東映アニメーション

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東映アニメーション株式会社
TOEI ANIMATION CO., LTD.
種類 株式会社
市場情報
東証JQ 4816
2000年12月8日上場
本社所在地 日本の旗 日本
164-000
東京都中野区中野二丁目10番5号
中野セントラルパーク イースト5階
設立 1948年昭和23年)1月23日
(日本動画株式会社として設立)
業種 情報・通信業
法人番号 8011601004645 ウィキデータを編集
事業内容 アニメーションの企画・制作、版権事業
代表者 代表取締役社長 高木 勝裕
資本金 2867百万円
発行済株式総数 1,400万株
売上高 連結: 31,027,827千円
(2014年3月期)
営業利益 連結: 3,602,038千円
(2014年3月期)
経常利益 連結: 3,940,261千円
(2014年3月期)
純利益 連結: 2,333,684千円
(2014年3月期)
純資産 連結: 38,510,678千円
(2014年3月31日現在)
総資産 連結: 45,816,775千円
(2014年3月31日現在)
従業員数 連結: 548名 単体: 325名
(2014年3月31日現在)
決算期 3月31日
主要株主 東映(株) 33.6%
大株主を参照)
主要子会社 (株)タバック 100%
東映アニメーション音楽出版(株) 100%
TOEI ANIMATION PHILS., INC. 100%
関係する人物 関連人物を参照
外部リンク http://www.toei-anim.co.jp/
特記事項:1952年昭和27年)8月に日本動画株式会社から日動映画株式会社へ商号変更。
1956年昭和31年)7月に日動映画株式会社から東映動画株式会社へ商号変更。
1998年平成10年)10月に東映動画株式会社から東映アニメーション株式会社へ商号変更。
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大泉スタジオ別館(タバック)
本社が入居する中野セントラルパークイースト

東映アニメーション株式会社(とうえいアニメーション、: TOEI ANIMATION CO., LTD.)は、日本アニメ制作会社である。

日本動画協会正会員、練馬アニメーション協議会幹事。

沿革

1950 - 1960年代

1948年(昭和23年)1月、政岡憲三山本善次郎らにより日本動画株式会社設立[1]。設立当初は成城高校の空き教室約100坪を使って制作が行われた。1952年(昭和27年)8月、日動映画株式会社に商号変更した[1]

1955年(昭和30年)、日動映画の藪下泰司と山本善次郎が東映の今田智憲営業課長を訪ね[2]「自分たちは日動というアニメの会社を24、5人でやっているんだが、どうも難しい。協力してもらえないか」と相談があり[2]、国際的な映像の仕事としての大きな可能性を感じた今田が大川博東映社長に「東洋のウォルト・ディズニーになりましょう」と進言し日動映画の買収を決めた[2]

1956年(昭和31年)1月、東映は東映動画の設立に向け「漫画映画製作研究委員会」を立ち上げ、委員長は大川博社長で、設立準備の実務担当委員として赤川孝一管理課長[注釈 2]や、今田智憲らが任命された[3]。ところが、事業計画案を巡り赤川と今田の意見が対立した。今田は「カラー長編制作に加え、ディズニー社を始めとするアメリカの長編アニメ制作会社と提携し、その制作技術を導入すること」「作品制作事業だけでなく、関連商品販売やテーマパーク運営など、広範囲にわたる事業展開を図るべし」「絶対に天然色で、長編漫画でなければ収入はあがらない」などと提案[3]。今田は今日のキャラクター・ビジネスやマーチャンダイズに近い発想を既に持っていたが、結局赤川の教育映画部の意見が優先され、今田の意見は却下された。

同年7月、東映が日動映画を買収。森康二、藪下泰司らを擁する東映動画株式会社が発足した[1]。東映動画の発足にあたっては短編・中編制作の事業計画のみが記載され、長編の記載はなかったが[3]、もとは香港からの持ち込み企画であった『白蛇伝』の制作をスタートさせた。当時、日本国内にアニメーション制作会社はごく少なく、長編制作の経験もほとんどなかった中で、東映は日動映画を買収することによりアニメーション制作のノウハウを得ようとしたのである。

1956年(昭和31年)、東京都練馬区の東映東京撮影所内にスタジオが完成。東映動画は1957年(昭和32年)1月9日、この新スタジオに移転した[1]。スタジオ完成とともに新たに採用された東映動画第一期生の中には大塚康生楠部大吉郎らがいた。また手塚治虫が嘱託として制作に携わっている。この時のノウハウが旧虫プロダクションで活かされることとなる。

新スタジオでは『白蛇伝』制作のためのスタッフ急増とCMフィルムの需要の増加に対応して同年末に第1次増設工事に着工。同年4月10日に竣工し2年後の1959年(昭和34年)6月15日には第2次増設工事竣工。さらに『狼少年ケン』などのテレビアニメの制作に対応するため1964年(昭和39年)6月2日には第3次増設工事が竣工し現在のスタジオに成長した。

スタジオの完成によって長編アニメーション制作の体制が整い、手慣らしとして旧日動映画スタッフ指導の下、1957年(昭和32年)5月に初の短編作品『こねこのらくがき』を制作。続いて1958年(昭和33年)10月に『白蛇伝』が完成。その後、『わんぱく王子の大蛇退治』、宮崎駿などの『白蛇伝』に影響を受けたスタッフらも制作に参加した『太陽の王子 ホルスの大冒険』、『長靴をはいた猫』などの長編作品を発表し、1960年代における東映長編時代が築かれた。

東映アニメーションのマスコットキャラクターは、『長靴をはいた猫』・『ながぐつ三銃士』・『長靴をはいた猫 80日間世界一周』の主人公ペロである。

1970 - 1990年代

大川博が1971年(昭和46年)8月に逝去し、後任として岡田茂が東映社長に就任すると(同月兼東映動画会長)[4][5]赤字の膨らむ東映動画は激しい合理化にさらされた[6][7][8]。岡田は「動画は東映のガンだ。ガンは放置しておいたら、やがて病巣は東映の全身に広がる。ガンは小さいうちに切開手術するのが医者(経営者)の義務だ」と発言し労組が猛反発した[9][10]。この頃長編動画の製作コストが上昇し作れば作るほど赤字を出していた[6]。累積赤字を3億円出していた東映動画には責任者として行くことを皆嫌がったが[9]、岡田は元東映勤労部長で労務管理のベテラン・登石雋一を言い含めて東映動画の社長に据え、強硬なリストラを命じた[6][9]。岡田と登石は製作数を減らし、さらに従業員320名の半分の希望退職を募集[6]労組は激しく反発し、両者の間で団交が繰り返されたが、希望退職の募集は何度も延期され、のちロックアウトが敢行され5カ月間に約120名が退職し東映動画は存続した[6][8]。当時の東映の主な赤字部門は、東映フライヤーズと東京タワー交通、ボウリング部門、東映動画の4つだったが、岡田は動画以外の3つを切り動画のみ残した[9]。岡田、登石と1974年8月、後任として岡田から東映動画社長に抜擢された今田智憲の尽力により[9][11]1970年代始めに3億円あった東映動画の累積赤字は一掃され、1981年(昭和56年)に東映動画は売上げ70億円、利益2億円を出すまで回復した[9][12]1970年代に入ると、人気・制作本数ともに拡大し始めたテレビシリーズの制作におされ、コストのかさむ長編作品の制作は縮小されていくようになった。大手制作会社というイメージが、安心して仕事を任せられるという印象を放送局や広告代理店、出版社などに与えたこともあり、東映動画には週刊少年漫画誌原作のテレビアニメ制作の依頼が多く舞い込むようになった。人気テレビアニメの焼き直しの方が長編動画より利益幅が大きかった[6]。制作の中心はテレビシリーズへと移り劇場作品は漫画原作の「東映まんがまつり」が中心となり、さらに仮面ライダーシリーズのような実写ヒーロー物が「東映まんがまつり」に入ってくるようになったことで東映長編時代は終焉を迎える[13]。制作本数の増加と労働争議の激化により1973年(昭和48年)からは韓国への制作委託を開始。国外発注の強化とともに、自社のスタジオ周辺に下請けプロダクションを増やして制作の下請け・外注化を進めた。結果として自社で抱えていたクリエーターの多くがこれらの合理化で他のプロダクションなどへと移るなどして東映動画を去った。

大川博の息子・大川毅とそりが合わずユニオン映画に行っていた今田智憲が、盟友・岡田茂に呼び戻され1974年(昭和49年)社長に就任[11][14][15]。今田は1993年(平成5年)まで歴代最長の20年間社長を務めるが、この間特に二つの大きな功績を残した。一つは労組問題に揺れた東映動画を立て直し[16]、この再建策として検討を指示したのが将来を見据えたコンピュータの導入であった[14]。これが同社のデジタル化の切っ掛けとなる[14]。社内にプロジェクトチームを発足させ、国内大手家電メーカーと連携して研究開発に取り組んだが、1980年代に於いては初期費用、ランニングコスト天文学的な数字にのぼり実現できなかった[14]。しかし1990年代に入ってパソコンの性能が飛躍的に向上し価格もどんどん下がり、1992年(平成4年)の『北斗の拳』のゲーム用データ作成を手始めに、一部実験的に試用を始め、1997年ゲゲゲの鬼太郎 第4シリーズ』4月放映分からデジタル制作に完全に切り替えた[14]。これが日本アニメのデジタル化第一作である[14]

もう一つは日本アニメ海外進出の推進役として陣頭指揮を執ったことである[2][17][18]。今田は東映動画創業時から、"アニメは日本の映像産業が世界に輸出し得る唯一の商品"という考えを持っており[2]、東映動画は今田が社長に就任してようやく海外にも眼を向けていこうという方針になった[17]。それまで東映が行っていた海外販売を1975年(昭和50年)から新設した版権営業部に行わせ、東アジア東南アジアを手始めに欧州アメリカ等、世界各国のテレビ・映画の見本市に毎年出展。今田自ら世界各地の映画祭配給会社を訪ね、日本アニメの輸出促進を働きかけ[2]、フィルム輸出と海外版権の販路拡張を推し進めた[18]1976年(昭和51年)から『マジンガーZ』(1972年(昭和47年)制作)を始めとした自社制作作品の日本国外への売り込みを積極的に行う。特に『UFOロボ グレンダイザー』(1975年(昭和50年)制作)、『キャンディ・キャンディ』(1976年(昭和51年)制作)は世界各国で放送され、日本のアニメーション輸出に弾みをつけた。

1992年(平成4年)、フィリピンに地元企業EEIとの合弁でEEI-TOEI ANIMATION CORPORATION[注釈 3]を設立[1]。これによりコスト的に日本国内とほぼ変わらなくなった韓国に代わりフィリピンへの制作委託体制が確立した。1996年(平成8年)、東映グループにおける大人事改革の影響でそれまで継続していたテレビアニメ作品の全てを一旦終了。

1995年(平成7年)、人材育成を目的として東映アニメーション研究所を開設[1]。ディレクター・アニメーター・美術デザイナー・CGクリエーターの研究生募集を開始(現在は閉所)。1998年(平成10年)、東映アニメーション株式会社に商号変更した[1]

2000年代以降

2000年(平成12年)、ペンタブレットによる作画工程のデジタル化システムを導入。同年、フィリピンおよび日本国内の制作プロダクションを光ファイバー通信で結ぶ「東映アニメ製作ネットワークシステム」[注釈 4]の運用を開始[1][19]。これにより素材の輸送にかかる時間を大幅に短縮。生産性を大幅に向上させることに成功し、テレビシリーズ・劇場作品をあわせ現在に至るまで業界最多クラスの制作本数を維持している。

2003年(平成15年)に大泉スタジオ内に東映アニメーションギャラリーを開館。歴代作品がパネルで展示されているほか、時期により特定の作品にクローズアップした企画展が行われている。入場料は無料だが、社屋内に立ち入ることになる関係上、入館の際は守衛に申し込んで手続きする必要があった。

2006年(平成18年)には幻冬舎と共同でアニメや映画とは異なる映像カテゴリー「画ニメ(がにめ)」レーベルを立ち上げる[注釈 5][20]

2013年(平成25年)7月16日、営業・管理部門及び子会社である東映アニメーション音楽出版のオフィスを神楽坂新宿区横寺町)から中野セントラルパークイースト中野区中野)に移転した[21]。2014年には株主総会での承認を得た上で登記上の本店を実質的な本社機能のある中野オフィスに移した[22]ほか、同年9月より老朽化した大泉スタジオの建て替えを含めた敷地内の全面リニューアルを行うため、大泉スタジオの機能を2017年頃まで約3年間、練馬区光が丘に一時移転している[23](大泉スタジオ内にある東映アニメーションギャラリーについても同年9月23日より長期休館中)[24]

2014年(平成26年)12月17日、委託契約を結んでいる原画制作者、CGクリエーター約400人に対する報酬を消費税増税後も据え置く「買いたたき」を行ったとして、公正取引委員会より消費税転嫁対策特別措置法に基づく再発防止の勧告を受けた。委員会の調査後、4-9月分の差額約2千万円を支払った[25][26]

特徴

実写映画の制作スタイルを踏襲し、劇場作品を「長編」、テレビシリーズを劇場作品の短編と捉えて「短編」と呼ぶ。短編作品では各話の担当演出が事実上の監督であるとの考えからシリーズ全体での監督職の表記はなく、シリーズ全体の統括職として他社制作アニメの監督よりも権限の弱い「シリーズディレクター」及び「チーフディレクター」の役職を設けている。音響監督はおいておらず、基本的に各話の演出担当者が行う(ただしバビル2世Dr.スランプ アラレちゃんなど例外あり)。そのため他社に比べ負担は重くなるが、その補佐をする役職として演出助手をおいている。演出助手が制作進行(東映では「製作進行」と表記)を兼任する場合は「演助進行」と呼ばれる。制作進行の担当は作画までで、仕上、美術の各工程それぞれに進行担当者が置かれる。背景美術についても美術担当が各話ごとに置かれる。他にスクリプターが設けられているなど映画会社母体の特徴が見られる。プロデューサーに転向した演出家もおり、作品によってはプロデューサーが演出に携わるケースもある。

過去に制作した作品のリメイクを盛んに行うのも東映アニメーションの特徴であり、1980年代は『ゲゲゲの鬼太郎』(第3作)、『ひみつのアッコちゃん』(第2作)、『魔法使いサリー』(第2作)、1990年代は『ゲゲゲの鬼太郎』(第4作)、『キューティーハニーF』、『ひみつのアッコちゃん』(第3作)、『ドクタースランプ』、2000年代は『ガイキング LEGEND OF DAIKU-MARYU』、『祝!(ハピ☆ラキ)ビックリマン』、『ゲゲゲの鬼太郎』(第5作)、2010年代は『美少女戦士セーラームーンCrystal』をそれぞれ制作した。また、リメイクではないが『ドラゴンボールZ』を再編集した『ドラゴンボール改』を制作している(2009年 [平成21年] - 2011年 [平成23年]に第1期、2014年 [平成26年]より第2期)。

各作品のエンディングのクレジットに「協力:青二プロダクション」とあるように同社との関係が深く、かつては青二プロダクションの所属声優を独占的に多く起用した作品も多かったが、1990年代後半以降は東映アカデミーがキャスティングマネージメントを行う作品もある。東映アカデミーの解散後は、東映東京撮影所マネージメント部[注釈 6]がキャスティングマネージメントを引き継いでいる。

長期に渡って放送されている一部作品では、ストーリーの展開や設定を刷新し、番組終了後もタイトルを変更する形で次週以降も放送を継続したものが多い(例『ドラゴンボール』→『ドラゴンボールZ』など)。そのため、番組タイトルを変更せず10年以上継続して放送しているアニメは現在に至って『ONE PIECE』のみとなっている。

TV放送に関しては同社作品のレギュラー放送枠を複数持っており、テレビシリーズの作品の大半は東映レギュラー枠で放送される。ただし、資本関係を有するテレビ朝日・フジテレビとの制作作品は、一時全国同時スポンサードネット番組としての放映が途絶えていた時期があった[注釈 7][注釈 8][注釈 9]

週刊少年ジャンプ』との結びつきが強く、1981年に製作された『Dr.スランプ アラレちゃん』以降継続的にジャンプ作品のアニメが製作されており、「東映アニメーション=週刊少年ジャンプ」を連想する人も多い。漫画家の澤井啓夫は、『ボボボーボ・ボーボボ』のアニメ化に際し「ジャンプを読んでいた世代として、自身の作品が東映アニメーションで製作されることが非常に嬉しい」とコメントしている[注釈 10]

1986年から1993年まではゲームソフトの販売を行っていたことがあり、東映系の作品以外にも『バルトロン』や『ファイティングロード』といったオリジナル作品も携わっていた。その後、2010年の『こえであそぼう! ハートキャッチプリキュア』で17年ぶりにゲームソフトを販売。2014年にはスマートフォン向けのオリジナル作品ゲーム『円環のパンデミカ』を自社内で企画し、同年5月からサービスを開始した[注釈 11]

編集・音響制作等のポストプロダクションに100%子会社のタバックを起用していたが、老朽化により、現在は録音スタジオが東映デジタルセンターに移行しているが、音響制作は引き続きタバックが担当する。長年存在しなかった撮影監督音響監督を設けるようになり、2014年以降からエンディングで表記されることが多くなった。

大株主

2014年(平成26年)3月31日現在[注釈 12]

名称 所有株式割合(%)
東映株式会社 33.57
株式会社テレビ朝日ホールディングス 15.07
株式会社フジ・メディア・ホールディングス 10.07
日本トラスティ・サービス信託銀行株式会社(信託口) 8.99
東映ビデオ株式会社 3.25
東映ラボ・テック株式会社 2.50
株式会社バンダイナムコホールディングス 2.00
CGML PB CLIENT ACCOUNT/COLLATERAL 1.99
株式会社ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント 1.86
みずほ信託銀行株式会社退職給付信託ソニー株003口再信託受託者 資産管理サービス信託銀行株式会社 1.86

関連人物

  • 森下孝三(東映アニメーション取締役会長)
  • 高橋浩(東映アニメーション取締役相談役)
  • 岡田裕介(東映代表取締役社長)
  • 岡田茂(元東映代表取締役社長・会長)
  • 高岩淡(元東映代表取締役社長・会長)
  • 重村一(ニッポン放送取締役会長、東映アニメーション社外取締役)
  • 早河洋(テレビ朝日取締役社長、東映アニメーション社外取締役)
  • 亀山千広(フジテレビ取締役社長、東映アニメーション社外取締役)

企画

アニメーター・演出家

脚本家

プロデューサー

美術デザイン

  • 佐藤千恵
  • 増田竜太郎
  • 行信三 (カルロス・ユキ)
  • ゆきゆきえ
  • 吉池隆司
  • 渡辺佳人

色彩設計

CG監督

  • 川崎健太郎
  • 宮本浩史
  • 小林真理
  • 鎌田匡晃
  • 高橋友彦

製作担当

作品履歴

テレビアニメ(連続物)

1960年代

1970年代

1980年代

1990年代

2000年代

2010年代

テレビアニメ(スペシャル)

Webアニメ

劇場アニメ

1950年代(劇場アニメ)

1960年代(劇場アニメ)

1970年代(劇場アニメ)

1980年代(劇場アニメ)

1990年代(劇場アニメ)

2000年代(劇場アニメ)

2010年代(劇場アニメ)

OVA

実写映画参加作品

コンピュータゲーム

レーザーディスクゲーム

ミュージカル

CM

  • スズキ・ハスラー(2014年 - 、アニメーション制作)[27]
    • 『Dr.スランプ アラレちゃん』篇
    • 『クリスマス アラレちゃん』篇
    • 『感謝をこめて 特別仕様車・決算付 』篇 
    • 『コラージュ 』篇
    • 『ワクワク広がれ 』篇

その他

参考文献

  • 渡辺泰・山口且訓『日本アニメーション映画史』有文社、1978年。 
  • 東映動画・徳間書店児童少年編集部『東映動画 長編アニメ大全集』 上巻、徳間書店、1978年。 
  • 大下英治『日本ヒーローは世界を制す』角川書店、1995年。ISBN 4-04-883416-9 
  • 多田信『これがアニメビジネスだ』廣済堂出版、2002年ISBN 4331508676
  • 大塚康生『作画汗まみれ 増補改訂版』徳間書店、2001年ISBN 4198613613
  • 山口康男『日本のアニメ全史 世界を制した日本アニメの奇跡』テン・ブックス、2004年。ISBN 4-88696-011-1 
  • 津堅信之『アニメ作家としての手塚治虫-その軌跡と本質』NTT出版、2007年ISBN 9784757141520
  • 布村建「極私的東映および教育映画部回想」『映画論叢』第18巻、国書刊行会、2014年7月号。 
  • 『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』文化通信社、2012年。ISBN 978-4-636-88519-4 
  • 大下英治『仮面ライダーから牙狼へ 渡邊亮徳・日本のキャラクタービジネスを築き上げた男竹書房、2014年。ISBN 978-4-8124-8997-0 

注釈

  1. ^ 現在は全面建替中。写真は建替前の建物。
  2. ^ 後の教育映画部次長、赤川次郎の父
  3. ^ 1999年よりTOEI ANIMATION PHILS., INC. 略称:TAP、Toei Phils.
  4. ^ 略称: PRO2NET、プロツーネット
  5. ^ 当時はイラストなどに音楽やナレーションなどを加えて、画の持つ魅力やメッセージ性を強調していく表現手法として、また少人数、低予算で製作でき、作者のカラーを出しやすくなることも特徴」と説明された。(なお、同レーベルは数年後にほぼ終息した)
  6. ^ クレジット上は東映東京撮影所
  7. ^ テレビ朝日がシンエイ動画(元々東京ムービーの協力企業だったAプロダクションが発祥で、当時は東京ムービーを通じて在阪局の朝日放送毎日放送読売テレビと親密な関係だった)とも提携・資本関係を強化したことや、アニメ枠が減少したことも影響した。
  8. ^ その間テレビ朝日系では、東映アニメーションとは直接の資本関係を有しない(東映本社とは2000年代以降資本関係を有している)在阪準キー局朝日放送との作品で全国同時ネット放送を維持していた。上述の経緯から、放送枠上では1970~1980年代初期と2000年代で在京局(EX)・在阪局(ABC)と制作会社(シンエイ/東映アニメ)との関係が実質逆転状態となっていた。
  9. ^ フジテレビ系では2013年現在も全国同時ネットは途絶えているが、『ONE PEICE』は個別スポンサードネット・番組販売扱いを組み合わせる形で遅れネットも含め全国で放送している(系列局所在地でも大分県のみ、編成上の都合で同地域の系列外局に放映権を移譲)。
  10. ^ ジャンプコミックス「ボボボーボ・ボーボボ」10巻より
  11. ^ 「円環のパンデミカ」 東映アニメがゲームに乗り出した理由を訊く
  12. ^ 東映の連結子会社、テレビ朝日の親会社であるテレビ朝日ホールディングス持分法適用会社である。
  13. ^ 本編の制作はAKOMが担当。

出典

  1. ^ a b c d e f g h 東映アニメーション株式会社 企業情報 沿革”. 東映アニメーション. 2014年10月19日閲覧。
  2. ^ a b c d e f #アニメ大全集、4-5頁
  3. ^ a b c Autodesk :: AREA JAPAN | コラム | 第4回:池田 宏 氏
  4. ^ 『クロニクル東映:1947-1991』 Ⅱ、東映、1992年、54頁。 
  5. ^ 岡田茂氏死去 東映名誉会長 東映アニメ取締役
  6. ^ a b c d e f #アニメーション映画史、131-132頁
  7. ^ 昭和47年 - WEBアニメスタイル
  8. ^ a b WEBアニメスタイル | アニメーション思い出がたり「五味洋子」その42 労働争議の中で - Style.fm
  9. ^ a b c d e f #活動屋人生、24、28-31、156頁
  10. ^ 岡本明久「東映東京撮影所の血と骨 泣く 笑う 握る」『映画論叢』第36巻、国書刊行会、2014年7月号、69頁。 
  11. ^ a b #論叢18、14頁
  12. ^ キネマ旬報』1973年10月秋の特別号、188頁。 
  13. ^ WEBアニメスタイル | アニメーション思い出がたり「五味洋子」その40 変化のきざし - Style.fm
  14. ^ a b c d e f #山口、132-134頁
  15. ^ 岡田 茂 東映 相談役
  16. ^ 昭和49年 - WEBアニメスタイル
  17. ^ a b #キャラクタービジネス、280頁
  18. ^ a b #日本ヒーロー、261頁
  19. ^ 「東映アニメ製作ネットワークシステム」の運用開始について”. 東映アニメーション,東日本電信電話,セルシス (2000年5月9日). 2014年10月19日閲覧。
  20. ^ “静止画が動く“画ニメ”に、天野喜孝氏などが参加――アートなゲキメーション?”. ASCII.jp. (2006年5月30日). http://ascii.jp/elem/000/000/353/353605/ 2013年10月12日閲覧。 
  21. ^ 東映アニメーション株式会社及び東映アニメーション音楽出版株式会社 オフィス移転について”. 東映 (2013年8月12日). 2013年10月13日閲覧。
  22. ^ 定款一部変更に関するお知らせ”. 東映アニメーション (2014年5月26日). 2014年6月9日閲覧。
  23. ^ 大泉スタジオ仮移転のお知らせ”. 東映アニメーション (2014年6月2日). 2014年6月9日閲覧。
  24. ^ 「東映アニメーションギャラリー」 スタジオ仮移転に伴う長期休館のお知らせ”. 東映アニメーション (2014年7月17日). 2014年9月15日閲覧。
  25. ^ 東映アニメに再発防止勧告=消費増税後も委託料据え置き-公取委時事ドットコム2014年12月17日
  26. ^ 東映アニメに勧告 消費増税分の報酬支払わず 公取委朝日新聞デジタル2014年12月17日
  27. ^ ハスラー・CMウラ話(9月13日時点)

関連項目

外部リンク