ペドロ・デ・ラ・ロサ
ペドロ・デ・ラ・ロサ | |
---|---|
基本情報 | |
フルネーム | Pedro Martínez de la Rosa |
略称表記 | DLR |
国籍 | スペイン |
出身地 | 同・バルセロナ |
生年月日 | 1971年2月24日(53歳) |
F1での経歴 | |
活動時期 |
1999-2002,2005-2006, 2010-2012 |
過去の所属チーム |
'99-'00 アロウズ '01-'02 ジャガー '05-'06 マクラーレン '10-'11 ザウバー '12 HRT |
出走回数 | 107 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 1 |
通算獲得ポイント | 35 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 1 |
初戦 | 1999年オーストラリアGP |
最終戦 | 2012年ブラジルGP |
ペドロ・マルティネス・デ・ラ・ロサ(Pedro Martínez de la Rosa, 1971年2月24日 - )はスペイン人のF1ドライバー。
フォーミュラ・ニッポンでのシリーズチャンピオン獲得や、日本人ドライバーと数回コンビを組んだことで、日本において知名度が高いドライバーである。フジテレビF1中継でのニックネームは「スパニッシュ侍」。
初期の経歴
彼は他の多くのF1ドライバーたちと異なるキャリアを歩んだ。まず彼は1983年から1987年にかけて1:8オフロードRCカーの世界で活躍し[1]、1983年と1984年にヨーロッパRCカーオフロード選手権で優勝。その後も上位の成績を残し、1986年には準優勝を果たした[2]。
彼がレーシングカートを始めたのは1988年、17歳のときだった。これは比較的遅いデビューと評価されうるものの、走り始めるとすぐにスペイン自動車連盟のスカラシップ「オフェンシバ・ウノ」の援助を受け、フォーミュラ・フィアット・ウノ・スペイン選手権にステップアップ。翌1989年には全7戦のうち2勝に加え3度の表彰台を獲得し、同選手権で総合優勝した。その後、1990年から1991年のあいだはスペイン、1992年から1994年のあいだはイギリスでキャリアを積んだ。それぞれ1990年にはスペインのフォーミュラ・フォード1600選手権で総合優勝、1992年にはイギリスのフォーミュラ・ルノー選手権で総合優勝を果たしている。
その後、日本でのレース活動をスタートした。1995年の全日本F3選手権にトムスから参戦してシリーズチャンピオンを獲得し、翌1996年にはフォーミュラ・ニッポンと全日本GT選手権にステップアップした。フォーミュラ・ニッポンでは森脇基恭が率いるチーム・ノバエンジニアリングから参戦し、全日本GT選手権ではカストロール・トムスチームでGT500クラスのスープラをドライブした。
1997年にはフォーミュラ・ニッポンで全戦表彰台に上がり、シーズン6勝を上げてシリーズチャンピオンを獲得した。全日本GT選手権ではミハエル・クルムとのコンビで2勝を挙げ、こちらもシリーズチャンピオンとなった。このことからついた彼の愛称の一つが「NIPPON-ICHI(日本一)」である。
F1での経歴
1998年、ジョーダンでテストドライバーを務めた後、1999年にアロウズからF1にデビュー。チームメイトは高木虎之介だった。デ・ラ・ロサはデビュー戦となる開幕戦オーストラリアGPで6位入賞し、同年チーム唯一となる1ポイントを獲得した。
翌2000年もアロウズから出走し、ニュルブルクリンクで開催されたヨーロッパGPとホッケンハイムリンクで開催されたドイツGPのそれぞれで6位入賞し、計2ポイントを獲得した。オーストリアGPではリタイアするまで3位を走行した。
2001年はプロスト・グランプリのテストドライバーとしてシーズンを迎えたが、途中、第5戦スペインGPからルチアーノ・ブルティと交代するかたちでジャガーのシートを得た。
2002年も引き続きジャガーに在籍したものの、2シーズンのあいだにチームメイトのエディ・アーバインに大きな差をつけられたこともあり、2002年最終戦を最後にレギュラードライバーのシートを失った。
2003年からマクラーレンのサードドライバーとして契約。
2004年にマクラーレンはコンストラクターズランキング5位となったために、2005年のレースウィーク金曜日において3台目のマシンを走らせる権利を獲得、そのため主にデ・ラ・ロサが金曜日のフリー走行に参加した。なお、第3戦バーレーンGPでは怪我で欠場したファン・パブロ・モントーヤに代わりレースに出場し、5位入賞を果たすとともに、初のファステストラップを記録した。
2006年モントーヤが来期のNASCAR参戦と共に、シーズン途中でのチーム離脱を発表。これによりフランスGPより彼が出走する事が決定した。フランスGPでは7位入賞を果たし、第13戦ハンガリーGPでは、自身初の2位表彰台に上がった。
2007年は、フェルナンド・アロンソとルイス・ハミルトンが正ドライバーとして加入したので再び同チームのテストドライバーを務めた。最終戦のブラジルGPで「私の契約はあと2年ある。そして、チームにはとても満足している」と本人が言っており、実際に2009年までテストドライバーを務めた。また、デ・ラ・ロサは2008年度からマクラーレンのカスタマーシャシーで参戦予定だったプロドライブに乗ることは2007年シーズン序盤では「選択肢」であったことを述べている。[3]
2010年は長く在籍したマクラーレンを離れ、ザウバーのレギュラーシートを獲得[4]。小林可夢偉のチームメイトとしてF1に参戦。開幕戦からモナコGPまでの6戦はあまりにも低かったマシンの信頼性の為、完走はオーストラリアGPのみのただ1戦であり、マレーシアGPに関しては決勝出走すらできない程の惨憺たる状況だった。しかし、チームの懸命な開発もあってトルコGPから復調の兆しをみせ、マシンの安定性と信頼性共に向上し、ハンガリーGPでは予選9位から堅実な走りをみせて7位入賞を果たした。デ・ラ・ロサの入賞は2006年ブラジルGP以来、実に3年10カ月ぶりの入賞であった。
しかし予選では小林以上の結果を残すも、決勝のスタートで遅れたりマシントラブルやクラッシュなどでポイントを逃したレースも多く、6ポイントに留まり小林可夢偉(21P)に大きく離される形となった。9月14日、ザウバーはシンガポールGPより正ドライバーをニック・ハイドフェルドに交代して残り5レースを出場させる事を発表した為、デ・ラ・ロサはレースシートを失った[5]。
この交代劇についてチーム代表は可夢偉の速さを懐疑的に見ており、その可夢偉と予選の勝敗が7勝7敗の互角であったことを解任の理由とした[6](ルーキーに勝てないデ・ラ・ロサの能力を疑っていた)。しかし翌年メディアに「あの交代に意味があったか?」と聞かれると「意味がなかった」と答え、デ・ラ・ロサが遅かったのではなく可夢偉が速いだけであったことを確認する(結果的に)「正しい決断だった」とした。またデ・ラ・ロサの「可夢偉を過小評価するな」と言っていた意味がわかったと答え、デ・ラ・ロサは自分の解任を苦笑いをしながら受け入れた[7]。
2011年3月にはマクラーレンのリザーブドドライバーとして復帰[8]。 モナコグランプリで負傷し、体調不良を訴えたセルジオ・ペレスに代わり、カナダグランプリにて金曜日フリー走行2から1戦限りの代役としてザウバーに復帰した[9](決勝12位完走)。
2012年はマクラーレンの契約更新を断り、母国チームのHRTより出走した[10]。テールエンダーのマシンで奮闘したものの、2011年にオーナーになったテサン・キャピタルがチームの売却先を探していたことがアメリカGP頃に明らかになった[11]。結局売却先は見つからず2013年シーズンのエントリーも行われなかった[12]為、レースシートを失うことになった。
2013年はフェラーリの開発ドライバーに就任し、シミュレータでの作業を行うことになった[13]。同時にリザーブドライバーも兼任する[14]。
レース以外の経歴
マクラーレンでのテストドライバーの傍ら、2005年からスペインのテレビ局テレシンコでF1解説者を務めるようになった。レギュラーシートに復帰した2006年は一時的に離脱したが、2007年から再び解説者としてF1中継を担当した。
2011年は、タイヤサプライヤーとなるピレリのタイヤ開発テストドライバーとしてデ・ラ・ロサが起用された[15]。
F1ドライバーの事実上の選手会組織であるグランプリ・ドライバーズ・アソシエーション(GPDA)でも、2008年から2010年(バーレーングランプリまで)にかけて会長を務めたほか、2012年には前任者のルーベンス・バリチェロがインディカー・シリーズ転向のためF1を離れたことから、2年ぶりに会長に復帰した[16]。
レース戦績
JGTC
年 | 所属チーム | 使用車両 | クラス | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1996 | TOYOTA Castrol TEAM | トヨタ・スープラ | GT500 | SUZ 5 |
FUJ 2 |
SEN 3 |
MIN Ret |
SUG 9 |
MIN Ret |
8位 | 38 | |
1997 | TOYOTA Castrol TEAM | トヨタ・スープラ | GT500 | SUZ 14 |
FUJ 3 |
SEN 1 |
FUJ 2 |
MIN 1 |
SUG 15 |
1位 | 67 | |
1998 | NISMO | 日産・スカイラインGT-R | GT500 | SUZ |
FUJ C |
SEN |
FUJ |
MOT |
MIN |
SUG |
NC | 0 |
フォーミュラ・ニッポン
年 | 所属チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1996 | SHIONOGI TEAM NOVA | SUZ 5 |
MIN 7 |
FUJ 6 |
TOK 6 |
SUZ Ret |
SUG 11 |
FUJ 6 |
MIN Ret |
SUZ 5 |
FUJ 2 |
8位 | 13 |
1997 | SHIONOGI TEAM NOVA | SUZ 1 |
MIN 1 |
FUJ 2 |
SUZ 3 |
SUG 1 |
FUJ 1 |
MIN 2 |
MOT 1 |
FUJ 2 |
SUZ 1 |
1位 | 82 |
F1
年 | 所属チーム | シャシー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | WDC | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1999年 | アロウズ | A20 | AUS 6 |
BRA Ret |
SMR Ret |
MON Ret |
ESP 11 |
CAN Ret |
FRA 11 |
GBR Ret |
AUT Ret |
GER Ret |
HUN 15 |
BEL Ret |
ITA Ret |
EUR Ret |
MAL Ret |
JPN 13 |
18位 | 1 | ||||
2000年 | A21 | AUS Ret |
BRA 8 |
SMR Ret |
GBR Ret |
ESP Ret |
EUR 6 |
MON DNS |
CAN Ret |
FRA Ret |
AUT Ret |
GER 6 |
HUN 16 |
BEL 16 |
ITA Ret |
USA Ret |
JPN 12 |
MAL Ret |
16位 | 2 | ||||
2001年 | ジャガー | R2 | AUS | MAL | BRA | SMR | ESP Ret |
AUT Ret |
MON Ret |
CAN 6 |
EUR Ret |
FRA Ret |
GBR Ret |
GER Ret |
HUN 11 |
BEL Ret |
ITA 5 |
USA 12 |
JPN Ret |
16位 | 3 | |||
2002年 | R3 | AUS 8 |
MAL 10 |
BRA 8 |
SMR Ret |
ESP Ret |
AUT Ret |
MON 10 |
CAN Ret |
EUR 10 |
GBR 11 |
FRA 9 |
GER Ret |
HUN 13 |
BEL Ret |
ITA Ret |
USA Ret |
JPN Ret |
21位 | 0 | ||||
2005年 | マクラーレン | MP4-20 | AUS TD |
MAL TD |
BHR 5 |
SMR TD |
ESP TD |
MON | EUR | CAN TD |
USA TD |
FRA TD |
GBR TD |
GER | HUN | TUR TD |
ITA TD |
BEL | BRA | JPN TD |
CHN TD |
20位 | 4 | |
2006年 | MP4-21 | BHR | MAL | AUS | SMR | EUR | ESP | MON | GBR | CAN | USA | FRA 7 |
GER Ret |
HUN 2 |
TUR 5 |
ITA Ret |
CHN 5 |
JPN 11 |
BRA 8 |
11位 | 19 | |||
2010年 | ザウバー | C29 | BHR Ret |
AUS 12 |
MAL DNS |
CHN Ret |
ESP Ret |
MON Ret |
TUR 11 |
CAN Ret |
EUR 12 |
GBR Ret |
GER 14 |
HUN 7 |
BEL 11 |
ITA 14 |
SIN | JPN | KOR | BRA | ABU | 17位 | 6 | |
2011年 | C30 | AUS | MAL | CHN | TUR | ESP | MON | CAN 12 |
EUR | GBR | GER | HUN | BEL | ITA | SIN | JPN | KOR | IND | ABU | BRA | 20位 | 0 | ||
2012年 | HRT | F112 | AUS DNQ |
MAL 21 |
CHN 21 |
BHR 20 |
ESP 19 |
MON Ret |
CAN Ret |
EUR 17 |
GBR 20 |
GER 21 |
HUN 22 |
BEL 18 |
ITA 18 |
SIN 17 |
JPN 18 |
KOR Ret |
IND Ret |
ABU 17 |
USA 21 |
BRA 17 |
25位 | 0 |
脚注
- ^ “Pedro de la Rosa”. The Formula One Data Base 2010年9月15日閲覧。
- ^ “Palmarès championnat du monde TT 1/8e (初期経歴のpdfファイル)”. Index of / update File. (2010年7月22日) 2010年9月15日閲覧。
- ^ “De la Rosa to stay at McLaren in 2008, 2009”. auto123.com. (2007年10月22日) 2010年9月15日閲覧。
- ^ “Pedro de la Rosa to race for BMW Sauber F1 Team”. F1 minute. (2010年1月19日) 2010年9月15日閲覧。
- ^ “Nick Heidfeld replaces Pedro de la Rosa”. Sauber公式サイト. (2010年9月14日) 2010年9月15日閲覧。
- ^ ザウバー、ペドロ・デ・ラ・ロサ放出の理由を説明
- ^ 小林可夢偉の力を信頼するザウバー TopNews 2月8日(火)14時19分配信
- ^ “ペドロ・デ・ラ・ロサ、マクラーレンのテストドライバーに復帰”. F1-Gate.com. (2011年3月9日) 2011年6月11日閲覧。
- ^ “セルジオ・ペレスが欠場、代役にペドロ・デ・ラ・ロサ”. F1-Gate.com. (2011年6月11日) 2011年6月11日閲覧。
- ^ “HRT、ペドロ・デ・ラ・ロサを2012年のレースドライバーに起用”. F1-Gate.com. (2011年11月22日) 2013年1月16日閲覧。
- ^ “HRT、チーム解散の危機”. F1-Gate.com. (2012年11月19日) 2013年1月16日閲覧。
- ^ “HRT、2013年のエントリー未提出。チーム閉鎖へ”. F1-Gate.com. (2012年12月2日) 2013年1月16日閲覧。
- ^ “フェラーリ、ペドロ・デ・ラ・ロサを開発ドライバーに起用”. F1-Gate.com. (2013年1月16日) 2013年1月16日閲覧。
- ^ “デ・ラ・ロサはフェラーリのリザーブも兼任”. ESPN F1. (2013年1月17日) 2013年1月17日閲覧。
- ^ “ピレリ、ペドロ・デ・ラ・ロサのF1テスト起用を発表”. F1 Gate.com. (2010年9月23日) 2010年9月24日閲覧。
- ^ デ・ラ・ロサ、バリチェロの後を継ぎGPDA会長に - オートスポーツ・2012年3月6日