李垠

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昌徳宮 李王 垠
Crown Prince of Korea Yi Un.jpg
1928年頃に撮影
続柄 高宗第七皇子
全名 李 垠(이 은)
身位 李王 →身位喪失
敬称 殿下 →身位喪失
出生 1897年10月20日
Flag of Korea (1882-1910).svg 大韓帝国 漢城徳寿宮
死去 1970年5月1日(満72歳没)
韓国の旗 韓国 ソウル昌徳宮 楽善斎
配偶者 方子女王梨本宮家)
子女 (早世)
父親 高宗
母親 純献貴妃 厳氏
役職 War flag of the Imperial Japanese Army.svg 大日本帝国陸軍(最終階級:中将)
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李 垠(り ぎん、이 은(イ ウン)、1897年10月20日 - 1970年5月1日)は、大韓帝国最後の皇太子で、日本の王族、李王。大韓帝国時代の称号は英親王李氏朝鮮第26代国王・初代大韓帝国皇帝高宗の第7男子。母は純献貴妃厳氏純宗の異母弟。妃は梨本宮守正王第一女子方子

生涯[ソースを編集]

李氏朝鮮(朝鮮国)が大韓帝国と改称した年に生まれ、純宗の即位のときに大韓帝国皇太子(懿愍皇太子)となった。幼少期に当時日韓併合による韓国および朝鮮半島一帯の統治を検討していた日本政府の招きで訪日し、学習院陸軍中央幼年学校を経て、陸軍士官学校で教育を受けた。

その後、1910年(明治43年)に行われた日韓併合によって、王世子となり、王族として日本の皇族に準じる待遇を受け、「殿下」の敬称を受ける。

李垠
李垠(1918年)
徳寿宮に公族。左から李垠、純宗高宗、不明(高宗の妃の一人)、徳恵翁主(1918年)
1916年8月3日東京朝日新聞の婚約報道

その後、1920年(大正9年)4月に日本の皇族の梨本宮守正王の第一王女・方子女王と結婚する。

陸軍大学校を卒業した頃の李夫妻(1923)
神戸港での 李垠(1928年4月9日)
参謀旅行中の李と妻の方子(1933)
軍服姿の李垠(1938年)

陸軍士官学校卒業後は大日本帝国陸軍に入り、その後歩兵第59連隊長、陸軍士官学校教官、近衛歩兵第2旅団長などを経て陸軍中将になる。

1945年(昭和20年)4月には、軍事参議官に補せられた。また1926年の純宗の薨去に伴い李王家を承継したが、第二次世界大戦の日本の敗戦後日本国憲法施行に伴う王公族制度廃止により李王の身位を喪失した。この日本の敗戦時、李垠は「どうかこれまでと同じ待遇を続けてもらえないか」と日本の内閣に哀願したという証言が残っている[1]

李夫妻の邸宅だった赤坂プリンスホテル

在日韓国人となった李垠・方子夫妻は帰国を試みるが、日本と大韓民国の間の国交は樹立されておらず、その上王政復古を疑う李承晩大統領の妨害などもあり帰国できなかった。

1959年(昭和34年)3月渡米中に脳梗塞で倒れ、5月に日本へと戻る[2]。1961年(昭和36年)、渡米途中に日本に立ち寄った朴正煕大統領と面談。翌年夫婦ともに韓国籍の回復の通知を受ける[2]

1963年(昭和38年)に日韓国交正常化交渉が始まると、同年11月夫婦ともに韓国へ渡るが病身であったため金浦空港からソウルの聖母病院へと直接運ばれた[2]。1970年(昭和45年)4月28日、結婚生活50周年の金婚式を病院で開くが、その3日後病院で死去した[2]。李垠は王への即位はなかったが、朴大統領の許可を経て王家の宗廟である永寧殿に「懿愍太子」の号で位牌がおさめられた[2]

家系[ソースを編集]

方子妃との間に2男。晋王世子の突然の夭折には日朝双方の暗殺説がある。

年譜[ソースを編集]

1907年、皇太子嘉仁親王(左:後の大正天皇)訪韓時、嘉仁親王・有栖川宮威仁親王(右)とともに
方子妃と共に(1924年)
  • 1897年(明治30年・光武元年)10月20日 - 出生
  • 1900年(明治33年・光武4年) - 英親王に冊封される。
  • 1907年(明治40年・光武11年)7月20日 - 大韓帝国の皇太子(懿愍皇太子)になる。
  • 1907年(明治40年・隆熙元年)12月 - 日本に留学し、伊藤博文らが扶育する。
  • 1908年(明治41年・隆熙2年)1月 - 学習院入学。
  • 1910年(明治43年) - 日韓併合によって大韓帝国が消滅したことに伴い、王世子となった。
  • 1911年(明治44年)9月 - 陸軍中央幼年学校予科入学。
  • 1913年(大正2年)9月 - 陸軍中央幼年学校本科入学。
  • 1915年(大正4年)6月 - 士官候補生。近衛歩兵第2連隊附。
  • 1917年(大正6年)
    • 5月25日 - 陸軍士官学校卒業(第29期)。
    • 12月25日 - 歩兵少尉に任官。
  • 1920年(大正9年)4月 - (梨本宮)方子女王と婚姻する。歩兵中尉に進級。
  • 1923年(大正12年)
  • 1924年(大正13年)12月 - 参謀本部附。
  • 1926年(大正15年)
    • 4月 - 李王(李家当主の地位)を継承し、李王垠となる。
    • 7月 - 参謀本部員兼朝鮮軍司令部附。
  • 1927年(昭和2年)
    • 4月10日 - 前李王一年祭のために京城へ出発。
    • 5月 - ヨーロッパ出張(フランス、スイス、イギリス、ベルギー、オランダ、ドイツ、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、ポーランドオーストリア、チェコスロバキア、イタリア、モナコ歴訪〜1928年4月9日帰国)
  • 1928年(昭和3年)8月 - 歩兵少佐に進級。近衛歩兵第2連隊大隊長。
  • 1929年(昭和4年)8月 - 歩兵第1連隊附。
  • 1930年(昭和5年)12月 - 教育総監部附。
  • 1932年(昭和7年)8月 - 歩兵中佐に進級。
  • 1933年(昭和8年)4月 - 教育総務課員。
  • 1934年(昭和9年)4月 - 王妃とともに京城訪問。朝鮮神宮で行われた郷軍全鮮大会に臨席。
  • 1935年(昭和10年)8月1日 - 歩兵大佐に進級。宇都宮歩兵第59連隊長。
  • 1937年(昭和12年)
    • 4月18日 - 王妃とともに朝鮮訪問(25日まで)。
    • 3月1日 - 陸軍士官学校教官。
    • 8月2日 - 陸軍予科士官学校教授部長
  • 1938年(昭和13年)
  • 1939年(昭和14年)1月〜 - 北支戦線の巡視。山西方面の太原、臨汾、運城。山東方面の済南、徐州、青島。
    • 2月、京漢線沿線の石家荘、新郷。
    • 3月、駐蒙軍方面の張家口、大同、包頭、厚和では徳王に謁見。
    • 3月末、東京に出張。
    • 4月、天津、青島、新郷を視察。
    • 5月、関東軍関係の視察。延吉、チチハル、阿城、南嶺、旅順、牡丹江。2日には溥儀に謁見。
    • 6月下旬〜7月上旬、北京経由で中支戦線の南京、漢口、蘇州、上海、呉淞、杭州を視察。
    • 7月2日・3日、青島へ出張。その後、熱河を視察。
    • 8月1日 - 近衛歩兵第2旅団長。
    • 10月 - 王妃とともに朝鮮訪問。北支方面からの凱旋を宗廟に報告。
  • 1940年(昭和15年)
  • 1941年(昭和16年)
    • 7月1日 - 第51師団長。
    • 8月12日 - 満州国の錦州へ動員。
    • 10月、南支戦線へ派遣。
    • 11月20日 - 広東より帰還。
    • 11月16日 - 教育総監部附。
    • 12月5日 - 朝鮮の京城を訪問。
  • 1942年(昭和17年)8月1日 - 第1航空軍附。
  • 1943年(昭和18年)7月20日 - 第1航空軍司令官。
  • 1945年(昭和20年)4月1日 - 軍事参議官
  • 1947年(昭和22年)
    • 5月3日 - 日本国憲法施行により身位喪失。
    • 10月18日 - 皇籍離脱により李垠となり日本国籍を喪失(無国籍)。
  • 1957年(昭和32年)
  • 1959年(昭和34年)
    • 3月16日 - 脳梗塞で倒れる。
    • 5月17日 - 日本へ帰国。
  • 1960年(昭和35年)
    • 6月6日 - 夫婦で渡米(ニューヨーク、8月6日帰国)。
  • 1961年(昭和36年)
    • 3月26日 - 夫婦でハワイ訪問(5月7日帰国)。
    • 8月3日 - 築地の聖路加病院に入院。
  • 1962年(昭和37年)
    • 12月15日 - 韓国政府より李垠夫妻に大韓民国国籍の回復が告示される。
  • 1963年(昭和38年)
    • 5月末、容体の悪化により赤坂の山王病院に入院。
    • 11月22日 - 韓国へ帰国。
  • 1970年(昭和45年)
    • 5月1日 - 死去、満73歳。

栄典[ソースを編集]

逸話[ソースを編集]

二・二六事件[ソースを編集]

1936年(昭和11年)の二・二六事件当時、李垠は宇都宮歩兵第59連隊長だったが、2月28日には連隊の一部である混成大隊を直率して上京した。29日0時半に新宿駅に到着した後、九段のホテルを接収して本部を構え反乱軍を鎮圧すべく対峙した[5]

第1航空軍司令官[ソースを編集]

各地の航空隊を視察する時は必ず現地の神社を参拝した[5]。1944年(昭和19年)7月26日には副官や参謀を伴って空母鳳翔に乗艦し、海軍の攻撃七〇八飛行隊(一式陸上攻撃機装備)や攻撃四〇五飛行隊(銀河装備)とともに合同で夜間雷撃訓練を行なっていた麾下の陸軍飛行九八戦隊(四式重爆撃機装備)を視察した。この部隊は後に海軍の指揮下で台湾沖航空戦に参加した[6]

系図[ソースを編集]

李垠の親類・近親・祖先の詳細


李垠を演じた俳優[ソースを編集]

関連文献[ソースを編集]

  • 『英親王李垠伝 李王朝最後の皇太子』 同伝記刊行会編、共栄書房、1978年/1988年/2001年
  • 本田節子 『朝鮮王朝最後の皇太子妃』 文藝春秋、1988年/文春文庫、1991年
  • 新城道彦『天皇の韓国併合 王公族の創設と帝国の葛藤』 2011年、法政大学出版局

脚注[ソースを編集]

  1. ^ 金泰勲 (2016年8月21日). “【コラム】映画『徳恵翁主』、韓国人の自尊心をくすぐる歴史「脚色」”. 朝鮮日報. http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/08/19/2016081902092.html 
  2. ^ a b c d e 新城道彦 『朝鮮王公族―帝国日本の準皇族』 中央公論新社、2015年ISBN 978-4121023094
  3. ^ 『官報』第1499号、「叙任及辞令」1931年12月28日。p.742
  4. ^ 日本政府에서 支那事變生存者 第37回 論功行賞(陸軍關係 第31回)이 발표된 바, 日本陸軍少將 李垠이 功三級의 金鵄勳章을 받다.国史編纂委員会
  5. ^ a b 浅見雅男『皇族と帝国陸海軍』2010年、文春新書
  6. ^ 神野正美『台湾沖航空戦―T攻撃部隊 陸海軍雷撃隊の死闘』2004年、光人社

関連項目[ソースを編集]


先代:
李坧(純宗)
李王
第2代:1926年 - 1947年
次代:
李玖(王世子・襲位せず)
先代:
純宗
全州李氏当主
第28代:1926年 - 1970年
次代:
李玖