若松勉
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 北海道留萌市 |
生年月日 | 1947年4月17日(77歳) |
身長 体重 |
168 cm 76 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1970年 ドラフト3位 |
初出場 | 1971年4月11日 |
最終出場 | 1989年10月17日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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野球殿堂(日本) | |
選出年 | 2009年 |
選出方法 | 競技者表彰 |
この表について
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若松 勉(わかまつ つとむ、1947年4月17日 - )は、北海道留萌市出身の元プロ野球選手(外野手)・指導者・監督、野球解説者、野球評論家。
現役時代はヤクルトアトムズ・スワローズで19年の長きに渡り活躍し、引退後はヤクルトで打撃コーチ・二軍監督・監督を務めた。2009年野球殿堂入り。
経歴
北海高校を卒業後、電電北海道を経て、1970年のドラフト3位でヤクルトアトムズに入団。公称168cm(自称166cmだったという[1])という小柄な体型のため、プロ入り時はプロ選手としてやっていく自信がなかった。夫人に「ダメだったら北海道に帰って二人で焼き鳥屋でもやろう」と言って入団を決意したという[2]ただし、ベースボールマガジン1981年3月号のインタビューでは、「お茶漬け屋でも開こうかと思った」という旨の発言をしている。またラーメン屋という説もあり、真偽は不明である。その後は小柄な体型ながら、プロ入り前から若松の素質に目をつけていた中西太ヘッド兼打撃コーチとのマンツーマントレーニングの成果もあり[3]、1年目より左翼手のレギュラーに定着、2年目の1972年には首位打者を獲得し、リーグを代表する外野手となる。
1977年より中堅手にコンバートされ2度目の首位打者を獲得、1978年にセ・リーグMVPを獲得し、ヤクルト初の日本一に貢献した。晩年は代打の切り札として活躍し、1989年に現役引退、ヤクルト一筋19年、42歳まで現役を全うした。なお現役選手を除き、通算打率は日本人として最高打率を残している。
また、以上のことから「小さな大打者」の異名も持つ。
引退後は、1990年〜1992年にテレビ朝日・文化放送・日刊スポーツの解説者を務め、1993年〜1994年ヤクルト二軍打撃コーチ、1995年〜1996年二軍監督、1997年〜1998年一軍打撃コーチ、1999年〜2005年監督を歴任し、2001年にはリーグを優勝し日本シリーズでは近鉄を制して日本一に輝く。スワローズで唯一、選手・コーチ・監督としてリーグ優勝、日本一を経験している。
- 監督就任にあたっては、野村克也前監督のID野球からの脱却をスローガンとしたものの、そう簡単にチームカラーを変えるわけにも行かず、ID野球を払拭できずむしろ尊重するようにまでなった。その一方で、監督就任以来掲げていたスピード野球はなかなか浸透しなかった。特に野手は毎年のように若手戦力不足に泣かされ、野村前監督時代からのベテランを多く起用する傾向があったが、2005年になってようやく青木宣親・宮出隆自らの若手がレギュラーを張るまでになった。投手起用に関しては、率直に本分ではないことを認め、ほぼ伊東昭光投手コーチに一任していた。古田敦也曰く「この人を勝たせてあげないといけないと思ってしまう監督」。
2006年より、フジテレビジョン(2008年まで)・北海道文化放送・ニッポン放送解説者・サンケイスポーツ評論家に就任。
現役時代に付けていた背番号1を永久欠番にとの署名が多く集まり、以降背番号1は池山隆寛、岩村明憲、青木宣親といったチームの顔となる生え抜き選手のみに着用が許される番号となった。
日本プロ野球名球会会員。2009年1月13日、2009年度野球殿堂表彰者選考に於いて競技者部門のプレーヤー表彰で選出され、野球殿堂入りした。同年7月12日神宮球場で行なわれた東京ヤクルト対横浜戦は皇太子徳仁親王一家が観戦した台覧試合となり、ヤクルトスワローズOBの若松が解説役を務めた。12月3日には若松の野球殿堂入りを祝うパーティーが行われ加藤良三コミッショナー、王貞治、長嶋茂雄、金田正一、中西太、古田敦也、岩村明憲、五十嵐亮太、青木宣親ら約1,100人が出席した。余談ではあるが、このパーティーで青木が「1」を付ける決意を固めた。2011年、ヤクルトの浦添キャンプで臨時打撃コーチを務める[4]。
人物
この選手の人物像に関する文献や情報源が必要です。(2012年2月) |
1978年に留萌市民栄誉賞、1981年に道民栄誉賞を受賞するなど北海道での若松の人気は非常に高い。2005年5月28日には札幌市円山球場開場70年記念試合日本ハムvsヤクルト戦の始球式で打者として打席に立った。現役監督が公式戦の始球式に参加するのは異例だが、ビジターであったにもかかわらず若松には大声援が送られた。年一度札幌ドームで開催されるヤクルト主催試合は、佐藤真一や五十嵐亮太、米野智人など北海道に縁のある選手が在籍していたこともあり、巨人戦や阪神戦に次いで多くの観客で埋まっていた。その後日本ハムの札幌移転とセ・パ交流戦開始に伴い、北海道でのヤクルト主催試合は2004年限りで打ち切られた。
その口下手の度合を表すエピソードとしては、若松と行動を共にすることの多かった現ヤクルト監督の小川淳司によれば、イベント等でのあいさつが終わる度に「今のでよかったか?オレ、変なこと言ってなかったか」と尋ねられていた[5]そうである。2001年10月に監督として初のリーグ優勝を達成した際のインタビューで、「ファンの皆様、ありがとうございます」と言うつもりだったのだが、元来の緊張屋が顔を出してしまい「ファンの皆様、本当にあの〜、あの…、おめでとうございます」と言ってしまい、場内は大爆笑に包まれた。若松の口下手で実直な人柄の現れであり、この年の流行語大賞にも選ばれた。日本シリーズ前のファンへの挨拶では「一戦、一戦、頑張りますので、オールスターでも、いや、日本シリーズでも皆様のご声援よろしくお願いします」と言ってしまい、またしても会場は大ウケとなった。日本シリーズ優勝の際のインタビューでは「本当にファンの皆様、改めまして、日本一、おめでとうございます!!」と堂々とファンに叫んだ。先のリーグ優勝の後に「いや、元々からおめでとうございますって言おうと思ってたんだよ」とうそぶいていたが、今度は緊張せずにしゃべることができた。
誰に対しても礼儀正しく平身低頭であるため年俸交渉でも球団ともめることがほとんどなく、球界を代表する打者として毎年高成績を残し名球会入りするほどの選手であったにも関わらず、現役時代の推定最高年俸が5,200万円(1988年・当時のヤクルト球団の日本人最高年俸)であった。現役引退を発表した記者会見では終始涙ながらの会見となり、発言内容よりも号泣する若松にその純粋な人柄が強く映し出され、非常に印象深いものとなった。現役引退時に「FNNスーパータイム」のスポーツコーナーを担当していた有賀さつき(当時フジテレビアナウンサー)から「来年も頑張ってください」とインタビューを受けたという。本人の生真面目な性格のためか、現役引退後にヤクルトの打撃コーチや二軍監督を務めた頃は選手やチームのことを考えすぎてストレスで胃を壊したり、腰痛に悩まされることも多かった。現役時代の監督でありヤクルトを日本一に導いた広岡達朗を尊敬しており、広岡が球団と対立し監督を辞めた時、「どうして辞めてしまうんですか?」と泣きながら電話してきた唯一人の主力選手といわれる。野村監督の勇退を受けてヤクルト監督に就任した時も、「果たして僕に監督ができるのでしょうか」と広岡に相談している。
日本シリーズ優勝の際、体重が軽い為、胴上げの際に宙返りになった事も話題となった。ちなみにこれは、石井一久らの策略であったらしい。監督時代の晩年は腰痛に悩まされたが、本人曰く「胴上げで宙返りしてからひどくなった」という。2005年10月14日、本拠地神宮球場でのシーズン最終戦対横浜試合終了を以って、7シーズンに渡って務めた監督を退任。辞任の記者会見では「1度しか日本一になれず申し訳なかった」と発言した。試合前に退任セレモニーで選手達による胴上げが企画されているのを知り、上記理由により固辞する旨を公言していたが、いざセレモニー終了後、次期監督の古田敦也から説得され胴上げを受け入れる。なお、この時の胴上げは腰に負担をかけないように低く、体が回転しない様に足首を押さえながらの胴上げだった。
2004年6月9日の対横浜戦で7回に横浜・佐伯貴弘の一塁ゴロの判定に激怒して一塁塁審を突き飛ばし、若松にとって野球人生初の退場処分を受けた。普段から外見通り物静かで、抗議に出ようとしてもコーチからベルトを引っ張られてベンチに下がることもあった温厚な若松が、激情を表情に出したことは珍しい。
エピソード
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
- 「三顧の礼」という言葉があるが、プロ入りを嫌い逃げ回る若松のもとにはスカウト7度も訪れた。最後には中西太までもが足を運んだという。[6]
- プロ入り時、所属していた電電北海道野球部の応援団からヤクルトの応援団に、応援歌が譲り渡された[2]。現在、この応援歌は専用応援歌の無い左打者用の汎用テーマ「でんでんマーチ」として使用されている。若松の個人応援歌(現在青木宣親専用のチャンステーマとして使用されている)とは別物。
- 東京から実家の北海道留萌市へ公衆電話をかけていたが、当時10円玉しか使えない上に遠距離の通話料も高かった時代、チームの先輩が「電話機を倒すと、10円玉が落ちるスピードが遅くなるぞ」と言った冗談聞いて、電電公社に勤務した経験を持っていながらそれを真に受けて本当に電話機を横倒しにして通話していたことがある。
- 1980年代前半、ヤクルト本社の「ヤクルト野菜ジュース」のコマーシャルモデルに起用された(その時のキャッチコピーは「クリーンヒット」と緑黄色野菜を絡ませて「グリーンヒット」)他、ストライカー(スポーツドリンク。現在は終売)のラベルのイラストのモデルを務めたともされている。
- 2004年プロ野球選手会のストライキ時、大阪近鉄バファローズのオリックス・ブルーウェーブへの吸収合併に反対して、選手会の署名活動に署名している。
- 団塊の世代にあたる。1978年日本一当時のスワローズ主力選手では安田猛、松岡弘、大矢明彦が昭和22年生まれの同級生。中でも大矢は親友で現役当時から公私共に親しい関係。他に昭和22年生まれを代表するプロ選手は、谷沢健一(中日)、堀内恒夫(巨人)、藤田平、江本孟紀(以上は阪神)、平松政次(大洋)、門田博光(南海)、福本豊(阪急)、鈴木啓示(近鉄)といった顔ぶれで、強烈な個性を持った投手が多い。また、若松自身も含め名球会入りした選手やプロ野球ニュースの歴代解説者が多い。
- ヤクルトには170cm前後の身長で体つきが小さい選手が入団することが多く、その場合“若松2世”と呼ばれる。代表的なのが荒井幸雄と真中満。(入団当初の岩村明憲も)若松は広岡達朗の監督就任で中堅手にコンバートされた(その後も左翼手を勤めたシーズンはある)が、若松の引退後は直後の1シーズンだけ中堅手を勤めた杉浦亨(強打者だが鈍足で守備も上手くなかったためこの起用は酷評された)を除き、歴代レギュラーは前記した二人も含め身長が175cm以下のプロとしては小柄な選手であり、ほぼチームの伝統となっている。(他に栗山英樹、飯田哲也、青木宣親)
プレースタイル
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打っては、入団当時の三原脩監督や中西太ヘッド兼打撃コーチの指導と、本人曰く「野球を楽しいと思ったことは一度もない」と言う程の猛練習で培われたバットコントロール、ミートの上手さは後述のように高く評価されている。三振が非常に少なく、特に1977年にはシーズンを通じてわずか14三振という驚異的な数字を残している。野村克也曰く、「軸をブラして打てるのはイチローか若松くらい」。同年9月3日の、王貞治が756号本塁打を打った試合ではヤクルトのスターティングメンバーの一人。打順は3番、守備位置は中堅手。なお、中日の水原茂監督や巨人の川上哲治監督(いずれも1971年当時)も若松のバッティングについて高く評価している。
走っては、50m5秒台の俊足で盗塁成功率も非常に高い。しかし、彼の全盛期時代にヤクルトは後続の打者に大杉勝男、チャーリー・マニエル、杉浦亨などリーグ屈指の打撃陣を有していたため彼に盗塁のサインが出ること自体が少なかった。そのためあまり盗塁数は増えなかった(プロ野球ニュースの本人談より)。
守っては、ベストナインとゴールデングラブ賞も数度に渡り受賞。規定打席に到達した14シーズン中、実に12シーズンが打率3割以上というミートの達人。シーズン打率3割を12回達成は歴代3位タイの記録で、通算打率.31918は日本人歴代1位である(2010年シーズン終了時点)。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1971 | ヤクルト | 112 | 305 | 274 | 40 | 83 | 18 | 1 | 3 | 112 | 15 | 6 | 8 | 8 | 1 | 15 | 0 | 7 | 28 | 1 | .303 | .354 | .409 | .762 |
1972 | 115 | 408 | 365 | 54 | 120 | 17 | 4 | 14 | 187 | 49 | 20 | 6 | 11 | 1 | 25 | 1 | 6 | 32 | 4 | .329 | .380 | .512 | .893 | |
1973 | 128 | 486 | 438 | 59 | 137 | 29 | 2 | 17 | 221 | 60 | 12 | 8 | 10 | 1 | 32 | 8 | 5 | 43 | 4 | .313 | .366 | .505 | .870 | |
1974 | 130 | 500 | 477 | 80 | 149 | 30 | 4 | 20 | 247 | 74 | 18 | 9 | 0 | 4 | 45 | 9 | 4 | 31 | 8 | .312 | .374 | .518 | .891 | |
1975 | 123 | 500 | 453 | 55 | 132 | 16 | 3 | 8 | 178 | 48 | 6 | 4 | 4 | 2 | 37 | 4 | 4 | 30 | 12 | .291 | .349 | .393 | .742 | |
1976 | 127 | 542 | 485 | 80 | 167 | 20 | 4 | 17 | 246 | 70 | 9 | 5 | 3 | 6 | 43 | 5 | 5 | 25 | 7 | .344 | .399 | .507 | .906 | |
1977 | 122 | 503 | 441 | 95 | 158 | 30 | 5 | 20 | 258 | 70 | 13 | 4 | 4 | 5 | 46 | 3 | 7 | 14 | 9 | .358 | .423 | .585 | 1.008 | |
1978 | 120 | 530 | 460 | 100 | 157 | 30 | 5 | 17 | 248 | 71 | 12 | 7 | 5 | 7 | 49 | 4 | 8 | 24 | 3 | .341 | .408 | .539 | .948 | |
1979 | 120 | 492 | 438 | 81 | 134 | 30 | 1 | 17 | 217 | 65 | 8 | 4 | 2 | 2 | 45 | 7 | 5 | 38 | 6 | .306 | .376 | .495 | .871 | |
1980 | 116 | 474 | 427 | 62 | 150 | 36 | 1 | 15 | 233 | 63 | 16 | 5 | 0 | 1 | 45 | 17 | 1 | 31 | 5 | .351 | .414 | .546 | .959 | |
1981 | 95 | 358 | 323 | 49 | 94 | 12 | 2 | 13 | 149 | 37 | 5 | 3 | 4 | 3 | 24 | 4 | 4 | 24 | 11 | .291 | .345 | .461 | .806 | |
1982 | 112 | 428 | 390 | 50 | 121 | 12 | 2 | 11 | 170 | 38 | 6 | 6 | 4 | 6 | 25 | 4 | 3 | 27 | 0 | .310 | .351 | .436 | .787 | |
1983 | 112 | 451 | 413 | 61 | 139 | 21 | 1 | 15 | 207 | 60 | 11 | 1 | 9 | 1 | 27 | 2 | 1 | 21 | 11 | .337 | .378 | .501 | .879 | |
1984 | 114 | 449 | 397 | 49 | 129 | 22 | 2 | 9 | 182 | 50 | 6 | 1 | 8 | 4 | 38 | 4 | 2 | 26 | 6 | .325 | .383 | .458 | .842 | |
1985 | 114 | 485 | 443 | 52 | 133 | 13 | 1 | 12 | 184 | 34 | 2 | 1 | 8 | 3 | 31 | 1 | 0 | 30 | 14 | .300 | .344 | .415 | .759 | |
1986 | 119 | 439 | 400 | 38 | 110 | 14 | 2 | 6 | 146 | 39 | 1 | 3 | 6 | 6 | 26 | 3 | 1 | 29 | 7 | .275 | .316 | .365 | .681 | |
1987 | 55 | 81 | 69 | 6 | 26 | 2 | 2 | 3 | 41 | 16 | 0 | 0 | 1 | 1 | 10 | 2 | 0 | 7 | 2 | .377 | .450 | .594 | 1.044 | |
1988 | 73 | 75 | 66 | 1 | 23 | 2 | 1 | 1 | 30 | 18 | 0 | 0 | 0 | 2 | 7 | 3 | 0 | 1 | 2 | .348 | .400 | .455 | .855 | |
1989 | 55 | 54 | 49 | 3 | 11 | 1 | 0 | 2 | 18 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 2 | 1 | 2 | 0 | .224 | .296 | .367 | .664 | |
通算:19年 | 2062 | 7590 | 6808 | 1015 | 2173 | 355 | 43 | 220 | 3274 | 884 | 151 | 75 | 87 | 56 | 574 | 83 | 64 | 463 | 112 | .319 | .375 | .481 | .856 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別監督成績
年度 | チーム | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1999年 | 平成11年 | ヤクルト | 4位 | 135 | 66 | 69 | 0 | .489 | 15 | 141 | .264 | 4.23 | 52歳 |
2000年 | 平成12年 | 4位 | 136 | 66 | 69 | 1 | .489 | 12 | 137 | .264 | 3.62 | 53歳 | |
2001年 | 平成13年 | 1位 | 140 | 76 | 58 | 6 | .567 | ― | 148 | .274 | 3.41 | 54歳 | |
2002年 | 平成14年 | 2位 | 140 | 74 | 62 | 4 | .544 | 11 | 142 | .263 | 3.69 | 55歳 | |
2003年 | 平成15年 | 3位 | 140 | 71 | 66 | 3 | .518 | 15.5 | 159 | .283 | 4.12 | 56歳 | |
2004年 | 平成16年 | 2位 | 138 | 72 | 64 | 2 | .529 | 7.5 | 181 | .275 | 4.70 | 57歳 | |
2005年 | 平成17年 | 4位 | 146 | 71 | 73 | 2 | .493 | 17.5 | 128 | .276 | 4.00 | 58歳 | |
通算:7年 | 975 | 496 | 461 | 18 | .509 | Aクラス4回、Bクラス3回 |
タイトル
表彰
- MVP:1回 (1978年)
- ベストナイン:9回 (1972年 - 1974年、1976年 - 1980年、1984年)
- ダイヤモンドグラブ賞:2回 (1977年、1978年)
- 日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1978年)
- 月間MVP:2回 (1977年9月、1982年9月)
- オールスターゲームMVP:2回 (1973年 第1戦、1977年 第1戦)
- 正力松太郎賞:1回 (2001年)
- 野球殿堂入り (競技者表彰:2009年)
記録
- サイクルヒット:1回(1976年7月9日、対中日ドラゴンズ戦、神宮球場) ※史上29人目
- シーズン打率3割以上:12回(1972年 - 1974年、1976年 - 1980年、1982年 - 1985年)※歴代3位タイ。
- 打撃ベストテン入り:12回(1972年 - 1980年、1982年 - 1984年)※歴代5位。
- 1試合5安打(1976年6月24日)
- 18試合連続安打3回(1976年9月14日 - 1976年10月10日、1980年4月22日 - 1980年5月18日、1984年7月17日 - 1984年8月14日)
- 2試合連続4安打2回(1972年5月14日 - 5月15日、1982年9月2日 - 9月4日)
- 3打席連続本塁打(1978年5月6日)
- 通算代打本塁打:12本 ※歴代18位タイ。
- 通算サヨナラ本塁打:8本 ※セ・リーグタイ記録。
- 通算代打サヨナラ本塁打:3本 ※歴代1位タイ。
- 2試合連続代打サヨナラ本塁打(1977年6月12日 - 6月13日)※史上2人目。
- 1試合11守備機会(1980年9月19日)※外野手としての日本記録。
- オールスターゲーム出場:11回 (1972年 - 1980年、1983年、1984年)
- オールスターゲーム先頭打者本塁打(1973年第3戦)※史上5人目。
- 通算1000試合出場 1979年5月12日(207人目)
背番号
- 57 (1971年)
- 1 (1972年 - 1989年)
- 75 (1993年 - 2005年)
関連情報
出演番組
- ニッポン放送ショウアップナイター
- BASEBALL SPECIAL〜野球道〜(現在は北海道文化放送制作分のみ、2006年~2008年はフジテレビ専属)
- SWALLOWS BASEBALL L!VE(2006年~2008年はフジテレビ専属解説者としての出演、2011年からはゲスト解説者としての出演)
- スーパーベースボール
- 文化放送ホームランナイター
- 文化放送ライオンズナイター
- スワローズTV!(放送終了)
- プロ野球ニュース(CS版。地上波時代は解説者としての出演なし。)
- すぽると!
著書
- 背番号1の打撃論 小さな体でもホームランが打てる!(ベースボール・マガジン社・2010年7月 ISBN 9784583102658)
脚注
- ^ 「背番号1の理論 小さな体でもホームランが打てる!」 ISBN 9784583102658
- ^ 殿堂入りを伝えるスポニチ公式サイトの記事
- ^ 若松勉 北海道が生んだ偉大なる大打者OCNスポーツ野球コラム
- ^ 燕臨時C・若さん、浜中&武内再生させる! - 2011年1月22日
- ^ ZAKZAK「ヤクルト小川監督を襲う代行の利かない“スピーチ地獄”」[1]参照 夕刊フジ
- ^ 「東京ヤクルトスワローズ40年史」 ISBN 9784583616018