杉山憲夫
| 杉山 憲夫 すぎやま のりお | |
|---|---|
| 生年月日 | 1930年3月3日 |
| 出生地 | 静岡県 |
| 没年月日 | 2012年2月27日(81歳没) |
| 出身校 | 静岡県立裾野高等学校 |
| 所属政党 |
(自由民主党→) (新生党→) (新進党→) 自由民主党 |
| 称号 |
正四位 旭日重光章 |
| 親族 | 杉山盛雄(子) |
| 選挙区 |
(静岡県第2区→) 比例東海ブロック |
| 当選回数 | 5回 |
| 在任期間 | 1986年 - 2003年 |
杉山 憲夫(すぎやま のりお、1930年3月3日 - 2012年2月27日)は、日本の政治家。
衆議院議員(5期)、静岡県議会議長、静岡県議会議員、清水町議会議員、学校法人沼津学園理事長(第4代)を務めた。静岡県議会議員の杉山盛雄は長男。
来歴
[編集]静岡県駿東郡清水村(現清水町)堂庭出身。三男五女の八人兄弟の長男であった。実家は農業を営んでいた[1]。
中学卒業後、当初は静岡県立田方農業高等学校へ進学。片道1時間半の道のりを徒歩で通学した[1]。
3年在学時、教員の奮う暴力に反発し、同級生を集めて授業をボイコット。その後の教員との衝突もあり、静岡県立裾野高等学校へ転校する[1]。
大学進学を希望していたが、家庭の事情であきらめ家業を継ぐ。1954年2月に結婚する。
このころ、遠藤三郎衆議院議員と知り合いその後援会の連合青年部長に就任。1952年の総選挙で遠藤が再選を果たした際、その選挙活動中に杉山が聴衆へ蜜柑と煎餅を配ったことで買収の疑いをかけられ逮捕されるも、取り調べの結果、無罪放免となった[1]。
1958年、遠藤の勧めでブロック会社の沼津工場長に就任する。1963年には地元である清水村の村議会議員選挙に立候補し当選。政治の道へと進む。清水村はその年の11月に町制施行で清水町となり、引き続き清水町議会議員を務めた[1]。
1967年には静岡県議会議員に初当選。自由民主党静岡県連青年局長、静岡県議会議員総会長を歴任する[1]。
1976年、地元政界で不評だった川野辺静に代わり、杉山を翌年夏の参議院選挙に擁立する動きが県議たちから起こる。しかし、川野辺が派閥領袖の田中角栄に仲介を依頼したことで、杉山の立候補には至らなかった[2]。
1979年、静岡県議会議員4期目の当選を果たし、翌1980年6月30日には静岡県議会議長に就任する[1]。
1981年、県議会議長を退任し、自民党静岡県連幹事長に就任。
1983年の第37回衆議院議員総選挙に自民党公認で立候補するも、次点で落選する。
3年後の第38回衆議院議員総選挙で初当選。連続当選5回(当選同期に鳩山由紀夫・斉藤斗志二・三原朝彦・村井仁・逢沢一郎・金子一義・武村正義・杉浦正健・園田博之・中山成彬・谷津義男・新井将敬・石破茂・笹川堯・武部勤・井出正一・村上誠一郎など)。自民党では田中派→竹下派に所属した。
当初は金丸信の側近として活躍。1992年の東京佐川急便事件で金丸が議員辞職すると小沢一郎側近となり、当選同期の北村直人、同僚議員の藤井裕久、岡田克也ら竹下派の若手議員とともに新生党の結党に参加。その後新進党所属となるが、後に小沢と決別し1996年には自民党に復党した(新進党からは除名処分となった)。
復党後は宏池会に所属した。建設政務次官・衆議院運輸委員長・衆議院環境委員長などを歴任。
2000年の「加藤の乱」では、第2次森内閣への内閣不信任決議案に賛成の意思を示した派閥領袖の加藤紘一に反対する[3]。この際、谷垣禎一とともに、敗北を確信しながらも賛成票の投票へ向かおうとする加藤の慰留に努め「死ぬも生きるも一緒だ」と声を振り絞った。このシーンは乱における象徴的な場面となり、映像にも記録されている。
2003年の第43回衆議院議員総選挙で、党の比例代表定年制に抵触し、立候補せず政界から引退した。
2012年2月27日、腎盂がんのため、死去した[5]。81歳没。死没日付をもって正四位に叙された[6]。
人物
[編集]水面下の工作が得意で、かつ、極端な猪首であったことから金丸信から「モグラ」と呼ばれたことがある。また、学生時代の愛称は「照國」(第38代横綱)であった[1]。
関連文献
[編集]- 『笑顔の泥んこ人生 人間・杉山憲夫』大下英治、しょういん、2003年。
脚注
[編集]外部リンク
[編集]| 議会 | ||
|---|---|---|
| 先代 辻一彦 |
1996年 - 1997年 |
次代 大野功統 |
| 先代 阿部昭吾 |
1996年 |
次代 佐藤謙一郎 |