東映

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Lumi lapsi 402 (会話 | 投稿記録) による 2012年6月1日 (金) 22:07個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

東映株式会社
TOEI COMPANY, LTD.
種類 株式会社
市場情報
本社所在地 日本の旗 日本
104-8108
東京都中央区銀座3丁目2番17号
設立 1949年昭和24年)10月1日
業種 情報・通信業
法人番号 6010001034866 ウィキデータを編集
事業内容 映画の製作・宣伝・配給・興行等
代表者 代表取締役社長 岡田裕介
資本金 117億709万2928円
発行済株式総数 1億4768万9096株
(2011年3月31日現在)
売上高 連結:1088億円
単体:541億円
(2011年3月期)
純資産 連結:1056億円
単体:362億円
(2011年3月31日現在)
総資産 連結:2133億円
単体:1316億円
(2011年3月31日現在)
従業員数 連結:1000名
単体:322名
(2011年3月31日現在)
決算期 3月31日
主要株主 テレビ朝日 11.31%
TBSテレビ 8.23%
バンダイナムコHD 4.83%
東京急行電鉄 4.00%
(2011年3月31日現在)
主要子会社 東映ラボ・テック
東映アニメーション
タバック
東映テレビプロダクション
東映ビデオ
東映衛星放送
東映エージエンシー
ティ・ジョイ(T-joy)
テイ・アンド・テイ映画興行ほか
関係する人物 大川博岡田茂黒川渉三五島慶太五島昇高岩淡
外部リンク www.toei.co.jp/
特記事項:テレビ朝日は持分法適用関連企業である。
アニメ制作子会社の東映アニメーションはテレビ朝日・フジ・メディアHDの持分法適用関連企業でもある。
テンプレートを表示

東映株式会社(とうえい、TOEI COMPANY, LIMITED)は、日本映画の製作・配給・興行会社。

一般には映画会社として知られる。2005年現在、直営の映画館34館、2つの撮影所東映東京撮影所東映京都撮影所)を保有する。テレビ朝日の大株主[1]としても有名であり、同時にテレビ朝日が東映の筆頭株主になっている[2]

沿革

1949年昭和24年)10月1日設立の東京映画配給(とうきょうえいがはいきゅう)が1951年(昭和26年)、東京・大泉の旧新興キネマ東京撮影所を買収して貸スタジオを経営。やがて映画製作に進出した太泉映画(おおいずみえいが)と1938年(昭和13年)東急東横線の沿線開発を目的に設立され、東京渋谷横浜で映画館を経営していたが、戦後大映より京都第2撮影所(旧新興キネマ京都撮影所)を賃借して映画製作に進出した東横映画(とうよこえいが)を吸収合併、社名を東映と改めて出発した。 東横映画を吸収したことからも判る様に設立には東京急行電鉄が関わっている。阪急電鉄創業者の小林一三東宝を作ったように、五島慶太は東映を作った[3]。東横映画には、マキノ光雄根岸寛一を中心に、大陸から引き上げた満州映画協会OBが製作スタッフとして参加しており、そのまま東映に移行した彼らは松竹、東宝、大映に継ぐ後発映画会社である「第四系統」として誕生した会社を担うことになる。上記のように企業としては戦後派であるが、撮影所は東西ともに帝キネ→新興→大映第二(東横)を引き継いでおり、徹底して大衆娯楽路線を重視する路線も引き継ぐ。

1950年代に入ると、戦前から活躍する時代劇スターの片岡千恵蔵市川右太衛門月形龍之介大友柳太朗を擁し、さらに東映娯楽版によって若者に人気を得た中村錦之助東千代之介をデビューさせ、大川橋蔵北大路欣也らを加え、東映時代劇ブームを巻き起こして、1956年(昭和31年)には松竹を抜いて配給収入でトップとなり黄金時代を築いた。しかし、明朗な勧善懲悪の東映時代劇は1960年代に入ると行き詰まり、末期にリアリズムの集団時代劇を生み出すものの終焉[4][5]。映画不況が始まった1960年代に入ると時代劇は客が入らなくなり、コストダウンのため1963~64年にかけて、京都撮影所の大リストラを敢行し、東映テレビ・プロダクション、東映動画へ大半の従業員が配転される。また取締役俳優である片岡千恵蔵、市川右太衛門の両御大は取締役の地位は留任するもの専属契約が切られ、右太衛門は映画から引退。演出料が非常に高い渡辺邦男松田定次佐々木康などの時代劇の大御所監督にも辞めてもらった。

一方、東映現代劇からは1950年代半ばから1960年代前半にかけ波島進江原真二郎中原ひとみ高倉健佐久間良子水木襄梅宮辰夫千葉真一三田佳子らがデビューしている。1957年(昭和32年)には東京大泉撮影所の隣に動画専用スタジオを建設し、前年に日動映画を合併して設立した東映動画(現・東映アニメーション)を移転させた。1958年(昭和33年)には競合会社よりもいち早くテレビ映画の製作に着手。同年に大泉に東映テレビ・プロダクションとその撮影所を設ける。観客動員No.1となった東映は1960年(昭和35年)に第二東映を設立し、制作本数を倍増して日本映画界の売上50%のシェアを目指した。同年に第二東映が新東宝を吸収合併し、時代劇を新東宝が現代劇を第二東映が制作する新会社の新東映の設立が仮調印直前まで進むも頓挫[6]。翌1961年に第二東映はニュー東映と改称するが、うまくいかずに2年で解散した。

1963年(昭和38年)からは時代劇に代わって、明治期から昭和初期を舞台にし勧善懲悪の世界の時代劇の変種でもある[7]仁侠物を京都撮影所で量産してブームを作った(東映任侠映画)。1965年(昭和40年)からの鶴田浩二、高倉健、藤純子らを擁した任侠路線は、10年続いた。1973年(昭和48年)以降は、菅原文太の『仁義なき戦い』シリーズに始まる実録物や千葉真一の格闘映画がブレイク。千葉の格闘映画は日本国外でも大ヒットしたが、プログラムピクチャーとしてのヤクザ映画路線は1970年代末に終了した[8][9]

この間、1954年(昭和29年)にはプロ野球・東急フライヤーズ(現北海道日本ハムファイターズ)の運営を東京急行電鉄から受託し、東映フライヤーズとした。また、1959年(昭和34年)開局の日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)に資本参加し同局番組の有力な供給源となるなど、来るべきテレビ時代に先手を打った。ところが、1964年(昭和39年)9月30日には資本面で東急から分離独立する。この背景には嫌々ながら東映の社長に派遣され、多重債務を抱え自転車操業で倒産寸前だった同社の再建を成功させた大川博と、東急本体を引き継ぎ東急グループの基本を沿線開発に据えた五島昇との間に確執があったと言われている。東映フライヤーズは引き続き共有の形を採った。ただし、2011年現在も東京急行電鉄は第4位株主であり、関係会社ではある。

1960年代半ばから映画の斜陽化が顕著になると、ヤクザもの映画で観客動員を保つ一方で、1971年(昭和46年)二代目社長に就任した岡田茂は、テレビに取り込まれない客層を狙い実録任侠ものやエログロものを量産して興行収入で他社を圧倒した。また時代劇が斜陽になったことから1975年(昭和50年)に京都撮影所のオープンセットの維持を画して、一部を東映太秦映画村とした。1966年(昭和41年)、日本教育テレビ持株の半数を朝日新聞社へ譲渡し、成績不振と黒い霧事件の余波で観客数が伸び悩んでいた東映フライヤーズを東急と共に1972年(昭和47年)オフに日拓ホームに売却。その一方で、シティホテル不動産分譲、撮影所余剰地の複合施設開発など新規事業を開拓して事業の再構築を行った。本業の映像部門でも、香港映画限定ながら洋画配給部門を新設し邦画部門の不振を補ったほか、劇場用映画以外にテレビ映画の制作にも積極的に取り組んだ。

1975年(昭和50年)に新たなジャンルであるパニック映画新幹線大爆破』を公開したが、日本国内ではヒットしなかったものの、日本国外では大ヒットした。同年の『トラック野郎』は『新幹線大爆破』よりヒットしたため、シリーズ化された。

1978年正月公開の『柳生一族の陰謀』から従来の量産体制による2本立て興行に代わって、大作映画1本立て長期興行路線が定着。それとともに、子会社に東映セントラルフィルムを設立して、同年に『最も危険な遊技』を第1作として旗揚げ。1988年に解散するまで、本社の大作路線を補完する中小規模予算のプログラムピクチャーの製作会社として、あるいは外注したピンク映画の配給会社として活動した[10][11][12]。1980年に『二百三高地』が大ヒットして、制作部門を合理化するとともに一時の東映カラーだった不良性感度の路線を一掃した[13]

1980年代に入ると、これまで得意としてきたアウトローものやヤクザ映画が苦戦するも、角川春樹が製作したいわゆる角川映画を数多く配給して好成績をあげた。『ビー・バップ・ハイスクール』シリーズは1980年代前半に人気を呼び、『極道の妻たち』や宮尾登美子原作作品など女性路線も開拓した。一方、1960年代に始まった東映まんがまつりは、1980年代後半から1990年代前半まで東映アニメフェアとして高い人気を誇ったが、1996年平成8年)からは凋落していった[14]。東映自体もまた、角川映画の勢いとアニメ映画の全盛期が過ぎて、1990年代に入るとそれまで東宝と拮抗していた興行成績が引き離されていった[15]

1989年(平成元年)からは東映Vシネマというオリジナルビデオをリリースすることで映画の制作数を補うなど、スクリーン以外での映像展開を積極的に進めて対応を図っている。

2011年(平成23年)9月から、国際営業部が新レーベル「TOEI TRY△NGLE」(東映トライアングル)で約30年ぶりに日本国外映画の買い付けと配給を行う[16]

社風

東映は、経理畑出身の大川博による徹底した予算主義と、徹底作品中心による大衆路線を採用した[17][18][19][20]。無駄なフィルムを使うと即座に始末書を書かされたと言われる[21]

スター・システム撮影所システムによって、特に時代劇全盛期には、序列化されたスターを頂点としてスタッフと俳優が派閥化されていた[22]。スターについても男性スターが中心で、女優はいわゆるお姫様女優であった[23][24][25]。時代劇ブームが終焉した1960年代以降は、ヤクザ映画やアウトローによるエロと暴力の路線の映画制作を行い、この路線を不良性感度と標榜[26]。1980年代半ばの『ビー・バップ・ハイスクール』シリーズまでこの路線で集客した[27]。しかし、鶴田浩二や高倉健など二枚目スターが看板の任侠路線には女性客も入っていたが、1970年代半ばからの実録路線以降からは男性客が多くなっていき[28]、犯罪や暴力の映画から女性客は離れていった[29]

さらにここ数年は連続ドラマを「最終回」と銘打って終わらせた後に「スペシャル」と称して継続させるという前言撤回的な手法を用いている。[30] だがこの風習が蔓延しすぎた影響か、酷似した方式で最終回を展開した「仮面ライダーディケイド」では放送後にテレビ朝日の社長が謝罪するという異例の事態にまで発展した。

正社員の採用において学歴や縁故を大変重視しており、中島貞夫の著書によると東大早大慶大日大芸術学部、京都撮影所枠で京大同大以外の学生は採用に至ることは縁故以外ではなかったという。しかしながら、近年、この傾向は弱くなりつつあり、上記の大学卒以外や専門学校卒からの採用も多くなってきている。また、一時期エース監督として屋台骨を支えた鈴木則文、関本郁夫はそれぞれ立命館大学中退、工業高校卒であり、このように他の大手で戦後に大卒でない採用社員を監督として活躍させた例はほとんどない。また、東映採用ではないが新東宝から移籍し1960年代東映きってのヒットメーカーとなった石井輝男は旧制中学卒であり、1970年代のエース深作欣二は日大芸術学部ではあるが映画学科ではなく文芸学科の卒業。少なくとも撮影所には採用人事の学閥重視を一蹴するような実力主義が見られる。

大川親子、岡田親子ともに最初はサラリーマン的立場であった幹部が実質上の世襲経営者化する例が続いており、強烈な指揮権によってもっとも製作カラーの鮮明な映画会社であり続けている。おしゃれなデートコースとしての映画館という風潮とは対極に位置することもあり、ライバルであった東宝には大きく水をあけられたものの、早々に自社製作を事実上中止した同社とは対照的にテレビ、アニメを含め徹底した自社製作を貫いてきた。

オープニング

東映映画のオープニングといえば3つの岩に荒波が打ち付け、三角形のロゴマークが飛びだすシーンが有名で、アニメ・ゲームやバラエティでしばしばパロディにされる事もある。1970年代のヤクザ映画全盛期には、莫大な興行収入を得ながらもスタッフやキャストへの金払いが悪かった事、強引なブッキングを強いた事などから、「東映の三角マークは義理欠く恥欠く人情欠くの三欠くだ」と揶揄された。

3つの岩は、東映の前身である東京映画配給、太泉映画、東横映画の3社の統合と結束をイメージしている。

社内での正式な呼び名は「荒磯に波」である。撮影場所は千葉県銚子市犬吠埼とされている。1955年(昭和30年)公開の『血槍富士』(内田吐夢監督作品)で初めてオープニングに登場し、1957年(昭和32年)公開の『旗本退屈男 謎の蛇姫屋敷』(佐々木康監督作品)から毎回使われるようになった[31]。現在使われているものは4代目になる。

現在のオープニングは、CG加工された画面が現れた後、一転して波飛沫が岩にかかるおなじみのシーンに変わる。そこにはすでにロゴマークがあり、かつてのように岩の合間から飛びだしてこない。

基本的に同時代に公開された作品は、全て共通のオープニングの映像が用いられている。例えば、深作欣二の『火宅の人』で作品内容に沿うように木村大作日本海で新たに撮影したオープニングを使おうとしたところ、岡田茂社長から「会社の顔を変えるとは何事だ」と一喝されて、却下された[32]。例外として、中島貞夫の『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』は、当時スタンダード・サイズのオープニングが紛失していたため、銚子の灯台で撮り直されている[33]

テレビ

歴史

映画と並び会社の中核とされるのがテレビ向け作品である。

映画会社の中では東映がテレビに最も積極的であり、日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日)の設立にあたっては資本参加をし、1958年昭和33年)5月にテレビ課を設けた。さらに1958年(昭和33年)7月に東映テレビ・プロダクションを設立して、東京撮影所と京都撮影所でテレビ映画の制作を開始した。1959年(昭和34年)2月から放送開始の『風小僧』がその第1弾である。初期においては制作したテレビ映画は放送の3ヶ月後に劇場向けの添え物として再編集し、東映特別娯楽版として配給も行う再利用も行っていた。そして1961年(昭和36年)にNETとテレビ映画制作の業務提携を結び、1969年(昭和44年)には年に35シリーズ、826本を制作し[34][35]、なかでも前年から放送し始めた『キイハンター』は視聴率30%以上を記録した。

株式会社東映テレビ・プロダクションは、放送したテレビ映画を劇場向けに配給するために1959年(昭和34年)2月に東映テレビ映画株式会社と商号を変更し、さらに5月に第二東映株式会社となったため、1959年(昭和34年)11月に新たにテレビ映画制作業務を行う法人としてかつての同名の株式会社東映テレビ・プロダクションを設立した[36]。1964年には、東映京都撮影所の敷地内に東映京都テレビ・プロダクションが発足[37]

東西の東映テレビ・プロは、NETが50%資本参加したために原則として筆頭株主であるNET専門の制作であった[38]。1960年代半ばまでは業界的にはNET系のプロダクションと見られていたと、キャラクター作品担当のプロデューサーだった平山亨は後日雑誌「宇宙船」で回顧している。逆にNETの側は基本的に外注は東映が独占するという取り決めがあった[39]。NET以外の他局には、東映東京撮影所内に新たに設けられた東映東京制作所と、京都では京都撮影所とは別機構として設けられた東映京都制作所の両制作所が制作を請け負うことになった。京都制作所は後に東映太秦映像と改称された[40]

東映京都テレビ・プロは時代劇や近代もの、京都が舞台の現代劇を、東映太秦映像は別会社の制作下請けを、東映東京制作所(大泉および生田スタジオ)は主にキャラクターものを、東映テレビプロ(大泉)は物語中心の作品を、それぞれ鎬を削りながら量産を続けた。

テレビ参入当初からテレビ時代劇は、1959年(昭和34年)のNETの開局からレギュラー枠として制作が続けられて一時は大きな柱だったが、時代劇の減少に伴い、東映京都撮影所の本編スタッフが時代劇も手がけるようになり、1988年(昭和63年)の『名奉行 遠山の金さん』の第1シリーズが終了した時点で時代劇を主としてきた京都の東映京都テレビ・プロは解散[41]。さらに2007年平成19年)9月をもってテレビ朝日の東映制作のレギュラー時代劇は消滅している[42]

1964年(昭和39年)から映画館で上映されていたプログラム「東映まんがまつり」では子供向けのアニメや特撮などのテレビ作品はテレビからのエピソードがそのまま上映されていたが、1980年代頃からは新作が増えてテレビの再利用はなくなっていった。

特色

東映製作のテレビ作品は基本的に物語・構成面にはあまり力を入れておらず、回を追うごとに基本設定や全体的な展開が変わることは日常茶飯事に近い。またオープニングやエンディングも初回とそれ以降で微妙に映像・音修正を加えることが多い[要出典]

また作品の企画権はプロデューサーに委ねられており、近年では早稲田大学のサークル「怪獣同盟」の出身者などといった個性派のプロデューサーも多い[要出典]

70年代以降のキャラクターものに関しては他社の多くが原作なしなのに対し、東映では原作者を用いており[要出典]、特に石ノ森章太郎とのタッグが多かった。

主なプロデューサー

映画

テレビ

チームで活動し、一人の業績に出来ない場合は「八手三郎」。

主な監督

主な脚本家

主な音楽家

主なカメラマン

主な俳優(男性)

時代劇

現代劇

任侠

実録

特撮

主な俳優(女性)

主要映画

1950年代

1960年代

1970年代

1980年代

1980年
1981年
1982年
1983年
1984年
1985年
1986年
1987年
1989年

1990年代

2000年代(2005年まで)

2006年

2007年

2008年

2009年

2010年

2011年

2012年

主要テレビ作品

1950年代

1960年代

1970年代

1980年代

1990年代

2000年代

2010年代

海外作品

参考:放送枠別

その他の作品

その他

関連会社

東映俳優センター ほか数社

脚注

  1. ^ かつては筆頭株主、現在は第2位。テレ朝株の16%を保有している
  2. ^ 東映株の11%を保有
  3. ^ 東急電鉄と阪急電鉄はお互いの子会社がライバルであり、特に百貨店やプロ野球球団では長年のライバル関係にあった
  4. ^ 関根忠郎、山田宏一、山根貞男『惹句術 映画のこころ 増補版』ワイズ出版、1995年、p.70.
  5. ^ 山根貞男、米原尚志『仁義なき戦いをつくった男たち 深作欣二と笠原和夫』NHK出版、2005年、p.71
  6. ^ 鈴木義昭『新東宝秘話 泉田洋志の世界』プラザ、2001年、pp.234-235
  7. ^ 山根貞男、米原尚志『仁義なき戦いをつくった男たち 深作欣二と笠原和夫』NHK出版、2005年、p.154
  8. ^ 大高宏雄『仁義なき映画列伝』鹿砦社、2002年、p.217.
  9. ^ 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、p.178.
  10. ^ 梅林敏彦『シネマドランカー 荒野を走る監督たち』仮縫室、1978年、p.31、p.131
  11. ^ 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、p.184、p.357
  12. ^ 高部務、若月祐二『もうひとつの「おくりびと」 滝田洋二郎監督の原光景』東邦出版、2009年、p.95
  13. ^ 川崎宏『狂おしい夢 不良性感度の日本映画 東映三角マークになぜ惚れた!?』青心社、2003年、p.17、p.220
  14. ^ 大高宏雄『日本映画逆転のシナリオ』WAVE出版、2000年、pp.74-75
  15. ^ 『日本映画逆転のシナリオ』p.200-201.
  16. ^ “東映:新レーベル「東映トライアングル」発足 ジャッキーの大作など30年ぶりに外国映画配給へ”. 毎日新聞デジタル. (2011年8月11日). http://mantan-web.jp/2011/08/11/20110811dog00m200027000c.html 2011年8月12日閲覧。 
  17. ^ 星野直樹「映画に賭ける男」『真剣勝負に生きる』大川博士、ダイヤモンド社、1967年、pp.153-156.
  18. ^ 山根貞男、米原尚志『仁義なき戦いをつくった男たち 深作欣二と笠原和夫』NHK出版、2005年、p.102
  19. ^ 『キネマ旬報ベスト・テン全史1946-1996』キネマ旬報社、1984年初版、1997年4版、p.70
  20. ^ 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、p.84.
  21. ^ 工藤栄一、ダーティ工藤『光と影 映画監督工藤栄一』ワイズ出版、2002年、p.108
  22. ^ 中島貞夫『遊撃の美学 映画監督中島貞夫』河野真悟編、ワイズ出版、2004年、p.153
  23. ^ 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、p.291.
  24. ^ 『別冊映画秘宝VOL.2 アイドル映画30年史』洋泉社、2003年、p.72
  25. ^ 中島貞夫『遊撃の美学 映画監督中島貞夫』河野真悟編、ワイズ出版、2004年、p.153
  26. ^ 佐藤忠男『日本映画史3 1960-1995』岩波書店、1995年、p.135
  27. ^ 大高宏雄『興行価値』鹿砦社、1996年、p.159.
  28. ^ 山根貞男『日本映画の現場へ』筑摩書房、1989年、p.17.
  29. ^ 佐藤忠男、山根貞男責任編集『シネアルバム 日本映画1983 1982年公開映画全集』芳賀書店、1983年、p.85
  30. ^ 東映独自の手法ではない。「さらば鬼平犯科帳」の後に同じスタッフ・キャストで新作を作り続けている松竹ゴジラVSデストロイアで完結させながらも5年後に復活させた東宝など他社での前例もある。
  31. ^ 日本雑学研究会『誰かについしゃべりたくなる話のネタ・雑学の本』幻冬舎、2000年、p.53
  32. ^ 木村大作、金澤誠『誰かが行かねば、道はできない 木村大作と映画の映像』キネマ旬報社、2009年、p.158
  33. ^ 中島貞夫『遊撃の美学 映画監督中島貞夫』ワイズ出版、2004年、p.130
  34. ^ 古田尚輝『鉄腕アトムの時代 映像産業の攻防』世界思想社、2009年、pp.82-84.
  35. ^ 田中純一郎『日本映画発達史IV 史上最高の映画時代』中央公論社、1980年、pp.272-273.
  36. ^ 『東映十年史』東映株式会社、1962年、pp.254-261.
  37. ^ 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、p.148.
  38. ^ 能村庸一『テレビ時代劇史 ちゃんばらクロニクル1953-1998』東京新聞出版局、1999年、p.194.
  39. ^ 『テレビ時代劇史』p.148
  40. ^ 『テレビ時代劇史』p.106
  41. ^ 『テレビ時代劇史』p.324
  42. ^ テレビ朝日 火曜時代劇を9月で打ち切り J-CASTニュース 2007年2月2日

外部リンク