若松勉

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若松 勉
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 北海道留萌市
生年月日 (1947-04-17) 1947年4月17日(77歳)
身長
体重
168 cm
76 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1970年 ドラフト3位
初出場 1971年4月11日
最終出場 1989年10月17日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

  • ヤクルトスワローズ (1986 - 1989, 1993 - 2005)
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 2009年
選出方法 競技者表彰

若松 勉(わかまつ つとむ、1947年4月17日 - )は、北海道留萌市出身の元プロ野球選手外野手)・野球指導者・監督野球解説者野球評論家

現役時代はヤクルトアトムズ・スワローズで長きにわたって活躍し、引退後はヤクルトで打撃コーチ・二軍監督・監督を務めた「ミスタースワローズ」。また、小柄な体格ながら巧みなバッティングを披露し、数々の記録を打ち立てた事から「小さな大打者」の異名を持つ。

年間打率3割12回は川上哲治と並んで歴代3位。

経歴

プロ入り前

北海高校では2年生から二塁手のレギュラー。チームは1964年夏の甲子園に進出するが[1]、若松は病気欠場を余儀なくされる。しかし翌1965年夏の甲子園には、背番号14ながら三番打者、右翼手として出場。1回戦で佐賀商に敗退する[1]がこの試合で4盗塁を決め、その俊足が注目される。卒業後は電電北海道に進む。北海道拓殖銀行大昭和製紙北海道など強豪が多く、チーム自体は都市対抗に出場できなかったが、補強選手として1967年から4年連続都市対抗に出場。1967年の大会では拓銀に補強され、2回戦で本塁打を放つなど中心打者として活躍、拓銀の準々決勝進出に貢献した[2]

本人も周囲もあまりプロを目指すことは考えておらず、プロ入りには消極的だった。しかし、当時ヤクルトでヘッド兼打撃コーチを務めていた中西太と、ヤクルトの監督であり中西の義理の父でもあった三原脩が若松の素質に目を付け、プロ入りを嫌って家を空けて逃げ回る若松のもとにはスカウトが7度も訪れた。最後には中西までもがスカウトと共に足を運び[3]、プロ入りに反対していた若松夫人と共に口説き落とす事に成功した。また、指名の第一報は電話で球団のスカウトから伝えられたが、その声が所属チームの監督そっくりだったらしく、若松は「監督、何を冗談言ってるのですか」と信じなかったという(本人は社会人入りして5年経過しても声が掛からなかったこともあって、プロ入りはないと決め込んでいた)[4]

公称168cm(自称166cmだった[5])という小柄な体型のため、プロ入り時はプロ選手としてやっていく自信がなかった。夫人に「ダメだったら北海道に帰って二人で焼き鳥屋でもやろう」と言って入団を決意した[6][7]。若松は北海道から東京に夫人と共に上京することになり、入団発表でも夫人を同伴している。

現役時代

1970年のドラフト3位でヤクルトアトムズに入団。背番号は「57」。その後は小柄な体型ながら、プロ入り前から若松の素質に目をつけていた中西太ヘッド兼打撃コーチとのマンツーマントレーニングで猛練習を積み重ね[8]、1年目の1971年から左翼手のレギュラーに定着。規定打席不足ながら112試合に出場して打率3割を記録した(同年のセ・リーグの3割打者は長嶋茂雄のみ)。同年オフに背番号を「1」に変更。

2年目の1972年には打率.329、リーグ2位の20盗塁という成績を残して首位打者を獲得し、リーグを代表する外野手となる。1973年もリーグ2位の打率.313を記録する。1972年と1973年は2年連続でリーグで打率3割以上が2人だけだったが、どちらの年も3割を記録したのは若松のみだった。1974年は全試合出場を果たし、リーグ5位の打率.312で3年連続で3割を残した。

1975年はプロ入り後初めて打率3割を逃すが、1976年は張本勲谷沢健一と激しい首位打者争いを繰り広げ、終盤に失速したものの打率はリーグ3位の.344を記録した。しかし若松自身は首位打者を逃した悔しさから練習量をさらに増やしたという。翌1977年より中堅手にコンバートされ、同年に打率.358・20本塁打という自己最高の成績で2度目の首位打者を獲得し、Bクラスの常連だったヤクルトを2位に引き上げる。三振数は503打席に立ってわずか14だった。

1978年には大杉勝男チャーリー・マニエルと共にクリーンナップを組む。開幕時こそ腰痛腱鞘炎に悩まされ、5月初めの時点では打率.228と不振に陥るが、5月6日の大洋戦で3イニング連続本塁打を記録するとそこから復調した。最終的に水谷実雄と首位打者争いを繰り広げてリーグ2位の打率.341を記録するなど活躍し、チームは開幕から129試合連続得点という記録を打ち立てて初優勝。若松は自身初のセ・リーグMVPに選ばれた。日本シリーズでは第5戦に本塁打を放って勝利に貢献し、優秀選手賞を獲得。シリーズ第7戦までもつれた対決はヤクルトが勝利し、チームは初の日本一となった。

1979年からは再び主に左翼手を務めるようになる。1980年にはリーグ2位の打率.351、1983年もリーグ2位の打率.337を記録。1985年10月9日、対阪神戦にて、5回表にリチャード・ゲイルから右前安打を放って史上21人目となる通算2000本安打を達成。1986年からコーチ兼任となり[9]、当時監督だった土橋正幸栗山英樹をスイッチヒッターへの転向を進言し、栗山はセンターのレギュラーに定着している[10]。晩年は腰痛により守備が難しくなり、代打の切り札として活躍し、1987年には代打打率.444(36打数16安打)を記録。通算代打成績は打率.349(258打数90安打)12本塁打70打点という好成績を残した。

1989年現役引退。ヤクルト一筋19年、42歳まで現役を全うした。通算打率.31918は歴代2位であり、日本人選手としては歴代最高記録である(4000打数以上対象、NPBの最高記録はレロン・リーの.320)。現役時代に付けていた背番号「1」は、若松の引退後、「永久欠番に」との署名が多く集まり、以降背番号「1」は池山隆寛岩村明憲青木宣親山田哲人といったチームの顔となる生え抜き選手のみに着用が許される番号となった。

引退後

引退後は1990年1992年テレビ朝日文化放送解説者と日刊スポーツ評論家を務め、ヤクルト一軍打撃コーチ(1993年1994年)、二軍監督(1995年1996年)、一軍打撃コーチ(1997年1998年)、監督(1999年2005年)を歴任。

監督就任にあたってはスローガンに「データ+スピード&パワー」を掲げた。これは選手の地力(スピードとパワー)を向上させることで、「ID野球」を主唱した前監督野村克也時代のようなデータ重視の野球だけではなく、根本からチーム力を底上げしようと図ったものであった。若松は在任中にこの目標を完全に達成することはできなかったが、日本一に加えて球団史上初の4年連続Aクラス入りを果たした。野手の起用においては、生え抜き組・移籍組を問わずベテラン選手を多く起用する傾向があったものの、一方で岩村明憲・青木宣親らのように若松の下で大きく成長した若手選手もおり、新旧交代に著しい支障をきたすことは無かった。投手起用に関しては率直に自らの本分ではないことを認め、おおむね投手コーチの伊東昭光に一任していた。アレックス・ラミレスは特に尊敬する監督に若松の名を挙げている[11]

2001年川崎憲次郎がFAで移籍、ジェイソン・ハッカミーが退団、伊藤智仁が故障離脱と苦難に見舞われる中、ベテランの古田敦也石井一久の活躍、若手の藤井秀悟や岩村の台頭、テスト入団の入来智前田浩継の奮闘もあり、終盤で巨人を追い抜いてリーグ優勝を果たす。日本シリーズでは近鉄と対戦し、古田の活躍もあり4勝1敗で日本一に輝いた。ヤクルト監督時代は7年間でAクラス4回、優勝・日本一1回という結果を残した。ヤクルトで唯一、選手・コーチ・監督としてリーグ優勝、日本一を経験しており、ヤクルトの生え抜き監督で優勝したのは2014年までは若松ただ一人であった。

日本プロ野球名球会会員。2004年プロ野球再編問題では、大阪近鉄バファローズオリックス・ブルーウェーブへの吸収合併に反対して、選手会の署名活動に署名している。2006年より、フジテレビジョン2008年まで)・北海道文化放送ニッポン放送解説者・サンケイスポーツ評論家に就任。

2009年1月13日野球殿堂表彰者選考に於いて競技者部門のプレーヤー表彰で選出され、野球殿堂入りを果たした[12]。同年7月12日神宮球場で行なわれたヤクルト対横浜戦は皇太子徳仁親王一家が観戦した台覧試合となり、ヤクルトOBの若松が解説役を務めた。12月3日には若松の野球殿堂入りを祝うパーティーが行われ、加藤良三コミッショナー、王貞治長嶋茂雄、金田正一、中西太、古田敦也、岩村明憲、五十嵐亮太、青木宣親ら約1,100人が出席した。

2011年にはヤクルトの浦添キャンプで臨時打撃コーチを務めた[13]

選手としての特徴

下半身を固定し、上体を投手方向に寄せるようなバッティングフォームでヒットを量産した。ミート力に優れ、ボールがバットに当たった瞬間に「このまま振りぬいたら外野フライになる」と直感すると、左手だけでバットを振りぬいてテキサスヒットにするなど、優れた技術を持っていた。規定打席に到達した14シーズン中、12回の打率3割を記録。三振も非常に少なく、シーズン最多は1973年の43三振であり、通算でも6808打数に対して三振は463である。また、通算8本のサヨナラ本塁打は王貞治と並び歴代3位(セ・リーグタイ記録)、1977年には2試合連続で代打サヨナラ本塁打を記録した。通算代打サヨナラ本塁打3本は歴代1位タイである。

野村克也は、「軸をブラして打てるのは、若松かイチローくらい」と語り、若松の打撃センスを賞賛している。

人物

人柄

人柄は温厚で腰が低く、誰に対しても礼儀正しく接するため、年俸交渉でも球団と揉めることがほとんどなかった。球界を代表する打者として毎年好成績を残し、名球会入りするほどの選手であったにも関わらず、現役時代の推定最高年俸は5,200万円(1988年・当時のヤクルト球団の日本人最高年俸)であった。

現役時代の監督でありヤクルトを日本一に導いた広岡達朗を尊敬しており、広岡が球団と対立し監督を辞めた時、「どうして辞めてしまうんですか?」と泣きながら電話してきた唯一人の主力選手といわれる。野村監督の退任を受けてヤクルト監督に就任した時も、「果たして僕に監督ができるのでしょうか」と広岡に相談している。

現役引退を発表した記者会見では終始涙ながらの会見となり、発言内容よりも号泣する若松にその純粋な人柄が強く映し出され、非常に印象深いものとなった。また当時「FNNスーパータイム」の週末版スポーツコーナーを担当していた有賀さつき(当時フジテレビアナウンサー)からインタビューを受けて、既に引退が決まっていたにもかかわらず「来年も頑張ってください」と声を掛けられてしまった。

現役引退後にヤクルトの打撃コーチや二軍監督を務めた頃は、生真面目な性格のためか選手やチームのことを考えすぎてストレスを壊したり、腰痛に悩まされることも多かった。一軍監督時代には、シーズン終盤になってようやく当年初の一軍昇格を果たした選手に対して「遅くなってごめんな」と声を掛けてしまい、一軍チーフコーチの渡辺進から「もっと毅然と接しないと」と窘められたこともあった。また監督時代には自前の戦力が中心ながらその隙間を埋めるような形でトレードを行っていたが、いずれも球団主導で、若松自身は監督退任後に「私は誰も、チームからは出したくなかった」と明らかにしている[4]

純朴ゆえに口下手でもあり、若松と行動を共にすることの多かった元ヤクルト監督の小川淳司によれば、イベント等でのあいさつが終わる度に「今のでよかったか? オレ、変なこと言ってなかったか」と尋ねられていたという[14] 。また、現役時代、1978年にMVPを獲得した際には、「タイトルのない僕でいいのか」と発言している。

若松の口下手で実直な人柄を最も印象づけたのが、2001年10月に監督として初のリーグ優勝を達成した際のインタビューで発した「ファンの皆様、本当にあの〜、あの…、おめでとうございます」という一言(本当は「ファンの皆様、ありがとうございます」と言うつもりだった)であるが、むしろ場内は大爆笑に包まれて和やかなムードになり、同年の流行語大賞の語録賞に選ばれた(2015年のヤクルトのリーグおよびクライマックスシリーズ優勝時、2001年優勝メンバーでもあった監督の真中満はインタビューの際にこの言葉を再度使用した)。さらにシーズン本拠地最終戦でのファンへの挨拶では「一戦、一戦、頑張りますので、オールスターでも、いや、日本シリーズでも皆様のご声援よろしくお願いします」と言ってしまい、またしても会場は大ウケとなった。そして日本シリーズ優勝を達成した際のインタビューでは「本当にファンの皆様、改めまして、日本一、おめでとうございます!!」と堂々とファンに叫んだ(先のリーグ優勝の後に「いや、元々からおめでとうございますって言おうと思ってたんだよ」とうそぶいていたが、今度は緊張せずにしゃべることができたという)。

2005年10月14日、本拠地神宮球場でのシーズン最終戦対横浜試合終了を以って、7シーズンに亘って務めた監督を退任したが、辞任の記者会見では「1度しか日本一になれず申し訳なかった」と発言した。1度でも日本シリーズを制覇すれば自身の実績として大いに誇ってもいいところであるが、前任が在任中4度のリーグ制覇と3度の日本シリーズ制覇を達成した野村克也なだけに、このような発言になってしまったのは致し方なく、むしろ実直でチーム一人ひとりへの思いやりが強い若松ならではの一言と、好意的に受け止められた。

温厚で選手たちからも慕われており、古田敦也は「この人を勝たせてあげないといけないと思ってしまう監督」と語っている[15]

日本シリーズ優勝の際に、体重が軽いため胴上げの際に宙返りになった事が話題となった(石井一久のいたずらであったという)。選手時代から腰痛に悩まされていたが、本人曰く「胴上げで宙返りしてからひどくなった」という。監督としての最終試合前に退任セレモニーで選手達による胴上げが企画されているのを知り、前述の理由により固辞する旨を公言していたが、セレモニー終了後、次期監督の古田敦也から説得され胴上げを受け入れる。なお、この時の胴上げは腰に負担をかけないように低く、体が回転しない様に足首を押さえながらの胴上げだった。

普段から外見通り物静かで、抗議に出ようとしてもコーチからベルトを引っ張られてベンチに下がることもあったぐらいであるが、唯一2004年6月9日の対横浜戦では7回に横浜・佐伯貴弘の一塁ゴロの判定に激怒して一塁塁審を突き飛ばし、若松にとって野球人生唯一の退場処分を受けた。

東京から実家の北海道留萌市公衆電話をかけていたが、当時10円玉しか使えない上に遠距離の通話料も高かった時代、チームの先輩が「電話機を倒すと、10円玉が落ちるスピードが遅くなるぞ」と言った冗談を聞いて、電電公社に勤務した経験を持っていながらそれを真に受けて本当に電話機を横倒しにして通話していたことがある。

プロ入り時、所属していた日本電信電話公社・北海道野球部の応援団からヤクルトの応援団に、応援歌が譲り渡された [2]。現在、この応援歌は専用応援歌の無い左打者用の汎用テーマ「でんでんマーチ」として使用されている。若松の個人応援歌(ペレス・プラード「闘牛士のマンボ」。2011年までの青木宣親専用のチャンステーマとして使用)とは別物である。

1980年代前半、ヤクルト本社の「ヤクルト野菜ジュース」のコマーシャルモデルに起用された(その時のキャッチコピーは「クリーンヒット」と緑黄色野菜を絡ませて「グリーンヒット」)他、ストライカースポーツドリンク。現在は終売)のラベルのイラストのモデルを務めたともされている。

ヤクルトには170cm前後の身長で体つきが小さい選手が入団することが多く、その場合「若松2世」と呼ばれる。代表的な選手に荒井幸雄真中満などがいる(入団当初の岩村明憲も)。若松は広岡達朗の監督就任で中堅手コンバートされたが(その後も左翼手を務めたシーズンはある)、若松の引退後は直後の1シーズンだけ中堅手を務めた杉浦享(強打者だが鈍足で守備も上手くなかったためこの起用は酷評された)を除き、歴代レギュラーは前記した二人も含め身長が175cm以下のプロとしては小柄な選手であり、ほぼチームの伝統となっている(他に栗山英樹飯田哲也青木宣親)。

団塊の世代にあたる。1978年日本一当時のスワローズ主力選手では安田猛松岡弘大矢明彦昭和22年度生まれの同級生。中でも大矢は親友で現役当時から公私共に親しい関係である。他に昭和22年度生まれを代表するプロ選手は、谷沢健一中日)、堀内恒夫巨人)、藤田平阪神)、江本孟紀(阪神他)、平松政次大洋)、門田博光南海他)、福本豊阪急)、鈴木啓示近鉄)といった顔ぶれで、強烈な個性を持った投手が多い。また、若松自身も含め名球会入りした選手や「プロ野球ニュース」の歴代解説者が多い。

北海道が誇る大スター

1978年留萌市民栄誉賞1981年道民栄誉賞を受賞するなど、北海道での若松の人気は非常に高い。

2004年まで年に一回札幌ドーム(開場以前は札幌市円山球場)で開催されていたヤクルト主催試合は、道内での若松人気に加えて、当時は佐藤真一五十嵐亮太米野智人など北海道に縁のある選手が多数在籍していたこともあり、巨人戦や阪神戦に次いで多くの観客で埋まっていた(日本ハムの札幌移転とセ・パ交流戦開始に伴い打ち切り)。

また日本ハムの札幌移転決定を受けて道民に初代監督としてふさわしい人物をアンケートしたところ、当時まだヤクルト監督だった若松が、日本ハムの次期監督就任が決まっていたトレイ・ヒルマンを差し置いて、最も多くの支持を集めたこともあった。

2005年5月28日には円山球場開場70年を記念して行われた日本ハムvsヤクルト戦の始球式で打者として打席に立った。現役監督が公式戦の始球式に参加するのは異例だが、ビジターであったにもかかわらず若松には大声援が送られた。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1971 ヤクルト 112 305 274 40 83 18 1 3 112 15 6 8 8 1 15 0 7 28 1 .303 .354 .409 .762
1972 115 408 365 54 120 17 4 14 187 49 20 6 11 1 25 1 6 32 4 .329 .380 .512 .893
1973 128 486 438 59 137 29 2 17 221 60 12 8 10 1 32 8 5 43 4 .313 .366 .505 .870
1974 130 500 477 80 149 30 4 20 247 74 18 9 0 4 45 9 4 31 8 .312 .374 .518 .891
1975 123 500 453 55 132 16 3 8 178 48 6 4 4 2 37 4 4 30 12 .291 .349 .393 .742
1976 127 542 485 80 167 20 4 17 246 70 9 5 3 6 43 5 5 25 7 .344 .399 .507 .906
1977 122 503 441 95 158 30 5 20 258 70 13 4 4 5 46 3 7 14 9 .358 .423 .585 1.008
1978 120 530 460 100 157 30 5 17 248 71 12 7 5 7 49 4 8 24 3 .341 .408 .539 .948
1979 120 492 438 81 134 30 1 17 217 65 8 4 2 2 45 7 5 38 6 .306 .376 .495 .871
1980 116 474 427 62 150 36 1 15 233 63 16 5 0 1 45 17 1 31 5 .351 .414 .546 .959
1981 95 358 323 49 94 12 2 13 149 37 5 3 4 3 24 4 4 24 11 .291 .345 .461 .806
1982 112 428 390 50 121 12 2 11 170 38 6 6 4 6 25 4 3 27 0 .310 .351 .436 .787
1983 112 451 413 61 139 21 1 15 207 60 11 1 9 1 27 2 1 21 11 .337 .378 .501 .879
1984 114 449 397 49 129 22 2 9 182 50 6 1 8 4 38 4 2 26 6 .325 .383 .458 .842
1985 114 485 443 52 133 13 1 12 184 34 2 1 8 3 31 1 0 30 14 .300 .344 .415 .759
1986 119 439 400 38 110 14 2 6 146 39 1 3 6 6 26 3 1 29 7 .275 .316 .365 .681
1987 55 81 69 6 26 2 2 3 41 16 0 0 1 1 10 2 0 7 2 .377 .450 .594 1.044
1988 73 75 66 1 23 2 1 1 30 18 0 0 0 2 7 3 0 1 2 .348 .400 .455 .855
1989 55 54 49 3 11 1 0 2 18 7 0 0 0 0 4 2 1 2 0 .224 .296 .367 .664
通算:19年 2062 7590 6808 1015 2173 355 43 220 3274 884 151 75 87 56 574 83 64 463 112 .319 .375 .481 .856
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績

年度 チーム 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1999年 平成11年 ヤクルト 4位 135 66 69 0 .489 15 141 .264 4.23 52歳
2000年 平成12年 4位 136 66 69 1 .489 12 137 .264 3.62 53歳
2001年 平成13年 1位 140 76 58 6 .567 148 .274 3.41 54歳
2002年 平成14年 2位 140 74 62 4 .544 11 142 .263 3.69 55歳
2003年 平成15年 3位 140 71 66 3 .518 15.5 159 .283 4.12 56歳
2004年 平成16年 2位 138 72 64 2 .529 7.5 181 .275 4.70 57歳
2005年 平成17年 4位 146 71 73 2 .493 17.5 128 .276 4.00 58歳
通算:7年 975 496 461 18 .509 Aクラス4回、Bクラス3回
  • ※1 太字は日本一
  • ※2 1999年から2000年までは135試合制
  • ※3 2001年から2004年までは140試合制
  • ※4 2005年からは146試合制

タイトル

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1978年4月14日、対中日ドラゴンズ1回戦(明治神宮野球場)、1回裏に三沢淳から先制ソロ ※史上95人目
  • 1000安打:1978年6月21日、対広島東洋カープ14回戦(広島市民球場)、5回表に北別府学から右前安打 ※史上111人目
  • 1000試合出場:1979年5月12日、対阪神タイガース6回戦(長崎市営大橋球場)、3番・左翼手として先発出場 ※史上207人目
  • 150本塁打:1981年4月15日、対読売ジャイアンツ2回戦(後楽園球場)、9回表に西本聖から右越ソロ ※史上60人目
  • 1500安打:1982年5月4日、対読売ジャイアンツ3回戦(明治神宮野球場)、1回裏に西本聖から中前安打  ※史上43人目
  • 1500試合出場:1983年8月14日、対阪神タイガース16回戦(平和台球場)、3番・左翼手として先発出場  ※史上76人目
  • 300二塁打:1983年10月3日、対横浜大洋ホエールズ26回戦(横浜スタジアム)、8回表に門田富昭から左中間適時二塁打 ※史上25人目
  • 200本塁打:1985年5月8日、対横浜大洋ホエールズ6回戦(横浜スタジアム)、6回表に関根浩史からソロ  ※史上45人目
  • 3000塁打:1985年8月27日、対横浜大洋ホエールズ13回戦(明治神宮野球場)、9回裏に斉藤明夫から左前安打 ※史上27人目
  • 2000安打:1985年10月9日、対阪神タイガース22回戦(阪神甲子園球場)、5回表にリチャード・ゲイルから右前安打 ※史上21人目
  • 1000得点:1986年9月5日、対広島東洋カープ21回戦(明治神宮野球場)、3回裏に広沢克実の適時打で生還  ※史上20人目
  • 350二塁打:1986年9月19日、対阪神タイガース21回戦(明治神宮野球場)、1回裏に仲田幸司から ※史上17人目
  • 2000試合出場:1988年9月14日、対阪神タイガース20回戦(明治神宮野球場)、6回裏に荒井幸雄の代打・平田薫の代打として出場、工藤一彦から2点適時二塁打 ※史上26人目
その他の記録
  • サイクルヒット:1976年7月9日、対中日ドラゴンズ15回戦(明示神宮野球場) ※史上29人目
  • シーズン打率3割以上:12回(1972年 - 1974年、1976年 - 1980年、1982年 - 1985年)※歴代3位タイ
  • 打撃ベストテン入り:12回(1972年 - 1980年、1982年 - 1984年)※歴代5位
  • 1試合5安打:1976年6月24日、対中日ドラゴンズ14回戦(ナゴヤ球場)
  • 18試合連続安打3回(1976年9月14日 - 1976年10月10日、1980年4月22日 - 1980年5月18日、1984年7月17日 - 1984年8月14日)
  • 2試合連続4安打2回(1972年5月14日 - 5月15日、1982年9月2日 - 9月4日)
  • 3打席連続本塁打:1978年5月6日、対横浜大洋ホエールズ7回戦(横浜スタジアム)、5回表に根本隆からソロ、6回表に関本充宏から2ラン、7回表に田中由郎から2ラン
  • 3イニング連続本塁打:同上、史上5人目[16]
  • 通算打率: .31981 ※歴代2位(レロン・リーの.320に続く数字) 
  • 通算代打打率:.349 ※歴代1位(300回以上の選手中)
  • 通算サヨナラ本塁打:8本 ※セ・リーグタイ記録
  • 通算代打サヨナラ本塁打:3本 ※歴代1位タイ
  • 2試合連続代打サヨナラ本塁打 ※史上2人目
    • 1977年6月12日、対広島東洋カープ12回戦(明治神宮野球場)、10回裏に渡辺進の代打として出場、池谷公二郎からソロ
    • 1977年6月13日、対広島東洋カープ13回戦(明治神宮野球場)、9回裏に渡辺進の代打として出場、松原明夫から2ラン
  • 1試合11守備機会:1980年9月19日、対阪神タイガース21回戦(明治神宮野球場) ※外野手としての日本記録
  • オールスターゲーム出場:11回 (1972年 - 1980年、1983年、1984年)
  • オールスターゲーム先頭打者本塁打(1973年第3戦)※史上5人目

背番号

  • 57 (1971年)
  • 1 (1972年 - 1989年)
  • 75 (1993年 - 2005年)

関連情報

出演番組

CM出演

著書

漫画・アニメ

  • 野球狂の詩 水原勇気とのドリームボール対決をしていた。

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  2. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  3. ^ 『東京ヤクルトスワローズ40年史: 1969-2009ツバメの記憶』ベースボール・マガジン社〈B.B.mook ; 610. スポーツシリーズ ; no.483〉、2009年。ISBN 9784583616018 
  4. ^ a b SEGA「プロ野球チームをつくろう!ONLINE 2」スペシャルインタビュー [1]
  5. ^ 若松勉『背番号1の理論 小さな体でもホームランが打てる!』ベースボール・マガジン社〈ベースボール・マガジン社新書 ; 04〉、2010年。ISBN 9784583102658 
  6. ^ “若松氏「3年で駄目なら焼き鳥屋さんの思い…」”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2009年1月13日). オリジナルの2009年12月6日時点におけるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20091206070610/http://www.sponichi.co.jp/baseball/flash/KFullFlash20090113083.html 
  7. ^ ただし、ベースボールマガジン1981年3月号のインタビューでは、「お茶漬け屋でも開こうかと思った」という旨の発言をしている。またラーメン屋という説もあり、真偽は不明である。
  8. ^ 上村祐作「若松勉 北海道が生んだ偉大なる大打者」(OCNスポーツ野球コラム)。
  9. ^ 徳永喜男著『ヤクルトスワローズ球団史』ベースボールマガジン社、P444-P447
  10. ^ 難病と闘った江戸っ子エース・土橋正幸さん ゆかりの人々からあふれる思い出話 - 2013年9月6日
  11. ^ ラミちゃん引退…NPB復帰かなわず 夢は監督で「日本一」 - 2014年10月6日
  12. ^ 若松勉氏殿堂入り「小さな大打者」に勲章日刊スポーツ2009年1月14日
  13. ^ “燕臨時C・若さん、浜中&武内再生させる!”. SANSPO.COM (産経デジタル). (2011年1月22日). オリジナルの2011年1月25日時点におけるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20110125165120/http://www.sanspo.com/baseball/news/110122/bsf1101220505000-n1.htm 
  14. ^ “ヤクルト小川監督を襲う代行の利かない“スピーチ地獄””. ZAKZAK (産経デジタル). (2010年10月13日). オリジナルの2010年10月16日時点におけるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20101016045230/http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20101013/bbl1010131620009-n1.htm 
  15. ^ 『日本プロ野球平成の名将―1989ー2012 : "平成"を戦い抜いた83人の監督列伝』〈B.B.MOOK ; 869. スポーツシリーズ ; No.739publisher=ベースボールマガジン社〉2012年、76頁。ISBN 9784583619118 
  16. ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」435ページ

関連項目

外部リンク