ガンバ大阪
ガンバ大阪 | |
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原語表記 | ガンバ大阪 |
愛称 | ガンバ |
クラブカラー |
ブルー ブラック |
創設年 | 1980年 |
所属リーグ | 日本プロサッカーリーグ |
所属ディビジョン | Jリーグ ディビジョン1 |
ホームタウン | 大阪府吹田市、茨木市、高槻市、豊中市 |
ホームスタジアム | 万博記念競技場 |
収容人数 | 21,000 |
運営法人 | 株式会社ガンバ大阪 |
代表者 | 金森喜久男 |
監督 | 松波正信 |
公式サイト | 公式サイト |
■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ |
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | 非上場 |
本社所在地 |
日本 〒565-0826 大阪府吹田市千里万博公園3-3 |
設立 | 1991年10月1日 |
業種 | サービス業 |
法人番号 | 1120001157248 |
事業内容 | サッカークラブ運営 |
代表者 | 代表取締役社長 金森喜久男 |
資本金 | 1,000万円[1] |
売上高 | 33億4,600万円[1] |
営業利益 | ▲3,400万円[1] |
純利益 | 1,100万円[1] |
純資産 | 1億8,200万円[1] |
総資産 | 10億3,700万円[1] |
決算期 | 毎年1月[1] |
主要株主 |
パナソニック 70% 関西電力 10% 大阪ガス 10% 西日本旅客鉄道 10% |
外部リンク | http://www.gamba-osaka.net/ |
ガンバ大阪(ガンバ おおさか、Gamba Osaka)は、日本の大阪府吹田市、茨木市、高槻市、豊中市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
概要
クラブの前身は1980年創部の松下電器産業サッカー部であり、1993年のJリーグ開幕時より加盟している10クラブ(オリジナル10)のひとつである。2005年にJ1リーグ優勝、2008年にAFCチャンピオンズリーグを制覇するなど、国内3大タイトル(J1リーグ、天皇杯、ナビスコカップ)の全てを獲得している5クラブの一つである。なお、関西のクラブでは唯一J2降格を経験しておらず、獲得タイトル数も最多でありJリーグ内でも屈指の攻撃的サッカーをするチームでもある。
ホームタウンは、大阪府吹田市、茨木市、高槻市、豊中市の4市。創設当初は吹田市のみであった。クラブの人気低迷に喘いでいた1997年にそれまで新大阪にあったクラブ事務所と京田辺市にあった練習場をスタジアムがある万博記念公園に移し、ホームタウンをベースとしたクラブ経営がスタートした。2004年からはホームタウンの吹田市と茨木市・高槻市、2006年からは豊中市を加えた4市を重点4市と定め[2][3]、地域密着を目指す様々な活動を展開。2010年には、これまで各市でG大阪の支援活動を行っていた4市の後援会が一丸となり、G大阪とともに各自治体、企業等と協力し、青少年の健全育成や街の活性化をはじめとする地域貢献活動を目的とした「ガンバ大阪後援会」が発足した。2012年からはJリーグ理事会で茨木市、高槻市、豊中市をホームタウンに加えることが承認されたことで[4]、4市を正式なホームタウンとしている。また、大阪府のほぼ中央に位置する大阪市をホームタウンとしているセレッソ大阪(C大阪)に対し、G大阪は北摂・北河内地域14市3町を重点地域にしている[5][2]。
ホームスタジアムは万博記念競技場。クラブハウスと練習グラウンドは同スタジアムの隣接地にある万博記念公園スポーツ広場内にある[6]。
クラブ名の「ガンバ(GAMBA)」は、イタリア語で「脚」を意味し、シンプルで強いチームを目指す、サッカーの原点である「脚」を強調している他、日本語の「頑張る」とも掛けられており、
- チーム一丸となって勝利を目指してガンバるチーム
- どんな状況でもガンバって勝利を勝ちとるチーム
- 大阪をホームタウンとし、大阪を中心とした関西ファンの声援を受けてガンバるチーム
- 日本一、世界一のクラブ組織に向けてガンバるサッカークラブ
という意味が込められている[7]。スペイン語では「海老」という意味であるが、これは全くの偶然であり、特に意味はない。
発足から1995年までのクラブ名は「パナソニックガンバ大阪」としていた。略称表記はJリーグ発足当初は「大阪」であったが、1995年に大阪市にホームタウンを置くC大阪がJリーグに昇格してからは、C大阪と区別するため「G大阪」もしくは「ガ大阪」と表記されている。
1991年のJリーグ加盟当初はパナソニックが100%株式を保有していたが、1997年からは地域密着度を高めるために関西電力、大阪ガス、西日本旅客鉄道が株主となっている。なお、資本金はJリーグクラブの中でも最少である。
マスコットは松下進デザインの「ガンバボーイ」という名の雷小僧で、ゼウスの生まれ変わりという設定である。ガンバって勝利を勝ち取る元気なサッカーボーイであり、雷の形の闘志あふれるエネルギーをその手につかんでいる。動物ではなく人間をモチーフにした数少ないマスコットの1つ(オリジナル10では唯一の人間をモチーフにしたマスコット)である。Jリーグ開幕当初は、デザインイラストどおりギリシャ風の衣装を着用するデザインであったが[8]、1990年代後半頃からはユニフォームを着用したイラストに変更された。ただし、ユニフォーム以外を着用しているものも少数ではあるが存在した。
エンブレムは1995年までは、クラブマスコットのガンバボーイそのものがエンブレムの代わりであり、正式なエンブレムができた1996年以降は、クラブカラーと同じブルーとブラックで大阪府の府鳥「百舌鳥」を伝統の象徴である盾型にアレンジし、その中央にはサッカーボールが描かれ、勝利の証である月桂樹のかわりに、大阪府の木「銀杏」の葉が周囲を飾るものになっている。
歴史
松下電器時代
1980年に創部された松下電器産業サッカー部が前身となり、1984年に日本サッカーリーグ(JSL)2部、1986年にJSL1部へ昇格。第70回天皇杯全日本サッカー選手権大会(1990年)優勝などの成績を残した。
1991年10月1日、Jリーグ加盟に伴い、「(株)松下サッカークラブ」を設立し、Jリーグ正会員となる。
1992年 - 1994年
1992年にクラブ名を「パナソニックガンバ大阪」と命名。Jリーグ創設時からの加盟クラブ「オリジナル10」の一つであり、当初は近畿地方で唯一のJリーグクラブだった。Jリーグ加盟時は松下がユニバーサル映画を買収した時期と重なり、強そうなのでスティーブン・スピルバーグの名作『ジョーズ』から大阪城にも引っ掛け「大阪ジョーズ」という名前が有力候補だった。しかし、瀬戸内海にサメが出没する事件が社会現象となったことなどから、このクラブ名は不採用となった[9]。
初代監督に釜本邦茂に据え、当時永島昭浩・礒貝洋光・本並健治といった人気選手を抱えていた。この年はリーグの開催はなかったが、ナビスコ杯、天皇杯等が行われ、天皇杯では助っ人外国人として加入したエジバウドの活躍もあり、ベスト8まで進出した。しかし、エジバウドはシーズン開幕を待たずして交通事故で他界した。
1993年5月16日、万博記念競技場で行われたJリーグ開幕戦で浦和レッズと対戦し、和田昌裕の得点により1-0で勝利。しかし、その後4連敗を喫するなど年間通して安定した成績を残せず、1st・2ndステージとも8勝10敗と負け越し、順位はそれぞれ10チーム中8位と6位。Jリーグ開幕初年は年間成績7位に終わる。ナビスコ杯ではベスト4まで進出した。
1994年は、永島が清水に移籍した一方、前年からのアレイニコフに加え、ツベイバやプロタソフといった元ソ連代表勢を加入させるなどの補強が行われた。しかし、守備の要となる筈だったツベイバが怪我で離脱する不運もあり、1stステージは7勝15敗で12チーム中10位。ツベイバが復帰した2ndステージでも7連敗を喫すなど最下位争いの常連となり、名古屋グランパスエイト・浦和と共にJリーグのお荷物と扱われるようになった。7連敗の直後に、同年限りでの釜本監督解任が発表された。その後4連勝もあって最下位からは脱出したが、8勝14敗で1stステージ同様の10位に終わった。カップ戦ではナビスコ杯・天皇杯ともにベスト4まで進出したが、前者では準決勝のV川崎戦にて1-7の大敗を喫した。
ハンス・オフトが日本代表監督を務めていた際には、Jリーグで唯一代表選手が不在であったが、パウロ・ロベルト・ファルカンが監督を務めた時代には、一時的に多く選出された。
1995年 - 1996年
1995年にジークフリート・ヘルトが監督に就任。新たな助っ人外国人としてヒルハウス、スクリーニャらが加入。また、ユースから宮本恒靖らがクラブで初めて昇格した。1stステージ序盤は6勝2敗と好スタートを切り初の首位争いを展開したが、その後は8連敗を喫す失速ぶりで、最終的なステージ成績は10勝16敗で14チーム中11位。2ndステージに至っては終始の低迷で8勝18敗の13位となり、各ステージ最下位は免れたものの、年間総合では初の最下位に終わり、ヘルトは1年で解任された。その一方、天皇杯では2年連続でベスト4に入った。
1996年、クラブ名を「ガンバ大阪」、法人名を「(株)ガンバ大阪」にそれぞれ改称し、前監督ヘルトのアシスタントコーチを務めていたヨジップ・クゼが監督に就任。リーグ開幕からの天敵だったV川崎に、第9節に4年目で初めて勝利し通算成績での連敗を15で止め(この試合は前半にV川崎に2点先制されたものの、後半に3点を返し、3-2で大逆転勝ちを収めた)るなど、初の1シーズン制で行われたこの年、前半戦を8勝7敗で折り返した。しかし後半戦で失速し、最終的な年間成績は11勝19敗で16チーム中12位。年間成績は初年度から参加した10チーム中唯一4年連続の負け越しとなった。カップ戦においては、天皇杯で3年連続となるベスト4に進出する一方で、ナビスコ杯では予選落ちした。
1997年 - 1999年
1997年、リーグ創生期からのガンバの顔だった礒貝・本並が、それぞれ浦和・V川崎に移籍。一方でユースから飛び級でトップチームに昇格した稲本潤一が17歳171日でJリーグデビューを果たし、当時のJリーグ最年少出場記録を塗り替えた。更にこの年加入した当時カメルーン代表のパトリック・エムボマが得点を量産しチームを牽引すると、同年25得点でクラブ初のJリーグ得点王とベストイレブンを獲得。1stステージを8勝8敗(17チーム中8位)と初めて勝敗を五分に持ち込むと、2ndステージには当時のJリーグ記録となる9連勝を飾り、首位争いに加わった。勝負所で連敗を重ね優勝を逃すも、12勝4敗でチームとして当時最高となる2位の成績を残し、年間成績でも初めて勝ち越し4位となった。一方で、エムボマに頼りきった戦術は関係者やマスコミから多くの批判を受け、「エムボマがいないとガンバれない」とスポーツ新聞に揶揄されることも多かった。シーズン終了後、チームを成長させたクゼ監督が母国クロアチア代表のスタッフ就任により退団、天皇杯はアシスタントコーチのフリードリッヒ・コンシリアが率い4年連続でベスト4に入った。
1998年からはフレデリック・アントネッティの監督就任が決まっていたが、ヨーロッパのシーズンが終了してからの来日という形になり、それまではコンシリアが暫定的に監督を務めた。開幕直前に親会社の松下電器産業の社長森下洋一の母校姫路市立琴丘高等学校のエース(稲本と同い年)播戸竜二を高卒新人の練習生として獲得し、数ヵ月後にプロ契約、前年の躍進から一転して低迷し、1stステージは7勝10敗で18チーム中14位。7月にエムボマがイタリア・セリエAのカリアリに移籍。エースが離脱した2ndステージは5勝12敗と更に悲惨な成績となり、年間成績は15位。またそれまでは、少なくともナビスコ杯・天皇杯のどちらかでは必ず上位に進出していたが、この年のナビスコ杯は予選敗退、天皇杯も3回戦敗退と、3大タイトルと称される大会全て低迷した。
1999年1stステージは6勝9敗で16チーム中10位に終わり、アントネッティ監督はシーズン途中で退団。2ndステージからは早野宏史が監督に就任するも5勝1分9敗で13位と結果は出ず、年間成績では11位となった。またカップ戦でも、ナビスコ杯・天皇杯ともに好成績を収められずに終わった。
一方でこの頃、前述の宮本や稲本を始め、新井場徹(1997年)、橋本英郎(1998年)、大黒将志、二川孝広(1999年)などがユースからトップチームに相次いで昇格。ユース以外では前出の播戸ら後にチームの中心となる選手が続々とトップチームに加入した。
2000年 - 2001年
2000年、1stステージでは大阪府に本拠地を置くもう1つのクラブのC大阪が優勝争いを繰り広げた一方で対照的に5勝2分8敗で13位と大きく低迷した。2ndステージでは開幕から5連勝を飾り、第10節の広島戦での勝利で3年ぶりに首位に立ち、鹿島と優勝争いを繰り広げたが、第14節の鹿島との天王山で敗れて優勝の可能性を失うと、最終節では磐田に0-4で大敗し、順位を4位まで下げ、シーズン終了。年間成績では6位、15勝2分13敗と3年ぶりに勝ち越した。また、天皇杯では3年ぶりにベスト4進出を果たした。
2001年、後にチームの中心選手となる遠藤保仁、山口智を獲得し、若手を積極的に起用することで1stステージは9勝6敗で5位に入るも、1stステージ終了後、主力として活躍していた稲本がクラブ初となる海外移籍で、イングランド・プレミアリーグの強豪アーセナルに移籍。2ndステージは波に乗れず低迷を続け、第8節C大阪との大阪ダービーで逆転Vゴール負けを喫すると、その翌日に早野が監督を辞任。コーチの竹本一彦が監督に昇格するも、最終的な成績は5勝2分8敗での11位に低迷した。年間成績は16チーム中7位となり、14勝2分14敗でシーズン勝ち越しも逃した。
2002年 - 2004年
2002年、前柏監督の西野朗が監督に就任。1stステージでは中断期間までに4勝1分け2敗の4位と好スタートを切り、再開後も4連勝で3位に浮上するも、8月3日の優勝を争う磐田との直接対決では、残り14分で2点リードしていながら追いつかれ、延長で4-5とVゴール負けを喫して優勝争いから脱落すると以後精彩を欠き、9勝1分5敗で4位に終わる。2ndステージも優勝争いに加わるが、またも磐田との直接対決で0-2と完敗するなど、重要な試合での取りこぼしを繰り返した結果2位となり(10勝5敗)、磐田に完全優勝を許す結果となった。しかし、年間順位では過去最高の3位となり、19勝1分10敗と2年振りの勝ち越しを達成。また失点数・反則ポイント共に、チーム歴代最少であった。
2003年は、前年の躍進から一転、延長戦が廃止され集中力がより重要とされる中で、後半ロスタイムに幾度となく失点する姿が目立ち、年間7度のロスタイムでの失点を喫した終盤の集中力の無さが幾度となく批判された。これら失った勝ち点が積み重なった結果、一時は残留争いに加わる状況になった(1stステージ4勝4分7敗で12位)。2ndステージにはやや盛り返すも、優勝争いには一切絡めず6勝5分4敗で7位。両ステージで下位に沈み、年間成績でも10勝9分11敗と4年ぶりに負け越すなど、不本意なシーズンとなった。シーズン終了後、ユースからの生え抜き選手である新井場徹が鹿島に移籍した。
4月17日、1996年12月29日の天皇杯準決勝広島戦でのプレー中の事故を最後に1998年シーズン途中に退団した今藤幸治が脳腫瘍により30歳の若さで他界した。
2004年、シジクレイ、フェルナンジーニョらを獲得し、上位チームに返り咲き、再び1st・2ndステージ共に優勝争いに加わるが、これまで同様の終了間際での失点癖や肝心な試合での黒星が目立ち、1stステージ7勝3分5敗で4位、2ndステージ8勝3分4敗で3位と、どちらのステージも優勝することは出来なかった。
それでも、この頃から西野が掲げる攻撃的パスサッカーがチームに浸透し始め、この年大黒将志がリーグ戦日本人最多の20得点を挙げた。また、J1・1st第15節新潟戦で家長昭博がJリーグ史上初となる2種登録選手によるデビュー戦での初得点を挙げた。カップ戦においては、ナビスコ杯ベスト8、天皇杯ベスト4の成績となった。
2005年
2005年、アラウージョ、藤ヶ谷陽介を獲得するも、序盤6試合はわずか1勝とスタートダッシュに失敗。宮本恒靖の負傷以後は調子が更に下降気味になり、首位の鹿島との勝ち点差が10以上に開いてしまう。しかし、リーグ戦後半にはアラウージョ、大黒将志、フェルナンジーニョを擁する攻撃力が機能するようになり(総得点は合計82)、夏場を5勝1分けで終え、2位に浮上。22節にはついに鹿島から首位の座を奪い、以後、守り続けた。
ナビスコ杯でも快進撃を見せ、クラブ初となる決勝進出を果たし、千葉と、初年度からの参加チームでは未だタイトルを獲得したことのないチーム同士の決勝となった。試合は両者ゴールを割れず120分を0-0で終了、PK戦で遠藤保仁が止められて敗戦。一時的にオリジナル10唯一の無冠となってしまった(ただし、広島はステージ優勝しか経験がないため異論もある)。
リーグ戦でも10月22日の28節大分戦に敗れると、以降1勝4敗と失速。下位に低迷していた柏や大宮にも黒星を喫し、11月26日にはナビスコ杯で敗れたばかりの千葉に再び1-2で敗れ、第33節終了時点でC大阪に抜かれ、2位に後退。しかし、12月3日最終節の川崎戦に4-2で勝利し、勝ち点1差の首位だったC大阪が試合終了間際に追いつかれFC東京と引き分けたため、再逆転でクラブ創設以来初タイトルとなるリーグ優勝を果たした(詳細は2005年J1最終節を参照)。これは関西のチームとして初のリーグ優勝であった。同時にAFCチャンピオンズリーグ2006の出場権を獲得した。
シーズン終了後、クラブのシーズン最多得点の33得点で得点王と、クラブ初となるリーグMVPに輝いたアラウージョが退団し、チームでアラウージョに次ぐ16得点を挙げた大黒将志もフランス2部リーグのグルノーブルへ移籍した。また、1993年のJリーグ開幕から所属した松波正信が現役を引退した。
2006年
2006年は、FWにマグノ・アウベスと、7年ぶりにG大阪復帰となる播戸竜二を獲得。これを始め、西野の柏時代からの教え子で元日本代表のMF明神智和、当時日本代表のレギュラーであったDF加地亮らを獲得するなど、リーグ連覇を目指し、大型補強を行なった。また、ユースからは安田理大、平井将生ら過去最多の6人が昇格した。
初出場したAFCチャンピオンズリーグではマグノ・アウベスが8得点で大会得点王を獲得するも、アウェイゲームで本領を発揮することができず、グループリーグで敗退。A3チャンピオンズカップ2006では中国の大連実徳と千葉には勝利したが、韓国の蔚山現代に0-6と大敗してしまい、2位で同大会を終えた。
リーグ戦はマグノ・アウベスがクラブ史上3人目の得点王となる26得点、播戸も16得点を挙げる活躍で、Jリーグ初の2年連続リーグ戦80得点を記録し、第33節の京都戦ではロスタイムにマグノ・アウベスのハットトリックとなる劇的ゴールにより3-2で勝利し、最終節前で首位の浦和に勝ち点3差の2位につけたが、最終節の浦和との直接対決ではマグノ・アウベスの先制点が挙げるも、逆転で2-3で敗れ、リーグ連覇はならなかった。更に勝ち点2差であった3位の川崎が勝利したため最終順位は3位となり、AFCチャンピオンズリーグ2007の出場権も逃した。リーグ戦終盤にチームの柱である遠藤保仁のウイルス性肝炎による離脱が響いたと言われている。
リーグ戦終了後、G大阪ユース第1期卒業生であり、長年チームを支えた宮本恒靖がオーストリアのレッドブル・ザルツブルクへ移籍、また、2005年のリーグ優勝に貢献したフェルナンジーニョも退団した。
遠藤が復帰した天皇杯では、Jリーグ加入後初(チームとしては前身の松下電器時代以来16年ぶり)の決勝進出を果たしたが、浦和に0-1で敗れ、タイトルを逃した。
2007年
2007年は、FWバレー、レンタルでDF中澤聡太を獲得。開幕前に行われたゼロックススーパーカップでは浦和と2年連続で対戦し、マグノ・アウベスのハットトリックを含む4-0で勝利。前年の雪辱を果たし、スーパーカップ初優勝を果たす。
11月3日、2年ぶりに決勝進出したナビスコカップでは川崎と対戦し、国内3大タイトルのうち2つ目のタイトルを手にし、決勝点を挙げた安田理大が、大会MVPとニューヒーロー賞のダブル受賞を達成した。
リーグ戦では、クラブ初となる開幕4連勝で波に乗り、中断期間まで12勝5分け1敗と好調のまま首位で中断期間に入るも、中断明けの浦和との直接対決を0-1で落として首位を明け渡してしまい、最終的に2年連続の3位に終わるが、浦和が前年度の天皇杯とAFCチャンピオンズリーグ2007を優勝したため、ACLの大会規定により天皇杯優勝枠でAFCチャンピオンズリーグ2008の出場が決まった。
シーズン後、外国籍選手のクラブ最多出場記録を持ち、ゲームキャプテンも務めたシジクレイが退団し、1995年からチームを支え続けた實好礼忠が現役を引退した。
2008年
佐々木勇人、ルーカス、山崎雅人らを獲得した2008年シーズンは300日余りの間に公式戦を過去最多の61試合をこなす過酷な日程となった。
2月、ハワイで開催されたパンパシフィックチャンピオンシップ2008では、初戦イングランド代表のデビッド・ベッカムが所属するロサンゼルス・ギャラクシーに1-0で勝利し、決勝のヒューストン・ダイナモ戦ではバレーの4得点を含む6-1で勝利し、1992年のクイーンズカップ以来となる16年ぶりに国際タイトルを獲得した。
5月17日、埼玉スタジアムで行われたJ1第13節の浦和戦で、一部のG大阪サポーターによる浦和側への観客席に対する物の投げ込みを発端とした両クラブのサポーターが衝突する騒動が発生し、クラブは騒動を起こしたBB sez TOKYOの団員2名を永久入場禁止とし、同団体は解散となった。更にJリーグからはこの騒動により社会全体にJリーグ観戦が危険であると感じさせたとして、両クラブに制裁処分を下し、G大阪は1000万円の制裁金を支払った。
7月30日、スルガ銀行チャンピオンシップが開催され、2007年のコパ・スダメリカーナを優勝したアルゼンチンのアルセナルFCと対戦し、0-1で敗れた。
2年ぶりに出場したAFCチャンピオンズリーグ2008では準決勝で前年覇者である浦和とのACL史上初のJリーグ勢対決を2戦合計4-2(第1戦 1-1、第2戦 3-1)で制すると、11月12日の決勝ではオーストラリアのアデレード・ユナイテッドに2戦合計5-0(第1戦 3-0、第2戦 2-0)で勝利し、クラブ史上初、Jリーグ勢では1999年(AFCチャンピオンズリーグの前身であるアジアクラブ選手権)の磐田、2007年の浦和に次ぐ3クラブ目となるアジア制覇を果たす。また、ACL史上3クラブ目の無敗での優勝、そして、史上初のアウェー全勝(6戦中4戦が逆転勝ち)での優勝であった。大会MVPは遠藤保仁が受賞した。この優勝によりFIFAクラブワールドカップ2008に出場することが決定した。また11月25日に、AFCよりアジア年間最優秀クラブ賞を受賞し、監督の西野朗がアジア年間最優秀監督賞を受賞した。
一方で、リーグ戦では苦戦を強いられる1年となった。シーズン序盤でやや躓くと、立て直してきた中盤には播戸竜二が肝機能障害、遠藤がウィルス感染症で離脱。更に、エースストライカーのバレーがUAEのアル・アハリに引き抜かれる形で移籍。これに対し、横浜FMからロニーを獲得するも、チームにフィットせず中盤で大失速。特にJ1第19節からナビスコカップなどを挟んで、J1第24節までの約2ヶ月間勝ち星から見放され、優勝争いから脱落する。最終順位はACL出場圏(リーグ3位以内)からも大きく離れ、8位に終わる。この年から前年まで与えられていたACLの優勝特権が廃止されたためAFCチャンピオンズリーグ2009へ出場するには天皇杯で優勝するのみとなった。
12月、日本で開催されたクラブワールドカップでは初戦の準々決勝でACLからこの年3度目の対戦となったアデレードに1-0で勝利し、準決勝ではヨーロッパ王者のマンチェスター・ユナイテッド相手に3得点を奪うも3-5で敗戦。3位決定戦では北中米カリブ海王者のパチューカに1-0で勝利し、前年の浦和に続き大会3位となった。
天皇杯はクラブワールドカップとの日程が並行したため、中2〜3日の間隔で試合が行なわれ、西野監督が「野戦病院状態」と称するほど選手達の疲労もピークに達していたが、2年ぶりに決勝へ進出。柏との決勝は延長後半に途中出場の播戸の先制点が決勝点となり1-0で勝利し、前身の松下電器時代の1990年度大会以来、18年ぶり2度目の優勝を果たす。また、国内3大タイトルを全て獲得した5つ目のクラブとなった。同時に2009年のACL出場権も獲得した。
2009年
2009年は、前年のリーグ戦の低迷からレアンドロ、チョ・ジェジンのJリーグ経験豊富なFW、更に、高木和道、パク・ドンヒョクの日韓代表経験を持つDFらを獲得する大型補強を行い、1月29日、クラブ史上初サポーター同席の下、ホームスタジアムの万博記念競技場で新体制発表会見を行なった。
5月2日、レアンドロがJ1第9節 大分戦で4月8日のACLグループリーグ第3節 スリウィジャヤ戦から続いていた、公式戦の連続試合得点をクラブ新記録となる7試合連続ゴールを達成した。最終的には5月10日のJ1第11節[10] 柏戦までの9試合まで記録を更新。また、同試合で4月12日J1第5節 大宮戦から続いていたJ1の連続試合得点をクラブタイ記録の6試合連続ゴールも達成した。
5月20日、ACLグループリーグ第6節 FCソウル戦で、この年クラブ初の高校2年生でトップチームに昇格した宇佐美貴史が、1997年に稲本潤一が記録したクラブ最年少記録を更新する、17歳14日での公式戦初出場・初得点を記録。しかし、試合には敗れ、2006年のACLから続いていたACLの連続無敗記録が19試合で途切れた。そして、ラウンド16で川崎に2-3で敗れアジア連覇を逃した。
リーグ戦は開幕から二川孝広と加地亮の不在や期待された新戦力がチームに馴染まなかった影響により、なかなか調子が上がらず、特に5月後半から7月の半ば頃まで、万博でのホームゲームで6連敗(ACL、ナビスコカップ含む)を喫するなどの絶不調に陥った。更に8月にはチーム得点王のレアンドロがカタールのアル・サッドに引き抜かれてしまい、穴を埋めるため、新潟からペドロ・ジュニオールを獲得するもチームへのフィットに時間がかかり結果は出せず、一時は鹿島との最大勝ち点差が19となった。
11月8日、J1第31節 京都戦のペドロ・ジュニオールの2得点目で鹿島、磐田に次ぐ3クラブ目となるリーグ戦クラブ通算1000ゴールを達成。11月24日、AFCより遠藤保仁が日本人選手5人目、Jリーグ所属選手では1997年の中田英寿(平塚)以来となるアジア年間最優秀選手賞を受賞した。
後半戦はなんとか立て直し、第32節まで優勝の可能性を残しつつも、第33節で首位の鹿島との直接対決で1-5と大敗して優勝を逃した。それでも、最終的に3位となり、AFCチャンピオンズリーグ2010の出場権は獲得した。
天皇杯では、準々決勝でゼロックススーパーカップとリーグ戦で3連敗していた鹿島と対戦し、山崎雅人の2得点の活躍により2-1で勝利を収め、この1年の雪辱を果たす。その後はルーカスの活躍(通算6試合8得点)もあって、準決勝でJ2王者の仙台を2-1、決勝ではリーグ戦で連敗していた名古屋を4-1で破り、歴代7チーム目の天皇杯連覇となった。そして、天皇杯決勝戦を最後に、1997年から所属した松代直樹が現役を引退した。
2010年
2010年は、ここ数年行った大型補強を行わず、新人とレンタル復帰以外では、FWのドドとゼ・カルロスの獲得のみにとどめ、現有戦力の維持を優先した。
シーズン開幕前から怪我人が相次いだ影響で、西野監督就任以降では最長となる開幕から6試合連続公式戦未勝利が続き、リーグ戦でも開幕から5試合連続未勝利となり、その後も相次ぐ主力選手の離脱、外国籍選手の不調、更には試合終了間際の失点などが重なり、なかなか波に乗れず、1試合未消化であるものの首位争いから大きく離され、11位で中断期間に入る。また、監督の采配を批判したペドロ・ジュニオールをブラジルのクラブに放出し、この年、唯一の即戦力候補として獲得したゼ・カルロスも結果を残せず途中退団した。
AFCチャンピオンズリーグ2010は、グループリーグ第3節シンガポール・アームド・フォーシズ戦で平井将生が日本人選手では7人目、ユース出身選手では大黒将志以来となるハットトリックを達成する活躍などで、3年連続グループリーグを突破するもラウンド16で優勝した城南一和に0-3で敗れ、2年連続ベスト16に終わる。
リーグ後半戦、FW陣の抜けた穴を埋めるため、磐田から韓国代表のイ・グノを獲得し、怪我人が徐々に戻ってきたことで調子を上げていくと優勝争いに加わっていく。しかし、優勝した名古屋との直接対決では2試合とも敗れ、例年よりもホームでの勝ち点が伸びなかったことなどが影響し勝ち点10差をつけられ、名古屋の独走優勝を許してしまった。それでも、序盤戦の不振を挽回し、優勝した2005年を除けば最高の2位となり、4年連続となるAFCチャンピオンズリーグ2011の出場権を獲得した。また、ほとんどの外国人FWが不振に終わったものの、総得点数は3年ぶりにリーグトップとなり、前年までほとんど出場機会がなく、この年レギュラーに抜擢された平井がチームトップの14得点(リーグ全体では磐田の前田遼一に次ぐ日本人得点ランキング2位)、高校3年生ながら主力に定着した宇佐美貴史も高校生Jリーガーのシーズン最多記録となる7得点を挙げる活躍でクラブ史上初、G大阪下部組織出身者としても初となるJリーグベストヤングプレーヤー賞(新人王)を受賞し、3年目の武井択也も途中離脱した明神智和の代役としてチームに貢献するなど多くの若手選手が飛躍するシーズンとなった。
天皇杯では準決勝で清水に0-3で敗れ、史上初の天皇杯3連覇を逃した。同時に2008年大会から続いていた天皇杯の連勝記録も15で止まり、2006年以来4年ぶりにシーズン無冠に終わった。
シーズン終了後、安田理大がオランダ1部・フィテッセに、C大阪へレンタル移籍していた家長昭博がスペイン1部・マジョルカに、広島へレンタル移籍していた山崎雅人が同クラブに、安田晃大が北九州にそれぞれ完全移籍した。また、G大阪の多くのタイトル獲得に貢献したルーカスも退団した。
2011年
クラブ設立20周年となる2011年は、Kリーグ・全北現代モータースから元U-23韓国代表のキム・スンヨン、ブラジル1部・SCインテルナシオナルから昨シーズンC大阪でリーグ戦14得点を挙げたアドリアーノ、大学生の金正也、藤春廣輝、川西翔太を獲得、ユースチームからは大森晃太郎が昇格し、開幕直後にレンタルでコリンチャンス-ALからアフォンソを獲得した。
アンブロ(販売元:デサント)と新たに2020年シーズンまでのユニフォームサプライヤー契約を締結した。また、1995年以来毎年行われてきた金沢でのホームゲームから2010シーズンをもって撤退したことを発表した。
3月11日に発生した東日本大震災の影響で、J1第2節から第6節が開催延期となった。これを受け、クラブ公式サイトで被災地への義援金を募るチャリティーオークションが開催され、3月27日には神戸との「東北地方太平洋沖地震チャリティーマッチ 〜LET'S SUPPORT OUR FRIENDS 今こそ仲間のために行動しよう!〜」が万博記念競技場で開催された。10月2日、創立20周年記念試合となったJ1第28節浦和戦で、6クラブ目となるJ1通算300勝を達成。
AFCチャンピオンズリーグ2011ではアウェー3試合を未勝利ながら、Jリーグ勢では唯一グループリーグを1位で突破する。しかし、ACL初の大阪ダービーとなったラウンド16でC大阪に0-1で敗れ、3年連続ベスト16で敗退。代表組の遠藤保仁、イ・グノらを欠いて臨んだナビスコカップは浦和に1-2で敗れ準決勝で敗退。天皇杯は水戸に2-3で敗れ13年ぶりに3回戦で敗退し、連続準々決勝進出記録が7大会で途切れた。
リーグ序盤戦、新加入のアドリアーノがクラブタイ記録の6試合連続得点を記録するなど得点ランキングトップを独走する活躍を見せ、攻撃面ではリーグトップの得点数を維持し続けるも、守備面では例年以上に安定感を欠き、開幕からの連続失点試合がリーグワーストの18試合に上り、総失点数が一時期リーグ最下位に陥り、更にはJ1第9節(ACL出場による順延開催)名古屋戦でリーグ通算失点数がJ1最速で1000点に到達する不名誉な記録を作ってしまうなど、今ひとつ波に乗りきれなかった。6月、得点源のアドリアーノがカタールのアル・ジェイシに移籍するも、攻撃力は衰えることなく逆にチームの連動性が高まったことで調子は徐々に上がり、優勝争いに加わる。7月には宇佐美貴史がドイツ・ブンデスリーガの名門バイエルン・ミュンヘンに移籍するも、急遽草津から獲得したFWラフィーニャがすぐさまチームにフィットし、ラフィーニャ加入以降の夏場を無敗で乗り切り、J1第22節川崎戦で2009年3月以来となる首位に立つ。しかし、J1第29節名古屋との上位対決を1-4の大敗で落とし、柏に首位を明け渡す。その後、3位に後退し、最終節まで優勝の可能性を残すも、あと一歩及ばず2年連続無冠に終わった。
シーズン終了後、2002年からJリーグ最長の10年間監督を務め、多くのタイトルをもたらした西野朗が退任。10年以上在籍した山口智や橋本英郎、この年レギュラーとして活躍した下平匠やイ・グノらが退団した。
2012年
2012年、新監督にジョゼ・カルロス・セホーンが就任。コーチ陣も元日本代表の呂比須ワグナーを含む3人の新コーチが加入。FC東京から今野泰幸、甲府からパウリーニョ、徳島から佐藤晃大、FCソウルからイ・スンヨルを完全移籍で、清水から武田洋平、CAタボン・ダ・セーハからエドゥワルドをレンタル移籍で獲得し、丹羽大輝が6年ぶり、寺田紳一と倉田秋が3年ぶりにレンタル移籍先から復帰。新人では大卒で阿部浩之、テスト生から沼田圭悟を獲得し、ユースからは田尻健、西野貴治、稲森克尚が昇格した。
しかし、シーズン初の公式戦となったAFCチャンピオンズリーグ2012グループリーグ初戦で惨敗すると、リーグ戦の第3節まで公式戦で5連敗を喫し、特にリーグ戦においては、クラブ史上初の開幕3連敗となり第2節の大阪ダービーでは9年ぶりに敗れた。これを受けリーグ戦第3節終了後の3月26日にセホーン監督、呂比須ヘッドコーチ、ウェリントンフィジカルコーチの3人と山本浩靖強化本部長を解任。後任監督にはコーチだった松波正信がクラブOB初・クラブ最年少で監督に就任した。
選手
優秀な下部組織を有していることから、新人で高校・大学出身選手を獲得することはあまりなく、新人選手の多くはユースから昇格させているため、他クラブと比べると所属選手のユース出身率が高く、現在所属している選手の約半数がユース出身選手である。また、他クラブから選手を獲得する際は、レンタル移籍での獲得はほとんどなく、大半を完全移籍で獲得している。逆にG大阪から他クラブへはレンタルでの移籍が多く、毎年何人かの若手選手がJ2のクラブなどにレンタルで移籍している。外国籍選手に関しては、Jリーグ開幕当初は東ヨーロッパ諸国の選手を多く獲得していたが、近年獲得している外国籍選手はJリーグでのプレイ経験があるブラジル人選手やアジア人枠の関係で韓国人選手が多い傾向にある。
国際大会出場選手
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成績
リーグ戦は3位が最も多く、最終節まで優勝の可能性を残したのは2005年と2011年。年間最下位に終わったのは1995年の1度。ナビスコカップと天皇杯は決勝での勝率はそれほど悪くないが、どちらも準決勝での敗退が多い。
国内3大大会成績 | ||||||||||
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Jリーグ ディビジョン1 | ナビスコカップ | 天皇杯全日本サッカー選手権大会 | ||||||||
順位 | 回数 | 年度 | 成績 | 回数 | 年度 | 成績 | 回数 | 年度 | ||
優勝 | 1 | 2005 | 優勝 | 1 | 2007 | 優勝 | 2 | 2008, 2009 | ||
2位 | 1 | 2010 | 準優勝 | 1 | 2005 | 準優勝 | 1 | 2006 | ||
3位 | 6 | 2002, 2004, 2006, 2007, 2009, 2011 | ベスト4 | 5 | 1993, 1994, 2002, 2008, 2011 | ベスト4 | 8 | 1994, 1995, 1996, 1997, 2000, 2004, 2007, 2010 | ||
4位 | 1 | 1997 | ベスト8 | 5 | 2003, 2004, 2006, 2009, 2010 | ベスト8 | 3 | 1992, 2001, 2005, | ||
6位 | 1 | 2000 | 2回戦敗退 | 3 | 1999, 2000, 2001 | ベスト16 | 3 | 1999, 2002, 2003 | ||
7位 | 2 | 1993, 2001 | 予選敗退 | 4 | 1992, 1996, 1997, 1998 | 3回戦敗退 | 2 | 1998, 2011 | ||
8位 | 1 | 2008 | 2回戦敗退 | 1 | 1993 | |||||
10位 | 2 | 1994, 2003 | ||||||||
11位 | 1 | 1999 | ||||||||
12位 | 1 | 1996 | ||||||||
14位 | 1 | 1995 | ||||||||
15位 | 1 | 1998 |
年度別チーム得点王
年度 | チーム得点王 | 得点 | 備考 |
---|---|---|---|
1993 | 永島昭浩 | 12得点 | |
1994 | 山口敏弘 | 16得点 | |
1995 | ヒルハウス | 20得点 | |
1996 | ムラデノビッチ | 11得点 | |
1997 | エムボマ | 25得点 | リーグ得点王 |
1998 | 小島宏美 | 17得点 | |
1999 | 小島宏美 ルイジーニョ |
6得点 | |
2000 | 小島宏美 | 9得点 | |
2001 | ニーノ・ブーレ | 17得点 | |
2002 | マグロン | 22得点 | |
2003 | マグロン | 15得点 | |
2004 | 大黒将志 | 20得点 | |
2005 | アラウージョ | 33得点 | リーグ得点王 |
2006 | マグノ・アウベス | 26得点 | リーグ得点王 |
2007 | バレー | 20得点 | |
2008 | バレー | 10得点 | |
2009 | レアンドロ | 11得点 | |
2010 | 平井将生 | 14得点 | |
2011 | イ・グノ | 15得点 |
ダービーマッチ
大阪ダービー
- ガンバ大阪 vs セレッソ大阪 (1995年 - 2001年, 2003年 - 2006年, 2010年 - )
その他のダービー
- 京阪ダービー
- ガンバ大阪 vs 京都サンガF.C. (1996年 - 2000年, 2002年 - 2003年, 2006年, 2008年 - 2010年 )
- 阪神ダービー
- ガンバ大阪 vs ヴィッセル神戸 (1997年 - 2005年, 2007年 - )
タイトル
国内タイトル
- スーパーカップ:1回
- 2007年
国際タイトル
- クイーンズカップ:1回
- 1992年
表彰
- アジアサッカー連盟(AFC)
- AFC年間最優秀選手賞
- 2009年 - 遠藤保仁
- AFC年間最優秀監督賞
- 2008年 - 西野朗
- AFC年間最優秀クラブ賞
- 2008年
- AFCチャンピオンズリーグMVP
- 2008年 - 遠藤保仁
- チェアマン特別賞(Join賞)
- 2008年 ※下部組織による選手育成の功績を讃えて
- 特別賞
- 2008年 ※AFCチャンピオンズリーグ優勝を讃えて
- その他受賞
- 日本プロスポーツ大賞
- 2005年 殊勲賞
- 2008年 特別賞
- 報知プロスポーツ大賞
- 1997年 - エムボマ
- 2008年 - 遠藤保仁
- テレビ朝日 ビッグスポーツ大賞「日本サッカー応援宣言!やべっちF.C.賞(サッカープロジェクト賞)」
- 大阪イメージアップ賞(知事賞詞)
- 2009年
クラブ記録
最多得点試合
- J1リーグ戦
- 7-1 【2004年10月2日 2nd第8節 vsセレッソ大阪(万博)】
- 7-1 【2005年7月2日 第13節 vs東京ヴェルディ1969(万博)】
- Jリーグカップ(ナビスコカップ)
- 5-0 【1993年10月16日 グループリーグ第7節 vsサンフレッチェ広島(西京極)】
- 5-2 【1998年5月23日 グループリーグ第2節 vsコンサドーレ札幌(万博)】
- 5-3 【2005年5月21日 グループリーグ第3節 vs東京ヴェルディ1969(万博)】
- 5-2 【2007年7月14日 準々決勝第2戦 vs浦和レッドダイヤモンズ(万博)】
- 天皇杯
- 6-1 【2009年10月31日 3回戦 vs福岡大学(万博)】
- 6-2 【2010年9月5日 2回戦 vs大阪体育大学(万博)】
- AFCチャンピオンズリーグ(ACL)
- 15-0 【2006年3月22日 グループリーグ第2節 対ダ・ナン(万博)】(ACLの最多得点タイ記録)
最多失点試合
- J1リーグ戦
- 1-7 【1996年5月4日 第12節 vs柏レイソル(万博)】
- Jリーグカップ(ナビスコカップ)
- 1-7 【1994年8月3日 準決勝 vsヴェルディ川崎(瑞穂)】
連勝記録
- J1リーグ戦
- 9連勝 【1997年8月9日 2nd第4節 vs清水エスパルス(日本平) - 1997年9月13日 第12節 vs横浜フリューゲルス(万博)】
- 天皇杯
- 15連勝 【2008年11月16日 4回戦 vsヴァンフォーレ甲府(万博) - 2010年12月25日 準々決勝 vs浦和レッドダイヤモンズ(万博)】
- AFCチャンピオンズリーグ(ACL)
- 8連勝 【2008年10月8日 決勝T準決勝第2戦 vs 浦和レッドダイヤモンズ(埼玉) - 2009年5月6日 グループリーグ第5節 vs山東魯能泰山(山東)】
連続無敗記録
- J1リーグ戦
- 13試合 【2007年4月22日 第7節 vsジュビロ磐田(万博) - 2007年8月11日 第19節 vsアルビレックス新潟(万博)】
- ホーム
- 25試合(20勝5分) 【2006年3月29日 第4節 vs大宮アルディージャ - 2007年8月11日 第19節 vsアルビレックス新潟】(J1史上最多タイ記録)
- AFCチャンピオンズリーグ(ACL)
- 19試合 【2006年5月3日 グループリーグ第5節 vs全北現代モータース(万博) - 2009年5月6日 グループリーグ第5節 vs山東魯能泰山(山東)】
連敗記録
- J1リーグ戦
- 8連敗 【1995年5月10日 サントリー第15節 vs浦和レッドダイヤモンズ(大宮) - 1995年7月8日 第22節 vsヴェルディ川崎(万博)】
リーグ戦通算勝利記録
- 初勝利 【1993年5月16日 サントリー第1節 vs浦和レッドダイヤモンズ(万博)】
- 通算100勝 【1999年8月16日 2nd第4節 vs柏レイソル(万博)】
- 通算150勝 【2002年11月16日 2nd第13節 vs浦和レッドダイヤモンズ(駒場)】
- 通算200勝 【2006年4月15日 第8節 vs横浜F・マリノス(日産)】
- 通算250勝 【2009年4月17日 第6節 vsモンテディオ山形(万博)】
- 通算300勝 【2011年10月2日 第28節 vs浦和レッドダイヤモンズ(万博)】
個人記録
最年少出場
- 公式戦
- 17歳14日 - 宇佐美貴史【2009年5月20日 ACLグループリーグ第6節 vsFCソウル(万博)】
- J1リーグ戦
最年少得点
- 公式戦
- 17歳14日 - 宇佐美貴史【2009年5月20日 ACLグループリーグ第6節 vsFCソウル(万博)】
- J1リーグ戦
- 17歳179日 - 稲本潤一 【1997年4月20日 第3節 vs清水エスパルス(万博)】
通算最多出場
- 日本人選手
- 344試合 - 二川孝広 (1999年 - 2011年) ※継続中【初出場:1999年8月28日 2nd第5節 vs横浜F・マリノス】
- 外国籍選手
- 122試合 - シジクレイ (2004年 - 2007年) 【初出場:2004年3月13日 1st第1節 vs鹿島アントラーズ】
通算最多得点
- 日本人選手
- 72得点 - 遠藤保仁 (2001年 - 2011年) ※継続中
- 外国籍選手
- 42得点 - マグロン (2002年 - 2004年)
シーズン最多得点
- 日本人選手
- 20得点 - 大黒将志 (2004年)
- 外国籍選手
- 33得点 - アラウージョ (2005年)
リーグ戦通算出場記録
- 100試合出場
※2011年J1リーグ終了時点(J2や他クラブでの出場を含む)
連続試合得点
- 公式戦
- 9試合
- レアンドロ【2009年4月8日 ACLグループリーグ第3節 vsスリウィジャヤ - 2009年5月10日 J1リーグ第11節 vs柏レイソル】
- J1リーグ戦
- 6試合
- エムボマ【1997年8月23日 2nd第7節 vsセレッソ大阪 - 1997年9月13日 2nd第12節 vs横浜フリューゲルス】
- アラウージョ【2005年9月3日 第22節 vs東京ヴェルディ1969 - 2005年10月15日 第27節 vsヴィッセル神戸】
- 播戸竜二【2006年8月27日 第20節 vs名古屋グランパスエイト - 2006年10月1日 第25節 vsヴァンフォーレ甲府】
- レアンドロ【2009年4月12日 第5節 vs大宮アルディージャ - 2009年5月10日 第11節[10] vs柏レイソル】
- 橋本英郎【2010年7月28日 第15節 vsヴィッセル神戸 - 2010年8月22日 第20節 vs名古屋グランパスエイト】
- アドリアーノ【2011年4月29日 第8節 vsモンテディオ山形 - 2011年6月15日 第15節[11] vsベガルタ仙台】
ハットトリック
- J1リーグ戦
- 4得点
- マグロン【2002年7月14日 1st第8節 vs清水エスパルス】
- 3得点
- 永島昭浩【1993年6月5日 サントリー第7節 vs名古屋グランパス】(日本人選手初のハットトリック)
- 松波正信【1993年11月20日 NICOS第14節 vsジェフユナイテッド市原】(18歳364日のJリーグ最年少記録)
- 山口敏弘【1994年4月6日 サントリー第7節 vsベルマーレ平塚】
- プロタソフ【1995年6月28日 サントリー第20節 vs清水エスパルス】
- エムボマ【1998年4月18日 1st第7節 vs柏レイソル】
- ドロブニャク【1998年8月8日 1st第17節 vs横浜フリューゲルス】
- 小島宏美【2000年4月22日 1st第8節 vsアビスパ福岡】
- 大黒将志【2004年10月2日 2nd第8節 vsセレッソ大阪】【2004年11月6日 2nd第12節 vsアルビレックス新潟】【2005年4月23日 第7節 vsFC東京】
- アラウージョ【2005年7月2日 第13節 vs東京ヴェルディ1969】【2005年9月10日 第23節 vsサンフレッチェ広島】
- フェルナンジーニョ【2006年3月12日 第2節 vsセレッソ大阪】
- マグノ・アウベス【2006年3月12日 第2節 vsセレッソ大阪】【2006年11月26日 第33節 vs京都パープルサンガ】
- バレー【2007年9月1日 第24節 vs名古屋グランパスエイト】
- ラフィーニャ【2011年8月20日 第22節 vs川崎フロンターレ】
- 天皇杯
- 5得点
- 大黒将志【2004年12月12日 5回戦 vs横浜FC】
- 3得点
- FUJI XEROX SUPER CUP(スーパーカップ)
- 3得点
- マグノ・アウベス【2007年2月24日 vs浦和レッドダイヤモンズ】(スーパーカップ初ハットトリック)
- AFCチャンピオンズリーグ(ACL)
- 4得点
- マグノ・アウベス【2006年3月22日 グループリーグ第2節 vsダ・ナン(万博)】
- 3得点
- パンパシフィックチャンピオンシップ
- 4得点
- バレー【2008年2月23日 決勝 vsヒューストン・ダイナモ(ハワイ)】(大会初ハットトリック)
記念ゴール
- 通算100ゴール - 松波正信【1993年6月9日 サントリー第11節 vsサンフレッチェ広島(万博)】
- 通算10,000ゴール - 前田雅文【2005年5月8日 第11節 vs名古屋グランパス(万博)】
- 通算15,500ゴール - ラフィーニャ【2011年9月18日 第26節 vs横浜F・マリノス(日産)】
- クラブ記録
- 第1ゴール - 和田昌裕【1993年5月16日 サントリー第1節 vs浦和レッドダイヤモンズ(万博)】
- 通算100ゴール - 山村博土【1994年9月21日 NICOS第12節 vsサンフレッチェ広島(福島)】
- 通算200ゴール - ヒルハウス【1995年11月22日 NICOS第25節 vsセレッソ大阪(万博)】
- 通算300ゴール - 稲本潤一【1997年9月20日 2nd第13節 vs柏レイソル(万博)】
- 通算400ゴール - 小島宏美【2000年4月22日 1st第8節 vsアビスパ福岡(万博)】
- 通算500ゴール - 吉原宏太【2002年4月13日 1st第6節 vsFC東京(万博)】
- 通算600ゴール - 山口智【2004年4月3日 1st第6節 vs清水エスパルス(万博)】
- 通算700ゴール - アラウージョ【2005年7月6日 第14節 vsサンフレッチェ広島(広島ビ)】
- 通算800ゴール - 播戸竜二【2006年8月30日 第21節 vsアルビレックス新潟(万博)】
- 通算900ゴール - 播戸竜二【2008年3月30日 第3節 vs東京ヴェルディ1969(万博)】
- 通算1,000ゴール - ペドロ・ジュニオール【2009年11月8日 第31節 vs京都サンガF.C.(万博)】
- 通算1,100ゴール - イ・グノ【2011年7月10日 第3節 vs大宮アルディージャ(NACK)】
その他記録
- 1試合2選手のハットトリック
スタジアム
吹田市の万博記念競技場がホームスタジアムであり、同競技場の南にはクラブハウスと練習グラウンド、クラブショップが併設されている。1997年までは京都府京田辺市の松下電工(現:パナソニック電工)敷地内にあった練習グラウンドを使用していた。
G大阪が関西唯一のJリーグクラブであった頃は、神戸ユニバー記念競技場や西京極競技場でもホームゲームを行ったことがある。また、1995年~2010年までほぼ毎年金沢市の石川県西部緑地公園陸上競技場でホームゲームを行っていた。現在はすべて万博記念競技場でホームゲームを開催している[12]。
美味G横丁
美味G横丁(おいじいよこちょう)は、万博記念競技場の最寄り駅「公園東口駅」からスタジアムに向かう通り道で開催されているG大阪のフードコート。2007年までの万博の食事情は芳しいものではなく、2008年6, 7月に試験的に導入されたフードフェスタが好評をえたことで、2008年8月より美味G横丁と名称を変更し、ホーム主催試合で開催されている。2009年からはメインスタンド裏にも出店している。
新スタジアム構想
現在のスタジアムはFIFAの定める国際規格を満たしておらず、AFCチャンピオンズリーグなどの国際試合を開催できなくなる可能性がある。実際、2008年に開催されたスルガ銀行チャンピオンシップは、「万博は国際大会に不適格」という理由で同じ大阪を本拠地とするC大阪のホームスタジアムである長居スタジアムで行われた。同じく2008年に出場したAFCチャンピオンズリーグ2008では関係者の交渉によって全試合を万博記念競技場で開催したが、決勝第2戦がホームだった場合は開催できない可能性があった。
万博記念競技場は下に貯水槽があることから改築は困難とされ、クラブは新スタジアムの建設・移転を模索している。新スタジアムの移転先としては、2005年に高槻市の京都大学農場跡地、2007年に茨木市のJR茨木駅前のサッポロビール工場跡地、2008年7月にエキスポランド内の敷地に建設案が浮上。決定までには至っていないが、2008年10月1日の大阪府議会でG大阪と吹田市が万博記念公園の敷地内にある、エキスポランドの土地に新スタジアム建設を検討していることが明らかになった。しかし同地にはパラマウント・ピクチャーズによるテーマパークの建設計画もあり、流動的であった。
2009年7月11日、万博記念競技場でのJリーグ第17節の試合前、新スタジアム建設の構想がサポーターに明かされた[13]。発表によれば、収容人数は32,000人、屋根付きのサッカー専用スタジアムという計画で、屋根にはソーラーパネルの設置による電力供給も予定しているという[14]。また、発表と同時に新スタジアム建設費の一部を民間資金で調達する計画も明かされ、サポーターに寄付金の協力を呼びかけた[14]。しかし、建設予定地は未定のままとなっていた[14]。
2010年1月8日、日本サッカー協会が目指している2018/2022年FIFAワールドカップ日本招致構想の開催地自治体に吹田市が立候補し、開催スタジアムをG大阪が同市内に建設予定の新スタジアムを使用することを発表した[15]。しかし、吹田市は、完成したスタジアムの寄贈を受ける一方、G大阪が市に肩代わりを求めていた用地賃借料・年約2億円、完成後の大規模修繕費・約20億円、ワールドカップ招致に向けたスタジアムの増改築費約20~30億円についての費用は負担しないことを決めた。これにより、G大阪は3月議会に予定していたスタジアムの寄付収受の議案の提出を当面見送り、新たな資金確保策について検討していたが[16]、3月5日にG大阪が新スタジアム計画を保留したことにより、吹田市は2018/2022年のワールドカップ開催都市への立候補を辞退した[17]。
同年3月11日、新スタジアムの建設を目的とし、G大阪とは独立した「スタジアム建設募金団体」が発足。募金活動は建設候補地が正式に決定し、採納予定地方公共団体の議会による承認を受けた上で、大阪国税局から認定された後に開始するという[18]。
2011年1月22日に開催された第6回サポーターミーティングで、建設予定地は未定だが、2013年にクラブの判定基準が換わり、そこでFIFAが定める基準を満たさないと、ACLなどの国際試合が開催出来なくなるため、2014年のリーグ開幕から利用することを目標としていると発表した[19]。
その後、高槻市が京大農場跡地への建設に難色を示したことで高槻案を断念。それでも、同年5月に就任した井上哲也吹田市長が受け入れ姿勢を示したことで、2010年3月以降、協議が中断していた吹田市と協議を再開。同年10月24日、万博記念公園内に建設する方針を固め、吹田市にスタジアム建設決定の報告書を提出[20]。同年11月7日にはG大阪吹田後援会が新スタジアム建設推進に向け署名活動を開始[21]。同年12月26日、吹田市議会で、新スタジアムの建設と吹田市が寄贈を受けるための議案が承認された[22]。また、32,000人収容のスタジアム建設に必要な110億円は、この時点でほぼメドが立ち、今後の寄付金の上積みが見込めれば、40,000人を目標に規模を拡大することも明かされた[22]。
2012年3月、新スタジアムが吹田市の環境影響評価(アセスメント)の対象となり、それに約1年半を要することが判明したことで、完成予定が当初の2013度末から1年以上延期することになった[23]。同年4月2日、スタジアム建設のための募金活動を開始[24]。
観客動員記録
最多観客動員試合
- J1リーグ戦
- 万博記念競技場
- 22,884人【2005年9月24日 第25節 vs鹿島アントラーズ】 (改修前)
- 20,991人【2011年11月3日 第31節 vs鹿島アントラーズ】 (改修後)
- 石川県西部緑地公園陸上競技場
- 19,129人【2005年8月24日 第20節 vsジュビロ磐田】
- 神戸ユニバー記念競技場
- 41,054人【1993年11月6日 NICOS第10節 vsヴェルディ川崎】
- 参考記録
- 国立競技場
- 46,880人【2007年1月1日 天皇杯決勝 vs浦和レッドダイヤモンズ】
- 横浜国際総合競技場
- 67,618人【2008年12月18日 FCWC準決勝 vsマンチェスター・ユナイテッド】
最少観客動員試合
- J1リーグ戦
- 万博記念競技場
- 2,720人【1999年4月28日 1st第9節 vs京都パープルサンガ】
- 石川県西部緑地公園陸上競技場
- 7,739人【2001年11月3日 2nd第13節 vsサンフレッチェ広島】
- 神戸ユニバー記念競技場
- 7,774人【1995年9月27日 NICOS第12節 vsジュビロ磐田】
年度別観客動員記録
年度 | 合計 動員数 |
最多動員数 | 最少動員数 | 平均 動員数 |
試合数 | ホーム試合会場 | 備考 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
動員数 | 相手 | 会場 | 動員数 | 相手 | 会場 | |||||||||
1993 | 388,286 | 41,054 | V川崎 | 神戸ユ | 13,069 | 名古屋 | 西京極 | 21,571 | 18 | 万博15、神戸ユ2、西京極1 | ||||
1994 | 492,084 | 37,292 | 浦和 | 12,568 | 磐田 | 22,367 | 22 | 万博17、神戸ユ4、西京極1 | ||||||
1995 | 346,054 | 19,486 | V川崎 | 万博 | 7,320 | 清水 | 万博 | 13,310 | 26 | 万博21、神戸ユ3、西京極1、佐賀1 | ||||
1996 | 120,058 | 13,517 | 名古屋 | 金沢 | 5,025 | 磐田 | 8,004 | 15 | 万博14、金沢1 | スタンドの増築 | ||||
1997 | 135,088 | 16,071 | 浦和 | 万博 | 4,716 | 京都 | 8,443 | 16 | 万博15、金沢1 | |||||
1998 | 148,290 | 18,890 | 磐田 | 3,282 | 柏 | 8,723 | 17 | 万博16、金沢1 | ||||||
1999 | 119,934 | 17,807 | 名古屋 | 2,720 | 京都 | 7,996 | 15 | 万博15 | ||||||
2000 | 146,917 | 21,543 | 鹿島 | 4,182 | 福岡 | 9,794 | 15 | 万博15 | ||||||
2001 | 175,849 | 21,598 | 鹿島 | 6,175 | FC東京 | 11,723 | 15 | 万博14、金沢1 | ||||||
2002 | 191,429 | 22,712 | 磐田 | 6,130 | 広島 | 12,762 | 15 | 万博14、金沢1 | ||||||
2003 | 153,324 | 16,146 | 鹿島 | 4,828 | 千葉 | 10,222 | 15 | 万博14、金沢1 | ||||||
2004 | 187,752 | 18,011 | 磐田 | 4,429 | 千葉 | 12,517 | 15 | 万博14、岡山1 | ||||||
2005 | 271,416 | 22,884 | 鹿島 | 6,646 | 新潟 | 15,966 | 17 | 万博16、金沢1 | 初のリーグ優勝 | |||||
2006 | 276,395 | 20,916 | 浦和 | 8,388 | 大分 | 16,259 | 17 | 万博16、金沢1 | ゴール裏の改装 | |||||
2007 | 296,465 | 20,982 | 浦和 | 12,163 | 大分 | 17,439 | 17 | 万博16、金沢1 | ||||||
2008 | 274,169 | 20,773 | 横浜FM | 10,039 | 柏 | 16,124 | 17 | 万博16、金沢1 | ||||||
2009 | 301,105 | 20,394 | 京都 | 10,159 | 山形 | 17,712 | 17 | 万博16、金沢1 | ||||||
2010 | 283,111 | 20,973 | C大阪 | 9,093 | 京都 | 16,654 | 17 | 万博16、金沢1 | ||||||
2011 | 278,981 | 20,991 | 鹿島 | 11,364 | 磐田 | 16,411 | 17 | 万博17 | ||||||
計 | 4,586,707 | 14,200 | 323 | 万博297/金沢12/その他14 |
- 動員数の太字は歴代最多記録
アカデミー
G大阪のアカデミーは、初代監督 釜本邦茂が主催していたジュニアユースおよびジュニア年代のクラブチーム「釜本FC」が移行する形でJリーグ開幕前年の1992年に発足したものであり[25]、「豊かな人間形成」「世界に通じるクリエイティブな選手の育成」「フェアプレー精神の遵守」の3つをコンセプトとする指導方針のもと、ユース(約30名)、ジュニアユース(3チーム、約300名)、ジュニア(4チーム、約1500名)の3カテゴリーで構成された一貫指導体制を敷いている[26]。
2008年までG大阪の育成・普及部長を務めた初代ユース監督上野山信行の指導のもと、Jリーグ開幕当初から様々な大会で実績を残すだけなく、多くの選手をトップチームに昇格させ続けており、日本代表の主将を務めたユース1期生の宮本恒靖、1997年に飛び級でユースから昇格し、当時のJリーグ最年少出場記録を塗り替えた稲本潤一、他にも新井場徹、大黒将志、橋本英郎、二川孝広といった多くの選手がクラブの主力に定着している。また、Jリーグ全体におけるクラブユース出身選手の内、G大阪のアカデミー出身選手の数はトップクラスであるなど他クラブで活躍している選手も多い。更には多くの日本代表に選ばれた選手や、宮本恒靖、稲本潤一、大黒将志、家長昭博、安田理大、宇佐美貴史といった海外移籍した選手も輩出するなどJリーグのクラブの中で実力と育成を兼ね備えたアカデミーとして知られている。
ガンバ大阪ユース
Jリーグ開幕当初から全国のクラブユースチームを代表するチームで、当時のJリーグユースの実力は、高校サッカー部よりも圧倒的に劣るものだったが、1998年の高円宮杯全日本ユースサッカー選手権 では、大黒将志、二川孝広らを擁して、全国レベルの強豪校と互角に渡り合い準優勝の成績を収めたことは大いに注目を集めた。これまで数多くの大会で優勝しており、Jユースカップの優勝回数(4回)は最多である。また、2003年より開催されているプリンスリーグ関西では初年度から3年連続で1位となり、2009年に2部に降格するも翌2010年には再び1部に昇格している。
年度 | 所属 | リーグ戦 | カップ戦 | 監督 | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 勝点 | 勝 | 分 | 敗 | 順位 | クラブユース 選手権 |
高円宮杯 | Jユースカップ | ||||
1992 | 準優勝 | 上野山信行 | ||||||||||
1993 | ベスト8 | 3位 | ||||||||||
1994 | ベスト16 | 優勝 | ||||||||||
1995 | 準優勝 | ベスト8 | ベスト4 | |||||||||
1996 | GL敗退 | ベスト8 | 準優勝 | |||||||||
1997 | ベスト4 | ベスト16 | ベスト4 | 西村昭宏 | ||||||||
1998 | 優勝 | 準優勝 | ベスト4 | |||||||||
1999 | GL敗退 | ベスト16 | 竹本一彦 | |||||||||
2000 | ベスト8 | 優勝 | 高橋真一郎 | |||||||||
2001 | ベスト8 | ベスト8 | ||||||||||
2002 | GL敗退 | 優勝 | ||||||||||
2003 | プリンスリーグ関西 | 7 | 19 | 6 | 1 | 0 | 優勝 | ベスト8 | GL敗退 | ベスト16 | 島田貴裕 | |
2004 | 7 | 19 | 6 | 1 | 0 | 優勝 | GL敗退 | ベスト8 | GL敗退 | |||
2005 | 7 | 18 | 6 | 0 | 1 | 優勝 | ベスト4 | ベスト16 | ベスト4 | |||
2006 | 6 | 13 | 4 | 1 | 1 | 2位 | 優勝 | ベスト4 | ベスト16 | |||
2007 | 6 | 14 | 4 | 2 | 0 | 優勝 | 優勝 | ベスト8 | ベスト4 | |||
2008 | プリンスリーグ関西1部 | 7 | 16 | 5 | 1 | 1 | 2位 | ベスト4 | ベスト16 | 優勝 | 松波正信 | |
2009 | 7 | 7 | 2 | 1 | 4 | 7位 | GL敗退 | ベスト4 | 島田貴裕 | |||
2010 | プリンスリーグ関西2部 | 7 | 21 | 7 | 0 | 0 | 優勝 | ベスト8 | GL敗退 | |||
年度 | 所属 | リーグ戦 | カップ戦 | 監督 | ||||||||
試合 | 勝点 | 勝 | 分 | 敗 | 順位 | クラブユース選手権 | Jユースカップ | |||||
2011 | プリンスリーグ関西1部 | 14 | 34 | 11 | 1 | 2 | 2位 | GL敗退 | ベスト16 | 梅津博徳 | ||
2012 | 18 |
- タイトル
- プリンスリーグ関西1部:4回
- 2003年, 2004年, 2005年, 2007年
ガンバ大阪ジュニアユース
万博グラウンドがある吹田市にあるチーム。2006年の高円宮杯全日本ユースサッカー選手権では宇佐美貴史らを擁して初優勝し、翌2007年大会も優勝するなどユース同様様々な大会で実績を残している。また、2009年より開催されている関西サンライズリーグには初年度から参加し、2010年には初優勝を果たしている。
年度 | 所属 | リーグ戦 | カップ戦 | 監督 | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 勝点 | 勝 | 分 | 敗 | 順位 | クラブユース 選手権 |
高円宮杯 | JFA プレミアカップ | ||||
1998 | GL敗退 | 島田貴裕 | ||||||||||
1999 | ベスト4 | |||||||||||
2000 | ベスト16 | |||||||||||
2001 | ベスト8 | ベスト8 | ||||||||||
2002 | GL敗退 | 曽根純也 | ||||||||||
2003 | ベスト16 | |||||||||||
2004 | 準優勝 | ベスト4 | 鴨川幸司 | |||||||||
2005 | ベスト16 | ベスト16 | ||||||||||
2006 | モルテン・大阪府リーグ1部 | 9 | 14 | 4 | 2 | 3 | 5位 | ベスト8 | 優勝 | |||
2007 | 11 | 23 | 7 | 2 | 2 | 2位 | ベスト8 | 優勝 | 優勝 | |||
2008 | 11 | 16 | 5 | 1 | 5 | 7位 | 準優勝 | ベスト16 | GL敗退 | |||
2009 | 関西サンライズリーグ | 9 | 22 | 7 | 1 | 1 | 2位 | GL敗退 | 優勝 | |||
2010 | 11 | 27 | 9 | 0 | 2 | 優勝 | GL敗退 | |||||
2011 | 11 | 30 | 10 | 0 | 1 | 優勝 | 準優勝 | 1回戦敗退 | GL敗退 | |||
2012 | 11 | 優勝 |
- タイトル
- JFAプレミアカップ:3回
- 2007年, 2009年, 2012年
- 関西サンライズリーグ:2回
- 2010年, 2011年
ガンバ大阪堺ジュニアユース
堺市にあるチーム。かつては何度か全国大会に出場していたが、ここ近年は遠ざかっており、リーグ戦でも大阪府リーグの1部と2部を行き来するなど他の2スクールと比べるとやや後れを取っている。
年度 | 所属 | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 勝点 | 勝 | 分 | 敗 | 順位 | クラブユース 選手権 |
高円宮杯 | JFA プレミアカップ | |||
1998 | ベスト16 | ベスト16 | 準優勝 | ||||||||
1999 | ベスト8 | ||||||||||
2000 | |||||||||||
2001 | GL敗退 | ||||||||||
2002 | GL敗退 | ベスト16 | |||||||||
2003 | GL敗退 | ||||||||||
2004 | GL敗退 | GL敗退 | |||||||||
2005 | |||||||||||
2006 | モルテン・大阪府リーグ1部 | 9 | 13 | 4 | 1 | 4 | 6位 | ベスト16 | |||
2007 | 11 | 18 | 6 | 0 | 5 | 6位 | |||||
2008 | モルテン・大阪府リーグ2部A | 11 | 15 | 5 | 0 | 6 | 9位 | ||||
モルテン・大阪府リーグ2部B | 11 | 30 | 10 | 0 | 1 | 優勝 | |||||
2009 | モルテン・大阪府リーグ1部 | 10 | 9 | 2 | 3 | 5 | 8位 | ||||
モルテン・大阪府リーグ2部A | 11 | 27 | 8 | 3 | 0 | 優勝 | |||||
2010 | モルテン・大阪府リーグ1部 | 9 | 18 | 5 | 3 | 1 | 2位 | ||||
9 | 16 | 5 | 1 | 3 | 4位 | ||||||
2011 | 9 | 8 | 2 | 2 | 5 | 8位 | |||||
フューチャーリーグ大阪1部 | 12 | 7 | 2 | 1 | 9 | 7位 | |||||
2012 | アドバンスリーグ大阪2部A | 9 |
ガンバ大阪門真ジュニアユース
2001年6月に発足した門真市にあるチーム。発足からしばらくはなかなか全国大会へ出場できなかったが、2010年の日本クラブユースサッカー選手権では初出場でベスト16の成績を収め、リーグ戦でも関西サンライズリーグへの昇格を果たすなど近年は実力をつけてきている。
年度 | 所属 | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 勝点 | 勝 | 分 | 敗 | 順位 | クラブユース 選手権 |
高円宮杯 | JFA プレミアカップ | |||
2001 | |||||||||||
2002 | |||||||||||
2003 | |||||||||||
2004 | |||||||||||
2005 | |||||||||||
2006 | モルテン・大阪府リーグ1部 | 9 | 21 | 6 | 3 | 0 | 2位 | ||||
2007 | 11 | 20 | 6 | 2 | 3 | 4位 | |||||
2008 | 11 | 27 | 8 | 3 | 0 | 優勝 | |||||
11 | 14 | 4 | 2 | 5 | 7位 | ||||||
2009 | 10 | 20 | 6 | 2 | 2 | 2位 | |||||
9 | 22 | 7 | 1 | 1 | 優勝 | ||||||
2010 | 9 | 19 | 6 | 1 | 2 | 優勝 | ベスト16 | ||||
2011 | 関西サンライズリーグ | 11 | 15 | 4 | 3 | 4 | 7位 | ||||
2012 | 11 |
トップチーム昇格者・出身選手
トップチーム昇格者の内、飛び級で昇格した選手は稲本潤一、新井場徹(1997年)、家長昭博(2004年)、宇佐美貴史(2009年)の4名で、特に宇佐美はジュニアユースとユースをそれぞれ2年間で飛び級している唯一の高校2年生次でのトップチーム昇格者である。
ユニフォーム
| ||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||
|
チームカラー
青、 黒
ゲームシャツには1997年シーズンより青と黒の縦縞模様のデザインを使用している。これには1996年シーズン終了後に当時G大阪でプレーしていた礒貝洋光が縦縞模様への変更を提案したという経緯があるが、彼自身は1997年から浦和レッズへ移籍したため一度も着ることはなかった[25]。
ユニフォームスポンサー
- 公式戦(国内試合)
掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
---|---|---|---|---|
胸 | パナソニック | Panasonic | 1992年 - | |
背中 | ロート製薬 | ROHTO | 2003年2nd - | |
袖 | ゼンショク | でん | 2001年2nd - | |
パンツ | 大建工業 | DAIKEN | 2012年- |
- 国際試合
掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
---|---|---|---|---|
胸 | パナソニック | Panasonic | 2008年 - |
AFCチャンピオンズリーグに出場する際には胸部分のスポンサー1社以外認められないため、パナソニック以外のスポンサーマークを取り除いたユニフォームを使用。本来、ロート製薬のスポンサーマークがついている背中部分には選手名が記されている。
エピソード
国際試合・FP 1st |
- 1992年のナビスコカップから1996年のシーズン終了までは背番号の下に「Matsushita Electric Industrial Co., Ltd.」ないしは「Panasonic/National」のクレジット、1997年 - 2003年1stステージまで背番号上部に"National"のロゴマークを入れていたが、同社の世界ブランドネームをパナソニックに統一することに伴いそのロゴを外すことになり、代わって2003年2ndステージからロート製薬が背番号スポンサーとなった。
- ロート製薬は、2004年夏季にロゴを変更したがそのシーズンは旧ロゴのままで試合を行い、2005年シーズンから新ロゴを着用している。
- 2006年シーズンは、2005年のJ1リーグ年間優勝チームであるため、日本サッカー協会のシンボルである八咫烏の付いたチャンピオンマークが右袖についていた。
- フィールドプレーヤーの3rdユニフォームは2ndユニフォームが青色であった2006年まで白色のシャツを採用していた。2011年は、マスコットの「ガンバボーイ」が持つ稲妻をイメージした黄色のゲームシャツを採用した。
- 2005年にリーグ優勝したことで、翌2006年シーズンより左胸のエンブレム上に星がつけられ、更に2007年のナビスコカップ、2008年度、2009年度の天皇杯、2008年のAFCチャンピオンズリーグ優勝を含め現在5つの星がついている。また、2009年以降は国際試合ユニフォームにも星が1つつけられている。
- 2001‐02年の2ndユニフォームのチェンジショーツ及び、2003‐08年の2ndユニフォームのパンツのカラーに白を採用していた。
- 2011年10月2日、創立20周年記念試合となったJ1第28節浦和戦では、この試合限定で黒のゲームシャツを採用した。
ユニフォームサプライの遍歴
- 1992年 - 1996年 リーグ戦はミズノ、カップ戦はアディダス
- 1997年 - 1998年 リーグ戦・カップ戦ともアディダスで統一
- 1999年 - 2002年 ルコック
- 2003年 - 現 在 アンブロ
歴代ユニフォームスポンサー年表
年度 | 胸 | 袖 | 背中 | パンツ | サプライヤー |
1992 | Panasonic | - | - | - | Mizuno/adidas |
1993 | |||||
1994 | |||||
1995 | |||||
1996 | |||||
1997 | National | adidas | |||
1998 | |||||
1999 | le coq sportif | ||||
2000 | |||||
2001 | でん (2nd) | ||||
2002 | でん | ||||
2003 | National (1st) ROHTO (2nd) |
UMBRO | |||
2004 | ROHTO | ||||
2005 | シャディ (2005年8月から) | ||||
2006 | |||||
2007 | MIDORI | ||||
2008 | |||||
2009 | |||||
2010 | - | ||||
2011 | |||||
2012 | DAIKEN |
スローガン
年度 | スローガン |
1997 | GAMBA REVOLUTION |
1998 | Run Together ともに勝利を! |
1999 | Dream together |
2000 | 激闘宣言 |
2001 | 挑戦 |
2002 | 新挑戦 |
2003 | Over the Top |
2004 | Re:Start - ガンバが変わる - |
2005 | 熱き青の力で、共に頂点へ |
2006 | もっと熱く、青く、強く!!! 〜 さらに新たな挑戦へ 〜 |
2007 | 超攻撃 |
2008 | Power 〜力の結集〜 |
2009 | SHOBU 〜そして、ワールドスタンダードへ〜 |
2010 | 夢 〜すべてをひとつに〜 |
2011 | 新芯進 〜新たなる未来へ〜 |
2012 | 躍動 |
スポンサー
- 2012年1月現在
フィールドシートスポンサー
トレーニングウェアスポンサー
オフィシャルサプライヤー
- コカ・コーラウエスト
- BESPOKE TAILOR DMG
スペシャルスポンサー
オフィシャルスポンサー
|
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協賛スポンサー
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|
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- パナソニックグループ各社
公式ウェブサイト運営パートナー
- オフィスセンティリオン
- フューチャースピリッツ
公式モバイルサイト運営パートナー
- デジタルトラスト
クラブ応援番組
1993年から1996年3月までの間、テレビ大阪で「ガンバレ!GAMBA」という5分のミニ番組が放送されていた。同番組終了後、テレビではケーブルテレビ局・J:COMの関西地区各局で2009年12月まで放送されていた「GAMBA EX」しかなかった。2009年9月28日から、地上波での久々の応援番組としてMBSにて毎週月曜深夜に「GAMBA TV〜青と黒〜」が放送されている。
サポーターミーティング
2008年より年に数回開催されているクラブ関係者とサポーターとの意見交換会。内容はクラブ側からの発表や報告、サポーターからの質疑や要望に対するクラブ側の回答などで、サポーターがクラブと直接意見交換できる貴重な場となっている。議事録は公式サイトに掲載されている。
2009年1月29日に開催された第2回では新体制発表・新加入選手発表記者会見も同時に開催された。
応援スタイル等
応援はサポーター集団のGAMBINOやBRIGATE NEROAZZURREが中心となって応援を指導している。
大阪のチームなので大阪弁を使用した応援歌もあり、C大阪戦限定の応援歌がある。
かつてはチームフラッグしか販売していなかった為か2006年頃は旗の普及率が低かったが2007年からLフラッグ祭(Lサイズの旗を一斉に掲げる日で当日に新作のフラッグが販売される)を行い、以後毎年新作の旗が販売されているため、かなり普及している。(新作の旗はチームカラーの青と黒を中心にしたものであり、G大阪のオンラインショップでは商品画像として載っていないが柄などを記入すると通販でも購入が可能である)[27][28][29]
試合前に一度だけ、G大阪に対する応援でバックスタンド側とメインスタンド側で分かれて応援する。(サポーター団体から見てメイン側・バック側に分かれて行なわれる)この応援はホームでは浸透しているが、アウェーではバック側の応援のときにメイン側のサポーターも応援してしまうこともある。
関西ダービーのアウェーの試合での恒例行事として通称「電車ジャック」が行なわれる。 これはG大阪のサポーターがスタジアムまでの電車をジャックして敵地(アウェー)に乗り込む事を指す。電車を降りてからはG大阪の応援歌などを歌いながらスタジアムに向かって行進する。 2008年4月26日の神戸戦に行なわれた電車ジャックでは地下鉄車両(4両)の全てがG大阪のサポーターで埋め尽くされ、G大阪の男性サポーターが女性専用車両にまで乗り込んでしまった。 また対戦相手のヴィッセル神戸のサポーターも対抗して、スタジアムの近くでG大阪のサポーターを揶揄するような横断幕を掲げている為、一触即発となる事もあり、ピリピリした雰囲気となる。(電車ジャックは神戸のサポーターも行っている)[30]
脚注
- ^ a b c d e f g 2010年度Jクラブ個別情報開示資料 (PDF)
- ^ a b 『ガンバ大阪オフィシャルイヤーブック 2009』 102頁
- ^ 第2回 サポーターミーティング - ガンバ大阪オフィシャルサイト
- ^ ガンバ大阪・名古屋グランパスのホームタウン広域化について - Jリーグ公式サイト、2012年2月
- ^ Jリーグニュースプラス Vol.2 - Jリーグ公式サイト、2008年4月
- ^ クラブハウス - ガンバ大阪オフィシャルサイト
- ^ クラブ概要 - ガンバ大阪オフィシャルサイト
- ^ [ 5.15 ハッピーバースデー J.LEAGUE PLAYBACK 1993] - J's GOAL、2010年5月13日。また、2011年10月2日の20周年記念試合では開幕当初の衣装で登場した。
- ^ 川淵三郎『虹を掴む』講談社、2006年 ISBN 978-4062126762
- ^ a b 第10節 川崎戦はACL出場のため、7月1日に実施。
- ^ 第9節名古屋戦、第10節鹿島戦はACL出場により、8月17日と7月27日に実施。
- ^ 2011年シーズン 金沢での公式戦開催についてガンバ大阪オフィシャルサイト、2011年2月4日
- ^ G大阪、新スタジアム構想を発表=Jリーグ時事通信、2009年7月11日
- ^ a b c 【Jリーグ】G大阪、サポーターに30億円寄付募る 新スタジアム建設費MSN産経ニュース、2009年7月11日
- ^ ワールドカップ開催地自治体立候補の正式申請について吹田市
- ^ ガンバスタジアム、2012年度完成暗雲…吹田市、費用負担せず読売新聞、2010年2月6日
- ^ W杯招致 吹田市 開催を断念産経新聞大阪、2010年3月6日
- ^ G大阪が新競技場建設へ募金団体発足日刊スポーツ、2010年3月11日
- ^ 第6回サポーターミーティングガンバ大阪オフィシャルサイト
- ^ G大阪 屋根付きサッカー専用新スタジアム建設スポニチ、2011年10月24日
- ^ サッカースタジアム建設要望署名へ ご協力のお願いガンバ大阪オフィシャルサイト、2011年11月10日
- ^ a b ガ大阪:スタジアム建設への議案承認 吹田市議会毎日新聞、2011年12月26日
- ^ 【Jリーグ】G大阪の新スタジアム完成予定1年以上延期へMSN産経ニュース、2012年3月14日
- ^ スタジアム建設募金開始スタジアム建設募金団体公式ホームページ、2012年4月2日
- ^ a b 『ガンバ大阪15年史』ベースボール・マガジン社、2007年 ISBN 978-4583614632
- ^ アカデミー - ガンバ大阪オフィシャルサイト
- ^ ニュースリリース ガンバ大阪オフィシャルサイト 2008年4月3日
- ^ ニュースリリース ガンバ大阪オフィシャルサイト 2009年8月12日
- ^ ニュースリリース ガンバ大阪オフィシャルサイト 2009年8月13日
- ^ J'sサッカー Vol.15(2008年5月販売)P6・7
関連項目
- ガンバ大阪の選手一覧
- ガンバ大阪の年度別成績一覧
- ガンバボーイ (クラブマスコット)
- ガンバ大阪チアダンスチーム
- オリジナル10
- 大阪ダービー
- 関西ダービー
- 2005年J1最終節
- 仙石幸一 (ホームゲームスタジアムDJ)
- スペランツァFC大阪高槻
- 朝日放送 (スカパー!でのG大阪ホームゲーム中継制作協力担当会社。スカパーで生放送される試合は朝日放送およびスカパー!の協力によるエリアワンセグ放送「G-SEG ジーセグ powered by スカパー!」を実施している)
- GAMBINO
- BRIGATE NEROAZZURRE
- Black and Blue Squad(通称BB)
- BB sez TOKYO