福岡空港

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福岡空港
Fukuoka Airport
国内線ターミナルビル
国内線ターミナルビル
国際線ターミナルビル
国際線ターミナルビル
IATA: FUK - ICAO: RJFF
概要
国・地域 日本の旗 日本
所在地 福岡県福岡市博多区
種類 商業
運営者 国土交通大臣
運用時間 24時間(但し定期便の運用は通常7:00 - 22:00迄に制限)
開港 1945年
敷地面積 353 ha
標高 9.1 m (30 ft)
座標 北緯33度35分04秒 東経130度27分06秒 / 北緯33.58444度 東経130.45167度 / 33.58444; 130.45167座標: 北緯33度35分04秒 東経130度27分06秒 / 北緯33.58444度 東経130.45167度 / 33.58444; 130.45167
公式サイト 福岡空港
地図
空港の位置
空港の位置
FUK/RJFF
空港の位置
空港の位置
FUK/RJFF
空港の位置
空港の位置
FUK/RJFF
空港の位置
滑走路
方向 ILS 長さ×幅 (m) 表面
16/34 I 2,800×60 舗装
統計 (2014年度)
旅客数 20,004,320人
貨物取扱量 248,641 t
発着回数 17.1万回
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空港の一覧
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2006年現在の空港レイアウト

福岡空港(ふくおかくうこう、: Fukuoka Airport)は、福岡県福岡市博多区にある空港空港法では第4条第1項第6号に該当する空港として政令で定める空港(国管理空港)に区分されている。板付空港(いたづけくうこう)とも称される。

概要[編集]

福岡空港は第二次世界大戦末期に旧日本陸軍により建設された席田(むしろだ)飛行場から始まり、戦後は米軍による接収を受け朝鮮戦争プエブロ号事件の最前線にある板付基地として重要な位置づけとなった。1972年 (昭和47年) に日本側に返還され現在に至る。

旅客ターミナルビルは国内線ターミナルと国際線ターミナルに分かれている。国内線ターミナルビルは福岡県福岡市博多区大字下臼井778番地1、国際線ターミナルビルは福岡県福岡市博多区大字青木739番地に位置する。空港の敷地の町名は北から順に大字下臼井・大字堅粕・大字上臼井・大字青木・大字東平尾・大字雀居・大字下月隈。

福岡市街地から5km以内という至近距離に位置しており、アクセスの良い空港として知られる。福岡市地下鉄空港線が国内線ターミナル直下に乗り入れ、市街中心地のひとつである博多駅まで約5分、西鉄福岡(天神)駅天神駅まで約11分で結んでいるほか、福岡都市高速ランプも至近に所在し、九州自動車道太宰府インターチェンジへの所要時間は15分から20分程度となっている。

1993年の福岡市営地下鉄の開業後、アクセスのよい空港として知られている福岡空港であるが、地下鉄開業前はバスやタクシー等車両以外に移動手段がないため、「中心部から近い空港だが移動時間には余裕を大きく取る必要のある空港」として認識されていた。昭和40年代以降は道路交通量が増加したことにより交通渋滞が頻発し博多駅から福岡空港までタクシーで40分から50分かかることも珍しくなく所要時間が不安定であった[3][4]

滑走路は、方位16/34、長さ2,800m×幅60mの1本で、両側とも計器着陸装置 (ILS) 装備となっている。滑走路16の使用(玄界灘側からの着陸、太宰府側への離陸)を基本とする「航空機騒音軽減運航(優先滑走路方式)」を採用しているため、多少の追い風が吹いても、基本的にはこちらを使用する。滑走路34を使用する場合は、福岡市中心部の上空を低空で飛行する「視認進入(ビジュアル・アプローチ)」が行われることが多く、ILS進入は天候が悪い場合などに行われる。なお、滑走路34へのILSが整備される以前は、滑走路16へのILSからの周回進入(circling approach)が行われていた。 旋回地点は、春日市大野城市上空。

年間発着回数は17.1万回(2014年度)[1]で、羽田成田に次いで国内で3番目に多い[5]。滑走路1本による運用のため、滑走路1本あたりの離着陸回数が日本で最も多い[6][7]。この為、2016年3月27日より国内5例目、滑走路1本の空港としては唯一の航空法107条3項に基づく混雑空港IATAのWSGで最も混雑レベルが激しい「レベル3」[8])に指定されており、新規航空路線の開設が制限されている[9]

大都市圏拠点空港に次ぐ主要地域拠点空港と位置づけられている。特に福岡 - 東京(羽田)線は新千歳 - 東京線に次いで乗降客数が多いドル箱路線であり、4つの航空会社(日本航空全日空スカイマークスターフライヤー)が1時間に最大で計5便を運航するという、新千歳 - 東京と並ぶ高頻度運航路線である。大阪や名古屋(中部)への便数も多く、これら地域へは東海道山陽新幹線と競合している[10]ほか高速バス[11]新門司港発着のフェリー[12]も存在する。また、鹿児島線は2004年に一部開通した九州新幹線と、宮崎線は高速バスとの競合で、それぞれ便数を減らしている[10]

国際線は、2015年8月現在21路線である[6]。年間旅客数は、2004年度と比べると6割増加し、日本人の出国人数はほとんど変わっておらず、韓国、台湾、中国からの入国が多い[13]。九州・山口地域の空港輸送のシェアでは、国内旅客47%、国際旅客93%、国内貨物63%、国際貨物97%を占める(2000年)。

年間利用客数は、国内16,332,309人、国際3,672,011人(2014年度)[2]。国内空港では羽田・成田に次いで第3位となっている[6]航空自衛隊春日基地板付地区(かすがきちいたづけちく)、海上保安庁第七管区海上保安本部福岡航空基地(ふくおかこうくうきち)を併設する。

飛行場内に航空保安無線施設はILSのみで、VORのような無線航行陸上局は無い。なお、滑走路延長線上にある福岡航空交通管制部に設置された福岡VORTAC(ボルタック)を代替として利用する。VORTACは超短波全方向式無線標識(VOR)と、戦術航法装置(TACAN)が併設された無線航行陸上局である。福岡VORTACについては、福岡航空交通管制部の項を参照。

歴史[編集]

前史[編集]

  • 1919年(大正8年) - 太刀洗飛行場が開港。
  • 1929年(昭和4年)4月1日 - 大阪-福岡間を毎日一往復 (日曜を除く)で郵便など貨物の運航を行う。日本航空輸送株式会社 (1928年(昭和3年)10月20日設立の官民合同の航空輸送会社。第二次世界大戦後設立の日本航空とは関係がない)が機材は陸軍払い下げのサムルソン2A2型[14]
  • 1929年(昭和4年)6月21日 - 福岡-蔚山間に日本航空輸送株式会社が就航。郵便など貨物の運航を行う[14]。 1929年(昭和4年)7月15日 - 日本航空輸送株式会社が東京(立川陸軍飛行場を借用)-大阪(1日1往復、日曜運休)、大阪-福岡(下りは月・水・金、上りが火・木・土、日曜運休)で運航開始。日本での最初の民間旅客運航となる。機材はフォッカー・スーパーユニバーサル旅客機[14]
  • 1929年(昭和4年)9月10日 日本航空輸送株式会社が福岡-蔚山-京城-平壌-大連間の運用開始。週3往復。東京(立川陸軍飛行場を借用)-大阪間は運賃が30円、大阪-福岡間は35円、東京-大連間は145円。大卒初任給は50円台。東京を午前7時半に出発すると京城には17時半に到着した[14]
  • 1930年(昭和5年)頃 名島に水上飛行機用飛行場が整備された[14]
  • 1932年(昭和7年)11月3日 - 満州航空(1932年9月26日設立、満州事変は1931年9月18日、満州国建国は1932年3月1日)が営業開始。新義州-チチハル路線を開設。日航の東京-大連線と新義州と連絡し、総延長2880kmの日満連絡航空郵便路線となる(東京-大阪-福岡-京城-新義州-奉天-新京-ハルビン-チチハル)[14]
  • 1936年(昭和11年) - 福岡第一飛行場が開港、福岡 - 那覇 - 台北を開設し、翌年には、東京 - 福岡 - 京城 - 新京の急行便を開設[15]。別の出典では「昭和13年5月29日 使用開始」との記録もあり[14]。福岡にレンジ・ビーコンが設置される[16]
  • 1940年(昭和15年)- 福岡県糟屋郡新宮村(当時)、現在の福岡県糟屋郡新宮町緑ケ浜1丁目に、逓信省工務局により福岡航空無線標識局(AN方式レンジ・ビーコン (コース方位は185/005 と 079/259、319KHz 1KW、局符号: GK) が設置された[17][18]。福岡県糟屋郡新宮町緑ケ浜1丁目西側に広がる約250m四方の正方形の住宅地はこの無線標識局の跡地である[19]。当時、中国大陸、台湾方面の航空路が整備され、米子(中国大陸方面)、天草(上海方面)、鹿児島(沖縄、台湾方面)のマーカー・ビーコンが同時期に整備された。

板付基地・板付飛行場としての歴史[編集]

板付基地を離陸するアメリカ軍のF-82戦闘機を見送る家族
  • 1944年(昭和19年)2月 - 帝国陸軍航空部隊の飛行場として建設を開始。当時の名称・通称は福岡飛行場、席田飛行場(むしろだひこうじょう)。当時249町歩の耕地が潰れ、314戸の農民が農地を奪われた[20]
  • 1945年(昭和20年)
    • 5月 - 2,215,000㎡ の飛行場用地に600mの滑走路完成[21]
    • 8月 - 太平洋戦争敗戦により連合国軍の1国であるアメリカ軍が進駐。米軍の大型機が到着した際に、滑走路の強度不足で機体が沈み込む事態が発生した[22]
    • 10月 - アメリカ軍が板付基地として接収。
  • 1945年(昭和20年)11月21日 - 同日発行のGHQ 命令により航空庁により運用が再開された[23]。時期不明ではあるが1952年の時点では周波数が変更されており355KHzで出力は600Wであった。また、垂直方向へのマーカービーコン (Zマーカー)75MHz 5W が追加された。AN方式のレンジ・ビーコンで限定的だが方位を識別できた[24]。この無線標識を使って悪天候時に板付飛行場(当時)への進入が可能になった。更にGCAと組み合わせることで、悪天候下でも最終進入までが可能になった[24]
  • 1945年(昭和20年)米軍機、二又瀬を経て九大農学部の松林に墜落、炎上[25]
  • 1947年(昭和22年)5月 - 逓信省航空保安部の地方機関として板付支所が開設される[26]
  • 1948年(昭和23年)3月17日 - 板付基地付近で女性1名が軍用機の標的吹き流しのロープに引っ掛けられ片足切断[25]
  • 1949年(昭和24年)1月20日 - 糟屋郡須惠町で、15歳の少女が軍用機から誤射した銃弾が左肘関節を貫通銃創を負う[25]
  • 1949年(昭和24年)6月 - 電気通信省の外局として、航空保安庁が設置され、福岡航空保安事務所となる[26]
  • 1949年(昭和24年)12月 - 飛行場外道路通行中の中学2年生が飛行中の機体からジェット燃料を浴び引火、全身やけどで死亡[25]
  • 1950年(昭和25年)3月6日 - 筑紫郡筑紫村の民家裏庭にジェット軍用機が墜落、炎上[25]
  • 1950年(昭和25年)6月 - 二又瀬より約400mの田に軍用機が墜落[25]
  • 1950年(昭和25年)- 1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争により、日本国内の最前線の基地のひとつとしてアメリカ軍航空戦力の増強が行われる[27]。滑走路34 (当時は33) 南側末端西側誘導路から南方向に延びた舗装路の先には舗装された空地が存在するが、ここには当時アラートハンガーが存在した[28]
  • 1950年(昭和25年)12月 - 運輸省の外局として航空庁となり、福岡航空保安事務所となる[26]
  • 1951年(昭和26年)1月 - 朝鮮戦争勃発後、9町9反余、5月34町6反余と逐次拡大され、農民の土地が奪われた。東西1.5km、南北3.5kmの広大な地域を占め、北の千歳、東の立川とともに日本最大の空軍基地となった (当時、沖縄は日本国内ではなかった)。キャンプ博多 (志賀島村)、ブラッディ補助飛行場 (雁ノ巣)、平尾銃撃場 (福岡市)、芦屋飛行場、高射砲陣地(芦屋)をつらねる一大基地群を形成。[20]
  • 1951年(昭和26年)2月3日 - 二又瀬より約200mの麦畑に軍用機が墜落[25]
  • 1951年(昭和26年)4月 - 滑走路延長部分の拡充整備により米軍ジェット機の使用が可能となり、在日米空軍のF-86が配備される[29]。ジェット軍用機の騒音問題のはじまり。米軍の最前線基地として多い時は1時間に4,50機のジェット既が市民の頭上を朝鮮めざして飛び立った[30]。九州大学は離着陸経路の直下にあたり、1時間半に29回も講義が中断された記録が残る[30]
  • 1951年(昭和26年)5月5日 - 糟屋郡志免町の麦畑に軍用機から500ポンド爆弾が落下、爆発し大穴をあける[25]
  • 1951年(昭和26年)5月10日 - 二又瀬の民家にF86が墜落。5戸全焼。住民11名が死亡[25]
  • 1951年(昭和26年)10月 - 日本航空、民間航空の航空路線(福岡 - 大阪 - 東京)が営業開始。
  • 1951年(昭和26年)11月 - 日本航空、福岡 - 大阪 - 東京線を1日1往復の正規ダイヤで運航開始[31]
  • 1952年(昭和27年)- 二又瀬から200mの畑で、軍用機の吹き流しが高圧線を切断[25]
  • 1952年(昭和27年)8月 - 運輸省の内局として航空局となり、福岡航空保安事務所となる[26]
  • 1952年(昭和27年)9月 - 福岡市城西橋電停付近の家屋に軍用機が墜落。1戸全焼、1名死亡[25]
  • 1952年(昭和27年)12月3日 - 福岡市議会は「板付飛行場の軍事基地撤退並びに国際空港指定についての決議文」を議決した。この決議文の末尾に「なお本飛行場の名称につきましては、その所在地は那珂町字「板付」となんら関係なく、福岡市地域内でありますので「福岡飛行場」と解消されることを切望いたします」と記載された[29][25]
  • 1953年(昭和28年)3月 - 在日米軍から日米合同委員会に対して、板付基地を補完する目的で博多湾を水上機の発着に使用したいとの申し入れ。市議会は直ちに反対意見書を日米合同委員会に提出[25]
  • 1953年(昭和28年)日本人管制官が、タワー、GCA、ラプコンで勤務開始[32]
  • 1954年(昭和29年)3月 - 福岡市議会において沖縄線の福岡空港寄港を切望する決議「日本航空沖縄線の板付空港寄港についての決議」が議決された[29]。を議決。九州と不可分にある沖縄諸島との緊密化を目的としたもの[25]
  • 1954年(昭和29年)4月 - 極東航空(後の全日本空輸)、福岡 - 岩国線を運航開始[33]
  • 1954年(昭和29年)11月    米軍の韓国引き上げに伴い、板付飛行場からの日本航空の引き上げを在日米軍側が非公式に要請。飛行場の民間利用が緊迫する。日本航空は他に適当な空港ないこと、地域経済が弱体化すること、地域の安全な生活が一層脅かされることが懸念された[25]
  • 1954年(昭和29年)11月26日 - 極東米軍司令部の日本政府に対する板付基地日本航空使用取りやめ要請に対し、福岡市議会は使用存続並びに国際空港誘致を極東米軍に要請する決議を行った[29]
  • 1955年 (昭和30年) - 1955年の資料での福岡周辺の無線標識: 板付 (388kHz, QU)、芦屋 (1670kHz, AH)、築城 (1540kHz, TP)[34]、BRADY (Brady Air base、雁ノ巣、1655kHz, DG)、壱岐島 (1642KHz、KA)、福岡 (355KHz、FK、600W)。このうち日本政府が運用しているものは福岡のみであり、他は駐留軍が運営しているもので、すべて無指向性[18]
  • 1955年(昭和30年)6月 - 板付基地移転促進協議会が結成される。市議会、教育委員会、PTA、農協、九州大学、商工会議所など官民市民を巻き込んだ組織となる[25]
  • 1955年(昭和30年)7月 - 板付基地周辺13ヶ所に高射砲陣地増設の協力要請が米極東空軍副司令官から市長に書簡。深刻さと反対活動の活発化[25]
  • 1956年(昭和31年)2月13日 - 日米合同委員会において、日本代表は板付米空軍基地における税関の設立を提議[29]
  • 1956年(昭和31年)2月25日 - 米軍双発輸送機竹下西町に墜落3戸全焼、1戸半焼、1戸破壊[35]
  • 1956年(昭和31年)3月 - 日米合同委員会施設委員会により、航空ターミナルとしての用地の譲渡、及び板付空軍基地の一部分の使用について許可がおりる[29]
  • 1956年(昭和31年)9月 - 日本航空、福岡 - 那覇線を運航開始[31]。当初、日本航空が羽田-沖縄線の中継地として板付寄港許可願を申請したが米極東空軍が不許可としたが、市民運動等の活動により許可されるに至ったとの記録あり[36]
  • 1956年(昭和31年)11月14日 - 在日米空軍のF100スーパーセーバー超音速戦闘機6機、板付到着[29][35]。F100は原爆搭載可能機種であり原爆の持ち込みが疑われた[37]
  • 1956年(昭和31年)- 福岡ARTCC (Air Route Traffic Control Center)廃止。代わりに板付ラプコンが設置される。飛行場西側に新築[38]
  • 1956年(昭和31年)- 昭和31年度の1ヶ月平均の定期便発着回数は国内線が264、国際線(沖縄を含む)は18便[29]
  • 1957年(昭和32年)- 福岡市の各大学生らは、決起大会を開いて「原爆搭載機F100持ち込み反対」を決議し、福岡市議会も「F100による爆音の激しさによって、防音装置をした学校でも勉強できなくなる」とF100反対を決議した[37]
  • 1957年(昭和32年)2月26日 - C47輸送機とF100が空中接触して竹下西町の畑に墜落、付近の住宅2戸が全焼、1戸半焼[25]
  • 1957年(昭和32年)11月13日 - 米軍機が補助タンクを吉塚5丁目に落下させ家屋1戸全壊し主婦1名死亡。他に家屋2戸に被害[35][25]
  • 1958年(昭和33年)2月12日 - 度重なる事故による被害発生のため政府保証による、飛行場滑走路北側の二又瀬本町の集団移転が始まる[35]
  • 1958年(昭和33年)5月20日 - 金隈にT33が不時着。農作物に被害[25]
  • 1958年(昭和33年)6月 - 全日本空輸、福岡 - 大阪間の夜間郵便飛行開始[33]
  • 1958年(昭和33年)12月21日、F102A戦闘機到着[35]
  • 1959年(昭和34年)2月26日 - 名島の九電テニスコートと町工場に補助タンクと部品が落下。工場の屋根などに被害[25]
  • 1959年(昭和35年)4月12日 - 糟屋郡西戸崎沖合(博多湾)に輸送機が不時着。損害なし[29]
  • 1960年(昭和35年)5月28日 - 老司上曰佐の民家など5ヶ所に補助タンクと部品が落下。家屋、農作物、電線に被害[25]
  • 1960年(昭和35年)8月19日 - 福岡市下月隈字水田887の6で輸送機噴射ガスにより家屋に被害[29]
  • 1961年(昭和36年)3月27日 - 福岡市本満尾(基地東側)でジェット輸送機噴射ガスにより自動車ガラス破損。負傷1名[29]
  • 1961年(昭和36年)4月5日 - 筑紫郡大野町字中村でジェット軍用機から補助タンクと茂木団が落下し農作物に被害[29]
  • 1961年(昭和36年)8月15日 - 離陸中のF102が飛行場北端で炎上[25]
  • 1961年(昭和36年)9月14日 - 志賀島の船だまり西側防波堤にF100が墜落。排砂管や電線に被害[25]
  • 1961年(昭和36年)10月 - 民間ジェット機 (コンベア880) が板付へ初乗り入れ[29]
  • 1961年(昭和36年)12月7日 - 香椎堀川町にF100ジェット機墜落。民家家屋3戸全焼、1戸半焼。母子4名死亡[35][25]
  • 1961年(昭和36年)12月15日 - 別府団地に米海軍双発対潜哨戒機からソナー(潜水艦探索筒)が落下[25]
  • 1962年(昭和37年)2月25日 - 軍用機の衝撃音により九大医学部耳鼻咽喉科の窓ガラス百数十枚が破損[25]
  • 1962年(昭和37年)7月25日 - 国鉄吉塚駅構内に模擬爆弾が落下[25]
  • 1963年(昭和38年)1月18日 - 離陸直後のF100がコースをはずれ、空港ターミナル前のエプロンに墜落、爆発。負傷1名。事務所等に被害[25]
  • 1963年(昭和38年)5月12日 - 在日米空軍がF-105を配備。沖縄から14機到着[29][35]。この頃、常駐米軍機数が最大となる[29]。昭和20年から38年までに、板付基地およびその周辺で発生した米軍機による墜落及び炎上事故 30件、不時着 10件、ヘリコプター無人機墜落不時着 3件、模擬爆弾落下 11件、補助タンク落下 11件、機関銃弾及びロケット弾誤射落下 6件、死亡 19名、負傷 14名などおびただしい数の事故が発生[39]
  • 1963年(昭和38年)- 福岡地区管制所の開始を機に全日本人管制官が現場から撤退[32]
  • 1963年(昭和38年)12月31日 - 米第5空軍司令官により空軍の再編成が発表される。板付基地は予備基地となり、常駐機の多くが横田に移駐する計画を発表する。F-105D 3個中隊 50機、F-100戦闘機 20機、合計70機の引き揚げを翌昭和39年春から実施し、夏までに終わる予定[29]
  • 1963年(昭和38年)- 昭和38年度の1ヶ月平均の定期便発着回数は国内線が763、国際線(沖縄を含む)は37便[29]
  • 1963年(昭和38年)- 設置時期不明だが 1963年時点で ILS が設置されていた[40]
  • 1964年(昭和39年)この頃の駐留米軍機は100機を越えていた (F105 60機、F102 20機、F100 20機、T33 3機 T39 2機)[35]
  • 1964年(昭和39年)1月30日 - 在日米空軍はF-105の撤退を発表。10月以降は米軍機の常駐しない基地となることが確認された。常駐機はいなくなるものの日米合同演習その他不定期に米軍機の飛来は続いた[29]。実際にはその後も348戦闘支援隊が有事駐留した[41]
  • 1964年(昭和39年)2月29日 - F100ジェット戦闘機18機板付基地から撤退[35]
  • 1965年(昭和40年)- 東京線にジェット旅客機就航[42]
  • 1965年(昭和40年)3月 - 日本国内航空が乗り入れる[29]
  • 1965年(昭和40年)8月3日 - 沖縄基地からC130など35機が台風避難のため一斉に飛来[25]。8月6日、福岡市議会は「B52、C130その他米軍用機の板付基地の一方的使用に反対する決議案」を議決した[25]。尚、B52の飛来は事前予告されたが実際には飛来しなかったが、35機は台風避難を理由に、事前協議なしに飛来した[25]
  • 1965年(昭和40年)8月5日 - 政府は日米合同委員会で米代表からキャセイ・パシフィック航空、大韓航空両社の板付飛行場使用の同意をうけ、17日の閣議で正式に決定された。これまでの日本航空の沖縄便に加えて、国際路線が拡充されることになった[29]
  • 1965年(昭和40年)9月1日 - 大韓航空の一番機が乗り入れ[29]
  • 1965年(昭和40年)9月2日 - キャセイ・パシフィック航空の一番機が乗り入れ[29]
  • 1966年(昭和41年)3月 - 西日本空輸共同使用許可がおりる[29]
  • 1966年(昭和41年)3月 - 日本航空、全日空、日本国内航空、東亜航空、長崎航空、西日本空輸、キャセイパシフィック航空、大韓航空で概ね36便/日程度が運行された[29]
  • 1966年(昭和41年)3月5日 - 福岡空港事務所福岡管制所 (1966年5月20日の運輸省設置法により福岡航空交通管制部となる)が、福岡市和白町奈多へ移転。それまで板付飛行場西側にあった米軍ラプコン内に同居し、米軍が行っていた北九州および中国地方の一部エンルート業務が昭和36年9月から委任されていた[38]
  • 1967年(昭和42年)この頃、航法援助施設として ILS、レーダー進入施設 (ASR)、無線着陸誘導施設 (GCA)、無線着陸誘導施設 (DF、方向探知機)、無指向性無線標識 (NDB、ホーマービーコン)が設置されていた[35]。また、鉄道施設として国鉄鹿児島本線竹下駅から分岐した鉄道側線が2400mにわたり引き込まれ、燃料・弾薬などの物資搬入に用いられた[35]。1948年 (昭和23年) 4月の段階で建設中であることが確認できる[43] 昭和20年代半ばには稼働していたものと思われる。半道橋2丁目南側にある第三号東光寺緑地から学校法人沖学園に至る湾曲した道路はそのなごりである。空港には地下鉄よりも先に鉄道が敷設されていた歴史がある。
  • 1967年(昭和42年)9月2日 - 日本航空、国際線の福岡 - 釜山線を運航開始。日本航空国際線の最短路線となった。当初はDC-6Bを使用し、1969年4月1日以降は日本国内航空からウェット・チャーターしたYS-11A使用し、大阪-福岡-釜山線とした。その後、DC-8 等が用いられた。[44][45]
  • 1967年(昭和42年)10月 - 運輸省の地方支分部局として大阪航空局が設置され、その下部機関として福岡空港事務所となる[26]
  • 1968年(昭和43年)1月 - プエブロ号事件が発生し朝鮮半島情勢の緊張が高まり、沖縄の嘉手納基地からF-4十数機が移駐する[46]。それまで348戦闘支援隊の20機程度の駐留機だったのが、米軍のF4Cファントム戦闘爆撃機、A3スカイウォリアー艦上攻撃機、RB66デストロイヤー爆撃機、C130ハーキュリーズ輸送機、航空自衛隊のT33練習機やRB57F高空偵察機が駐留するようになる[47]。米軍のベン・マトリック大佐が「国際情勢が緊迫したら、板付基地から一日約40便の民間機を閉め出すことがありうる」と言明[47]。返還前の板付飛行場の状況を如実に表している。1968年6月2日の九州大学電算センターファントム墜落事故はこの直後に発生した事故である[48]
  • 1969年(昭和44年)4月 - 第1旅客ターミナルビル供用開始。日本初のパッセンジャー・ボーディング・ブリッジを備えた。この頃から軍用基地から民間空港へ雰囲気が変化し始めた。第1旅客ターミナルビルは2016年の閉館まで約47年強の間稼働し、2017年にかけて撤去された。
  • 1969年(昭和44年)4月22日 - 板付基地常駐の第165迎撃偵察中隊RF-101が米本国に向けて撤退[32]。離陸中の1機が炎上する事故が発生[49]
  • 1969年(昭和44年)5月10日 - 板付基地常駐の第165迎撃偵察中隊E-B66が沖縄に移動。米軍の常駐機がなくなる[32]
  • 1970年(昭和45年)12月21日 - 日米安全保障協議委員会おいて米軍管理の飛行場の整理統合計画が承認され、板付飛行場の返還、運輸省への移管が決まる[32]
  • 1971年(昭和46年)2月 - 福岡航空交通管制部(ACC)の2名の管制官が、管制業務引継の先遣隊として福岡空港事務所に勤務開始[32]
  • 1971年(昭和46年)5月1日 - 福岡空港事務所総務課に管制業務移管等準備室を設置。米軍管制官と共に慣熟訓練を行う。[32]
  • 1971年(昭和46年)6月15日 - 「玄海アライバル」が発効。ノン・レーダー管制方式を用いた日本人管制官のみでの管制が始まる。ノンレーダーの理由は脚注参照[32]。板付飛行場の返還が予想外に早かったことが窺われる。
  • 1971年(昭和46年)7月1日 - 午前零時、米軍からの管制業務の移管完了。空港西側にあった米軍の施設をそのまま用いて管制業務を行った[32][50]。米軍は、管制塔外部に掲示されていた ITAZUKE TOWER のプレートを持ち帰り、National Museum of the US Air Force で保管、展示[51]。米軍撤退に伴いTACANが撤去されたため、航空機は距離測定ができなくなった[52] (福岡VORTACの供用開始は1973年7月)。
  • 1971年(昭和46年)12月 - フリーナー調査団報告書が提出され、「福岡空港における高速脱出誘導路建設を急ぐべき」、「福岡のターミナルレーダー機器は新しい機器と交換すべき。現在の機器は少なくとも20年前のもので有用性はもう無くなっている」、「管制塔をできるだけ早く更新すべきである」との指摘がなされた[32]

福岡空港としての歴史[編集]

  • 1972年(昭和47年)4月1日 - アメリカ空軍より大部分が返還され、「第二種空港」として供用を開始。レディオ・コールサインが「イタヅケ」 (例: イタヅケ・タワー、イタヅケ・アプローチ)から「フクオカ」に変更。第二種空港としては初の航空機騒音防止対策法上の特定飛行場に指定され、22:00-07:00 を避けた定期便のダイヤ設定が行政指導の形で行われた。[32]。消防の責任も日本側に移管。移管時点での機材は米国側から借用した化学消防車など3台。人員は課長と係長の2名だけ。当分は空港ビル関係者のみで編成する自衛消防隊が担当する状況であった。1970年4月、米国側は「現在の消防力では、乗客100名以上の大型機の事故には対処できない」と日本側に通告していた。[52]
  • 1972年(昭和47年)8月 - 米軍の残したレンジ40NMのCPN18-C型レーダーを使用した(ターミナル)レーダー管制業務の正式運用を日中の12.5時間に限定して開始。管制官総数は36名[32]
  • 1972年(昭和47年)- 1972年における1日平均の取り扱い機数は171機。内軍用機は6%。内ジェット機49%、プロペラ機46%、ヘリコプター4%[32]
  • 1973年(昭和48年)3月 - 東京線に全日本空輸が参入[53]
  • 1973年(昭和48年)7月 - 空港東側に新設された管制塔で管制業務を開始。ASR/SSRのレンジは50NM。管制官総数44名。福岡VORTAC運用開始[32]
  • 1974年(昭和49年)4月 - 第2旅客ターミナルビル供用開始。
  • 1975年(昭和50年) - エア・サイアム(バンコク - ロサンゼルス、当空港初の長距離国際線)とエールフランス(パリ - 東京、地方空港初の欧州便)が寄港するが、両社とも2年ほどで撤退。
  • 1978年(昭和53年)10月 - ターミナル・レーダー管制業務が24時間体勢となる。タワー、アプローチとあわせてすべて24時間運用となる[32]
  • 1978年(昭和53年)- 1978年における1日平均の取り扱い機数は204機[32]
  • 1979年(昭和54年)1月 - 全日本空輸の東京線にボーイング747が就航[53]
  • 1981年(昭和56年)4月 - 国際線旅客ターミナルビル(のちの第3ターミナルビル)供用開始。
  • 1981年(昭和56年)4月17日 - 午前3時40分頃、空港西側にあるレーダー・サイト内の空港監視レーダー (ASR: Airport Surveillance Radar) 室のレーダー送受信機付近から出火し約1時間後に消し止められた。室内は半焼し予備機あわせて二組とも使用不能になった。17日からノン・レーダー管制方式による管制を実施。復旧までに数ヶ月を要する見込み (記事による)[54]。鉄筋コンクリート平屋建て240㎡のうちASRの機器が入っている一室50㎡を焼いた。この火事でASRが使えなくなったほか、隣の部屋のトランスミッターサイトもススを被り送信機も使用できなくなった。送信機だけは同空港に予備施設があったため、無線通話対空通信は使用でき、離着陸の誘導に支障はなかった[55]
  • 1982年(昭和57年)3月 - 福岡管区気象台福岡空港気象レーダーが完成。6月11日から正式運用開始。100kmの擾乱度(乱気流)を含む降水エコーデータを監視[56]
  • 1982年(昭和57年)8月 - ARTS-J 試験運用開始。レンジは60NM[32]
  • 1983年(昭和58年)1月 - ARTS-J 正式運用開始。管制官総数は60名[32]
  • 1984年(昭和59年)1月 - 1984年における1日平均の取り扱い機数は205機。軍用機の割合は7.9%[32]
  • 1985年(昭和60年)- 1985年における1日平均の取り扱い機数は211機[32]
  • 1986年(昭和61年)- 1986年における1日平均の取り扱い機数は220機[32]
  • 1987年(昭和62年)- 1987年における1日平均の取り扱い機数は237機[32]
  • 1988年(昭和63年)- 1988年における1日平均の取り扱い機数は251機[32]
  • 1989年(平成元年)- 1989年における1日平均の取り扱い機数は261機。管制官総数は昭和63年の56名から59名に増加[32]
  • 1989年(平成元年)12月16日 - 中国国際航空(CCA)981便 (北京発上海経由ニューヨーク行き) が上海に向けて飛行中にハイジャックされ、壱岐上空経由で福岡空港滑走路34に着陸。福岡空港への着陸要求は残存燃料を考慮した機長の判断による。乗務員によりハイジャック犯は機内から放り出された[32]
  • 1993年(平成5年)3月 - 福岡市営地下鉄が乗り入れ。
  • 1995年(平成7年)9月 - 国内貨物ビル供用開始。
  • 1997年(平成9年)2月 - ARTS-E (ターミナルレーダー情報処理システム)運用開始。覆域60NM。[32]
  • 1997年(平成9年)- 1997年における1日平均の取り扱い機数は362機[32]。2月、新管制塔へ管制業務の運用が移行される[26]
  • 1999年(平成11年)5月 - 新国際線旅客ターミナルビル、国際貨物ビル供用開始。旧国際線旅客ターミナルビルを第3ターミナルビルに改称。
  • 2000年(平成12年)3月 - 天草エアラインが就航。
  • 2004年(平成16年)1月 - 滑走路34のILS運用開始。
  • 2005年(平成17年)4月 - 誘導路(E-10)の直線化、バイパス誘導路(E-11)の供用開始[21]
  • 2008年(平成20年)6月18日 - 空港法改正により、4条1項5号に該当する空港として政令で定める空港に区分される。
  • 2015年(平成27年)6月 - 2019年(平成31年)3月完成を目標として、国内線第1ターミナルビル全体および第2ターミナルビル一部の撤去と、第2ターミナルビル残部および第3ターミナル全体を全面改修し、地上5階、地下2階の新国内線旅客ターミナルビルを建設する全面改修工事を開始[57]
  • 2016年(平成28年)3月27日 - 航空法の混雑空港に指定される。
  • 2016年(平成28年)10月4日 - 国内線第1ターミナルビルが閉館。翌日より、第2ターミナルビルおよび第3ターミナルビルを国内線旅客ターミナルビルに改称。
福岡空港ビルディング株式会社
Fukuoka Airport Building Co.,Ltd.
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
812-0003
福岡県福岡市博多区大字下臼井778番地の1
設立 1967年4月1日
業種 サービス業
法人番号 6290001016044
事業内容 福岡空港ターミナルの運営・管理
代表者 津上 賢治(代表取締役社長)
資本金 41億74万4,000円(2015年現在)
売上高 248億円(2015年度)
従業員数 164名
主要株主 日本航空株式会社
九州電力株式会社
ANAホールディングス株式会社
西日本鉄道株式会社
福岡県
福岡市
主要子会社 福岡空港商事(株) 100%
福岡空港エンジニアリング(株) 100%
福岡エアーカーゴターミナル(株) 40%
福岡給油施設(株) 25%
(株)JALカーゴサービス九州 20%
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施設[編集]

旅客ターミナルビル[編集]

旅客ターミナルビルは、第三セクター福岡空港ビルディングが運営しており、2016年10月4日までは国内線第1、第2、第3および国際線の4棟で運用されていた。複数のターミナルビルを持つ空港では航空会社ごとに入居するビルが異なるのが一般的だが、福岡空港の第1ターミナルは、前面スポットに駐機できる機材の大きさに制限があるため、中小型機専用ターミナルビルとして使用されており、中小型機を使用する地方路線は第1ターミナルから、羽田・伊丹・中部など大型機を使用する主要幹線は第2ターミナルからと、基本的に行き先ごとに利用するターミナルビルが異なっていた。

3つの国内線ターミナルビルは横に繋がる形で建設されている。第2、第3ターミナルは接続されているため同一の建物として利用可能だが、第1ターミナルは接続されていないため、移動するには一旦ターミナル外に出る必要があった。ただし、ボーディングブリッジ部分のみは第1、第2ターミナル間で接続されており、第2ターミナルを発着する便の一部は第1ターミナルに位置する10番スポットを使用していた[58]。そのため、スターフライヤーの一部の便などは到着のみ第1ターミナルを利用していた[59]

国内線の搭乗手続きは第1と第2ターミナルビルで行われ、到着客の出口は第1、第2、第3ターミナルビルにある。ただし、国内線第1ターミナルビルから出発する日本航空グループと全日空のマイレージ上級会員は第2ターミナルビル制限区域内のラウンジに入室し、出発時刻に間に合うように10番搭乗口付近に行って航空会社職員の誘導で第1ターミナルビルに移動することができる。

国内線旅客ターミナルは滑走路の東側、国際線ターミナルは滑走路の西側に位置し、両地区間には約10分間隔で無料のシャトルバスが運行される。なお、地下鉄駅は第2ターミナル地下にある。

国内線第1ターミナル閉鎖により、2016年10月5日からは暫定的に従来の第2・第3ターミナルを一つの建物とみなす形で国内線ターミナルとし、2019年まで実施予定の再開発完了後は、第1ターミナル跡地などに増築される新ターミナルを含めた1つの国内線ターミナルとして運用される予定である。

第1ターミナルビル[編集]

  • 供用開始 : 1969年4月
  • 供用終了 : 2016年10月4日
  • 構造 : 地下1階、地上3階(一部4階)
  • 面積 : 19,000平方メートル

2016年10月4日の運用終了時点では、主に地方空港および格安航空会社(LCC)の路線用として供用された。中小型機のみ利用可能である。航空会社ラウンジはない。また、ボーディング・ブリッジ (PBB) を日本で最初に設置した。当時のPBBはすでに取り替えられており現存しないが、操作盤は第2ターミナルの展望デッキ付近に展示されている。

かつては、フジドリームエアラインズ(FDA)搭乗手続きカウンター(FDA就航前は日本航空のカウンター。FDA就航時に日本航空カウンターを縮小する形で運用終了時点の配置に至る)と喫茶店の間に地下に下りる階段があり、地階にトイレが設けられていたが、2000年のターミナル改装時に、到着ロビー端にトイレが新設されたため、封鎖された。 もともと保安検査がまだ一般的でない1960年代にできた建物であるため、保安検査場への入口が2ヶ所(左右に計2つ入口があるが、閑散期などは右側のみしか開放しないこともあった )しかなく、時期によって混雑することがある。また、各搭乗口が搭乗待合室から少し離れているため、搭乗するときにはまず改札口を通過し、搭乗便の搭乗口が書かれた札(改札口上部の案内表示でも搭乗口番号を表示)を受け取り、搭乗口で係員が札を回収するシステムを取っていた。

前述のとおり、他のターミナルとは接続されていないため、第2ターミナル発着便と乗り継ぎを行う場合はターミナルを出て歩道を経由して移動する必要があった。

2016年10月4日をもって完全閉鎖された[60]。今後はターミナルビルを解体の上、旧第1駐車場と跡地の一部に従来の第2ターミナルと繋げる形で新たな建物が建築され、完成後は新国内線ターミナルの一部となる。また、跡地の大部分には駐機スポットと誘導路が増設される。

第2ターミナルビル[編集]

  • 供用開始 : 1974年4月(1993年9月より第2ターミナルビルとして供用、2016年10月5日より隣接の第3ターミナルと一括で国内線ターミナルとして運用)
  • 構造 : 地下1階、地上5階
  • 面積 : 60,000平方メートル

第1ターミナル閉鎖までは、主に東京・大阪・名古屋・那覇・札幌の主要都市へ向かう路線用として供用。ボーイング777などの大型機が駐機可能である。第1ターミナル閉鎖後は、従来第1ターミナルから発着していた便も集約され、第1ターミナルのみで運用していたFDA・AMXなどの航空会社カウンターも移転された。なお、第1ターミナル閉鎖に合わせ、第2ターミナルの一部も新ターミナルエリアとなるため解体され、新ターミナル完成後は新旧のターミナルビルが混在したエリアとなる。

第3ターミナルビル[編集]

  • 供用開始 : 1981年4月(旧 国際線ターミナルビル。2000年7月より第3ターミナルビルとして供用。2016年10月5日より第2ターミナルと一括で国内線ターミナルとして運用)
  • 構造 : 地上3階(一部4階)
  • 面積 : 30,000平方メートル

国内線到着専用ターミナルビルとして使用されていたが、2016年10月5日より2階に出発保安検査場が開設された。2階に日本航空と全日空のラウンジが設置されている。また、出入り口の前に駐車場を隔てて巨大な広告看板が並んでいる(この広告看板の多くは発光でき、看板裏に巨大な蓄電池装置が設置されている)。

国際線ターミナルビル[編集]

  • 供用開始 : 1999年5月
  • 構造 : 地上4階
  • 面積 : 69,000平方メートル

滑走路の西側に位置する。国内線ターミナルとはシャトルバスで結ばれている。

ターミナルビル内施設[編集]

  • 福岡銀行福岡空港支店(国内線ターミナル地下1階)、国際線ターミナル出張所 外貨両替/ATMコーナー(国際線1階・3階)
  • 西日本シティ銀行福岡空港支店(国内線ターミナル地下1階)
  • セブン銀行ATM(国際線ターミナル1階・国内線ターミナル1階に各1台ずつ)
  • コンビニエンスストアセブン-イレブンが国内線ターミナル北と国際線ターミナル1階に各1店、福岡空港商事直営のものが3店舗。
  • 国土交通省大阪航空局福岡空港事務所
  • 国土交通省九州地方整備局博多港湾・空港整備事務所福岡空港出張所が国際線地区にある。
  • 福岡入国管理局福岡空港出張所(国際線地区)、警備部門(国内線地区)
  • 気象庁福岡航空測候所
  • 福岡県警察福岡空港警察署(国内線ターミナル北・横)
  • 航空会社ラウンジ、クレジットカード会員向け空港ラウンジ
  • 宝くじ売り場
  • 医療機関 - 内科・胃腸科、歯科および薬局がある。
  • ビアガーデン(夏季のみ) - 旧第2ターミナルの展望デッキを利用し、夏季の夜にはビアガーデンが開催されていたが、国内線ターミナルビル改修工事に伴い2016年9月16日の営業終了後、国内線ターミナルビル改修工事完了する迄の間休業

なお、福岡空港内にあった郵便局は、約500m離れた博多大井郵便局(福岡空港内郵便局留め郵便物の引き渡しのみ博多北郵便局)が業務を承継した事により、2016年3月4日で廃止された。

貨物[編集]

貨物ビルは国内線と国際線の2棟がある。いずれも滑走路の西側に位置する。

就航路線[編集]

航空連合は右記のとおり。SA : スターアライアンス、OW : ワンワールド、ST : スカイチーム

※ 語末の★は、格安航空会社(LCC)

国内線[編集]

福岡-羽田線の年間運行便数が4万2835便で、世界各国の国内線運行便数で4位にランクインしている[61]

航空会社 就航地
日本航空(JAL)(OW)[62] 札幌/新千歳花巻仙台東京/成田東京/羽田大阪/伊丹徳島松山高知宮崎奄美
日本トランスオーシャン航空(JTA)(OW) 沖縄/那覇
日本エアコミューター(JAC) 出雲鹿児島屋久島
全日本空輸(ANA)(SA)[63] 札幌/新千歳、仙台、東京/成田、東京/羽田、新潟小松名古屋/中部、大阪/伊丹、大阪/関西対馬福江、宮崎、沖縄/那覇、宮古(2018年6月1日より季節運航)、石垣
スカイマーク(SKY) 札幌/新千歳、茨城、東京/羽田、沖縄/那覇
スターフライヤー(SFJ)[64] 東京/羽田、名古屋/中部
フジドリームエアラインズ(FDA)[65] 新潟、松本静岡名古屋/小牧
IBEXエアラインズ(IBX)[64] 仙台、小松、大阪/伊丹、新潟
オリエンタルエアブリッジ(ORC)[64] 福江、宮崎
天草エアライン(AHX)[65] 天草
ピーチ(APJ)★ 札幌/新千歳、東京/成田、大阪/関西、沖縄/那覇
ジェットスター・ジャパン(JJP)★[65] 東京/成田、名古屋/中部、大阪/関西

国内線統計[編集]

(福岡空港発)就航路線別旅客数/順位[66]
行き先 旅客数 国内線順位
東京国際空港 約822万人 2位
那覇空港 約158万人 10位
成田国際空港 約 83万人 30位
中部国際空港 約 79万人 36位
大阪国際空港 約 67万人 41位
関西国際空港 約 55万人 45位

国際線[編集]

国内線旅客ターミナルビルとは、滑走路を挟んで反対側に位置する国際線旅客ターミナルビルから発着する。地下鉄は乗入れてはいないが、国内線旅客ターミナルビルとの間に無料シャトルバスが運行されているほか、博多駅天神地区、大橋駅、太宰府市とも路線バスで結ばれている。

下記の他、国内外航空会社による国際チャーター便やチャーター貨物便も多数飛来する。

航空会社 就航地
日本の旗スターフライヤー(7G) 台北/桃園(2018年冬スケジュールより就航予定)[67]
日本の旗バニラ・エア(JW)★ 台北/桃園
大韓民国の旗大韓航空(KE)(ST) ソウル/仁川釜山
大韓民国の旗アシアナ航空(OZ)(SA) ソウル/仁川
大韓民国の旗チェジュ航空(7C)★ ソウル/仁川、釜山
大韓民国の旗エアプサン(BX)★ 釜山、大邸
大韓民国の旗ティーウェイ航空(TW)★ ソウル/仁川、大邸
大韓民国の旗ジンエアー(LJ)★ ソウル/仁川
大韓民国の旗イースター航空(ZE)★ ソウル/仁川
中華民国の旗チャイナエアライン(CI)(ST) 台北/桃園
中華民国の旗エバー航空(BR)(SA) 台北/桃園、高雄
中華民国の旗タイガーエア台湾(IT)★ 台北/桃園、高雄
中華人民共和国の旗中国国際航空(CA)(SA) 北京/首都(大連経由)、上海/浦東大連
中華人民共和国の旗中国東方航空(MU)(ST) 北京/首都(青島経由)、上海/浦東、青島武漢(上海/浦東経由)
中華人民共和国の旗中国聯合航空(KN)★ 煙台(定期チャーター便、2018年4月以降定期便化予定)[68]
香港の旗キャセイドラゴン航空(KA)(OW) 香港
香港の旗香港エクスプレス航空(UO)★ 香港
マカオの旗マカオ航空(NX) マカオ
フィリピンの旗フィリピン航空(PR) マニラ
フィリピンの旗セブ・パシフィック航空(5J)★ マニラ
ベトナムの旗ベトナム航空(VN)(ST) ハノイホーチミンシティ
タイ王国の旗タイ国際航空(TG)(SA) バンコク/スワンナプーム
シンガポールの旗シンガポール航空(SQ)(SA) シンガポール
アメリカ合衆国の旗デルタ航空(DL)(ST) ホノルル
アメリカ合衆国の旗ユナイテッド航空(UA)(SA) グアム
フィンランドの旗フィンランド航空(AY)(OW) ヘルシンキ(季節運航)
マレーシアの旗エアアジアX(D7) クアラルンプール(就航予定)

就航都市[編集]

国内線[編集]

  • 北海道東北 : 札幌/新千歳、いわて花巻、仙台
  • 関東 : 東京/羽田、東京/成田、茨城
  • 北信越 : 新潟、信州まつもと、小松
  • 東海 : 名古屋/中部、名古屋/小牧、静岡
  • 関西 : 大阪/伊丹、大阪/関西
  • 中国・四国 : 出雲、徳島、高知、松山
  • 九州沖縄 : 対馬、福江、天草、宮崎、鹿児島、屋久島、奄美、沖縄/那覇、宮古(2018年6月1日より夏季運航)、石垣(夏季運航便)

国際線[編集]

この他、秋になるとオーストラリア方面へのチャーター便が毎年運航される。さらに東南アジア方面へのチャーター便も運航されている。

今後の運航計画[編集]

就航開始・運航再開予定
増減便・運休予定

過去の乗り入れ航空会社・路線[編集]

国際線[編集]

空港内に配置される官公庁・自治体の部隊・施設[編集]

シャトルバス[編集]

シャトルバス

空港内各施設(国内線ターミナル、貨物ターミナル、国際線ターミナル)を結ぶシャトルバスが、西日本鉄道により運行されている。担当営業所は宇美自動車営業所で、5 - 8分間隔で運行[77]されており、混雑するシーズンには臨時便の増発も行われる。

乗車運賃は無料だが、特定輸送免許による運行のため、航空便利用者、空港施設勤務者および見学者のみ乗車可能となっている。乗車時に航空券などを提示する必要はなく、見送り・出迎えなど、飛行機を利用しない空港利用者でも利用できる。早朝の時間帯の乗客の大部分は、国際線ターミナル内にある会社の部署に向かう空港施設勤務者である。

このバスは、周辺の一般道をほぼ使わない特別なルートを使用している。まず国内線ターミナルの少し北に行ったあたりで一時停止し、車内リモコンを使って門を開けて制限区域に入り、制限区域内の専用道路を通る。貨物ターミナル前で再び一般道に出て、国際線ターミナルに到着する。このため、一般道の渋滞に殆ど巻き込まれず、定時運行が可能となっている。

現在使用されている車両は2012年から導入された三菱ふそう・エアロスターノンステップで、西鉄グループとして初のふそう純正大型ノンステップ車。2013年には従来の西工製ふそうノンステップ車全車の置き換えを完了している。この車両には大型の荷物棚を装備、中扉後方にも液晶ディスプレイが設置されているほか、バリアフリーの一環として磁気誘導ループが搭載されている。

シャトルバスの停留所

運行方向によって国内線ターミナル付近での経路が若干異なるため、停留所や所要時間に差がある。地下鉄福岡空港駅に向かう場合は国内線ターミナル南・バス停が最寄りになる。

国内線ターミナル→国際線ターミナル方面(所要時間10分[77]
国内線ターミナル南 - 国内線ターミナル北 - (専用道路) - 貨物ターミナル前 - 国際線ターミナル(1階)
国際線ターミナル→国内線ターミナル方面(所要時間15分[77]
国際線ターミナル(1階) - 貨物ターミナル前 - (専用道路) - 国内線ターミナル南

空港へのアクセス[編集]

福岡空港駅入口(写真の福岡空港駅入口は2016年10月4日を持って閉鎖)

博多駅から国際線ターミナルまで約2.7km、国内線ターミナルまで約3.4kmに位置している。なお、博多駅の隣にある竹下駅の方が、国際線ターミナルまで約2.5kmと若干近い。
空港内に駐輪場は整備されていないが、福岡空港駅に隣接して福岡市営駐輪場が設置されている。

鉄道[編集]

バス路線[編集]

福岡空港からの路線バス、高速バスの行き先、のりば等の詳細情報は運行会社に関係なく交通アクセス(バス)に記載されている。

一般路線バス[編集]

1路線を除いて西鉄バスが担当しており、下記のバスが発着している。なお、福岡空港発着の一般路線バスで福岡市内(博多駅、天神、大濠公園、ヤフオクドーム、ヒルトン福岡シーホーク、福岡タワー)方面、東平尾公園・イオンモール福岡方面、志免・須恵方面のバスは国内線旅客ビル南側にある「福岡空港国内線ターミナル南」のみの発着となっており、国内線旅客ビル北側にある高速バスのりばには発着はしない。「福岡空港前」バス停は国内線ターミナル前の空港敷地外の県道沿いにある。

高速・特急・急行バス[編集]

福岡空港へは、下記へ向けたバスが発着している。それぞれ末尾の括弧内は運行会社。

乗合タクシー[編集]

道路[編集]

問題点と計画[編集]

空港が抱える問題点[編集]

福岡空港と博多駅(画像左側)付近の空中写真。空港と中心市街地が至近距離である事が分かる。(1987年撮影の8枚より合成作成)。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

空港の南から進入あるいは南へ離陸する際に、市街地(中央区博多区大野城市春日市など)低空を航空機が頻繁に飛行する。また、北からの進入・北へ離陸する際にも、東区九州大学箱崎地区周辺の市街地上空を低空で飛行する。航空機の技術的進歩で1機あたりの騒音は減少しているが、便数増大に伴い騒音レベルは1980年代からほぼ横ばいのままである[10]。24時間運用の空港であるが、空港周辺が市街地化しており騒音問題・周辺環境への配慮等から、緊急時の海上保安庁、自衛隊機等の使用やダイバートを除き、滑走路の利用時間帯は7時から22時(ただし、定期便の遅延便が多数発生した場合は、利用時間を延長する)[80][81]。定期便は22時までに着陸しなければならないため、深夜の航空貨物便等の就航ができず、一番需要の多い東京 - 福岡便の羽田発最終便の出発時刻が20時となっている(福岡空港発羽田行き最終便は21時30分発である)。

発着回数の面では、2012年に遅延がなく運用できる目安である滑走路処理容量を超えた[82]。混雑時は2分17秒程度毎に離着陸が行われており、滑走路1本あたりの年間離着陸回数は、日本一である。2016年には航空法に基づく混雑空港に指定された。なお、1968年の九州大学電算センターファントム墜落事故や、1996年、離陸時にオーバーランし滑走路を飛び出した後炎上したガルーダ航空機離陸事故など2010年までに3回の航空事故が発生している。

福岡市やその周辺には航空法に定める制限表面による高さ制限があり、都心部での超高層ビルの建設が不可能となっている。JR博多駅周辺やキャナルシティ博多辺りでは60m、天神で70m程度[83]、西部副都心シーサイドももちで150m程度[84]など、空港から半径16.5kmに至るまで徐々に高さ制限が緩和され、24kmより外側で制限がなくなる。高層ビルが福岡都心部にはなく副都心のシーサイドももち福岡タワー〈234m。但し展望室部分は123mで、それより上はアンテナ〉・ヒルトン福岡シーホーク〈143m〉等)や香椎千早アイランドシティにはある。さらに、かつてのBSアナログ放送などの放送電波と干渉をきたし電波障害を発生させるなど、福岡空港の立地は利便性が高い反面、市民生活への悪影響も与えている。

なお、移転補償費・住宅防音対策工事・テレビ受信障害対策などの環境対策のために空港周辺整備機構が設置され[85]、対策費として年間約74億円(平成18年度実績)を支出している[10]。また、空港用地にはほぼ1/3を占める民有地が存在(後述)し、その土地を空港に供するために年間約80億円の賃借料が発生し大幅な赤字をまねく原因ともなっている。

問題点の原点[編集]

空港告示面積353haのうち、108haが民有、7haが福岡市の所有となっており[10]、これら116haは空港を管理する国が借り受けている。借地料は年間約84億円(2007年度(平成19年度))[10][86]で、歳出の約1/3を占めている。この負担が大きく、国の一般会計からの繰り入れを考慮しない経常損益は、2012年度で36億円の赤字となっている[87]

空港内に民有地が存在する経緯としては、1944年(昭和19年)より大日本帝国陸軍が本土防衛用の飛行場として建設したことによる。陸軍は予定地集落の住民を集め、短期間で住宅、田畑、林について強制的な買い上げを行うことを一方的に通告し、着の身着のままの状態で住民は立ち退きを余儀なくされた。その際、陸軍より土地の代金は住民に支払われたが交渉もなく軍が一方的に決めた買収額であった。本来は土地の売買とともに土地登記の移転が行われるが、終戦間際で法務局職員が手が回らない中での登記簿の所有権移転作業中であり、土地所有者自身も出征兵士となっていることも多く不在であることもままあり、土地登記は進まなかった。そして1945年(昭和20年)8月に終戦をむかえるが、連合国捕虜の使役や中学生の動員などでやっと完成したばかりだがまだ基地の機能も整っていなかった飛行場は、陸軍が組織的に管理しておらず、終戦後もとの所有者の手で畑作が再開された。土地買収代として所有者に支払われたお金は見舞金、補償金と位置づけされた。

アメリカ軍管理下の板付基地(1950年

しかし、連合国の1国であるアメリカ軍は1945年(昭和20年)9月には飛行場へ進駐し、終戦後のソ連など共産圏の台頭や朝鮮半島との位置的重要性から、この飛行場を基地として拡張することとした。元飛行場に舞い戻った住民を追い出した上、基地として拡張するためにさらに周辺の住民に48時間以内にアメリカ軍に土地を明け渡すように宣告した。そしてブルドーザーで飛行場を拡張して中国、朝鮮半島をにらんだ一大航空基地を建設した(朝鮮戦争時は、この基地から戦闘機や爆撃機が朝鮮半島へ出撃した)。なお、連合国軍による占領下ということもあり、アメリカ軍による飛行場の収容、拡張には土地買収や所有権の移転などの日本の法律に基づいた法的行為は行われなかった。サンフランシスコ講和条約締結後に日本政府とアメリカ軍板付基地内の土地所有者の間で土地の賃貸契約が開始された。

加えて、松本治一郎も空港周辺の土地を買い占め、後の空港拡張時に国に貸し付けた。これは自身の衆議院議員という立場を利用して、空港拡張計画の情報を事前に入手していたこと(インサイダー取引)が理由と指摘されている。松本一族は現在に至るまで地権者の筆頭である。

こうした経緯により所有者が約700人に及ぶ民有地が空港敷地内に存在している。また強制的に軍用地になった経緯から戦後の田畑の農地解放が完全実施されていないため地主組合は元不在地主、自作農、小作農等いくつかの組合に分かれている。1972年(昭和47年)にアメリカ軍基地が日本に返還された際に国管理の第二種空港となったが、軍用地時代の土地契約形態をそのまま運輸省が引き継いだ。

また、アメリカ軍管理下時代に民間利用のためのターミナルが認められたのは、空港の北東角の極めて形状が悪い場所であったため、それを引き継いでいる国内線ターミナルの立地上の不利は存在したままである。

需要増への対応方策[編集]

上記のような安全性の問題や慢性的な混雑状況、ターミナル容量の逼迫の中で、新空港建設ないし現空港の滑走路増設が検討された。行政側も、国、福岡県、福岡市で構成する福岡空港調査連絡調整会議を設置し、2005年度から2008年度までパブリック・インボルブメント (PI) の手法を用いて今後の福岡空港のあり方を検討した。その中で、現状で滑走路1本の場合の福岡空港の滑走路処理容量は離着陸回数で年間14万5千回と算出した[10]

PIでは、2007年度までの調査で、「現空港では今後の需要増に対応は不可能である」とし、新空港建設・滑走路増設・近隣空港(佐賀空港北九州空港)との連携の三方策を提示した。2008年度は新空港建設・滑走路増設の詳細な検討と、これらの比較検討を行った。

2009年4月、PIの終了をうけて福岡県と福岡市は共同記者会見を行い、新空港の建設を行わず、「現在の滑走路に平行する滑走路を新設する案を、地元としては支持する」と発表した。新設する滑走路は2,500mで、現存の滑走路の西側210mにクロースパラレル福岡高速2号線との干渉をさけるため1.5m盛り土して設置され、運用開始は早くても2024年の予定[5]。これにより発着可能回数は3割程度増加する。事業規模は約2,000億円[88]。国は2012年度から滑走路増設のための環境影響評価の手続きを行っている。

ただし、PIでは、「十数年後には再び空港容量を突破することが予測される」「市街地に近い現空港が有する様々な課題の解決には新空港が優位性を持っており、パブリックインボルブメントにおいても新空港の必要性を訴える多くの意見や更なる調査検討を求める意見が出された。新空港は地域の未来のための課題である。」として、将来の新空港建設を目的とした調査研究を行う必要性と、調査研究における国と地域の協力の重要性に言及しており、将来の新空港建設に含みを持たせている[89]

国内線ターミナル地区の再編[編集]

再編計画の完成予想模型(福岡空港第3ターミナルにおける展示)

国内線第1ターミナルビルは築40年以上を経過しており、一番新しい国内線第3ターミナルビルでも築30年が経過しているなど、国内線ターミナルビルの老朽化が激しい。また、便数の多い国内線側エプロンは平行誘導路が1本しかなく、着陸した航空機を速やかに滑走路から離脱させられなかったり、出発機のプッシュバックに待機が生じるなどの輻輳を起こしている。

このため、2019年度完成で、第1ターミナルと第2ターミナルを後ろに下げて国内線側平行誘導路を複線化する[5]ほか、3つのビルに分かれている国内線ターミナルを1つに集約する[90]。ただしこうした対応をとっても、空港周辺で北風が吹く時、滑走路34側(南側)からの進入・着陸は、16側(北側)に比べて機材1機あたりの滑走路占有時間が長くなり、その分34側使用時には滑走路処理能力が低下するという問題は残る[91]

事件・事故[編集]

航空事故やハイジャック事件
その他
  • 1959年1月18日、板付基地所属の戦闘機が在韓米軍烏山空軍基地で核爆弾を搭載した状態で火災事故を起こし、核爆弾の一部が溶け、起爆部も焦げてむき出しになった。但し、この爆弾は核物質を含む部分を本体に詰め込む形状で、事故時はこの部分が取り外されていたとみられ、放射能汚染などはなかった[94]
  • 1962年(昭和37年)3月25日、板付基地包囲事件発生。
  • 1999年(平成11年)6月25日、同空港内で中国出身で福岡市に住んでいた女性の変死体が発見された。この事件で福岡県警は、女性の交際相手だった中国人男性の逮捕令状を取り、指名手配して行方を追っていたが、その後被疑者の男性は中国に帰国。帰国後にこの男性は、中国の警察当局に身柄を拘束された。日中間では犯罪人引渡し条約が締結されていないため、福岡県警は中国の捜査当局に対し捜査協力を依頼したものの、中国側は明確な返答をせず、その後2005年に福岡県警の依頼で国際刑事警察機構(ICPO)が調査したところ、2002年にこの男性に対し中国の裁判所が執行猶予付きの死刑判決を言い渡していたことが判明した。福岡県警は中国側に対し死刑の執行状況を照会しているが、2012年現在返答はないという[95][96]
  • 2005年(平成17年)8月12日ホノルル国際空港行きJALウェイズ58便(DC-10)が離陸直後に第1エンジンが異常燃焼し火を噴いてタービンブレードの金属片が暴発、飛散した。エンジン本体および機体は概ね無事であった。その後同機は福岡空港に引き返し緊急着陸した。乗客ら229名は無事であった。なお、本件は統計上は事故ではなく、イレギュラー運航扱いである[97]。(JALウェイズ58便エンジン爆発事故
  • 2007年(平成19年)9月8日、アメリカ本土からアメリカ合衆国空軍ホノルル・ヒッカム空軍基地を経由し在韓米軍烏山空軍基地へ向かっていたF-16がエンジントラブルにより福岡空港に緊急着陸した。第2種空港化した福岡空港への戦闘機着陸は今回が初である。
  • 2008年(平成20年)2月22日、韓国・仁川行きアシアナ航空131便が、管制官の許可を得ずに無断離陸した。このとき、管制官の離陸許可を得たヘリコプターが西側エプロンから離陸を始めていたが、航空機の滑走に気づいた管制官が当初許可した滑走路を横断するルートから滑走路に並行するルートに変更するよう指示したため、事故を避けられた。国土交通省では重大インシデント(事故が発生する恐れ)にはあたらないとみている。

脚注[編集]

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  1. ^ a b 空港計画課ホームページ”. 県土づくり・地域振興. 福岡県空港対策局空港計画課. 2015年10月4日閲覧。
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  3. ^ 福岡市営地下鉄空港線”. 2018年5月30日閲覧。
  4. ^ 日本トンネル技術協会 (1987年5月). トンネルと地下. 土木工学社.
  5. ^ a b c “福岡“独り勝ち”→進む役割分担 北部九州3空港”. MSN産経ニュース. (2014年1月23日). http://sankei.jp.msn.com/region/news/140123/fkk14012303080000-n1.htm [リンク切れ]
  6. ^ a b c 福岡を「混雑空港」指定へ 滑走路1本… 国交省、発着回数に制限”. 産経WEST. p. 2 (2015年9月3日). 2015年9月4日閲覧。
  7. ^ 日本以外では、ロンドン・ガトウィック空港が、3,300m滑走路1本で年間発着回数26万回を処理している。ただし、福岡空港では運用時間が午前7時から午後10時までに制限されているので、一概に比較できない。
  8. ^ 国際線発着調整事務局の業務概要 (PDF)”. 国際線発着調整事務局(JSC). 2017年2月1日閲覧。
  9. ^ 福岡を「混雑空港」指定へ 滑走路1本… 国交省、発着回数に制限”. 産経WEST. p. 1 (2015年9月3日). 2015年9月4日閲覧。
  10. ^ a b c d e f g 福岡空港調査連絡調整会議 (2008-9) (PDF). 福岡空港の総合的な調査 PIレポート(ステップ4)詳細版 (Report). 福岡県企画・地域振興部. http://www.pref.fukuoka.lg.jp/uploaded/life/35/35505_misc4.pdf. 
  11. ^ はかた号博多バスターミナル - バスタ新宿)、どんたく号西鉄天神高速バスターミナル - 名鉄バスセンター)など。
  12. ^ 東京行きのオーシャン東九フェリー、大阪・神戸行きの名門大洋フェリーおよび阪九フェリー
  13. ^ 福岡を「混雑空港」指定へ 滑走路1本… 国交省、発着回数に制限”. 産経WEST. p. 3 (2015年9月3日). 2015年9月4日閲覧。
  14. ^ a b c d e f g 秦 源治 (著), 劉 建輝 (著), 仲 万美子 (著) (2018/3/27). 大連ところどころ(画像でたどる帝国のフロンティア). 晃洋書房. 
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  16. ^ 「航空管制五十年史:航空交通の安全ひとすじに」, 航空管制五十年史編纂委員会, 航空交通管制協会刊, 2003年3月,P62, 航空管制及び関連システムの変遷図
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  18. ^ a b 航空年鑑、昭和30年版、日本航空協会、1955、P215、航空無線標識署一覧
  19. ^ 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス 1961/09/17(昭36) 比較的鮮明に撮影されたもの。 整理番号 MKU613 http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=552555 ------------------------- 1948/01/19(昭23年) では確認できる。 整理番号:USA、コース番号: R211 http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=208347 ------------------------- 1947/03/07(昭22) では不鮮明ながら、後の写真で確認できる構造物の一部を確認出来る。 整理番号: USA、コース番号: M105 http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=148916
  20. ^ a b 「軍事基地の実態と分析」、基地問題調査委員会 編、三一書房、1954、P103、二 軍事基地のの実情とこれに対する農民の闘い、C 板付基地
  21. ^ a b 「福岡空港の変遷」, 国土交通省 九州地方整備局 博多港湾・空港整備事務所 [1]
  22. ^ 「水野高明先生と語る」, ニュース担当グループ委員会[他], 土質工学会, 1980-06-25, 水野先生は九州大学名誉教授。 「福岡の板付飛行場は,初め席田飛行場と呼ばれ,戦争の終り頃に陸軍の手によって急造されたもので,市民,学生等も多数勤労動員されて,作業に従事しました。その頃はセメントに不自由していましたので,火山灰を混入して,厚さ10cm程度の滑走路を造りましたが,以前の田面で排水も悪く,できばえはお粗末なものでした。もっとも陸軍にはすでに赤トンボと称された小型の複葉機しか残っていなかったので,その発着には不自由しなかったようですがね。ところが終戦後1週間ほど経った昭和20年8月20目過ぎに米軍の大型飛行機が着陸して,滑走路にめり込んでしまいました。大学の私の研究室にピストルと自動小銃に身を固めた米軍の少佐と軍曹とが突然やってきて,その原因を調査せよといっていきなリジープに乗せられて現揚に連れて行かれました。先方も初めての進駐で相当緊張していた様子でしたが,話しているうちにすぐ親しくなりました。原因は,私としては米軍の飛行機が重すぎると答えるより仕方がなかったのですが,それから毎目教室の助手,工員等数名とジープで迎えられて,地盤の貫入試験をやらされました。そのうちに山土を敷いて転圧する工事が始まると,確か30インチ位の大型平板載荷試験を行い,厳重な管理を実行するのに感嘆しました。」
  23. ^ 「航空無線」、電波時報、1954/06、P88、山岡杉雄、運輸省航空局無線課長、「20年10月21日通信統制の件と称する連合軍最高司令部の覚書きが発せられ、航空無線援助業務復活の第一歩を踏み出すこととなった。」、「覚書きの内容は「航空援助のため札幌、鹿児島、東京および大阪における4象限式航空路標識施設を直ちに作動するように命令する」という意味のもので、同年11月21日は、名古屋、福岡および天草の4コース・レンジ開設が指令された。」
  24. ^ a b 「電波時報」、郵政省電波監理局 編、電波振興会発行、1952/6 「東京から福岡まで電波にたぐられて飛ぶ航空機」、山岡杉雄(航空庁無線課長)
  25. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af 福岡市 (1978/3). 福岡市史. 第8巻 (昭和編 後編 4) 第二章 板付基地/p543. 
  26. ^ a b c d e f 「福岡空港の概要」, 国土交通省大阪航空局福岡空港事務所発行, 2004年4月, P4. 「沿革」
  27. ^ 51st Fighter Wing (http://www.osan.af.mil/About-Us/Fact-Sheets/Display/Article/404669/51st-fighter-wing/), "Moved from Naha AB to Itazuke AB, Japan, on Sept. 22 1950 with two F-80C combat squadrons and support element for combat operations over Korea", "51st FIW redeployed to Itazuke AB in December 1950"
  28. ^ 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス (http://mapps.gsi.go.jp/) で確認可能。1981年11月までは存在を確認。1983年10月時点では撤去済みであることを確認。
  29. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 「板付基地問題資料集 下」, 板付基地移転促進協議会刊, 1967, P12
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  36. ^ 知性、知性社、1956/1、機翼に砕ける農婦 福岡 板付航空基地、楢崎彌之祐 (楢崎弥之助)、「最近の問題として、まず「板付から日航機の締め出し」がある。日本航空が羽田-沖縄線の中継地として板付寄港許可願を申請したことに帯する、米極東空軍の不許可が事の起こりとなった。これは財界筋の動揺とは別に、板付の空軍の増強および空の玄関を失う福岡市の打撃を意味するものとして、全市民を反対に結集させた。この結果、極東空軍から「ジェット機は増加しない、日航を閉め出す考えはない。ただしそれは他の5つの基地拡張(立川、横田、木更津、小牧、新潟)が順調にいった場合である」という回答を得た。」
  37. ^ a b 「部落」、部落問題研究所出版部、1957/04、P61、解放への動き・板付基地のたたかい
  38. ^ a b 「航空管制五十年史:航空交通の安全ひとすじに」, 航空管制五十年史編纂委員会, 航空交通管制協会刊, 2003年3月, P108 「5-3 福岡航空交通管制部」、移転前夜に米軍管制隊とのお別れパーティーが春日原米軍キャンプで行われたが、この晩、カナダ太平洋航空のDC-8型機が羽田で進入灯に車輪を引っ掛け滑走路に激突する事故が発生。パーティーに参加していた本省の総務課長と管制課長が急きょ東京に戻る事態となった。移転当日には英国海外航空(BOAC)のB-707型機が富士山麓に墜落する事故が発生した。
  39. ^ 「板付基地問題宣言・決議集」、板付基地移転推進協議会、1965、 福岡防衛施設局 資料による。
  40. ^ 以下の書物に予算要求の記述がある。ITAZUKE AIR BASE The next Pacific Air Force installation to be considered is Itazuke Air Base which is located 700 miles southwest of Tokyo Japan. The planned use of this base is for the air defense of southern Japan a tactical fighter wing of three squadrons fighter interceptor squadron and air rescue squadron. (中略) The second item is for an addition of 1,558 square feet of space to the existing radar approach control rapcon center to house added equipment and personnel. When completed a total of 3,119 square feet of structure will be provided for a teleautographic receiver UHF DF control wind indicator and monitor control unit for the ILS system at this base. とあり、「既存の RAPCON (Radar Approach Control) Center の敷地・建物の拡張を要求。実現時には (既存の) ILS 設備のモニター制御に供される」旨の内容が記載されている。このことから1963年当時には既に板付基地には ILS が設置・運用されていたものと考えられる。国内では1961年に羽田、1966年に名古屋に設置されているが、板付基地も比較的早い時期から整備されていたことが分かる。 Military Construction Authorization, Fiscal Year 1964:Hearings Before the Committee on Armed Services, House of Respresentatives, Eighty-Eighth Congress, First Session, Pursuant to H.R. 4825 and H.R. 6500, Bills to Authorize Certain Construction at Military Installations, and for Other Purposes. March 26, 27, 28, April 1, 2, 3, 4, 5, 30, May 1, 2, 3, 6, 7, 8, 9, 13, 14, 15, 17, 20, 21, 22, and 24, 1963 (1963, Hardback) 著者: United States. Congress. Senate. Committee on Armed Services
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  50. ^ 「航空管制五十年史:航空交通の安全ひとすじに」, 航空管制五十年史編纂委員会, 航空交通管制協会刊, 2003年3月, P174 「5-14 福岡空港」、「昭和46 (1971) 年7月1日午前零時、狭い管制塔の中でマスコミ取材のライトに照らされてテイクオーバーは完了した。引継を受けた日本人管制官と握手を交わした米兵達は左手で肩をポーンと叩き「ガンバレヨ」と言わんばかりに目配せして静かに管制塔を下りていった。 翌日の新聞は、この写真とともに「米軍基地は昭和20年旧陸軍の席田(むしろだ)飛行場を接収して誕生。昭和26年10月。はじめて日本の民間旅客機が飛ぶようになったが、"管制権を日本に..."が航空関係者の長い間の悲願だった。この日これが実現した。」と大々的に報じた。 板付を退去した米兵達の大多数は、敗色濃いベトナムへ配属されていった。」
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関連項目[編集]

外部リンク[編集]