広橋規子
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広橋 規子 (規子女王) | |
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広橋家 | |
1922年頃 | |
続柄 | 梨本宮守正王第2女子 |
全名 | 広橋 規子(ひろはし のりこ) |
身位 | 女王 →(皇籍離脱) |
敬称 | 殿下 →(皇籍離脱) |
出生 |
1907年4月27日 日本・東京府東京市麹町区 (現:東京都千代田区)梨本宮邸 |
死去 |
1985年8月25日(78歳没) 日本・東京都新宿区、東京女子医科大学病院 |
配偶者 | 広橋真光 |
子女 |
広橋樹勢子 広橋万僖子 広橋興光 広橋儀光 |
父親 | 梨本宮守正王 |
母親 | 守正王妃伊都子 |
栄典 |
勲二等宝冠章 |
役職 | 大日本婦人会渋谷支部長 |
広橋 規子(ひろはし のりこ、1907年〈明治40年〉4月27日 - 1985年〈昭和60年〉8月25日)は、日本の元皇族。梨本宮守正王と同妃伊都子の第2王女子。広橋真光伯爵の妻。旧名は、規子女王(のりこじょおう)。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。姉は、李方子。香淳皇后は従姉にあたる。
生涯
[編集]1907年(明治40年)4月27日、梨本宮守正王と同妃伊都子の第2王女子(第2子)として誕生。乳児期から落ち着いた様子であったという[1]。
1925年(大正14年)7月、山階宮武彦王と同年秋にも結婚すると発表され、規子女王は学習院を退学した[2]。内約中は、武彦王が創設した御国航空練習所を訪問し、強い関心を示した[3]。しかし、武彦王は前妃を関東大震災で失って以降、神経衰弱を発病しており、まだ10代と若い規子女王への配慮[4]から、翌1926年(大正15年)年7月に婚約を辞退すると発表があり[5]、8月に正式に破談となった。
1926年(大正15年)12月2日、広橋真光伯爵に降嫁した[6]。その後は、慈善活動を行った[7]。戦中は大日本婦人会の渋谷支部長[8]として活動していた。
1985年(昭和60年)8月25日、脳腫瘍のため、東京女子医科大学病院にて逝去した[9]。
栄典
[編集]脚注
[編集]- ^ 中村秋人『名媛と筆蹟』博文館、1909年12月。全国書誌番号:40071861。 p.54
- ^ 1925年7月11日読売新聞「空の宮の御婚儀 梨本宮規子女王と十月中旬に 御結婚後は御留學か」
- ^ 1925年5月2日朝日新聞「御婚約の宮と御同伴で きのふ規子女王の立川御見學 空の宮様に劣らぬ御熱心ぶり」
- ^ 1926年8月6日読売新聞「山階宮武彦王殿下御婚約御解除を発表」
- ^ 1926年7月25日読売新聞「山階宮武彦王 御結婚を御辭退」
- ^ 大正15年宮内省告示第29号(『官報』第4284号、大正15年12月3日)(NDLJP:2956434)
- ^ 1930年11月23日朝日新聞(夕刊)「各宮妃殿下お成りの、市冬季失業救済バザー」
- ^ 1942年11月5日朝日新聞「一〇〇万超える会員 あす日婦支部の結束強化大会」
- ^ 1985年8月7日読売新聞「(訃報欄)広橋規子さん」
- ^ 『官報』第4280号、「叙任及辞令」大正15年11月29日(NDLJP:2956430/4)