ジョン・レノン
ジョン・レノン | |
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John Lennon | |
![]() ロサンゼルスで取材に応じるレノン(1974年) | |
生誕 |
ジョン・ウィンストン・レノン 1940年10月9日 ![]() |
死没 |
1980年12月8日(40歳没)![]() |
死因 | 銃傷による出血性ショック |
別名 | |
出身校 | リヴァプール・カレッジ・オブ・アート |
職業 | |
活動期間 | |
配偶者 | |
子供 | |
公式サイト | www.johnlennon.com |
音楽家経歴 | |
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署名 | |
ジョン・ウィンストン・オノ・レノン(英語: John Winston Ono Lennon、1940年10月9日 - 1980年12月8日)[注釈 2]は、イギリス出身のシンガーソングライター[1]。ビートルズを創設したリーダーで、ボーカル、ギターなどを担当するとともに、ポール・マッカートニーと「レノン=マッカートニー」として多くの楽曲を制作した[注釈 3]。1965年にはMBE・大英帝国第5級勲位を受章した[注釈 4]。
1970年のビートルズ解散後はアメリカ合衆国に移住し、ソロとして、また妻で芸術家のオノ・ヨーコ(小野洋子)と共に活動した。1975年から約5年間音楽活動から引退し、1980年に復帰するも、同年12月8日ニューヨークの自宅前において銃撃され死亡した。
前妻シンシアとの間に生まれた長男ジュリアンと、ヨーコとの間に生まれた次男ショーンの2人の息子がいる。
ビートルズ時代を含め、数多くの代表曲を持ち、ソロ時代の代表曲としては「平和を我等に」「インスタント・カーマ」「ラヴ」「イマジン」「パワー・トゥ・ザ・ピープル」「ハッピー・クリスマス(戦争は終った)」「真夜中を突っ走れ」「スターティング・オーヴァー」「ウーマン」などが挙げられる。
2002年にはポールやジョージ・ハリスン、フレディ・マーキュリー、ボーイ・ジョージ、ロビー・ウィリアムズらとともに100名の最も偉大な英国人に選出された[11]。
生涯
[編集]ビートルズデビュー以前
[編集]幼年期
[編集]1940年10月9日18時30分、第二次世界大戦のドイツによる空襲下に置かれたマージーサイド州リヴァプールで誕生する。アイルランド系であった父のアルフレッド・フレディ・レノン(1912年 - 1976年)は労働者階級で商船の乗組員[12]として航海中であり、イングランド人であった母のジュリア・スタンリーは他の男性と同棲していたため、母親の長姉で「ミミ伯母」と呼ばれた中流階級であるメアリー(1903年 - 1991年)夫婦に育てられる。ファーストネーム(ジョン)は、父方の祖父のジョン・ジャック・レノン[13]、さらにミドルネーム(ウィンストン)は、当時のイギリスの首相のウィンストン・チャーチルにちなむ[13]。また、スコットランド人の血も引いている[14]。

レノンを育てた伯母夫妻は中流家庭であった[15]。ビートルズの他の3人のメンバーは労働者階級出身である。1946年に帰国した父に引き取られて数週間一緒に暮らしたが、母に連れ戻される。しかし母と暮らすことはできず、ふたたびミミ夫妻に育てられる。その一方、父は家出して行方不明となった。
少年時代
[編集]レノンは1952年9月、グラマー・スクールのクオリー・バンク校に入学した。父親代わりだったミミの夫・ジョージ(1903年 - 1955年)が1955年に死去した。
レノンのティーンエイジャー時代のイギリスでは、ロニー・ドネガンの「ロック・アイランド・ライン」が1956年に大ヒットとなり、スキッフル・ブームが起きた[16]。さらに1956年、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴き、ロックンロールに衝撃を受けたレノンは、初めてのギターとなるギャロトーン・チャンピオンを新聞の通信販売で購入した。この頃、母が近くに住んでいることを知ったレノンは、彼女の家へ通うようになった。夫・フレッドからバンジョーのコードを教わっていたジュリアは、レノンにバンジョーのコードをいくつか教え音楽に関心を向けさせた。
1957年、第1作にあたる「ハロー・リトル・ガール」[注釈 5]を作曲する。当時からギター、ヴォーカルを担当していた。
ポール、ジョージとの出会い
[編集]3月、クオリー・バンク校で、級友たちとスキッフルバンド「クオリーメン」を結成した。レノン以外のメンバーが定着しないまま活動を続けていた7月6日、演奏のためウールトンのセント・ピーターズ教会に赴いた際、共通の友人たるアイヴァン・ボーンにポール・マッカートニーを紹介される[注釈 6]。10月18日にマッカートニーをクオリーメンに加入させる。バンド活動と並行して、エルヴィス・プレスリー、チャック・ベリー、バディ・ホリー、ジーン・ヴィンセントなどアメリカのロックンロールに夢中になった。またレノンは、自分が大きな影響を受けた一人として、ルー・クリスティをあげている[17]。1958年2月、マッカートニーからジョージ・ハリスンを紹介されたレノンは、間も無く彼のギター演奏技術を評価し、クオリーメンに採用した。
母の死
[編集]1958年7月15日、非番の警察官が運転する車が母・ジュリアをはねて死亡させる事件が起こった[注釈 7]。母・ジュリアの死はレノンに大きく影響し、すでに(1956年、14歳のとき)母を乳癌で亡くしていたマッカートニーとの友情を固めた。
1958年9月、レノンはクオリー・バンクを卒業後、同校校長の取り計らいで美術専門学校であるリヴァプール・カレッジ・オブ・アート (Liverpool College of Art)に入学する。そこで最初の妻となるシンシア・パウエルと出会った。1959年1月、クオリーメンのメンバーはレノン、マッカートニー、ハリスンの3人だけになった。
ハンブルク時代
[編集]このころからリヴァプールだけでなく、西ドイツハンブルクのクラブなどでも演奏活動を始めている。この頃、レノンはハンブルクの楽器店でデビュー時まで使用することとなるエレキギターリッケンバッカー325を購入。1960年1月、レノンの説得により、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートでの友人、スチュアート・サトクリフがメンバーに加わりヘフナーNo.333を用いてベースを担当した。レノンを含めたメンバーはハンブルク滞在中に薬物、酒、性交、ロックンロールを楽しんでいた[18]。従ってボブ・ディランがビートルズに薬物を教えたという俗説は誤りである。バンド名も「クオリーメン」から「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」や「ザ・シルヴァー・ビートルズ」と名乗るようになり8月「ビートルズ」になりピート・ベストが加入した。
1961年4月、サトクリフはハンブルク滞在中に脱退し、画家を目指した。レノンは、すぐにマッカートニーを説得してベーシストに転向させた[注釈 8]。またレノンはこのとき、加入を申し出たクラウス・フォアマンを不採用とした。なお、サトクリフは恋人とハンブルクに残るがまもなく21歳で脳出血のため死去した。6月、ドイツで活動していたイギリス人歌手トニー・シェリダンのバック・バンドとして「マイ・ボニー」などの曲を録音した。
ビートルズ時代
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ブライアン・エプスタインとの出会い
[編集]1961年12月、ビートルズは「マイ・ボニー」を買いにきた客からビートルズを知ったレコード店経営者のブライアン・エプスタインとマネージメント契約を結び[19]、ロンドンのレコード会社への営業活動を始めた。1962年1月1日に、デッカ・レコードの審査を受け不合格となるが、6月にEMIパーロフォンと契約を結ぶ。8月16日にベストが解雇され、以前からビートルズと親しく交流していた「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」のドラマーであるリンゴ・スターが8月18日に加入した。10月5日、ビートルズとしてレコード・デビューを果たした。
最初の結婚
[編集]シンシア・パウエルと1962年8月23日に結婚[19]。しかしシンシアの存在は、数年間隠されていた[20]。


長男・ジュリアン・レノンが1963年4月8日に誕生。しかし、両親と生活したことがないジョンは、ジュリアンにどう接していいかわからなかった。「『どうしたらジュリアンが喜ぶか教えてくれないか?やり方がわからないんだ』とレノンに質問された」とマッカートニーは述べている。ジュリアンものちに「ポールはかなり頻繁に遊んでくれたよ、父さんよりね。僕らはいい友人だった。そのころの僕とポールがいっしょに遊んでいる写真は、父さんとの写真よりもはるかに多い」と述べている。 ヒッピー文化に影響されたレノンとビートルズのメンバーは、ドノヴァン、マイク・ラヴ、ミア・ファロー、ジェーン・アッシャー、パティ・ボイド、シンシア・レノンらとインドへ行っている[21]。
キリスト発言
[編集]1966年3月4日、ロンドン・イブニング・スタンダード紙のモーリーン・クリーブとのインタビューでレノンは次のように発言をした[22]。
- 「キリスト教は逝っちゃうだろうね。議論の余地はないね。僕は正しいし、僕が正しい事は証明されるさ。今やビートルズはイエスより人気がある。ロックン・ロールとキリスト教、どちらが先に逝っちゃうかはわからないけどね。イエスはまぁイケてたんじゃない?けど弟子たちはバカで凡人だった。僕に言わせれば、ヤツらがキリスト教を捻じ曲げて滅ぼしたのさ。」
この発言はイギリスではほとんど問題にならなかったが、同年7月にアメリカのファンマガジン『デートブック』に再収録されると、キリスト教右派が信奉されるアメリカ南部や中西部の保守的宗教団体による大規模な抗議活動が生じた。ラジオ局はビートルズの曲の放送を禁止し、ビートルズのレコードや関連商品が燃やされた。スペインおよびヴァチカンはレノンの発言を非難し、南アフリカ共和国はビートルズの音楽のラジオ放送を禁止した。最終的に、1966年8月11日にレノンはシカゴで以下のように釈明会見を行いヴァチカンも彼の謝罪を受容した。
- 「もし"テレビがイエスより人気がある" と言ったなら何事もなかったかもしれない。あの発言には後悔してるよ。神を否定していないし、反キリストでもなければ、反教会でもない。イエスを攻撃したわけでもなければ、貶めたわけでもない。ただ事実を話しただけで、実際アメリカよりイギリスではそうなんだ。ビートルズがイエスより良くて偉大だとは言ってないし、イエスを人として僕らと比べたりもしてない。言ったことは間違ってたと話したし、話したことは悪く取られた。そして今に至る、ってことさ。」
「たまたま友人と話をしていて、“ビートルズ”という言葉を自分とはかけ離れた存在として使っただけなんだ。“今のビートルズは何にもまして大きな影響を若者や状況に与えている、あのキリストよりも”って言ったんだ。そう言ったことが間違って解釈された。」
オノ・ヨーコとの出会い
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1966年8月29日にアメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコで最後の公演を終えた後、ビートルズは『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の制作前に予定されていた2か月余りの長期休暇に入った。レノンは主演映画『ジョン・レノンの 僕の戦争』の撮影にのため西ドイツへ向かった。撮影が終わり、ロンドンに戻ったレノンは、インディカ・ギャラリーで行われていた女性前衛芸術家の個展内覧会に招かれ、経営者のジョン・ダンバーからオノ・ヨーコを紹介された[23][24]。美術学校時代に東洋文化を専攻していた友人がいたレノンは、当時日本や東洋文化に興味を持ち、禅宗や空の概念に強い関心を寄せていた。これを色濃く反映させたオノの作品に強い興味を示した。 レノンが見たオノの作品に、白い部屋の真ん中に天井まで届く梯子と天井から虫眼鏡がぶら下がっているものがある。白い天井には裸眼では見えないほど小さな文字で何かが書いてあり、虫眼鏡を使って見ると、"YES"とだけ書かれている。「"No"とかの否定的な言葉でも、何かを罵る言葉でもなく、乱暴な言葉でもなく、肯定的で短い"YES"だったことに衝撃を受けた」と、レノンがそれをいたく気に入ったという逸話がある。
オノの作品や言動に魅力を感じたレノンは、その後資金提供を行い、連絡も頻繁に取るようになっていった。1968年2〜4月のインドでの修行中も、オノと文通していた。5月19日、オノへの思慕を募らせたレノンは妻シンシアの旅行中にオノを自宅に呼び、実験音楽の制作を行ったが[注釈 9]、予定より早く帰宅したシンシアがオノと鉢合わせし、そのまま家を出て行ってしまった。レノンはそのままオノとの同棲生活を始めた。7月にシンシアと離婚を申請し、11月8日に正式に離婚した。
その後、レノンは1969年3月にジブラルタルでオノと結婚し、新婚旅行で訪れたパリでジョンとヨーコのバラードを書いた。結婚後まもなく、レノンはミドルネームの"Winston"を"Ono"に変更する旨を裁判所に申請したが、却下された。代わりに、レノンの本名はパスポートやグリーンカードなどの公文書に"John Winston Ono Lennon"と表記された。
本格的なソロ活動を開始する前、レノンはオノと前衛的な『「未完成」作品第1番 トゥー・ヴァージンズ』『「未完成」作品第2番 ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ』『ウェディング・アルバム』の3作のアルバムを発表した。また、レノンのソロ時代発表されたアルバムと対をなすようにオノのソロ作品『ヨーコの心』(1970年)『フライ』(1971年)『無限の大宇宙』(1972年)『空間の感触』(1973年)が発表された。なお、2人の共同名義の音楽作品として、ほかに『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』(1972年)『ダブル・ファンタジー』(1980年)『ミルク・アンド・ハニー』(1984年)がある。
ベトナム反戦運動
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レノンとオノは3月26日から31日にかけて新婚旅行先のオランダ・アムステルダムで「平和のためのベッド・イン」[注釈 10]を行うなど、奇妙なカップルの動向を大々的に報道するマスコミを利用して、平和活動を展開した[注釈 11]。
5月26日から カナダケベック州モントリオールで2回目の「ベッド・イン」を行い、6月1日には様々な著名人をホテルに招いて「平和を我等に」の録音を行い、さらに2人で「ヨーコの心」も録音した。この2曲は「プラスティック・オノ・バンド」名義初のシングルとしてイギリスでは7月4日に発売された。
ベトナム戦争に対する抗議と平和を求める活動に積極的に参加し、反戦運動における重要人物とも見做される一方、左翼団体の国際マルクス主義グループと関係を持っていたことからFBIの監視対象にもなっていた[26]。イギリスのベトナム戦争支持を受け、1965年に受勲した大英帝国勲章を返上した。このほかにも「バギズム」や「ドングリ・イヴェント」など、オノと共同で行ったパフォーマンス・アートや 「War Is Over (If You Want it)」(ともに1969年)の街頭広告を発表した。
ビートルズからの脱退
[編集]1969年、いわゆる「ゲット・バック・セッション」[注釈 12]の終了後、レノンは本格的にソロ活動を開始し、7月にはシングル「平和を我等に」をプラスティック・オノ・バンド名義で作品を発表した。9月13日には「ロックン・ロール・リバイバル・コンサート」にプラスティック・オノ・バンドを率いて出演し、3年ぶりに観衆の前で演奏を行った[注釈 13]。
その1週間後の20日、ハリスンを除く3人[注釈 14]がクレインとともに米国キャピトル・レコードとの契約更新の手続きのためアップル本社で持った会合の席上で、レノンとマッカートニーはバンドの今後を巡って口論になった[27]。公演活動の再開を望むマッカートニーにレノンは悉く反発し、挙句の果てに「契約書にサインするまでは黙ってろと言われたんだけど、君がそう言うんなら教えてやるよ。俺はもうビートルズを辞めることにした」と吐き捨てた。契約更改を控えた現時点で脱退を公表することは大きな不利益を被るとマッカートニーとクレインに説得され、この時点ではレノンの脱退は秘密とすることとなった[28]。しかしレノンはこれ以降ビートルズとしてスタジオに戻ることはなく、実質的にビートルズは解散した[29][注釈 15]。
ソロ活動
[編集]初期の活動とアメリカ移住:1970年 - 1972年
[編集]1970年2月、ハリスンも参加した『インスタント・カーマ』は米英でトップ5ヒットとなりゴールドディスクを獲得した。
4月1日から9月15日まで、レノンとオノはロンドンのティッテンハーストとアメリカ・ロサンゼルスのアーサー・ヤノフ博士のクリニックで、彼が提唱した精神療法である原初療法を受けた[注釈 16]。
帰国後、プロデューサーに『レット・イット・ビー』をリプロデュースしたフィル・スペクターを迎え、スター、フォアマン、ビリー・プレストンと共にレコーディングを開始、12月にアルバム『ジョンの魂』とシングル「マザー」が発表した。
1971年6月、アルバム『イマジン』の制作を開始した(発表は10月)。これにはハリスン、ホワイト、ケルトナー、キング・カーティス(サキソフォーン)が参加した。米国1位、英国1位、日本1位(オリコン総合チャート)と大ヒットを記録した。
9月、レノンは活動の拠点をアメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨークに移し、グリニッジ・ヴィレッジのアパートで生活を始めた。ここでジェリー・ルービンやアビー・ホフマン、ボビー・シールら多くの反体制活動家やミュージシャンと知り合い、政治活動(公務員に対して禁止されている政治活動の行動類型)に積極的に参加した。レノンはルービン、ホフマン、シールらの印象が、自分のそれと同様に、マス・メディアによって悪く歪曲されていることを知った。大麻所持で通常よりも重い10年間の禁固刑を受けた反体制活動家ジョン・シンクレアの救済公演への出演、アッティカ刑務所の入所者家族のための慈善公演(ともに1971年12月)なども行った。ジョンは、公式に特定の政党を支持したことは一度もなかったが、「人々に力を、民衆に権力を」と主張しアメリカ国内でデモ行進をした。大統領リチャード・ニクソンはロナルド・レーガンと同じく、50年代にマッカーシーの赤狩りに協力したような政治家だった。ニクソン時代のFBI長官ジョン・エドガー・フーヴァーとFBIによる監視については、レノンの死後に関係者の訴訟により膨大な量の調査報告書が公開されている[33]。このような理由から、レノンの大麻不法所持による逮捕歴を理由としたアメリカへの再入国禁止処分について再延長の手続きをとり続けた[注釈 17]。
1971年6月にはパーティーでマイルス・デイヴィスと会い、一対一のバスケット・ボールを楽しんだ。この様子は、動画サイトに残っている。1972年2月に、テレビ番組「マイク・ダグラス・ショー」に出演し、少年時代から敬愛するチャック・ベリーと共に「メンフィス・テネシー」と「ジョニー・B・グッド」を演奏した。5月にワシントン・スクエアの教会で慈善公演に出演した。6月発表の次作「サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ」は(ニューヨークのローカル・バンドのエレファンツ・メモリーがバックを務めた)、刑務所での暴動、人種問題や性差問題、北アイルランド紛争、アメリカ合衆国のグリーンカードについて歌い、アルバム・ジャケットに裸踊りをするリチャード・ニクソンと毛沢東の合成写真を使用した。1972年8月30日、レノンはエレファンツ・メモリーとともに、精神発達遅滞児童を援助する2回の慈善公演「ワン・トウ・ワン」をニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行い、スティーヴィー・ワンダーと「平和を我等に」を共演したほか、ビートルズ時代の「カム・トゥゲザー」を披露した。同公演の模様は「ライヴ・イン・ニューヨーク・シティ」として1986年に発売された。9月に筋ジストロフィーの患者のためのテレビ番組に出演した。
「ヌートピア」宣言と「失われた週末」:1973年 - 1975年
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1973年3月13日、レノンはハリスンと共にスターのソロ・アルバム『リンゴ』のために提供した「アイ・アム・ザ・グレーテスト」のレコーディングに参加した[34][注釈 18]。
3月23日、米国出入国管理局は、前年に滞在延長の申請が却下されたのにもかかわらずアメリカ国内で政治的活動を行っていたオノに対して永住権を認める一方で、レノンに対しては国外退去命令を出した。これを受けて4月1日、夫妻はニューヨークで会見を開き、領土も国境もパスポートもない架空の理想国家「ヌートピア」の建国宣言を行ない、米政府の対応を痛烈に批判するとともに、命令の撤回を求める訴訟を続けた。
9月、アルバム『マインド・ゲームス』完成するとレノンはオノのもとを離れ、2人の個人秘書であったメイ・パンとともにカリフォルニア州ロサンゼルスで同棲生活を始めた[36]。10月からはフィル・スペクターのプロデュースでオールディーズのカバーアルバムの制作を始めた。しかし途中でスペクターがマスターテープを持ったまま行方不明になったため、中断を余儀なくされてしまった。
後に「失われた週末("Lost Weekend")」とレノンが語ったこの時期、スターやハリー・ニルソン、ザ・フーのキース・ムーンらと毎晩のように飲み歩いて過ごしていた。そのため泥酔してナイトクラブで騒ぎを起こして新聞沙汰にもなった[注釈 19]。また、長い間疎遠になっていたマッカートニーや、前妻シンシアとの間に生まれた息子・ジュリアンとの再会も果たした。さらにローリング・ストーンズのミック・ジャガーの曲「トゥー・メニー・クックス」をプロデュースした[注釈 20]。

1974年4月下旬、レノンはスペクターからテープを取り戻すことをいったん諦め、ニューヨークに戻った[注釈 21]。ニルソンの「プシー・キャッツ」をプロデュースした後、自らのプロデュースでアルバム『心の壁、愛の橋』の制作を行った。ローリング・ストーン誌でレノンの最高傑作と評価されたこのアルバムは「イマジン」以来、ソロとして2作目の全米1位を獲得した。また、エルトン・ジョンと共演した先行シングルの「真夜中を突っ走れ」はソロになって初めての全米1位となった。その後、エルトンがカバーしたビートルズの「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」で再び共演、シングルカットされ、これも全米1位を獲得した。11月28日、マジソン・スクエア・ガーデンで行われたエルトンの公演に出演、3曲[注釈 22]を演奏した。同公演後に、レノンはオノと再会したと言われている。また、スターのアルバム『グッドナイト・ウィーン』にも参加、タイトル曲を提供した[注釈 23]。

1975年1月、デヴィッド・ボウイの『ヤング・アメリカンズ』のレコーディングに参加、ビートルズ時代の「アクロス・ザ・ユニバース」を共演、さらにボウイ、カルロス・アロマーと「フェイム」を共作し、コーラスとギターで参加した[注釈 24]。同時期にレノンはオノの住む自宅へ戻った。2月、カバー・アルバム『ロックン・ロール』を発表。同作から「スタンド・バイ・ミー」のヒットが生まれた。
3月1日には第17回グラミー賞最優秀レコード賞のプレゼンターとして出演した。4月18日に放映されたBBCのテレビ番組「オールド・グレイ・ホイッスル・テスト」に出演し、ボブ・ハリスからのインタビューも受けた[38][注釈 25]。また6月13日に放映された「ア・サルート・トゥー・サー・ルー・グレード」にも出演し、ライヴ・パフォーマンスを披露した[注釈 26]。
10月7日、ニューヨーク州最高裁判所は、米国出入国管理局が前年7月18日にレノンに対して再度出した国外退去命令を認めない判決を下した[注釈 27]。これにより3年半余り続いたアメリカ政府との係争はようやく終結した。その2日後、レノンが35歳の誕生日を迎えた10月9日、第二子・ショーンが誕生した[注釈 28]。同月コンピレーションアルバム『シェイヴド・フィッシュ〜ジョン・レノンの軌跡』を発表した後[注釈 29]、ショーンの養育に専念するため音楽活動から退いた。
活動休止と「主夫」生活:1976年 - 1979年
[編集]1976年1月26日に1967年から9年間にわたるEMI/キャピタルとのレコーディング契約が満了したが、更新には興味を示すことはなく[41]、他のレコード会社との契約を結ぶこともなかった。
しかし「主夫」生活の間も自宅で作曲活動は続けており、時たま自作曲をテープに録音していた[注釈 30]。また1976年6月にはスターのアルバム『リンゴズ・ロートグラヴィア』のために「クッキン」を提供し、スタジオでピアノ演奏も行った。
1976年7月27日にアメリカでの永住権を獲得、グリーン・カードを取得すると、翌1977年から79年にかけて、毎年家族を伴い日本にやってきた。1977年10月4日、日本滞在中にホテルオークラで行われた記者会見で「大きな決断ということではないのだが、家族と過ごす以外に創作活動に没頭する時間が取れると思えるようになるまでは、可能なかぎり赤ちゃんと一緒にいることにしました」と語り、音楽活動からの「引退」を公式に発表した[42]。
1979年、当時の国連事務総長クルト・ヴァルトハイムから12月に開催する予定の『カンボジア難民救済コンサート』に「ビートルズ」としての出演を依頼された。レノンは公演の趣旨には賛同したが「ビートルズ再結成」には興味がなかったため、参加を辞退した[43][注釈 31]。
活動再開、そして突然の死:1980年
[編集]1980年6月、オノの勧めで息抜きに単身訪れたバミューダ諸島で創作意欲を掻き立てられたレノンは[注釈 32]、約2か月の滞在の間に作った曲をスタジオで録音することを思い立った[注釈 33]。プロデューサーには旧知のジャック・ダグラスを起用し[注釈 34]、8月から新曲の録音を開始した。10月まで続いたセッションではオノの曲も合わせて、22曲が録音された。
10月23日に先行シングルとして「スターティング・オーヴァー」をリリース、11月17日には5年ぶりのアルバム『ダブル・ファンタジー』を発表した。アルバムは12月6日付けのビルボード誌で初登場第25位[44]、シングルは同日付で第6位まで上昇していた[45]。
12月8日22時50分(米国東部時間)にニューヨークの自宅「ダコタ・ハウス」前において、近づいてきたファンを名乗るマーク・チャップマンに銃撃された。すぐに近くのルーズヴェルト病院に搬送されたが、失血性ショックにより25分後に死亡した[46][47]。翌年1月にはスターの新しいアルバムのためのセッションと次作『ミルク・アンド・ハニー』のための追加セッションを行い、その後、日本を皮切りとするワールド・ツアーが計画されていた中での突然の死だった。40歳だった。
レノンの死後、「スターティング・オーヴァー」はビルボード誌で12月27日から5週連続第1位を獲得、セカンドシングル「ウーマン」も3月21日から3週連続第2位を記録した。また『ダブル・ファンタジー』は12月27日から9週連続第1位を獲得した。全世界で500万枚以上を売り上げ、レノンのソロキャリアで最大のヒット作となった。また第24回グラミー賞年間最優秀アルバム賞を受賞した[注釈 35]。
音楽性の発展
[編集]ビートルズ時代
[編集]1960年代、ビートルズはポップ・カルチャー、ロック・ミュージック、ロックを目指す若者たちに大きな影響をもたらし、音楽と若者文化の発展に大きく貢献した。レノンが単独あるいは中心となって書いた曲は、内省的であり、一人称で書かれた個人的な内容であることも多い。レノンのこうした作風と、マッカートニーの明るい作風は、ビートルズの楽曲に多様性をもたらしていた。
ビートルズ初期におけるレノン=マッカートニーの共作においては「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」「エイト・デイズ・ア・ウィーク」などにおける開放感のあるメロディーを生み出した。
ビートルズ初の大ヒット曲「プリーズ・プリーズ・ミー」のほか、「涙の乗車券」「アイ・フィール・ファイン」「ア・ハード・デイズ・ナイト」「ヘルプ!」は実質的にはレノンが書いた曲である。マッカートニー作の「ミッシェル」などで聴かれる感傷的で哀愁漂うメロディーは、彼の楽天的なメロディーに、レノンの性格や音楽性が陰影をつけ、曲に哀愁感をもたらした[48]。
ビートルズ中期には、薬物とインド音楽の影響を受け、幻想的でサイケデリック色の強い作品を制作した。「アイ・アム・ザ・ウォルラス」「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「トゥモロー・ネバー・ノウズ」「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」などは多くのアーティストに影響を与えた当時の傑作群と言える。
1967年6月、ビートルズは世界初の衛星中継テレビ番組に出演した。全世界で4億人が見たとも言われるこの番組で「愛こそはすべて」を披露。原題の“All You Need Is Love”はビートルズやレノンを語るときの代名詞ともなった。
後期は単独作が増やし、「グッド・ナイト」「アクロス・ザ・ユニヴァース」「ビコーズ」のような美しいメロディーを持つ曲や、「ヤー・ブルース」「カム・トゥゲザー」「ドント・レット・ミー・ダウン」のようなブルース・ロックの曲を発表した。
ソロ時代
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こうしたビートルズ時代に比べ、ソロではより簡潔な和声の進行と、個性的な歌詞に特徴づけられる曲調へと変化し、「マザー」「コールド・ターキー」「真実が欲しい」のような曲を発表している。そして、「インスタント・カーマ」のようなロカビリー・ヴォイスが特徴のロックも制作した。
また「ラヴ」のような美しいメロディーの曲や、ビートルズ時代の「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「ジュリア」のように繊細なメロディーで、かつ個性的な和声進行を示す独特の曲調は、同時期(1967 - 1968年) に原曲が書かれたとされる「ジェラス・ガイ」へと発展した。
さらにエルトン・ジョンとの「ルーシー・イン・ザ・スカイ~」の間奏部分や、「インテューイション」(1973)における本格的なレゲエの導入へと至った。1980年のインタビューではレゲエのリズムを共演ミュージシャンに説明することを要したとの発言がある[49]。「心の壁、愛の橋」の「愛を生き抜こう」ではビートルズの「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」の通作形式[50]を踏襲した楽曲構成を行った。
わずか15分で書かれたといわれる「ウーマン」は、単純ながら、最終部で半音階上昇などカデンツ(終止形、コード・パターン)にテクニックが使用された楽曲となった。曲の着想はビートルズ時代の「ガール」を発展させたとレノンが1980年のインタビューで述べている[49]。
編曲・プロデュース
[編集]「レット・イット・ビー」をプロデュースしたフィル・スペクターを高く評価したレノンは、ビートルズ末期のシングル「インスタント・カーマ」とソロ前期の「ジョンの魂」「イマジン」でスペクターを起用した。スペクターは、ストリングスや多数の楽器を何層にも重ねた「ウォール・オブ・サウンド」(Wall of Sound: 音の壁)とも形容される厚い音による編曲で知られている。しかし、両作品ともアレンジはそれとは異なり、レノンの目指す簡潔な音作りがなされた[49]。
ソロ後期の「マインド・ゲームス」「心の壁、愛の橋」「ロックンロール」、復帰後の「ダブル・ファンタジー」では、セルフ・プロデュース(「ロックンロール」では一部をフィル・スペクターが担当、「ダブル・ファンタジー」はジャック・ダグラス、ヨーコが共同プロデュース)により共演者に敬意を払いながらセッションの中でアレンジを組み立てていった[51]。これが、共演者の敬意を得ていたという多くの発言(デヴィッド・スピノザ、トニー・レヴィンなど)がある[52]。「マインド・ゲームス」に参加したスピノザによれば、レノンはスタジオミュージシャンを使って基本ラインを録音したあと、レノン自身のギター、スライドギターなどによる音を緻密に重ねてオーケストレーションを造り出し[53]、大人向けのロックを創造した[54]。ビートルズ以来の作曲語法となったベースのクリシェ[55]、分散和音的なアプローチも取り入れている。「心の壁、愛の橋」ではストリングス、ホーンも多用した編曲を行った。
また、エコーを効かせた「インスタント・カーマ」「マザー」「愛の不毛」「スターティング・オーヴァー」などの作品は、レノン自身が中音域における豊かな声質の再現、倍音の効果を意識していたことがうかがえる[56]。
ポール・マッカートニーとの関係
[編集]
音楽史上最も有名で最も成功した作曲パートナーシップと評されている「レノン=マッカートニー」を共に構成していたマッカートニーに、レノンは音楽以外でもその後の人生に大きく関わるきっかけや影響を受けていた。
オノとの出会いの場となったインディカ・ギャラリーを最初にレノンに紹介したのはマッカートニーだった。当時の恋人だったジェーン・アッシャーとの関係でギャラリーの支援者となっていたマッカートニーは[57][注釈 36]、『リボルバー』のレコーディングが始まっていた1966年4月、当時書店兼ギャラリーだったインディカにレノンを連れて行った。レノンはここでダンバーやバリー・マイルズ[注釈 37]を紹介された。また「トゥモロー・ネバー・ノウズ」を作曲するきっかけとなった『チベットの死者の書‐サイケデリック・バージョン』をこの書店で見つけ、その場で一気に読破した後、購入した[58][59]。
レノンが積極的に平和活動に関わるきっかけを作ったのもマッカートニーだった。ビートルズ日本公演直前の1966年6月、マッカートニーは哲学者で当時ベトナム戦争反対を唱えていた平和運動家バートランド・ラッセルと2回にわたり面会した[注釈 38]。マッカートニーから報告を受けたレノンは非常に関心を持ち、リチャード・レスターから誘いを受けていた映画『僕の戦争』への出演を決めた。また「愛こそはすべて」「レボリューション」など平和への想いを込めた曲を作るようになった。1969年にはオノと共にラッセルと面会し、その後の大英帝国勲章の返還や「平和のためのベッド・イン」などの活動につながっていった。
しかし、アップル・コアの経営を巡って二人の間の溝は深まり、結果的にビートルズは解散してしまうことになった。マッカートニーの脱退を新聞報道で知ったレノンは、先にグループを脱退していながら秘密にすることを求められていたこともあり、マッカートニーが自らのソロアルバムの宣伝のために脱退を公にしたと考えた。さらに『ラム』の「トゥ・メニー・ピープル」でオノとの活動を揶揄されたと感じたレノンは激怒し、『イマジン』の「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?」でマッカートニーの作風をこき下ろし、『ラム』のジャケットのパロディ写真を付録にした。
この対立は1974年3月、アカデミー賞授賞式に出席するため[注釈 39]久しぶりにロサンゼルスを訪れていたマッカートニーがレノンに会いに行き[注釈 40]、その場でスティーヴィー・ワンダーらを交えてジャム・セッションを行ったことで解消された[注釈 41]。また、12月にはハリスンの全米ツアーの打ち上げパーティーにレノンとマッカートニーが揃って出席した。
マッカートニーがレノンの自宅を訪れたある日、テレビ番組の出演者が冗談で「『サタデー・ナイト・ライヴ』にビートルズを出演させるとしたらいくら払う?」「一流クラスの標準ギャラで3200ドル」という話をした。これを観た2人は喜び、意気投合した。実現はしなかったが、マッカートニーは「昔に戻れたみたいでとても嬉しかった」と語った。
またレノンは「ポールの悪口を言っていいのは俺だけだ。他の奴が言うのは許さない」と発言した。ハリー・ニルソンやメイ・パンにでさえ、マッカートニーの悪口を言うことは許さなかったという。またレノンが死去した1980年12月8日には、取材にて「人生のうちで2回、すばらしい選択をした。ポールとヨーコだ。それはとてもよい選択だった」[62]と語った。
他のミュージシャンへの影響
[編集]ロック界でもっとも影響力のあったミュージシャンの一人として知られる。レノンが影響を与えたミュージシャンとして、ビートルズの同僚マッカートニーとハリスン、ニール・ヤング、70年代に共演したエルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイ、ハリー・ニルソン、クイーンらが挙げられる[63]。ほかにもラズベリーズ、ELO、10cc、デヴィッド・ピールら、影響を受けたミュージシャンは数知れない。
反ビートルズだったパンクスたちもレノンから刺激を受けている。ジョン・ライドンは「労働者階級の英雄」を聴いて「この怒りと悔しさは本物だと生まれて初めて感じた。ピストルズの方向性が決まった」と語っている。同曲をカバーしたグリーンデイのビリー・ジョー・アームストロングはジョンから「真実とは何かを学んだ」と述べている。クラッシュのジョー・ストラマーは「彼が遺したものの一つは、夢見ることを許されなかった人々に扉を開いたことだ。僕らは永遠に新たな天才が登場するたびにあの天才と比較し続けるだろう」と評している。
ジャクソン・ブラウンはローリングストーン誌によると「彼はつねに真実を語った」と賛辞を送っている[64]。U2の代表作の一つ「Sunday Bloody Sunday」はレノンの同名曲に因んだものである。Nowhere誌の中で、元ポリスのスティングは「我々のようなロックミュージシャンが何ごとかを言えるのはジョンのおかげである」と語ったと報じている。リアム・ギャラガーは「もしもジョン・レノンに会えたら舐め回してやる」と述べている。
1995年のレノンのトリビュート・アルバム『Working Class Hero』のライナーノーツはTimes誌の記事を紹介し、「聞き手と非常に親密で個人的な関係を築く希有なミュージシャン」「複雑なリズム、コード進行によってロックの限界を拡張し、その発展に貢献した」と評した。また、ヴォーカルの二重録音にヒントを得たエフェクターの一種のフランジャー開発への貢献、ボーカルの電気処理を導入したことでも知られる。
日本との関わり
[編集]来日・滞在
[編集]レノンはビートルズ脱退後4度、プライベートで妻のオノと日本を訪れていた。
最初は、アルバム『ジョンの魂』発表直後の1971年1月13日から21日の9日間。ロサンゼルスから客船で横浜港に到着すると、東京、京都、鎌倉などを訪れた。当初は1か月ほど滞在する予定だったが、マッカートニーが起こした裁判が始まり、弁護士にすぐに帰国するように催促されたため、予定を切り上げてイギリスへ戻らざる得なくなった。帰国直前には当時の東芝音楽工業洋楽ディレクター水原健二によるインタビューが宿泊していた帝国ホテルで行われた。その際『ジョンの魂』を日本語で「しぶいアルバム」と表現し、俳句の影響を示唆した[65][注釈 42]。
2度目は音楽活動休止中の1977年は5月11日から10月7日までの5か月という長い期間、息子ショーンを連れて小野家の別荘があった長野県軽井沢を中心に過ごし、東京・北海道・京都にも足を運んだ[68]。
古くから数多くの外国人や著名人を滞在客として迎え入れてきた軽井沢では、町でレノン一家を見かけるのもごく日常的な光景として受け入れられ、干渉されることもなかったため、その心地よい空間は彼らに安息を与えた。レノンはその気候風土から軽井沢を故郷の英国リヴァプール郊外と重ね合わせていたようで[69]、滞在中「この辺りに土地を買って軽井沢で暮らしたい」とも口にしていたという[70]。軽井沢の町を自転車で走行したり、行きつけのパン屋や喫茶店、付近の景勝地に立ち寄った時の様子などは、写真に多く残されている。なかには森の中でギターの弾き語りをする様子まで収められている。これらの写真の多くは、当時レノン一家のパーソナル・アシスタントであった写真家の西丸文也によるものであった[68]。
軽井沢における定宿は万平ホテル旧館2階であった。ホテル併設のカフェにはレノン直伝のロイヤルミルクティーがあり、ホテル内の記念館にはレノンのサインを始め、欲しがったといわれるピアノなどが収められている[注釈 43]。またレノンは、1979年に訪れた喫茶店に眼鏡とたばこ、ライターを置き忘れていったが、店はそれらを保管していた。
レノンがエルヴィス・プレスリーの訃報を知ったのも、軽井沢に滞在中のことであった[68]。そのとき各国メディアの特派員が軽井沢に飛び、レノン夫妻を訪ねたが、2人は「コメントが流れることで日本での楽しい生活が壊される恐れがある」として言及を避けたと、当時のサンケイスポーツは紙面で報じている[注釈 44][71]。
3度目は、1978年6月5日から9月16日まで、東京のホテル・オークラを中心に3ヵ月滞在。最後となった4度目は、1979年7月28日から8月28日まで、軽井沢の別荘で休暇を過ごした[68]。
交友関係
[編集]日本人の知己としては、ビートルズとして訪日時にともに取材を受けた加山雄三[注釈 45]、ニューヨークのレノン夫妻のもとで過ごした時期のある横尾忠則[72]、訪日時に食事をともにした内田裕也・樹木希林夫妻、シンコーミュージック(当時)の星加ルミ子らが挙げられる。また、音楽評論家の湯川れい子とレノン夫妻の交流は広く知られ、1980年12月5日にも、FM東京で取材を受けている[73]。写真家の篠山紀信は、アルバム『ダブル・ファンタジー』『ミルク・アンド・ハニー』のカバー写真を撮影している。
また、古美術商・木村東介の誘いで夫妻で歌舞伎「隅田川」を観劇し、終幕でレノンが感涙したという逸話もある[68]。その際に歌舞伎役者中村歌右衛門の楽屋を訪れたことが縁となり、レノンは1975年に行われた歌右衛門の英国公演を支援している[72]。
売り上げ
[編集]日本での売り上げで、シングルでは「マザー」「イマジン」「スターティング・オーヴァー」「ラヴ」が上位を占める。アルバムは「イマジン」のほかもオリコン総合チャートで「ジョンの魂」が5位、「マインド・ゲームズ」が6位、「ダブル・ファンタジー」が2位(単日では1位)、「ミルク・アンド・ハニー」が3位と洋楽アーティストの中でも有数の人気を誇っている。シングルとアルバムの合計で、オリコン誌では210万枚以上に達している。
殺害事件
[編集]
1980年12月8日、レノンは自宅であったダコタ・ハウスで、午前中から音楽誌「ローリング・ストーン」掲載用写真のフォト・セッション[注釈 46]、その後 RKOラジオ・ネットワークによるインタビューに応じた[注釈 47]。
夕方、レノン夫妻はオノの新曲「ウォーキング・オン・シン・アイス」のミックスダウン作業のため、ニューヨーク市内にあるレコーディング・スタジオに向かうため自宅を出た。車に向かう途中、レノンにサインを求める人が数名近づいてきたが、その中に犯人のマーク・チャップマンがいた[76][注釈 48]。チャップマンはレノンにアルバム『ダブル・ファンタジー』を無言で手渡した。それにサインし終えたレノンは「君がほしいのはこれだけかい?」と尋ねると、チャップマンは笑顔で頷いた[76][注釈 49]。
ミキシング作業を終え、スタジオを出たレノン夫妻は、22時50分ごろ自宅の前に到着した[79]。2人が車から降りたとき、暗闇で待ち構えていたチャップマンが「レノンさんですか?(Mr.Lennon? )」と呼びかけると同時に銃撃した[47] [80]。事件後、チャップマンは現場から逃走せず、逮捕時にも抵抗せず、自分の単独犯行であることを警官に伝えた。
レノンは駆け付けた警官によりパトカーでルーズヴェルト病院に搬送された。懸命な救命措置が行われたが、既に全身の8割の血液を失っていたレノンは失血性ショックにより23時過ぎに死亡した[47]。レノンの遺体は死から2日後の12月10日、ニューヨーク州ウエストチェスター郡ハーツデールにあるファーンクリフ墓地で火葬され、遺灰はオノに渡されたが、葬儀は行われなかった[81]。
チャップマンにはニューヨーク州法に基づいて仮釈放があり得る無期刑が下った。服役開始から20年経過した2000年から2024年に至るまで2年ごとに仮釈放審査を受けたが、本人の精神に更生や反省が見られないこと、妻子への再犯の確率が高いこと、レノンの遺族が釈放に強く反対していること、釈放されてもレノンのファンに報復で殺害される危険性があるとして仮釈放申請を却下され、2025年現在も服役中である。
ディスコグラフィ
[編集]- オリジナル・アルバム
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- 『「未完成」作品第1番 トゥー・ヴァージンズ』 - Unfinished Music No. 1: Two Virgins(1968)
- 『「未完成」作品第2番 ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ』 - Unfinished Music No. 2: Life with the Lions(1969)
- 『ウェディング・アルバム』 - Wedding Album(1969)
- 『ジョンの魂』 - John Lennon/Plastic Ono Band(1970)
- 『イマジン』 - Imagine(1971)
- 『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』 - Sometime In New York City (with Yoko Ono)(1972)
- 『マインド・ゲームス』 - Mind Games(1973)「邦題:ヌートピア宣言」
- 『心の壁、愛の橋』 - Walls And Bridges(1974)
- 『ロックン・ロール』 - Rock 'n' Roll(1975)
- 『ダブル・ファンタジー』 - Double Fantasy (with Yoko Ono)(1980)
映像作品
[編集]劇場用映画
[編集]- 『ジョン・レノンの 僕の戦争』- How I Won The War(1967年)
音楽ビデオ・クリップ集
[編集]- 『ジョン・レノン・ビデオ・コレクション』 - The John Lennon Video Collection(1992年)
- 『レノン・レジェンド』 - Lennon Legend:The Very Best of John Lennon(2003年)
ライヴ演奏
[編集]- 『スウィート・トロント』 - SWEET TORONTO(1971年)
- 『ジョン・レノン・ライヴ』 - LIVE IN NEW YORK CITY(1985年)
- 『ワン・トゥ・ワン』 - ONE TO ONE(1992年)
ドキュメンタリー・記録
[編集]- 『イマジンージョン・レノンー』 - IMAGINE: JOHN LENNON(1988年)
- 『ザ・ビートルズ・アンド・ビヨンド』 - THE BEATLES AND BEYOND(1991年)
- 『ジョン&ヨーコ イン マイク・ダグラス ショー』 - The Mike Douglas Show with John Lennon & Yoko Ono(2001年)
- 『ジョン・レノン&オノ・ヨーコ イヤー・オブ・ピース』 - Year Of Peace : John Lennon & Yoko Ono(2002年)
- 『JOHN&YOKO ザ・ディック・キャベット・ショー』 - JOHN&YOKO THE DICK CAVETT SHOW(2006年)
- 『PEACE BED アメリカVSジョン・レノン』 - THE U.S. VS JOHN LENNON(2006年)
- 『クラシック・アルバムズ メイキング・オブ・ジョンの魂』 - Classic Albums: John Lennon/The Plastic Ono Band – John Lennon/Plastic Ono Band (2008年)
- 『ジョン・レノン,ニューヨーク』 - LennoNYC(2010年)
- 『ジョン・レノン~音楽で世界を変えた男の真実~』 - Looking for Lennon(2018年)[82]
- 『ジョン・レノン 失われた週末』 - THE LOST WEEKEND(2024年)
- 『ワン・トゥ・ワン ジョン&ヨーコ』 - One to One: John & Yoko(2024年)
ジョン・レノンを題材とした作品
[編集]- 映画
- 『僕たちの時間』 - The Hours and Times(1991年)
- 『バック・ビート』 - Backbeat(1994年)
- 『ジョン・レノン/青春のビートルズ』 - In His Life: The John Lennon Story(2000年)
- 『ジョン・レノンを撃った男』 - The Killing of John Lennon(2007年)
- 『チャプター27』 - Chapter 27(2007年)
- 『ノーウェアボーイ ひとりぼっちのあいつ』 - Nowhere Boy(2009年)
- テレビドラマ
- 『ジョン・レノンの魂〜アーティストへの脱皮 苦悩の時代〜』 - Lennon Naked(2010年)
書籍
[編集]自著
[編集]- 『絵本ジョン・レノンセンス』 片岡義男、加藤直訳 晶文社 1975年12月 のち筑摩書房(ちくま文庫)2011年 のち晶文社 新版 2013年11月 - In His Own Write(1964年)
- 『らりるれレノン ジョン・レノン・ナンセンス作品集』 佐藤良明訳 筑摩書房 2002年12月 - A Spaniard in the Works(1965年)
- 『空に書く ジョン・レノン自伝&作品集』森田義信訳 筑摩書房 2002年12月 - Skywriting by Word of Mouth(1986年)
- 『Ai ジョン・レノンが見た日本』(序:オノ・ヨーコ)筑摩書房(ちくま文庫)2001年12月 - Ai: Japan Through John Lennon's Eyes: A Personal Sketchbook(1992年)
- 『リアル・ラヴ ショーンのために描いた絵』(序:オノ・ヨーコ)徳間書店 2000年5月 - Real Love: The Drawings for Sean(1999年)
- 『ザ・ビートルズ・アンソロジー』ザ・ビートルズ・クラブ、島田陽子訳 リットーミュージック 2000年9月 - The Beatles Anthology(2000年)
インタビュー
[編集]- ヤーン・ウェナー著 片岡義男訳『ビートルズ革命』 草思社 1972年4月
のち改題『回想するジョン・レノン : ジョン・レノンの告白』新版 1974年6月
のち改題『レノン・リメンバーズ』(序:オノ・ヨーコ)同社 2001年7月
- Lennon Remembers: The Full Rolling Stone Interviews from 1970(2000年) - アンディ・ピーブルズ著 北山修訳『All that John Lennon』中央公論新社 1981年2月
のち改題文庫版『ジョン・レノン ラスト・インタビュー』同社(中公文庫)2001年11月
- Lennon Tapes Paperback(1981年) - 『ジョン・レノン PLAYBOYインタビュー』PLAYBOY編集部編 集英社 1981年3月
のち全貌版 デービッド・シェフ著 石田泰子訳『ジョンとヨーコ ラストインタビュー : Love & peace』同社 1990年11月
- The Playboy Interviews With John Lennon and Yoko Ono(1981年) - 『ジョン・レノン 音楽と思想を語る 精選インタビュー1964-1980』 ジェフ・バーガー編 DU BOOKS 2018年3月
Lennon on Lennon: Conversations with John Lennon(2016年)
第三者による伝記
[編集]- シンシア・レノン著 江口大行、シャーロット・デューク共訳『素顔のジョン・レノン : 瓦解へのプレリュード』 シンコーミュージック・エンタテイメント 1981年4月
- A Twist of Lennon(1980年) - レイ・コールマン著 岡山徹訳『ジョン・レノン』 音楽之友社 1986年8月
- John Winston Lennon Volume 1 1940-66(1984年) - トニー・ブラッドマン著 坂本真理訳『ジョン・レノン : 愛こそはすべて』(解説:片岡義男)佑学社 1987年11月
- ケヴィン・ホウレット、マーク・ルイソン著 中江昌彦訳 『ジョン・レノン IN MY LIFE』 日本放送出版協会 1991年11月
- マイケル・ホワイト著 乾侑美子訳『ジョン・レノン 』 偕成社(伝記 世界の作曲家12)1999年4月
- レイ・コールマン著 岡山徹訳『ジョン・レノン』 音楽之友社 2002年5月
- - Lennon: The Definitive Biography : Anniversary Edition(2000年)
- ジェフリー・ジュリアーノ著 遠藤梓訳『ジョン・レノン : アメリカでの日々』 WAVE出版 2003年11月
- - Lennon in America: 1971-1980, Based in Part on the Lost Lennon Diaries(2001年)
- シンシア・レノン著 吉野由樹訳『ジョン・レノンに恋して』 河出書房新社 2007年3月
- JOHN(2005年) - メイ・パン著 山川真理訳『ジョン・レノン ロスト・ウィークエンド *: 『Instamatic Karma』 河出書房新社 2008年11月
- ジョナサン・コット著 栩木玲子訳『忘れがたき日々 : ジョン・レノン、オノ・ヨーコと過ごして』 岩波書店 2015年12月
主な使用楽器
[編集]アコースティック・ギター
[編集]- ギブソン・J-200
- アルバム『ザ・ビートルズ』のレコーディング・セッションからメインに使われた。ジョージも使用しており、ジョージが所有していたものを借りたという説があるが、ジョンとジョージがこのギターを同時に持っている写真が確認されている。
- フラマス・12弦ギター
- 映画『ヘルプ!4人はアイドル』の「悲しみはぶっとばせ」演奏シーンにも登場したギター[注釈 50]。
- マーティン・D-28
- 2台の所有が写真で確認され、1台目はポールと同時期のもので67年製、もう1台は解散後に入手したものであろう1950年代中期から後期のものである。
エレクトリック・ギター
[編集]- ヘフナー・クラブ40(Hofner Club40)
- レノンが初めて入手したエレキギター。1959年製。ショートスケール。1959年にレノンが伯母のミミと一緒にリバプールのフランク・ヘッシー楽器店に行き、分割払いで購入した。その後リッケンバッカー・325を手に入れると、レノンはクラブ40をしばらくマッカートニーに貸したあとに売却した。
- リッケンバッカー・325(Rickenbacker 325)(1本目)
- レノンが初めて入手したリッケンバッカーのギター。1958年製。ショートスケール。元々、購入当時はナチュラルカラー(リッケンバッカー社でのカラー・ネームは「メイプル・グロー」)で、コフマン・ヴァイブローラがつけられていた(のちにビグスビーB5・トレモロユニットに交換)。トゥーツ・シールマンスをハンブルク巡業で見て影響されて購入した。1962年後半には黒色の塗装を施し、1964年までメインギターとして使用した。その後2本目のリッケンバッカー・325を導入してから、一度も表舞台へ出ることがなかったため、『エド・サリヴァン・ショー』の収録現場で盗難にあったとの説が長い間語られていた。しかし近年になり、レノンが保管し続けていたことが判明。1970年代初頭に黒から、元のナチュラル塗装へ戻すリペアが施されていた。ピックガードもオリジナルは1964年時点ですでに損傷していたためか、白いアクリル製のものに交換されていた。この状態で、2000年10月9日から2010年9月30日まで、さいたまスーパーアリーナ内に存在したジョン・レノン・ミュージアムにて展示されていた。
- また、2002年にはリッケンバッカー社から同作の仕様を再現した「リッケンバッカー325C58」(Cシリーズ)が発売された。当時の仕様を再現するため、日本でビートルズ使用楽器をおもに扱っているギター・ショップ「with」で修復を担当する大金直樹に依頼。大金がジョン・レノン・ミュージアムに何度か通い、その調査のメモを参考に再現された。現在は生産を終了している。
- リッケンバッカー・325(Rickenbacker 325)(2本目)
- 2本目のリッケンバッカーのギター。1964年のアメリカツアー中にレノンが入手した。当初はハリスンの360-12と同様、赤色系のぼかし(リッケンバッカー社でのカラー・ネームは「ファイア・グロー」)だったが、レノンが黒色(ジェット・グロー)を希望したため、急いでリフィニッシュされた後、マイアミでの『エド・サリヴァン・ショー』出演時より使用した。1本目の325よりもボディは薄くなっており、台形のブリッジにトレモロアームがついているなど、細かい点で仕様が異なる。ネックは、3ピース・メープル・ネック。1964年のクリスマスショーの最中にレノンが落としてしまったためネックが破損する。1965年末までメインギターとして使用された。
- 本機はその後レノンの元で大切に保管された。1971年、レノン夫妻のニューヨーク移住の準備を手伝うためにイギリスを訪れていたメイ・パンに、本機をニューヨークまで運んでいくよう託したエピソードが近年、メイ・パン自身のYouTubeチャンネルにて紹介された[84]。
- 1本目のリッケンバッカー・325とともに、ジョン・レノン・ミュージアムに展示されていた。裏から見ると、ネック裏の傷がはっきり見て取れる。また、ビートルズの1965年のイギリス公演のセットリスト(曲名は略記してある)が書かれた小さな紙が、向かって左のカッタウェイ側面にテープで貼られたままになっている。
- リッケンバッカー・325(Rickenbacker 325)(3本目)
- 1965年、マッカートニーに贈られた4001ベースと同時に、リッケンバッカー社よりイギリス代理店のローズ・モーリス社を通じて提供されたもの。当時のヨーロッパ市場での市販品で、欧州でのモデル名は1996となっている。仕様は基本的に2本目に準じるが、カラーが4001ベースやハリスンの360-12と同じファイア・グロー(チェリー・サンバースト)で、ボディの左側にfホールが開けられている。1965年のイギリス公演で2本目と併用された。1967年の自宅スタジオでの写真でレノンの足元に置かれているのが映り込んでいるものが存在する[85]が、その後、スターに譲渡された。
- リッケンバッカー・325-12(Rickenbacker 325-12)
- レノンが、リッケンバッカー社に特注した、325の12弦タイプ。1964年製ブラックカラー(リッケンバッカー社でのカラー・ネームは「ジェット・グロー」。
- 本来、325など末尾に5がつくモデルはトレモロ・アームつきだが、このギターが製作された時期はまだそれが徹底されておらず、このギターもアームがついていないにもかかわらず325-12に分類されている。1964年より、末尾に5がつくモデルはアームつきであることが徹底されたため、320-12と改番された。
- 現在はオノが所有。
- ギブソン・J-160E(1本目)
- 1962年9月にジョージと一緒に購入したエレクトリック・ギター。ボディ・カラーはサンバースト。ボディ・シェイプはJ-45と同じだが、ネックのジョイント位置が異なり、ボディ内部の構造も異なる。J-45がXブレイシングに対してJ-160Eがラダーブレイシングとなる。ヘッドシェイブは大型でインレイも入りJ-45とはまったく違う、糸巻きもJ-45が三連に対し独立型になる、糸巻のツマミ部分もコブが2つあるタイプ。
- ボディ・トップはハウリング防止のため、合板を使用している。そのため生音で鳴らした場合、通常のアコースティック・ギターより鳴りが抑えられ音量も小さいが、J-160Eでしか出せない独特の生音であり、ビートルズ・サウンドの大きな構成要素となっている。
- カヴァーのないP-90ピック・アップがフィンガーボードの付け根の所に付けられており、そこから音を拾ってアンプなどへ出力する。この音もまた初期ビートルズ・サウンドを生み出している要素である。1963年末に紛失。当時は盗難説と破損説があり、レノンはこれが盗まれたと発言していたが、ハリスンは「運搬中のトラックの荷台からケースごと落下しバラバラになった」と発言していた。実際には盗難されており、アメリカ合衆国カリフォルニア州在住の男性が中古店に転売されていたこのギターを購入していた。2015年にこのギターは発見され、ビートルズ専門家の鑑定の結果、レノンが使用していた現物であると正式に認定された。その後オークションにかけられ、約3億円で落札された。最近の調査で、現在ハリスンの遺族が保管するハリスンのJ-160Eは、元々購入時にはレノンのものであったことがシリアル・ナンバーから判明した。この2本はまったく同じ仕様であったため、いつの間にか互いのギターを取り違えて使っていたようである。
- ギブソン・J-160E(2本目)
- 2本目のJ-160Eは1本目とは若干仕様が異なる。大きな違いはサウンドホール周りのリング、1台目がワンリングに対して2台目はツーリング、ブリッジも1台目が木製に対して2台目が黒いプラスチック製になる。
- レノンが生涯愛したギターである。1966年にはピック・アップがサウンド・ホール後方に移設される。1967年には波形のサイケデリック・ペイントが施されるが、1968年にはエピフォン・カジノらとともに塗装を剥がされ、ピック・アップの位置も復元される。ピック・ガードも形状の異なる新たなものが取りつけられた。1969年のベッド・インのときには、ボディにレノンとオノの似顔絵イラストが描かれていた。「ジョン・レノン・ミュージアム」にそのときの状態のレプリカが展示されていた。実物はアメリカ合衆国オハイオ州クリーヴランドにあるロックの殿堂に展示されている。
- フェンダー・ストラトキャスター
- ボディ・カラーは、ソニック・ブルー。主に『ラバー・ソウル』の録音作業で、ヴォックスAC30に繋いで使用された。映画『イマジン』など、アルバム『イマジン』制作風景を納めたフィルムにおいて、ハリスンが使用している、ネックを50年代製のメイプル・フィンガーボードのものに交換されたモデル(さらにリフィニッシュして「コンサート・フォー・バングラデシュ」で使用)のボディとアッセンブリが、それと同一品とする説がある。1980年のフォト・セッションで、当時の新品であった赤いザ・ストラトを弾いているものがある。
- エピフォン・カジノ
- 以前から同器を使用していたマッカートニーに勧められ、ハリスンとともに1965年に購入。ハリスンのものとは色合いや仕様(トレモロアームの有無など)で若干の違いがある。同年の『ラバー・ソウル』録音作業において使用し始め、1966年からはハリスンと共に公演でのメインギターとしても用いた。日本公演でも本器が使用された。
- 元々のボディ・カラーは黄色味がかったサンバーストであったが、1967年の「サージェント・ペパーズ〜」の録音中に、ボディ裏面を白く塗装している。同年の「愛こそはすべて」を披露した衛星中継リハーサルにて、ハリスンがこのギターを使用している(本番では自身のストラトキャスターを使用)。翌1968年にフロントピックアップのヴォリューム・ノブを、標準のゴールドからブラックに差し替えた。その後、「ヘイ・ブルドッグ」録音直後にボディのサンバースト塗装をはがして木の地肌を露出させたナチュラル仕上げにする。このころビートルズのメンバーは、ギターの塗装をはがすことによる音質の変化に期待していたようで、ハリスンのカジノとマッカートニーのリッケンバッカー4001Sも塗装をはがしナチュラル仕上げを施している。「ゲット・バック・セッション」および「ルーフトップ・コンサート」でも使用した。1971年の「イマジン」完成後にレノンはレスポールを使用し始め、その後は本器を大切に保管していた。
- ブリッジ・サドルは現行の仕様とは異なり、プラスティック樹脂を使用している。そのため、音が若干柔らかめになっている。
- ジョン・レノン・ミュージアムに、ブラックノブとともに展示されていた。
- ギブソン・レスポール・ジュニア
- 1971年、ニューヨークに移住してから入手。当時レノンは、ボブ・マーリーをはじめとしたレゲエに心酔しており、同じモデルを使用していたマーリーにならって本器を入手した。ギブソンJ-160Eやエピフォン・カジノと同じくP-90ピック・アップを搭載しており、レノンのギター・サウンドにおける指向が窺える。フロントに、ギブソンES-150用のオールドタイプのピック・アップ(通称チャーリー・クリスチャンPU)を追加、PUセレクターの増設、ブリッジとテイルピースの交換を施し、より実用性を高めている。カラーは、当初サンバーストだったが、チェリー・レッドにリフィニッシュされた。アルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』録音や、1972年のTV番組『マイク・ダグラス・ショー』出演時に使用されたが、1972年8月30日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われた慈善公演「ワン・トゥ・ワン」での使用がもっとも有名である。
- ジョン・レノン・ミュージアムに展示されていた。
- また、実物を再現したシグネイチャー・モデルが発売されており、福山雅治やASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文らが愛用している。
アンプ
[編集]- ヴォックス・AC30(VOX AC30)
- ビートルズ・デビュー前から初期まで(中期ではフェンダーなどのアンプと併用)の録音においてもっともよく使用されたアンプ。真空管を使用しているため独特な粘りのある音で、個々のギターの特徴と混じり合って音を出す。公演でも使用されることはあったが出力が低いため、当時のSR(PA)システムでは巨大な会場での演奏には向かなかった。
- ヴォックス・AC50(VOX AC50)
- ヴォックス・スーパー・ビートル(VOX SUPER BEATLE、VOX AC100、VOX AC200)
- 公演においてほとんど演奏が聞こえないという問題に対処するため、出力の低いAC30などのアンプに代わって、ビートルズの公演のためにヴォックスが開発した大型で高出力のスタックアンプ。100Wのものと200Wのものがあり真空管を使用し粘りのある音が特徴である。ヴォリュームを最高にして使用しているようで、その分、アンプの持つ音より箱鳴りの音の方が大きく聞こえる。1966年の日本公演の1日目と2回目公演でAC100を使用。現在は生産停止。
- フェンダー・ツインリヴァーブ
- おもにビートルズ中期以降に使用。中期ではヴォックス社との契約上の理由から、公演や映像では登場しないが、録音ではフェンダー社製アンプも使用されていた。ビートルズ活動末期に撮影された映画『レット・イット・ビー』にて使用されている様子を確認できる。レノンは、フェンダー・ベースVIを接続して演奏していた。
その他
[編集]- ホーナー・ブルース・ハープ(M.HOHNER BLUES HARP)
- いくつかの書籍などにホーナー・マリンバンドと書かれていることがあるが、レノンが所有していたのはブルース・ハープ。「ブルース・ハープ」は10穴ハーモニカの総称ではなく、ホーナー社の10穴ハーモニカの機種名のひとつ。
- レノン50回目の誕生記念に愛用品の展示会が行われたとき、なぜかマリンバンドと紹介されていたが、そこにあったのは3本の「M.HOHNER BLUES HARP」と刻印されたハープで「MARINE BAND」と刻印されたハープではなかった。同カタログ本にもブルース・ハープの写真にマリンバンドと間違いで紹介されている。初期によく使っていたCのブルースハープは、ハンブルクの楽器店で万引きしたもの。
- ホーナー・クロモニカ(M.HOHNER Chromonica 具体的なモデル名は不詳)
- 「ラヴ・ミードゥ」や「プリーズ・プリーズ・ミー」においてはブルース・ハープではなくホーナー社製のクロマチック・ハーモニカを使用している。これは、ブルース・ハープなどの10穴ハーモニカでは、出すのに高度な技術を必要とする音がフレーズ中に含まれるため、すべての音階を一本でカヴァーできるクロマチック・ハーモニカを曲によって使用していたものと思われる。レノン自身もBBC出演時。司会者とのやり取りのなかで、10穴ハーモニカを「ハープ」、クロマチック・ハーモニカを「ハーモニカ」と呼んで区別している。
- ジョン・レノン使用ギター(本人モデルと仕様が似たもの)
-
ギャロトーン・チャンピオン
レノンが最初に入手したギター(叔母のミミに買ってもらった)で、マッカートニーと出会った日に使用されたギターである。写真はレノンのものとほぼ同一の仕様だがテールピースの形状が異なる。現物はジョン・レノン・ミュージアムにて展示 -
リッケンバッカー・325(58年製改造)とギブソン・J-160Eとヴォックス・アンプ
購入時の325はメイプル・グローだが、後に黒く塗った。 -
リッケンバッカー・325C64
64年製(ジョン使用の2台目)の復刻。 -
ギブソン・J-160E
1964年製 -
ギブソン・J-200
-
エピフォン・カジノ(サンバースト)
塗装を剥がす前の仕様に近く、ピックガードのEマークも現行のものと異なり、レノンのものと同様にフラットなタイプ。 -
エピフォン・カジノ
レヴォリューションモデル。塗装を剥がした状態のレプリカモデル。 -
ギブソン・レスポール・ジュニア
写真のはその仕様を復刻したモデル。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 1974年リリースのアルバム『心の壁、愛の橋』においては、収録曲の自身の演奏者クレジットを全て変名で行っている。
- ^ 出生名はジョン・ウィンストン・レノンであるが、ヨーコとの結婚に際し改名した。
- ^ 『ギネス・ワールド・レコーズ』では、もっとも成功したソングライティングチームの一人として、「チャート1位の曲が米国で盟友のポール・マッカートニーが32曲、レノンが26曲 (共作は23曲)、英国チャートでレノンが29曲、マッカートニーが28曲 (共作が25曲)」と紹介されている。
- ^ のちに英国のベトナム戦争支持への反対を理由に返上した。
- ^ この曲は、1962年にデッカのオーディションの際に歌われ、『ザ・ビートルズ・アンソロジー1』で公式に発表された。
- ^ 2人は近所で生まれ育っていたが、この日まで一度も会ったことはなかったという。
- ^ 最初の妻シンシアの回顧本「ジョン・レノンに恋して」(2007年) によると、ジュリアに気づいた警官が、慌ててブレーキとアクセルを踏み違えたことで起こった事故とされている。警官に下った判決は「無罪」。
- ^ サトクリフと並んでベースを演奏している写真がある。
- ^ この時制作された作品は『「未完成」作品第1番 トゥー・ヴァージンズ』として発表された。
- ^ この模様の一部は『ウェディング・アルバム』のB面に収録されている
- ^ この一連の行動は「ジョンとヨーコのバラード」の題材となっている[25]。
- ^ この名称は正式なものではなく、このセッションで作られた曲「ゲット・バック」、未発売に終わったアルバム『ゲット・バック』、さらにマッカートニーの「原点回帰」的なコンセプトの一連のプロジェクトを結び付けて後から言われるようになったものであって、最初から「原点に返ろう=Get Back」という言葉を明確かつ具体的に掲げてセッションが行われた訳ではない。
- ^ クラウス・フォアマン、エリック・クラプトン、アラン・ホワイトが参加した同公演の模様はライヴ・アルバム『平和の祈りをこめて〜ライヴ・ピース・イン・トロント1969〜』とDVD『スウィート・トロント』に収録されている。
- ^ ハリスンは母親の病気見舞で不在だった。
- ^ 9月9日、アルバム『アビイ・ロード』の発売が間近に迫る中、検査入院で不在だったスターを除く3人スターは次のアルバムについて話し合ったが、この時レノンはメンバーそれぞれがシングル候補曲を持ち寄ってシングルとアルバムを制作しようと、グループの存続について前向きな発言をしていた[30]。
- ^ この最中の4月10日、マッカートニーがグループを脱退する意向であることがイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』で報じられた。これは『マッカートニー』の発売前にプレス向けに配付された、マッカートニー自身が用意した資料に基づいた記事であった。一問一答形式の資料の中には「今後ビートルズのメンバーと創作活動をすることはない」とあり、マスコミから「脱退宣言」だと受け取られた。こうしてビートルズは事実上解散した[31][32]。
- ^ レノンは再入国禁止処分に対する抗告と裁判を1975年10月まで行い、最終的に勝訴した。
- ^ 10テイク、約18分に及ぶ[35]このセッションではクラウス・フォアマンがベースを担当しており、「ビートルズがマッカートニーの代わりにフォアマンを迎えて再結成した」とイギリスの音楽雑誌『メロディ・メイカー』が報じ、世界的なニュースとなった。
- ^ 1974年3月、毎晩のように飲み歩いていたレノンはハリウッドのナイトクラブ、トルバドールで2度にわたってトラブルを引き起こした。1度目は当時お気に入りのレコードの1つであった「アイ・キャント・スタンド・ザ・レイン」をリリースしたアン・ピーブルスのコンサートで、額に生理ナプキンを付けて歩き回り、ウェイトレスに詰られた。2度目はその2週間後、レノンとニルソンがスマザーズ・ブラザーズを野次った後、前回とは違うウェイトレスと乱闘し、クラブから叩き出された[37]。
- ^ ジャガーがマスターテープを火事で焼失したため長い間未発表だったが、2007年にレノンが所持していたもう一つのマスターテープをパンから提供され『ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー』に収録された。
- ^ スペクターは3月31日に交通事故で瀕死の重傷を負って入院、セッション・テープの所在は分からなかった。
- ^ 「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」「真夜中を突っ走れ」の3曲。
- ^ また全米第6位のヒットとなった「オンリー・ユー」をカバーするように提案したのはレノンだった。
- ^ この作品でボウイは初の全米1位を獲得した。ボウイは、スタジオでレノンが発した「フェイム!」というかけ声に着想を得たという。ボウイは「あれほどオリジナリティのある人は将来現れないであろう」と述べている。
- ^ 番組では「スタンド・バイ・ミー」と「スリッピン・アンド・スライディン」をカラオケに合わせて歌った[38]。
- ^ 4月18日にニューヨークの高級ホテル、ウォルドルフ=アストリアで収録されたこのライヴ・パフォーマンスは生前最後のものとなった。「スタンド・バイ・ミー」「スリッピン・アンド・スライディン」「イマジン」を歌った[38]。
- ^ アーヴィング・コーフマン裁判官は「裁判所は政治的秘密に基づいた特定の強制退去を容認しない」と裁定し。「我が国に残ろうとするレノン氏の4年間の戦いは、アメリカン・ドリームに対する志の証拠である」と付け加えた[39]。
- ^ オノが42歳だったため、母子の安全を図るため帝王切開での出産を決めていたが、予定日が近かったためにレノンの誕生日に合わせて手術が行われた。
- ^ レノンはレコーディング契約が満了する前に新曲のアルバム制作を計画していた。このアルバムは『ビトウィーン・ザ・ラインズ』(Between the Lines)というタイトルで、1975年後半にリリースする計画だった。レノン本人も『オールド・グレイ・ホイッスル・テスト』出演時にニューアルバムとテレビスペシャルを計画していることを語っていた[40]。しかしオノが妊娠したため、過去の作品を集めたコンピレーション・アルバムを制作することに変更した。
- ^ この時期に作られた楽曲のデモ・テープの一部は1998年に『ジョン・レノン・アンソロジー』で公開された。また1994年から1995年にかけて行われた「アンソロジー・プロジェクト」では、オノから提供されたデモ・テープを基にして、「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラヴ」の2曲を制作、さらに2023年には「ナウ・アンド・ゼン」が制作され、ビートルズの新曲として発表された。
- ^ ハリスンとスターは出演を許諾していたが、事前に「ビートルズ再結成」と報道されたことで取りやめてしまったため、マッカートニーのみがウイングスを引き連れて出演した。
- ^ この時期レノンはB-52'sやリーナ・ラヴィッチ、現代音楽のメレディス・モンクらに興味を持っており、B-52sの「ロック・ロブスター」を気に入っていたという。
- ^ ショーンが、偶然友達の家で観た映画『イエローサブマリン』の中でレノンを見つけ、「パパは本当にビートルズだったの?」と発した一言に触発されたとする説があるが、レノンは否定している。
- ^ ダグラスはレノンの『イマジン』やオノの『フライ』などでエンジニアとして参加していた。その後プロデューサーとしてエアロスミスやチープトリックを人気バンドに押し上げており、当時の音楽シーンの流行をよく知っている人物と期待しての起用だった。
- ^ 授賞式にはオノが出席、謝辞を述べた。
- ^ ギャラリーの設立者の一人がジェーンの兄ピーター・アッシャーだった。
- ^ 後にアップル・レコードの子会社ザップル・レコードを任せられた。
- ^ マッカートニーはラッセルとの面会を振り返り「ベトナム戦争は非常に良くないことで、アメリカが自国の既得権のためだけに戦っている帝国主義的な戦争だということを教えてもらった。この戦争には反対すべきだと。それだけ聞けば十分だった。」と回想している。
- ^ 「007 死ぬのは奴らだ」が歌曲賞にノミネートされていた。
- ^ それまでマッカートニーは1972年6月、ツアー先のスウェーデンに於いて大麻不法所持で逮捕されことで、アメリカへの入国ビザが取得できなかった[60]。レノンはオノと別れ、ロサンゼルスに滞在していた。
- ^ 当時レノンはハリー・ニルソンの新しいアルバムのプロデュース行っていた。ビートルズ解散後、レノンがマッカートニーと演奏したのはこれが初めてだった。レノンの死によって結果的に最後となってしまったこのセッションの音源は、1992年に『ア・トゥート・アンド・ア・スノア・イン・'74』というブートレグ・アルバムで日の目を見た[61]。
- ^ このインタビュー記事は「ミュージック・ライフ」1971年3月号(シンコー・ミュージック)に掲載された。また音声が入った非売品EPが1971年2月に日本で発売された『ジョンの魂』と『ヨーコの芸術』購入者1000名に抽選でプレゼントされた。なお、このEPにはインタビューの日付がなぜか1月25日と記載されているがこれは誤りである。21日午後に羽田からロンドンへの帰途に就いたレノン夫妻は、時差の関係で現地時間の21日の夜には自宅に戻り、その後マルクス主義新聞『レッド・モール』によるイギリスの労働運動家 タリク・アリ と歴史学者 ロビン・ブラックバーンとの対談に応じた[66]。さらに翌22日には「パワー・トゥ・ザ・ピープル」の録音を行った[67]。
- ^ ニューヨークで日本語を学んでいた際に、ジョンが使用していたノートは、Ai 〜 ジョン・レノンが見た日本(ちくま文庫・2001年)として出版された。
- ^ その後、東京のホテルオークラで記者会見を開き、プレスリーの死について言及している。
- ^ レノンが初対面でいきなり加山の後ろから目隠しをして驚かせたとか、メンバー全員とすき焼きを食べたエピソードで知られている。また、オノと遠戚であることが後に判明している。
- ^ 1981年第1号の表紙はレノンに決定しており、3日前に行われたインタビューもカバーストーリーとして掲載される予定だった[74]。
- ^ 結果的に最後となったこのインタビューでレノンは、新作アルバムや近況、クオリーメン、マッカートニーやハリスンとの出会いについて語っていた。そして、「死ぬならヨーコより先に死にたい」「死ぬまではこの仕事を続けたい」などと発言をしていた[75]。
- ^ このころ、ダコタ・ハウスの外でファンがレノンを待ち構え、サインをねだるという光景はよくあることだった[77]。
- ^ 写真家でレノンのファンでもあるポール・ゴレシュ( Paul Goresh )は、この瞬間を写真に収めていた[78]。
- ^ その後オークションにかけられ、4億5000万円で落札された[83]。
出典
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外部リンク
[編集]- Official John Lennon website, courtesy of Yoko Ono and EMI/Capitol Records
- ジョン・レノン - UNIVERSAL MUSIC JAPAN
- ジョン・レノン (johnlennon) - Facebook
- ジョン・レノン - Discogs
- 命日コム ジョンレノンのページ - ウェイバックマシン(2013年6月15日アーカイブ分)
- ビートルズのメンバー
- ジョン・レノン
- 小野英二郎家
- ヒッピー・ムーブメント
- イングランドのシンガーソングライター
- イングランドのロック歌手
- ロックンロール・ミュージシャン
- イギリスのロック・ギタリスト
- イギリスのマルチプレイヤー
- リズムギタリスト
- ロックの殿堂入りの人物
- グラミー賞受賞者
- ブリット・アワード受賞者
- 大英帝国勲章受章者
- 反戦運動家
- 平和運動家
- イングランドの平和主義者
- アメリカ合衆国の平和主義者
- アメリカ合衆国のフェミニスト
- フェミニスト・ミュージシャン
- イングランドのフェミニスト
- 男性のフェミニスト
- 殺人被害者
- 在アメリカ合衆国イギリス人
- アイルランド系イギリス人
- スコットランド系イングランド人
- リヴァプール出身の人物
- 1940年生
- 1980年没