放送問題用語

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放送問題用語(ほうそうもんだいようご)は、俗に言う日本放送禁止用語のことで、日本のテレビラジオといったマスメディアにおいて、何らかの理由によりその放送における使用を禁じられる、あるいは制限されている言葉のこと。過去の日本放送協会(NHK)での正式呼称[1]でもある。2008年(平成20年)、NHKが放送ガイドラインに「放送可能用語による放送」を示し、民間放送(民放)各社もおおむねこれに追従したことから、以降、長年、各局に存在した、門外不出の用語対制限理由を示したいわゆる「放送問題用語リスト」は過去のものとなっている。

概要

放送問題用語は各放送局が自主的に定める放送基準(番組基準あるいは放送コードなどとも言う)の「解釈」の中に存在している。各民間放送局(民放)もその呼称に違いはあるが、概ねNHKと同じ内容のものを定めて運用してきた。なおこれは言葉のみならず表現についても同じである。

放送通信と異なり、不特定多数に一斉に情報を伝達することを目的とするものである。このため、その社会的責任は重く、その内容には正確性に加え「健全なもの」が求められる。当然、放送に用いる言葉や表現はこれを阻害するものであってはならない。

日本では日本国憲法により言論・表現の自由が保証され、NHK、民放による放送もその保護下にあるが、もとより表現の自由は絶対的で無制限なものではない。放送はジャーナリズム機能を持ったマスメディアである。ニュースやドキュメンタリーに限らず他の番組についても程度の差こそあれ、ジャーナリズム性を帯びているといえる。加えて放送には聴覚性、視覚性、同時性、臨場性があり、活字メディアなどに比べ受け手に与えるインパクトがはるかに強く、社会的影響力が大きい。また人類共通の財産である電波を利用することから「公共性」が極めて高いということになり、放送にはいわゆる「中立性」や「健全性」が求められる。 このことから概ね「公序良俗」に反する、すなわち差別的あるいは侮蔑的、卑猥犯罪を肯定しこれを模倣・助長させる意味などを持つ言葉や表現などで、放送の中立性・健全性を阻害する、もしくはその恐れのあるものについて、「放送に用いるのに不適切な言葉や表現」として「解釈」、規制の対象とし、放送に用いない、あるいは放送に用いることに一定の制限を「放送の責任」として自ら設ける(自主規制する)ものとした[2]

放送における言論、表現の自由を制限し「放送の責任」を果たすためには、当然その「根拠」が必要となるが、戦後日本の放送においては、元来曖昧で流動する「公序良俗」の概念と、放送は一般に電波を利用することから、電波法第1条にある、極めて広い概念である「公共福祉増進」からはじまる各条項にその根拠を求めた。このため日本国憲法に保障された言論・表現の自由とは自然に矛盾が生じる。加えて『放送問題用語はこの言葉とこの言葉…』などと特に規定されたものはなく、あくまでも放送局の判断により、言葉や表現に対して自主規制がなされているため、ともすれば「言論・表現の自由」と「言論・表現による暴力」が表裏一体の関係になること、さらに「言葉は生き物」であることなどから「放送に不適切な言葉や表現」の解釈などに関する論争は絶えず、場合によっては法廷闘争にまで至ることがある。

詳細な放送問題用語の設定とその取り扱いについては、各放送局ともに現在でも「関係者限り」としている(数少ない例として、司法により認められ、公にされた言葉に「めかんち」「ちんば」がある[3])。これは、根本的に放送における表現の規制は各放送局の自主的な判断=主観的判断により行われるものであり、各放送局の自由な思想の範囲、究極的には「放送従事者の良識の範囲」であることから[4]、放送番組に関わる者それぞれの思想の違いにより、「偏った根拠」によるものであるのが普通であり、放送問題用語を公表することは、自然、自らの掲げる「中立性」と矛盾することになるという判断がなされるためである。しかしこの大元となる判断基準についても何ら「客観的な正しさ」はない。

近年、NHKはこれらの問題に対するひとつの答えとして、約半世紀にわたるNHK独自の言語研究の結果をまとめ、2008年(平成20年)その新放送ガイドラインに、「放送の用字・用語・発音は、『NHK新用字用語辞典』、『NHKことばのハンドブック』および『NHK日本語発音アクセント辞典』に準拠する」と明記、すなわち、「NHKの考える放送可能用語」について公開[5]、大衆の判断を仰ぎ、適宜、加除するものとした[6]。 民放各社もおおむねこれに追従しており[7] 、したがって、『NHK新用字用語辞典』、『NHKことばのハンドブック』にない言葉や用法などが実質的な放送禁止用語となったことから、長年、各局に存在した、用語対制限理由を示したいわゆる「放送問題用語リスト」は過去のものとなっている。

なお、過去に制作された映画、あるいは文学作品の朗読などにおいて、現在では放送上不適切とされる言葉や表現がそのまま放送されることがある。これらは「作品制作当時の背景やオリジナリティ」「作品原作者の意思(遺志)尊重」などに配慮したもので、その旨の断わりが併せて放送されることが多い。

日本人の権利意識と日本独特の放送問題用語

放送は「社会を写す鏡」であるが、今日、特に日本人の人権に関する意識の低さ[8]が指摘され、社会的弱者、特に精神障害者などに関する言葉、表現には極めて厳しい制限が課せられるようになっている。特に精神障害者に対する社会的認識の低さ、その結果である社会的ケア体制の貧弱さなどは、具体的な数字をもって世界最悪とされ[9]、数々の、特に人権に係る放送問題用語の「事実上の存在」とそれによる厳しい規制[10]は、今日その裏に、これまでの「たかが放送コード」などと笑いごとでは済まされない深刻さを孕むようになっている。

特に精神疾患などは珍しくもなく、誰でも罹る可能性のある病、事実今日、日本では常に100万人を優に超えている精神病患者に対する社会的ケア体制が、数々の政策をもってしても満足に構築できず不十分、結果、日本のみが既に世界的には過去のものとなっている入院中心型治療体制から脱却できず、患者の桁違いに長い平均在院日数、すなわち治癒あるいは快癒したのにもかかわらず、特に社会的に受け入れ先がないがために多くが退院できない事態に陥っている実態[11]、後述するが、一度でも精神病を患った者は、完全治癒しても各種保険などへの加入資格を生涯、はく奪される、各種資格の取得などを生涯に渡り制限または拒否され就業に影響、経済的困窮を招き、社会的負担を大きくする[12]、それらを鑑み、放送で厳しい言葉、表現の規制を実施しているようでは、人権最後進国、日本人の人権意識は世界最低であるとの誹り(根拠に乏しい主観的あるいは単なる誤解であるかもしれないものも含めて)を受けても仕方がないことは言及するに及ばぬことであろう[独自研究?]

そもそも過去、具体的かつ詳細に多くの言葉、表現に対して制限を加え「放送問題用語」としてリスト化していた、そして今日ではその逆に膨大な「放送可能用語」「放送可能表現」を定めて「放送用語事典」とし、放送に用いるのはそれに示された言葉、表現に限定するというのはおよそ日本だけのことである。特に人権意識は言葉や表現だけを制限、最終的に「ないもの」にしたところで、所詮は問題を先送りするだけのことであり、決してその高揚に貢献するものとはならない[13]

今日の日本の「人権」は、欧米諸国のように大衆の直接の流血闘争によって得たものではなく、欧米諸国などでの「闘争結果」を輸入、アレンジの後、法や決まりごととして成立させていることから「自律」ではなく「他律」、詳細な法や決まりごとによらないと人権を擁護することが難しいという弱点があるとされる。放送問題用語のほとんどが人権に関わるものであり、そもそもこのことから作られたものが日本独特の「放送問題用語リスト」なるものである。

人権など、日本の大衆の最も基本的な権利獲得の観点から日本史を概観すると、それは世界的に特異なものであることがわかる。すなわち日本では有史以来、時の国家体制そのものを直接に一般大衆が打倒、新規構築したことがなく、それぞれの時代の関係者、つまり時の実力者対実力者による闘争により国家体制が作り直され、さらに現在の国家基本体制も戦後、勝者である連合軍によって指導、形成されており大衆が直接、ゼロからの国家形成に参加した経験を持たない。従って日本の大衆には自力で各種の最も基本となる権利を獲得した経験がない。対して欧米諸国を中心とする諸外国では特に近世以降、大衆流血による直接の国家転覆、直接の国家構築、各種の最も基本となる権利獲得が繰り返されており、権利に対する大衆意識、すなわち権利に対する価値観そのものが日本と諸外国では大きく違うとされる[誰によって?]

わかりやすい例としてよく挙げられるものが、TBSの長寿人気番組であった「水戸黄門」である。チーフプロデューサーを務めた中尾幸男は、番組終盤、水戸黄門の身分を明かす印籠が登場、悪党がひれ伏す「定番シーン」をあえてはずしてみたところ、視聴者から惨憺たる評価を受けたことを明かしている[14]が、諸外国との違いはまさにここである。すなわち社会は元来、大衆の認めた基準にのっとり公正に運営されなくてはならず、そのために政府があるはずなのであるが、日本では「誰か正しい人の言うことに従って、運営されなければならない。」つまり権利は「与えられるもの」という伝統的な支配のあり方が大衆に根強くあり、本来は「ルール違反」の「水戸黄門」が日本人に広く受け入れられたのである[15]。水戸黄門シリーズは2011年をもって終了となったが、その継続を求める声は多く、水戸市長はTBSに放送継続を求める10万人分の署名を提出しており[16]、日本人独特の意識がよくわかる例である。海外諸国では水戸黄門タイプのものではなく、むしろ全く逆に「民衆による権力対抗、打倒型」のものが好まれ、時代劇に限らず、現代劇、SF、刑事ドラマ、果ては子供向けアニメーション(日本でも放送されているものとしては、英BBC制作、ひつじのショーンなどが代表例)まで、日本の作品構成とは大きな違いがある。

つまり、日本の大衆にとって権利とは未だ、諸外国大衆の「自ら考えて自力、実力で獲得、維持するもの」すなわち「権利には民主的な法の支配が必須」とはなっておらず、ここから派生して「法はともすれば人権を奪うもの。」という欧米諸国などの大衆根底意識に対し「人権は正しき者から与えられた法によって護られる。」というのが日本の大衆根底意識となり、結果、日本では「正しき者の考えた法や決まりごとを遵守することこそが人権擁護である。」の独特の解釈が大衆に定着しているとされる。ところがこの「正しき者」は、客観的根拠をもって「正しき者」とされているわけではなく、また法は「需要より作られる」ものであるから、日本では権利に関する法は常に後手に回る。このことから日本独特の詳細な「放送問題用語リスト」なるものが作られ[17][18][19][20][21][22][23][24][25]、今日それが過去のものとなっているにもかかわらず、本稿のように、他国、他言語のWikipediaではおよそ見受けられない、類似具体的詳細なリストが日本ではなおも大衆に求められる格好になっている。これは世界的に類例のない恥ずかしいこと、そして後述のように危険なことであると言わざるを得ないであろう[26]

放送問題用語リストの廃止と未熟な放送人の露呈

2008年(平成20年)、NHKが放送ガイドラインに「放送可能用語による放送」を示し、民間放送(民放)各社もおおむねこれに追従したことから「放送問題用語リスト」は概ね過去のものになった。そして代わりに膨大な量の「放送可能用語」「放送可能表現」による放送が要求されるようになった。

しかし現実的に「放送可能用語」「放送可能表現」を全て「暗記」することはおよそ不可能であり、いよいよ、放送基準の精神解釈が第一、すなわち放送に携わる個人がそれまでに身に付けた「良識」に、放送基準の精神を加えたものが「放送基準マインド」であるとされ、「放送に携わる者それぞれの持つ自主基準」によって運用される[27]ようになったわけであるが、その結果、過去に例のない「セシウムさん騒動」のような人権軽視も甚だしい極端な事態や、そこまでではないにせよ、これもまたおよそ過去に例のない、すなわちバラエティー番組で、虚偽となるテロップを表示、その「下手なとりつくろい」をし、視聴者からの厳しい批判を受け、またそれを素直に認め、肝心の「なぜそのような事態に至ったのか、今後の再発防止策をどうするのか」の説明もなく、頭を下げるだけで、そのまま番組打ち切りにすることを発表[28]、打ち切った後から「視聴者の批判を重視した。再発防止に向け番組制作では表現に関するチェックなどはもっともっとやらなければいけないと思っているし、不適切な表現をしないよう社内でも研修などを通じて再発防止策の徹底を図っている。」とコメントを発表、これに対して放送倫理・番組向上機構(BPO)放送倫理検証委員会が「視聴者の信頼という放送倫理の根本を裏切った」として審議対象とすることを決定するなど、後手後手なうえに不透明(当該放送局のコメント内容からは、なぜそうなったのか、具体的にこれからどうするのか、すなわち最も肝心な放送局の「自浄作用」が全く見えない。)、さらにBPOの審議に「素直に協力する」とコメントを加える(過去、BPOの審議決定前には詳細な「顛末報告」がなされてきていたがそれすらなく、BPOの決定を待つ、つまり「自浄できない」ことの表明。)など[29]、放送業界全体の責任が厳しく問われることにもなっている。すなわち日本の「放送人」は、人権最重視の根本・肝心なジャーナリストとしての「自律」(「自立」でもある)ができておらず、放送局どころか、放送人個人レベルで世界的におよそ通用しないということが、あからさまに露見するようになっており、「マスゴミ」など、厳しい大衆の批判を受け、後述のように今後、公権力による表現介入・表現統制をいよいよ許しかねない事態にまで至っている。表現の自由は絶対的で無制限なものではなく、その制限には自主的、良心的な判断が第一であることを放送局自身が宣言しているわけであるが、これらの現実は、言葉、表現の自主規制以前に、それを実施するための大元=放送倫理が揺らいでいることの露呈、戦後日本の民主放送において未曾有の事態である。

未熟さに侵入する公権力と「民間放送」消滅の危機

従来、少なからず公権力介入の動きのあった日本の放送であるが、それに都度抗し、介入を許さず今日に至ることができたのは、日本の放送は終戦直後の「フリー・ラジオ」運動を原点とするものであり、曲がりなりにも大衆の信任を得続けてきたためである。日本の放送波は国民より放送局が負託されて利用している大原則があり、大衆からの信任が得られなくなるならば、公権力による表現介入・統制以前の問題として、放送局は国民に放送波を返納しなければならない。

今日の日本の「マスゴミ」批判は、従来日本の、また海外諸国での大衆のマスコミ批判とは異なり低レベル、すなわち「倫理」と「権利」(放送の場合には主に人権であるが。)が混同、結果、その内容は「具体的な是正案」のない「単なる文句ばかり」になっている(対して欧米では、一般個人視聴者からのマスコミ批判でも、必ずといえるほど「建設的是正案」が付いてくる。)ことから、このままでは日本の放送全体の崩壊を招く危険性がある、否、既に始まっている崩壊を、誰も止めることができなくなっているのではないのかとの危惧の声があがりはじめ、放送局でさえ、例えば「放送倫理の明文化」=「完全マニュアル化」を求めている実態がある[30]

特に日本の民間放送は「大衆による大衆のための放送」であることが、法またその解釈上も明確であり「放送監理者」は放送局ではなく大衆である。すなわち放送による表現の自由、言論の自由を護るのは、放送局ではなく大衆、すなわち視聴者である。国際法上も放送電波の監理権者は主権国家であると規定されていることから、放送を大衆が監理できない、監理責任を果たすことができないと権力者(日本の場合には電波行政、すなわち総務省)が判断すれば、国権を発動、「公共放送」、すなわち公権力の広報活動に協力することを義務付けられているNHKを除く全ての「民間放送」を「国民から取り上げる」ことになる[31]。実際今日、各地で次々に災害時対応などを目的として開局しているコミュニティFM放送局の多くには、その根本、すなわち財務に公が関与することにより、事実上、公権力による放送統制(直接的言論統制)を可能なものとして免許が与えられるようになってきており、例えば身近で緊急性の高い事象が正しくリスナーに伝わるとは限らない実態となってきている[32]

世界的に通用しなくなっている日本の放送表現

例えば、21世紀に入り日本の子供向け番組(テレビアニメーション作品等)の海外への輸出が盛んになったが、2000年からの数年間は優位にあったものの、以降は低迷を続けている。

これは、日本の利益衡量主義により、「あの言葉、この言葉」といった枝葉末節への規制ばかりが偏重され、肝腎の「全体の内容に対する表現規制」が甘くなったために、内容面の根本的な見直し=実質的な作り直しを行わなければ輸出できない等のケースが頻発している事が一因となっている。

欧米を中心とした諸国では「発言者の自由と責任」についての大衆の権利意識が高く、今日、不適切な言葉や表現を用いる発言者に直接責任を問う風潮が定着してきており、結果、特に子供向け番組などについての表現規制(言葉への規制ではなく、表現全体への規制)が、日本よりも遥かに厳しくなっている。このため日本の放送作品も、輸出を視野に入れる場合はそうした「全体内容への規制」に適合させることが求められており、これまで「放送局による一律規制」のみを重要視して「表現者による100%自己責任の規制」の概念に縁遠かった日本の各制作プロダクションなどは試行錯誤を繰り返している実態にある。なお「世界的に通用する表現にする」ことを今日「表現の標準化」と呼ぶ[33]

具体的な規制例

通常番組

出演者が番組収録中に不適切な発言をした場合は編集でその前後を含めて全てカットするか、不適切な発言部分のみを無音もしくは「ピー音」などに置き換えて放送する。海外で放送され、かつ外国語のまま放送される番組も同様である。バラエティ番組では喘ぎ声や銃声、サイレン、ベルの音などを使うパターンもある。

番組にもよるが、口の動きで発言が判別できないようにいわゆる口パクではなく口元にテロップ処理する場合もある。ただし生放送では不適切な発言がそのまま放送されてしまうため、その後司会者などが訂正もしくはお詫びのコメントを読む、あるいはテレビであればテロップにより訂正もしくはお詫びのコメントが出される。しかしながら放送の社会的責任の重さから、深刻なものについては不適切な発言をした出演者を直ちに降板させたり、番組そのものを打ち切りとしなければならなくなる場合もある。

これを防ぐためアメリカなどでは生放送でも数秒〜10秒の時差(ディレイ)をつけて放送し、突発的な発言やパフォーマンスが出た時には音声または映像をその場でカットするシステムが構築されている(遅延送出システム)。日本でもショップチャンネルなど一部のチャンネルで同様のシステムが採用されている。また、例外として過去の『さんま&SMAP!美女と野獣のクリスマススペシャル』や『ムハハnoたかじん』などに司会者などが判断し、ピー音で発言を隠す番組があった。

ドラマ・映画・古典芸能

編集によって作品性や芸術性が大きく損なわれる内容のものでは、その前後に「今日では一部不適切な表現があるが、時代背景や作品の芸術性を尊重しそのまま放送する」などの断り書きを表示ないし告知した上で、該当部分を修正せず放送することがある。また、時代背景を表す上でその表現が不可避であると認められる場合にも同様の措置が取られることがある。しかしながら後述の理由により今日の日本では、例えば古典落語に出てくる「差別的とされる古語や表現」などについては抜本的な見直しが進められ、またこれにより芸術性が大きく損なわれ、およそそのすがたをとどめることが難しいものについては「お蔵入り」とされるものも存在している(桂歌丸による)。

アニメーション

1970年代までに制作された古いテレビアニメなどの再放送では突如として会話が途切れたり、サブタイトルの読み上げがされないことがある。例としては『巨人の星』における「僕の父は日本一の日雇い人夫です!」という星飛雄馬のセリフや『空手バカ一代』における「アボリジニの土人の酋長ウポルさん」という飛鳥拳のセリフ、『ドロロンえん魔くん』の第24話「妖怪きちがい竜魚」などがある。

これは制作された当時は問題にされなかった言葉や表現が、現在では使用を自粛すべきと判断されそのシーンの音声を消して放送しているためである。前出の『巨人の星』と同じ梶原一騎原作(「高森朝雄」名義)で同時期に制作・放送された『あしたのジョー』についてもリクエストが多く、同様の扱いでCS放送などで幾度となく再放送されているがフジテレビ721(現在はフジテレビTWO)やアニマックスで放送した際に「めっかち」・「脳タリン」・「きちがい」などの語句をことごとくカットした結果、作品として成立しなくなったとの批判を受ける結果となった。また2015年12月21日まで、著作権の一種でもある著作者人格権との関連もあってカートゥーン ネットワークでは「原作者のオリジナリティを尊重して原版のまま放送します」の注釈を入れた上で該当語句をノーカットで放送した。こういった措置は放送局によって対応が大きく異なっている。

一方で、逆の例もある。よみうりテレビNTV系列で1969年(昭和44年)10月2日から1971年(昭和46年)9月30日まで放送された、東映動画制作、『タイガーマスク』のオープニングソング、「行け!タイガーマスク」3番歌詞中の「死を呼ぶわな」である。オリジナル歌詞は「血を呼ぶわな」であるが、当時の基準でこの「血」が問題となり[34]、「死」に差し替えられて放送された。しかしその後、このオープニングソングは、NHKでもオリジナル歌詞で紹介されるようになっている。

近年制作されたアニメでは原作で問題とされるセリフや用語が登場している場合、そのセリフや名前などを脚本・構成段階で削除または変更するため会話などが途切れることはほとんどない。しかし放送するのに問題があると判断され、一部の局にて該当部分の音声を消して放送するケースも見られる[35]

また、一部の作品(主にギャグアニメ)ではこうした「自粛や自主規制」を逆手にとってネタにする作品もある(あえて抵触する言葉を使い、「ピー音」で視聴者にはっきり分かるように隠すなど[36][37])。ただしこれはともすればより意図的、挑戦的なものとしてとらえられがちなものであり、日本の場合、さらなる規制強化を招く可能性も否定できない。また今日、日本のアニメーション番組素材の多くが海外に輸出、販売されているが、特に欧米の場合、こういった内容のものは初めから「購入対象外」とされ、考査の対象にもならないようになってきている[38]

niconico内のサービス「ニコニコ生放送」で配信しているアニメ「ド根性ガエル」の一部などで「きちがい」あるいは「○○キチだから」という単語が出てくるが音声修正せずそのまま配信されている。これは、全く同じソース(番組素材)ではあるが、インターネットを用いた動画配信などは「放送用電波を使用しない」ことから、全くの「別物」になるためである。インターネットを用いた動画配信などは自主規制、つまり表現規制の元となる「番組基準」を作成して国に提出、それを自ら守るものではなく、別途定められた各法に直接、従う必要があり、法の範囲においてコンテンツ(内容)は全く自由である。従ってここでいう「放送問題用語」は名実ともに存在せず、また表現行為の責任は原則として100%、表現者に帰属する。

規制の例外

政見放送
「発言者の自由と責任が明確」であることから放送局としての自主規制の必要はない。また公職選挙法によって「自主規制を規制」されており、各放送局の持つ自主規制枠の全てが外され、立候補者などの政見がそのまま放送される。放送の前に「立候補者の政見をそのまま放送する」旨のコメントが入れられる。ただ1983年(昭和58年)の第13回参議院議員通常選挙において、NHKは立候補者の発言内容の一部について問題があると判断、当時の自治省に照会した上で当該立候補者に無断で削除、放送したことがある。この件でNHKは提訴され、一審では敗訴したものの二審で逆転勝訴、最高裁でも勝訴した(政見放送削除事件)。なお各政党が「CM」として放送するものは「政見放送ではない」ため、通常の考査対象となる[39]
その他
原則的に放送しないとされている言葉であっても、その言葉、あるいは表現を含む文学、芸術作品などを取り上げる場合、あるいは、差別・侮蔑用語そのもの(言葉の暴力の問題に関する内容など)を取り上げる場合などでは、その必要性から用いることがある。その場合は但し書きのアナウンスとして「作品の歴史性を鑑みて、当時の原文をそのまま朗読します(した)」、あるいは「原作者の意思(遺志)を尊重して、当時の原文をそのまま朗読します(した)」とコメントする。ただしその内容、放送時間帯などには特別な配慮がなされ、また、同じものでも番組により扱いが異なる。
TBSラジオBATTLE TALK RADIO アクセス』の2002年(平成14年)2月5日放送のテーマだった「井伏鱒二翻訳の『ドリトル先生』に差別表現で訂正要求。過去に書かれた名作での差別表現は変更したほうがいいと思いますか?」という内容のトーク内で、この発言で嫌な思いをしましたなどと説明するため、例外的に禁止用語を発言してもよいとして発言したことがある。なお、途中で何度も「今日の放送では、説明をするのに必要な場合に、通常では禁止になることを言いますが、誰かを差別しようという意図はありません」と補足の説明がなされた。
フジテレビ系列でかつて放送された番組『北野ファンクラブ』のお下劣バンド亀有ブラザーズの替え歌は深夜放送ということもあり編集なしでそのまま毎週放送された。しかしTBS系列の昼2時からのワイドショー北野武の特集で亀有ブラザーズに関して取り上げた際には、替え歌の不適切な部分はすべてピー音で編集された状態で放送された。

放送問題用語の選定

おおむね、NHKや日本民間放送連盟(民放連)放送基準の「解釈」が根拠となる。各地方の方言も対象となることがあるため、各放送局でそれぞれに検討して運用してきた例が多い。下記「放送問題用語として扱われる言葉の例」の( )内に放送基準にある、おおむね根拠となる該当条項をそれぞれ示す[40]。 なお、各民放の放送基準はおおむね民放連放送基準に準拠したものであるため[41] 、日本にはおおむね2つの放送基準があることになるが、基本となる部分に大差はないため、用語については、NHK、民放ともにほぼ同じ解釈、取り扱いとなる。しかし、NHKはいわゆる「公共放送」、民放は「商業放送」であることから、取り扱う内容について差があり、結果としてNHKのほうが「より厳しく」なる傾向がある[42]

実施上、曖昧な「公序良俗」「公共の福祉増進」の概念によるのは困難であることから、おおむね各言葉の規制の根拠を成すものは、放送基準にある「法と政治」、すなわち「法令を尊重し、その執行を妨げる言動を是認するような取り扱いはしない」「国の機関が審理している問題については慎重に取り扱い、係争中の問題はその審理を妨げないように注意する」「人種民族、国民に関することを取り扱うときは、その感情を尊重しなければならない」であり、結果、それぞれ対象となる言葉は各法令、頻発する事件や国内外の複数の司法判断などを根拠としたものになる[43]

過剰な規制と結末

日本の放送業界では1950年代中頃より「低俗な放送内容」が欧米を中心として問題となり、イギリス1962年に出された、ピルキントン委員会報告書にある「よいテレビ放送の三大要素」の指摘(以下記述)が、「今なお妥当性を失わない見識」として位置付けられている。無論これはラジオにも適用されるものとされている[44]

  1. 番組の企画と内容は可能なかぎり広い範囲の題材の中から選択するという大衆の権利を尊重するものでなければならない。
  2. 題材のこの広い範囲のあらゆる部分で質の高いアプローチとプレゼンテーションがなされなければならない。
  3. これは何よりも重要なことであるが、テレビという強力なメディアに従事する人々はテレビには価値や道徳規準に影響を及ぼす力があり、また、すべての人びとの生活を豊かにする能力があることを十分意識しなければならない。放送事業者は、大衆のさなざまな好みや態度に注意を払い、それらを知っていなければならない。同時に、それらを変化させ成長させていく力があることを自覚し、その意味で指針を大衆に示すようにしなければならない。

つまり番組の制作とは「題材」「質」「人」であり、特に「人」の問題は強調されるべきものであるが[45] 、日本では法廷闘争を恐れるあまり[46]、この本質的な3つの関係に特に深く鑑みることなく、1980年代後半から、言葉や表現の表面的な規制のみが過剰に行われたと言われている[47]

この時期を象徴するような例としては、「奴隷」、「下人」などの史実語をその使用目的のいかんを問わず禁止する(景山民夫の回想では、「屯田兵」なども対象になっていた)、ごく普通に用いられる言葉でも、使い方によっては問題となるものは徹底して規制する、例えば「狂う」という言葉を極端に嫌い、「時計が狂っていた」というセリフを消音、素人出演の生放送番組で、素人ゲストが職業を聞かれて「百姓です」と答えたところ、リポーターが慌てて「ちょっと不適切な表現があった」と釈明する、いわゆる「四つ(指)」とは全く無関係なちあきなおみの『四つのお願い』の放送見合わせといった規制が繰り返された。

なおこの動きは、制作したものをそのまま発売するのが普通であったビデオソフトなどにも波及し、問題になりそうなセリフ部分を消音・音声処理した上で発売するといったケースが増えた。

当時、この動きは日本社会全体の動きであり、こういった過剰規制は、世論を反映したものであったわけであるが、前述のように、差別、侮蔑などの問題の本質と向き合わず、以前よりある差別語、侮蔑語のみを「初めからないもの」として、表面的に回避することは、新たな差別、侮蔑語を生み出す、あるいは汎用の言葉の組み合わせにより、新たなかたちの差別を生む結果につながる恐れがある。例えば「めくらはめくらでも可能な範囲で〜」という表現を「目の見えない方は目の見えない方でも可能な範囲で〜」としたところで、本質的に全く変わりはない。

この問題点が指摘、反省され、過剰な規制の動きが沈静化するまでにはかなりの期間を要した。

2003年(平成15年)7月25日、日本放送協会(NHK)制作「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」内差別発言(「東京ドーム・奇跡のエアー作戦」の中で「士農工商、テント屋」という言葉が放送された)問題について、部落解放同盟中央本部とNHKとの最終的な話し合いが持たれ、NHKが「NHKの放送番組における差別表現について。」という回答文書を提出した。この回答にあたり、当時の出田編成局長が代表して、「ある言葉を使うか否かにのみ走らないようにしたい。」「社会に対する放送の役割、人材育成も含め、さまざまな番組の実現に努力したい。」と決意表明を行い合意決着した。ここにいわゆる「言葉狩り」に対する否定的結論が出され「放送内容との関係を第一とした各言葉の規制」という方向性が再確認された[48]

しかし現実問題として日本語の場合、具体的に対象となる言葉や表現が非常に多いこと、日本の場合、欧米にあるような基本となる文化的概念が希薄であり、「利益衡量」基準により表現の適、不適が判断されることなどから、2008年(平成20年)、NHKはその新放送ガイドラインに「放送の用字・用語・発音は、「NHK新用字用語辞典」「NHKことばのハンドブック」および「NHK日本語発音アクセント辞典」に準拠する。」と明記、NHKの放送は「限定した放送用語とその用法」により行うものとし、民放各社も概ねこれに追従した。

さらに今日、日本では相次ぐ放送局の不祥事、放送用語とその用法を逆手に取り、肝心の内容が下品、卑猥な感じのものとなってしまっている、いわば挑戦的な番組内容に対する視聴者からの反発の声が強く、2009年(平成21年)9月放送倫理・番組向上機構(BPO)はついに、従来、規制の緩かった「娯楽番組」(特にバラエティ)についても強い規制の方向を示した。

そして2009年(平成21年)9月22日、内藤正光総務副大臣は民主党が新設を公約している「通信・放送委員会」(日本版FCC)について発言、「原則としてBPOに任せたい。」とした上で2011年(平成23年)の通常国会にその設置法案を提出、放送による人権侵害などの被害が深刻化しかねない場合には緊急に対応できる権限を持たせたい意向を明らかにした。日本版FCCは2000年(平成12年)頃から一部で言われはじめていたことではあるが、露骨になったのは最近になってからのことである。これが現実になると、直接的なものではないにせよ、行政が放送番組内容を規制できることになり、戦後日本の放送が最重視してきた根本は崩れ、再び国家による表現の規制が開始されることになる。

放送問題用語として扱われる言葉の例

放送問題用語の選定は一部例外を除き、あくまでも各放送局の主観により自主的になされるものである。よって一部例外を除き、具体的な放送問題用語が放送局から公表されることはない。また「放送問題用語リスト」も正式には現在、ほとんどの放送局で存在しないため、明文化されないものとなっている。つまり担当者などの裁量で決められる場合がほとんどである。したがって、以下はあくまでも「現在の放送用字・用語から逆に推察される」範囲のものであり、実在の放送局の見解とは、大きくくい違う可能性があるものであることに注意されたい。
あいのこなどの個人の出生などに関する言葉(人権など)
「あいのこ」は、過去、人・物の両方に使われていた。明治以降、特に子供に対して差別が顕著になり[要出典]、今日でも差別を目的として用いられる恐れがあるとされていることから、ほぼ全面的に禁止となっている。なお、この言いかえで近年まで混血という言葉が用いられていたが、この言葉も差別を目的として用いられる恐れがあるとされたことから、ほぼ全面的に禁止となった。まだ「混血」が放送で使われていた1970年代手塚治虫作、『ブラック・ジャック』では「混血児」が差別批判のために取り上げられ、1978年(昭和53年)の長谷川町子作、『サザエさんうちあけ話』では「ハーフ」に置き換えられているが、概ねこの頃から、使い方(本人が使うか他者が使うか)にもよるが、人の場合には「ハーフ」、「ダブル」、物の場合には(人に対しても使われる)「ミックス」あるいは「ハイブリッド」といった言葉に置きかえられることが多くなった。一部の作品や地方局では、カラードも使われている。
アカなどの政治に関する言葉(人権など)
「アカ」は、日本共産党党員および同調者、さらに旧日本社会党とその流れを汲む社会民主党支持者・関係者といった革新思想の持ち主を侮蔑する意味で用いられる恐れがあるとされること、また、放送においては政治に関する各言葉は正確であることが必要であり、原則的に禁止となっている。ただし、左派への歴史的な弾圧の事実を伝える放送内容の場合などでは用いられることがある。
関連して、かつて日本共産党の略称だった「日共」も、同党を侮辱する意味を持つことがあるとされること、過去の略称であることから、同様の扱いである。(略称は共産党・共産)。同種の語に、“中華民国こそ中国大陸の正統政府である”という立場からの中共(中国共産党)。なお、“ソ共”(ソビエト連邦共産党)は存在しない語句である。
アルバイトなどの職業に関する言葉(人権・法と政治など)
従来、後述の特定の職業に関する差別的呼称などについて制限があったが、今日ではむしろ特に「アルバイト」といった、臨時的雇用を示す言葉や表現に対する規制が強くなっている。昨今の社会情勢、経済情勢の悪化から、今日、労働人口の30%以上が非正規雇用となり、従来の「日銭が入る職業を軽蔑するような言葉の禁止」とは大きく規制の観点が変わった。
従来、「〜屋」は注意を要する言葉とされてきた。すなわち商店サービス業などの日銭が入る職業を軽蔑するような用い方は禁止、企業名としての「○○屋」を用い、または自称で○○屋とする場合や「〜屋さん」と敬称を付けるのは問題なしとされていた。
これは高度経済成長期、大企業の台頭、大企業による中小零細企業の支配(下請け)構造が顕著となり、支配者である大企業への労働者集中、得られる安定した雇用と高賃金から、自営業者や小資本の中小零細企業、その従業員などに対する大衆の差別、侮蔑心が生じたことからであった。高度経済成長期前、すなわち日本全国の街中に多くの個人商店などが立ち並んでいた昭和30年代まではこのようなことはなく、実際、テレビ朝日系で放送されたドラマ「菊次郎とさき」では、ドラマホームページおよび各放送のエンディングで『「塗装業」を「ペンキ屋」と表現するように、昭和30年代に一般的に使用されていた名称・呼称を使用している』とのテロップを流すといった措置が取られた。すなわち従来までの規制は「一部社会的(経済的)弱者の保護」の観点からであったのである。
放送は社会を写す鏡であるが、労働者の30%以上が非正規雇用となった今日、それは「大衆感情への配慮」の観点からとなり、問題はより複雑で深刻、また戦後抱えてきた日本社会と日本経済の矛盾を露呈するものとなっている。
バブル景気崩壊後、大企業を中心として急速に進められた「リストラ」あるいは「構造改革」という名の下の「人員整理」すなわち「首切り」と新規採用の手控え、また「下請け切り」などにより、1990年代より顕著になった日本の雇用不安状態、すなわち永続的雇用を望むにもかかわらず、そうなることのできない人が急増、OECD(経済協力開発機構)の度重なる、日本における非正規雇用増加の原因が「非正規社員に比して正社員の解雇規制が強いこと」「非正規雇用への社会保険非適用」にあるとの指摘、労働市場の二極化是正勧告[49]にもかかわらず、抜本的是正対策が何ら実施されないまま今日に至った結果、2011年現在、労働人口の3人に1人は非正規雇用状態[50]、このままでは近々に社会福祉などの国家基幹体制の破綻が確実視[51]されるようになり、従来、「わかりにくい言葉」として使われなかった言葉が、逆に次々と使われるようになっている。すなわち過去、「正社員」「アルバイト」程度とされていた使い分けが、「正規雇用者」「中間的な雇用者」「非正規雇用者」、さらに非正規雇用者などについては、「有期契約労働者」「派遣労働者」「パートタイム労働者」などと使い分けられるようになっており、日雇いは慎重な扱い、またそのものズバリ日雇い労働者を指す「ニコヨン」さらには出稼ぎ[52]などもおよそ使われなくなっている。また、「定職がない」あるいは「定職に就いていない」といった表現も慎重に用いられるようになっており、特にお笑い番組などでは厳に慎まれるようになっている。似たようなところで、以前は当たり前のように用いられていた「中流」という言葉が用いられなくなり、また「タケノコ生活」(=タケノコの皮を一枚一枚剥いでいくように、衣類や家財を売りながら生活費にあてるような暮らし。)を使用せずにケースバイケースで表現を代える、あるいは「浮浪者」のことを「ホームレス」にするといったことなどがある。いずれも根本の「社会悪」に目を背け「臭い物に蓋」の「単なる言葉の言い換えのみ」の典型例である。ただ、このような戦後日本の放送開始以来未曾有の委縮した雰囲気の中で、概ね2011年頃から唯一、かなり具体的で明確な基準を有するNHKが言葉ではなく「内容」でかなり露骨に、高度経済成長期以降定着している日本の弱肉強食型、すなわち日本の大資本支配社会体制の批判をし、放送文化全盛期のものに今日的判断を加えた格好の各種番組を制作、放送するようにもなっている[53]
その他、従来からのものとして以下のようなものがある。
「(お)まわり」は警察官に対する侮蔑語。通常用いない言葉であるが、放送内容が犯罪を模倣し、助長させる恐れのないものであれば、映像作品などで用いられることがある(アニメ『AKIRA』など)。なお、「おまわりさん」を付けるのは問題ない(「犬のおまわりさん」など)。他に「サツカン」「ポリ公」「マッポ」など多くあるが同じ。一部の漫画・アニメやドラマでは使用されていた(加瀬あつしの漫画「ポリ公マン」など)。また、雑誌Optionでは「K察」、「オマーリ」などの表現を用いていた時期もある。
スチュワーデスは、客室乗務員の女性を指すが、アメリカでの言い換えの風潮や、女性差別であると抗議を行う団体などがあることから、通常用いない言葉になった。フライトアテンダントと言いかえることが多い。他に「看護婦→看護師」「保母→保育士」の言いかえなどがある。トーク番組などでは勢いを削がないために音声はカットせずそのまま流し、テロップで「キャビン(フライト)アテンダント」などと注釈表記する、といった配慮を行っている場合もある。
セン公は、ポリ公と同じく、公務員としての教員が多いことから発生した、学校の先生を皮肉る言葉であるが、『ヤヌスの鏡』では風見しんご大沢逸美山下真司に対して頻繁にそのような呼び方をしていた。常識的なこととして、実在する教員に対して侮蔑的に用いることなどが避けられる。なお「先生」については今日、細かな配慮がなされており、例えば博士の学位を有する人でも、番組の内容によって「〜さん」から「〜博士」まで使い分けがなされる。例えば同じ番組で医学博士臨床で活躍する場面では、親しみを込めてあえて「〜さん」その研究内容を紹介するシーンでは「〜博士」といった使い分けがなされる。また出演者本人の希望によることも多くなっている。
鉄砲撃ちは、銃器を用い、狩猟などを行う人に対する差別、侮蔑語であることから、ほぼ全面的に禁止。もっとも日本の場合、銃器に関する規制が極めて厳しく、正確な言葉がそれぞれにあることから、使わない言葉となっている。
土方(どかた)」は、土木・建築関係の仕事に従事する作業員などに対する差別的、侮蔑的言葉として、以前はほぼ全面的に禁止となっていたが、概ね2008年(平成20年)以降、慎重に扱うべき言葉となり、使われるようになっている。新しい言葉としてガテン系という言葉も生まれ使われてはいるが、土方は古くからある職業で、言葉自体も非常に古く、現代では分業・細分化されている土木業・建築業の両方ひとくくりとしての意味があるため、わかりやすさの点から「土木業」、「建築業」、兼務している場合には「土木建築業」とするのが普通である。なお姓としての土方(ひじかた)などは問題ない。
床屋は、江戸時代、売春を副業としていた店があったという俗説があるため、以前はほぼ全面的に禁止となっていたが、概ね2008年(平成20年)以降、慎重に扱うべき言葉となり、内容によってはそのまま放送されることも多い。
百姓は、百の姓という意味で、何ら差別的な意味合いはない[要出典]。国民(人民)が本来の意味。北宋時代の書物に『百家姓』というものがある。当時の中国における代表的な姓を集めたもので、の始祖である太祖・趙匡胤の姓で宋朝の国姓であるが最初に挙げられている。農家の人が自らこう呼ぶこともよくある。むしろ他人が呼び捨てにするのが“失礼”にあたる、というのが現在の見解で、注意を要する言葉。「お百姓さん」とすれば問題ない[要出典]
誤った言葉・表現、不正確・不明確な言葉・表現
言葉の持つ意味を正しく理解した上で正しく用いることは放送の大原則である。アナウンサ、記者などの放送局関係者には求められるが、その他についてはそのまま放送されることがほとんどであり、国会中継での閣僚答弁などでしばしば問題となる。
「放送問題用語リスト」が無くなって以降の規制の大柱はこれであるが、一方で現実に「セシウムさん事件」のような極端な事態を招くことになり、放送業界全体の責任が厳しく問われることにもなっている。
東北地方太平洋沖地震によって生じた、東京電力福島第一原子力発電所事故の報道などにおいて、従来、原子力事故報道などでよく使われていた「放射能漏れ」などが使われなくなった。一般に定着している言葉ではあるが、放射能とは放射線を発生するもの、すなわち放射性物質X線管などが放射線を出す活性力、放射線を放射する程度のことであり、「放射能漏れ」というのは誤った言葉の使い方である。
言葉は生き物であり、時代とともにその意味が変わり、新しい言葉も生まれてくる。上述「放射能」は物理学的に定義された言葉であり、意味は不変、20世紀中頃からの急速な原子力利用の普及に、世論や放送局自体の認識が追従できなかったことから誤用が容認され続け、ようやく正されるようになってきた例であるが、多くは逆で、例えば「歯ごたえ」「舌触り」などから派生した「歯触り」などは、概ねその持つ意味が固定し、大衆に広く受け入れられるようになったことから使われるようになっている。
またいかに事実といえど、結果として誤ったもの、不正確なものとなる言葉や表現も問題である。しばしばこれは「知る権利」と背反するものとして議論されるが、例え事実、つまり責任者である被取材者などが明確に発言した内容をそのまま放送したとしても、これが不正確・不明確な内容、あるいは表現である場合、視聴者をいたずらに不安に陥れたり、混乱に陥れる結果となる。過去にはオイルショックの際、不明確・不正確な報道内容がパニック的な商品の買占めなどを招いた。
インチキ〜・デタラメ〜などの社会的制裁などを目的とする言葉(人権・報道の責任)
他の差別、侮蔑語とは異なり、個人や団体などの犯罪行為などに対する「社会的制裁」を目的として、過去、警察発表の直後から、「インチキ〜商法」「デタラメ〜団体」「うそつき〜」などといった用い方がなされていたが、NHKが「放送可能用語」を示した2008年(平成20年)頃を境に、これらはみな、極めて慎重に扱うべき言葉、用法とされた。特に複雑な事件となったものなどについては、その司法判断などがなされていないうちに用いることはなくなり、「単なる事実の報道」になってきている。「公共的事項」「公益性」「真実性」の三要素が揃えば、司法判断などを待つ必要はなく、非難、糾弾できるのであるが、「公共的事項」「公益性」はともかく、従来、警察などの公的機関の発表は「真実と信じるに足る相当の理由」=「真実性の担保」とされてきたものが、近年の判決で崩れ、たとえ警察などの公的機関の発表であっても、放送局が別途「確実な裏付け取材」をし「真実性」を証明できない限り、名誉毀損に問われる恐れが生じたためである[54]2010年(平成22年)11月10日、生中継放送中の衆議院予算委員会における議員質問中にあった「うそつき〜」といった表現に対し、議長が「用いるべきではない言葉、表現」としてこれを制止した。なお、明らかに社会的制裁などを目的としないものは問題ない。
なお、よく用いられていた言葉に、お灸をすえるがあるが、これは医療行為をあらわす言葉でもあることから、鍼灸師の団体からの意見により、新たに慎重に用いる言葉もしくは注意を要する言葉となり、このような目的には使われなくなった。
インディアンなどの人種、民族、国家などに関する言葉(人権・法と政治・報道の責任など)
インディアンとは、アメリカ先住民族のことを示すが、歴史的な経緯により、侮蔑、差別的な意味を持つことや、元来、ヨーロッパ人が、アメリカ大陸をインドと間違えたことを起源とする誤ったもの、また「インド人」「インドの」を意味する英語表記と混同するなどの理由により、1990年代前半頃を境に原則的に禁止となった。クリーブランド・インディアンスなど、固有名詞の一部として用いられているものなどについては問題ないが、アメリカ先住民族のことを言う場合には原則的に禁止で、正確にネイティブ・アメリカンなどと言う。
またエジプト人は、エジプト・アラブ共和国の民族に対する侮辱あるいは差別と誤解される恐れがあるとされたことから、原則的に禁止となった。より限定的な意味の別語である「コプト人」「アラブ人」のどちらか一方に置きかえられる(「エジプト」の項を参照)。ただし、これは同じ意味の言いかえではない。「コプト人」「アラブ人」のいずれも「エジプト人」とは等しくなく、これらの言葉を「エジプト人」の意味で使うことはできない。「エジプト人」という言葉を使えないということは、「エジプト人」という概念そのものを表現できないということである(日本人という概念を使えないのと同様)。なお、古代エジプトの民族に関連する放送内容の場合には問題ない。
非定住型民族や主としてロマを指す「ジプシー」も、エジプト・アラブ共和国の民族に対する侮辱あるいは差別と誤解される恐れがあるとされたことから、原則として禁止あるいは慎重に扱うべき言葉となった。『DQ4』(スクウェア・エニックスロールプレイングゲーム)がPSDSでリメイクされた際、「ジプシーの姉妹」というセリフが「踊り子の姉妹」に変更されたのはそのため。太陽にほえろ!三田村邦彦演じる原昌之がその呼び名で呼ばれており、今日、そのシーンはカットされることが多い。また、ゲーム『ポケットモンスター』の初期作品(『赤・緑・青・ピカチュウ』、『金・銀・クリスタル』において「ジプシージャグラー」というトレーナーが登場する[55]など、差別的でほぼ全面的に禁止とされるべきものという認識はされていないのが現状である。テレビ番組『題名のない音楽会21』で2002年7月7日ジプシー・ヴァイオリン奏者ロビー・ラカトシュが出演し、番組でジプシー・ヴァイオリンの語を使用した。すると放送中に視聴者から「『ジプシー』は差別用語ではないか」と問い合わせがあり、番組放送中に「民族を表す言葉としてのジプシーは問題があるが、音楽としての『ジプシー・ヴァイオリン』という言葉は差別的な意味がなく問題がない」という旨を、急遽テロップで流した。同様に、先述のDQ4で使われたBGM「ジプシー・ダンス」は現在でもそのままの名前で紹介されている。
その他、北極圏先住民族の総称であるエスキモーは、一時、原則的に禁止とされていたが、概ね、通常使わない言葉もしくは注意を要する言葉とされている。「イヌイット」または「イヌイト」と言いかえられていたことがあるが、これはエスキモーの特定の部族を指すことなどから今日では推奨されていない。「エジプト人」と同様に概念そのものについて表現できないことから、「北極圏に住む〜族」といった表現がなされている。森永乳業アイスクリームのブランドとして使用しており、かつてはCMの最後に「by エスキモー」というフレーズを流していたが、一時、ほとんど使われなくなっていた。しかし概ね2008年以降、再びCMなどでも使われるようになり、森永乳業の公式ホームページでは、「エスキモータウン」や eskimo.jp などのように使用されていた。なお、森永乳業は2010年に「エスキモー」ブランドを廃止している。
ユダヤ人に対する別称であるジューは、同民族への侮蔑、ナチスヒトラー礼賛につながり、また、サイモン・ウィーゼンタール・センターなどユダヤ人団体からの強硬な抗議を受ける恐れがあるとされ、ヨーロッパなどでは、ほぼ全面的に禁止とされる、あるいは法令により禁じられた正式な放送禁止用語とされている。日本では通常用いない言葉とされている。
外人は、外国人の略称として個人的な会話などでは日常茶飯に使われているが、原義は「グループ外、縁もゆかりも無い人」であり、放送では差別、侮蔑ではなく、正確性の点から用いない言葉である。よってより正確に「外国人」や「(国家)人」を用いる。またそれゆえに、日本語を話すことのできる外国人タレントなどが自分のことを指して「外人」と言うような場合には、特にカットされずにそのまま放送されることがほとんどである。エリア88では、外部の人間ばかりを集めて編成した部隊という意味から「外人部隊」と称されていた。「フランス外人部隊」に至っては軍部隊の正式名称・固有名詞であることから言い換えはされない。
黒ん坊は、ネグロイド(黒人)または「夏に日焼けした肌の子」のこと。かつては海水浴場などで「黒ん坊大会」などと銘打ったイベントが開かれていたこともあったが、黒人に対する差別的、侮蔑的な意味を持つことがあるとされ、使われない言葉となっている。
また、コーカソイド(白人)もしくは西洋人に対する差別、侮蔑語とされる、毛唐(「毛」(頭髪)が「唐」(中国の王朝としての「」ではなく、東アジア以外のという意味合い)、つまり金髪・赤毛・栗毛の意味。金髪・赤毛・栗毛)も、ほぼ全面的に禁止となっている。
ダッチは、オランダの英称だが「ダッチマン」ダッチワイフなど、侮蔑的、卑猥な意味で用いられていたという歴史的経緯から、原則的に禁止もしくは注意を要する言葉とされている。レミー・ボンヤスキー(オランダのK-1選手)のリング・フレーズ「フライング・ダッチマン」が使用できなくなったのはこのような事情に配慮してのものであるが、「ダッチワイフ」に関しては視聴者が限定される深夜番組などではカットされずにそのまま放送されているケースも少なくない。例えば、1997年(平成9年)8月1日深夜に放送された『タモリ倶楽部』(テレビ朝日系)の名物コーナー「空耳アワー」で「ダッチワイフ」という言葉を使った作品がそのまま取り上げられ、関西地区2008年(平成20年)10月29日深夜に放送された『にけつッ!!』(読売テレビ系)では「ダッチワイフ」という発言がそのまま放送され、2006年(平成18年)2月13日深夜に放送された『メッセ弾』(テレビ大阪)でも「ダッチワイフ」という歌詞を連呼する楽曲をかけて出演者もそれを連呼するシーンが見られた。しかし同じネタをゴールデンタイムで話す際には「いわゆるお人形さん〜」のような言い換えを用いるなどの配慮がされている。なお、ダッチロールダッチオーブンダブルダッチなど、侮蔑的意味を持っていないものについては問題ない。
土人は、かつてアイヌ民族や、主に熱帯地域の住民を侮蔑する意味で用いられた言葉のため、ほぼ全面的に禁止となっている。鈴木史朗がニュース番組で臨時ニュースの原稿を読む際、縦書きで「十一人」と書きなぐられた文字を見て「土人」と読んでしまうミスを犯したことがある。ただし、差別・侮蔑を伝えるための使用は問題なく、むしろ正確に大胆に使われる。原住民は注意を要する言葉。台湾原住民などの用い方は問題ない。
ジャップニップは、自国日本人に対する侮蔑語であるため、通常用いない言葉。但し、欧州では「JAPAN」を「JPN」だけでなく「JAP」と略す場合があり、その読みとしては現在も使われている。過去に新谷かおる週刊少年サンデー上で「ジャップ」というタイトルのスパイ漫画を連載し始めたが、各所からのクレームにより連載途中でタイトルを変更するという珍現象が起こったことがある(変更後のタイトルは「バランサー」)。ただし演出効果を求めたり宣伝として映画の内容を伝えるためにあえて使用するケースもあり、北野武監督作品「BROTHER」のセリフがこれに当たる。
「酋長」は、ほぼ全面的に禁止もしくは原則として禁止とされているが、他により正確な言葉(首長、族長など)があることから、今日、正確性の点から用いない言葉としている例も多い。
例は少ないが、独立した国家・政府として日本国政府が認めていないものに対しては「〜国」あるいは「〜政府」という言い方をせず「〜当局」などと言い換えられる。例えば台湾政府は、1972年(昭和47年)の日中国交樹立以後、日本国政府は台湾政府を認めなくなったことから使わない言葉となり「台湾当局」に統一された。
日本を含め、各国の政府機関などの名称は正確に用いる。例えば自衛隊は諸外国から軍隊視されていることから、海外の英語放送などで、例えば陸上自衛隊のことをジャパニーズアーミー(Japanese Army)とされることがあるが、日本には戦力不保持を定めた日本国憲法第9条第2項により、軍隊は存在しないため、原則として「自衛隊」(Japan Self Defense Force)としている。「ジャパニーズアーミー」は、日本では戦前の帝国陸軍の英称として用いられる(正確にはImperial Japanese Army)。また当時の帝国陸軍、帝国海軍の総称は「旧日本軍」として統一されている。
他に正確性の点から注意を要するとされている言葉としてがある。中国語朝鮮語[56]では、中央政府の行政機関として使う場合、省を意味する語だが、日本語では中央省庁の組織の一部門を意味する表現で使用されているため、部から省に置きかえられる(例:国防省、公安省など。外交部は丸ごと外務省になる)。
  • その他
    • 1970年代に放送された世界の料理ショーの中[57]グラハム・カー(吹き替え)が「オーストラリアの環境はいいけど人間は最悪、祖先は島流しにあったイギリス人」や「オーストラリアを悪く言ってはいけないよ、その前はアメリカに島流ししてたんだから」という植民地時代のブラックジョークを飛ばす箇所があり2012年同番組がテレビ東京で再放送されたがブラックジョークがかかる箇所は不自然にカットされている。
裏日本などの地理用語(人権・家庭と社会)
裏日本は、本州日本海側に面した地方のことであるが、侮蔑的に用いられる可能性があるとされていること、その対義語である「表日本」がほぼ使われなくなり、普通に「日本海側」「太平洋側」という、わかりやすい言葉が使われるようになって久しいことなどの理由により、使わない言葉となっている。太平洋戦争終結後、徐々に使われなくなり、現在はほぼ死語となっている。南洋群島、比喩的に交通の不便な産業や人口の希薄な地域を指す「日本のチベットなどもほぼ同じ。
うんこなどの排泄物に関する言葉(表現上の配慮)
「視聴者に困惑・嫌悪の感じを抱かせないように注意する」という表現上の配慮規定による。以前はほぼ全面的に禁止か、慎重に扱うべき言葉とされ、用いる場合でも正式な医学用語の必要最小限度の使用に限るとされていたが、概ね2008年(平成20年)以降は注意を要する言葉として扱われているものが多くなっている。すなわち排泄生物のごく自然な生理現象のひとつであり、これらをほぼ全面的に禁止して、いちいち必要以上に言い回しを変えるなどの措置は、本来の自然な生理現象を、かえって不快の感じを与えるような下品、卑猥な表現としてしまう危険性が高く、むしろ放送内容における、用い方の配慮が必要であるという解釈がなされている。具体的な例では、放送時間帯により使い分けがなされることが挙げられる。例えば、正午を挟んだ時間帯では禁止されないまでも、伏せ字にされたり「食事中の方々に迷惑をかけた」という趣旨のお詫びが行われることがあるが、トイレなど排泄を連想させる表現については、そのまま放送されることが多い。
えた・非人などの部落差別に関する言葉(人権)
えた非人は、中世に生じた、穢れ思想・意識による差別に由来し、江戸時代に完成された身分制度、すなわち、武士・百姓・町人(いわゆる士農工商)の外の身分として位置付けられた人のこと。差別、侮蔑的なものとして用いられる恐れがあるとされることから、原則的に禁止となっている。以前は、ほぼ全面的に禁止となっていたが、2003年(平成15年)7月25日、NHK「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」内差別発言に関するNHK回答が示されて以降、部落差別問題を扱う放送内容の場合、史実に忠実で差別を助長しないものであることを条件として用いられるようになった。他の部落差別に関する言葉もほぼ同様の扱いである。
具体的には、例えば特殊部落は歴史的に部落差別問題を隠蔽する政治的な意図のある言葉で、通常使わない言葉であるが、部落差別問題を取り扱う内容の番組では、明確に被差別部落の意味として用いる。被差別部落に対し、歴史的にこの言葉が公権力の側ですら差別的に使われたため、本来、差別的意味のない部落までも差別的意味を持つ(被差別部落を連想させる)ととらえられるようになり、以前はほぼ全面的に禁止となっていたが、部落差別問題に対し「寝た子を起こすな」はむしろこれを助長する一因でもあり、言葉のみを規制しても問題の解決にはならないこと、また東北関西地方などでは「村落」、「集落」、「字(あざ)」などと同様の意味で問題なく使用されている言葉であるため、今日、ノーカットで放送されることもあるようになった。
また関西地方で部落の意味として用いられる「在所」も概ね慎重に扱うべき言葉とされているが、方言であること、普通に「地区」「地域」といった言葉を用いるほうがわかりやすいため、使われなくなってきている。1969年(昭和44年)にフォークソンググループ・赤い鳥が発売した『竹田の子守唄』の歌詞の中に含まれていたが、これが一部で被差別部落のことを歌った曲と見られ、長い間自粛されていたが、1990年代以降は自粛されなくなっている。
なお、特殊部落という言葉は、まれに「特殊な場所、集団」という意味で使われることがあり、部落団体などから抗議を受けることがある。1973年(昭和48年)には玉置宏が「芸能界は特殊部落」と発言し、部落解放同盟に糾弾されるなどした。
ただし四つ(四つ指・四つ足)」については、暴力団関係の言葉でもあるとされ、ほぼ全面的に禁止となっている。ヨツユビリクガメ(動物)などは問題ない。
オナニーなどの性に関する言葉(性表現など)
根拠例として、民放連放送基準11章には「性に関する事柄は視聴者に困惑・嫌悪の感じを抱かせないように注意する」「全裸は原則として取り扱わない。肉体の一部を表現するときは、下品・卑猥の感をあたえないように特に注意する」とあり、これに該当するもしくはその恐れのあるものは、ほぼ全面的に禁止となっている。問題の性質上、抽象的な根拠にならざるを得ず、男女ともに多くの対象となる言葉がある。
「性」はごく自然なものであり、これをいたずらに歪めて表現することに問題の本姿が存在する。性交渉、自慰行為といった言葉を用いる必要がある場合、最も「放送人の良識」により判断すべきものであるという解釈がなされている。すなわち具体的には「自分の家族、子供といっしょに視聴できるものであるかどうか」ということが判断基準としてよく語られ、同じ言葉でもケース・バイ・ケースで判断される。
代表的なセックスはかつて厳しく規制されていた言葉であるが、バブル期以降はそのまま放送されることが常態化した(『東京ラブストーリー』のセリフなど。ただし、このセリフのインパクトは大きかったと言われる)。常態化したのは、明石家さんまが、『H(えっち)』という言葉に言い換えたことによるところが大きい。これは日本の放送において、「一大発明」であった。
「セックス」は日本では「性交渉」の意味として一般にとらえられるということから厳しく制限されていたのであるが、性交渉はこの言葉の持つ意味のひとつにしか過ぎないことは周知の事実である。この言葉を厳しく制限することは、より強く原意を曲げることにもなりかねない。しかし当時の世論感情はまだ必ずしもこれを受け入れられる状況にあるとは言えず、「性交」などとんでもない、やや緩い「性行為」ですら反発があり、古語を用いる、あるいは「男女の関係」「夫婦生活」「赤ちゃんができること」といった言い回しで回避せざるを得なかった。しかしこれらはやはり「隠語」であり、少しでも用い方を誤ると、直ちに下品、卑猥な感じとなることから、各放送局で議論は絶えず、結論の出せない状況にあった。この突破口として考え出されたのが、世間一般で本来、「変態」の隠語であり、明るくややいたずらな「スケベ」に加え、適度な羞恥心を持つ性交渉のニュアンスを持つものに転じ、本来の意味として用いられなくなっていた「えっち」を、思い切って放送に用いることであった。
これを機に「セックス」は本来の広い意味を持つ言葉として、慎重に用いられるようになっていった。ただ現在でも日本では性交渉に限局した用いられ方が多いことから、この言葉を用いる表現内容全体に下品・卑猥の感をあたえないように配慮がなされている。なお。2008年(平成20年)以降も、NHKでの扱いは民放よりやや厳しい傾向にあるが、性教育や性関連の相談、芸術などの番組では、むしろ民放よりも大胆に用いられるようになり、民放ではおよそ敬遠される午前中の情報番組などでも大胆に取り上げられるようになった。こういった傾向に対して2011年(平成23年)、放送総局長の「行き過ぎた」の謝罪[58]に至り、ストップがかかることにはなったが[59]、一方で午前中の情報番組でも性の悩みを正面から取り上げるNHKらしい内容という意見が多く、寄せられた視聴者の意見の95%は好評価[60]ということもあり、日刊ゲンダイなどは「ちょっと残念」との評価もしている[61]。これはやはり、NHK自身が長年の独自研究により「放送用語、放送表現」を定義し、適宜、大衆の判断を仰いでそれを加除するものとしたことが大きい。
一般的によく知られているものとしては性器の俗称があるが、例えば男性器の俗称である、「キンタマ」金玉睾丸)などは、慎重に用いる言葉もしくは注意を要する言葉となっており、放送時間帯などによって扱いが異なる。かつては青少年が視聴することの多いゴールデンタイムでほぼ全面的に規制されていたが、1990年代以降は特に規制されることはなくなってきている。ただし女性器と同様に男性器そのものの映像などは、ほぼ全面的に禁止されている(ジャッカスの劇場版が放送できないのはこのため)。
NHKと民放では、扱いに若干の差がある。2007年(平成19年)12月31日に放送された第58回NHK紅白歌合戦では、紅組司会・中居正広と白組司会の笑福亭鶴瓶がショートコントをしていた冒頭場面において、笑福亭鶴瓶がSMAPが歌う曲の「弾丸ファイター」を「睾丸ファイター」と言い放った例もある。ビートたけしはラジオ番組「ビートたけしのオールナイトニッポン」中では規制を避けるために、ひっくり返した「タマキン」などをよく用いた。
一方、女性器の俗称であるまんこは、現在でもほぼ全面的に禁止となっている。しかしながら、一方でちんこのほうは規制がなく、ジェンダーの面から差別的との意見が多い。「10000個 = いちまんこ 」のような場合、すなわち女性器を意味しない場合は放送禁止用語として扱われない(これを逆手に取って、「まんこ」をふざけて意図的に強調する出演者もいる)。同様のケースとして、鶴瓶上岡パペポTVにおいても本番中、上岡龍太郎が「(『目こぼし』に接頭語『お』を付けた)お目こぼしはどうなんや?」と発言したことがあったが、この場合も女性器を意味しない言葉のため、そのまま放送された。共演の笑福亭鶴瓶もそれを聞いて、椅子に座りつつ股を開きながら「お目こぼし(おめこ干し)!」と明らかに女性器を意図しつつ声高に叫んだが、これもそのまま放送された。
サザンオールスターズの楽曲「マンピーのG★スポット」の実際のサビ部分は“マンピーのGスポット”だが、生放送の音楽番組の際に桑田佳祐が“マンコーのGスポット”と歌うことがある。
かつて、プロ野球の助っ人外国人選手として大毎オリオンズに在籍したフランク・マンコビッチ選手が、登録時にフランク・マニーという登録名に変更させられた、あるいは沖縄県の「糸満港」を「いとまんぎょこう(糸満漁港)」と言いかえた例もある。これらは名前・固有名称であり、変更することによりそのいきさつを知る視聴者に、むしろ下品・卑わいの感を連想させる、さらに人名であれば、人権の尊重規定に抵触する恐れすらあることから、2008年以降はそのまま放送することが多くなった。ただ、全く同じ音である沖縄本島にある漫湖などについては、前後関係でこの言葉のみが突出、視聴者、聴取者を驚かせる恐れがある場合には、前後に適切な表現を入れる、あるいはイントネーションを変えたりテロップで表記することで対処することがある。また、マンキヴィッツなどにする場合もある。
九州地方の方言である「ぼぼ」については、の赤ちゃんを意味する飛騨地方の観光客のお土産のひとつ「さるぼぼ」もあるということから、良識の範囲として放送されることも多い。
上述の通り、〜万個や〜万戸は数量の表現であり、問題はない。同様にロシアヤキマンコ通りスイスレマン湖日本沖縄県にある漫湖なども問題はない。
あのねのねの『つくばねの歌』のサビはレコード版では暈しつつもチンコという歌詞があるため放送禁止の歌と言われた。
つボイノリオの『インカ帝国の成立』は、インカ帝国創設者とされる伝説の英雄マンコ・カパックの功績を讃えた歌であるが、ラジオ放送ではピー音が入れられた。(すでに1970年代には歌詞が存在していたとされるが、2000年代まで未発表だったためいわゆる「放送禁止歌」を逃れた)。なお、限定版シングルでは、この自主規制バージョンが「学校放送向け」バージョンとして収録されている。
北野ファンクラブ」の替え歌コーナー「亀有ブラザーズ」などでは、西城秀樹YOUNG MAN」の替え歌「コーマン」など、ひっくり返した呼称が用いられた。
その他「きらきらアフロ」で松嶋尚美が「万古焼」が読めずに「まんこやき」と連呼したなどのケースがある。「まんこ」はともかく、これは「誤った内容の放送」となるため、DVD版では当該発言箇所にピー音が被せられている。
かたわなどの身体障害者に関する言葉(人権・表現上の配慮)
かたわは、身体障害者全般に対する差別、侮辱語とされ、ほぼ全面的に禁止となっている。「不具者(ふぐしゃ)」も同じ。
「あきめくら」視覚障害者の障害の様態を示す言葉として、文学作品中にも登場することのある言葉であるが、視覚障害の様態を示す場合、医学的に正確性を欠き、概ね差別的、侮蔑的なものとしてとらえられること、または開いているのに目が見えない様から転じて、文字の読み書きのできない人、さらには物事を見ていながら気がつかない人のことを差別的、侮蔑的に言うものであることから、ほぼ全面的に禁止となっている。なお、この言葉を使っている文章の場合、言葉のみの言いかえをしても、差別的、侮蔑的な意味が残ることが多く、たとえ文学作品であっても、この言葉が使われている文章部分を全てカットすることが多い。「めくら」についても、視覚障害の様態を示す場合、それぞれの様態について正確な言葉があること、また目が見えない様から、物事の道理や本質がわからない、分別がない、デタラメといった意味を持つようになった言葉であることから、ほぼ全面的に禁止となっている。
「盲判(めくらばん)」などといった言葉は国会中継などで放送されてしまうケースもある。また「鶴瓶上岡パペポTV」で、「国会中継での『盲判』という発言はなぜカット(言い換え)されないのか」という話題が出た際にも、トークの内容を伝えるために例外的にそのまま放送されたことがある。
「めくら」の読みを持つ言葉は今日、慣用句、固有名詞などであっても、言いかえのきくものはできるだけ言いかえられるようになっている。例えば盲縞(めくらじま)であれば「紺無地の木綿織物」などと、一般的により分かりやすい言いかえができることから、使われなくなっている。今日、言いかえのできない動物の名称などに限ってそのまま放送されることが多い(メクラウナギなど。ただし各学会などでも改名が進められており、「メクラウナギ」は2007年、「ホソヌタウナギ」とされ、使われなくなった)。
「めくら」という読みは非常に差別的、侮蔑的な意味合いが強いとされることから、古くから視覚障害の様態を示す目的以外の「めくら〜」などについても、原則的に禁止か、極めて慎重に扱うべき言葉とされてきた。さらに「めくら」という言葉を避け、視覚障害者に対し、差別、侮蔑目的として使われることがある、またゆえに「めくら」を連想させるといった理由から、「〜の目はふしあな」あるいは「〜に目がない」などについても、ほぼ全面的に禁止とされてきた。
しかしながら、例えば「〜の目はふしあな」であれば、「私の目はふしあなではない」あるいは「お前の目はふしあなではない」とすると、意味が全く逆転する。すなわちこれらにおける「目」とはいわゆる判断力など、すなわち「心眼」のことであり、生物学的な「眼」を示しているものではない。つまりもともときつい言葉である「無能」「有能」、日本の文化的な「恥」、すなわち「無能」「愚か」あるいは「馬鹿」などと言われてひどく恥をかく、逆に「私は有能だ。私は偉い。」などと言われて周りが不愉快な思いをする事態に至ることなどを避ける目的で生まれた表現が、転じて「めくら」を避ける目的で使われたため、さらにこれも「視覚障害者に対する差別的、侮蔑的言葉、表現」となって使うことのできなくなった悪循環の典型例である。このことから概ね2010年(平成22年)以降「私の目はふしあな」あるいは「お前の目はふしあな」は使われないが、「私の目はふしあなではない」あるいは「お前の目はふしあなではない」が使われるようになり、2012年(平成24年)以降、過去に制作された時代劇などで、数十年にわたり消音措置がされてきた「〜の目はふしあな」も前後関係に問題なく正確に使われている場合(もとより明確に「無能」あるいは「馬鹿」という意味で使われているが)には、そのまま放送されるようになった。また同様に「〜に目がない」「人を見る目がある」「人を見る目がない」などもようやく使われるようになった。
なお、「もうもく」という読みについては、今日、タイトルなどではそのまま、本編などでは「目が見えない」といった使い分けがなされている例が多い。
他に片目が不自由である意味のめっかちは、ほぼ全面的に禁止となっているが、言いかえのひとつである「独眼」は慎重に扱うべき言葉とされ、さらに「片目の英雄」の意味の「独眼竜」などは全く問題ない。
肢体不自由者に対する差別、侮蔑語とされる「びっこ」「ちんば」なども、ほぼ全面的に禁止となっている。
関連して、「片手落ち」などがある。「片手落ち」の原義は「片-手落ち」(片方のみ裁断される不当な手落ち)である。NHK大河ドラマ『元禄繚乱』で「片落ち」と言いかえられたことから「言葉狩り」と非難の声もあったが、特に肢体不自由者に対しては、古代ギリシアユウェナリスの「健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである」(It is to be prayed that the mind be sound in a sound body) を、ナチス・ドイツをはじめとする国家が軍国主義を推し進めるため恣意的に改竄した「健全な精神は健全な身体に宿る」が、差別的意味を持って今でも用いられる恐れがあり、(なお「健全なる精神は健全なる身体に〜」の表現もほぼ全面的に禁止となっている)「片手-落ち」と解釈されかねないことから、ほぼ全面的に禁止となっている。さらに「手落ち」なども、通常用いない言葉となっている。
発話障害者に対する差別、侮辱語とされる「唖(おし)」も、ほぼ全面的に禁止となっている。ゴルゴ13の劇中のセリフが差し替えられているのはこういう事情からである。
関連してどもりも、ほぼ全面的に禁止となっている。2005年(平成17年)放送の『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』のトークで浜田雅功が発言。生放送ではなかったため音声は編集されていた。
聴覚障害者に対する差別、侮蔑語とされる「聾(つんぼ)」も、ほぼ全面的に禁止となっている。聾学校2007年(平成19年)度より、盲学校・養護学校とあわせ特別支援学校とされた。「めくら」と同様につんぼ桟敷などは、ほぼ全面的に禁止。
  • YMOの楽曲「在広東少年」には「お前は歌う私に向かって歌うつんぼの私に」と言った歌詞が存在するためラジオ等で収録されているアルバムを放送する場合その箇所を無音加工するなどの措置が施されている。
障害者も、「害」の字を問題として、官公庁などで「障碍者・障がい者」と書きかえが一部でなされている[62]ことから、テロップなどでは「障がい者」とされることもあるようになっている。なお、24時間テレビ 「愛は地球を救う」では、2009年(平成21年)から「ハンディキャップを持っている人」と紹介されている。
なお、「〜障害を持つ」は、本来の意味で用いる場合には問題ないが、注意を要する言葉とされ、2008年(平成20年)以降、NHKでは「〜障害がある」に統一して言いかえている。
「ぎっちょ」は、山梨県や島根県の方言で、片足が不自由な人という意味であり[63]、この言葉が差別的であるという理由で1990年代の初め頃からほぼ全面的に禁止となった。なお、左利きのこともぎっちょというが、これはかつて、右利きを意味する「右ぎっちょ」、左利きを意味する「左ぎっちょ」という2つの言い方が並存していたのが「左ぎっちょ」という言い方だけ残り、更にそれが縮まって現在の言い方になったのであり、差別的な意味はない(ただし、鹿児島県宮崎県南西部では幅広く使われるので薩隅方言と混同されることもある。)右衛門と左衛門のうち、右衛門だけが「えもん」と呼ぶようになったのと同じ理屈である。
かったいなどの容姿などに関する言葉(人権・表現上の配慮)
かったい(乞丐)」は、ハンセン病のらい腫(結節)が現れている人のこと。地方では1950年代まで用いられていた。日本ではハンセン病患者への法的対応が他国と比較しても著しく遅れていた事や、ハンセン病に対する誤った認識が広がっていることもあり、改めてほぼ全面的に禁止としている場合が多い。
小人(こびと)」は背の低い人に対する侮辱語でもあるため、慎重に扱うべき言葉とされている。「チビ」なども同様。文学作品などの放送では慎重に用いられることがある。ただし自分の家族のうち年少者にあたる子供のことを特に指して「うちのチビが〜」と使用するような場合や、人間以外の小柄な動物(小型犬など)に「チビ」と名づけて使用するような場合などは問題ない。
せむし(背虫)」は、ほぼ全面的に禁止となっている。この規制は世界的名作であるユーゴーノートルダム・ド・パリ』の別の邦訳『ノートルダムのせむし男』の題名が使用できない、などといった問題をかかえる。ディズニー映画は邦題を『ノートルダムの鐘』とした。また、日本国内向けに表示される英題も『The Hunchback of Notre Dame』(Hunchback=せむしの意)から『The Bells of Notre Dame』と変更されている。
いわゆる「斜視」を示すロンパリ、眇(すがめ)、ひんがら目(ひんがらめ)、藪睨み(やぶにらみ)はほぼ全面的に禁止となっている。なお「ロンパリ」は、目が「ロンドン」と「パリ」それぞれ別々の方向を向いているような様からつけられた差別的俗語。
気違いなどの精神障害者に関する言葉(人権・表現上の配慮など)
日本以外にもある程度の規制をしている国がいくつかあるが、いわゆる精神病や精神障害はその病気や症状そのものが「病」であることから、概ね通常の疾病者あるいは障害者に対してなされる「配慮」の範囲と同じ、すなわち意図的またはあからさまに病を理由として精神病者、精神障害者の人権を侵害することがない程度にとどまり、日本ほどの厳しい規制は今日、例をみなくなっている。
後述例のように日本の場合、精神疾患治療の飛躍的進歩とは対照的に精神病者、精神障害者を取り巻く一部の社会的状況などは今日、客観的な数字をもって世界最悪と評されるまでに至っているとされる[誰によって?]。この結果を受けて、このジャンルに関して日本では、世界的にも今日、例をみないほどの厳しい言葉、表現の規制が行われている。現在も放送局自らが、具体的な言葉を避けた上で「このままでは何も解決しない。」と報道するようになってきてはいるが、これはごく最近になってからのことであり、例えば近年、日本でも認可、広く治療に用いられるようになった治療薬SSRIについて、その認可直前に「心を操る」など視聴者の誤解を招きかねない、治療薬の副作用の危険性の問題とを混同した内容として報道してしまう[64]など、放送局自体の認識・理解もまだまだ、結果、言葉や表現の規制に拠り所を求めているのが現状である。
精神病者、精神障害者に対する差別、侮蔑語とされる気違い・気狂い」脳病院・気違い病院」精神病院精神分裂病などは、2012年(平成24年)現在でも、理由のいかんを問わず放送で使うことはほぼ全面的に禁止となっている。発端は以下記述の抗議に対して放送局が委縮してしまったことが発端であるが、今日、病理が相当なレベルで解明され、特効的薬物の投与などにより多くの人が治癒あるいは快復して社会復帰するようになっているにもかかわらず、太平洋戦争中、日本にもナチス・ドイツの「不治の精神障害者は社会の重荷である」(なおナチ党政権下では精神障害者は社会の重荷として虐殺された歴史がある。)という考えが政治的に取り入れられ、戦後もそのまま官民ともに浸透し続け、2012年(平成24年)現在でもなお法的対応が不十分であることから、その事実の大衆認知度が低く、精神病者、精神障害者はもちろん、それ以外の人でも日常、差別・侮蔑感を覚える、あるいは経験することが多い。例えば保険加入時に脊髄損傷などを原因とする痙性麻痺を持つ人が、病名と服用中の精神疾病治療にも用いられるジアゼパム系の薬(この薬はうつ病から小児の熱性けいれん防止まで幅広く用いられている。)を自己申告すると、病名ではなく薬名で審査されるため、精神病者、精神障害者ではないことを証明する医師の診断書を別途、患者全面負担で提出しなければならない[65]また傷病保険加入などに際して、一度でも精神病を患った者は治癒しても、生涯にわたって加入資格がないとされるのが2012年(平成24年)現在でも日本では一般的である。[要検証]世界的にこれはもはや日本だけのことになっており、日本では例えば軽度のうつ病、すなわち精神障害者保健福祉手帳の交付すら受けられない程度の精神病を患っても、社会よりその生涯にわたって「廃人」の烙印を押される場合があり、日本では差別を恐れての病の隠ぺいによるストレスの悪化や重症化、またそれによる事件・事故・自殺なども後を絶たない。</ref>、またストレス社会と言われる今日、さまざまな精神疾病は決して珍しい病ではなく、誰でも罹る可能性のある身近な病、実際日本では1993年(平成5年)の調査報告によると推計157万人と大変な数であるが[66]、それにもかかわらず正しい知識が定着しない、すなわち偏見、差別を基調とする誤った認識が大衆に根強く浸透したままであり、結果、社会的支援体制もほぼ世界最弱[要検証]、ゆえに今日、世界的に類例のない、桁違いに長い精神科入院患者の平均在院日数すなわち日常あるいは社会生活を十分送ることができるほどに快癒したのにもかかわらず、社会的な受け入れ態勢がないなどの理由により退院できない(社会的な問題により、世界的には既に過去のものとなっている精神病患者の入院中心型治療体制から脱却できていないのは日本だけであり、この点で日本は精神医療最後進国と評される。)[67]などの深刻な問題を生じているというのが現在の主な規制理由になっている。同様の理由によりハンセン病患者などに対する言葉にも厳しい制限があり、また「病は気から」などについても、過去、広島赤十字・原爆病院に入院中の被爆者を見舞った内閣総理大臣(中曽根康弘)の不適切発言とこれに対する本人の「大意はなかった」とする不適切釈明(被爆者の援護は日本国政府が行うと判決確定しており、法的に問題のある発言でもあった。)により改めて重く認識され、よほど正しく、すなわち例えば明確に心労軽減により免疫力が高まり、治癒に至ったなどとする医学的見解がない限り、用いることのできないものとなっている[68]
規制の発端は、ある一人の精神病患者がその回復期に「きちがい(気違い)」という言葉をテレビなどで耳にし、ショックを受けその回復が遅れたとの事例報告があり、家族もまた萎縮するとのことを加え、1974年(昭和49年)以降一時期、統合失調症気分障害などの精神障害者の家族らで構成される精神障害者家族会の会の一部が大阪のテレビ局やラジオ局に激しい抗議を行ったことからである。その結果、最初に抗議を受けた毎日放送では謝罪し、スタジオに「きちがいというコトバは禁句」の掲示板を常設することになった[69]。しかし「きちがい」という言葉を患者に見聞きさせないようにすることが、患者の治癒あるいは快復に影響するということは、精神医学では証明されていない。また欧米ではこのような運動はみられず、実際に英語圏で「きちがい」に相当する「Mad」や「Crazy」、「精神分裂病」の直訳にあたる「Schizophrenia」は制限されていない。しかしながら日本では今日に至るも誤った認識が大衆に根強く浸透したままであり、責任ある立場にある公人ですら、精神障害者はもちろん、それ以外の有疾病者、さらには健常者に対しても不適切・誤った使い方をすることがある、またその恐れがある、さらには当の放送局でさえも、例えば知識不足から精神障害者が重大犯罪を犯した際などにうかつな報道をし、精神障害者に対する差別、偏見を助長してしまうことがある、つまり日本社会独特の「社会悪」のひとつとも言えるものであり、その是正には多面的な不断のアプローチが必要、相当な期間を必要とすることが容易に想定できることから、欧米などとは異なり[70]厳しい規制対象とされている[71]。概ね2008年(平成20年)以降、医学的に「気が違う」あるいは「気が狂う」というのは「心・精神に異常をきたす」にほぼ統一されている。しかしながらこれも日本では脳疾患など、すなわち脳細胞レベルの異常などに起因する「異常」と、脳疾患などに起因しない、例えば誤った学習の積み重ねなどに起因する「異常」などとの混同、混用が多く、単なる従来の言葉の言い換えのみであるとして、個別、正式な病名を用いた表現もしばしばされる。
また米軍基地などの敷地外を意味する「基地外」(「きちがい」の同音異義語)は「気違い」を連想させる恐れがあるとして、「基地の外」(きちのそと)と言いかえられることがある。
関連した、「狂う」は、以前は極めて慎重に用いるもしくはほぼ全面的に禁止とされていたが、元来、人、動物、物に広く用いる言葉であり、この措置がかえって精神障害者に対する差別や偏見を助長する恐れがあることから、概ね2008年(平成20年)以降、精神障害者を表すもの以外には使われるようになっている。
「精神分裂病」は、かつて診断名の1つとして用いられていたが、かつてあった精神障害者の家族らで構成される精神障害者家族会の全国組織が、世論の誤解により、侮辱あるいは差別の対象とされかねないことから、名称を変更して欲しいと日本精神神経学会に要望し、アンケートや議論を行った結果、統合失調症となり厚生労働省も公式な診断名と認定して通知、よって今日では使われない言葉ともなっている。またこの頃から統合失調症が増えたのではないかとする意見[72]や、誤診が相次いでいるといったこともようやく報道されるようになった[73]
日本では精神障害に限らず、およそ疾病をもとにする不適切な言葉・表現は非常に多い。上述「病は気から」をはじめ、例えば身近な感冒では「馬鹿は風邪をひかない」「風邪をひく奴は気合が足らない」「風邪は気合で治すもの」「風邪ごときで〜を怠けるな」などである。いわゆる風邪は伝染病であり、今日そのメカニズムもほぼ解明されている。多くのウィルスが強力な感染力を有し、正しく科学的合理性のある方法を用いない限り、およそ感染を防ぎきれるものではない。またいわゆる風邪は、特にその初期段階では他の類似した症状を呈する重篤な疾患との鑑別が難しいことがあり、その場合、治療が間に合わない、あるいはいわゆる風邪であっても、場合によっては合併症などにより死に至ることもあることから、特に素人の「思い込み」などによる対処は危険である。よって別の自主規制項目、すなわち「科学的見地より明らかにされている事象を否定する内容や表現は扱わない。」にも該当し、これらも今日では禁止あるいは制限の対象とされている。「風邪」という言葉自体もその原因がよくわからなかった時代に付けられた病名であり、厳密には不正確なものであることから、今日、厳密性を要求される内容では「いわゆる風邪」といった表現にされる。なお、いわゆる風邪に関するこれらの言葉や表現は、もとより制限はあったが、武田薬品工業の総合感冒薬キャッチコピー「風邪は社会の迷惑です」とその内容、すなわち感染拡大を起こさないことが第一である、がCM放送された頃から、当時、特に制限のなかったいわゆる「お笑いモノ」でも自主的に使われなくなり、厳密には異なる疾患とされるが、類似の症状を呈し、いわゆる風邪よりも死亡率の高い、一般的には「重い風邪」と認識されている「悪性感冒」などともいわれるインフルエンザの特効薬が登場、特にインフルエンザに対する社会的認識が高まり、法的措置など(例えば今日、インフルエンザは学校において予防すべき感染症(学校感染症)第2種指定感染症であり、出席停止の対象となる。)がとられるようになってからは放送に限らず、社会的にも疎んじられ、使われないものになってきている。対して医学的にも立証されている「風邪は万病のもと」などは問題はない。
古くに制作された時代劇中には「気が違ったか」というセリフがよくあるが、今日の再放送では特にその箇所のみ無音にするなど、視聴者にむしろ不自然ととらえられかねないほどの厳しい修正が行われることがある[74]。他の多くの言葉が解禁の方向にあるなかで、上述の理由より、精神障害者に関する言葉に代表される、疾病をもとにする、前後わずかな表現の差で不適切なものとされかねない言葉・表現は、むしろますます規制強化の方向にある。
なお時代劇であれば、放送禁止とまではならないにせよ、例えば必殺仕事人2009の最終回で経師屋の涼次と如月が受けた凄惨な拷問シーンなどのほうが後々、個々の言葉よりもよほど問題視されるようになる可能性を孕んでいる。また、規制緩和以降相次いだてんかん発作による交通死亡事故に対し、厳罰化を求める約17万人の署名提出と受理側の困惑[75][76]など、日本ではまだあらゆる面でさまざまな問題を抱え、解決の方向性すら満足に見出されていないことから、これらの言葉の解禁の目処は立ってないのが実情と言える。
組(家庭と社会)
暴力団関係の言葉としても用いられることがあるため、注意を要する言葉となっている[要出典]。建築業(ゼネコン)などの企業名としての「○○組」や幕末新撰組学校などの「1組2組」や学園ドラマ「金八先生」における「3年B組」などは問題ない。
高齢者に関する言葉 (人権・表現上の配慮など)
「クソババア」「クソジジイ」などがある。常識の範囲として過去「勧善懲悪」などの内容によく使われていた言葉であるが、過剰なまでの規制が行われていた一時期、理由のいかんを問わず全面的に禁止とされていた。概ね2008年(平成20年)以降、再び常識的な範囲での使用、つまりこの言葉を粗雑あるいは肯定的に扱わなければ問題はないとされるようになっている。これに限らず基本的に「クソ〜」といった表現について、概ね2008年(平成20年)以降、日本でもようやくその「内容」から使用の可否を決めるものとされるようになった。具体的には過去、漫才やコントなどでの使用もフリーであったのに対し、現在では簡単にジョークに使うことのできない言葉・表現といった「基本解釈」からの使用制限などである。
個人の個性や嗜好などに関する言葉 (人権・表現上の配慮など)
新しい言葉でオタクがある。従来より「〜は病的な〜だ」あるいは「〜は〜バカ」という表現について規制がある。岡田斗司夫1996年(平成8年)5月に発表した著書『オタク学入門』によると、この言葉は当時のNHKの「放送問題用語」に指定されていた。2008年(平成20年)以降、差別、侮蔑的に用いなければ、基本的に問題のない言葉とされている。
「左利き」と「ぎっちょ」の関係については、#かたわなどの身体障害者に関する言葉(人権・表現上の配慮)を参照のこと。
女性に関する言葉(人権)
過去の歴史より女性に対する侮蔑的・差別的意味を持つ多くの言葉が規制対象である。例えば「売れ残り」は、30代後半以上の年齢で結婚歴のない人(特に女性)に対して侮蔑的な意味を持って用いられる恐れがあるとされ、慎重に扱うべき言葉とされているが、本来の意味、すなわち物品(商品)に対して用いる場合については、常識的な範囲で連想を招く恐れがない限り、問題なしとされる。しかし商品についても「売れ残り」は企業など販売者にとっては決して良いことではないので、近年、定着してきた「在庫」などが用いられるようになっている。また、ドラマなどのストーリー上、どうしても用いる必要がある場合などでは、慎重な扱いを条件として用いられる。その他「婦人」などは今日「女性」に置き代えられるようになっている。
支那など(法と政治)
支那中国及びその人民(国民)、さらには華僑などに対する侮蔑的、差別的意味を持つ言葉とされている。英語の「China」同様、を語源とする言葉。かつてはほぼ全面的に禁止となっていたが、一時、規制がかなり緩和された結果、中国に批判的な人が偏見的に再び用いる恐れがあるとされ、現在は再び規制が強化、慎重に扱うべき言葉となっている(しかし、これらには疑問がある → 支那#現代の日本の状況参照)。
  • 支那料理」が問題となったために言いかえられた「中華料理」も、のちに「中国料理」とすることが多くなった。
  • また「支那そば」を「ラーメン」と言い換え、ラーメンの具などに用いる「支那竹」も「メンマ」に言い換えることがある。
  • 地理用語の東シナ海南シナ海はそのまま用いても問題ない。
また、中国人に対する蔑称である「チャンコロ」、「ポコペン」は、ほぼ全面的に禁止となっている。漫画『ケロロ軍曹』がテレビアニメ化・メディア展開された際、地球のことを「ペコポン」と変更したのはこういった事情による。
将棋倒し(人権)
日本将棋連盟などからの意見で、新たに慎重に用いる言葉もしくは注意を要する言葉となった。明石花火大会歩道橋事故で使用した際、不適切だったためである。
正室・側室(人権・法と政治・家庭と社会)
歴史上の事実としての使用は問題ない。日本の民法は一夫一婦制を規定しており、現在でもあるのは皇室の制度上くらいである。よって皇室に係ることは別として、男尊女卑の肯定が憚られる現在では、現在事実として存在する複婚重婚罪を説明する目的などとしては使われない。過去、慎重に扱うべき言葉となっていた。
贅六(ぜいろく)などの個人の出身に関する言葉(人権)
贅六は、「丁稚」を意味する「才六」の江戸訛りで、上方出身者に対する侮蔑語。今でも愛知県以西(特に関西地方)の人に対して用いられる恐れがあるとされ、ほぼ全面的に禁止となっている。近年、放送では方言も尊重されるようになったため、他にも対象となる言葉が増えている。
知恵遅れなどの知的障害者に関する言葉(人権)
知恵遅れは、過去、用いられていたこともあったが、知的障害者に対し差別的、侮辱的意味をもって用いられる恐れがあるようになったとされ、ほぼ全面的に禁止となった。隠語である「脳タリン」などは、放送に限らず、知的障害者を表すものとして用いることが憚られるようになったことから、さらに厳しい扱いとされている。「無能」「バカ」「ボケ」「アホ」などの言葉を、知的障害者に対して用いることも同様で、特に、知的障害に該当しない発達障害アスペルガー症候群も含めて自閉症の場合、冗談発言でも発言意図を上手く解釈することが難しく、しばし真に受ける場合があるので注意が必要とされている。
従来、学校などでの授業内容の理解度の低い人などに対して用いられていた俗語(俗表現)、「落ちこぼれ」が、知的障害者に対して用いられる恐れがあるようになったとされ、極めて慎重に用いるものとされた。従来の、学校などでの授業内容の理解度の低い人などに用いる場合に限り、「いわゆる落ちこぼれ〜」という用い方をする。知的障害者に対して用いることは(知的障害者に対する差別、侮蔑を批判する放送内容であっても)なくなっている。
ただし「落ちこぼれ」については、従来より教育界に的確に学校などでの授業内容の理解度の低い人のことを示す「低学力児童」あるいは「低学力生徒」という言葉があり、近年、文部科学省の種々の公開通達などで一般化してきたことから、放送でもこれを用いるようになっており、「いわゆる落ちこぼれ〜」も使わない言葉となりつつある。また古くには教育界にも「落ちこぼれ」を示す「低能」(低能力)があったが、そもそも能力とは多種多様なものであり、そのうちのひとつである学力のみを示すものとはならず「誤った言葉」であることから、かなり以前に廃止され、今日、ほぼ死語になっている。
白痴(はくち)」は、かつて重度の知的障害を表す言葉として用いられていたが、現在は慎重に扱うべき言葉となっている。田原総一朗菅直人にテレビ番組で発言されて不快感を示したのが代表例。ドストエフスキー坂口安吾の作品のタイトルに使われることがある。また、大宅壮一が生み出した言葉に一億総白痴化というのがある。
朝鮮など(法と政治・報道の責任など)
朝鮮は、慎重に扱うべき言葉、正確に用いなければならない言葉とされている。朝鮮民族に対して、差別的、侮蔑的に用いられることがある、また日本統治時代の過去や北朝鮮が朝鮮を正式名称にしており、混同される可能性があるためである。大韓民国を「南朝鮮」・「南鮮」と呼ぶといった蔑称に加えて、「朝鮮民族」・「朝鮮語」のように差別的意図を含まない表現も回避される傾向が強い(北朝鮮はこれらの呼称を公式に使用している)。ただし、朝鮮日報や朝鮮ホテルなど固有名詞及び文化に関する記述であれば問題ない。
北朝鮮を示す地理用語である北鮮は、侮蔑的な意味合いで使用されたことから、ほぼ全面的に禁止となった。しかしもとより国名などについては、略語であっても明確にそれとわかるように用いる必要があり、今日、大韓民国も朝鮮民主主義人民共和国もそれぞれ国際的に認められている独立国家であることから、韓国、北朝鮮で統一されている。
バカチョンは本来は「馬鹿で頭が悪い」ことを示す表現であったが、「馬鹿な朝鮮人」の意味で用いられることがあり、さらに古くからの朝鮮民族に対する差別、侮蔑語であるとの主張があるためにこの表現自体がほぼ全面的に禁止となっている。なお、この言葉を含む言葉は「馬鹿な朝鮮人の〜」という意味に解釈されうるため、併せてほぼ全面的に禁止となっている。60年代から70年代にかけて自動露出カメラ(コンパクトカメラの頁を参照)が俗に「バカチョン」または「バカチョン・カメラ」と呼ばれていた。このバカチョンは「バカでもチョンと押せば使える」という意味だったが、「バカでもチョンでも使える」という意味に簡単にとらえられること、「バカ」という言葉も注意を要する言葉であることから、当初から各々、正式名称が用いられた。
「バカチョン」と同様にチョンも、本来は朝鮮民族とは関係のない蔑称であったが、後にこの語が朝鮮民族に対する差別、侮蔑語としての意味も持つようになったことから、朝鮮民族の呼称として解釈されうる蔑称としての使用がほぼ全面的に禁止となっている。そのためか、韓国の音楽グループKARAのメンバーであるチョン・ニコルについては、他のメンバーがフルネームで表記されるものの、彼女のみ「ニコル」と表記されることが多い。
過去の歴史から、朝鮮民族やその文化などに対する差別、侮蔑は多く、例えば言葉自体に差別的、侮蔑的意味のないキムチニンニクであっても、「キムチ臭い」「ニンニク臭い」などは、朝鮮民族やその文化に対する差別的、侮蔑的な意味を持つことから、このような表現を朝鮮民族やその文化に対して用いることは、ほぼ全面的に禁止されている。
ダチョウ倶楽部は以前多人数のコント集団「キムチ倶楽部」として活動していたが、ソウルオリンピックなどの当時の社会情勢を考慮して現在のグループ名に改名した[77]
通信制高校または定時制高校(人権など)
低学力者の通う学校という、誤った認識が生じている恐れがあるとされ、1980年(昭和55年)頃から[78]おおむね慎重に扱うべきもしくは注意を要する言葉とされた。定時・通信制も高等学校の種類のひとつに過ぎず、修了については全日制と同等であることから、定時・通信制であるかについては問われず、自主的に「通信制・定時制であること」まで伝える必要はない。
また一方で生徒募集の学校紹介などでは明確に伝える必要があり、議論がなされたが、この認識はいわゆる過去の「偏差値偏重教育」に端を発しており、今日ではこれが否定的に扱われ、過去、当たり前のように使われた「絶対評価」「相対評価」といった言葉すらも疎んじられるようになっていること、教育の機会均等の点で、定時制・通信制高校の果たす役割は過去も現在も何ら変わってはおらず、その存在目的も法に明記されており、大衆の誤った認識に萎縮することは大衆にかえって誤った認識を定着させることにもなりかねない。このことから、例えばNHKでは今日、NHK学園の生徒募集などについて明確に「通信制」として放送するようになっている。
トルコ・モーテル(法と政治など)
過去、国名以外にソープランドの意味で「トルコ」という言葉が用いられていた。1984年(昭和59年)以降の改称により、性風俗関連の法律に「トルコ」の言葉はなくなった。よって、トルコ風呂「トルコ街」「トルコ密集地」など、性産業に関連する場合について、通常使わない言葉となっている。劇画版『戦国自衛隊』(秋田書店プレイコミック」連載)の単行本が世界文化社から再刊された際、作中の台詞「川崎堀の内のトルコよく通ったもんだが」というセリフが「川崎堀の内のソープランドよく通ったもんだが」に変更されたのはそのためである。この作品が最初に発表された時代には「ソープランド」という言葉は存在していなかったが、そういった面での違和感はまったく考慮しないようである。
テレビドラマの再放送では、テレビ局側の判断によりそのまま放送するケースもあり、また『嫌われ松子の一生』など、昭和後期の時代背景を重視した作品でまれに劇中で使われることがある。
誤用した結果、過去、使わない言葉となっていたものの代表にモーテルがある。自動車で旅行する人のためのホテルのことであり、卑猥な意味はなく、英語では問題なく用いられている。ところが日本にはもともと「モーテル」はなく、俗に連れ込み宿などと呼ばれていたラブホテルの利用が、自動車によるものが多くなったことから、言いかえとしてこれらの業界が「モーテル」を用い、当時の世相と相まって結果、卑猥な意味を持つようになったようである。1995年(平成7年)頃から、高速道路網の整備に伴ってこれに付随するように、米国のモーテルを手本にした本格的な自動車での旅行者のためのホテルが各地に作られるようになったことから[79]、再び言葉に困ることになった。すなわち近い言葉には「旅籠」があるが古語であり、自動車での旅行者を対象とするものは示していない。このことから、モーテルは本来の意味として再び使われるようになっている。
奴隷など過去に存在し、侮蔑、差別目的として用いられた史実語など(人権・法と政治など)
概ね注意を要する言葉。史実語としての使用は問題ない。他にも屯田兵番太などがある。
戦後の占領統治下の日本で外国人、主に在日米軍将兵を相手にした売春婦(私娼)を指す俗語であるパンパンなどを現在の性風俗産業従事者などに対して用いてはならない。これはこの言葉が差別的・侮蔑的意味を持つ言葉であることもあるが、それ以前に売春防止法により1958年(昭和33年)以降、過去のものになっていることから「誤った言葉の使い方」になるためである。同様に戦中、戦争に反対する人を“政府に逆らう者”として罵る意味で使われた「非国民」などを現在の日本国政府を言論により批判する人に対して用いてはならない。これも日本国憲法の下に現在の日本では誤った言葉の使い方になるためである。
晩婚化・少子化などに関する言葉 (人権・表現上の配慮など)
社会学者山田昌弘は、「女性が結婚しないのは高収入男性を求めるため」(いわゆる三高)と題する記事を『週刊東洋経済』2006年7月1日付に寄稿したが、これを放送で取り上げるとき、この主題そのものから注意を要するものになる[80]
また少子高齢化問題を議論する際などに“出産の義務”などの表現も配慮を欠いたものになる。2009年5月7日、政府の少子化対策に関する国会答弁の中で麻生太郎総理大臣(当時)は、「私は43歳で結婚してちゃんと子どもは2人産みましたから、一応、最低限の義務は果たしたことになるのかもしれない」と述べたが、直後に「『義務』という言葉は不適切だった」と、前言を失言として撤回、その撤回の理由について「産みたいと思っても産めない、もしくは色々なことがあって、肉体的な理由で産めないとか色々な理由があると思うので」と述べた。この一連については数少ない「公開することのできる放送問題表現」の例であり、NHKでもそのニュースで詳細に報道している[81]
ホームレスなどに関する言葉(人権・法と政治・表現上の配慮など)
近年、ホームレスが社会問題となったことから、定まった住所・職業などがなく、さまよい歩く者のことを示す「浮浪者」が使われなくなった。ほぼ同義のドイツ語の「ぼろ、古着」(Lumpen)からきている、浮浪者、失業者を示す「ルンペン」なども同様である。どちらも必要な場合、「住所不定無職」などの言葉を用いて言いかえることが多い。過去の一部のドラマ(『裸の大将放浪記』など)があまり再放送されないのは「ルンペン」のセリフが頻発するためである。また、ヒット曲「ブルー・シャトウ」の替え歌の一部にルンペンと言う部分があるが、これについてはそのまま放送されることが多い。
やや関連する、乞食は通常使われない言葉となっている。「現在の日本においては、生活保護が行き届いているために物乞いで生計を立てる人は理論的に存在しない。よってこれは死語であり、存在しないものを指す言葉は放送に用いるべきではない」という理論に基づくという見解がある[82]。しかし軽犯罪法第1条22項には「こじきをし、又はこじきをさせた者」と明確にあることから、該当する違法行為があり、これを報道する必要がある場合などでは使用される。また物乞いで生計を立てる乞食は古くから存在した事実であり、史実として使用する必要がある場合などでも使用される。必要ならば「物乞い」と言い換える。
また浮浪者を連想させるとされ、かつてはほぼ全面的に禁止となっていたドヤは、慎重に扱うべき言葉となっている。使われない言葉となりつつあり、「いわゆるドヤ」という形で用いられることがある。「ドヤ街」なども同じ。なお、「したり顔」を意味する「ドヤ顔」は問題ない(得意げになって「どうだ!」と言う意味の関西弁=「どや!」が語源であり、簡易宿所を意味する言葉とは全く無関係であるため)。
薬品やその他危険物など(法と政治・報道の責任・家庭と社会・表現上の配慮・犯罪表現・広告の責任など)
客観的根拠が明確、日本の「利益衡量」、欧米諸国の「明白かつ現在の危険」の表現規制判断基準のどちらにも該当するものが多く、国際的にも「本来の意味」での「放送問題用語」、「放送問題表現」、よってこれらに対する規制は日本に限らず、海外の放送局においても各国の法令の下に広くなされている。広く表現の自由が保証されている国々での「放送禁止用語」、「放送禁止表現」の中核、すなわち「実質」はこれで、表現者による規制か放送局による規制かの違いがあるだけである。
具体的・客観的な判断基準があることから、他のものとは異なり、具体的に規制の存在とその内容が放送局より公開されている。そして具体的に日常最も多く、また最も細かく規制が行われている「自主規制の代表」である。一般的に表現者個人が全責任を負う欧米においても、これについては例外で、特にCMは放送局による規制によることのほうが多い。すなわち放送局のスポンサーサービス、つまり企業や商品イメージアップのひとつとして実施されている。
視聴者の生命・財産に直結するものであること、関連する法令などがそれぞれにあることから、1991年(平成3年)現在、日本民間放送連盟が作成している「放送基準解説書」には、憲法、民法、刑法をはじめ59の関係法令を根拠として具体的な指示がされており、CM出稿などの際にはスポンサーに開示され、相談の上でCM制作がなされる[83]
日本では、いわゆる薬品(医薬品、医薬部外品)に限らず、医療用具、化粧品、いわゆる健康食品、危険物消防法)、火薬類(火薬類取締法)、高圧ガス高圧ガス保安法)、病毒をうつしやすい物質などの危険物全般、銃砲(特に許可を受ければ一般人が正規に入手・使用できる猟銃)、刀剣類など、またいわゆる公認ギャンブル(宝くじ、競馬、競輪、競艇、パチンコなど)、金融、証券、不動産取引に関するものなどの多くが規制対象となっており、特にCMについては、1991年(平成3年)3月末で140の有形・無形の商品が対象とされている[84]
それぞれ対象となる物品などについて、具体的な細目規定があり、禁止対象となる言葉・表現はそれぞれ異なる。例えば劇物毒物などであれば、視聴者が放送から情報を得て比較的容易に直接入手、あるいは自己合成可能、結果、自殺あるいは恣意的な人畜殺傷目的などに転用される可能性のあるもの(高いもの)の名称などが放送禁止となる。少量誤用でも死亡事故に至る農薬や、簡単な操作で毒物を生成させることのできるものなどについて放送されないのはこのためである。一方、放射性物質などは、極めて危険ではあるが、その入手が極めて困難であるため、そのまま放送される。以下、代表的な薬品に関する規定例を示す。
  • 放送にあたっては、各薬品等に関する各法令などを遵守する。
  • 事件報道においても、劇物・毒物・麻薬類などの名称などの使用は必要最小限度のものとし、例えばメタンフェタミンアンフェタミンなどの具体的名称は特に必要のない限り「覚せい剤」とする。劇物・毒物・麻薬類などの具体的な合成方法などの放送は禁止する。(一連のオウム真理教事件におけるサリンの扱いなどがその代表例である。)
  • 薬品を用いた犯罪などの模倣を防ぐため、刑事ドラマなどでは、できるだけ「薬殺シーン」などの表現をしない。表現する場合であっても、実在する具体的な薬品・手口などを示さない。またどうしても必要がある場合には可能な限り、架空の薬品・手口を設定する。しかし架空の薬品や手口などを設定したものなどであっても、致死量、中毒量などのコメント・表現などには細心の注意を払い、視聴者が実在の薬品・手口などを容易に特定・推定できるものにしない。(昔から中毒例の多いジエチレングリコールは刑事ドラマなどで薬品名を変えて登場することがあったが、1985年オーストリア産ワインジエチレングリコール混入事件の際、不凍液として自動車に一般的に使われていることや具体的な致死量が広く明らかにされたため、以降扱われなくなったのがその代表例。)
  • 薬品を用いた犯罪などの捜査、解決を妨げる、またはその恐れのある実在の薬品の検出・分析方法などに関する具体的内容の放送はしない。(この明確な規定があり、公表されていることから、逆に、例えばテレビ朝日・東映制作のサスペンスドラマ、『科捜研の女』などが長寿番組として存在してもいる。実在の都道府県警察本部科学捜査研究所警察庁附属機関科学警察研究所などが公表している内容については取り入れて放送してもよい。)
  • 医薬品、医薬部外品、いわゆる健康食品などの分類、名称、効能、用法、副作用などの内容の放送は薬事法などに定めるところに従い、特に正確なものとしなければならない。
この他、たばこについて2004年(平成16年)以降、規制が極めて厳しくなり、以前用いられていた「気分爽快」「至福のひととき」など、これらを肯定的に扱う言葉や表現が禁止された。これは「製造たばこに係る広告を行う際の指針」(財務省告示第109号(2004年(平成16年)3月8日)に明記されたことによる。この指針にはまた「テレビ、ラジオ及びインターネット等におけるたばこ広告は、成人のみを対象とすることが技術的に可能な場合を除き、行わないこと。」と明記され、それまで、未成年者が「視聴しないであろう」深夜帯などに限って放送されていたたばこのCMも(1989年(平成元年)10月以降、5時ちょうどから22時54分まで広告を行わないとされていた[85]。)、特に地上波では「技術的に成人のみを対象とすることが可能とはいえない」ことから放送されなくなった。またなどに関する言葉、表現にも制限が課されている。
この自主規制が守られないと、極めて多くの視聴者や社会に直接的な混乱や被害を与える危険性が高い。関西テレビ放送の「発掘!あるある大事典II」事件は、番組全体としてこれらの自主規定を無視したものであると言わざるを得ず、結果、視聴者・社会に与えた混乱、被害は甚大なものとなった。
わかりにくい言葉
NHKではその放送ガイドラインに「難解な言葉や専門用語、一般的でない外来語などは、避けるかできるだけ言いかえるようにする。」と明記している(例:OS → 基本ソフト)。

参考文献など

  1. ^ 「放送問題用語リスト」は通常、その存在そのものについても秘密とされるが、岡田斗司夫が1996年(平成8年)5月に発表した著書『オタク学入門』により一般に知られることになった。
  2. ^ 日本民間放送連盟編 編『放送ハンドブック:文化をになう民放の業務知識』(第4刷 p3-4)東洋経済新報社、1992年3月16日(原著1991年5月23日)。ISBN 4492760857 
  3. ^ 政見放送削除事件を参照のこと。
  4. ^ 日本民間放送連盟編 編『放送ハンドブック:文化をになう民放の業務知識』(第4刷 p84、p116-118他)東洋経済新報社、1992年3月16日(原著1991年5月23日)。ISBN 4492760857 
  5. ^ NHK放送文化研究所編 編『NHK新用字用語辞典』(第3版)日本放送出版協会(原著2004年3月)。ISBN 9784140112007 [要ページ番号]
  6. ^ NHK放送文化研究所編 編『NHKことばのハンドブック』(第2版)日本放送出版協会(原著2005年11月)。ISBN 9784140112182 [要ページ番号]
  7. ^ 日本民間放送連盟編 編『放送ハンドブック 改訂版』日経BP社(原著2007年4月5日)。ISBN 9784822291945 [要ページ番号]
  8. ^ 無論これには激しい議論がある。「関心」に問題があるのか、「知識」に問題があるのか、それ以外の問題であるのか、単に誤解されているだけのことなのかなど、はっきりしてはいない。しかし今日少なからず、あらゆる場面で国内外より厳しく指摘されるようになっている、また、日本では人権課題解決のための啓発広報活動に適するものは放送であると回答している人の割合が最も多いことは事実であり(「人権擁護に関する世論調査」内閣府、平成19年6月など。)ここではやや広域に「意識」として述べる。
  9. ^ 「精神科長期入院患者への退院支援」 近藤浩子 千葉大学大学院看護学研究科[要ページ番号]
  10. ^ 『放送ハンドブック 改訂版』日本民間放送連盟編 日経BP社 2007年[要ページ番号]
  11. ^ 「精神科長期入院患者への退院支援」 近藤浩子 千葉大学大学院看護学研究科[要ページ番号]
  12. ^ これは日本国政府としても以前より人権問題として重くとらえ、政策として強力に撤廃を図ってはいるが、罰則の制定(他の人権侵害に係る罰則規定の準用)までには至らず、結果、2013年現在でも進んでいない。
  13. ^ 『放送ハンドブック 改訂版』日本民間放送連盟編 日経BP社 2007年[要ページ番号]
  14. ^ 『女性セブン』2011年12月22日号[要ページ番号]
  15. ^ 「私たちの生活を支えている「人権」と「権利」」アムネスティ日本[要ページ番号]
  16. ^ J-CASTニュース 2011年11月30日[要出典]
  17. ^ 『臨床精神医学講座22巻精神医学と法』 松下正明総編集 中山書店 1997年[要ページ番号]
  18. ^ 『年報医事法学5』日本医事法学会編 日本評論社 1990年[要ページ番号]
  19. ^ 『これからの精神医療』日本評論社 1987年[要ページ番号]
  20. ^ 『精神保健福祉法講義』大谷實 成文堂 1996年[要ページ番号]
  21. ^ 『精神保健と法』平野龍一 有斐閣 1988年[要ページ番号]
  22. ^ 『患者の自己決定権と法』町野朔 東京大学出版会 1986年[要ページ番号]
  23. ^ 『精神保健福祉法詳解』厚生省精神保健福祉法規研究会 中央法規 1998年[要ページ番号]
  24. ^ 『放送ハンドブック 改訂版』日本民間放送連盟編 日経BP社 2007年[要ページ番号]
  25. ^ 「私たちの生活を支えている「人権」と「権利」」アムネスティ日本[要ページ番号]
  26. ^ テレビ大阪「たかじんのNOマネー」2013年10月26日放送。FNS 27時間テレビ 2013 バラエティコーナー問題表現、視聴者苦情、BPO審議開始について[出典無効]
  27. ^ 日本民間放送連盟編 編『放送ハンドブック:文化をになう民放の業務知識』(第4刷 p84他)東洋経済新報社、1992年3月16日(原著1991年5月23日)。ISBN 4492760857 
  28. ^ 「芸能★BANG+」を打ち切り。「演出が過剰だった」 スポニチアネックス 2012年7月14日。
  29. ^ 「産経新聞」2012年7月30日[要ページ番号]
  30. ^ テレビ大阪「たかじんのNOマネー」2013年10月26日放送。FNS 27時間テレビ 2013 バラエティコーナー問題表現、視聴者苦情、BPO審議開始について[出典無効]
  31. ^ 実際、地上波デジタルテレビジョン移行決定時、ラジオ、テレビ兼営民間放送局を中心に「およそ大衆に受け入れられない=大衆監理による決定ではないと我々は判断する。もしも大衆要望によるものであれば、そう考えない我々ではなく、そう考える新規事業者による新規放送とすべきである。」としてテレビジョン放送免許返納の声があがっている。これに対して郵政省は「民間テレビジョン放送は大衆に「いまだ必要とされて」おり、デジタル化移行は大衆要望によるものである。既存民間放送局はそれに応える義務がある。」として、免許返納を認めなかった
  32. ^ 実際、東日本大震災の際、公が関与するコミュニティFM放送局では「住民の混乱を避ける目的」で「直接的言論統制」がされ、免許条件にある「災害時緊急放送」を満足に実施できなかったところが多かった。
  33. ^ 日本アニメ ~海外輸出・新戦略の行方~ クローズアップ現代公式サイト・2015年2月23日
  34. ^ 日本民間放送連盟テレビ放送基準 (1963年(昭和38年)3月15日改定施行)の児童、青少年に対する配慮と、残虐・不快な表現の制限にそれぞれ明確に抵触している。
  35. ^ BLACK LAGOON』、『北へ』第1話、『Φなる・あぷろーち』第10話、『うみねこのなく頃に』など。
  36. ^ 字幕放送では「…」と表現される場合が多い。
  37. ^ 銀魂』、『らき☆すた』、『砂ぼうず』、『さよなら絶望先生』、『生徒会役員共』、地上波初放送時の『デトロイト・メタル・シティ』実写映画版など。
  38. ^ ただし、これらの作品は版権料の値下げにより購入し易くなっている場合があり、不特定多数を対象とする放送用以外として流通していることもある。
  39. ^ 日本民間放送連盟編 編『放送ハンドブック:文化をになう民放の業務知識』(第4刷 p147)東洋経済新報社、1992年3月16日(原著1991年5月23日)。ISBN 4492760857 
  40. ^ 日本民間放送連盟編 編『放送ハンドブック:文化をになう民放の業務知識』(第4刷 p84他)東洋経済新報社、1992年3月16日(原著1991年5月23日)。ISBN 4492760857 
  41. ^ 日本民間放送連盟編 編『放送ハンドブック:文化をになう民放の業務知識』(第4刷 p78他)東洋経済新報社、1992年3月16日(原著1991年5月23日)。ISBN 4492760857 
  42. ^ 主に広告の取り扱いを行うか行わないかの差があり、NHKでは企業名や商品名(商標)は極力放送されない。
  43. ^ 日本民間放送連盟編 編『放送ハンドブック:文化をになう民放の業務知識』(第4刷 p116他)東洋経済新報社、1992年3月16日(原著1991年5月23日)。ISBN 4492760857 
  44. ^ 日本民間放送連盟編 編『放送ハンドブック:文化をになう民放の業務知識』(第4刷 p6)東洋経済新報社、1992年3月16日(原著1991年5月23日)。ISBN 4492760857 
  45. ^ 日本民間放送連盟編 編『放送ハンドブック:文化をになう民放の業務知識』(第4刷 p6他)東洋経済新報社、1992年3月16日(原著1991年5月23日)。ISBN 4492760857 
  46. ^ 1965年(昭和40年)の「博多駅テレビフィルム提出命令事件」において最高裁判所は「利益衡量」基準(表現を認めた場合と規制した場合とのそれぞれの社会的利益を比較衡量して判断するもの)により判決を下し、以降の裁判でも「利益衡量」基準が用い続けられている。従って日本の放送では、その放送内容が他の人権などと衝突して法廷闘争に至ると、勝訴の見込みはまずない。事実、上述の博多駅テレビフィルム提出命令事件以降の法廷闘争で、放送局が提訴され、勝訴した例はない。また、政見放送削除事件では差別用語を削除したNHKの判断が「利益衡量」基準により認められている。(社団法人日本民間放送連盟編 『放送ハンドブック』 東洋経済新報社、1992年(平成4年)3月16日(原著 1991年(平成3年)5月23日)第4刷、P117他。)
  47. ^ 社団法人日本民間放送連盟編 『放送ハンドブック』 東洋経済新報社、1992年(平成4年)3月16日(原著 1991年(平成3年)5月23日)第4刷、P5他 には「公権力に人権侵害などで規制、干渉の口実を与えないために厳しく自律すべきである…」とし、当時「公権力の介入を許さないための細かく厳しい規制」を各放送事業者に強く呼びかけている。同書では博多駅テレビフィルム提出命令事件での放送局側の敗訴確定の事実と以降の裁判での全敗訴の事実を根拠とし、すなわち実質的に「日本での表現」は博多駅テレビフィルム提出命令事件判決によって定められているから「法廷闘争に至ることのない放送」を行うべきであることを随所で各放送事業者に呼びかけてもいる。なお、博多駅テレビフィルム提出命令事件判決以降、放送局のみならず、日本の大多数のマスメディア表現の自主規制を強く推進する結果となっている。
  48. ^ 「解放新聞」2003年(平成15年)8月25日 解放新聞社[要ページ番号]
  49. ^ OECDが各国の雇用保護規制(EPL)の強さの度合いについて算定している雇用保護指標(EPI)の最新の数値では、日本は比較的解雇規制が緩いとされている。2009年版経済財政白書に詳細あり。
  50. ^ 総務省「労働力調査」によると、1980年代から雇用者に占める非正社員の比率は少しずつ増加し、1990年に20%を超えた。以降はほぼ横這いで推移していたが、1990年代後半になると増加傾向が著しくなり、1999年に25%、2003年に30%を超え、2011年には過去最高35.2%を記録し、3人に1人以上が非正規雇用者となった。
  51. ^ 2009年青少年白書では、非正規雇用率は10代後半で71.8%、20代前半で43.2%、すなわち次世代を担う若年労働者層で特に高く、具体的な手当てをしない限り、現状の経済活動停滞が慢性化、近々に致命的な事態になりかねないと懸念されている。すなわち経済活動の根幹を担う者がいなくなり、破綻するという懸念である。また総務省の労働力調査によると、1990年代の就職氷河期、非正規雇用となった者は今日に至るも非正規雇用のままである者が多く、それはその後の世代でも同じ、順次、加齢により就労困難、生活保護によらざるを得なくなり、社会福祉体制が破綻すると指摘している。
  52. ^ 1949年6月、東京都の失業対策事業として公共職業安定所が支払う日雇い労働者への日給が240円と定められた。すなわち100円硬貨2枚と10円硬貨4枚の日給の様から日雇い労働者のことをニコヨンと呼ぶようになった。今日では日給、240円はなくなっていること、またこの言葉は生まれた当初、蔑称であったことから、今日、死語とされている向きもある。しかし総務省の労働力調査によると2005年の日雇い労働者、すなわち1か月以内の短期契約労働者数は、わかっている範囲で112万人と非常に多く、しかも少なくともこのうちの半数以上がいわゆる専門家として専門職に従事しており、今日、ニコヨン、短期の出稼ぎ労働者の力なしで日本社会は維持できなくなっていることから、放送上、特に蔑称として用いない限り問題はない。またニコヨンは人件費削減の目的から、人の命を担う医師、看護師、薬剤師、臨床検査技師など、産業活動の根幹を担う研究者、技術者など、次世代を育成する教員など、国の今と未来を担う基本分野で今日、常態化していることが特に問題視されており、すなわち各局の放送基準上、制限を受けるものとならないことから、わずかな法規制の隙間をかいくぐり、企業などの要となる各種専門家をニコヨンとして積極的に雇用する、またそうせざるを得ない実態などの「社会悪」報道などに積極的に用いてもかまわないのであるが、実際には用いられない。
  53. ^ 典型的なものとして「梅ちゃん先生」と「あさイチ」が挙げられる。どちらも「利益衡量基準」が定着している今日においては大胆ともいえる構成であり、一般視聴者のみならず有識者の間でも評価が分かれ、事実、インターネット上などでは賛否両論多数である。特に「あさイチ」では謝罪、訂正放送も絶えない。しかしどちらもその基本構成は、戦後の「フリー・ラジオ」を端緒とし、放送における表現の自由が重視され、放送文化全盛となった昭和30年〜40年代、すなわち最高裁判所判断以前の「最も欧米に近くなった放送表現の姿」で、結果、当時と同様に世論より肯定、否定の両論が上がり、また一方で当時と同様に高視聴率を獲得することにもなっているようである[独自研究?]。(参考文献:社団法人日本民間放送連盟編 『放送ハンドブック改訂版』 日経BP社、2007年4月。[要ページ番号]
  54. ^ 日本民間放送連盟編 編『放送ハンドブック:文化をになう民放の業務知識』(第4刷 p119)東洋経済新報社、1992年3月16日(原著1991年5月23日)。ISBN 4492760857 
  55. ^ ファイアレッド・リーフグリーン』以降では「ジャグラー」に変更されている。
  56. ^ かつては北朝鮮でも使用していたが、1998年(平成10年)の社会主義憲法により部()から省()に変更された。
  57. ^ The Galloping Gourmet 「豆ベーコン煮込みオランダ風と豆入りオムレツ」の回
  58. ^ 2011年11月24日、NHK定例記者会見[要ページ番号]
  59. ^ 日刊ゲンダイ 2012年1月21日[要ページ番号]
  60. ^ 産経新聞 2011年12月30日[要ページ番号]
  61. ^ 日刊ゲンダイ 2012年1月21日[要ページ番号]
  62. ^ 一部の自治体では「障害者手帳→障がい者手帳」など、公的手帳などでも表記の変更を行っている場合がある。
  63. ^ 『日本国語大辞典 第二版』(小学館)[要ページ番号]
  64. ^ NHKスペシャル「脳内薬品が心を操る」 PROZAC(プロザック)SSRI の真実 日本放送協会制作[要ページ番号]
  65. ^ 明治安田生命団体信用保険平成22年約款など。
  66. ^ 「障害者白書」 総理府 平成6年、7年版[要ページ番号]
  67. ^ 「精神科長期入院患者への退院支援」 近藤浩子 千葉大学大学院看護学研究科[要ページ番号]
  68. ^ なお2012年(平成24年)現在でも続くこれらの言葉の規制については、近年例外的に各局の番組でも具体的な言葉を伏せたうえで、「言葉の暴力」として取り上げられるようになっている。
  69. ^ 「封印作品の謎」安藤健二 太田出版 ISBN 978-4872338874[要ページ番号]。医学的理由の出典は「続・差別用語」用語と差別を考えるシンポジウム実行委員会編 汐文社 ISBN 9784811300979である[要ページ番号]
  70. ^ 近年まで国会紛糾の際などに、怒号として「気違いじみたことを言うな」などがよく聞かれていた。このため国会ではわざわざ与野党間で2011年(平成23年)「用いるべきではない言葉」の申し合わせがされている。(同年の衆議院予算委員会議長発言。)
  71. ^ なお2012年(平成24年)現在でも続くこれらの言葉の規制については近年、例外的に各局の番組でも具体的な言葉を伏せたうえで、「言葉の暴力」などとして取り上げられるようになっている。
  72. ^ 「精神科セカンドオピニオン」 誤診・誤処方を受けた患者とその家族たち、笠陽一郎 シーニュ ISBN 978-4990301415 240頁
  73. ^ 読売新聞 シリーズこころ「統合失調症」相次ぐ誤診
  74. ^ 初期の水戸黄門など。
  75. ^ 過去、てんかん疾病者はその病状のいかんを問わない免許絶対欠格者であったが、発作を十分に抑えることのできる薬の登場により、2002年の道路交通法改正で一定の条件を満たす者は運転免許取得が可能になった。それに逆行する動きでもあった。
  76. ^ 産経新聞 2012年4月12日[要ページ番号]
  77. ^ テレ朝チャンネルダチョ・リブレ第49回放送時にメンバーの上島竜兵が発言[出典無効]
  78. ^ 逆に社会問題のひとつとして1980年代、NHK名古屋放送局制作「中学生日記」における進路相談場面などにおいて度々「誤った認識である」とし、慎重かつ明確に取り上げられた。またTBS制作「3年B組金八先生」などにおいても同時期、度々同様の扱いがなされた。
  79. ^ 旅籠屋とは/ファミリーロッジ 旅籠屋・チェーン本部
  80. ^ 「未婚女性が結婚相手に求める年収は、現実の未婚男性の収入に比べれば相当高い。」「このことは、私は10年以上言い続けているが、大きく取り上げられることはなかった。こんなこと言ったらクビが飛ぶと、ある官僚に言われたこともある。多くの人は薄々知っているが、公に言ってはならないタブーなのだろう。かくして、根本的な原因にはメスが入れられず、間違いではないが、根本的でない要因のみが強調される。『出会いがない』とか『キャリアが中断される』から少子化か起きると言っていれば、誰からも文句を言われることはない。どうも、日本社会は、本気で少子化対策を進めたいとは思っていないようだ」
  81. ^ 2009年5月7日放送『NHKニュース7[要ページ番号]
  82. ^ 景山民夫 『極楽TV』 新潮社1990年(平成2年)6月。ISBN 978-4101102139[要ページ番号]
  83. ^ 日本民間放送連盟編 編『放送ハンドブック:文化をになう民放の業務知識』(第4刷 p319-320)東洋経済新報社、1992年3月16日(原著1991年5月23日)。ISBN 4492760857 
  84. ^ 日本民間放送連盟編 編『放送ハンドブック:文化をになう民放の業務知識』(第4刷 p319-320)東洋経済新報社、1992年3月16日(原著1991年5月23日)。ISBN 4492760857 
  85. ^ 日本民間放送連盟編 編『放送ハンドブック:文化をになう民放の業務知識』(第4刷 p320)東洋経済新報社、1992年3月16日(原著1991年5月23日)。ISBN 4492760857 

参考文献

関連項目

外部リンク