ソビエト連邦

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ソビエト社会主義共和国連邦
Союз Советских Социалистических Республик
ロシアSFSR
ザカフカースSFSR
ウクライナSSR
白ロシアSSR
1922年 - 1991年
ソビエト連邦の国旗 ソビエト連邦の国章
国旗国章
国の標語: Пролетарии всех стран, соединяйтесь!
ロシア語: 万国の労働者よ、団結せよ!)
国歌: ソビエト連邦国歌(1944年 - 1991年)[1]
ソビエト連邦の位置
1945年以後のソビエト連邦領
公用語 なし[2]
首都 モスクワ
最高指導者
1922年 - 1924年 ウラジーミル・レーニン
1924年 - 1953年ヨシフ・スターリン
1953年 - 1964年ニキータ・フルシチョフ
1964年 - 1982年レオニード・ブレジネフ
1982年 - 1984年ユーリ・アンドロポフ
1984年 - 1985年コンスタンティン・チェルネンコ
1985年 - 1991年ミハイル・ゴルバチョフ
首相
1991年 - 1991年イワン・シラーエフ
面積
22,402,200km²
人口
1991年293,047,571人
変遷
ロシア革命 1917年11月7日
宣言1922年12月30日
承認1924年2月1日
解体1991年12月26日
通貨ソビエト・ルーブル
時間帯UTC +2 - +13(DST: なし)
ccTLD.su
先代次代
ロシアSFSR ロシアSFSR
ザカフカースSFSR ザカフカースSFSR
ウクライナSSR ウクライナSSR
白ロシアSSR 白ロシアSSR
ロシア ロシア
ベラルーシ ベラルーシ
ウクライナ ウクライナ
モルドバ モルドバ
グルジア グルジア
アルメニア アルメニア
アゼルバイジャン アゼルバイジャン
カザフスタン カザフスタン
ウズベキスタン ウズベキスタン
トルクメニスタン トルクメニスタン
キルギスタン キルギスタン
タジキスタン タジキスタン
エストニア エストニア
ラトビア ラトビア
リトアニア リトアニア
  1. ^ 1922年から1944年までの国歌は『インターナショナル』。
  2. ^ ロシア語が既成標準。

ソビエト社会主義共和国連邦(ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう、ロシア語: Сою́з Сове́тских Социалисти́ческих Респу́блик)は、1922年に世界初の社会主義国として成立し、1991年に解体消滅した連邦国家である。略称はソビエト連邦ソ連[1]ソビエトソ連邦など。

概要

世界初の社会主義国で、ソビエト連邦共産党一党独裁国家であるが、同時に軍事大国としても有名であり、第二次世界大戦後にはアメリカ合衆国と双璧を成す超大国であった。1991年末に解体され、構成国は独立した。

首都モスクワ国旗のデザインは、革命を意味する赤地に、労働者と農民のシンボルである鎌と槌を交差させ、その上に五大陸の労働者の団結を意味する五芒星を配した。

国名

正式名称は、ロシア語Сою́з Сове́тских Социалисти́ческих Респу́бликラテン文字表記の例: Sojúz Sovétskikh Sotsyalistícheskikh Respúblik サユース・サヴィェーツキフ・サツィアリスチーチェスキフ・リスプーブリクIPA:[sɐˈjus sɐˈvʲetskʲɪx sətsɨəlʲɪˈstʲitɕɪskʲɪx rʲɪsˈpublʲɪk]Ru-CCCP.ogg 発音[ヘルプ/ファイル]。略称は СССРSSSR エス・エス・エス・エール)。通称 Сове́тский Сою́зSovétskij Sojúz サヴィェーツキイ・サユース)。

英語表記は Union of Soviet Socialist Republics。通称 USSR英語圏では Soviet Union と呼ぶことが多かった。

日本語表記は、ソビエト(蘇維埃)社会主義共和国連邦。通称、ソビエト連邦(「ソビエト」は「ソヴィエト」「ソヴィエット」「ソヴェト」「ソヴェート」とも)。略称はソ連邦ソ連、または単にソビエト第二次世界大戦前はソ同盟(蘇同盟)と訳されることが多かった。しかし、ソ連自体が「Союз とは Федерация(連邦)である」と説明していたこと、また戦後に開かれた在日ソ連大使館が「連邦」の訳語を使用したことから、戦後は専ら「連邦」と訳されるようになった。ソビエトとはロシア語で「評議会」の意。中国と並び固有名詞地名)を含まない希有な国名だった(ただし、連邦を構成する諸共和国の国名には地名が入る)、そのために「連邦」という言葉を常につけていると思われる(固有名詞であるロシア連邦は単にロシアと呼んでいる)。

英語圏以外の西側諸国においては一般的には旧国名のロシア(に相当する各言語の単語)と呼ばれることが多く(例:登場するのはソ連であるにもかかわらず「007/ロシアより愛を込めて」(原題:From Russia with love)との題名となっていることなど)、日本はソ連ソビエトという呼称が一般的に定着した稀有な事例である(一部では「労農ロシア」などとも呼ばれた)。中国語を使用する漢字文化圏においても「蘇聯」と呼ばれる。ソビエトの影響下にあった東側諸国では「ソビエト連邦」に相当する名称で呼ぶことが普通であった。

歴史

ロシアの歴史

この記事はシリーズの一部です。
ヴォルガ・ブルガール (7c–13c)
ハザール (7c–10c)
キエフ大公国 (9c–12c)
ウラジーミル・スーズダリ大公国 (12c–14c)
ノヴゴロド公国 (12c–15c)
タタールの軛 (13c–15c)
モスクワ大公国 (1340–1547)
ロシア・ツァーリ国 (1547–1721)
ロシア帝国 (1721–1917)
ロシア臨時政府 / ロシア共和国 (1917)
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 / ソビエト社会主義共和国連邦 (1917–1991)
ロシア連邦 (1991–現在)

ロシア ポータル

ロシア革命

ペトログラードデモに端を発する1917年3月12日(旧暦2月)の2月革命後、漸進的な改革を志向する臨時政府が成立していたが、第一次世界大戦でのドイツ軍との戦線は既に破綻しており国内の政治的混乱にも収拾の目処は付いていなかった。

同年8月にラーヴル・コルニーロフ将軍による反乱が失敗した後、ボリシェヴィキに対する支持が高まった。そこでボリシェヴィキは武装蜂起の方針を決め、同年11月7日(旧暦10月25日)に権力を奪取した(十月革命)。この11月7日が、ロシア革命記念日である。その後の列強による干渉戦争ロシア内戦にも勝利して権力を確立した。ボリシェヴィキは1919年に「共産党」と改称した。また内戦中に戦時共産主義を導入したが、これは農業と工業の崩壊という結果に終わった。1921年よりネップ(新経済政策)が導入され、経済はようやく持ち直した。

ファイル:Lenin-office-1918.jpg
ウラジーミル・レーニン
ファイル:Stalin-Lenin-Kalinin-1919.jpg
レーニン(中)、カリーニン(右)、スターリン(左)

建国宣言

ロシア内戦が終わった1922年、第1回全連邦ソビエト大会が開催され、12月30日ソビエト社会主義共和国連邦の樹立が宣言された。しかし、その僅か1年1ヶ月後の1924年1月、ウラジーミル・レーニンが死去した。

レーニンの死後、独裁的権力を握ったヨシフ・スターリンは、政敵であるレフ・トロツキーの国外追放(その後トロツキーは亡命先のメキシコで、スターリンが送り込んだ刺客により暗殺された)を皮切りに、反対派を徹底的に粛清して、自らを頂点とした一国社会主義路線を確立した。

1926年には、ソビエト刑法が成立した。全体主義から罪刑法定主義を排除し、社会主義に有害な行為は全て犯罪となり、犯罪者は刑罰でなく社会防衛処分に付されるとされた。ナチス刑法がこれに類似する。この刑法は1960年に改正されるまで、民衆は元より共産党員にも猛威を振るった[2]

大飢饉と粛清

スターリンはネップを終わらせ、再び強引な計画経済化に舵を切った。1928年から行われた第一次五カ年計画の中核に置かれたコルホーズが代表する、強引な農業集団化に伴う「クラーク」絶滅計画や飢饉によって死亡した人数は、推計によって最大約700万人に達する可能性もあると言われている。1929年7月には満州に侵攻し(中東路事件)、中華民国軍を破ると12月22日にハバロフスク議定書を締結し満州における影響力を強めた。

無理な農業集団化の強行により、1932年から1933年には大飢饉が起こり、500万人とも1,000万人とも言われる餓死者が出た。 特にウクライナにおける飢餓(ホロドモール)は甚だしく、400万人から700万人の餓死者が出た。2006年にウクライナ政府はこの飢餓をウクライナ人に対するジェノサイドと認定している。この「拙速な集団化政策」はウクライナ人弾圧のために意図してなされたものであると言う説も有力である。集団化に反対した人々は、白海・バルト海運河の建設現場のグラグへ送られるなどにより命を落とした。

この頃から世界恐慌により多くの資本主義国が不況に苦しむ中、ソビエト連邦はその影響を受けずに世界最高の経済成長を達成したが、その経済成長は農業を軽視した極端な「超工業化」であり、政治犯や思想犯を中心とした強制労働(実質的な奴隷制度)に支えられていた面もあり、その富は共産党の上層部に集中して配分された。

スターリン時代の大粛清時(ピークは1936年から1938年)には裁判を経ずに、多くの党員や軍人、国民が死刑もしくは流罪などにより粛清されたとされる。この頃には、流罪の受け入れ先として大規模な強制収容所シベリアコルィマ鉱山など)が整備された。大粛清による犠牲者数には諸説があるが、当時行われた正式な報告によると、1930年代に「反革命罪」で死刑判決を受けたものは約72万人とされる(但し、過酷な取調べ・尋問の過程で死亡した者や、有罪判決を受けて劣悪な環境下で服役中に死亡した者の人数については正確な統計が残されていないため、その人数を合わせれば犠牲者数は増大すると見られる)。

第二次世界大戦

独ソ不可侵条約に調印するヴャチェスラフ・モロトフ(後列中央はヨアヒム・フォン・リッベントロップとスターリン)

政権を掌握したスターリンは、ポーランドルーマニアなどの東ヨーロッパ諸国を社会主義化し、自国の衛星国として、第一次世界大戦後にその勢力を急速に強めていたアメリカやその同盟国であるイギリスなどの「帝国主義」国との緩衝地帯にする計画を持っていた。

しかし1930年代に入ると、ドイツに「共産主義打倒」を掲げたアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が政権を握り、同じくポーランドやチェコスロバキアなどのドイツ支配圏の東ヨーロッパ諸国への東方拡大を狙い始めた。その後両者は東ヨーロッパ諸国の支配権を巡って激突することとなる。

しかし1939年、それまで敵対していたナチスドイツ独ソ不可侵条約を結び、同年のドイツのポーランド侵攻の際にはソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄するとともに侵攻し、ポーランドの東半分(ガリツィアなど)を占領した。またバルト三国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国に進駐した。さらに親ソ政権を組織し、反ソ連派を粛清、或いは収容所送りにして、ついにこれを併合した。同時にソ連はルーマニアベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアと北ブコビナに進駐し、領土を割譲させた。さらに隣国のフィンランド冬戦争により侵略してカレリア地方を併合した。

1941年6月に独ソ戦が勃発した。ドイツ軍の猛攻で開戦後まもなく首都モスクワに数十kmに迫られ、レニングラード攻防戦クルスクの戦い等により軍民併せて数百万人の死傷者を出した。しかし共産党は戦争を「大祖国戦争」と位置づけて国民の愛国心を煽り、ドイツの占領地で民衆を中心としたパルチザンを組織し敵の補給線を撹乱した。また、味方が撤退する際には焦土作戦と呼ばれる住民を強制疎開させた上で家屋、畑などを破壊して焼却する作戦を行い、ドイツ軍の手には何も渡らないようにさせた。連合国側であるアメリカの支援(レンドリース法)もあり、気候や補給難に苦しむドイツ軍を押し返していった。

やがて、ドイツ軍の後退と共にソ連軍は東欧各国を「解放」した。東欧各国には、共産党を中心とした政権が樹立され、「小スターリン」と呼ばれるモスクワからの意向を受けた指導者がソ連型社会主義をモデルとした国を作り上げた。1945年に入るとソ連軍はドイツ領内へ侵攻するようになった。ソ連軍は自国の領土において暴虐を働いた「侵略者への復讐」を煽り、一般兵士により多数の市民の殺害や略奪、婦女暴行などが行われてもスターリンや将校達は黙認していたという。米英軍と交戦していた西部戦線では多くのドイツ兵が投降していたが、ソ連軍と交戦していた東部戦線では投降者がほとんど出ず、大半のドイツ兵が最期まで戦い続けたという。1945年5月、ドイツの首都であるベルリンを陥落させ、ドイツ軍を降伏に追い込んだ。

ファイル:On teh road to Mutanchiang.jpg
満州国を侵略するソ連軍

1945年8月8日に、日ソ中立条約を破棄して対日宣戦布告した。これは連合国首脳によるヤルタ会議における密約(ヤルタ協定)に基づくものであった。ソ連軍は日本の千島列島南樺太朝鮮半島北部、そして日本の同盟国の満州国に対し侵略した。この際にソビエト軍は、自国の占領地を少しでも増やす目的から日本軍の降伏による停戦さえ無視し侵攻を続け、多くの捕虜を自国内に連行し、劣悪な状況下でインフラ整備等の労働力として酷使したため、その多くが死に至った。さらに生き残った者達に対しても、日本への帰国後に共産革命を起こさせるべく共産主義教育をおこなった(シベリア抑留)。これらの国際法を無視した行為とその後の対応が後の北方領土問題、シベリア抑留問題の原因となった。

ソ連は第二次世界大戦の期間中に2000万以上のソ連人が死亡するなど大きな犠牲を出した。一方でその勝利に大きく貢献したことで国家の威信を高め、世界における超大国の地位を確立した。国際連合創設にも大きく関与し、安全保障理事会常任理事国となっている。さらに占領地域であった東欧諸国への影響を強め、衛星国化していった。その一方、ドイツ、ポーランド、チェコスロバキアからそれぞれ領土を獲得し、西方へ大きく領土を拡大した。 また、開戦前に併合したエストニアラトビアリトアニアバルト三国への支配、ルーマニアから獲得したベッサラビア(現在のモルドバ)の領有を承認させた。更にこれらの新領土から多くの住民を追放あるいはシベリアなどに強制移住させ、代わりにロシア人を移住させた。また、極東では日本の領土であった南樺太及び千島列島を占領し、領有を宣言した。さらに、1945年8月14日に連合国の一国である中華民国との間に中ソ友好同盟条約を締結し、日本が旧満州に持っていた各種権益のうち、関東州旅順大連の両港の租借権や旧東清鉄道南満州鉄道の一部)の管理権の継承を中華民国に認めさせた。

冷戦の開始

フルシチョフとスターリン
ベルリンのチェックポイント・チャーリーで対峙するソ連軍とアメリカ軍の戦車

戦後ソ連はドイツの支配からソ連の支配圏とした東ヨーロッパ諸国の反対派を粛清し、スターリン主義的な社会主義政権を導入しこれらをソ連の衛星国とした。ワルシャワ条約機構などにおける東側諸国のリーダーとして、アメリカ合衆国をリーダーとする資本主義西側諸国)陣営に対抗した。

1953年、スターリンが死去し、新たな指導者となったニキータ・フルシチョフスターリン批判を行い、その行過ぎた全体主義的独裁の政策を大幅に緩めた。しかし、ソ連が極端な警察国家、監視国家であることには変わりなかった。彼は食料生産に力を注ぎ一時的には大きな成功を収めるものの、あまりにも急な農業生産の拡大により農地の非栄養化、砂漠化が進み、結果、ソ連は食料を海外から輸入しなければならなくなった。

なお、東欧のソ連衛星国ではスターリン批判以降しばしば改革共産主義運動や反体制運動が発生したが、ソ連はこれらの運動のいくつかに対しては武力介入してこれを鎮圧し、反対派を殺害・処刑・投獄した(ハンガリー動乱プラハの春など)他、有形無形の圧力をかけ収拾させた。

また、第二次世界大戦から崩壊までの間を通じて、アメリカとの間では直接戦争こそ生じなかったものの、ベルリン封鎖などの有形無形の敵対行動や朝鮮戦争ベトナム戦争などの世界各地での代理戦争という形で冷戦と呼ばれる対立関係が形成された。特に限りない軍拡と、核兵器の開発競争は世界を核戦争の危機に晒すものだった(1962年キューバ危機など)。

1960年代に入りフルシチョフ体制が安定するとアメリカとの関係は多少改善が進んだ。しかし社会主義の土着化を進めており、フルシチョフの改革路線に懐疑的であった毛沢東率いる中華人民共和国との関係は国境地帯における軍事衝突(ダマンスキー島事件)や北京のソ連大使館襲撃事件が起こるなど逆に悪化した(中ソ対立)。

国力の衰退

ブレジネフ(右)とアメリカのジミー・カーター大統領

その後1964年に、農業政策の失敗と西側諸国に対しての寛容的な政策を理由に失脚させられたフルシチョフに代わり、レオニード・ブレジネフが指導者となるが友好国の中華人民共和国とは、中ソ対立により関係が悪化。両国の関係はほぼ断絶状態に近くなり、1970年代には米中国交正常化による中華人民共和国の西側への接近を許すことになる。

経済面でも、1960年代頃まで10%を誇った成長率もほころびを見せるようになり、官僚主義による党官僚の特権階級化など体制の腐敗が進み、食料や燃料、生活必需品の配給が滞るようになり、国民の多くは耐乏生活を強いられるようになっていった。改革開放を始めた中華人民共和国を除き、東側諸国全体の経済1970年代後半から停滞していく。1980年代に入ると西側諸国の豊かな生活の情報がソ連国内で入手できるようになると、国民は体制への不満と自由な西側への憧れを強めていくことになる。技術競争でもアメリカや日本に大きな遅れをとるようになり、ソ連崩壊の直前はGNPも人口、国面積もはるかに小さい日本に抜かれて3位となる。

1979年にブレジネフは、隣するアフガニスタンの共産主義政権がアメリカと関係を結ぼうとしたためにアフガニスタン侵攻を行ったものの、結果的にパキスタンサウジアラビアイラン等といった一部のイスラム諸国および西側諸国による猛反発を受け、翌年に行われたモスクワオリンピックの大量ボイコットを招くことになった。この侵攻は1989年まで続き、国際社会からの孤立を招いただけでなく、莫大な戦費を10年間の長きにわたり浪費することや多くの戦死者を出すことによって、ただでさえ傾きかけていた経済をますます圧迫する結果になった。

また、アメリカのロナルド・レーガン政権からは、「悪の帝国」と名指しで批判された上に、大韓航空機撃墜事件などにより西側諸国との緊張が増し、軍拡競争で闇経済が蔓延、財政赤字が拡大することとなる。

ペレストロイカ

ミハイル・ゴルバチョフとアメリカロナルド・レーガン大統領

1982年に死去したブレジネフの後継者となったユーリ・アンドロポフ、アンドロポフの死後に後継者となったコンスタンティン・チェルネンコと老齢の指導者が相次いで政権の座に就いた。しかし共に就任後間もなく闘病生活に入りそのまま病死したため、経済問題を中心とした内政のみならず、外交やアフガニスタン問題についてさえも具体的な政策をほとんど実行に移せなかった。

その後、この両名の時代においてますます深刻化した経済的危機を打開するべく、1985年3月に誕生したミハイル・ゴルバチョフ政権は社会主義体制の改革・刷新を掲げ、ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を推し進めた。

これにより長きにわたった一党独裁体制下で腐敗した政治体制の改革が進められた。1988年にはそれまでのソ連最高会議に代わり人民代議員大会創設が決定され、翌年3月26日にはソ連初の民主的選挙である第1回人民代議員大会選挙が実施された。ゴルバチョフは人民代議員を国民の直接選挙で選ばせることによって、改革の支障となっていた保守官僚を一掃しようと試みた。また1986年4月チェルノブイリ原子力発電所事故以降、グラスノスチが本格化し、歴史の見直しや活発な政治討論が行われるようになった。

グラスノスチの進展に伴い国民の間では民主化要求が拡大、それを受けてソ連共産党の指導的役割を定めたソ連憲法第6条は削除され、1990年にはソ連共産党による一党独裁制の放棄、そして複数政党制大統領制の導入が決定された。同年3月15日、人民代議員による間接選挙によって、ゴルバチョフが初代大統領に選出された。また同時期に当局の検閲を廃止した新聞法が制定された。

しかしこれらの一連の政治改革は一定の成果を上げた反面、改革の範囲やスピードを巡ってソ連共産党内の内部抗争を激化させ、共産党はエリツィンら急進改革派とゴルバチョフら穏健改革派、そして保守派のグループに分裂した。党内の分裂もあって国内の経済改革は遅々としたものとなり、経済危機を一層深刻化させた。こうした状況の中でエリツィンは共産党に見切りをつけ、1990年7月のソ連共産党第28回大会を機に離党し、ポポフサプチャークアファナーシェフサハロフらと共に非共産党系の政治組織である地域間代議員グループを結成、共産党に対抗した。

国内ではインフレと物不足が深刻化し、事態を打開できないゴルバチョフらソ連共産党に対する批判が高まった。こうした国民の不満を吸収したのがエリツィンら急進改革派である。1991年にはポポフモスクワ市長に、同年6月にはサプチャークレニングラード市長に選出された。また同年6月12日にはロシア共和国大統領選挙が実施されてエリツィン・ロシア共和国最高会議議長が当選し、7月10日に就任した。こうした急進改革派の躍進は保守派を焦らせ、後の8月クーデターへと駆り立てる要因の1つとなった。

連邦制の動揺

ペレストロイカは東西の緊張緩和や東欧民主化、そしてソ連国内の政治改革において大きな成果を上げたものの、国内では封印されていた民族問題の先鋭化と各共和国の主権拡大を要求する動きも生み出した。1986年12月にはペレストロイカ開始後初めての民族暴動であるアルマアタ事件カザフ共和国で発生した。1988年からはナゴルノ・カラバフ自治州の帰属を巡ってアルメニア共和国とアゼルバイジャン共和国との間に大規模な紛争が発生、グルジア共和国やモルドバ共和国内でも民族間の衝突が起きた。また1990年3月11日には反ソ連の急先鋒と見られていたバルト3国リトアニア共和国が連邦からの独立を宣言、ゴルバチョフ政権は経済制裁を実施し宣言を撤回させたものの同年3月30日にはエストニア共和国が、5月4日にはラトビア共和国が独立を宣言した。1990年5月29日にはロシア共和国最高会議議長に急進改革派のエリツィンが当選、同年6月12日にはロシア共和国が、7月16日にはウクライナ共和国が共和国の主権は連邦の主権に優越するという主権宣言を行い各共和国もこれに続いた。こうした民族運動の高揚と連邦からの自立を求める各共和国の動きはゴルバチョフ自身が推進したペレストロイカグラスノスチによって引き起こされたと言える半面、連邦議会で保守派との抗争に敗れた急進改革派が各共和国議会に移り、そこでそれらの運動を指揮しているという側面もあった。特にソ連の全面積の76%、全人口の51%、そして他の共和国と比較して圧倒的な経済力を擁するロシア共和国の元首に急進改革派ボリス・エリツィンが就任したことは大きな意味を持っていた(ただしエリツィン自身は連邦制維持に賛成であった)。

従来の中央集権型の連邦制が動揺する中でゴルバチョフは連邦が有していた権限を各共和国へ大幅に移譲し、主権国家の連合として連邦を再編するという新構想を明らかにした。その上でまず枠組みとなる新連邦条約を締結するため各共和国との調整を進めた。1991年3月17日には新連邦条約締結の布石として連邦制維持の賛否を問う国民投票が各共和国で行われ、投票者の76.4%が連邦制維持に賛成票を投じることとなった[3]。この国民投票の結果を受け4月23日、ゴルバチョフ・ソ連大統領と国民投票に参加した9つの共和国の元首が集まり、その後各共和国との間に新連邦条約を締結し、連邦を構成する各共和国への大幅な権限委譲と連邦の再編を行うことで合意した。その際、国名をそれまでの「ソビエト社会主義共和国連邦」から社会主義の文字を廃止し、「ソビエト共和国連邦」に変更することも決定された。

冷戦終結

マルタで会談するブッシュ大統領(手前右)とゴルバチョフ(手前左)

ゴルバチョフは1988年3月新ベオグラード宣言の中でブレジネフ・ドクトリンの否定、東欧諸国へのソ連の内政不干渉を表明していたがこれを受け1989年から1990年にかけて東ドイツハンガリーポーランドチェコスロバキアなどの衛星国が相次いで民主化を達成した。そのほとんどは事実上の無血革命であったが、ルーマニアでは一時的に体制派と改革派の間で戦闘状態となり、長年独裁体制を強いてきたニコラエ・チャウシェスク大統領が改革派による即席裁判で死刑となりその結果民主化が達成された。

なお、ソビエト連邦は冷戦初期に起きたハンガリー動乱プラハの春の時と違い、これらの衛星国における改革に対して不介入を表明し、これらの政府による国民に対する武力行使に対しては明確に嫌悪感を示した。

ソビエト連邦を含む東側諸国の相次ぐ民主化により東西の冷戦構造は事実上崩壊し、これらの動きを受けて1989年12月2日から12月3日にかけて地中海マルタでゴルバチョフとアメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュが会談し、正式に冷戦の終結を宣言した(マルタ会談)。

崩壊

「8月クーデター」でモスクワ市内に展開する戦車)

国内では1991年8月20日の新連邦条約締結に向けて準備が進められていた。しかし、新連邦条約締結が各共和国の独立と自らの権力基盤の喪失に結びつくことを危惧したゲンナジー・ヤナーエフウラジーミル・クリュチコフら8人のソ連共産党中央委員会メンバーらによって条約締結を目前に控えた8月19日クーデターが発生、ゴルバチョフを軟禁し条約締結阻止を試みたものの、ボリス・エリツィンら改革派がこれに抵抗し、さらに軍や国民の多く、さらにアメリカやフランス、日本やイギリスなどの主要国もクーデターを支持しなかったことから完全に失敗に終わった(ソ連8月クーデター)。

クーデターの失敗によって新連邦条約締結は挫折、クーデターを起こしたソ連共産党中央委員会メンバーらは逮捕された。クーデターを起こしたメンバーはいずれも共産党の主要幹部でゴルバチョフの直属の部下だったこともあり、ソ連共産党とゴルバチョフの権威は失墜した。8月24日、ゴルバチョフはソ連共産党書記長を辞任し同時にソ連共産党中央委員会の解散を勧告、8月28日、ソ連最高会議はソ連共産党の活動を全面的に禁止し同党は事実上の解体に追い込まれた。連邦を統制してきたソ連共産党が解体されたことにより、これ以後実権はゴルバチョフ・ソ連大統領と各共和国の元首から構成される国家評議会に移っていくことになる。

9月6日、国家評議会はバルト三国独立を承認した。新連邦条約締結に失敗したゴルバチョフ・ソ連大統領はこの間も連邦制維持に奔走し、11月14日、ロシア共和国とベラルーシ共和国、そして中央アジアの5つの共和国の元首との間で主権国家連邦を創設することで合意、また連邦への加盟を拒んでいる残りの共和国への説得を続けた。しかし12月1日にはウクライナ共和国で独立の是非を問う国民投票が実施され投票者の90.3%が独立を支持、当初は連邦制維持に賛成していたエリツィン・ロシア共和国大統領もウクライナが加盟しない主権国家連邦は無意味であるとして、12月3日にウクライナ独立を承認しソ連崩壊の流れを決定づけた。同年12月8日ベロヴェーシ合意において、ロシア、ウクライナベラルーシ共和国が連邦を離脱して、新たに独立国家共同体(CIS)を創設し、残る諸国もそれに倣ってCISに加入した。12月17日、ゴルバチョフ大統領は1991年中に連邦政府が活動を停止することを宣言。12月21日、グルジアと既に独立したバルト3国を除く11のソ連構成共和国元首がCIS発足やソ連解体を決議したアルマアタ宣言を採択、これを受けて12月25日にゴルバチョフはソ連大統領を辞任し、翌日には最高会議も連邦の解体を宣言、ソビエト連邦は崩壊した

地理

ソビエト社会主義共和国連邦は当時において世界一の広さを誇った国であった。そのために隣接している国は東ヨーロッパ、北ヨーロッパ、中央アジア、東アジア、アメリカ大陸など幅が広い。陸続きで隣接する国は西はノルウェーフィンランドポーランドチェコスロバキアハンガリールーマニア、南はトルコイランアフガニスタンモンゴル中華民国1949年以降は中華人民共和国)、北朝鮮1948年以降)、海を挟んで南は日本(1945年以前は樺太および当時日本領だった朝鮮半島で国境を接していた)、東はアメリカ合衆国である。全域で寒波の影響が非常に強力なため、冬季は北極海に面したところや内陸部を中心に、極寒である。そのためなかなか開発が進まず、囚人を酷使した強制労働で多くの命が失われた。

自動車道の開発は遅れたが雪に強い鉄道が発達しており、シベリア鉄道は超長距離路線であるにもかかわらず「共産主義はソビエト権力+全国の電化である」というレーニンからの方針により電化が進んでおり軍事輸送や貨物輸送に大いに役立った。

長い国境のうちにはいくつかの領土問題を抱えており、1960年代には軍事紛争(中華人民共和国との間におけるダマンスキー島事件)になったケースもある。を隔てた隣国の1つである日本とは北方領土問題を持っており、この問題はロシアになった現在も続いており解決されていない。またフィンランドにもカレリア地域の問題が残されている。

またソ連はヨーロッパとアジアを跨ぐ国であったことからユーラシア北アジアと呼ばれていることが多い。なお、サッカーでカザフスタンは欧州の連盟に参加していることからヨーロッパだとする見方があるが、トルコ、キプロス、イスラエルなどの西アジアも加盟しており、全くこれは論拠にならない。なお、ソ連時代に所謂公用語も存在しなかった。すなわちロシア語はソ連の公用語ではなかった。レーニンがオーストロ・マルキシズムやカウツキーの影響のもと、1914年の論文『強制的な国家語は必要か?』において国家語の制定を批判し、スターリンも民族問題の専門家として民族語奨励政策を採用している。

構成国

ソビエト連邦構成共和国も参照)

加盟年 国名 ソ連解体後 誕生
1922年 ウクライナ社会主義ソビエト共和国 ウクライナ
白ロシア・ソビエト社会主義共和国 ベラルーシ
ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国 1936年連邦解散
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 ロシア
1924年 ウズベク・ソビエト社会主義共和国 ウズベキスタン
トルクメン・ソビエト社会主義共和国 トルクメニスタン
1929年 タジク・ソビエト社会主義共和国 タジキスタン ウズベクから分割
1936年 アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国 アゼルバイジャン ザカフカースを解散
アルメニア・ソビエト社会主義共和国 アルメニア
グルジア・ソビエト社会主義共和国 グルジア
カザフ・ソビエト社会主義共和国 カザフスタン ロシアから分割
キルギス・ソビエト社会主義共和国 キルギスタン
1940年 カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国 1956年ロシアの自治共和国に降格 ロシアの一部とフィンランドの一部を合併
エストニア・ソビエト社会主義共和国 エストニア
モルダビア・ソビエト社会主義共和国 モルドバ
ラトビア・ソビエト社会主義共和国 ラトビア
リトアニア・ソビエト社会主義共和国 リトアニア

なお、構成共和国には、ソビエト連邦から離脱する自由が憲法で認められていた。しかし、連邦離脱の手続きを定めた法律はなく、ソビエト連邦の末期にゴルバチョフが定めた連邦離脱法は、極めてハードルの高いものであった。このためバルト三国は連邦離脱法を無視し、1990年に独立することとなる。

また、国際連合にはソビエト連邦そのものとは別枠でウクライナ白ロシア(現・ベラルーシ)が独自に加盟していた。

代表的な都市

ウラジオストク
モスクワ
レニングラード(当時)

汚染地域

ソビエト連邦は超大国であったが軍事や核兵器以外の産業は遅れており、エネルギーの効率や環境対策も遅れていた。そのため汚染地域が多く、ゼルジンスクノリルスク、スムガイト(現在はアゼルバイジャン)、チェルノブイリ(同ウクライナ)はきわめて汚染が酷かった。 特にチェルノブイリ原発事故では広島型原爆の約500発分の放射性降下物がまき散らされ、多くの被災者が出た。 また核実験場のあったセミパラチンスク(現在はカザフスタンセメイ)では120万人が死の灰を受け30万人が後遺症の深刻な被害を受けている。

政治

一党独裁制

クレムリン

間接代表制を拒否し、労働者の組織「ソビエト」(協議会、評議会)が各職場の最下位単位から最高議決単位(最高ソビエト)まで組織されることで国家が構成されていた。

但し、ソビエト制度が有効に機能した期間はほとんどないに等しく、ソビエトの最小単位から最高単位まで全てに浸透した私的組織(非・国家組織)であるソビエト連邦共産党が全てのソビエトを支配しており、一党独裁制国家となっていた(但し、ロシア革命直後のレーニン時代初期とゴルバチョフ時代に複数政党制であった)。党による国家の各単位把握及びその二重権力体制はしばしば「党-国家体制」と呼ばれている。

この細胞 (政党)を張り巡らせる民主集中制計画経済を基礎とするいわゆるソ連型社会主義と呼ばれる体制は、アパラチキ器官の意)による抑圧的な体制であり、言論などの表現や集会、結社の自由は事実上存在しなかった。また、指導者選出のためのノーメンクラトゥーラ制度は縁故主義の温床となり、新たな階級を生み出した。このため、カール・マルクスが唱えた社会主義の理想とは大きくかけ離れ、一般の労働者・農民にとっては支配者がロマノフ朝皇帝から共産党に代わっただけで、政治的には何の解放もされておらず、むしろロマノフ朝時代より抑圧的で非民主的な一党独裁体制であった。そのため実質的最高指導者である書記長は「赤色皇帝」とも呼ばれる。

なお、スターリン時代からゴルバチョフが大統領制を導入するまで、国家元首ソビエト最高会議幹部会議長であったが、実権はソビエト連邦共産党の書記長にあった。なお書記長と最高会議幹部会議長を兼任した者もいる。

司法裁判

建国者のレーニンは秘密警察のチェーカーを設立し、即座に容疑者の逮捕、投獄、処刑などを行う権限を与えられ、これが粛清の引き金となった。チェーカーは建前上、党に所属するものとされていたが、実質レーニン個人の直属であったといっても過言ではない。チェカーの無差別な処刑は反体制派はともかく無関係の者までも日常的に処刑しており、時には罪状をでっち上げて処刑していた。レーニンは「ニコライの手は血に塗れているのだから裁判は必要ない」と理由で一家共々処刑を行うなど法に対する姿勢が杜撰であったために、歴史家ドミトリー・ヴォルコゴーノフは「ボリシェビキが法を守る振りさえしなくなった」契機だと批判した。

スターリン時代には、モスクワ裁判など形式的な裁判により多くの人々が有罪の判決を言い渡され、社会主義・共産主義は抑圧的な体制とイコールになってしまった。スターリンは、トロツキーやキーロフなどの政敵たちや党内反対派を殺すためにチェカーを改名したGPU(ゲーペーウー)を用いた。また、GPUは圧制に抵抗する民衆や外国人を弾圧し、次々と刑場や強制収容所に送った。GPUはKGBに引き継がれた。

スターリンの没後も国家反逆罪等で逮捕または亡命を強いられた人は増え続け、ソビエト連邦解体までの70年間に6,200万人以上に及ぶ人々が粛清された。これらは現行のロシア政府が1997年に認めた公式データであり、粛清の全容を部分的にしか公開していない。この中には日本人抑留者や亡命日本人も含まれているが、日本政府謝罪や賠償を現行のロシア政府に求めようとはしていない。

歴代指導者

外交関係

赤が社会主義国、薄い赤がその影響下にある国
ソビエト外務省ビル

外交関係では、社会主義国(東側)陣営の盟主としてアメリカ合衆国を筆頭とする資本主義国(西側)と対決(冷戦)していた。

成立当初は日本イギリスアメリカドイツなど大国の承認を得られず孤立したが、その後各国と国交を結び、さらに1930年代後半から1940年代にかけては日本やドイツと協定を結ぶ。

独ソ戦で侵攻してきたドイツを撃退・打倒した第二次世界大戦後に、東ドイツチェコスロバキアブルガリアなどの東ヨーロッパ諸国を衛星国化させた。さらにユーゴスラビアが主導する非同盟諸国と呼ばれる中華人民共和国インドキューバエチオピアエジプトイラクシリアといった第三世界と友好協力条約を結び、関係を持つ。

コメコンではメキシコモザンビークフィンランドといった非社会主義協力国もあった。東アジアベトナムラオス北朝鮮など)、中南米チリニカラグアなど)、アフリカアンゴラリビアコンゴなど)などでも「民族解放」、「反帝国主義」、「植民地独立」を唱える共産主義政権(専制政治が行われた政権もある)の成立に協力し、アメリカや西ドイツイギリスフランスなどの西ヨーロッパ諸国、日本などの資本主義国と対峙した。

対社会主義陣営

中華人民共和国との関係

ソビエト連邦の軍事支援により、蒋介石率いる中国国民党との国共内戦に勝利した中国共産党によって1949年に設立された中華人民共和国とは当初協力関係にあったが、1950年代後半より両国の指導層による相手国への非難の応酬や大使館乱入事件が起きるなど徐々に関係が悪化した。

1960年代の後半には領土問題による軍事衝突(ダマンスキー島事件などの中ソ国境紛争)や指導層の思想的な相違の問題から中ソ対立が表面化した。両国間のこのような対立関係は、その後中華人民共和国における内乱である「文化大革命」が終結する1970年代後半まで続くことになる。

そのような中で、ソ連を牽制しようとしたアメリカが1970年代に入り急速に中華人民共和国に近づき、国交を結ぶと同時に中華民国との国交を断絶し、その後アメリカの同盟国である日本も中華人民共和国と国交を結んだ。また中華人民共和国は、モスクワオリンピックロサンゼルスオリンピックでは東側陣営であるのに関わらずアメリカ側についていた。独裁体制を敷きソ連と対峙していた毛沢東の死去と文化大革命の終焉、そしてゴルバチョフの訪中でソ連と中華人民共和国の関係も改善された。

キューバとの関係

1959年1月に、アメリカの支援を受けていた独裁者のフルヘンシオ・バティスタを政権の座から引きずり下ろしたフィデル・カストロは、当初米ソ両国との間で比較的中立な立場をとっていたものの、アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー政権は革命後に産業の国営化を進めたカストロを「社会主義者的」と警戒し距離を置いた。同時にソ連が「アメリカの裏庭」にあるキューバの指導者となったカストロに援助を申し出たことから両国は急接近し、南北アメリカ大陸における唯一のソ連の友好国となる。

その後ジョン・F・ケネディ政権下でアメリカはキューバ侵攻を画策し、1961年に「ピッグス湾事件」を起こしたことから、カストロはアメリカのキューバ侵攻に備えてソ連に武器の供与を要求しはじめた。しかしソ連は表立った武器の供与はアメリカを刺激し過ぎると考え、ソ連武器のキューバ軍への提供の代わりに軍事顧問団を置く他、ソ連の核ミサイルをキューバ国内に配備する『アナディル作戦』を可決し、1962年にソ連製核ミサイルをキューバに配備した。しかしこのことを察知したアメリカは、海軍艦艇によりキューバ海域を海上封鎖し、キューバに近づくソ連船舶に対する臨検を行うなど、キューバを舞台にしたアメリカとの軍事的緊張を引き起こした(キューバ危機)。

その後もソ連はその崩壊まで、キューバに対する軍事的支援のみならず経済的支援も活発に行い、キューバの主要産業であるサトウキビを破格の価格で買い取るバーターとして、キューバがその供給を完全に輸入に頼っている石油を与えるなど様々な支援を行い続けた。

対資本主義陣営

日本との関係

帝政ロシア時代に日露戦争で戦い敗北した。日本とは、ソビエト連邦成立後も満州国との国境などで度々軍事的衝突を起こしていた。その後第二次世界大戦中の1941年4月に日ソ中立条約が締結されたものの、ヤルタ会議において連合国間で結ばれた密約を元に、1945年8月にこれを一方的に破り日本に対して参戦し、その上日本が降伏した後も侵攻を続け千島列島など日本の領土の一部を違法に占拠した。その上多くの日本人捕虜を戦後長い間拘留し強制労働に処し、その多くを死に追いやった(シベリア抑留)。この件に関してはロシア政府は近年ようやくシベリア強制労働の被害者・遺族に対して謝罪と賠償を始めつつある。

このような経緯による日本の反ソ感情に加え、吉田茂首相が米国との同盟関係を主軸とした外交を採用したことから日ソ関係はしばらく進展がなかった。その後アメリカ以外の国も重視した独自外交を模索する鳩山一郎へ政権が交代したことで国交正常化の機運が生まれ、1956年日ソ共同宣言を出して国交を回復、日本の国連加盟が実現した。しかし日本がアメリカの同盟国で独立回復後も米軍駐留が続いたことや、北方領土問題が解決されなかったために関係改善は進展しないまま推移した。その一方で、与党の自由民主党所属の一部の議員は自主的にソ連とのパイプを持ち日ソ関係が完全に冷却することはなかった。北洋漁業、北洋材の輸入、機械や鉄鋼製品の輸出など両国の経済関係はソ連の崩壊に至るまで続いた。なお、冷戦終結・ソ連崩壊を経た現在でも、日本と事実上の後継国家となったロシアの間には正式な平和条約の締結が成されていない。

なお、冷戦の最中には日本社会党や、ベトナム戦争に反対するベ平連などの左翼的な反戦・市民運動組織に対し、資金援助や情報の提供、武器の供与など有形無形の指示・援助を行い保守勢力に揺さぶりをかけたことが判明している。また同時に、自民党の国会議員にも様々な工作を仕掛けている。ソ連国家保安委員会(KGB)などが中心となり大使館員などに偽装した多くのスパイを政府内部や自衛隊などに送り込み、ラストボロフ事件などの数々の事件を起こした。

ソ連の樺太侵攻を描いた映画樺太1945年夏 氷雪の門』が製作された際には、ソビエトを恐れた自由民主党と外務省が映画の製作者側に圧力をかけ[要出典]、東宝系での公開が中止され、単館上映での公開のみとなった。

アメリカとの関係

米ソ国境付近においてソ連空軍Tu-95爆撃機を追うアメリカ海軍F-14戦闘機

アメリカ合衆国とは、第二次世界大戦においては連合国軍における同盟国として協力関係にあり、武器の提供を受けるなど親密な関係にあった。しかし、第二次世界大戦後は共産主義国陣営の盟主として、対する資本主義国の事実上の盟主となっていたアメリカ合衆国と「冷戦」という形で対立することになった。

この様な関係の変化を受けて、1950年代における朝鮮戦争や1960年代におけるベトナム戦争など、代理戦争という間接的な形で軍事的対立をしたが、全面的な核戦争に対する恐怖が双方の抑止力となったこともあり、直接的かつ全面的な軍事的対立はなかった。しかしベルリン封鎖キューバ危機などでは全面的な軍事的対立の一歩手前まで行った他、U-2撃墜事件における領空侵犯を行ったアメリカ軍機の撃墜など、限定的な軍事的対立があったのも事実である。

また、このような対立関係にあったにもかかわらず、冷戦下においても正式な国交が途絶えることはなく、双方の首都に対する民間機の乗り入れが行われていた。しかし、大韓航空機撃墜事件ソ連のアフガニスタン侵攻などの事件があった際には、「制裁措置」として民間機の乗り入れが時限的に制限されたり、スパイ事件などが明るみに出て、一方の外交官ペルソナ・ノン・グラータとして国外追放になると、それに対する「報復措置」として、もう一方の国の外交官を同じ容疑で国外追放するなど、茶番じみた外交的駆け引きが行われていた。

外国渡航禁止

外国への個人的理由での渡航は、亡命とそれに伴う国家機密の流出、外貨流出を防ぐということを主な理由に原則的に禁止されており、国交がある国であろうがなかろうが、当局の許可がない限り渡航は不可能であった。また許可が下りた場合でも様々な制限があり、個人単位の自由な旅行は不可能であった。これはソ連社会、および東側社会主義体制の閉鎖性の象徴として西側資本主義陣営から批判された。さらに、外国から帰国した旅行者は必ずといっていい程諜報部から尋問を受けるので本人にはその意思がなくても外国で見たことを洗いざらい喋らねばならず、結果的にスパイをしてしまうというケースが多かった。他にも、アエロフロートのような航空会社や乗客が実際にスパイとしての役割を兼ねている場合もあった[4]

また、西側諸国人との交際や結婚は多くの障害があり、幅広く指定された「国益に直接関係する者」や「国家機密に関わる者」の婚姻は禁じられていた。それでも結婚は可能であったが(石井紘基のナターシャ夫人や故川村カオリの母親のエレーナさんのように)、その時点でソ連社会での出世の道は途絶えた上、今度は配偶者の母国に出国するためのパスポート発給に長い年月を要した。これは西側資本主義国に限らず、衛星国人との結婚でさえも当局からさまざまな妨害を受けたと言われている。なお、外国航路を運行する船舶や外国で演奏旅行をする楽団などには、乗務員や楽団員の亡命を阻止し、外国における言論を監視するために必ず共産党の政治将校が同行していた。それでもスポーツ大会や演奏会などでの亡命は個人・集団を問わず絶えなかった。運良く移住できた場合でも、移住先の国家や社会からは「ソ連のスパイ」という疑念を持たれることが多く、決して安住の地とは言えなかった。

例外として、1950年代までのユダヤ人イスラエル出国がある。ソ連政府はパレスチナでのイスラエル建国(1948年)を支持し、戦争からの復興途上にある自国からユダヤ人を平和的に減らせるこの移住政策を積極的に推進した。しかし、イスラエルがアメリカの強い支援を受け、対抗したアラブ諸国がソ連との関係を深めると、このユダヤ人移住も徐々に減っていった。1967年第三次中東戦争で両国の国交は断絶し、以後、冷戦の終結まで集団出国はほとんど行われなかった。

もう一つ、ソ連政府の意に沿わない人間に対する国外追放があった。国家の安定や社会主義体制の発展に害となり、かつ国外での知名度が高いために国内での粛清や拘禁が困難な場合には、対象者の市民権やパスポートを奪い、西側諸国に強制追放した。これによりレフ・トロツキーアレクサンドル・ソルジェニーツィンはソ連から出国したが、追放者の帰国を認めない点では、外国渡航禁止と同一の発想に立った政策であった。しかし政府の意に沿わない人間であっても、物理学者のアンドレイ・サハロフのような、軍事機密や技術の流出につながる人物は国外追放されずに、国内で軟禁、または流刑させる形を取った。

軍事

強力な軍事力

667BDR号計画「カリマール」型原子力戦略潜水巡洋艦(NATOからデルタIII型原子力潜水艦と呼ばれた)
ソビエト連邦軍のMiG-25PD迎撃戦闘機
ソ連から第三世界に最も多く輸出され、「人類史上最も人を殺した兵器」とも称されるAK-47

アメリカを筆頭とする西側諸国への対抗上、核兵器や核兵器を搭載可能な超音速爆撃機、大陸間弾道ミサイルや大陸間弾道ミサイルを搭載可能な原子力潜水艦、超音速戦闘機や戦車などを配備し、強力な軍事力を保持していた。

ソ連が製造した「ツァーリ・ボンバ」は広島型原爆の約3300倍の威力の世界最強の単一兵器である。

こうした強力な軍事力の維持は軍事費の増大をもたらして国家予算を圧迫し、その分インフラや流通システムなどの整備に遅れをきたし、結果的に国民経済を疲弊させた。また、1979年から10年続いたアフガニスタン侵攻は泥沼化し、何の成果もなく失敗。多大な戦費や人命を失っただけでなく、ソビエト連邦の威信をも低下させソ連崩壊を早めたとされる。

また、大韓航空機撃墜事件のような民間機撃墜事件を引き起こすなど、共産主義的な官僚主義と非人道的さが西側諸国の反発を買った。

軍事支援

また、ワルシャワ条約機構の中心国となり、東ヨーロッパ諸国に基地を置き、ハンガリー動乱プラハの春など衛星国での改革運動を武力鎮圧し、ワルシャワ条約機構加盟国のみならず、北朝鮮や中華人民共和国、キューバ北ベトナムなど、世界中の反米的な社会主義、共産主義国に対して小銃から爆撃機にいたるまで各種の武器を輸出した。現在でも第三世界にはソ連製の武器が大量に流通している。

それだけでなく、軍事技術をこれらの国に輸出した他、将校などを派遣して軍事訓練を行ないこれらの国における軍事技術の向上に寄与し、その中には、モスクワのパトリス・ルムンバ名称民族友好大学や各種軍施設などにおけるスパイテロリストの養成や資金供与、武器の供与なども含まれている。

なお、朝鮮戦争やベトナム戦争などの代理戦争の際には、友好国側を積極的に支援しただけでなく、朝鮮戦争においては当時の指導者のヨシフ・スターリンが、北朝鮮の金日成に対して事実上開戦を指示したと言われる。

また、冷戦期間を通じて、日本やアメリカ、ヨーロッパ諸国などの西側諸国や、南アメリカアジアアフリカ諸国の非社会主義政権国における社会主義政党や反政府勢力、非合法団体やテロ組織を含む反社会勢力、反戦運動団体(その多くが事実上の反米運動であった)に対する支援を行い、その中には上記と同じく各種軍施設などにおけるスパイやテロリストの養成や資金供与、武器の供与なども含まれていた。

科学技術

ファイル:Soyuz ASTP rocket launch.jpg
ソユーズの打ち上げ風景

航空宇宙技術では、アメリカとの対抗上、国の威信をかけた開発が行われた(宇宙開発競争)。人類初の人工衛星スプートニク1号」の打ち上げ成功、ユーリ・ガガーリンによる人類初の有人宇宙飛行の成功、宇宙ステーションミール」の長期間に渡る運用の成功などの宇宙開発の他、世界初の原子力発電所オブニンスクを建設するなど、ソ連は人類の巨大科学に偉大な足跡を残している。現代のロケット工学や宇宙開発の基礎は、ソ連のコンスタンチン・ツィオルコフスキーが築いたものである。

また、航空機でもミコヤン・グレビッチ設計局(ミグ)、イリューシン設計局、ツポレフ設計局などによって独創的な機構が開発された。 これらの宇宙研究や原子力研究は、関係者以外の立ち入りを許さず、地図にも記載されない閉鎖都市で行われることがあった。

一方で、工業以外の研究では遅れが目立った。特にスターリン時代では、科学的見地よりイデオロギーが優先されることがしばしばであり、特にルイセンコの提唱したルイセンコ理論等により、ソ連の農業は壊滅的な被害を受け、輸入国に転落した。 また、計画経済による工場の建設や開発は、時として実情を無視したものとなり、利益面や環境面で失敗することも度々であった。このため、地域によっては土壌や河川に深刻な環境破壊が発生し、多くの人が健康被害を受けることになった。しかし、チェルノブイリ原発事故に代表されるような、官僚的な隠蔽体質はこれらの被害を表面上は覆い隠し、被害を拡大させた。特にアラル海の開発計画は20世紀最大の環境破壊と呼ばれる事態を引き起こした。また、時には土木工事等に「国家経済のための核爆発」が使用されることすらあった。

また官僚体制の硬直は後期のブレジネフ時代以降特に顕著となり、進んでいたはずの原子力技術や航空宇宙技術でもアメリカに対して10年単位の後れを取るようになった。軍用の製品や技術を東芝日立などの日本のメーカーから導入することもあった(東芝機械ココム違反事件)。資源依存の構造から重厚長大産業を重視したために「軽薄短小産業」にも対応できず、半導体集積回路技術でも大幅に後れを取り、西側のようにコンピュータの急速な進歩と普及を実現することは出来ず、ハイテク分野で決定的に立ち後れることとなった。

経済

ソ連を成り立たせた経済モデルは、共産党が計画したノルマを労働者に課し、それを果たすというものだった。詳しくはソ連型社会主義を参照。

計画経済

経済面では計画経済体制がしかれ、農民の集団化が図られた(集団農場)。医療費等が無料で税が全く無いことでも知られた。1930年代世界恐慌で資本主義国が軒並み不況に苦しむ中、ソ連はその影響を受けずに非常に高い経済成長を達成したため、世界各国に大きな影響を与えた。しかし、その経済成長は政治犯思想犯を中心とした強制労働に支えられ、その富は共産党の上層部に集中して配分されていた実態がその後明らかになった。ジョン・ケネス・ガルブレイスは「資本主義諸国が1930年代に大恐慌と不況にあえいでいたとき、ソ連の社会主義経済は躍進に躍進を続け、アメリカに次ぐ世界第二の工業国になった。そして完全雇用社会保障をやってのけた」としながらも、1970年代には崩壊し始めたと総括している(しかし、1930年代当時のソ連経済の躍進の裏には、数百万人と言われる規模の強制労働従事者のほぼ無償の労働による貢献があったことを、ガルブレイスは見落としているか故意に無視していることに注意が必要である)。実際、1960年代以降は計画経済の破綻が決定的なものとなり、消費財の不足などで国民の生活は窮乏した。

また、流通の整備が遅れたため、農製品の生産が十分にあったとしても、それが消費者の手元に届けられるまでに腐敗してしまうという体たらくであった。そのために闇市場のような闇経済や汚職が蔓延し、そのような中で共産貴族がはびこるという結果になった。そもそも計画経済を他の産業と比べて自然に左右され、成果が保障されない第一次産業にも導入したのは大きな間違いであったといえる。毛沢東大躍進政策で生態系や、経済の常識をまるで無視した増産計画で大失敗をしたのもこれに起因している。

消費財の流通

フィアットとの技術提携を受けて開発された大衆車のラーダ1200

東西対立の世界構造の中で、重厚長大産業に高い技術と莫大な資金が投じられる一方、冷蔵庫洗濯機乾電池電子レンジなどの国民生活に必要な電化製品や、石鹸洗剤シャンプートイレットペーパーなどの一般消費財の開発と生産、物流の整備は疎かにされ、西側諸国に比べ技術、品質ともに比べ物にならない低レベルの電化製品でさえ、入手するために数年待たなければいけないというような惨憺たる状態であった。

ほとんどの電化製品や自動車の技術は、西側諸国の技術より10年以上遅れていたといわれている上、その多くがフィアットパッカードなどの西側の企業と提携し、旧型製品の技術供与を受けたもの、もしくは西側製品の無断コピーや第二次世界大戦時に接収したオペルの生産工場施設からの技術の流用であった。

なお、自動車の個人所有は共産党幹部などの限られた階級の人間に限られ、それ以外の階級のものが手にするためには、電化製品同様数年待たなければいけない状態であった。さらに労働者階級がジルヴォルガなどの高級車や西側諸国からの輸入車を所有することは事実上不可能であった。

貿易

上記のように、電化製品や消費財、工作機械や自動車などの技術や品質が西側諸国のそれに対して決定的に劣っていたことから、西側諸国に対しての輸出は、農産物魚介類などの第一次産品や、原油天然ガスなどのエネルギー資源が主であった。また、通貨ルーブル自体が、国外で通貨としての価値が低かったこともあり、エネルギー資源の貿易がある国を除いては、西側諸国との貿易収支はおおむね赤字であったか非常に少ないものであった。

モスクワの高級デパート「グム」

それに反して衛星国や社会主義国との間の貿易は、それらの多くの国の外貨が乏しかったことや、ココムなどの貿易規制により西側諸国からの貿易品目が制限されていたことから、一次産品やエネルギー資源はもとより、西側諸国では相手にされなかった電化製品や消費財、工作機械から自動車、航空機などの軍事物資に至るまでが輸出された。1975年の国別工作機械生産額でもソ連は世界3位である。また、その多くが事実上の援助品として、バーター貿易など無償に近い形で供給された。

輸入消費財

なお、西側諸国の電化製品や化粧品、衣類などの消費財の輸入、流通は原則禁止されていたものの、モスクワなどの大都市のみに設けられた「グム」などの外貨専用の高級デパートで入手することが可能であった。しかし、実際にそれらを購入することができるのは外国人か共産党の上層部とその家族だけであった。そのため、マールボロタバコリーバイスジーンズなど多くの西側製品が闇ルートで流通していた。

アメリカ合衆国との比較

1989年時点における米ソの比較
1990年のザ・ワールド・ファクトブックに基づくデータ[5]
ソビエト連邦 アメリカ合衆国
GDP (1989年 – million $) 2兆6595億ドル 5兆2333億ドル
人口 (1990年7月) 約2億9093万人 約2億5041万人
1人当たりのGDP ($) 9,211ドル 21,082ドル
労働力 (1989年) 約1億5230万人 約1億2555万人

ソビエト連邦はアメリカとは同レベルのGDPでなかったが、1989年までは世界2位の経済大国であり、アメリカ以上に巨大な面積と資源で超大国としての地位を得ていた。またアメリカと対等レベルの核兵器を保有しているとみられていたために、直接対決だと共倒れを招くために自国の軍事行動にアメリカを介入させる事は出来なかった。国内総生産また一人当たりのGDPもアメリカの1/2〜1/3ほどであった。

国民の生活レベルを犠牲にして、ひたすら工業投資と、軍事支出に資源を集中していた。1950年代に約15%だったソ連の投資率は、1980年代には30%に達し、軍事費率もある推定では1980年代中頃には16%に達していた。 1970年代以降、コンピュータや半導体といったハイテク部門の重要性が増すと、重工業優先のソ連ではその技術を導入するのが困難となり、技術進歩率は停滞、ついには設備の老朽化と相まって1980年代には技術進歩率はマイナスに陥ってしまった。

ソ連は1950年代〜1960年代初頭まで目覚しいペースでアメリカを追い上げており、「20年以内にアメリカを追い抜く」というフルシチョフの強気の発言も信じられていたが、1960年代に入るとそのペースは一服したものの、1975年にソ連の相対的な国力は対米比45%と頂点に達した。しかしその後は衰退局面に入り、逆にアメリカとの相対的な国力の差は拡大していった。

ソ連崩壊後、ロシアの軍事力と経済力は急激に衰え、アメリカとは一人当たりのGDPと軍事費において大きく差をつけられた。さらに、経済混乱の影響で、国民は最低限の生活も保障されず貧しさで苦しんだため、親米的でペレストロイカを行ったゴルバチョフを、「アメリカに魂を売った売国奴」や「裏切り者」と酷評する声も多い[6]

2011年現在、旧ソ連の構成国で資源に乏しい構成国は最貧国レベルである。

交通

モスクワのシェレメーチエヴォ国際空港

国民は自分の在住している地域以外への遠距離移動が事実上限られていただけでなく、国外からの旅行者のソビエト国内における移動に大幅な制限があったため、国内外の交通に対する需要は非常に限られていた。鉄道網は、長距離や近距離を問わず軍事転用が容易なことから比較的整備が進んでいたが、西側諸国と違い個人所有の自動車の数が限られていたことから、高速道路レンタカーなどの自動車インフラは貧弱なままであった。

外国への個人的理由での渡航は、亡命と外貨流出を防ぐということを主な理由に原則的に禁止されており、国交がある国であろうがなかろうが、当局の許可がない限り渡航は不可能であった。また許可が下りた場合でも様々な制限があり、個人単位の自由な旅行は不可能であった。しかしながら、国力と友好関係を誇示することを目的に、国外への航空機や船舶による定期便は比較的整備されていた。

航空

アエロフロート

アエロフロートのツポレフTu-104B
アエロフロートのイリューシンIL-62

広大な国土は主に航空機によって結ばれていた。国内の航空路線網は、唯一にして最大の航空会社で、ナショナル・フラッグ・キャリアである国営アエロフロート・ソビエト航空によって運行されており、長距離国際線から国内幹線、航空機によってのみアクセスが可能な僻地や、舗装された滑走路が整備されていない地方空港への運行が可能なように、超音速旅客機を含む大型ジェット機からターボプロップ機、小型複葉機や大型貨物機まで様々な機材を運行していた。

なお、使用機材の殆どは、イリューシンツポレフヤコブレフなどの国産機材であったが、一部はチェコスロバキアやポーランドなど東側友好国の機材も導入されていた。

国際線

同じく国際線もアエロフロートによってのみ運行されていたが、ソビエト国民の海外渡航や国外からの旅行者のソビエト国内における移動には大幅な制限があった。一方で、国力と友好関係を誇示することを目的に、西側の主要国や東欧の衛星国、キューバやアンゴラ北朝鮮などの友好国をはじめとする世界各国に乗り入れを行っていた。

しかし、その目的から完全に採算度外視で運行していたために格安な航空料金で提供していたものの、そのサービスは西側諸国のものには遠く及ばなかったことから、西側諸国の多くでは格安な料金と劣悪なサービスでのみ知られていた。

また、海外からは多くの友好国の航空会社がモスクワなどの大都市を中心に乗り入れていたほか、日本やアメリカ、イギリスや西ドイツなどの西側諸国からも、日本航空パンアメリカン航空英国海外航空ルフトハンザ・ドイツ航空などの航空会社が乗り入れていた。

なお、日本との間は日本航空とアエロフロートが東京羽田空港成田空港)、新潟新潟空港)とモスクワ、ハバロフスクイルクーツクとの間に定期便を運行しており、一部路線においてはコードシェア運航も行われていた。

鉄道

シベリア鉄道を代表とする鉄道網によって各都市が結ばれていた他、衛星国を中心とした近隣諸国に国際列車も運行されていた。なお、モスクワやレニングラード(現:サンクトペテルブルク)などのいくつかの大都市には地下鉄網が整備されており、社会主義建設の成功を誇示する目的で、スターリン時代に建設された一部の駅構内は宮殿のような豪華な装飾が施されていた。

自動車

個人による自動車の所有だけでなく、自分の在住している地域以外への遠距離移動が事実上限られていたこともあり、西側諸国で行われていたような高速道路による国民の自由な移動は一般的なものではなかった。なお、大都市の市街地にはトロリーバスを含むバス路線網が張り巡らされていた。

言論・報道

国内向け報道管制

上記のように外国の放送の傍受が禁止されていた上、テレビラジオ新聞などのマスコミによる報道は共産党の管制下に置かれ、国家や党にとってマイナスとなる報道は、1980年代にグラスノスチが始まるまで流れることはなかった。

このような規制は外国の事件や、チェルノブイリ事故大韓航空機撃墜事件のような国際的に影響がある事件に対してだけでなく、国内の政治、経済的な事件も、党幹部の粛清や地下鉄事故、炭鉱事故のような事件に至るまで、それが国家や党に対してマイナスの影響を与えると判断されたものはほとんど報道されることがなかったか、仮に報道されても国家や党に対して有利な内容になるよう歪曲されていた。そのため、西側の国でオリンピックなどがあると、そこで初めて真実を知ったソ連の選手や関係者がそのまま亡命希望するケースが頻発した。

ロシア革命以前の支配者のニコライ2世やその家族を裁判なしに銃殺した真実は、1979年に地質調査隊が皇帝一家の遺骨の発掘を行い、KGBに逮捕された事例がある。しかしソ連崩壊後にロシアでは70年以上も隠蔽されたこの事実が明らかになり、ロシア革命から80年を経た1998年に葬儀が行われた。

外国向け報道管制

なお、西側諸国の報道機関の特派員は基本的に国内を自由に取材、報道することは禁じられており、事前に申請が必要であったがその多くは却下され、たとえ許されたとしても取材先の人選や日程は全てお膳立てされたものに沿わなければならなかった。また、モスクワオリンピックなどの国際的イベントや、西側諸国の首脳陣の公式訪問が行われる際にソ連を訪れた報道陣に対しては、このようなお膳立てされた取材スケジュールが必ず提供された。

また、西側諸国の報道機関で働くソビエト人従業員も自主的に選択することは許されず、当局から宛てがわれた者を受け入れるのみとされ、その多くが西側諸国の報道機関やその特派員の行動を当局に報告する義務を負っていた。

「クレムリノロジー」

赤の広場

国内における報道管制の一環として、共産党書記長などの党の要人が死去した際には、党による正式発表に先立ち、テレビやラジオが通常の番組を急遽停止し、クラシック音楽もしくは第二次世界大戦戦史などの歴史の映像に切り替わり、クレムリンなどの要所に掲揚されている国旗が半旗になるのが慣わしであった。このため、国民(と西側の報道機関)の多くは、テレビやラジオの番組が変更され、要所に掲揚されている国旗が半旗になる度に、どの要人が死去したかを推測しあっていたと言われている。

また、党の要人が失脚した(もしくは粛清された)際にはその事実が即座に政府より正式発表されることはまれで、このため西側諸国の情報機関員や報道機関の特派員は、メーデーなどをはじめとする記念日のパレードの際にクレムリンの赤の広場の台の上に並ぶ要人の立ち位置の変化を観測し、失脚などによる党中央における要人の序列の変化を推測し、これを「クレムリノロジー」と呼んでいた。

プロパガンダ

ソビエト連邦のプロパガンダは現代の手法を先駆けるものであり、ソ連は世界初の宣伝国家と呼ばれる(en:Peter KenezのThe Birth of the Propaganda State;Soviet Methods of Mass Mobilization 1985)。映画ではレーニンの「すべての芸術の中で、もっとも重要なものは映画である」との考えから世界初の国立映画学校がつくられ、エイゼンシュテインモンタージュを編み出したことにより、当時としては極めて斬新なものになり、その精巧さは各国の著名な映画人や、後にナチス党政権下のドイツの宣伝相となるヨーゼフ・ゲッベルスを絶賛させた。宣伝映画を地方上映できるよう、移動可能な映写設備として映画館を備えた列車・船舶・航空機が製造・活用された(例:マクシム・ゴーリキー号)。看板やポスターではロシア・アヴァンギャルドから発展した力強い構図・強烈なインパクトのフォトモンタージュが生まれ、これは世界各国でしきりに使われた。

特にバベルの塔にも例えられる世界最大最高層の超巨大建築物を目指したソビエト・パレスは後世の建築家だけでなく、形態的にはイタリアドイツ日本などの建築に大きな影響を与えた。日本でもソビエト・パレスの計画を見て丹下健三が建築家を目指すに至った。当時世界一高い建造物であったオスタンキノ・タワーも完成させた。スターリンはモスクワをニューヨークのような摩天楼にするため、スターリン様式の建物を多く建設した。ソ連のプロパガンダはイワン・パヴロフレフ・ヴィゴツキーなどの心理学者の理論に基づいていた点で先駆的だったと評するものもいる。他にもボリス・ロージングブラウン管を使ったテレビを世界で初めて発案するなど、テレビの研究も活発だった。

宗教

正教弾圧

爆破される救世主ハリストス大聖堂

ロシア革命によって無神論を奉じるソビエト連邦が成立すると、ロシア帝国の国教であった正教(組織としてはロシア正教会のほか、ウクライナ正教会グルジア正教会などを含む)は多数の聖堂や修道院が閉鎖され、財産が没収された。後に世界遺産となるソロヴェツキー諸島の修道院群は強制収容所に転用された。

また、聖職者や信者が外国のスパイなどの嫌疑で逮捕され、また多数の者が処刑され致命した。初代の京都主教を務めたことのあるアンドロニク・ニコリスキイ大主教は生き埋めの上で銃殺されるという特異な致命で知られる。当初は無神論を標榜するボリシェヴィキに対して強硬な反発を示していたモスクワ総主教ティーホンであったが、想像以上に苛烈な弾圧が教会に対して行われていく情勢に対して現実的姿勢に転換し、ソヴィエト政権をロシアの正当な政府と認め一定の協力を行ったが、教会の活動はなお著しく抑圧された。

1921年から1923年にかけてだけで、主教28人、妻帯司祭2691人、修道士1962人、修道女3447人、その他信徒多数が処刑されたが[7]、1918年から1930年にかけてみれば、およそ4万2千人の聖職者が殺され、1930年代にも3万から3万5千の司祭が銃殺もしくは投獄された[8]1937年1938年には52人の主教のうち40人が銃殺された[9]

政府の迫害を恐れ多数の亡命者も出た。亡命者達の中からはセルゲイ・ブルガーコフウラジーミル・ロースキイパーヴェル・エフドキーモフイリア・メリア(メリアはグルジア人)など世界的に著名な神学者が輩出され、20世紀初頭まであまり知られていなかった正教の伝統が海外に知られるきっかけとなった。

1931年にはスターリンの命令によって救世主ハリストス大聖堂が爆破された。

1940年代に入ると、独ソ戦におけるドイツの侵攻に対して国民の士気を鼓舞する必要に駆られたスターリンは、それまでの物理的破壊を伴った正教会への迫害を方向転換して教会活動の一定の復興を認め、1925年に総主教ティーホンが永眠して以降、空位となっていたモスクワ総主教の選出を認めた(1943年)。この際にそれまで禁止されていた教会関連の出版物が極めて限定されたものではあったものの認められ、1918年から閉鎖されていたモスクワ神学アカデミーは再開を許可された。

ただし、1940年代半ばにはソ芬戦争以後、ヴァラーム修道院のある地域がソ連領となったため、ヴァラーム修道院の修道士達はフィンランドに亡命し、この結果フィンランド正教会新ヴァラーム修道院が設立されるなど、ソ連における正教弾圧は亡命者が出る事がないほどにまで緩和された訳ではない。

スターリンの死後、フルシチョフは再度、正教会への統制を強化。緩やかかつ細々とした回復基調にあったロシア正教会は再度打撃を蒙り、教会数は半分以下に減少。以降、ソ連崩壊に至るまでロシア正教会の教勢が回復することは無かった。

イスラム弾圧

広大な国土の中でも、中央アジア地域ではイスラム教が大きな勢力を持っていたが、ソビエト連邦の成立とともに正教など他の宗教とともに弾圧されることとなった。しかし人々の心の中の信仰心までは抑えることができず、他の宗教と同じくソ連崩壊後は教勢が回復した。

なお信仰されていた地域に偏りはあったものの、全ソビエト連邦領内におけるイスラム教徒の人口は最終的に7000万人前後にも達し、総人口の実に4人に1人がイスラム教徒(もしくはイスラムを文化的背景に持つ人)で占められていた。この数字はイラントルコエジプトなどの総人口にも匹敵し、ソビエト連邦は総人口においても、国民に占める割合においても、非イスラム教国家としては最大級のムスリム人口を抱える国家となっていた。

またイスラムが多数派の地域以外のロシア連邦等の諸州においても、イスラムを背景に持った諸民族、特にタタール人アゼルバイジャン人が全土に居住し、ソビエト連邦内のどの地域においても一定数のイスラム社会が存在していた。この点は同じ非イスラム教国でありながら全土にイスラム社会を内包しているインド中国とも共通していた。

ただソビエト連邦におけるイスラムは、中国やインドとは異なり、多数派民族と、文化、言語、血統、形質などを共有する集団、具体的に言えば、スラヴ系のロシア人等と文化や言語を共有する集団の間にはあまり広まらなかった。ソビエト連邦内のイスラムはあくまでテュルク系イラン系コーカサス系などの、(多数派民族であるロシア人から見た)異民族の間で主に信仰されていた。また全土に幅広く分散していたイスラム系民族のうちタタール人の間にはスンニー派が多く、アゼルバイジャン人の間にはシーア派が多いため、両派が近い比率で全土に散らばっていたこともユニークである。この点はソビエト連邦崩壊後も、ロシア連邦において引き継がれている。

その他の宗教弾圧

正教のみならず、カトリック教会東方典礼カトリック教会を含む)、聖公会プロテスタントも弾圧を受けた。

文化

芸術

言論・表現の自由がなかったため、文学者の中には亡命を余儀なくされるものや、ノーベル文学賞受賞のボリス・パステルナークのように受賞辞退を余儀なくされるもの、同じくノーベル文学賞受賞の ソルジェニーツィンのように国外追放されるものがいるなど、文化人にとっては受難が相次いだ。

革命直後のソ連ではウラジミール・レーニンが革命的な前衛芸術を奨励したため、抽象芸術構成主義が生まれ、ロシア・アヴァンギャルドは共産党のいわば公認芸術となっていた。当時のソ連は世界初の電子音楽機器テルミンが作られ、モンタージュ理論が生まれるなど前衛芸術のメッカと化しており、外国から不遇だった多くの前衛芸術家がソビエト連邦の建設に参加した。例えば、前述したソビエト・パレスの計画にはル・コルビュジエヴァルター・グロピウスエーリヒ・メンデルスゾーンオーギュスト・ペレハンス・ペルツィヒといった新進気鋭のモダニズム建築家たちが関わった。レーニン自身もダダイストだったという学説も出ている(塚原史『言葉のアヴァンギャルド』)。また、フセヴォロド・メイエルホリドがアジ・プロ演劇手法の確立、古典の斬新的解釈に基づく演出、コメディア・デラルテ、サーカスなどの動きと機械的イメージを組み合わせた身体訓練法「ビオメハニカ」の提唱などを次々と行い1920年代におけるソビエト・ロシア演劇はもとより20世紀前半の国際演劇に大きな影響を与えた(スターリン政権期にはスタニスラフスキー・システムがあった)。

スターリン政権下の1932年に行われたソ連共産党中央委員会にて「社会主義リアリズム」の方針が提唱されて以降は、1930年代前半のうちに文学や彫刻、絵画などあらゆる芸術分野の作家大会で公式に採用されるに至り、これにそぐわぬものは制限され、次第に衰退することを余儀なくされた。

一方でバレエなどのロシアの伝統的な芸術は政府の後援の元高い水準を維持し、クラシック音楽でも、当局による制限を受けながらショスタコーヴィチらが作品を残し、ムラヴィンスキー率いるレニングラード・フィルハーモニー交響楽団などが演奏を残している。

ソ連を描いたもしくは題材にした映画

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戦艦ポチョムキンのポスター

ソ連を描いたもしくは題材にしたゲーム

ソ連を描いたもしくは題材にしたアニメ

  • ウサビッチ(日本)
  • Axis powers ヘタリア(作中では時代がまちまちなため「ロシア」として扱われ、ソ連は「皆で住んでいた家」となっている。)

ソ連の社会主義体制が描かれている作品

  • 007シリーズゴルゴ13等、40年代から90年代までの世界情勢を背景とするフィクション作品において、ソビエト連邦は頻繁に描かれている。特に諜報機関KGBの暗躍や、政府高官や科学者の亡命事件等がよく題材となる。作成された国が西側諸国であるためと、ソビエト連邦の内部が不明であったために、ソビエト連邦の関係者は悪役として描かれることも多い。
  • ウォッカ・タイム片山まさゆき

外来文化

西側諸国で人気のあったロックンロールヘヴィメタルジャズなどの音楽や、ハリウッド映画などの大衆文化は、「商業的で、退廃を招く幼稚なもの」として規制され、わずかに北ヨーロッパ諸国や西ドイツなどのポピュラー音楽や、衛星国や日本、イタリアなどの芸術的要素の高い映画のみが上映を許されていた。また、外国のラジオ放送を傍受することも禁止されていた。

スポーツ

ステート・アマチュア

運動競技では国の威信をかけた強化策がとられ、いわゆるステート・アマ(ステート・アマチュア)と呼ばれる国家の選手育成プログラムによって育成させられた選手が、オリンピックで数多くの栄冠を手にしている。特にアイスホッケーバレーボールバスケットボールホッケーなどの強豪国として知られオリンピックのメダル獲得数が殆ど首位であった(オリンピック初参加後のメルボルンオリンピックから)。しかし崩壊後にそれらの選手の多くが違法ドーピングなどによる薬漬け状態であったことが当事者の告白により明らかになった。

なお、共産主義というシステム上、全てのスポーツが国家の管理下におけるアマチュアスポーツであると言う位置づけであり、よって資本主義諸国のようなプロスポーツ及びプロ選手は存在しなかった。

モスクワオリンピック

モスクワオリンピックのエンブレム

1980年に、ソビエト連邦の歴史上唯一の夏季オリンピックであるモスクワオリンピックが行われた。冷戦下ということもあり、国の総力を挙げてオリンピックの成功を目指したものの、前年に行われたアフガニスタン侵攻に対する抗議という名目で、日本や中華人民共和国、西ドイツ、アメリカなどがボイコットを行い事実上失敗に終わった。

しかし、これ以降ソビエト連邦の崩壊までの間夏季、冬季ともにオリンピックが再び行われることはなかった(ソ連崩壊後の2014年にはロシアのソチで冬季オリンピックが開催されることになった)。

そして、次回1984年開催されたロサンゼルスオリンピックでは、1983年のアメリカ軍によるグレナダ侵攻への抗議という名目で、ソビエト連邦と東ドイツのメダル王国をはじめ、ソ連の衛星国である東側諸国の多くがボイコットした。

頭脳スポーツ

ソ連代表のミハイル・タリとアメリカ代表のボビー・フィッシャーの対局(1960年、ライプチヒ

識字率が30%であった革命直後から数十年で87%に改善させ、戦後にほぼ100%を達成させるなど基礎教育は充実していた。さらに国威発揚のため専門のトレーニングへの公的な補助が行われた結果、数学オリンピックなどの頭脳系スポーツでは強豪国となった。

特にチェスは伝統的に盛んで、国民にとっても公認されている数少ない娯楽であったが、ソ連時代には国が管理するチェス学校が各地に建設され、体制が崩壊するまでは世界最高の水準を保っていた。また国内選手権の開催や書籍の出版なども盛んだった。ちなみにコンピュータチェスの研究も盛んで、第1回世界コンピュータチェス選手権でもソ連のプログラムが優勝し、アラン・コトック率いるMITとモスクワ理論実験物理研究所によって行われた世界初のコンピュータ同士のチェス対戦でも勝っている。

チェス界ではプロとアマの区別がないため、ミハイル・タリミハイル・ボトヴィニクガルリ・カスパロフなど、ソ連出身の選手が世界王者を長期にわたって[10]独占していた。また一時期は国際大会に出られなかったグランドマスター級の国内選手に対し、ソ連のチェス協会が「ソ連邦グランドマスター」という独自のタイトルを創設したこともあったが、次第にトップ選手ならば試合渡航も許可されるようになった。しかし有力選手がこれを利用して亡命することもあった。特にヴィクトール・コルチノイは亡命後「西側の選手」としてアナトリー・カルポフらソ連代表と国際大会で対戦したことがあり、ソ連側から非難を受けることとなった。

ソ連代表と西側の選手がチームで対戦することもあったが、特にボリス・スパスキーとアメリカ人のボビー・フィッシャーが対戦した1972年の世界王者決定戦は試合の進行を巡り、クレムリンやホワイトハウスが介入するなど、政治的な問題にまで発展することがあった。また敗れたスパスキーはその後の待遇悪化などで、1975年にはフランスへ亡命した。

体制崩壊後は西側へ拠点を移す選手もいたが、ウラジーミル・クラムニクなど、ソ連時代のチェス学校で教育を受けた選手が多数活躍している。また旧東ドイツや近隣の東欧諸国でもソ連と似た状況にあった。

脚注

  1. ^ 蘇連(それん)とも表記された。「蘇」は、「ソビエト」の漢字音訳である「蘇維埃」の頭文字である。
  2. ^ 中山研一「ソビエト刑法」P.266
  3. ^ 共和国別ではロシア共和国で71%、ウクライナ共和国で70%、白ロシア共和国で83%、カザフ共和国で94%、ウズベク共和国で90%、キルギス共和国で95%、タジク共和国で96%、トルクメン共和国で98%、アゼルバイジャン共和国で93%が連邦制維持に賛成票を投じた。ただし独立志向を強めていたバルト三国グルジア共和国、アルメニア共和国、モルドバ共和国の6つの共和国では投票はボイコットされた
  4. ^ 西側で同様の役割を与えられていた航空会社として中華民国民航空運公司がある。
  5. ^ THE WORLD FACTBOOK 1990 ELECTRONIC VERSION” (英語). アメリカ中央情報局 (1990年). 2010年9月5日閲覧。
  6. ^ 米ソの興亡1947~1991”. 2010年9月5日閲覧。
  7. ^ 高橋保行『迫害下のロシア正教会 無神論国家における正教の70年』83頁、教文館、1996年 ISBN 4764263254
  8. ^ 前掲『迫害下のロシア正教会 無神論国家における正教の70年』125頁
  9. ^ 前掲『迫害下のロシア正教会 無神論国家における正教の70年』126頁
  10. ^ 1927年~1935年、1948年~1972年、1975年~1999年、2000年~2007年

関連項目

外部リンク

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