デイモン・ヒル

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デイモン・ヒル
基本情報
フルネーム デイモン・グラハム・デベリュー・ヒル
国籍 イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド
出身地 同・ロンドンハンプステッド
生年月日 (1960-09-17) 1960年9月17日(63歳)
F1での経歴
活動時期 1992-1999
所属チーム '92 ブラバム
'93-'96 ウィリアムズ
'97 アロウズ
'98-'99 ジョーダン
出走回数 115
タイトル 1(1996)
優勝回数 22
表彰台(3位以内)回数 42
通算獲得ポイント 360
ポールポジション 20
ファステストラップ 19
初戦 1992年スペインGP
初勝利 1993年ハンガリーGP
最終勝利 1998年ベルギーGP
最終戦 1999年日本GP
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デイモン・グラハム・デベリュー・ヒル OBEDamon Graham Devereux Hill, 1960年9月17日 - )は、イギリス人の元F1ドライバー。「デーモン・ヒル」と表記される事もある。

1996年F1ワールドチャンピオン。1960年代に2度のチャンピオンを獲得したグラハム・ヒルの息子。2006年にブリティッシュ・レーシング・ドライバーズ・クラブ (BRDC) 会長に就任し、2011年8月末まで同職を勤めた。

プロフィール

生い立ち

父親のグラハム・ヒル

父であるグラハムがレーサーとしての才能を開花し始めた1960年に誕生したという事もあり、少年時代までは平穏な生活を送っていた。

ところが、1975年にグラハムがエンバシー・ヒルのチームクルーと共に軽飛行機事故で死亡。このとき保険に加入していなかったことで、同乗者への補償金支払いのために貧しい青年時代を過ごすことになった。音楽の道に進もうとした時期もあったが、やがて父と同じくモータースポーツを選び、バイク便のアルバイトをしながら二輪レースに参加した。

レースデビュー

1980年から1984年までは2輪レースに専念し、1984年にはブランズハッチの二輪レース、クラブマンカップ350ccクラスのタイトルを獲得した。1983年にはフォーミュラ・フォード2200にテスト参戦し、23歳で4輪レースデビューした。1985年には本格的に4輪レースへ転向し、フォーミュラ・フォード1600に参戦した。1986年から1988年まではイギリスF3に参戦し、1988年にはシリーズ3位を獲得している。

F3000/ル・マン

1988年はベネトンのF1テストドライブを経験し、シーズン終盤には国際F3000選手権にデビューし、1991年まで参戦した。1989年はシーズン途中より片山右京に代わりムーンクラフトシャシーを使用するフットワークチームから参戦したが、マシンの戦闘力が低く目立った成績は残せなかった。

しかし1990年にはミドルブリッジのローラポールポジション3回、ファステストラップ2回を獲得し、5戦でレースをリードするなど活躍したが、勝利を挙げることはできなかった。1991年にはエディ・ジョーダン・レーシングより参戦した。1989年にはル・マン24時間レースにも参戦した。

ウィリアムズ加入とF1デビュー

ヒルがF1デビューしたブラバム・BT60B

1991年にF1の名門チームウィリアムズにテストドライバーとして起用された。前任者のマーク・ブランデルブラバムに加入することを小耳に挟み、クリスマスの日にダメもとでテクニカル・ディレクターのパトリック・ヘッドに電話をかけたところ採用されることになった。

ウィリアムズで開発作業をこなしつつ、1992年スペインGPでジョバンナ・アマティに替わりブラバムからF1に初めてエントリーした。しかしブラバムは既にチームの存続自体が危ぶまれていた状態でマシンも競争力に欠けており、多くのレースで予選落ちを重ねた。母国のイギリスGPで初めて予選を通過し決勝レースに出走(記録上のF1デビュー)し完走した。その後ハンガリーGPでも予選に通過し、決勝レース出走を果たした。そのハンガリーGPをもって、かつて父グラハムも所属した名門ブラバムはF1から撤退、デイモンもこの年のレース出場を果たす機会は訪れずに終わった。

1993年、前年まで在籍していたナイジェル・マンセルリカルド・パトレーゼがウィリアムズを離脱。チームはアラン・プロストを招聘する一方、ヒルをテストドライバーからレギュラーに昇格させた[注 1]。経験不足ながらも大抜擢に応え、3度のワールドチャンピオンを相手に速さを見せた。プロストの地元フランスGPで初ポールポジションを獲得。続く母国イギリスGPではスタートから首位を快走したが、エンジントラブルでリタイア。ドイツGPでも残り3周でタイヤバーストで涙を呑む。しかし、第11戦ハンガリーGPでは2位以下を1分以上引き離してトップチェッカーを受け、F1参戦19戦目(レースは13戦目)にして初優勝を達成した。これを皮切りにベルギーGPイタリアGPと3連勝し、この時点ではチャンピオン獲得の可能性が浮上した。ポルトガルGPでもポールポジションを獲得したが、フォーメーションラップにスタートできず最後尾にまわり好機を逸した。年間ランキングはプロスト、セナに続く3位で終えている。

チャンピオン候補

カナダGPにてウィリアムズFW17・ルノーを駆るヒル(1995年)

1994年、アラン・プロストと入れ替わりにエース・ドライバーとなったアイルトン・セナとともにウィリアムズから継続参戦。しかし、サンマリノGPでのセナの事故死により、ヒルは唐突にエース・ドライバーになった。マシン性能はベネトンに劣ったものの、ミハエル・シューマッハの危険行為による出場停止もあって6勝をもぎ取り、最終戦直前では1点差まで追いつく。

最終戦オーストラリアGP、シューマッハが優勝、もしくは両者リタイアしノーポイントになればシューマッハがワールドチャンピオンというこのレースは、スタートでポールシッターのマンセルがホイールスピンにより出遅れ、シューマッハがトップに立つ。マンセルはさらに5位まで順位を落とし、シューマッハ、ヒル、ハッキネン、バリチェロ、マンセルの順でオープニングラップを終えた。シューマッハは得意の先行逃げ切りを図るが、ヒルも遅れることなく追走し、先頭の2台がファステストラップを出し合いながら3位以下を引き離す展開となった。。しかし、ヒルに追われて焦ったシューマッハがコースアウト、その後シューマッハは無理やりコースに戻りヒルをブロックすべくサイドバイサイドになる。次の右コーナーでヒルがシューマッハのインを突くが、シューマッハはアウトから被せる。両者激突し、シューマッハは車体の右半分が浮き上がりコントロールを失い、そのままコース脇のタイヤバリアに直行し、激突。ヒルも左フロントサスペンションを破損、スローペースでピットへ戻るがそこでストップ。この結果2人ともリタイアし、初のワールドチャンピオンをシューマッハに奪われたが、のちにシューマッハは激しい非難を受けることとなる。

1995年は4勝7ポールポジションを獲得したが、決勝ではマシントラブルや他マシンとの接触、自分自身とチーム戦略のミスなどが重なり、ポイントを取れない展開となった。スペインGPではゴール直前リタイア(結果は完走扱いの4位)。モナコGPでは桜井淑敏をもってして「プロストをも凌ぐ」という走りで[3]ポールポジションを獲得するも、決勝では1ストップ作戦をとったシューマッハに逆転負けで2位。イギリスGPイタリアGPではチャンピオン争いをしているシューマッハと接触。ドイツGPヨーロッパGP日本GPでは単独スピンでリタイア(ドイツはパトリック・ヘッドが「原因はリアのジョイント磨耗」と発表)。後半戦はサスペンションを改良したFW17Bを投入するも、チームメイトのデビッド・クルサードに4戦連続ポールポジションを奪われる場面もあり、最終的にはシューマッハの2年連続チャンピオン獲得を阻止できなかった。

チャンピオン獲得

ヒルをチャンピオンに導いたウィリアムズ・FW18

1996年は前年のCARTチャンピオンで「驚異の新人」と言われたジャック・ヴィルヌーヴが加入し、奇しくも「2世ドライバー」同士にしてチームメイト同士のチャンピオン争いとなった。ヒルは開幕戦オーストラリアGPからの3連勝など前半9戦中6勝してポイントをリードしたが、後半戦はヴィルヌーヴの猛追にあい、タイトル争いは最終戦の日本GPまでもつれ込んだ。

ヴィルヌーヴが全日本F3選手権時代から走り慣れている鈴鹿サーキットで行われる日本GPで、ヒルは予選2位ながらスタート時にポールポジションのヴィルヌーヴをかわして先頭に立ち、一度も先頭を譲らない完勝で初のワールドチャンピオンを獲得した。「イギリスで勝ったことより96年最終戦の鈴鹿での勝利が一番嬉しかった」と喜びを語っている。親子2代でワールドチャンピオンを獲得した史上初の例であり、2015年シーズン終了現在でも唯一の例である。

しかし、この年のイタリアGP直前、8月26日にヒルはチームから次シーズンの契約を行わないことを通告されている。これは、1997年でルノーエンジンとの契約を終了することが決定していたウィリアムズが、BMWエンジン獲得のためにドイツ人ドライバーとの契約を必要としていた事が遠因にある[注 2]

このヒル解雇劇は彼の盟友であったチーフデザイナーのエイドリアン・ニューウェイを激怒させ、この一件がニューウェイのマクラーレンへの移籍の理由の一つとも言われており[4]、デイモンを慕っていた数人のスタッフも離脱する事態となった[5] 。またヒルの放出については、後年フランク・ウィリアムズ自身が「あれは大きな失敗だったな」と認める発言をしている[6]

アロウズへの移籍

アロウズ・ヤマハをドライブするヒル(1997年ハンガリーGP

翌1997年、トム・ウォーキンショーが買収したアロウズに誘われ移籍。フランク・ダーニーが設計したシャーシA18ヤマハV10エンジンは信頼性が低く、開幕戦のオーストラリアGPではあわや予選落ちの危機に立たされ[注 3]、決勝ではフォーメーションラップ中にマシントラブルでリタイアの憂き目にあう。第2戦ブラジルGPでは予選9位を獲得し、決勝では一時期はシューマッハを従え4位を走っていたが、残り4周でリタイヤした(結果は完走扱いの17位)。その後も第6戦のスペインGPまでリタイヤが続き、マシンがまともに走らない間、ヒルはモチベーションを失っていた[8]

5月10日付けでフェラーリから移籍したジョン・バーナードがテクニカル・ディレクターに就任し、テストの方向性を決めてから、A18の信頼性もあがっていた[8]。ヒルも第7戦カナダGPでチームメイトのペドロ・ディニスと共に完走してから、第9戦イギリスGPで6位入賞と初ポイントを獲得した。

第11戦ハンガリーGPでは一人だけブリヂストンのタイヤの性能を生かし、予選3位を獲得、決勝では、序盤でグッドイヤータイヤの性能劣化に苦しむミハエル・シューマッハを1コーナーでパスし、そのままトップを快走。レース終盤にギヤボックストラブルで失速し、ファイナルラップでジャック・ヴィルヌーヴに抜かれ、優勝は逃したものの2位に入った。

最終戦ヨーロッパGPではトップと0.058秒差の予選4位に入った。このとき、上位の3台は全くの同一タイムであり、ヒルは「前を走っていた(片山)右京がスピンをしなければポールポジションを取れた」と語っている。

現役最後の勝利、引退へ

ジョーダン・199をドライブするヒル(1999年イギリスグランプリ)

1998年ジョーダン無限ホンダに移籍。前半戦は苦戦を強いられたものの、雨の波乱含みのベルギーGPでジョーダンに初勝利をもたらした。これはヒル本人にとって現役最後の勝利であり、また、ウィリアムズ以外のチームで挙げた唯一の勝利でもあった。後半戦はコンスタントにポイントを獲得し、最終戦日本GPでチームをコンストラクターズ4位に導いた。

1999年は新規定のタイヤの扱いに苦戦し、成績もチームメイトのハインツ=ハラルド・フレンツェンに圧倒された(予選2勝14敗、ポイント7対54)。カナダGP後に今季限りでの引退を表明したが、チームオーナーのエディ・ジョーダンは「シーズン途中での引退の可能性」を示唆[9]。地元のイギリスGPが最後のレースとなると報道され、チームも後釜としてニック・ハイドフェルド中野信治ヨス・フェルスタッペンを検討していたが[9]、イギリスGP後に最終戦までの現役続行を表明した。引退レースとなった日本GPは戦意喪失による「レース棄権」で終えることになった。

その後

引退後はBMWのディーラー経営と、メンテナンスを含むスーパーカーのレンタルを行う会員制クラブ、P1インターナショナルを主催し悠々自適な隠居生活を送っている。

現役時代にサポートを受けていたブリティッシュ・テレコム(正式には後にスペインの大手通信会社テレフォニカに買収された携帯部門O2の前身BTセルネット)の支援を受け、ミナルディの買収、トヨタのチーム代表に就任するという憶測が流れたこともあるが、噂の域で終わっている。

2005年にはF3000に代わる新シリーズGP2のエンジン供給先であるルノー・スポールからのテスト走行を依頼され、F1時代を彷彿させる勇姿を見せた。

2006年の4月末、イギリスGPのマネジメントを行うブリティッシュ・レーシング・ドライバーズ・クラブ (BRDC) は次期会長選挙を実施し、ヒルをジャッキー・スチュワートに代わり会長に選出。会長就任の5年間にシルバーストン・サーキットの近代化や、同サーキットにおける17年間のイギリスGP開催契約締結の実績を残している。また同年、6月にロンドンで開催されたブリティッシュ・モーターショーにおいて、前年度のチャンピオンマシンであるルノーR25のデモランを担当し、出席したトニー・ブレア首相とも握手を交わした。

2011年、8月25日に開催されるBRDCの年次総会で会長職を退任。退任の理由について「家族や自分の関心事、息子ジョシュのレーシング・キャリアにもっと時間をかける正しいタイミングだ」を語っており[10]、後任にはデレック・ワーウィックが選出された。新会長に就任したワーウィックは前任者のヒルに「まずは会長として活動する中でBRDCに対する忠誠と献身を発揮したデイモンに感謝を述べたい。数々の困難を抱えたにもかかわらず、われわれを導き、最終的には成果を納めてくれた。私の目標はデイモンが去ったところから継続することだ」 と今までの労をねぎらった[11]

2012年7月、デイモンが古巣ウィリアムズの新代表になるとのうわさが流れたが、同チームの共同オーナーであるトト・ウォルフはこの件を否定した[12]。また同年、1862年に設立したスイスの名門ブランド「CYMA(シーマ)」のアンバサダーに就任した[13]

ドライビングスタイル

F1デビュー当時は下位カテゴリーの成績が平凡だった上に31歳とすでにベテランの年齢だったため、期待される存在ではなかった。ウィリアムズ在籍時には「ヒルの成績はトップチームであるウィリアムズのマシンパワーのおかげ」とする声も少なくなかった。ミハエル・シューマッハはヒルのドライバーとしての評価について「カート経験者との差を感じたね。いざバトルとなると、デイモンはいつもどこか自信がないようだった。私は相手を限界ギリギリまで追い込むのが得意だったが、彼は明らかにそういう状況が苦手だった」と語っている[14](しかしシューマッハのこの発言は、ワールドチャンピオンを数度にわたり争ったものの負けたこともあるライバルの発言であることから割り引く必要がある)。

しかし、ウィリアムズを離れた後のアロウズやジョーダンといった中堅チームでも、時に上位陣を食う印象的な走りをしたことから、そういった過小評価は覆されていった。アロウズ時代のチームメイト、ペドロ・ディニスも「デイモンから学んだことは多かった」と述べ、ヒルからの影響を認めている。また、鈴木亜久里は、かつて自らがドライブしていたマシンに初めて乗ったヒルがいきなり好走を見せたことから、ヒルのドライバーとしての能力を見直し、後のテレビ解説などでヒルを擁護する発言が目立つようになった。

ウィリアムズのテストドライバー時代にはアクティブサスペンションの熟成を担当し、ナイジェル・マンセルやアラン・プロストのチャンピオン獲得にも貢献している。プロストは「デイモンは、マシンを仕上げてゆくという面で、非常に優れたドライバーだ。そういうドライバーは、F1にもほとんどいないと言っていい」と賞賛している[15]。プロストとチームメイトであった1993年には、自分と同じセッティングで走っていたプロストのハンドル操作が極めて少ない(タイヤを痛めない)ことをデータから知り、プロストの走法を研究するようになったと言われている。それゆえ第2期ルノーF1の開発責任者であるベルナール・デュドによると、「デイモンのドライビングスタイルは、他のだれよりもアラン・プロストに近い。とても滑らかで、丁寧だ。エンジンの使い方も適切で、決してアクセルを乱暴に何度も踏んだりすることはしない。ヒルのスタイルは華々しさは全く持っていない。だが効率的なことは確かだ」と語っている[16]

パトリック・ヘッドはヒルについて、「デイモンはマシンを分析するのが、とても上手い。(中略)そしてそれ以上に、彼はものすごく速いんだ。これは本当さ。だったらジャック・ヴィルヌーヴにデイモンの速さについて聞いてみるといい」と語り、また「普通のドライバーは、レース中に集中するために無線であまり話をしたりはしない。でもデイモンは、静かにしなくても集中できるようで、いつも我々と話をしてくる。(中略)でも、これは彼がドライビングをしながらもリラックスできている証拠だし、ハードプッシュしているときでもマシンの状態を感じ取れているということの表れなんだ。これは本当にまれな資質だよ」評している[17]

タイヤに優しいドライバーでもある。94年の日本GPではトラブルのためタイヤ交換が3本しかできず、大雨のトリッキーなコンディションで他のドライバーがスピン、リタイアする中、交換出来なかった1本が磨耗しきった状態で2ヒート制のレースを走り切り、優勝している(ヒル本人はレース中4本全て交換したと思っており、この事実をレース後に聞かされた)。

ブリヂストンの浜島裕英モータースポーツタイヤ開発部長もトラクションの掛け方の的確さを賞賛していた[18]。また、アライヘルメットの福田毅によると「例えばヘルメットの内装は、それぞれの人間に合わせて作るカスタムフィットなのですが、どうしても誤差が出てしまう。ほとんどのドライバーはその誤差に気付かないんですが、ヒルだけはその指摘ができるんですよ。そんな指摘ができるのは世界で彼だけでしょうね。ヘルメットつくりから見ると彼の開発能力は非常に優れていて、やっぱチャンピオンになる人間は違うなというのが率直な意見です」と述べている[19]

アクセルワークに関しては、1996年に鈴鹿サーキットで行ったブリヂストンのタイヤテスト(TWRから提供されていた1995年型リジェJS41を使用)に同伴していた無限のエンジニアは、エンジンブレーキの使い方がうまかったと証言している。別件でその場に居合わせていた星野一義は、数周乗っただけでマシン・タイヤの特性を把握し好タイムを連発した走りを見て、「さすがワールドチャンピオンをとっただけのことはある」と語っていた。

他のドライバーとの関係

  • 名付け親は父グラハムと同年代ドライバーのジョー・ボニエ
  • スターリング・モスとは誕生日が同じである。また父グラハムとフィル・ヒルは “ヒル”という同じ苗字のため仲が良かったようで、デイモンは一時期フィル・ヒルの自宅にホームステイした経験がある。
  • どのチームメイトとも良好な関係を築いており、ミカ・ハッキネンと並び人格的にバランスの取れたナイスガイであった。また、ウィリアムズの広報だったアン・ブラッドショーによれば、素顔のデイモンは父グラハム似のひょうきんな性格だという。
  • プロストのような滑らかな走行が目標であると公言しており、引退していたプロストが1995年にマクラーレンのテストに参加した際、「僕はプロストファン(Je suis Prostophile)」と復帰を願う発言をしてフランスのスポーツ新聞「レキップ」の見出しを飾った。またプロスト自身も「93年から同じチームで戦って以来、ヒルの大ファン」と語っている[20]
  • しかし、その一方で、多くのイギリス人ドライバーの例に漏れず、マンセルは憧れの存在であり、マンセルは93年シーズン、デイモンを自身の後任に強く推薦した。デイモンは「このことは一生忘れない。ずっと感謝し続けるだろう」と感謝の言葉を述べている[21]
  • 1994年、セナ亡きあとのウィリアムズでデイモンがマシンのあるセットアップについてチームに進言していたのに無視され続けた。フランスGPにスポット参戦したマンセルが同じ点に気づいて「何でデイモンの言う通りにしないんだ!早くしろ!」と一喝した。結果、デイモンはこのレースでシーズン初のポールポジションを獲得した。
  • ファン・パブロ・モントーヤのファンであることも公言している。
  • 1996年の日本GPで優勝しタイトルを決めたとき、3位入賞したハッキネンに「君にも同じ日が来る」と一言。2年後、ハッキネンは最終戦、同じ日本GPで優勝して初のチャンピオンを決めた。その場でヒルは「ミカのタイトルは、まだ最初の一歩に過ぎない。彼はこれから何度もチャンピオンに輝く力を持っている」と賞賛している[22]
  • 94年5月5日のセナの葬儀に参列した。また、いわゆる「アイルトン・セナ裁判」に出廷し証言した。セナの事故死については後年、「多くの人が彼はミスをしないというが、私はそれが分からない。冷えたタイヤで走り、多くのミスを犯した。」と英オートスポーツ紙のインタビューで語っている。
  • 1994年のドイツGPでは片山右京を抜こうとして接触し、レース後の記者会見で不満を述べた。しかし、同席していた片山に「だって君遅いんだもん」と言われ相手にされなかった。ただし後年は「デイモンはその後、腕を磨いたと思う」と感じるようになり、特にチャンピオンを取った後にアロウズに移籍したころは「こんなに良いドライバーだったんだ…と驚いた」と率直に語っている[23]

シューマッハとの関係

ミハエル・シューマッハは1994年、1995年にチャンピオンを争ったライバルであり、接触による相討ちなど因縁を残している。他方、1998年には弟のラルフ・シューマッハとコンビを組んでいる。

1993年
日本GPでシューマッハが追突し、ヒルは4位入賞、シューマッハはリタイアに終わっている。
1994年
イギリスGPで、フォーメーション・ラップ中にシューマッハ(予選2位)はヒル(予選1位)を追い越し、失格となる。ヒルはこのレースで優勝。
ベルギーGPではシューマッハが先頭でゴールしヒルが続いた。しかしシューマッハは表彰式終了後に車両規定違反により失格となり、ヒルが繰り上げで優勝となった。
イタリアGPとポルトガルGPは、シューマッハが出場停止処分で出走しなかった。このふたつのレースを制したのが、またもヒルであった。
激しい雨による赤旗中断で2ヒート制となった日本GPは、実質的に順位ではなくタイムを競うレースとなった。再スタート後、ウェットコンディションの中最後までシューマッハを近づけずに走り切ったヒルが優勝し、シューマッハは2位に終わった。このレースで、ヒルはファステストラップを記録した。こうして、序盤シューマッハの独走と思われたチャンピオンシップは、予想外にも1ポイント差で最終戦までもつれることになった。
最終戦であるオーストラリアGPで、シューマッハとヒルは接触してともにリタイア、シューマッハは年間王者となる。このレースは、1997年ヨーロッパGPでのヴィルヌーヴとの接触とともに、シューマッハの経歴に大きな汚点を残すこととなる。
この年、セナ死去後シューマッハは実質的なライバルがヒルになった時点から、ヒルに対し徐々に辛辣な態度を取るようになる。ヨーロッパGPの朝食時に一旦互いに和解をするも、オーストラリアGPの接触で対立は決定的となった。
1995年
イギリスGPにおいて、ラップタイムで上回る2位のヒルが首位のシューマッハを追い越そうとするが、プライオリー・コーナーで接触してともにリタイア。両者ともに、はっきりとした不快感を表す。
雨となったベルギーGPでは、ピットストップで順位が入れ替わる中、やはりラップタイムで上回る2位のヒルが首位のシューマッハを追い越そうとして接触、最終的にシューマッハが優勝、ヒルが2位となった。シューマッハは、ヒルに対する危険な行為を行ったとして4戦の執行猶予付き1レース出場停止処分を受ける。
イタリアGPでは4位走行中、周回遅れの井上隆智穂を処理する際に3位走行中のシューマッハに追突。ともにリタイアに終わっている。このとき、シューマッハは掴み掛からんばかりの勢いでヒルに詰め寄った。このレース後、今度はヒルが執行猶予付きの1レース出場停止処分を受けた。
パシフィックGPでシューマッハは年間総合優勝を決定するが、それでも表彰式後のインタビューで「(スタート直後に進路を阻まれたことについて)ヒルは僕を追い出そうとした」と発言した。
1997年
日本GPで、首位のシューマッハを周回遅れだったヒルが、約一周にわたってブロックした。シューマッハは、ヒルを抜く際に手を挙げて怒りを露わにした。(しかし、すぐ後ろを走っていた2位のフレンツェンには、すんなり進路を譲っている。また、ヒルに対するペナルティも出されていない)。
1998年
カナダGPにおいて、シューマッハとヒルはトラック上でバトルを演じる。「パスさせないよう危険な運転をした」としてシューマッハはヒルを非難。ヒルは「2位を争っていたのだから、簡単にパスさせたりはしない。それに、危険な運転とはフレンツェンを追い出した誰かさんのようなことを言うものだ」と応じた(同じレースでシューマッハが、ピットアウト直後に後方から迫っていたハインツ=ハラルド・フレンツェンのラインを塞ぎ、コースアウトさせリタイアに追い込んだことを指す)。また、シューマッハにとっては逆転チャンピオンの掛かった最終戦日本GPでは、トラブルから最後尾スタートとなり怒涛の追い上げを見せるシューマッハを、同一周回で走っていたヒルが長い間先行させず、コーナーでは車1台分を空けながら抜かせない絶妙な走りを見せた。
1999年
イギリスGP終了後、同GPでクラッシュしたシューマッハをジョージー夫人と一緒に、見舞いに訪れている。[24]
2000年
2000年2月号の「F1 Racing」誌(日本版)で、ヒルが同誌の1日編集長となった。シューマッハへのインタビューも行い、その記事が掲載された[25]
2010年
2010年5月、モナコGPのスチュワードにドライバーの代表と加わったヒルは同GPのファイナルラップ、セーフティーカー先導終了直後にフェルナンド・アロンソをオーバーテイクしたシューマッハに20秒加算のペナルティを科し、また、さらに悪質と思われる、コース上でリタイアした時にレーシングラインにステアリングを放り投げて走行中のマシンに当たりそうになり、あわや事故発生の行為を行ったルーベンス・バリチェロに対してはノーペナルティという不可解な判定を行い、レース終了後、多数の抗議の手紙を受け取った。この一連の騒動は「オーバーテイク・ゲート」と呼ばれ、シューマッハへのペナルティ自体はFIAのルールの解釈の冗長度は認められるもののルールにのっとって下されたものだが、一部メディアは1994年と1995年にシューマッハとチャンピオンシップを争ったライバルであったヒルがモナコGPのスチュワードを務めていたことを皮肉った[26]
後日、Daily Expressのインタビューでヒルは「ミハエルが関係している事件を判定するように頼まれたので、多少、不自由ではあった。彼がスチュワードルームに入ってきたときに皮肉っぽい笑みを浮かべていたのは確かだ」、「大部分の人々が、私が完全に適切で正しい裁定を下したと言っているのを信じてくれることはわかっているが、すでに何通か先入観で私を非難する辛辣なメールを受け取っている。おそらく、ドライバーはスチュワードとしてよりも、むしろスチュワードのコンサルタントとして働く方が適切かもしれない」と語っている[27]

エピソード

人物像

  • 性格や立ち振る舞いが「身近な」「親しめる」「代表的な」イギリス人ドライバーとして、イギリスで愛されイギリス国民の評判も良かった(同じくイギリス人ドライバーであるナイジェル・マンセルは、イギリス国民が思うイギリス人ではなかったらしい[要出典])。
  • 大の甘党である。寿司も大好物。デイモンがワールドチャンピオンを獲得した1996年のシーズンを記録したドキュメンタリービデオ『デイモン・ヒル F1GP '96ワールドチャンピオン ~栄光への軌跡~』では、デイモンが醤油をつけずに寿司を食べる姿を見ることができる。ローストビーフも好物である。
  • 1993年に初優勝したとき、緊張のあまり表彰台で観衆に向かってお辞儀をしてしまった(デイモン・ヒル著「Grand Prix Year」より)。
  • 小柄な選手が多いF1ドライバーとしては長身 (182cm) で、足のサイズも大きい (29cm) 。そのため、1997年に移籍したアロウズではモノコックを当初の設計から一部変更した。 もっともウィリアムズ時代からモノコックとのフィッティングには苦労しており、96年型のFW18でやっと完璧なドライビングポジションを取ることができたという[28]
  • 血液型はRh+O型。

家族

ヒルが使用したヘルメット
  • 父:グラハム 母:ベティ 姉妹:ブリジット、サマンサ
  • 妻:ジョージー(スーザンマリー)、子:オリバー、ジョシュ、タビサ、ロジー、ペット:犬3匹、猫1匹[29]
  • ヘルメットのデザインは父グラハムのシンボルを受け継いでいる。黒地に入る白いラインは元ボート選手だったグラハムがオールをイメージして入れたものである。
  • 少年時代はレースは日常生活の一部であり、父親の仕事という意識しかなかったという[30]。レースに興味を持ち始めたのは、父が現役引退してチーム運営に専念するようになってからだった[30]。レーサーとしての駆け出し時代は「グラハムの息子」として注目され続けたことが辛く、「今は十分満足しているけど、もしできることならあの頃に戻って、違う名前でやり直してみたい」と語っている[30]
  • 長男がダウン症のため、夫婦そろって慈善活動には積極的である。1999年のイギリスGPで売り上げたヒルブランドの売上全額を寄付した。
  • 次男ジョシュア・ヒル(ジョシュ)はヒル家3世代目のレーサーとなっている。2008年BTCCの前座レース、ジネッタ・ジュニア・シリーズに参戦。初参戦ながらもポールポジション、ファステスト・ラップを記録し、上位に食い込む活躍をみせ、同選手権を3位で終了。翌2009年から2年間フォーミュラ・フォードに参戦し、2010年は5勝し同選手権5位で終了。2011年からフォーミュラ・ルノーイギリス選手権に参戦。デイモンは息子のレースデビュー時に以下のように答えている。「彼がどの程度成長するかについて大げさに言うつもりはない。単に試しにやっているだけだ」[31]。ジョシュアは2013年7月9日をもってモーターレーシングから引退を発表、今後は音楽の道へ進むという。

音楽

  • 若い頃は「セックス・ヒトラー・アンド・ホルモンズ」というパンクロック・バンドをやっていた。ジョーダン・チームのオーナーであるエディ・ジョーダンとは、よくイベントで一緒に演奏していたようである。ギターの腕はプロ級で、親交のあるイギリスHRバンドデフ・レパードの1999年発売のアルバム『Euphoria』に収録されている「Demolition Man」では、彼のギターソロを聴く事ができる。
  • 音楽関係者との交友が多く、ヒルと顔がそっくりと云われた元ビートルズの故ジョージ・ハリスンとの仲の良さは特に有名である。ハリスンは応援に駆けつけた1995年のオーストラリアGP終了後、親友デイモンが優勝して上機嫌だったのか『ビートルズ・アンソロジー』の発売を公式発表の前に思わず漏らしてしまった。また、マーティン・スコセッシ監督が務めたハリスンの58年の生涯を振り返るドキュメンタリー映画『ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』ブルーレイ&DVD(2011年12月23日発売)の映像特典の中にデイモンのジョージについて語ったインタビューが収録されている)[32]。ジョージ・ハリスンの没後、ジョージの愛車であったマクラーレン・F1を譲り受け、現在もガレージで保管している。
  • 1995年のポルトガルGPにはミック・ジャガーが陣中見舞いに訪れ、1997年はロン・ウッドの誕生日にも招かれた[33]

記録

ウィリアムズ・FW15C ルノー カーナンバー0であることに注目(1993年)
  • 1992年チャンピオンのマンセルと、1993年チャンピオンのプロストがそれぞれウィリアムズでタイトルを獲得して離脱してしまったため、カーナンバー1を付ける選手が不在の1993年と1994年に、ヒルはカーナンバー0を付けていた。ヒルの他にF1でカーナンバー0を付けたドライバーの例は、1973年のカナダGPとアメリカGPジョディー・シェクター(当時マクラーレン)のみである。シェクターもヒルと同様に後にタイトルを獲得している。なお、シェクターは前述の2レースともリタイアしたため、カーナンバー0で入賞や優勝を記録したのはヒルのみとなっている。
  • アデレードメルボルンで行われた両方のオーストラリアGPを制した唯一のドライバーである。また、1995年最終戦と1996年開幕戦の2戦連続で同一GP(オーストラリアGP)を優勝するという珍記録を残している。
  • 初優勝した1993年のハンガリーGPで、親子2世共に優勝を果たしたF1史上初の快挙となる。
  • モナコ・マイスターと呼ばれた父グラハムに対し、デイモンはモナコGPで1勝もあげることが出来なかった。1996年には、トップを独走しながらエンジンブローで好機を逸した。

その他

  • 1992年当時、ブラバムに聖飢魔IIがスポンサーとしてついていたが、そのことについてデーモン小暮閣下曰く、「ドライバーが“デーモン”ヒルだから」と笑っていいともテレフォンショッキングで語っていた。尚、人名としての“デイモン”の綴りはDamon(ギリシャ伝説で、進んで友人の身代わりとなった人物Damonに由来)であり、悪魔を意味する“デーモン”はdemonと綴るため、両者に意味上の関連性はない。
  • 2012年の ロンドンオリンピック馬術でドイツから参加した女性選手、ランゲハネンベルグの愛馬の名前が“デイモン・ヒル”という名で、個人競技で4位、団体戦でイギリスに次ぐ2位に入り銀メダルに貢献した[34]

個人記録

F1参戦以前

  • 1983年 フォーミュラ・フォード2200 BBCグランドスタンド・ウィンターシリーズ スポット参戦
  • 1984年 フォーミュラ・フォード1600ジュニア参戦
  • 1985年 フォーミュラ・フォード1600 6勝 エッソ選手権3位・RAC選手権5位
  • 1986年 イギリスF3 最高2位 シリーズ9位(マーレイ・テーラー・レーシング ラルトRT30・VW
  • 1987年 イギリスF3 2勝 シリーズ5位(インタースポーツ・レーシング ラルトRT31・トヨタ
  • 1988年 イギリスF3 2勝 シリーズ3位(インタースポーツ・レーシング ラルトRT32・トヨタ)
    • 国際F3000 スポット参戦(GAモータースポーツ ローラT88/50・DFV
  • 1989年 国際F3000 6戦参戦 最高14位(フットワーク・フォーミュラ ムーンクラフトMC041・無限)
    • イギリスF3000 2戦参戦 最高3位 (コブラ・モータースポーツ レイナード88D・DFV)
    • イギリスツーリングカー選手権 スポット参戦
    • ル・マン24時間レース出場 (Richard Lloyd Racing ポルシェ・962
  • 1990年 国際F3000 最高2位 PP3回 FL2回 シリーズ13位(ミドルブリッジ・レーシング ローラT90/50・DFV)
  • 1991年 国際F3000 最高3位 シリーズ7位(バークレイ・チームEJR ローラT90/50・DFV)

F1での年度別成績

チーム シャーシ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 ランキング ポイント
1992年 ブラバム BT60B RSA MEX BRA ESP
DNQ
SMR
DNQ
MON
DNQ
CAN
DNQ
FRA
DNQ
GBR
16
GER
DNQ
HUN
11
BEL ITA POR JPN AUS NC
(30位)
0
1993年 ウィリアムズ FW15C RSA
Ret
BRA
2
EUR
2
SMR
Ret
ESP
Ret
MON
2
CAN
3
FRA
2
GBR
Ret
GER
15
HUN
1
BEL
1
ITA
1
POR
3
JPN
4
AUS
3
3位 69
1994年 FW16
FW16B
BRA
2
PAC
Ret
SMR
6
MON
Ret
ESP
1
CAN
2
FRA
2
GBR
1
GER
8
HUN
2
BEL
1
ITA
1
POR
1
EUR
2
JPN
1
AUS
Ret
2位 91
1995年 FW17
FW17B
BRA
Ret
ARG
1
SMR
1
ESP
4
MON
2
CAN
Ret
FRA
2
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
1
BEL
2
ITA
Ret
POR
3
EUR
Ret
PAC
3
JPN
Ret
AUS
1
2位 69
1996年 FW18 AUS
1
BRA
1
ARG
1
EUR
4
SMR
1
MON
Ret
ESP
Ret
CAN
1
FRA
1
GBR
Ret
GER
1
HUN
2
BEL
5
ITA
Ret
POR
8
JPN
1
1位 97
1997年 アロウズ A18 AUS
DNS
BRA
Ret
ARG
Ret
SMR
Ret
MON
Ret
ESP
Ret
CAN
9
FRA
12
GBR
6
GER
8
HUN
2
BEL
13
ITA
Ret
AUT
7
LUX
8
JPN
11
EUR
Ret
12位 7
1998年 ジョーダン 198 AUS
8
BRA
DSQ
ARG
8
SMR
10
ESP
Ret
MON
8
CAN
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
AUT
7
GER
4
HUN
4
BEL
1
ITA
6
LUX
9
JPN
4
6位 20
1999年 199 AUS
Ret
BRA
Ret
SMR
4
MON
Ret
ESP
7
CAN
Ret
FRA
Ret
GBR
5
AUT
8
GER
Ret
HUN
6
BEL
6
ITA
10
EUR
Ret
MAL
Ret
JPN
Ret
12位 7

・FW16 1994年開幕戦~第8戦まで。第9戦~最終戦まで、FW16B
・FW17 1995年開幕戦~第12戦まで。第13戦~最終戦まで、FW17B

脚注

  1. ^ プロストのチームメイトにミカ・ハッキネンと契約したが、フランク・ウィリアムズは1993年シーズンのエントリーを忘れていたため、ウィリアムズがハッキネンを参戦させるには他の全チームの承認が必要となった。しかしハッキネンを取り返したかったピーター・コリンズロータス)が認めなかったため、ウィリアムズはハッキネンを諦めることとなった[1]という説と、ロータス側は「93年もハッキネンは残留」と発表したが、それは口約束という情報を掴んだウィリアムズがロータスと交渉。コリンズは金銭的条件(6億円)次第では応じようと目論んでいたが、両者は決裂、結局1992年の12月14日にデイモン・ヒルとの契約を発表した[2]という説がある。
  2. ^ 1997年のドライバーとしてヒルの代わりにウィリアムズが契約したのは、ドイツ人のハインツ=ハラルド・フレンツェンだったが、結果的にウィリアムズがBMWエンジンを獲得したのは2000年になってからであった。
  3. ^ 当時ヤマハの木村隆昭プロジェクトリーダーは「107%圏内に入れたのは全くデイモンの技量のおかげです」と述べている。また、チームメイトのペドロ・ディニスは107%ルールをクリアできていなかった。[7]

出典

  1. ^ F1速報 7月16日号「フランスGP号」』第9巻第13号、ニューズ出版、1998年7月16日、39頁。 
  2. ^ 「“フライング・フィン”飛んでしまったマクラーレン」『F1グランプリ特集 1993年4月号』、ソニー・マガジンズ、79-81頁。 
  3. ^ AS+F』96年開幕直前号、三栄書房page=44。 
  4. ^ 『GPX』MONACO GP、山海堂、1997年、28頁。 
  5. ^ GPX(F1 Grand Prix Xpress)』BELGIUM GP、山海堂、1997年、30-31頁。 
  6. ^ 「質問があるなら直に訊け:フランク・ウィリアムズ」『F1 RACING 日本版』2008年7月号、三栄書房、36頁。 
  7. ^ 『GPX』、山海堂、1997年、16頁。 
  8. ^ a b 『'97F1総集編 AS+F三栄書房、66頁。 
  9. ^ a b ニキ・タケダ「デイモンの思惑」『F1速報 オーストリアGP号』、ニューズ出版、1999年、38-39頁。 
  10. ^ “デイモン・ヒル、BRDC会長を退任”. F1Gate/com. (2011年6月8日). http://f1-gate.com/britain_gp/f1_11971.html 
  11. ^ “BRDC会長に選任されたワーウィック”. ESPN F1. (2011年8月25日). http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/story/57197.html 
  12. ^ “ウィリアムズ、ヒル新代表のうわさを否定”. ESPN F1. (2012年7月16日). http://ja.espnf1.com/williams/motorsport/story/84208.html/ 
  13. ^ “CYMA Damon Hill”. TotalSportsAsia. http://www.totalsportsasia.com/Corporate/Projects/CYMA_Damon_Hill.aspx 2015年6月4日閲覧。 
  14. ^ 「ミハエル・シューマッハ デビュー20周年記念インタビュー」『F1レーシング日本版 2011年10月情報号』、イデア、2011年、44頁。 
  15. ^ Number』1996年10月24日号、文藝春秋社。 
  16. ^ GRAND PRIX SPECIAL』1996年6月号、ソニー・マガジンズ、27頁。 
  17. ^ GRAND PRIX SPECIAL』1996年6月号、ソニー・マガジンズ、26頁。 
  18. ^ 『GPX』BRAZIL GP、山海堂、1997年、33頁。 
  19. ^ 『GPX』AUSTRALIA GP、山海堂、1997年、17頁。 
  20. ^ 『GPX』SPAIN GP 山海堂、28頁、1997年。 
  21. ^ 『GPX』MONACO GP、山海堂、1995年、30頁。 
  22. ^ 『AS+F F1 1998 総集編』、三栄書房、6頁。 
  23. ^ 『GP Car Story vol.7「Williams FW16」』三栄書房〈サンエイムック〉、2014年3月7日。ISBN 9784779621321 
  24. ^ フジテレビ 1999年 F1総集編より
  25. ^ 『F1 RACING 日本版』2000年2月号、三栄書房。 
  26. ^ 「オーバーテイクゲート」の全容”. GPUpdate (2010年5月18日). 2015年6月4日閲覧。
  27. ^ “デイモン・ヒル 「私は正しい裁定をした」”. F1-Gate.com. (2010年5月18日). http://f1-gate.com/monaco_gp/f1_7614.html/ 
  28. ^ 『F1 RACING 日本版』2008年8月号、三栄書房、55頁。 
  29. ^ 『F1 RACING 日本版』2006年3月号、三栄書房、56頁。 
  30. ^ a b c 『F1速報 テスト情報号』 ニューズ出版、1993年、62-63頁。
  31. ^ デイモン・ヒルの息子(ジョシュア)、レーシング・キャリアをスタート”. F1通信 (2008年2月21日). 2015年6月4日閲覧。
  32. ^ ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド DVD&Blu-ray (Media notes).
  33. ^ 『GPX』CANADA GP、山海堂、1997年、28頁。 
  34. ^ “五輪の"デイモン・ヒル"に銀メダル”. ESPN F1. (2012年8月10日). http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/story/86357.html 

関連項目

外部リンク


タイトル
先代
ミハエル・シューマッハ
F1ドライバーズチャンピオン
1996年
次代
ジャック・ヴィルヌーヴ