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セリエAで3年間プレーした後、[[2005年]]7月に、[[スコティッシュ・プレミアリーグ]](SPL)(UEFAヨーロッパリーグランキング10位)の2強の一角であるセルティックへ移籍(移籍金は推定250万ポンド、約4億9000万円)。リーグ優勝と国内[[カップ戦]]優勝の2冠を獲得した<ref name="今日は何の日?">{{Cite web|date=2011年04月22日|url=http://blog.shueisha.net/sportiva/wfootball/index.php?ID=245|title=【今日は何の日?】中村俊輔が日本人初の欧州リーグMVP!|publisher=Sportiva|accessdate=2011-05-23}}</ref>。 |
セリエAで3年間プレーした後、[[2005年]]7月に、[[スコティッシュ・プレミアリーグ]](SPL)(UEFAヨーロッパリーグランキング10位)の2強の一角であるセルティックへ移籍(移籍金は推定250万ポンド、約4億9000万円)。リーグ優勝と国内[[カップ戦]]優勝の2冠を獲得した<ref name="今日は何の日?">{{Cite web|date=2011年04月22日|url=http://blog.shueisha.net/sportiva/wfootball/index.php?ID=245|title=【今日は何の日?】中村俊輔が日本人初の欧州リーグMVP!|publisher=Sportiva|accessdate=2011-05-23}}</ref>。 |
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[[2006年]]9月、[[UEFAチャンピオンズリーグ 2006-07|2006-07シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ]]に初出場する。グループリーグ第1戦、[[オールドトラフォード]]で開催された[[マンチェスター・ユナイテッド]]戦でフリーキックによる得点をあげ、[[UEFAチャンピオンズカップ]]から[[UEFAチャンピオンズリーグ]](以下CL)に改編されてからの日本人初得点者となった<ref name="今日は何の日?" /><ref group="注釈">[[1992年]]からCLとして再編成される以前のチャンピオンズカップにおける初得点者は、1978-79年大会の[[奥寺康彦]]。</ref>。続く対マンチェスター・ユナイテッド戦でもFKから得点、決勝トーナメント進出を果たす。これはセルティックにとって現行のCLとなって初<ref group="注釈">UEFAチャンピオンズカップだった40年前に優勝している。</ref>、日本人選手としても初めての快挙である<ref group="注釈">1992年からCLとして再編成される以前のチャンピオンズカップでは1979年に[[奥寺康彦]]が進出している。</ref>。2006年10月14日、[[ダンディー・ユナイテッドFC|ダンディー・ユナイテッド]]戦で海外リーグ戦における自身初の[[ハットトリック]]を決めた<ref name="hochi">{{Cite web|author=スポーツ報知|date=2006-10-15|url=http://s04.megalodon.jp/2009-0301-1647-03/hochi.yomiuri.co.jp/contents/feature/sports/shunsuke/2006/news/20061015-OHT1T00081.htm|title=俊輔ハット!オシム監督見たか…スコットランド・プレミアリーグ|accessdate=2009-03-01}}</ref>。 |
[[2006年]]9月、[[UEFAチャンピオンズリーグ 2006-07|2006-07シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ]]に初出場する。グループリーグ第1戦、[[オールド・トラフォード]]で開催された[[マンチェスター・ユナイテッド]]戦でフリーキックによる得点をあげ、[[UEFAチャンピオンズカップ]]から[[UEFAチャンピオンズリーグ]](以下CL)に改編されてからの日本人初得点者となった<ref name="今日は何の日?" /><ref group="注釈">[[1992年]]からCLとして再編成される以前のチャンピオンズカップにおける初得点者は、1978-79年大会の[[奥寺康彦]]。</ref>。続く対マンチェスター・ユナイテッド戦でもFKから得点、決勝トーナメント進出を果たす。これはセルティックにとって現行のCLとなって初<ref group="注釈">UEFAチャンピオンズカップだった40年前に優勝している。</ref>、日本人選手としても初めての快挙である<ref group="注釈">1992年からCLとして再編成される以前のチャンピオンズカップでは1979年に[[奥寺康彦]]が進出している。</ref>。2006年10月14日、[[ダンディー・ユナイテッドFC|ダンディー・ユナイテッド]]戦で海外リーグ戦における自身初の[[ハットトリック]]を決めた<ref name="hochi">{{Cite web|author=スポーツ報知|date=2006-10-15|url=http://s04.megalodon.jp/2009-0301-1647-03/hochi.yomiuri.co.jp/contents/feature/sports/shunsuke/2006/news/20061015-OHT1T00081.htm|title=俊輔ハット!オシム監督見たか…スコットランド・プレミアリーグ|accessdate=2009-03-01}}</ref>。 |
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[[2007年]]4月、セルティックのリーグ戦連覇が決まり、実質日本人で初めて欧州リーグで連覇を経験した選手となった<ref group="注釈">近年の欧州リーグでの優勝に関しては[[中田英寿]]がセリエA・[[ASローマ]]で優勝。</ref>。2006-07シーズンではリーグトップの12アシストを挙げ、[[スコットランドPFA年間最優秀選手賞]]、スコティッシュ・プレミアリーグベストイレブン、[[スコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞]]を受賞、年間ベストゴール賞<ref group="注釈">ダンディーユナイテッド戦のループシュート。</ref> も獲得した。アジアの人間が欧州リーグでMVPを取るのは初の快挙である<ref name="今日は何の日?" />。 |
[[2007年]]4月、セルティックのリーグ戦連覇が決まり、実質日本人で初めて欧州リーグで連覇を経験した選手となった<ref group="注釈">近年の欧州リーグでの優勝に関しては[[中田英寿]]がセリエA・[[ASローマ]]で優勝。</ref>。2006-07シーズンではリーグトップの12アシストを挙げ、[[スコットランドPFA年間最優秀選手賞]]、スコティッシュ・プレミアリーグベストイレブン、[[スコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞]]を受賞、年間ベストゴール賞<ref group="注釈">ダンディーユナイテッド戦のループシュート。</ref> も獲得した。アジアの人間が欧州リーグでMVPを取るのは初の快挙である<ref name="今日は何の日?" />。 |
2017年8月14日 (月) 07:14時点における版
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代表時代の中村俊輔 | ||||||
名前 | ||||||
カタカナ | ナカムラ シュンスケ | |||||
ラテン文字 | NAKAMURA Shunsuke | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1978年6月24日(45歳) | |||||
出身地 | 神奈川県横浜市戸塚区 | |||||
身長 | 178cm | |||||
体重 | 70kg | |||||
選手情報 | ||||||
在籍チーム | ジュビロ磐田 | |||||
ポジション | MF | |||||
背番号 | 10 | |||||
利き足 | 左足 | |||||
ユース | ||||||
1994-1997 | 桐光学園高校 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1997-2002 | 横浜マリノス/横浜F・マリノス | 148 | (33) | |||
2002-2005 | レッジーナ | 81 | (11) | |||
2005-2009 | セルティック | 128 | (29) | |||
2009-2010 | エスパニョール | 13 | (0) | |||
2010-2016 | 横浜F・マリノス | 190 | (35) | |||
2017- | ジュビロ磐田 | |||||
代表歴2 | ||||||
1996-1997 | 日本 U-20 | 5 | (1) | |||
1998-2000 | 日本 U-23 | 4 | (0) | |||
2000-2010 | 日本 | 98 | (24) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。2016年12月3日現在。 2. 2010年6月19日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
中村 俊輔(なかむら しゅんすけ、1978年6月24日 - )は、神奈川県横浜市戸塚区出身の日本のプロサッカー選手である。ポジションはミッドフィールダー。J1・ジュビロ磐田所属。元日本代表。
2000年と2013年にJリーグMVPを獲得。Jリーグ史上初のMVP複数回受賞者。ほかにアジアカップ2004MVP、2006-07スコティッシュ・プレミアリーグMVPなどの受賞歴がある。
来歴
学生時代
横浜市瀬谷区で男4兄弟の四男として生まれた[注釈 1]。俊輔の名前は母親が命名した。3歳でサッカーボールを蹴りだした。4歳の時、一家は横浜市戸塚区に引っ越した。幼稚園の体操教室では古沼貞雄にも教えを受けた若林可夫の指導を受けた[2][3]。1985年、深園FCに入団し、サッカーを始める。1991年4月横浜市立深谷中学校に入学、50倍のセレクションに合格し日産(1993年から横浜マリノス)のジュニアユースに所属し[4]、2度の全国制覇を経験したが[注釈 2]、ユースへの昇格が出来ず[注釈 3]、1994年に桐光学園高校へ進学しサッカー部に入部[注釈 4]、1年生次には雑用も経験した[5]。2年生次には第74回全国高等学校サッカー選手権大会に出場し、3年生次には第75回全国高等学校サッカー選手権大会で準優勝を果たした[1]。
クラブ歴
横浜マリノス
1997年、横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)に加入する。マリノスにおいて最初の2シーズンの背番号は25番だった[1]。1997年シーズンのJリーグ優秀新人賞を受賞した。[6]
1999年のシーズンから、10番に背番号を変更した[1]。またこのシーズンにはJリーグベストイレブンを初受賞する[7]。
2000年のシーズンは、22歳でJリーグ最優秀選手賞[8]、日本年間最優秀選手賞を受賞した。Jリーグ最優秀選手賞受賞者の中では最年少である。
レッジーナ
2002年5月、2002 FIFAワールドカップ日本代表への招集が有力視されていたが、代表合宿で痛めていた足首のケガが長引いたことや、当時の日本代表監督であったトルシエの選考基準に合致しなかったことなどで落選した[9]。ケガが癒えた直後の同年7月、イタリアのセリエAのレッジーナに移籍、レギュラーを確保しプレイスキックを任され、7得点をあげてセリエA残留に貢献した。
2003年6月、FIFAコンフェデレーションズカップ2003で、3得点をあげ『ブロンズシューズ賞』を受賞。2003シーズンは出来うる限り代表戦に出場したがコンディションを崩してしまったこと故障を繰り返したことが響いてリーグ戦出場は激減してしまった。
2004年2月、横浜マリノス時代のチームメート奥大介の夫人・佐伯日菜子(当時)の紹介で知り合ったタレント経験のある元ペットショップ店員と結婚。同年7月、8月に行われたアジアカップ中国大会では、最優秀選手に選ばれた。
セリエA3年目となる2004-2005シーズンは、終盤数戦こそ恥骨炎や膝の負傷などで途中出場があったがほぼスターティングメンバーとして戦いクラブ創設以来の最高順位に貢献。2005年3月にはガゼッタ・デロ・スポルトからレジーナの歴代ベストイレブンに選出された[10]。同年6月、FIFAコンフェデレーションズカップ2005で、1得点2アシストをあげベストイレブンに選出[11]。セルティックFCの監督、ストラカンにプレーを高く評価されセルティックに移籍することとなった。
セルティック
セリエAで3年間プレーした後、2005年7月に、スコティッシュ・プレミアリーグ(SPL)(UEFAヨーロッパリーグランキング10位)の2強の一角であるセルティックへ移籍(移籍金は推定250万ポンド、約4億9000万円)。リーグ優勝と国内カップ戦優勝の2冠を獲得した[12]。
2006年9月、2006-07シーズンのUEFAチャンピオンズリーグに初出場する。グループリーグ第1戦、オールド・トラフォードで開催されたマンチェスター・ユナイテッド戦でフリーキックによる得点をあげ、UEFAチャンピオンズカップからUEFAチャンピオンズリーグ(以下CL)に改編されてからの日本人初得点者となった[12][注釈 5]。続く対マンチェスター・ユナイテッド戦でもFKから得点、決勝トーナメント進出を果たす。これはセルティックにとって現行のCLとなって初[注釈 6]、日本人選手としても初めての快挙である[注釈 7]。2006年10月14日、ダンディー・ユナイテッド戦で海外リーグ戦における自身初のハットトリックを決めた[13]。
2007年4月、セルティックのリーグ戦連覇が決まり、実質日本人で初めて欧州リーグで連覇を経験した選手となった[注釈 8]。2006-07シーズンではリーグトップの12アシストを挙げ、スコットランドPFA年間最優秀選手賞、スコティッシュ・プレミアリーグベストイレブン、スコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞を受賞、年間ベストゴール賞[注釈 9] も獲得した。アジアの人間が欧州リーグでMVPを取るのは初の快挙である[12]。
エスパニョール
2009年6月22日、横浜F・マリノスなどのオファーを断り、スペイン1部リーグのRCDエスパニョールへの移籍が決定した[14]。Goal.comが報じたところによると、「日本人ミッドフィルダーには大きな期待が寄せられたが、スペインでの最初のシーズンはうまくはいかなかった」[15]。マウリシオ・ポチェッティーノ監督は中村がエスパニョールで本来のプレーをすることができなかった理由として、「適応」(西: adaptación[16])を挙げた[17]。セルティック時代の恩師ゴードン・ストラカンが監督を務めるイングランド2部所属のミドルスブラFCよりレンタル移籍のオファーを受ける。しかし、2部への移籍となることなどから中村本人が移籍を拒否[18]、代理人が説得へ向かうも中村が拒否したことで、エスパニョールに残留することとなった。2010年2月28日、かつて所属した横浜F・マリノスに移籍が決まった[19]。
F・マリノス復帰
2002年以来のJリーグ復帰となったこの2010年シーズンでは、リーグ戦全34試合のうち32試合に出場を果たした[20]。
2011年1月25日、チームは中村俊輔のキャプテン就任を発表し、本人はその中でキャプテン就任について「光栄な事」と語った[21]。3月29日、東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!にドラガン・ストイコビッチ率いるJリーグ TEAM AS ONEの一員として参加した[22]。
2013年は自身初のリーグ年間2桁得点を記録、またJ1第30節大分戦では通算17点目となる直接フリーキックを決め、遠藤保仁が持っていたJ1のフリーキック最多得点記録を更新。しかし、11月に胆のう炎で入院し一時チームを離脱。1週間後に退院するも、その後チームは失速し9年ぶりのJリーグ優勝を逃してしまった。それでも、その年のJリーグアウォーズでは史上初の2度目のそして2016年現在最年長でのMVPを受賞した。この受賞について、古巣セルティックからも公式ホームページを通じて祝福のコメントが送られた[23]。
2015年1月、5季連続となる主将への就任が決まった[24]。2月16日に左足首の手術を受け、同月20日に退院[25]。その後4月22日に今季公式戦に初出場を果たすも、5月には肉離れで再離脱となった[26]。7月19日のガンバ大阪戦で今季はじめてフル出場。同試合で直接フリーキックを決め、J1直接フリーキック得点ランキング単独1位に躍り出た[27]。このゴールは7月の月間ベストゴールに選ばれた他[28]、イギリスメディアからも称賛された[29]。その後、8月29日の浦和戦、10月3日の仙台戦でも直接フリーキックを決め、日本代表に選出されているG大阪の東口順昭、浦和の西川周作、仙台の六反勇治と現役日本代表GK全てから得点を決めている[30]。
2016年1月、クラブ史上最長の6季連続となる主将就任が決まった[31]。開幕戦はインフルエンザの発症により欠場するも、第2節の福岡戦で初出場し、直接フリーキックを決めた[32]。その一方、シティ・フットボール・グループの意向が強く反映され、多くの功労者が減俸・戦力外となった強化方針への不信感は強く、シーズン終了後には「マリノス退団へ」との報道も飛び交った。年末には、共に日本代表で戦った名波浩率いるジュビロ磐田と移籍を視野に交渉した[33]。
ジュビロ磐田
2017年1月7日夜、共同通信社が速報で磐田との大筋契約合意を伝え[34]、1月8日に両クラブから正式に発表された[35]。横浜FMからは年俸1億2000万円の提示を受けていたが「サッカーだけに向き合い、燃え尽きたい」と8000万円を提示した磐田への移籍を決めた[36]。横浜FM側から見ればこの移籍による損失は大きく、公式サイトで声明を出すまでに至っている[37]。開幕戦のC大阪戦からスタメンでフル出場し、その試合の走行距離は両チーム合わせて一番だった[38]。3月11日に行われた第3節の大宮アルディージャ戦で移籍後初の得点を得意のフリーキックで決めた[39]。4月1日、第5節の清水エスパルス戦では初の静岡ダービーに挑み、3得点に絡む活躍で勝利に貢献した。
日本代表
1996年、AFCユース選手権1996の日本代表に選出され、6試合に出場しカタール戦では1得点を決めた[40]。
1997年、1997 FIFAワールドユース選手権に出場し、コスタリカ戦で1得点を決めた[40]。
1998年初頭にはフル代表合宿に初参加した[41]。2月15日のオーストラリア戦で岡田武史が監督を務めるフル代表に初招集されたが、このときは試合に出場することはできなかった[42]。同年12月にはアジア大会U-23日本代表に選出され、クウェート戦で1得点を決めた[40]。
1999年、シドニーオリンピック予選では司令塔に抜擢された[43]。
2000年、U-23代表に選出され、シドニーオリンピックにて4試合に先発出場した[40]。2月13日には、AFCアジアカップ2000 (予選) のシンガポール戦でフル代表として初出場し、同月16日にブルネイ戦にてフル代表初得点を決める[40]。アジアカップ本戦では優勝とベストイレブンを受賞した[44]。
2002年2月には東京、渋谷の東急東横店壁面への日本代表オフィシャル・ユニフォーム、巨大広告に起用されるなど[45]、2002 FIFAワールドカップ日本代表への招集が有力視されていたが、5月、代表合宿で痛めていた足首のケガが長引いたことや[43]、当時の日本代表監督であったトルシエの選考基準に合致しなかったことなどで落選した[9]。
しかし、ジーコが代表監督になると、再び招集され2003年6月、FIFAコンフェデレーションズカップ2003で、3得点をあげ[46]『ブロンズシュー賞』を受賞した[47]。
AFCアジアカップ2004では、決勝戦において日本の全3得点に絡み[48]、最優秀選手に選ばれた[1]。
2005年6月、FIFAコンフェデレーションズカップ2005で、1得点[49]をあげベストイレブンに選出[50]。セルティックの監督、ストラカンにプレーを高く評価されセルティックに移籍することとなった[51]。
2006年6月、2006 FIFAワールドカップ日本代表に選出された。中村は、当時の代表監督ジーコに中心選手として重要視され、グループリーグ全3試合にフル出場したが、2敗1分で敗退した。第1戦のオーストラリア戦ではクロスボールが偶然にも直接得点となり、自身のW杯での唯一の得点となった。
2007年3月24日、キリンチャレンジカップ・ペルー戦は、オシムジャパン発足してからの初選出となり、2アシストで勝利に貢献した。
南アフリカで行われた2010 FIFAワールドカップでは、グループリーグ第2戦の対オランダ戦において後半64分に途中出場するにとどまった[52][53][54][55] 。2010年7月1日には、このワールドカップを最後に日本代表を引退する意思を表明した[56]。
プレースタイル
プレースキックの名手とされており、特に直接フリーキックを得意としている[57]。ゴールに対して角度のあまりない位置から助走するのが特徴で、軸足を地面に滑り込ませるように踏み込み、勢いそのままに上半身を押し出しながら巻き上げるように足を振り抜く、独特のフォーム(画像を参照)である。元々は大きく弧を描くキックを得意としていたが、レッジーナ移籍後からはスピードに重点を置いたキックを多用している[58]。
プロサッカー関係者の評価
レッジーナ時代には、監督のマッツァーリは「ナカムラはバッジョのようなもので、FWもできるし、MFもできる。素質のある選手はDFを抜くこともパスも出せるんだ。」と評した[59]。プランデッリは中村について「創造性があって、相手をかわす能力を持った選手だ」と評した[60]。
セルティック時代には、指揮官であるストラカンは「彼は天才だ。」という言葉を残し、また巷でタックルができない選手だと批判されていることについて異議を唱えた[61]。チームメイトであったドナーティは「ナカは技術面ではチームでナンバー1だ。他にもマクギーディやブラウンら上手い選手はいるけど、ナカは別格」と述べている[62]。
エスパニョールでチームメイトであったデ・ラ・ペーニャは「ナカはチーム内で一番技術が高い選手だ」と述べた[63]。
元日本代表監督であったフィリップ・トルシエは2010年5月、守備能力を考えた場合、中村をW杯で起用しないことも検討するべきとコメントした[64]。
パヴェル・ネドヴェドはインタビューにて日本人選手について問われた際、中村のテクニックを称賛している[65]。
本田圭佑は2009年9月5日のオランダとの親善試合(オランダ・エンスヘーデ)の後半18分に、FKキッカーをめぐり、当時絶対的な存在だった中村と衝突したが、「後にも先にも、シュンさんよりFKがうまいと思ったことは1度もない。ただ、あの時は蹴りたかったから主張した」と述べている[66]。
ヨシップ・イリチッチはセットプレーにおいて影響を受けた選手を問われた際、「セルティックにいたナカムラだ。彼は世界一だよ」と述べた[67]。
スポーツ科学の見地から
筑波大学体育専門学群教授の浅井武(サッカー方法論)は、中村がフリーキックで蹴る「カーブシュート」の回転速度は毎秒7.5回転程度、ボールのスピードは時速99.7~101キロで(これは世界有数の高速だという。)、25メートル飛ぶ間に横に3メートル以上曲がるとみる。また、ボールの回転軸が斜めであるため、ゴール付近で急激に落ちる軌道になるという。浅井は「中村は体を傾け、全身のバネを使って、大きなパワーを生み出している」とも言う[68]。
また、ボールが無回転で揺れる、いわゆる「ブレ球」のシュートを打つことがある。浅井は一般的な「ブレ玉」の蹴り方として、(1)ボールの中心をける(2)足を押し出すようにける(並進運動)(3)強くける(時速72キロ以上)の3点を挙げるが、名古屋大学総合保健体育科学センター体育科学部准教授の布目寛幸(スポーツ科学, スポーツバイオメカニクス)は、中村と本田圭佑の蹴り方を比較分析した上、中村の「ブレ玉」の蹴り方について「本田より内側(インサイド寄り)の得意とする部分でけっている。それ以外の原理は同じだ。」と指摘した。[69]
ピッチに入り乱れる選手の位置を瞬時に把握し、的確なプレーにつなげるには、「スポーツビジョン」(スポーツに必要な視力)と視野の広さが必要と言われる。その中でもサッカーでは、わずかなスペースを見つける能力である深視力の重要性が指摘されている。スポーツビジョン研究会代表の真下一策は、「選手の位置関係を立体的に認識するのが深視力。日本代表らJリーグのトップ選手と、それ以外の選手を比較すると、深視力だけが、最も開きがあった。」「糸を引くようなパスを次々通す人は、位置関係を俯瞰できる能力にたけている。」と述べ、また中村の深視力について過去に中村を指導した経験を持つ浦和アカデミーセンターコーチの池田誠剛は、「シュンは深視力の数値が良かった。」と証言している[70]。
その他
中村のフリーキックは世界的にも評価が高く、海外メディアが選出する名キッカーのランキングにも度々選出されている[71][72]。またコンピュータゲームにおいても能力値は概ね高く設定されており、15,000人以上の選手が実名で登場する『FIFA 17』ではフリーキック能力値9位となっている[73]。
人物
2004年に一般女性と結婚し、子どもが4人(息子3人、娘1人)いる。2012年には日本メンズファッション協会からベストファーザー賞に選ばれている[74]。
代表のチームメイトである、中澤佑二や遠藤保仁と仲が良い。かつてチームメイトだった川口能活を「師匠のような存在」と慕っている。解説者の中西哲生、タレントの清水圭と親交がある。
所属クラブ
- アマチュア経歴
- 1985年 - 1991年 深園FC[1] (横浜市立深谷台小学校)
- 1991年 - 1994年 日産FCジュニアユース/横浜マリノスジュニアユース (横浜市立深谷中学校)
- 1994年 - 1997年 桐光学園高等学校
- プロ経歴
- 1997年 - 2002年7月 横浜マリノス/横浜F・マリノス
- 2002年8月 - 2005年7月 レッジーナ
- 2005年8月 - 2009年6月 セルティックFC
- 2009年6月 - 2010年2月 RCDエスパニョール
- 2010年2月 - 2016年 横浜F・マリノス
- 2017年 - ジュビロ磐田
個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1997 | 横浜M | 25 | J | 27 | 5 | 3 | 0 | 1 | 0 | 31 | 5 |
1998 | 33 | 9 | 4 | 1 | 0 | 0 | 37 | 10 | |||
1999 | 横浜FM | 10 | J1 | 26 | 7 | 4 | 0 | 3 | 1 | 33 | 8 |
2000 | 30 | 5 | 4 | 1 | 2 | 0 | 36 | 6 | |||
2001 | 24 | 3 | 6 | 2 | 1 | 0 | 31 | 5 | |||
2002 | 8 | 4 | - | - | 8 | 4 | |||||
イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2002-03 | レッジーナ | 10 | セリエA | 32 | 7 | 4 | 1 | - | 36 | 8 | |
2003-04 | 16 | 2 | 2 | 0 | - | 18 | 2 | ||||
2004-05 | 33 | 2 | 0 | 0 | - | 33 | 2 | ||||
スコットランド | リーグ戦 | S・リーグ杯 | スコティッシュ杯 | 期間通算 | |||||||
2005-06 | セルティック | 25 | S・プレミア | 33 | 6 | 4 | 0 | 1 | 0 | 38 | 6 |
2006-07 | 37 | 9 | 0 | 0 | 5 | 0 | 42 | 9 | |||
2007-08 | 26 | 6 | 0 | 0 | 4 | 1 | 30 | 7 | |||
2008-09 | 32 | 8 | 3 | 1 | 2 | 0 | 37 | 9 | |||
スペイン | リーグ戦 | 国王杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2009-10 | エスパニョール | 7 | プリメーラ | 13 | 0 | 2 | 0 | - | 15 | 0 | |
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2010 | 横浜FM | 25 | J1 | 32 | 5 | 1 | 0 | 2 | 1 | 35 | 6 |
2011 | 24 | 4 | 2 | 0 | 5 | 2 | 31 | 6 | |||
2012 | 31 | 6 | 3 | 0 | 5 | 2 | 39 | 8 | |||
2013 | 33 | 10 | 10 | 2 | 6 | 1 | 49 | 13 | |||
2014 | 10 | 32 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 33 | 3 | ||
2015 | 19 | 3 | 0 | 0 | 2 | 0 | 21 | 3 | |||
2016 | 19 | 4 | 1 | 1 | 3 | 1 | 23 | 6 | |||
2017 | 磐田 | ||||||||||
通算 | 日本 | J1 | 338 | 68 | 39 | 7 | 30 | 8 | 407 | 83 | |
イタリア | セリエA | 81 | 11 | 6 | 1 | - | 87 | 12 | |||
スコットランド | S・プレミア | 128 | 29 | 7 | 1 | 12 | 1 | 147 | 31 | ||
スペイン | プリメーラ | 13 | 0 | 2 | 0 | - | 15 | 0 | |||
総通算 | 527 | 108 | 44 | 7 | 42 | 9 | 613 | 123 |
その他の公式戦
- 2000年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 2003年
- セリエA 残留・昇格プレーオフ 1試合0得点
- 2007年
- UEFAチャンピオンズリーグ 予備予選3回戦 2試合0得点
- 2014年
- スーパーカップ 1試合0得点
国際大会個人成績 | ||||
---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
UEFA | UEFA CL | |||
2006-07 | セルティック | 25 | 8 | 2 |
2007-08 | 4 | 0 | ||
2008-09 | 5 | 0 | ||
AFC | ACL | |||
2014 | 横浜 | 10 | 5 | 0 |
通算 | UEFA | 17 | 2 |
- 出場歴
- 1997年3月8日 公式戦初出場 - ナビスコカップ予選 vsヴェルディ川崎戦 (国立競技場)
- 1997年4月16日 Jリーグ初出場 - J 1st第2節 vsガンバ大阪戦 (三ツ沢公園球技場)
- 1997年5月3日 Jリーグ初得点 - J 1st第6節 vsベルマーレ平塚戦 (三ツ沢公園球技場)
- 1998年11月14日 ハットトリック達成 - J 2nd第17節 vsベルマーレ平塚戦 (横浜国際総合競技場)
- 2000年2月13日 フル代表初出場 - アジアカップ予選 vsシンガポール戦 (マカオ)
- 2000年2月16日 フル代表初得点 - アジアカップ予選 vsブルネイ戦 (マカオ)
- 2002年8月18日 セリエA初出場・初得点 - コッパ・イタリア予選 vsターラント戦 (ターラント)
- 2005年8月6日 スコティッシュ・プレミアリーグ初出場 - スコティッシュ・プレミアリーグ第2節 vsダンディー・ユナイテッド (セルティック・パーク)
- 2005年8月28日 スコティッシュ・プレミアリーグ初得点 - スコティッシュ・プレミアリーグ第5節 vsダンファームリン (イースト・エンド・パーク)
- 2006年9月13日 UEFAチャンピオンズリーグ初得点[注釈 10] - グループリーグ第1戦 vsマンチェスター・ユナイテッド戦 (オールド・トラッフォード)
代表歴
出場大会など
各本大会での成績は以下の通り。
年代別代表[40]
- U-20代表
- 1996年 AFCユース選手権1996 ベスト4 6試合出場 1得点
- 1997年 1997 FIFAワールドユース選手権 ベスト8 5試合出場 1得点
- U-23代表
- 1998年 アジア大会 2次リーグ敗退 3試合出場 1得点
- 2000年 シドニーオリンピック ベスト8 4試合出場 0得点
フル代表
- 2000年 AFCアジアカップ2000 優勝 5試合出場 0得点[40]
- 2003年 FIFAコンフェデレーションズカップ2003 グループリーグ敗退 2試合出場 3得点[46]
- 2004年 AFCアジアカップ2004 優勝 6試合出場 2得点[40]
- 2005年 FIFAコンフェデレーションズカップ2005 グループリーグ敗退 3試合出場 1得点[46]
- 2006年 2006 FIFAワールドカップ グループリーグ敗退 3試合出場 1得点[46]
- 2007年 AFCアジアカップ2007 ベスト4 6試合出場 2得点[40]
- 2010年 2010 FIFAワールドカップ ベスト16 1試合出場 0得点[46]
試合数
- 国際Aマッチ 出場試合数98 先発出場試合数89 交代出場試合数9 得点24 警告7 退場0 (2000年 - 2010年)[75]
日本代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
2000 | 16 | 3 |
2001 | 1 | 0 |
2002 | 6 | 2 |
2003 | 8 | 4 |
2004 | 15 | 3 |
2005 | 11 | 3 |
2006 | 6 | 1 |
2007 | 10 | 4 |
2008 | 9 | 2 |
2009 | 11 | 2 |
2010 | 5 | 0 |
通算 | 98 | 24 |
ゴール
# | 開催年月日 | 開催地 | 対戦チーム | 勝敗 | 試合概要 | 出典 |
---|---|---|---|---|---|---|
1. | 2000年2月16日 | 中国 | ブルネイ | ○ 9-0 | AFCアジアカップ2000予選 | [4] |
2. | 2000年6月11日 | 日本 | スロバキア | △ 1-1 | キリンカップサッカー2000 | [5] |
3. | 2000年8月16日 | アラブ首長国連邦 | ○ 3-1 | [6] | ||
4. | 2002年5月2日 | ホンジュラス | △ 3-3 | [7] | ||
5. | ||||||
6. | 2003年3月28日 | ウルグアイ | △ 2-2 | 国際親善試合 | [8] | |
7. | 2003年6月18日 | フランス | ニュージーランド | ○ 3-0 | FIFAコンフェデレーションズカップ2003 | [9] |
8. | ||||||
9. | 2003年6月20日 | フランス | ● 1-2 | [10] | ||
10. | 2004年6月9日 | 日本 | インド | ○ 7-0 | 2006 FIFAワールドカップ・アジア予選 | [11] |
11. | 2004年7月20日 | 中国 | オマーン | ○ 1-0 | AFCアジアカップ2004 | [12] |
12. | 2004年7月24日 | タイ | ○ 4-1 | [13] | ||
13. | 2005年6月22日 | ドイツ | ブラジル | △ 2-2 | FIFAコンフェデレーションズカップ2005 | [14] |
14. | 2005年9月7日 | 日本 | ホンジュラス | ○ 5-4 | キリンチャレンジカップ2005 | [15] |
15. | 2005年10月8日 | ラトビア | ラトビア | △ 2-2 | 親善試合 | [16] |
16. | 2006年6月12日 | ドイツ | オーストラリア | ● 1-3 | 2006 FIFAワールドカップ | [17] |
17. | 2007年7月13日 | ベトナム | アラブ首長国連邦 | ○ 3-1 | AFCアジアカップ2007 | [18] |
18. | 2007年7月16日 | ベトナム | ○ 4-1 | [19] | ||
19. | 2007年9月11日 | オーストリア | スイス | ○ 4-3 | 3大陸トーナメント | [20] |
20. | ||||||
21. | 2008年6月2日 | 日本 | オマーン | ○ 3-0 | 2010 FIFAワールドカップ・アジア予選 | [21] |
22. | 2008年9月6日 | バーレーン | バーレーン | ○ 3-2 | [22] | |
23. | 2009年3月28日 | 日本 | ○ 1-0 | [23] | ||
24. | 2009年11月18日 | 香港 | 香港 | ○ 4-0 | AFCアジアカップ2011 (予選) | [24] |
タイトル・記録
クラブタイトル
- 横浜Fマリノス[76]
- セルティックFC[77]
- スコティッシュ・プレミアリーグ:3回 (2005-06、2006-07、2007-08)
- スコティッシュカップ:1回 (2006-07)
- スコティッシュリーグカップ:2回 (2005-06、2008-09)
個人タイトル
- Jリーグ優秀新人賞 (1997年)
- Jリーグオールスターサッカー 敢闘賞 (1999年)[78]
- Jリーグ優秀選手賞:6回 (1999年 - 2001年、2012年 - 2013年、2015年)
- Jリーグベストイレブン:3回 (1999年 - 2000年、2013年)
- Jリーグ最優秀選手賞:2回 (2000年、2013年)
- 日本年間最優秀選手賞:2回 (2000年、2013年)
- Jリーグ月間MVP:2回 (2013年3月、2015年10月)
- Jリーグ月間ベストゴール賞:1回(2017年5月)
- Jクロニクルベスト ベストイレブン (2013年)
- AFC All Star Team (2000年)
- AFCアジアカップベストイレブン:2回 (2000年、2004年)
- AFCアジアカップ MVP:1回 (2004年)
- スコットランドPFA年間最優秀選手賞:1回 (2006-07)
- スコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞:1回 (2006-07)
- スコティッシュ・プレミアリーグベストイレブン:1回 (2006-07)
- スコットランドリーグスポンサー年間最優秀選手賞:1回 (2006-07)
- スコティッシュプレミアリーグ年間ベストゴール:1回 (2006-07 ダンディユナイテッド戦)
- セルティック・ゴール・オブ・ザ・シーズン:1回 (2007-08 レンジャーズ戦)
記録
その他
- 日本プロスポーツ大賞 殊勲賞:1回 (2000年)
- 報知プロスポーツ大賞 Jリーグ部門:1回 (2000年)
出演
テレビ番組
- GET SPORTS (テレビ朝日)
- ドラえもん (テレビ朝日) W杯の特別企画で、絵かき歌に挑戦した。
- ウルトラマンDASH(2012年 - 2015年 日本テレビ)
2012年1月1日の正月特番放送にて、「窓(車両全部ではない)を開けた住宅街を走行するバスに、3分以内で開いた窓にFKを決める」課題に挑戦し見事成功。周囲からも「E難度の技」と絶賛を受けこれを見た2012年1月19日付英紙「メトロ」においても「マンチェスター・ユナイテッド相手に決めた神技健在」と絶賛を受けた。翌年以降も出演している。
CM
- 日本コカ・コーラ
- アクエリアス (2001年)
- 日本ビクター
- キリンビール
- adidas
- 『サッカー狂症候群 中村俊輔篇』(2002年)
- 『+10 中村俊輔+10 vs デルピエロ+10篇』(2006年) - アレッサンドロ・デル・ピエロとの共演
- 『JOSE+10』(2006年)
- ファミリーマート
- アダムス
- 「リカルデント」(2003年)
- 大塚製薬
- コナミ
- 「ウイニングイレブン9」(2005年) - ジーコとの共演
- 「ウイニングイレブン10」(2006年) - ジーコとの共演
- ヤマダ電機 (2006年 -2010年)
- 『For Your JUST篇』
- 『ヤマダに新戦力篇』
- シュガーレディー (2006年) - 稲本潤一との共演
- TOYOTA 「トビラを開けよう」キャンペーン (2006年)
- AIDEM 「i のある仕事を」キャンペーン (2006年 - 2008年)
- スバル「エクシーガ」 (2009年 - 2010年)
- コーセー「adidas skin protection」(2010年)
- サイバードホールディングス「バーコードフットボーラー」(2014年2月 - )
- サッポロビール「黒ラベル」大人エレベーター・35歳編(2014年3月 - )
- 中村俊輔本人をイメージした香水、「メシア10」の広告など他多数
- 日産自動車
PV
- Hi-Fi CAMP 「だから一歩前に踏み出して」(2009年)
出版
執筆書籍
- 2005年 Ciao! - 中村俊輔イタリア日記(ソニーマガジンズ)ISBN 4-7897-2539-1
- 2008年 察知力(幻冬舎)ISBN 4-3449-8081-6
- 2009年 夢をかなえるサッカーノート(文藝春秋)ISBN 4-1637-1740-4
関連書籍
- 2000年 中村俊輔 - 世界へはなつシュート(旺文社、北条正士)ISBN 4-01-072495-1
- 2001年 シュンスケ! - 中村俊輔ファンタジスタへの予感(小学館)ISBN 4-09-102343-6
- 2001年 天才レフティー、中村俊輔(ラインブックス、中村俊輔担当記者グループ)ISBN 4-86204-010-1
- 2002年 中村俊輔 飛翔 (ラインブックス、中村俊輔担当記者グループ)ISBN 4-89809-106-7
- 2002年 中村俊輔 リスタート (文藝春秋、佐藤俊)ISBN 4-16-358840-X
- 2003年 黄金のカルテット 中村俊輔物語(汐文社、本郷陽二)ISBN 4-8113-7644-7
- 2003年 海を渡ったヒーローたち - 中村俊輔・稲本潤一・小野伸二・中田英寿(汐文社、本郷陽二)ISBN 4-8113-7654-4
- 2003年 『プライド』 中村俊輔 オフィシャルドキュメントブック(ソニー・マガジンズ、藤沼正明)ISBN 4-7897-2162-0
- 2004年 中村俊輔 栄光への疾走(鹿砦社、中村俊輔取材班)ISBN 4-8463-0559-7
- 2005年 SHUNSUKE 中村俊輔 イタリアの軌跡(朝日新聞社、アルフレード・ペドゥッラ)ISBN 4-02-261474-9
- 2006年 中村俊輔フォトブック 「NAKAMURA SHUNSUKE」(ワニマガジン社、横内禎久)ISBN 4-89829-757-9
- 2007年 LEGEND OF THE ATHLETE 中村俊輔物語(集英社、工藤晋・大内冬樹)ISBN 4-08-874357-1
- 2007年 ファンタジスタ中村俊輔(汐文社、本郷陽二)ISBN 4-8113-8425-3
- 2007年 中村俊輔世界をかける背番号10(ファンタジスタ)(学習研究社、矢内由美子)ISBN 4-05-202814-7
DVD
- SHUNSUKE
- FANTASISTA Shunsuke Nakamura IN SCOTLAND GLASGOW
- 中村俊輔の“I Love Soccer”サッカー教室〈永久保存版〉
- 中村俊輔DVDバイオグラフィー 2002 - 2005
- セルティック 2005 - 2006シーズン リーグチャンピオンへの軌跡
- SHUNSUKE NAKAMURA THE SECRET OF DIRECT FREE KICK 中村俊輔 直接フリーキックの極意
関連項目
脚注
注釈
- ^ この日は、アルゼンチンで開かれていた第11回ワールドカップ決勝戦の前日であった(スポーツスーパースター|4中村俊輔より)。
- ^ ただし、同チームが2年連続全国優勝を果たした3年生時は10番を背負いながら控え選手だった(『中村俊輔物語』より)。
- ^ 中村本人は、当時のプレーが悪かったから昇格できなかったのだと語っているが(著書 察知力)、当時の担当者はチームの平均身長が170cmのところ、俊輔は160cmに満たない身長が原因だったと述懐している。『中村俊輔物語』では体格差を個人技で補おうとしたが、そのプレイスタイルがチームの方針に合わなかったことから出場機会を失っていったという。
- ^ 1学年上には須藤大輔、同級生(ジュニアユースでもチームメイトだった)に佐原秀樹、1学年下に宇留野純や井手口純がいる。
- ^ 1992年からCLとして再編成される以前のチャンピオンズカップにおける初得点者は、1978-79年大会の奥寺康彦。
- ^ UEFAチャンピオンズカップだった40年前に優勝している。
- ^ 1992年からCLとして再編成される以前のチャンピオンズカップでは1979年に奥寺康彦が進出している。
- ^ 近年の欧州リーグでの優勝に関しては中田英寿がセリエA・ASローマで優勝。
- ^ ダンディーユナイテッド戦のループシュート。
- ^ 1992年の再編成後、UEFAチャンピオンズリーグ本戦における、日本人初得点。
出典
- ^ a b c d e f PROFILE 中村俊輔オフィシャルウェブサイト 2011年4月17日閲覧。
- ^ “(1)中村育てた複線教育”. 日本経済新聞 (2001年). 2012年6月16日閲覧。
- ^ “第3回「幼年期から小学校時代までの俊輔」”. ゲキサカ. 2012年6月16日閲覧。
- ^ “第4回「マリノスジュニアユース時代」”. ゲキサカ. 2012年6月16日閲覧。
- ^ “ワールドカップ代表“中村俊輔”の挫折”. 江原啓之でしあわせライフ (2007年7月8日). 2012年6月16日閲覧。
- ^ http://sukimagazine.com/sports/shunsukenakamura-freekick-legend-goal/
- ^ 1999Jリーグアウォーズ Jリーグ公式サイト 2011年4月17日閲覧。
- ^ 2000Jリーグアウォーズ Jリーグ公式サイト 2011年4月17日閲覧。
- ^ a b “Will home beckon Celtic's Japanese star Nakamura?”. ニューヨーク・タイムズ (2009年3月1日). 2011年4月3日閲覧。
- ^ “レジーナ歴代ベスト11に俊輔選出”. nikkansports.com. 2005年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年1月26日閲覧。
- ^ ドイツキッカー誌の選定による。
- ^ a b c “【今日は何の日?】中村俊輔が日本人初の欧州リーグMVP!”. Sportiva (2011年4月22日). 2011年5月23日閲覧。
- ^ スポーツ報知 (2006年10月15日). “俊輔ハット!オシム監督見たか…スコットランド・プレミアリーグ”. 2009年3月1日閲覧。
- ^ Shunsuke Nakamura to leave Celtic for Espanyol guardian.co.uk 2009年6月22日、2011年4月15日閲覧。
- ^ Spanish Inquisition: La Liga Worst Team Of The Season Goal.com 2009年12月29日、2011年4月15日閲覧。
- ^ El conflicto Nakamura EL PAÍS.com 2010年2月11日、2011年4月15日閲覧。
- ^ 必要とされなかったファンタジスタ (1/2)中村俊輔がスペインで活躍できなかった理由 スポーツナビ、2010年3月1日、2011年4月15日閲覧。
- ^ 中村、代理人とボロ移籍の話し合いへ - Goal.com、2010年2月2日
- ^ 中村俊輔「スペイン挑戦は失敗だと思わない」 (1/2)横浜F・マリノス入団会見 スポーツナビ 2010年2月28日、2011年4月15日閲覧。
- ^ “横浜Fマリノスオフィシャルウェブサイト”. 横浜Fマリノス. 2011年4月26日閲覧。
- ^ 2011シーズン キャプテン決定のお知らせ 横浜Fマリノス 2011年1月25日。同年4月11日閲覧。
- ^ マッチレポート 日本サッカー協会 2011年3月29日。同年4月11日閲覧。
- ^ “中村俊輔、史上初2度目のMVP獲得に古巣セルティックが祝福”. サッカーキング (2013年12月11日). 2015年4月21日閲覧。
- ^ 36歳の俊輔が5季連続で横浜主将 nikkansports.com 2015年1月31日。2015年2月25日閲覧。
- ^ 俊輔退院、長期離脱も早期復帰に意欲 nikkansports.com 2015年2月21日。2015年2月25日閲覧。
- ^ “横浜FM、4月末に復帰した中村俊輔が太もも肉離れで再離脱…全治3週間”. サッカーキング (2015年5月3日). 2015年5月3日閲覧。
- ^ “【横浜M】俊輔、J1単独最多FK弾 極限集中力で“ゾーン”入った”. スポーツ報知 (2015年7月20日). 2015年8月12日閲覧。
- ^ “7月の月間ベストゴールは横浜FM中村俊輔の直接フリーキックに決定”. サッカーキング (2015年8月11日). 2015年8月31日閲覧。
- ^ “MF中村俊輔の直接FKを英メディアも称賛「ベッカムのように曲げた」”. サッカーキング (2015年7月22日). 2015年8月31日閲覧。
- ^ “中村俊輔が直接FKで通算20得点目。今季3本目で自身の持つJ最多記録更新”. フットボールチャンネル (2015年10月3日). 2015年8月31日閲覧。
- ^ 横浜MF中村俊輔、井原超えクラブ最長6年目主将 nikkansports.com 2016年1月28日。2016年2月10日閲覧。
- ^ “横浜中村俊輔が鮮やかFK インパクト強く技あり弾”. 日刊スポーツ (2016年3月6日). 2016年3月6日閲覧。
- ^ “横浜M主力流出危機…俊輔は磐田と交渉、斎藤らも退団の可能性”. デイリースポーツ. (2016年12月30日) 2017年1月8日閲覧。
- ^ [https://this.kiji.is/190425521667966461 “横浜M中村、磐田移籍へ”]. 共同通信社. (2017年1月7日) 2017年1月8日閲覧。
- ^ "中村 俊輔選手が完全移籍加入" (Press release). ジュビロ磐田. 8 January 2017. 2017年1月8日閲覧。
- ^ “マリノス中村俊輔、ジュビロ磐田移籍に大筋合意「お金じゃない…」 年俸1億2千万円蹴って8千万円の磐田へ”. 産経新聞. (2017年1月8日) 2017年1月8日閲覧。
- ^ "中村俊輔選手の移籍に関して" (Press release). 横浜F・マリノス. 8 January 2017. 2017年1月8日閲覧。
- ^ “38歳中村俊輔、1番走った 磐田10番デビュー”. 日刊スポーツ. (2017年2月26日) 2017年3月14日閲覧。
- ^ [http://www.asahi.com/sp/articles/ASK3C42R4K3CUTQP00X.html “中村俊輔FK、新天地で一閃 GKの逆を突く技あり弾”]. 朝日新聞. (2017年3月11日) 2017年2月26日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 中村俊輔 日本サッカー協会 2011年4月13日閲覧。2008年6月14日までに中村が出場した全ての年代の代表の試合の一覧を見ることができる。
- ^ 俊輔の代表初選出に、先輩選手は“アイツ何なの”? Sports Watch、2009年4月18日
- ^ 選手情報 中村俊輔 日本サッカー協会 最終更新日2010年06月29日、2011年4月13日閲覧。
- ^ a b “トルシエ元日本代表監督、東京スポーツに「俊輔外し」の真相語る。” (2008年6月24日). 2011年5月28日閲覧。
- ^ 中村 俊輔(なかむら・しゅんすけ) スポニチ 最終更新日不明、2011年4月17日閲覧。
- ^ “一足先に熱い商戦がキックオフ! 渋谷・ワールドカップ関連ビジネス事情”. シブヤ経済新聞 (2002年2月22日). 2011年5月11日閲覧。
- ^ a b c d e Shunsuke NAKAMURA FIFA.com 2011年4月15日閲覧。
- ^ 正式には"adidas Golden Shoe"賞第3位“FIFA Confederations Cup France 2003”. FIFA.com. 2011年4月19日閲覧。より
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- ^ ドイツキッカー誌の選定による“ドイツ『キッカー』誌が選んだコンフェデ杯ベスト11に中村が選出”. @nifty (2005年7月1日). 2011年4月19日閲覧。 。
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- ^ “2010.06.19 ダーバン”. SAMURAI BLUE. 2011年4月26日閲覧。
- ^ “2010.06.24 ルステンブルク”. SAMURAI BLUE. 2011年4月26日閲覧。
- ^ “ラウンド16 2010.06.29 ツワネ/プレトリア”. SAMURAI BLUE. 2011年4月26日閲覧。
- ^ “俊輔 代表引退認める「うん、そうだよ」”. スポーツニッポン (2010年7月1日). 2010年7月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年9月24日閲覧。
- ^ THE LIST: Nos 40-31 of the greatest free-kick kings in history-Daily Mail 2009年 4年 7日
- ^ [1] 中村俊輔らW杯を彩るFKの名手たち 2006年06月11日
- ^ [2] 指揮官絶賛「俊輔はバッジオ」 SerieA.jp、2004年9月14日
- ^ 中田、中村が前日練習 8日に直接対決 ? 共同通信、2002年12月7日
- ^ [3]-Celtic Secure Second Successive Championship! 2007/04/25
- ^ 俊輔同僚「ナカムラのテクニックはチーム一だ」 ? 欧州通信、2007年10月3日
- ^ “必要とされなかったファンタジスタ(2/2)”. スポーツナビ. 2010年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年3月24日閲覧。
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- ^ “ネドヴェド氏「日本人選手は確かな戦力とみなされている」”. サッカーキング (2013年1月17日). 2015年5月23日閲覧。
- ^ “本田が封印解いた!俊輔と衝突した“6年前のFK” - 日本代表”. 日刊スポーツ (2015年9月6日). 2015年9月6日閲覧。
- ^ “FKの名手イリチッチ、手本とするキッカーは中村俊輔「彼は世界一」”. サッカーキング (2015年11月22日). 2015年11月23日閲覧。
- ^ “高速回転 3メートル以上カーブ”. YOMIURI ONLINE (2010年6月17日). 2011年4月19日閲覧。読売新聞は「カーブボール」の具体例として2006年11月にUEFAチャンピオンズ・リーグ、セルティック対マンチェスター・ユナイテッドの試合で決めたフリーキックを挙げる。
- ^ “1/100秒間に強く「押す」”. YOMIURI ONLINE (2010年6月9日). 2011年4月19日閲覧。この中で中村本人は「無回転を狙う時は、足で押すようなイメージ」と発言している。また、読売新聞は「ブレ玉の」具体例として2010年3月20日の横浜対川崎の試合で決めたゴールを挙げる。
- ^ “「スペース」瞬時に把握”. YOMIURI ONLINE (2010年7月10日). 2011年5月28日閲覧。
- ^ “中村俊輔のFKはメッシやCR7より上! 歴代ベストフリーキッカーTOP10に堂々ランクイン”. theWORLD (2016年2月18日). 2016年9月16日閲覧。
- ^ ““俊輔の左足”がメッシを抜いた! 英メディア選定「FKキッカー世界トップ5」にランクイン”. Football ZONE WEB (2016年4月11日). 2016年9月16日閲覧。
- ^ “中村俊輔が“FK能力値”で世界の十傑入り サッカーゲーム「FIFA17」でワールドクラス認定”. Football ZONE WEB (2016年9月16日). 2016年9月16日閲覧。
- ^ “俊輔、ベストファーザー賞”. サンケイスポーツ (2012年6月6日). 2012年6月16日閲覧。
- ^ 選手情報 中村俊輔 日本サッカー協会 最終更新日2010年06月29日 2011年4月13日閲覧。
- ^ クラブヒストリー 横浜Fマリノス 2011年4月13日閲覧。
- ^ brief history Celtic Football Club 2011年4月13日閲覧。
- ^ “俊輔2ゴールも最後は森島!!”. JOMO ALL STAR SOCCER (1999年7月31日). 2011年4月29日閲覧。
- ^ “【磐田】伝家の宝刀が炸裂!中村俊輔が直接FK得点記録を23に塗り替える移籍後初ゴール”. サッカーダイジェスト (2017年3月11日). 2017年3月11日閲覧。
外部リンク
- 公式ウェブサイト
- 中村俊輔 – FIFA主催大会成績 (英語)
- 中村俊輔 - National-Football-Teams.com (英語)
- 中村俊輔 - Soccerbase (英語)
- ShunsukePark