原田昇左右
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原田 昇左右 はらだ しょうぞう | |
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生年月日 | 1923年7月15日 |
出生地 | 日本 静岡県焼津市 |
没年月日 | 2006年7月2日(82歳没) |
死没地 | 日本 東京都目黒区 |
出身校 |
東京帝国大学第二工学部卒業 (現・東京大学工学部) |
前職 |
農林省官僚 運輸省官僚 |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 |
正三位 勲一等旭日大綬章 工学士(東京帝国大学・1946年) |
子女 | 長男・原田令嗣(元衆議院議員) |
公式サイト | 衆議院議員はらだ昇左右のホームページ(2003年11月25日時点のアーカイブ) |
第54代 建設大臣 | |
内閣 | 第1次海部内閣 |
在任期間 | 1989年8月10日 - 1990年2月28日 |
選挙区 |
(旧静岡1区→) 静岡2区 |
当選回数 | 9回 |
在任期間 | 1976年12月10日 - 2003年10月10日 |
原田 昇左右(はらだ しょうぞう、1923年〈大正12年〉7月15日 - 2006年〈平成18年〉7月2日)は、日本の政治家。自由民主党の元衆議院議員(9期)。静岡県焼津市出身。愛称は「ハラショー」。元衆議院議員の原田令嗣は長男。正三位勲一等旭日大綬章。
来歴・人物
[編集]静岡中学、静岡高校を経て、1946年、東京帝国大学第二工学部卒業後、農林省(現・農林水産省)に入省。後に運輸省に転じる。経済企画庁出向、船舶局、外務省出向(ハンブルク領事)、海運局調査課長、統計調査部調査課長、航空局国際課長、大臣官房開発課長などを歴任[1]。
1974年に運輸省大臣官房審議官を最後に退官、1976年の衆院選に西村直己の後継者として旧静岡1区から出馬し初当選(当選同期に愛知和男・鳩山邦夫・中村喜四郎・中島衛・西田司・池田行彦・堀内光雄・相澤英之・津島雄二・鹿野道彦・塚原俊平・中西啓介・与謝野馨・渡辺秀央・中川秀直・甘利正など)。以後連続当選9回。自民党では宏池会に所属。通産政務次官を経て、1989年に第1次海部内閣の建設大臣として初入閣。衆議院予算委員長なども務めた。
2000年に派閥領袖である加藤紘一が起こした「加藤の乱」では、大半の宏池会幹部が加藤に反発する中、数少ない加藤の同調者となる。2002年、春の叙勲で勲一等旭日大綬章を授けられた。2003年にくも膜下出血で倒れ、同年の総選挙には出馬せず政界を引退した。
2006年7月2日午前7時47分、急性腎不全のため東京都目黒区内の病院で死去[2]。82歳。死後、正三位に叙された。
2017年(平成29年)11月17日、生家(焼津市浜当目)である「原田家住宅」(1875年建造)の主屋などが国の登録有形文化財に登録された[3][4][5]。
関連人物
[編集]脚注
[編集]- ^ 月刊官界 1982年3月
- ^ “原田昇左右元建設相が死去/「加藤の乱」で共に”. 四国新聞社 (2006年7月2日). 2020年7月15日閲覧。
- ^ “焼津の原田家住宅 古民家カフェに”. 静岡新聞 (2021年9月27日). 2022年4月16日閲覧。
- ^ “国文化財のカフェ 9日営業開始 焼津・原田家住宅”. 静岡新聞 (2022年4月7日). 2022年4月16日閲覧。
- ^ 文化庁. “原田家住宅主屋”. 文化遺産オンライン. 2022年8月17日閲覧。
議会 | ||
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先代 島村宜伸 |
衆議院予算委員長 2000年 |
次代 野呂田芳成 |
先代 粕谷茂 |
衆議院決算行政監視委員長 1998年 - 1999年 |
次代 中村正三郎 |
先代 小杉隆 |
衆議院環境委員長 1993年 |
次代 奥田幹生 |
先代 大久保直彦 |
衆議院科学技術委員長 1986年 - 1987年 |
次代 大坪健一郎 |
公職 | ||
先代 野田毅 |
建設大臣 第54代:1989年 - 1990年 |
次代 綿貫民輔 |