごとに、その賠償を韓国側に請求されるよう要請してきたのでありますが、政府は今回の日韓会談の妥結に当り、韓国側の船舶補償要求と相殺され、損害賠償の請求権を放棄して仮調印を行なっております。このことは、当然、日本政府において、この損害が補償されるものと、われわれは思考するのであります。よって政府は、日韓漁業協定の発効後、速かに損害額の補償が実施されますよう要請するものであります。6月8日にも同様な陳情を行なったが、このときは第6あけぼの丸に関しての陳情も行なった。これは、日魯漁業所属の第6あけぼの丸が昭和30年2月14日、韓国海軍艦艇に追突されて沈没、乗組員21人が死亡するという不祥事件であった。そこで所属団体を通じて損害補償等を含めた問題解決を前から要請しつづけてきたが未解決のものである。」[57]
  20. ^ 「李ライン水域は、底びき網漁業(ぐち、はも、たい、えび、たちうお、かれい、ひらめ等)、まき網漁業(あじ、さば)、一本釣り漁業(さば、かつを、ぶり、いか等)、延縄漁業(たい、かじき、ふか等)、しいら漬、かじき突棒等の好漁場である。このため、李ラインを認めないわが国の立場からして、日本漁船はだ捕の危険を冒して出漁した。しかし韓国のだ捕攻勢は激しく、その上昭和25年以来行なわれていた中共によるだ捕事件も増加したため、これを憂慮した日本政府は、昭和27年5月23日の閣議決定により、海上保安庁巡視船を水産庁監視船と協力して操業秩序の維持と漁業保護に当らせることとなり(水産庁監視船は、昭和24年以来、マッカーサー・ラインを侵犯する日本漁船の監視に当ってきた)、昭和27年7月以降、李ライン水域に常時4隻、最高7隻の巡視船を配置し、釜山等韓国警備艇の基地の領海外に待ち受けてその動静を把握し、日本漁船の退避を助ける「特別哨戒」の任務に当ってきた。しかしながら、韓国によるだ捕は跡を絶たず、昭和22年以降現在までにだ捕された漁船及び抑留された乗組員は、327隻、3911人に及びうち漁船は、沈没3隻、未帰還182隻、乗組員は銃撃による死亡及び抑留中の死亡併せて8人(その他は全員帰還)を数えている(資料24、韓国によりだ捕された日本漁船の統計参照)。なお、右のような漁船だ捕及びだ捕回避のために生じた損害は、約72億円(最近の業界の算定では約90億円)と推定されている。しかし、請求権協定により、わが国は、だ捕によって生じたすべての対韓請求権を放棄することとなったため、業界では国内補償措置を要求しており、政府も別途処理する意向を明らかにしている(なお、従来だ捕保険等により約14億円は支払い済みである)。」[58]。日本政府は拿捕漁船損害に対して当初は法律的には補償する義務はないとの見解であったが、対韓賠償請求権の放棄に伴い国内補償に方針が決定、拿捕保険および見舞金等、既に処置済みのものを差引き、1967年に日本政府は拿捕被害者に特別給付金(約38億円)を支給した。1967年3月16日、水産庁「韓国拿捕漁船特別給付金の支給状況について」による拿捕漁船認定数は、拿捕漁船325隻、抑留乗組員3796人、障害者84人、死亡者29人(第6あけぼの丸追突事故死亡者21人を含む)である[59]
  21. ^ a b 「農林大臣による拿捕漁船認定は、第一回分が(1966年)6月13日に214隻について発表された。この特別給付金は26億4000万円で、管轄県は長崎64隻、山口59隻、福岡41隻、佐賀12隻、島根11隻、鳥取9隻、愛媛5隻、鹿児島5隻、兵庫4隻、静岡・香川・熊本・大分が各1隻である。第二回分の認定は、7月26日に66隻について発表された。特別給付金は7億円、管轄県は山口43隻、長崎13隻、福岡9隻、徳島1隻である。ところが第三回認定を前にして、次ぎの二つの問題から作業が遅れ、当初は41年度会計期末までに特別給付金の交付を完了する予定であったものが、年度を越す惧れが出てきた。一つは、韓国独立前の拿捕漁船の取扱いについて、大蔵省から異議のあったことである。大蔵省法規課の解釈によると、韓国独立の前と後とでは拿捕事件も法的に差違があり、独立後の拿捕は韓国政府の行為であるから問題はないが、独立前は米軍の行為であり、これらについては平和条約で請求権を放棄しているから、特別給付金の対象とはならないというものである。これは当時、在外資産の補償問題ともからんでくるため、大蔵省としても法的解釈をあいまいにできない問題であった。いま一つは、拿捕船として認定できないものが出て、それを枠外とすることについてであった。これは前記した第6あけぼの丸についてであり、五島沖において韓国艦艇に追突されて沈没、乗組員21人が死んだというケースである。ともあれ第三回分の認定は、年が明けた昭和42年(1967年)1月5日に13隻が発表された。特別給付金は4400万円、管轄県は山口6隻、福岡8隻である。次いで第四回分の認定は、3月7日に4隻が発表された。特別給付金は480万円、管轄県は山口である。大蔵省から異議の出された韓国独立前の拿捕船問題は、最終的には、独立前のものも含めることに決定、第五回分の認定が3月9日に発表された。この中には、協議会の折衝によって第6あけぼの丸も加わり28隻、管轄県は山口13隻、福岡8隻、佐賀3隻、鳥取2隻、長崎・兵庫1隻である。こうして拿捕漁船認定と給付金の決定を終えた水産庁は3月16日、「韓国拿捕漁船特別給付金の支給状況について」において、次ぎのように述べている。(人数・金額については4月25日に修正されたものである)(1)3月9日付けで28隻を拿捕漁船として認定し、これをもって認定事務は完了した。拿捕漁船の総数は325隻となった。(2)325隻の認定に伴って見込まれる特別給付金支給額は次ぎのとおりである。船主特別給付金(321隻分)24億7606万3000円、抑留乗組員特別給付金(3796人分)11億1650万2000円、死亡者特別給付金(29人分)1億3050万円、障害者特別給付金(84人分)8580万円、合計38億886万5000円(3)認定もれとなった漁船は33隻である。また、死亡者・障害者に該当しないこととした者は52人である。(4)認定漁船中、枠内漁船でもれたもの10隻、枠外漁船で認定されたもの8隻である。」[60]

出典[編集]

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  51. ^ 山崎佳子「韓国政府による竹島領有根拠の創作 (PDF) 」 『第2期「竹島問題に関する調査研究」最終報告書(平成24年3月)』、島根県竹島問題研究会、2012年3月、 pp. 70.。
  52. ^ 藤井賢二「李承晩ライン宣言と韓国政府 (PDF) 」 『第2期「竹島問題に関する調査研究」最終報告書(平成24年3月)』、島根県竹島問題研究会、2012年3月、 pp. 91.。
  53. ^ 日韓基本条約の関係諸協定,漁業協定(日本国と大韓民国との間の漁業に関する協定)”. 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室. 2013年3月23日閲覧。
  54. ^ 大蔵省理財局外債課「船舶問題の経緯」1964年5月4日
  55. ^ 財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定(合意された議事録 2.協定第二条に関し(h) )1965年6月22日
  56. ^ 財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定(合意された議事録 2.協定第二条に関し(h) )1965年6月22日(昭和40年条約第27号)
  57. ^ 日韓漁業協議会「日韓漁業対策運動史」(2.拿捕損害補償額の検討-1.当初計算では76億円)1968年2月,P422-P423
  58. ^ 参議院外務委員会調査室「日韓基本条約及び諸協定に関する参考資料」(日本側のだ捕防止措置)1965年10月,P75-P76
  59. ^ 日韓漁業協議会『日韓漁業対策運動史』1968年2月,P435-P437
  60. ^ 日韓漁業協議会「日韓漁業対策運動史」(2.給付金交付と特別融資-1.五回に分けて拿捕船認定)1968年2月,P435-P437
  61. ^ 大平正芳『私の履歴書』(1978年)[1]
  62. ^ 「韓日国交正常化問題-韓日会談に関する宣伝資料 補完版一」1964(藤井賢二(島根県竹島問題研究顧問)『「李承晩ライン」で韓国が繰り広げたこと』(別冊正論「総復習『日韓併合』」収録)による)[2]
  63. ^ あれが港の灯だ KINENOTE

関連項目[編集]

外部リンク[編集]