ビートルズの解散問題

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ビートルズの解散問題(ビートルズのかいさんもんだい)とは、イギリスロックバンドビートルズの解散原因、及びそれらに纏わる背景についての問題である。

1970年4月10日、ポール・マッカートニーはイギリスのタブロイド紙『デイリー・ミラー』でビートルズから脱退する旨を発表、更に同年12月30日にはロンドン高等裁判所にアップル社及び他の3人のメンバーを被告としたビートルズの解散とアップル社における共同経営関係の解消を求める訴えを起こした。翌年の1971年3月12日、裁判所はマッカートニーの訴えを認め、他の3人が上告を断念したこともあって、解散が法的に決定された。

ビートルズの活動記録を纏めた一部の書籍では、ジョン・レノンの妻であるオノ・ヨーコが「ビートルズを解散させた張本人」と掲載された。しかし、ジョージ・ハリスンは「ヨーコが全責任を負うわけではない」と発言している他[1]、マッカートニーも2012年10月のインタビューで「ヨーコがビートルズをバラバラにしたわけじゃない。ビートルズは自らバラバラになったんだ。」と語っている。

この項では、個々の解散の原因とされる問題ごとに区別し解説する。

ライブ活動の終了[編集]

1966年8月29日、ビートルズは同年の夏から開始したツアーの最終公演としてサンフランシスコキャンドルスティック・パークでライブを行った。メンバーは本ツアー中、様々なトラブルに見舞われ、1964年から1965年にかけて問題なくツアーを行ってきたメンバーにとって、この経験が非常に辛かったという。

ライブ活動を終了させる考えは日本公演時から既に決まりつつあったという。日本武道館での公演時は騒動ともなり、同年6月5日に放送されたTBS系列局の討論番組「時事放談」では小汀利得が、「大体ね、あんな気違い共の為に武道館を使わせるなんて、以ての外だよ。ゴミ溜めの夢の島でやらせりゃいいんだ。」と発言。このように「神聖な場所」と考える人々の反対にも関わらず公演は予定通り実施された。コンサートは1966年6月30日から7月2日まで計5回行われたものの、警備上の制限もあり非常に静かな観客の前で行われた[2]

ハリスンは「ビートルズ・アンソロジー」において日本公演を振り返り、「全体的に静かだった」と話している。普段は観客の叫び声や歓声によって演奏の様子すら聞くことが出来なかったメンバーにとって、日本の観客の静かさはその演奏を確認させることとなり、演奏能力が低下したように感じたという[3][4]

日本公演の数日後、メンバーはフィリピンを訪れる。しかし、警察がホテルから立ち去る許可を与えなかったほか、ライブの後に、大統領夫人のイメルダ・マルコスが自らの家族や友人のためにパーティーを開催、ビートルズもこのパーティーに招待されたが、メンバーもマネージャーのブライアン・エプスタインもその事実を知らされておらず不参加となった。

翌朝の新聞ではビートルズが「ファーストレディに肘鉄を食らわした」と報じられた。このことに腹を立てた民衆は暴動を引き起こし、ビートルズはフィリピンから脱出することを決行。また、リンゴ・スターは飛行機に乗ろうとした際に肋骨に怪我を負い、他のメンバーも負傷した。メンバーの機材は失われたほか、コンサートの収益はすべて課税され、何名かのメンバーは空港での乱闘後にそのまま取り残されたという[5]。また、スターはその後のインタビューで「動物並みの待遇を受けた」と皮肉交じりに語っている。

ツアー終了後ハリスンは幾つかの理由を挙げ、エプスタインにビートルズの脱退を申し入れた[6]。その理由に関しては、音楽を創造したいという願望、そして、1960年代中頃から発達した録音技術によって作られた曲をライブ演奏する際の技術的な制限との葛藤から生じた不満があったという[7]が、彼の申し入れは却下。その後、ビートルズは大きな路線変更を行うこととなる。

ブライアン・エプスタインの死[編集]

1967年8月27日、マネージャーでもあったエプスタインが自宅の寝室で死亡しているのが発見された。死因は睡眠薬の過剰摂取によるものと言われている。一説によると、ビートルズのライブ活動終了により自分の役割の多くを失ってしまったこと、自分が育てたはずのビートルズが自分の手の届かない存在になってしまったという疎外感から自殺したのではないかと言われているが、真相については不明のままである。ビートルズはエプスタインの死に大きな衝撃を受けていた[8][9]

取り纏め役がいなくなった後のビートルズは、当時ヒット曲の量産により発言力のあったポールが主導権を握ることとなる。その様子は彼の提案で始まった『マジカル・ミステリー・ツアー』セッションで明らかである。ポールは必死にグループを存続させようと努力するが、周囲には身勝手と受け取られ、とりわけ日頃から彼に不満を抱いていたジョージとの不仲が次第に顕在化し始める。ホワイトアルバム制作のころには、作曲者とその手伝いをする伴奏者というところまで来てしまった[10]。更には、「バック・イン・ザ・USSR」をレコーディング中、ポールがリンゴのドラミングにクレームを付け、リンゴが激怒しセッションを離脱。2週間ほどリンゴ不在のままレコーディングが行われることとなった[11]

ジョンは1970年に『ローリング・ストーン』誌のインタビューでエプスタインの死がバンド解散の主な原因であるとし、「ブライアンの死後、君らが知ってるように色々なことが僕たちに降りかかり始めたことで、僕たちはポールのサイド・マンであることにうんざりしたのさ。ブライアンが死んで僕たちは意気消沈してしまった。ポールは彼を引き継いでおそらく僕たちをリードしようとしたけれど、僕たちは精神的に参ってしまったんだ」と語った。

アップルと財政問題[編集]

1967年、ビートルズは自らの財産を運用するための会社、アップル・コアを設立した。この会社は音楽だけでなく映画や芸術等の傘下7部門を持つ巨大な企業であったが、経営に関して全くの素人である4人が会社をコントロール出来るはずもなく、結局成功したのはレコード部門だけだった[12]

ジョン・レノンは設立後間もなく「会社は半年で無一文になるだろう」と語ったという[13]。アップルはその資金を浪費し続け、会社の事業として創り出された作品のレベルは満足行く物ではなく、多くのフラストレーションとメンバー間の反目の原因となった。

4人はアップルの運営を、自分たち以外のきちんとした経営能力を持つ外部の実績者に委任することを検討したが、その際にバンドは2派に分裂してしまう。ポール・マッカートニーは妻のリンダの父親であるリー・イーストマンへの委任を主張したが、これ以上ポールの発言力が強まるのを危惧した他の3人はローリング・ストーンズのマネージャーであった悪名高いアラン・クレインの起用を主張した[14]。結果としてマッカートニーと他の3人の間で訴訟問題に発展する[15]。結局クレインがアップルの運営に携わることとなったが、それは経営の悪化に対して明らかに力不足であり、その起用も遅すぎた。アップルは1975年にレコード・リリースを停止する。1990年代に幾つかのビートルズのタイトルをリリースした以外は、会社の活動は停止している。

「ゲット・バック・セッション」[編集]

1969年1月に行われた「ゲット・バック・セッション」はレコーディング風景やライヴ・セッションをドキュメンタリーとしてフィルムに記録し、レコーディングしたもので、後に映画『レット・イット・ビー』として劇場公開され、アルバム『レット・イット・ビー』としてリリースされたが、ビートルズ末期の人間関係を窺い知ることの出来る重要な記録となっている。

このセッションは、もともとポール・マッカートニーの発案で行われた。ビートルズは1966年にコンサート活動を停止した後、1967年発表のアルバムサージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』で揺るぎない評価を得たが、その後マネージャーのブライアン・エプスタインが死去してからはバンドとしての結束が希薄になっていき、このセッションの前年に発売されたアルバム『ザ・ビートルズ(ホワイトアルバム)』では、各メンバーが自分の作った曲を自分だけで(あるいはメンバー以外のミュージシャンを参加させて)録音するというパターンが増え、さながらソロ作品の寄せ集めのようなアルバムとなった。こうした状況に危機感を覚えたポールはひとつの解決策として自分たちがバンドとして一体になっていたころの原点に戻る(ゲット・バック)ために、昔どおりに「観客を前にしたコンサート」を行なうことを提案した[16]。しかし、他のメンバーは興味を示しはしたものの、すぐに規模や内容、開催時期について意見の食い違いを見せる。最終的には「スタジオでのコンサートを収めたテレビ番組を作る。そのためにいくつかの新曲を用意し、曲を仕上げていく過程も収める。コンサートで演奏するという前提で、新曲は複雑な編集作業を伴わないシンプルなものにする。音源はレコードとして発売する」ということで合意した[16]

1969年1月2日、トゥイッケナム映画撮影所でリハーサル・セッションが開始された(映画撮影所に録音機材を持ち込んで録音スタジオに仕立てた)。しかしセッションが進むにつれて様々な問題が露呈し[17]1月10日にはジョージ・ハリスンがビートルズ脱退を宣言してスタジオを出ていってしまう[18]。その後4人の間で何度か話し合いが持たれ、1月20日からは彼らのアップルの社屋ビルに場所を移し、「次のアルバム(タイトルは、最も出来が良いと思われていた曲から取って"Get Back"になる予定だった)のレコーディング・セッション」としてレコーディングが開始された[19]。また、ジョージ・ハリスンがバンド内の緊張状態を和らげるためにキーボーディストで旧友のビリー・プレストンを参加させた[20]

ビリー・プレストンの参加によりメンバー間の緊張も和らぎ、アップルでのセッションは比較的順調に進んだ。そして、1月30日にアップルビルの屋上で事前予告なしに公開ライヴが行われた後、1月31日にスタジオ・ライヴが行われ「ゲット・バック・セッション」は一応の終りを迎えた。

このセッションで撮影・録音された膨大な映像・音源は、(シングルとして発売された一部の音源を除いて)しばらくの間発表されることはなかったが、アルバム『アビイ・ロード』の発売後、1970年に映画『レット・イット・ビー』、アルバム『レット・イット・ビー』として世に出ることになった。

ただしこれらの作品は、後からかなりの編集を施されたものである。特にアルバム『レット・イット・ビー』は1970年1月に追加録音されたあと、プロデューサーのフィル・スペクターに託され3月23日から4月2日にかけて再制作された。フィル・スペクターはアルバム"Get Back"の本来のコンセプトであるオーヴァー・ダビングをしないという方針を破棄し、セッション・ミュージシャンによるオーケストラやコーラスをオーヴァー・ダビングして完成させた[21]2003年にリリースされたアルバム『レット・イット・ビー...ネイキッド』には、フィル・スペクターによる編集のないヴァージョンを聴くことが出来る。詳しくは上記リンクを参照。


ジョン・レノンの脱退宣言[編集]

1969年9月20日、ビートルズの4人と当時のマネージャーであるアラン・クレインは、米国キャピトル・レコードとの契約更新の手続きのためアップル本社で会合を持った。その席上において、ジョンとポールはバンドの今後を巡って口論になり[22](ポールの自伝「Many Years From Now」における記述によると、ポールはライブ活動の再開を望み、小さなクラブでのギグをやろうと提案したが、ジョンはこれに猛反発したらしい)、挙句の果てにジョンはポールに向かって「“契約書にサインするまでは黙ってろ”と言われたんだけど、君がそう言うんなら教えてやるよ。俺はもうビートルズを辞めることにした」と吐き捨てた。しかし契約更改するまでは脱退を許さないとクレインに説得され、ジョンの脱退宣言はこの時点では契約上では却下されたが、ジョンはこれ以降ビートルズとしてスタジオに戻ることはなかった[23]

ちなみに、1969年6月以降のジョンは重度のヘロイン中毒で、周囲の意見にほとんど耳を傾ける余裕がなかったそうである[24](この会合の直後、麻薬の禁断症状について書いた「コールド・ターキー」をプラスティック・オノ・バンド名義で発表し、自分の中毒症状を訴えている[25])。

ポールは、この時のジョンの脱退宣言がよほどショックだったのか、暫くの間スコットランドの農場に引き篭ってしまった。その頃のポールを心身ともに支えたのが、当時のポールの妻であるリンダ・マッカートニーだった。後にポールは、自伝で「あの時リンダが支えてくれたから、ソロでやっていく決心がついた」と述懐している[26]

ジョージ・ハリスンに対する冷遇[編集]

非凡な才能が結集したビートルズにおいてジョージの立場は非常に厳しいものであった。初期のころは天才メロディメーカー「レノン=マッカートニー」の陰に隠れ、自分の実力を十分に発揮出来ず(アルバム1作につき、ジョージの曲は多くても3曲程度までしか採用されなかった。ただし、この事実については『アンソロジー』の中でジョージ自身が、「あの頃の僕は気持ちとソングライティングの実力が伴っていなかった。最初の頃の曲は(後期に作った曲と比べると)全然だね」という発言をしており、曲作りにおけるビートルズ前期の頃の実力不足を自ら認めている)、寡黙な性格などからメンバーの中では一番目立たず「Quiet Beatle(静かなビートル)」と呼ばれていた。しかし、ジョージの実力は後期になるにつれて少しずつ開花していき、インド音楽への接触、それに伴うシタールをはじめとする新しい楽器の導入など、独自の世界観を構築することに成功し、その作曲能力はレノン=マッカートニーに匹敵するまでになる[27]

にも関わらず、後期においてグループ内で最も発言力を有していたポールは彼の能力を軽視し、演奏に何回も注文をつけたり[28]、自由な作品発表の場を与えずにいた。また、ジョンもビートルズがライブ活動を止め、スタジオ活動しかしなくなったことに強い不満を持っており、スタジオ活動を重視していたジョージとの間に溝が出来ていた。

プロデューサージョージ・マーティンですら、ジョージの実力を軽視していたところがあった。マーティンは「ジョンとポールはお互いに切磋琢磨しながら曲を作ることが出来たが、ジョージにはそういうライバルがおらず、一人きりだった」と述べている[29]。 「『ゲット・バック・セッション』の際には、ジョンもポールも自分の曲のギターパートを全て自分で作ろうとしていたために、ジョージは欲求不満であった」とリンゴは述べている[30]。こうした事実から、ビートルズ末期には、ジョージは完全にビートルズ内で孤立状態であったのは間違いない。しかしジョージは、ジョンのプラスチック・オノ・バンドやアルバム『イマジン』のレコーディングに参加しており、ジョンとの和解は比較的早かったようだ。

一方、ポールとの関係はその後もなかなか修復されることはなかった。ビートルズにおいて最も有名な敵対関係はジョンとポールの構図であるが、一番深刻で泥沼な関係にあったのはポールとジョージの関係であったと言えるかもしれない(ジョンとポールは一時的に確執状態があったが、それは実質1970年代初頭の3〜4年間だけで、「失われた週末」からジョンを脱出させたのはポールであり[31]、ポールがジョンの住むダコタ・ハウスを訪れた記録がある)[32]。ジョージは、後年のインタビューにおいて「ポールとは友人としては問題ないが、音楽上の共演は難しい」と述べている。

ビートルズ解散直後でも、メンバー同士がセッションやプライベートで会った記録は数多くあるが、ポールとジョージが会った記録はあまり残っていない(『想いは果てなく〜母なるイングランド』『ディス・ワン』も参照)。

オノ・ヨーコ[編集]

ジョン・レノンとオノ・ヨーコの出会いは、1966年の「インディカ・ギャラリー」における彼女の個展でのことであった[33]。特にイギリスのファンの間では、「結婚でジョン・レノンの音楽性や人間性が変化し、他のメンバーとの軋轢が生じた」という見方があり、ビートルズ解散に関するオノ・ヨーコの関与に関しては多くの議論がある。

オノ・ヨーコとバンドの唯一の接点は、ジョンが彼女をバンドのセッションに連れて行ったときのことのみであったが、そこでは彼女は曲について提案したり批判したりした[34]。さらに彼女はジョンに対して彼とグループの関係に対する批判をささやき、ソロとしての活動を促した[14]。ジョン・レノンの友人であるピート・ショットンは、「『ザ・ビートルズ』のレコーディング時にジョンがヨーコを連れてきたことによって(「グループの仕事場にパートナーを連れてこない」という不文律をジョンが破った)ジョンと他のメンバーの間に緊張感が高まってしまった」と回想する[35](ポールは「ゲット・バック」録音時に彼女を睨みつけたと伝えられる[36]。ただし、結局はポールも後に結婚するリンダ・マッカートニーを同伴するようになったことが映像でも確認出来る。映画「レット・イット・ビー」では、リンダの連れ子であるヘザーもスタジオで遊んでおり、ジョンがヨーコをスタジオに連れて来たことをきっかけに「じゃあ俺も」という感覚で他のメンバーも妻や恋人を同伴させるようになった)。

2012年10月には、ポールが「ヨーコがビートルズをバラバラにしたんじゃない。ビートルズは自らバラバラになった」とオブザーヴァーに語った。2013年3月には、ポールはQ誌の取材に対し、同様の発言を繰り返している[37]。ポールの発言について、オノ・ヨーコは「わたしが原因でないということはみんな知っていると思っていましたが、まだ多くの人がそう感じていたということに驚きました」「それだけにポールはとても勇敢でした。『ありがとう、ポール。わたしはあなたのことが好きですし、みんながあなたを愛しています』と伝えたい気分です」と、オブザーヴァーに語っている[38]

2013年3月に、ポールは「ジョンがその当時ヨーコにかなり惚れ込んでたのは事実だから、今思えば、ジョンは新しく手に入れた自由をエンジョイして、ワクワク気分だったんだろうなと思うよ。でもヨーコがスタジオに現れて、何もしないでチョコンと僕らの真ん中に座られてもね、って感じだったよ。僕らはその事にウンザリしてたって認めざるを得ないよね」とQ誌に語っている。

ポールは、「ジョンがヨーコとともに過ごすようになってから、彼にもっとプライヴェートな時間を作ってあげようと思った」と後に語っている[39]

なお、ジョージが脱退宣言した後の会合の場で「ビートルズのことはメンバー4人だけで話し合って決めたい」というジョージの意向があったにもかかわらず、何も発言しないジョンに代わって、メンバーでもないオノ・ヨーコが1人で発言し続けたため、話し合いが決裂したという事実や、セッション中にも同様の行動が記録されていた。

ポール・マッカートニーの脱退[編集]

ジョンは、放置されていた「ゲット・バック・セッション」をアルバムとして形にするようフィル・スペクターに依頼する。このことはポールには知らされていなかった。スペクターは渡された素材を基に編集作業を進めたが、ポールの曲「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」に、ポールの意図に反した過剰なオーヴァー・ダビング(コーラスやオーケストラなど)を施した。

『レット・イット・ビー』発売前にこの事実を知ったポールは激怒し、何とかして発売を差し止めようとしたがそれは果たせず、自身のアルバム『マッカートニー』を先にリリースするようにした。

もともと発売日が決まっていたポールのソロ・アルバム『マッカートニー』の発売日を変更されそうになり、ソロ・アルバムでさえもクレインの管理下にある状況に激怒した。話し合うためにポールのもとにリンゴが差し向けられたが、ポールはその際、リンゴに向かって辛辣な言葉を吐き捨てた。

その後、1970年4月10日デイリー・ミラーに掲載されたインタビューで「今後ビートルズのメンバーと創作活動をすることはない」と発言し、マスコミから「脱退宣言」だと受け取られた。こうして実質的にビートルズは解散した[40][41]

ポールは1971年2月18日、ロンドン高等裁判所にビートルズのパートナーシップ解消を求める訴えを起こす。この訴えはクレインの活動を封じることが目的であった。上記のように既にジョンはビートルズを辞めてしまい、すでに解散状態のバンドのメンバーの収入も、アップル設立時の「4人の収入は全てアップルに管理され、平等に分配される」という契約に縛られていた。4人がビートルズとしての活動以外で得た収入もクレイン(アブコ)が管理するアップルに支払われていた。クレインは用途不明の手数料をアップルに要求し続け、メンバーが稼いだ収益を吸い取っていた。この状況ではビートルズの財産が全てクレインに握られてしまうため、契約を法的に無効にするため、ポールは裁判に持ち込んだ。

裁判ではクレインを信用することは出来ないという訴えの根拠に「アルバム『マッカートニー』の発売を遅らせようとしたこと、「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」を許可なしに改変したこと、アップルが製作した映画『レット・イット・ビー』を無断でユナイテッド・アーティスツに譲渡したこと」を挙げた。

クレインはアメリカの印税契約を引き上げ、その増加分の収益から20パーセントを手数料として受け取るはずであった。しかし、クレインは印税全体の収益の20パーセントを不正に請求しており、すでに支払い済みであった。これらの不正が法廷で明らかにされ、判事は「クレイン氏は口が達者な2流のセールスマンである」とし、「ビートルズの財政を管理出来る人物ではない」との判決を下し、パートナーシップ解消を認めた。こうしてビートルズは正式に解散した。

1977年、アップルがクレインに420万ドルを支払い、クレインとの関係を完全に清算した。

脚注[編集]

  1. ^ 『アンソロジー』p.310
  2. ^ 日本公演において、観客は着席を義務付けられ、非常に厳重な警備態勢が敷かれていた
  3. ^ 『ビートルズと60年代』pp.247-248
  4. ^ また、皮肉にも1965年及び66年のツアーで、叫び声を上げ音楽を聴くことの出来ないファンの前で、より洗練された新しい曲を演奏するのはフラストレーションが溜まるものであったと語っている
  5. ^ 『朝日新聞』1966年3月16日付朝刊、第12版、14面
  6. ^ 『ビートルズと60年代』p.272
  7. ^ 『ビートルズ オーラル・ヒストリー』pp.239-240
  8. ^ 『ビートルズと60年代』p.307
  9. ^ 『ビートルズ帝国アップルの真実』p.21
  10. ^ 『ビートルズ オーラル・ヒストリー』p.277
  11. ^ ビデオ『コンプリート・ビートルズ』より。
  12. ^ 『ビートルズ オーラル・ヒストリー』pp.296-297
  13. ^ 『ビートルズと60年代』p.383
  14. ^ a b 『ビートルズ 増補版』p.349
  15. ^ 『ビートルズと60年代』p.397
  16. ^ a b 『ビートルズと60年代』p.380
  17. ^ 『ビートルズ世界証言集』p.399
  18. ^ 『ビートルズ レコーディング・セッション』p.209
  19. ^ ただし、20、21日の2日間は機器の不具合で録音は見合わせられ、22日からレコーディングが開始された。
  20. ^ 『ビートルズと60年代』p.384
  21. ^ ただし、1969年4月30日および1970年1月3、4、8日のセッションでビートルズ自身がオーヴァー・ダビングを行っている。
  22. ^ 『ビートルズ世界証言集』p.428
  23. ^ 『ビートルズ帝国アップルの真実』p.191
  24. ^ 『ビートルズと60年代』pp.400-402
  25. ^ 『ビートルズと60年代』p.424
  26. ^ 『Many Years From Now』
  27. ^ 『ビートルズ 増補版』p.40
  28. ^ 『ビートルズと60年代』p.382
  29. ^ 『アンソロジー』p.340
  30. ^ Musician 1982.2
  31. ^ 『ビートルズ 増補版』p.372
  32. ^ 『ビートルズ世界証言集』pp.503-504
  33. ^ 『ビートルズ オーラル・ヒストリー』pp.244-245
  34. ^ 『ジョン・レノン』
  35. ^ 『The Beatles, Lennon And Me.』
  36. ^ 『ビートルズと60年代』p.387
  37. ^ ポール・マッカートニー、当時オノ・ヨーコにうんざりしていた
  38. ^ オノ・ヨーコ、ポール・マッカートニーに感謝! 解散はヨーコのせいじゃない発言をめぐり
  39. ^ 『ビートルズ世界証言集』p.535
  40. ^ 『ビートルズと60年代』pp.394-395
  41. ^ 『アンソロジー』pp.350-352

参考文献[編集]

  • ハンター・デヴィス 『ビートルズ 増補版』小笠原豊樹・中田耕治訳、草思社、1987年。
  • マーク・ルゥイソーン 『ビートルズ レコーディング・セッション』 内田久美子訳、シンコー・ミュージック、1990年。
  • イアン・マクドナルド 『ビートルズと60年代』 奥田祐士訳、キネマ旬報社、1996年。
  • バリー・マイルズ 『ポール・マッカートニー―メニー・イヤーズ・フロム・ナウ』 竹林正子訳、ロッキングオン、1998年。
  • デヴィッド・プリチャード/アラン・ライソート 『ビートルズ オーラル・ヒストリー』 加藤律子訳、シンコー・ミュージック、1999年。
  • アラン・クレイソン 『ジョージ・ハリスン 美しき人生』 及川和恵訳、プロデュース・センター出版局、1999年。
  • ザ・ビートルズ・クラブ監修・訳 『The Beatles アンソロジー』、リットーミュージック 、2000年。
  • ステファン・グラナドス 『ビートルズ帝国アップルの真実』 中山啓子訳、河出書房新社、2004年。
  • マイク・エバンス編著、斉藤早苗監修 『ビートルズ世界証言集』 恩蔵茂・中山啓子訳、ポプラ社、2006年。
  • Shotton, Pete with Scaffner, Nicholas (1984). The Beatles, Lennon And Me.. New York: Stein & Day. ISBN 0-812-88072-2 
  • レイ・コールマン 『ジョン・レノン』 岡山徹訳、音楽之友社、1992年。

関連項目[編集]