コンピュータゲームの歴史
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本項ではコンピュータゲームの歴史について述べる。コンピュータゲームは1940年代から1960年代に科学者やコンピュータ技術者、プログラマによって開発され、1972年にアタリのアーケードゲーム『ポン』が商業的に成功したことで、産業化が始まった。1977年に発売されたロムカセット式家庭用ゲーム機『Atari Video Computer System』が北米で大ヒットしたが、1983年に起こったアタリショックにより、北米のゲーム市場は停滞した。1983年に日本で発売されたロムカセット式家庭用ゲーム機『ファミリーコンピュータ』が大ブームとなり、任天堂は1985年に北米で『Nintendo Entertainment System』を発売し、北米の家庭用ゲーム機市場を再び活性化させた。
1994年にソニーが『PlayStation』で家庭用ゲーム機市場に参入し、3DCGやCD-ROMをゲーム市場に普及させた。2000年の『PlayStation 2』ではDVD規格の普及に貢献した。1990年代後半から、北米やヨーロッパではパソコンゲームが主流となり、MODやオンラインゲームが流行したが、日本ではパソコンゲームが主流にはならず、家庭用ゲーム機がゲーム市場を支配し続けた。任天堂は1989年に『ゲームボーイ』を発売し、携帯型ゲーム機市場を切り開いた。2006年にはソニーが『PlayStation Portable』で携帯型ゲーム機市場に参入し、任天堂の『ニンテンドーDS』に対抗した。
2000年代から2010年代にかけて、世界でスマートフォンやタブレットが普及したことで、モバイルゲーム市場が急拡大し、フリーミアム(F2P)や、アイテム課金、サブスクリプションなど新たなビジネスモデルへ移行した。2010年代以降、eスポーツの普及や、ゲーム配信の流行もあり、全世界でコンピュータゲーム人気が高まり、中国などの新興国でもモバイルゲームやパソコンゲームが広く普及した。
1940年代から1960年代
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1940年代から1950年代にかけて、『Nimatron』(1940年)、『陰極線管娯楽装置』(1947年)、『Bertie the Brain』(1950年)、『Nimrod』(1951年)、『OXO』(1952年)、クリストファー・ストレイチーのチェッカープログラム(1952年)、『Tennis for Two』(1958年)が発明された。
この時代のコンピュータゲームは、国際博覧会や技術デモンストレーションのために開発され、アナログコンピュータ上で動作するものが多い。1952年の『OXO』とクリストファー・ストレイチーのチェッカープログラムは、デジタルコンピュータ上で動作し、ディスプレイ画面に映像を表示する最初のコンピュータゲームである。『Nimatron』、『Bertie the Brain』、『Nimrod』、『OXO』、クリストファー・ストレイチーのチェッカープログラムは全てアナログゲームをコンピュータ上で再現したゲームである。1958年の『Tennis for Two』は、学術研究や技術デモンストレーションではなく、純粋に娯楽製品として開発された最初のコンピュータゲームである。
1962年にスティーブ・ラッセルがメインフレームのPDP-1上でデモプログラムとして発表した『スペースウォー!』は、アメリカ中のPDP-1に広まり、複数のコンピュータでプレイされた最初のコンピュータゲームである。
1966年に稼動を開始したメインフレームのPDP-10は多くの大学や研究機関で導入されたことで1970年代のハッカー文化に大きな影響を与えた。PDP-10はタイムシェアリングシステムを普及させたメインフレームとしても知られる。タイムシェアリングにより、1台のメインフレームのリソースを分割し、複数のユーザー間で同時に共有できるようになったことで、研究者やプログラマだけではなく、大学の職員や学生がコンピュータを使用できるようになった。
1970年代
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1970年代にPDP-8やPDP-11などのミニコンピュータが普及したことで、多くのコンピュータゲームが開発されるようになった。
1971年にノーラン・ブッシュネルが『スペースウォー!』を元に世界初のアーケードゲーム『コンピュータースペース』、1972年にラルフ・ベアがマグナボックスから世界初の家庭用ゲーム機『オデッセイ』を発売した。
オデッセイのデモンストレーションに感銘を受けたノーラン・ブッシュネルは同年にアタリを創業し、『ポン』を発売。オデッセイに内蔵された『テーブルテニス』を元にしたゲームで、2人のプレーヤーが両側のパドルを操作してボールを打ち合い、得点を競う。パドルにボールが当たる位置により、跳ね返る速度・角度が変わる。ポンは商業的に大成功を収め、多くのコピーゲーム(ポンクローン)が製作された。ポンは商業的に成功した最初のコンピュータゲームであり、コンピュータゲーム産業の発展・確立に貢献した。アタリは1975年に家庭用ゲーム機『ホーム・ポン』、1976年に『ブレイクアウト』(ブロックくずし)を発売し、大ヒットとなった。
日本でもポンやブロックくずしのコピーゲームが製作され、多くの会社がゲーム業界に参入した。日本初のアーケードゲームは1973年にタイトーが発売した『サッカー』とされており、日本初の家庭用ゲーム機は1975年にエポック社が発売した『テレビテニス』である。1977年に任天堂が発売した『カラーテレビゲーム15』は任天堂初の家庭用ゲーム機である。
1974年にテーブルトークRPG『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(略称:D&D)が発売。世界初のロールプレイングゲームであり、D&Dを元にしたコンピュータゲームが多数作られた。初期のコンピュータRPGである『dnd』や、『ダンジョン』、初期のアドベンチャーゲームの『コロッサル・ケーブ・アドベンチャー』に多大な影響を与えた。
1978年にタイトーが『スペースインベーダー』を発売した。敵が放つ弾を回避しつつ敵を倒すというゲームシステムは、その後の多くのシューティングゲームに影響を与えており、シューティングゲームの始祖として評価されている。
スペースインベーダーは日本で社会現象となり、全国各地の喫茶店や駄菓子屋を中心に多くの筐体が出荷された(スペースインベーダー#ヒットと社会現象を参照)。北米でも大ヒットし、日本とアメリカの両方で多くのアーケードゲームが開発され、商業的に成功した。アメリカでは「アーケードゲームの黄金時代」と呼ばれている。
1980年に発売されたナムコの『パックマン』はゲームの枠を超え、北米でアニメや音楽が大ヒットし、メディアフランチャイズの初期の成功例となった。
1980年代
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Atari VCSの成功とアタリショック
[編集]1976年にフェアチャイルドが『チャンネルF』、1977年にアタリが『Video Computer System』(通称・Atari VCS、後にAtari 2600に改称)を発売した。チャンネルFとAtari VCSは以前のハードとソフトが一体化していたゲーム機とは違い、ロムカートリッジによりゲームソフトを交換して遊ぶことができ、ゲームソフトという新しい市場を切り開いた。
アタリはゲーム機とゲームソフトの両方を製造・販売し、アメリカの家庭用ゲーム機産業は大きく成長したが、1982年末にゲームソフトの大幅な値崩れを起こし、翌年の1983年には家庭用ゲーム機市場がほぼ消失してしまう(アタリショック)。サードパーティによるゲームソフトの粗製乱造や、アタリが『パックマン』や『E.T.』を大ヒットを見込んで大量に注文・生産し、大量の売れ残り在庫を抱えたことが原因とされる。
マイクロコンピュータの普及とパソコンゲーム市場の誕生
[編集]1970年代から1980年代にかけてマイクロコンピュータが普及し、それまでのメインフレームやミニコンピュータは衰退していった。マイクロコンピュータとは、CPUとしてマイクロプロセッサを使用したコンピュータで、高性能で安価なマイクロプロセッサの開発により、マイクロコンピュータの人気は高まり、多くの企業が参入した。
1977年に発売されたApple II(Apple Computer)、PET 2001(コモドール)、TRS-80(タンディ・ラジオシャック)の3機種は商業的に成功し、多くのゲームソフトが開発された。
1981年にコモドールがVIC-20を発売。ゲームユーザーを狙った広告戦略が成功し、VIC-20は100万台以上を売り上げた世界初のコンピュータとなった。翌年の1982年にコモドールはVIC-20の後継機としてコモドール64を発売した。名前の通り当時としては大容量の64キロバイトのRAMを搭載し、Apple IIよりも安価だったことや、コンピュータ専門店だけでなく、多くの小売店でも販売されたことで大ヒットした。コモドール64は多くのソフトウェアが開発され、パソコン市場で大きな影響力を維持し続けた。アタリショック以降も販売台数を伸ばし続けたことで、ゲームユーザーの事実上の受け皿となり、多くのゲームソフトが移植された。
日本では日本電気(NEC)のPC-8800、富士通のFM-7、シャープのX1、MSXが人気だったため、コモドール64は全く普及しなかった(8ビット御三家も参照)。1980年代後半から、PC/AT互換機が世界的にデファクトスタンダードとなったが、日本ではNECのPC-9800シリーズが長らく市場を独占していたため、PC/AT互換機の普及が遅れた(PC/AT互換機#歴史も参照)。
ファミコンブーム
[編集]Atari VCSの大ヒット以降、多くの会社がゲーム機市場に参入した。日本でも1981年にエポック社の『カセットビジョン』がヒットしたことで、多くのロムカセット式ゲーム機が発売された。 1983年に任天堂の『ファミリーコンピュータ』、1985年にセガが『セガ・マークIII』を発売した。
ファミリーコンピュータ(ファミコン)は1984年からのサードパーティーの参入と1985年の『スーパーマリオブラザーズ』の大ヒットで社会現象級の大ブームとなった。1985年からファミコンは『Nintendo Entertainment System』(NES)として日本国外で発売された。スーパーマリオブラザーズはファミコンとNESの両方でキラーソフトとなり、NESの大ヒットはアタリショックで衰退した北米の家庭用ゲーム機市場を復活させた。
日本ではファミコンの発売により、多くのゲーム雑誌が創刊された。人気ソフトの裏技やデータをまとめた攻略本が次々とベストセラーとなり、『スーパーマリオブラザーズ完全攻略本』(徳間書店)は1985年、1986年と2年連続で年間ベストセラーランキング1位となり、120万部のミリオンセラーとなった[1]。
1985年にハドソンが開催した全国キャラバンで当時ハドソン社員の高橋名人が「16連射」を披露し、子供向け漫画雑誌『コロコロコミック』に取り上げられ、ファミコン名人として多くのメディアに出演し、子供たちを中心に一世を風靡した。
1990年代
[編集]1970年代以降、集積回路上のトランジスタ数が「2年ごとに倍になる」というムーアの法則により、コンピュータの性能が急速かつ飛躍的に向上した。ゲーム業界では新しいゲーム機が数年ごとに発売されるようになり、1990年代にはゲーム機の性能競争が激化した。ゲーム市場の拡大により、多くの企業がゲーム市場に参入した。
コンピュータの急速な性能向上により、1990年代はコンピュータゲームにとって多くのイノベーションが起きた。多くのゲームが2Dコンピュータグラフィックスからリアルタイム3DCGへと移行し、ファーストパーソン・シューティングゲーム(FPS)、リアルタイムストラテジー(RTS)、MMORPGといった、多くの重要なゲームジャンルが誕生した。
1989年に発売した『ゲームボーイ』は携帯型ゲーム市場を開拓し、1996年の『ポケットモンスター 赤・緑』は異例のロングヒットとなり、漫画・アニメ・映画などのメディアミックスにより、大ブームを起こした。
アーケードゲームは、1991年に『ストリートファイターII』の大ヒットによって起こった格闘ゲームブームで人気が再燃したが、家庭用ゲーム機が普及するにつれて、衰退していった。
セガvs任天堂
[編集]1987年にNECホームエレクトロニクスが『PCエンジン』、1988年にセガが『メガドライブ』、1990年に任天堂が『スーパーファミコン』(SFC)を発売した。
SFCがファミコンの圧倒的なシェアを引き継ぎ、2世代連続でハードとソフトの両方でトップシェアとなった。PCエンジンは本体を周辺機器で拡張させる「コア構想」により、多くの本体と周辺機器が発売された。1988年に周辺機器のCD-ROM2を発売し、CD-ROMをゲームソフトとして採用した世界初の家庭用ゲーム機となった。日本国内の販売台数はSFCが1,717万台、PCエンジンシリーズが590万台、MDが358万台で、SFCの一人勝ちとなった。
セガは1989年にメガドライブの北米版『SEGA GENESIS』を発売した。GENESISは1990年に発売された任天堂の『Super Nintendo Entertainment System』(SNES)と競合した。セガは任天堂の『スーパーマリオブラザーズ』に対抗し、1991年に『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』を発売した。客がGENESISとSNESを比べてGENESISを買って帰るという内容の比較CMが話題となり、GENESISの売り上げが急増した。その後も本体の値下げや、積極的な広告戦略により、北米のゲーム機市場で一強だった任天堂と互角以上のシェア争いを繰り広げた[2]。
ゲームボーイの大ヒット
[編集]1989年、任天堂が携帯型ゲーム機『ゲームボーイ』(GB)を発売。同年に発売された『テトリス』が大ヒットし、出荷台数を牽引した。1996年に『ポケットモンスター 赤・緑』が社会現象となり、市場が再活性化した。1996年に『ゲームボーイポケット』、1998年に『ゲームボーイカラー』が発売され、ゲームボーイシリーズは任天堂のゲーム機として初めて世界累計で1億台を売り上げた。
3Dグラフィックスの普及
[編集]1989年にナムコが3次元コンピュータグラフィックス(3DCG)に特化したアーケードゲーム基板「SYSTEM21」を開発し、『ウイニングラン』、『スターブレード』、『ソルバルウ』などを製作。1992年にセガが「MODEL1」を開発し、『バーチャレーシング』『バーチャファイター』などを製作した。ナムコとセガによって、多くのアーケードゲームが3DCGへと移行した。家庭用ゲーム機でも、1994年のセガサターン(セガ)、PlayStation(SCE)、1996年のNINTENDO 64(任天堂)は全て3D描画機能を備えている。以降、3DCGのゲームがアーケードと家庭用の両方で普及した。
次世代機戦争
[編集]1994年にセガが『セガサターン』(SS)、ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)が『PlayStation』(PS)、1996年に任天堂が『NINTENDO 64』(N64)を発売した。
1994年に発売されたPSとSSは本体の価格競争が激化し、本体の値下げを繰り返した。他にも同時期に、3DO社の『3DO REAL』や、NECの『PC-FX』、SNKの『ネオジオCD』、バンダイ・Appleの『ピピンアットマーク』など多くのゲーム機が発売され、次世代機戦争と呼ばれた。新規参入したゲーム機のほとんどが商業的に失敗し、ゲーム機市場から撤退した。これ以降、家庭用ゲーム機はソニー・任天堂・セガ(セガ撤退後はマイクロソフト)による寡占状態が続いていく。
第五世代ゲーム機の多くがソフトウェア媒体にCD-ROMを採用した。CD-ROMはロムカセットと比べて大容量・低コストが特徴で、1万円を超えることもあったゲームソフトの価格をCD-ROMでは6000~7000円台まで下げることができた。任天堂もN64はロムカセットだったが、2001年の『ゲームキューブ」では光ディスクを採用している。CD-ROMの普及と、PSとSSの性能差が比較的少なかったことから、『ときめきメモリアル』、『Dの食卓』などPSとSSの両方でクロスプラットフォーム展開をするサードパーティが増えた。一方でドラゴンクエストシリーズやファイナルファンタジーシリーズといった大作シリーズは一つのゲーム機のみの独占販売を維持し、『ファイナルファンタジーVII』がPS独占で発売されたことはPSとSSのゲーム機競争に影響を与えた。
1990年代以降、アーケードゲームと家庭用ゲーム機の性能差が小さくなり、アーケードゲームのタイトルが登場後、すぐに家庭用ゲーム機に移植されることが多くなった。ゲーム市場のアーケードゲームが占める割合は減少し、家庭用ゲーム機が売上と技術の両方で市場を牽引するようになった。
FPSの誕生とMODの流行
[編集]1992年の『Wolfenstein 3D』(id Software)は3Dシューティングの始祖と呼ばれ、ファーストパーソン・シューティングゲーム(FPS)というジャンルを確立した。id Softwareは『Wolfenstein 3D』の後継作品として1993年に『DOOM』、1996年に『Quake』を発売した。『DOOM』は北米で発売されると、すぐに大ヒットを記録し、その後の多くのFPSに影響を与えた。
『モータルコンバット』や『ナイトトラップ』の残虐な描写が問題視され、論争となったことで1994年にコンピュータゲームのレイティング審査を行う団体「エンターテインメントソフトウェアレイティング委員会」(ESRB)がアメリカで設立された。『DOOM』や、ガンシューティングゲームの『リーサルエンフォーサーズ』も社会的影響を懸念され、批判された。
1990年代後半に『DOOM』、『Quake』のMODが公開され、流行した。MODとは、ゲームのグラフィックやデータを改造するファイル・プログラムで、改造・変更という意味の「modification」の短縮形である。ゲームのほぼ全てを変更する大規模なMODは「トータルコンバージョン」と呼ばれる。『ハーフライフ』をチーム制のオンラインゲームに改造した『カウンターストライク』は世界中のハーフライフユーザーから支持され、人気を博した。『DOOM』、『Quake』、『ハーフライフ』はインターネット上でMODコミュニティが形成され、多くのMODが作成された。
- 1990年代のゲーム機
2000年代
[編集]ブラウザゲームの流行
[編集]1995年に発売されたMicrosoft Windows 95により、多くの人がインターネットにアクセスできる環境が整ったことでインターネット利用者数が爆発的に増加した。Windows 95が発売された当時、多くの人はダイヤルアップ接続を介してインターネットにアクセスしていた。2000年代前半にADSLの登場でブロードバンドが普及し、インターネット回線が高速化すると、多くのウェブサイトで画像や動画を扱えるようになった。
軽量で動画が作成できるMacromedia Flash(Adobe Flash)が普及し、動画メディアのプラットフォームとして主流となった。Adobe Flash Playerは多くのパソコンに普及し、2009年時点でインターネットに接続されたデスクトップPCの99%にAdobe Flash Playerがインストールされていた。 [3] 1990年代後半から2000年代にかけて多くのFlashゲームが作成され、人気となった。世界的に有名なFlashゲームに『FarmVille』、『Alien Hominid』、『QWOP』、『Club Penguin』、『en:Dofus』などがある。日本でも1999年のMacromedia Flash 4以降、多くのFlash動画やFlashゲームが作成された。
2010年にAppleがiPhoneを含む全ての端末でFlashを採用しないと宣言した。理由としてセキュリティの問題や、Flashによる機能の制約による技術的な問題を挙げた[4]。2010年代以降、スマートフォンやMP4の普及などにより、Flashは急速に衰退し、以降はHTML5でのブラウザゲームが主流となっていった。
オンラインゲーム市場の拡大
[編集]1997年の『ウルティマオンライン』、1999年の『エバークエスト』、『Asheron's Call』の商業的成功によってMMORPG(大規模多人数参加型オンラインRPG)が流行し、アメリカと韓国で多くのMMORPGが制作された。韓国は1998年に金大中が大統領に就任し、アジア通貨危機下でIT産業を奨励し、莫大な投資を行い、経済の建て直しを図った。急速にインターネットが普及し、IT先進国となった韓国では家庭用ゲーム機よりもオンラインゲームが普及した。2000年頃、韓国内で「eスポーツ」の用語が広まり、欧米などで大々的なコンピュータゲームの世界大会が開催されるようになった。
2000年代に入ると全世界でインターネットが普及したことでMMORPGおよびオンラインゲームのプレイヤー数は爆発的に増加した。2003年に韓国で運営が開始されたMMORPG『メイプルストーリー』(ネクソン)は基本無料・アイテム課金型のビジネスモデルを初めて採用したとされる。その一方で長時間のゲームプレイによるゲーム依存症が社会問題となった。
セガの家庭用ゲーム機事業撤退とマイクロソフトの参入
[編集]1998年にセガが『ドリームキャスト』、2000年にSCEが『PlayStation 2』(PS2)、2001年に任天堂が『ニンテンドー ゲームキューブ』を発売した。
ドリームキャストはPS2とのシェア争いに敗北し、2001年に生産中止したことで莫大な赤字となった。セガは家庭用ゲーム機事業から撤退し、以降はサードパーティへ転換した。PS2はPSソフトの互換性を持ち、PSのシェアを引き継いだことで、2世代連続でトップシェアとなった。PS2は安価なDVDプレイヤーとしても注目され、DVDの普及に大きく貢献した。ゲームキューブはゲームソフトの売上が伸びなかったことや、1990年代後半から続く日本のゲーム業界の縮小(ゲーム離れ)が原因となり、売上は伸び悩んだ。海外市場でも苦戦し、前世代機のNINTENDO64よりも販売台数は減少した。
2001年にマイクロソフトが『Xbox』で家庭用ゲーム機事業へ参入した。全世界累計販売台数は2,400万台で、ドリームキャストとゲームキューブの販売台数を超え、PS2に次ぐシェアを獲得したが、製造コストの高さにより巨額の損失を出した。
ゲーム離れと任天堂の「ゲーム人口拡大」戦略
[編集]日本国内の家庭用ゲームソフト市場は1997年の5833億円をピークに減少を続け、2005年は3141億円と1997年の54%にまで低下した[5]。一方で、日本のゲーム業界全体の市場規模は拡大しており、縮小しているのは家庭用ゲームソフト市場だけという見方もある[6]。
任天堂は日本国内のゲームソフト市場の縮小はゲームの複雑化による人々のゲーム離れが原因と考え、ファミリーコンピュータからゲームキューブまでの高性能なゲーム機でグラフィックスを向上させる従来路線を改め、2003年に「ゲーム人口の拡大」を基本戦略と定めた。そして2004年に『ニンテンドーDS』、2006年に『Wii』を発売した。DSはタッチスクリーン、WiiはWiiリモコンによって直感的な操作が可能で、年齢、性別、ゲーム経験の有無を問わず楽しめる商品として開発された[7]。以降、任天堂はDSとWiiで掲げた「ゲーム人口の拡大」を踏襲し、高性能なゲーム機による性能競争を避けて、ゲーム機に独自の斬新なギミックを採用するようになった[8]。
DSとPSP
[編集]2001年に任天堂が『ゲームボーイアドバンス』を発売した。ゲームボーイアドバンスはゲームボーイの成功を引き継ぎ、2002年の『ポケットモンスター ルビー・サファイア』の大ヒットもあり、好調な売上を維持した。
2003年にSCEは携帯型ゲーム機市場への参入を発表した。任天堂はSCEの発表に対抗し、2004年のE3でニンテンドーDSを初公開した。ゲームボーイアドバンスの販売は好調だったが、ゲームボーイアドバンスは2Dゲーム機であり、SCEが発表した携帯機は3Dゲーム機であったため、携帯型ゲーム機市場のシェアを奪われることを危惧した任天堂はゲームボーイアドバンスとの互換性を維持しつつ併売する新ハードという位置づけでニンテンドーDSを発売することにした[9]。
『ニンテンドーDS』と『PlayStation Portable』(PSP)は携帯ゲーム機市場を拡大させた。特にDSは多くのゲームソフトがミリオンセラーとなり、社会現象級の大ブームとなった。DSが『脳を鍛える大人のDSトレーニング』などの大ヒットにより、幅広い層に受け入れられたのに比べ、PSPはマルチメディア機としての側面を持ち、都市部の比較的パソコンに詳しい人に売れた。また、DSは初動から大ヒットしたが、PSPは2007年に『モンスターハンター ポータブル』シリーズが大ヒットするまでは売上が低調であり、売上のピークが重ならなかったことや、ゲームタイトルの違いもあり、DSとPSPは携帯型ゲーム機市場でシェアの奪い合いはあまり起こらなかった。
一方でインターネットの普及により、カスタムファームウェアやファイル共有ソフトを通じてゲームソフトの違法コピー・海賊版が流行した。海外だけでなく、日本国内でもゲームソフトの違法コピーが横行し、多くの逮捕者が出た[10]。これにより、SCEはDSとの販売競争よりも海賊版対策に労力を費やさなければならなかった。任天堂もDS用マジコンの流行により、マジコン販売業者に対し訴訟を起こした[11](マジコン#日本での規制も参照)。
北米・欧州の市場規模の拡大と日本市場のガラパゴス化
[編集]2000年代以降、北米・欧州の家庭用ゲーム市場の規模が拡大する一方で、日本のゲーム会社は急成長する欧米市場での売上を伸ばせなかったことで、相対的に日本の影響力は低下していった。海外で任天堂は売れていたが、それ以外の日本のゲームが売れないのは北米・欧州と日本ではヒットするゲームジャンルが大きく異なることが背景にある。北米・欧州ではFPSやスポーツゲームが人気だが、日本では非常に弱くヒットしづらい。一方、日本で人気のRPGが北米・欧州では弱くヒットしづらい[12]。また、日本ではDSやPSPが大ヒットし、据え置き型ゲーム機を超えるシェアを占めたことで多くのゲーム会社が携帯型ゲーム機市場に注力したことや、開発費の高騰により、HDゲームへの移行が遅れたことで、日本の家庭用ゲーム市場はガラパゴス化していると指摘されるようになった[13][14][15][16]。
2010年代
[編集]モバイルゲーム市場の急成長とルートボックス規制
[編集]iPhoneやiPad、Android端末の普及により、モバイルゲーム市場は急成長し、多くのゲームアプリが大ヒットした。
モバイルゲームは家庭用ゲーム機とは違い、ゲーム内のアイテム課金で収益を上げるFree-to-playが一般的で、アイテム課金の手法としてルートボックス(ガチャ)が流行した。2014年の日本のモバイルゲーム市場は『パズル&ドラゴンズ』や『モンスターストライク』などの大ヒットにより、アメリカを超えて世界最大となった。日本市場の特徴として、ガチャによるアイテム課金が定着したことでユーザー1人当たりの課金金額が高く、月に数万円という高額を支出するユーザーが多い。日本で高額なガチャ課金が定着した背景に、NTTドコモのiモードによって携帯電話のコンテンツ課金が定着していたことと、パチンコなどの結果が不確定な娯楽を好む人が多い日本人の国民性が要因とされる[17]。
一方で、ガチャ課金は依存症との関連や、ゲーム性を損なうといった指摘により、問題視された。日本では2012年にコンプリートガチャが不当景品類及び不当表示防止法(景品表示法)違反だとして消費者庁が問題視し、規制の対象となった(コンプリートガチャ、アイテム課金#問題点、ルートボックス#批判を参照)。2010年代後半から、海外でもルートボックスに対する批判や懸念する声が高まり、規制の動きが活発化した[18]。
オンラインゲームの普及とデジタル配信への移行
[編集]インターネット回線の高速化・大容量化が進んだことで、オンラインゲームが急速に普及し、ゲーム業界の中心的な存在となった。多人数でのマルチプレイが一般的となり、バトルロイヤルゲームとマルチプレイヤーオンラインバトルアリーナ(MOBA)という2つのゲームジャンルが世界中で流行した。FPSも2000年代から引き続き人気で、『エーペックスレジェンズ』や『フォートナイト』の大ヒットや、ゲーム配信やeスポーツの流行により、世界中で大ブームとなった。
2010年代以降、F2P(Free-to-play)の普及により、マイクロトランザクション(アイテム課金)、ルートボックス(ガチャ)、ダウンロードコンテンツ、シーズンパス、バトルパスといったゲーム内課金のシステムが一般的となった。これらの継続的なビジネスモデルはGames as a Service(GaaS、サービスとしてのゲーム)とも呼ばれ、多くのオンラインゲームやモバイルゲーム、家庭用ゲームで取り入れられている。
- 2010年代のゲーム機
2020年代
[編集]Nintendo Switchの大ヒットとポータブルゲーミングPCの登場
[編集]2017年に発売された「Nintendo Switch」はハードとソフトの両方で大ヒットを記録した。2025年11月時点でNintendo Switchファミリー累計の売上が1億5000万台を超えた。2020年のコロナ禍によってゲーム需要が増加したことで、多くのゲームソフトが大ヒットを記録した。2020年に発売された『あつまれ どうぶつの森』は日本国内の売上で史上初の1000万本を突破し、日本一売れたゲームソフトとなった。2025年11月時点で『マリオカート8 デラックス』が6,900万本以上、『あつまれ どうぶつの森』が4,800万本以上を売り上げている[19]。
任天堂はNintendo Switchが成功した要因として、据置機・携帯機で分かれていたプラットフォームを統合したことを挙げている。『ポケットモンスター』などこれまで携帯機で展開されていたタイトルと据置機向けのタイトルがSwitchで一本化し、据置機・携帯機の2つの市場を統合した[20]。以降、任天堂は携帯型ゲーム機市場向けにソフトを発売しなくなり、SIEもPlayStation Vitaを最後に市場から撤退したため、事実上携帯型ゲーム機市場は消滅した。
その後、Steam DeckやASUS ROG Allyといったポータブル・ゲーミングPCの発売や、マイクロソフトがXboxブランドの携帯型ゲーム機(ROG Xbox Ally)を発表する[21]など、携帯型ゲーム機が再び注目を集めている。
コロナ禍によるゲーム業界への影響
[編集]ゲーム業界は2019年末から始まったCOVID-19パンデミックによるロックダウン政策やリモートワークの影響を大きく受けた。多くのイベントが中止され、イベントはオンラインやバーチャルでの開催に移行した。ハードウェアとソフトウェアの開発や発売が遅れたことで、多くのゲームが発売延期や無期限延期となった。
一方で、家での時間を過ごす手段としてゲームが注目されたことで、世界中でゲーム需要が高まり、多くの人がゲームをプレイした。2010年代から流行したゲーム配信もコロナ禍で人気を博し、YouTubeやTwitchなどで配信環境が整ったことでゲーム配信は一般的となった。2020年からのゲーム需要の増加や米中貿易戦争などにより、世界的に半導体不足が深刻化し、ゲーム機の供給が困難となった。特にPlayStation 5は円安による海外転売などによって日本国内で2年以上も入手困難な状態が続いた[22][23]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ↑ 上村雅之、細井浩一、中村彰憲『ファミコンとその時代 テレビゲームの誕生』p.209、NTT出版、2013年
- ↑ “ビデオゲームの語り部たち 第13部:豊田信夫氏が駆け抜けた“ワイルドな時代”の北米ゲーム機戦争”. 4Gamer.net (2019年6月1日). 2024年10月6日閲覧。
- ↑ “Adobe Flash Player is finally laid to rest”. BBC (2021年1月1日). 2025年3月24日閲覧。
- ↑ “ジョブズCEO、iPhoneでのFlash非対応について説明”. ITmedia エンタープライズ (2010年4月30日). 2025年3月24日閲覧。
- ↑ ““国策”としてのゲーム産業 政府が初の報告書”. ITmedia NEWS (2006年8月29日). 2024年10月1日閲覧。
- ↑ “本当は「ゲーム離れ」なんて起きてない!?”. All About (2006年9月12日). 2024年10月12日閲覧。
- ↑ “2006年12月7日 日本外国特派員協会 社長スピーチ概要”. 任天堂ホームページ (2006年12月7日). 2024年10月12日閲覧。
- ↑ “今後任天堂が追求すべきは「斬新なギミック」ではなく「コンシューマ機におけるSteam」ではないか”. IGN Japan (2023年7月23日). 2024年10月12日閲覧。
- ↑ 小山友介『日本デジタルゲーム産業史 増補改訂版』p.314 - p.315、人文書院、2020年
- ↑ “PSPソフトの違法アップロードで、全国初の摘発……42歳男性を逮捕”. RBB TODAY (2010年9月29日). 2025年11月16日閲覧。
- ↑ “任天堂のマジコン裁判が7年越しの決着。業者らに対し,約1億円の損害賠償を命じる最高裁判決”. 4Gamer.net (2016年1月19日). 2025年11月16日閲覧。
- ↑ 小山友介『日本デジタルゲーム産業史 増補改訂版』p.291 - p.294、人文書院、2020年
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