J・K・ローリング

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J・K・ローリング
J.K.Rowling
J. K. Rowling 2010.jpg
ホワイトハウスにて(2010年)
誕生 ジョアン・ローリング
Joanne Rowling
1965年7月31日(51歳)
イングランドの旗 イングランド グロスタシャー州 イェイト英語版
職業 児童文学作家
国籍 イギリスの旗 イギリス
主題 ファンタジー
代表作 ハリー・ポッターシリーズ
主な受賞歴 ネスレ・スマーティーズ賞英語版
ブリティッシュ・ブック・アウォーズ英語版
アストゥリアス皇太子賞平和部門
アンデルセン文学賞
デビュー作 ハリー・ポッターと賢者の石
パートナー ニール・マレー
子供 3人(男の子1人、女の子2人)
サイン
公式サイト J.K.Rowling Official Site
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ジョアン・ローリング, OBE FRSL(: Joanne Rowling[ˈrlɪŋ]; 1965年7月31日 -), ペンネーム:J・K・ローリング: J.K. Rowling,)またはロバート・ガルブレイス(: Robert Galbraith)はイギリスの小説家。

ハリーポッターシリーズ』の作者であり、この本は世界中で反響を呼び幾多の賞を獲得し4億部以上出版。[1] これは史上最も売れたシリーズ作品であり[2]、また劇場版シリーズ世界歴代2位の興行収入をあげた。[3]

大英帝国勲章ローカス賞ヒューゴー賞アストゥリアス皇太子賞アンデルセン文学賞英国アカデミー賞受賞。

ペンネーム[編集]

現在のペンネーム「 J・K・ローリング」は、本のターゲットとなる男の子が女性作家の作品だと知りたくないだろうと心配した出版社が、イニシャルを用いるように求めたためにつけられたものである。ローリングはミドルネームを持っていなかったので、祖母のキャスリーン(Kathleen)にちなみ、ペンネームをJ・K・ローリングとした[4]。ハリー・ポッターシリーズが終わっても作家業を続け、作家名も変えないと発言していたが、2013年になり、ロバート・ガルブレイス: Robert Galbraith)という男性名で探偵小説を出版していたことがわかった。

なお、本人がジョアン(Joanne)でなく、その略称であるジョー(Jo)と称するのを好むのは、子供の時、ジョアンと呼ばれるのは怒られる時だけだったためで[5]、ペンネームではない。

経歴[編集]

作家になるまで[編集]

タッツヒルのチャーチ・コテージ。左に見えるのは教会で、さらに左に教会付属の墓地が広がる。

イギリス南西部ブリストルの北東約15キロ、グロスタシャー州にあるイェイト英語版に住むロールスロイスの航空機のエンジニアであるピーター・ジェームズ・ローリングとアン・ローリング夫妻の長女として生まれた[6]。生まれた病院は、隣町のチッピング・ソドベリー英語版にある。2年後に妹が生まれ、本人が4歳の時に家族はグロスタシャーのウィンターボーン英語版に移り、さらに9歳の時にタッツヒル英語版へと引っ越し、「チャーチ・コテージ」と呼ばれる19世紀半ばに建てられたゴシック風の建物で、美しい庭に囲まれて成長した[7]。近くには、自然豊かなディーンの森があった[8]。この様々な民間伝承をもつ神秘的な森は彼女の想像力を掻き立てた。[6]

子供時代から物語を書くことが好きで、初めて書いたのは『Rabbit』という名前のウサギの話で、6歳の時である[9]。ワイディーン・コンプリヘンシヴ・スクール(総合制中等学校)時代にはすでに想像力に飛んだ作品で国語の教師たちに強い印象を与えていた。サバイバルを主題にしたエッセイ『私の無人島生活(My Desert Island』はA+をとった。しかしこの頃はガリ勉といじめられたり因縁をつけられ喧嘩をふっかけられたりと不愉快な思いも経験していた。また15歳のころ母アンが多発性硬化症と診断が下される。陽気で活力にあふれた母が徐々に病魔に侵されていくのを見ているのは胸が引き裂かれるほど辛いことだったとローリングは語っている。ローリングは最終学年でヘッドガールに選ばれなど明るく社交的な人気者になっていた。[6]

本人は文学方面に進みたかったが、両親の希望でエクセター大学フランス語と古典を学んだ。1年間の留学期間が必須科目だったのでパリに留学しパートタイムで英語を教えた。在学中も多くの小説を書いたが完成までは進まず、むしろ読む方に時間を費やし、ジェーン・オースティンなどの作品を読んだ。最終学年を迎えた1987年、自ら志願して年に1回マーティン・ソレルの指導で上演されるフランス語の劇に協力した。フランスの劇作家オバルディアの『農場の宇宙飛行士』という哲学的なファンタジー喜劇で衣装係に任命された。 

1987年夏卒業。この頃母アンの病状はかなり悪化しており車いすや歩行器が必要となっていた。卒業後はロンドン南西部のクラパムにあるフラットに引っ越した。ロンドンアムネスティ・インターナショナル秘書として働いたが、仕事にはあまり興味を見出せなかった[10]。一度だけ出版社で働いたこともあり、原稿の断り状を送る作業をしていた。この頃、タイプをかなりのスピードで打つことが出来るようになっていた。国際アムスティでも働いたこともあった。この時は大人向けの小説を書き始めていた。ローリングは25歳を迎えるまでに2つの小説を書いたが日の目を見なかった。その頃からカフェやバーでメモや短い文書を書きなぐる習慣ができた。[6]

ハリー・ポッター着想と困窮[編集]

ハリー・ポッター第1巻を執筆した、エディンバラのカフェ「エレファントハウス」

1990年6月、エクセター大学時代の恋人がマンチェスターに移り住んでいたのでそこに一緒に暮らそう考えていた。週末を使ってマンチェスターでフラット探しをしたが見つからず、延々と続く英国の田園風景を眺めながら4時間かけてロンドンへ戻る列車に座っていた。自分と同じように寂しげな黒と白のフリージャン種の牛たちをじっと見つめているうちに、突然アイディアが浮かんできた。何がきっかけだったのかはわからないが目の前に、ハリーや魔法学校のイメージがはっきり浮かんできた。そうよ、この男の子は自分が何者なのか知らず、魔法学校への入学許可証をもらうまで自分が魔法使いだと知らないという設定をパッとひらめいた。一つのアイディアに夢中になったの初めてだった[11]。 ペンも紙もなかったため、これらを頭の中ですべて思い浮かべていった。主人公のこと、通う学校、そこで出会う人々――。ロンドンに着く頃にはロン・ウィーズリーハグリットを思いついていた。この段階では名前はついておらず、後から情報を集めて思いついて行った。もっとも時間をかけて考えたのが学校そのものと、その雰囲気だ。場所はスコットランドを舞台に選んだ。ローリングは自分の部屋へ戻ってから、列車で考えていたことを思い出しては、安物の薄っぺらいノートに一心不乱に書き留めていった。これがハリー・ポッターの最初の草案となった。[6]

仕事はマンチェスター商工会議所で派遣秘書の職が見つかり、その年が終わる頃にはロンドンから引っ越してくることができた。ハリーとの出会いは退屈な暮らしに喜ばしい変化が訪れ、ローリングが彼の冒険物語について書いたメモはすぐに靴箱いっぱいになった。この頃から7巻のシリーズにすることを決めていた。

1990年12月30日に母アンが45歳で亡くなる。十年に及ぶ闘病生活だった。その死はローリングの心に深刻な影響をもたらし、執筆中だった本の方向性にも及んだ。打ちひしがれてマンチェスターに戻ってもそこには行き場のない人生が待っているだけであった。しかも恋人との間にも険悪な空気が漂い始め、派手な喧嘩をしたあと、部屋を飛び出して郊外のディズバリーの小さなホテルに1人で泊まった。そこで思いついたのがクィディッチだった。[6]

1991年に、ポルトガル英語教師としての職を得た。日中はコーヒーバーに居座って原稿を書いていた。ポルト在住中5ヶ月目バーで出会った男性と同棲する。その後すぐに妊娠するが流産となる。1992年に27歳で結婚。しかしその前にはすでに二人の関係は亀裂が入っていた。それから数週間後再び妊娠する。妊娠期間中はそれまでになくハリー・ポッター執筆に時間を費やすようになった。

1993年7月一女ジェシカを出産。しかし4ヶ月後ローリングは家から追い出される事件が起こる。翌日、赤ん坊を取り返し友人のもとへ身を寄せ2週間後にポルトに別れを告げた。父ピーターは再婚していたため、妹ダイが住むエディンバラに向かった。ダイはこの時第3章までの原稿を読み夢中になった。

1993年12月社会保障局で生活保護と住宅手当を申請し、69ポンドの手当を得た。友人に600ポンドの借金もした。幅木のネズミの音に耐えられず新しいアパートを見つけようとしたが住宅手当を理由に次々と断られた。最終的にサウス・ローン・プレイス七番地に引っ越した。この家のキッチンテーブルで『賢者の石』を書き上げることになる。[6]

1994年頃から貧困と心労のため深いうつ病になり、「自殺も考えた」ことがあると英北部エディンバラ大学の学生誌に明かした。この時の経験が、ハリー・ポッターシリーズに登場するディメンターのもととなった。8月に離婚を申請。ローリングは義理の弟が買い取ったサウス・ブリッジとロイヤル・マイルの交差点にあるカフェ、ニコルソンズでコーヒーをすすりながら原稿を書き進めていった。

1994年の暮れには秘書の仕事を見つけたが、15ポンド以上収入があると手当から控除されてしまうためそれ以上稼げなかった。この頃スコットランドで教職を得るため、現代語の公立学校教員免許状(PGCE)取得のためのコースを受けた。1995年の夏にはスコットランド教育産業局から補助金を受け取ることができた。[9]

ハリー・ポッターの大ヒット[編集]

1995年、完成した原稿を代理事務所に送った。1件目はそっけない断りの手紙とともに送り返されてきた。2軒目のクリストファー・リトル著作権代理事務所で契約を結んだ。原稿は12の出版社に提出されたが、あまりに長編で、出版する会社は現れなかった。新人による子供向け書籍の出版に取り組んでいたブルームズベリー出版社英語版が出版することとなったのは、受け取った原稿を、編集者が自分で読む前に8歳の子供アリス・ニュートンに手渡して反応を見たからである。1時間後に部屋から出てきたアリスは、「パパ、これは他のどんなものよりもずっと素敵だ」と話した[12]。契約金は1500ポンドだった。

契約後もマリー・ハウスでの厳しい教育実習を続け1996年7月に教職課程を終了した。ローリングはスコットランドのゼネラル・ティーチング・カウンシルに登録した。またハリー・ポッターシリーズ2巻の執筆にも取り掛かっていた。カウンシルの作家のための奨励金制度で8000ポンドを得ることができた。

1997年7月26日、『ハリー・ポッターと賢者の石」がハードカバーとペーパーバックの両方で出版された。ハードカバー版の刷り数は500部だった。一巻が発売されても派手な宣伝を行う予算はなく、米国の出版権に入札できないほどだった。[6]

発売されてから3日後、米国の出版権をめぐるオークションではどんどん値がつり上がっていき10万ドルで落札された。米国版の初刷は5万部だった。『賢者の石』出版から2週間後、2作目の原稿を出版社に送った。『ハリー・ポッターと秘密の部屋』の出版から6日後、児童書として初となる英国のベストセラーリストの1位を飾った。「ネスレ・スマーティーズ賞英語版」を受賞。「ブリティッシュ・ブック・アウォーズ英語版」など多くの文学賞を受賞するなど、新人作家としては異例の扱いを受け児童文学として高く評価されるとともに、多数の外国語に訳される世界的ベストセラーとなり、子供のみならず広範な大人の読者をも獲得した。

1999年6月末、ローリングが4度目に受け取った印税は7桁の金額になっていて、ローリングは正真正銘の億万長者になった。プラチナカード会員のクレジットカードを持ち、15%~20%の印税を受け取るようになっていた。

1999年が終わりを迎える頃、デヴィッド・ハイマンワーナー・ブラザースとの映画化権の契約が完了した。契約金は100万ドルで、ローリングは起こったことに対する発言権を維持し、脚本に意見をいう権利を持ち、特に英国における特定の種類の商品化に対して拒否権を行使できるようにした。代わりにワーナーは世界中で商標としての「ハリー・ポッター」を管理する権利を得た。

第4巻の発売が決まった頃には、既刊の3巻の売上は英国で800万部、米国で2400万部に達した。4巻の英国での初版部数は100万部を越え、英国・カナダ・オーストラリア・米国の4カ国の総初版部数は530万部にのぼった。この時点でローリングの収入は700万ポンドに登ると見込まれた。

35歳になる2週間前、母校のエクセター大学から名誉博士号を授与した。卒業式ではスピーチを披露した。

2001年、オーサー・オブ・ザ・イヤーに加えて、児童文学への貢献を評価され女王の公式誕生日の叙勲で英国勲功章(OBE)を受章した。「サンデー・タイムズ」の長者番付では所得額は6500万ポンドだった。[6]

2001年には医師のニール・マレーと再婚し、2003年に男の子、2005年には女の子を出産している。

2007年7月21日、シリーズ最終巻となる『ハリー・ポッターと死の秘宝』が発売された。以後も公式サイトや、映画シリーズの製作等で、同シリーズに関わる。

政府の生活保護により離婚後の生活苦を凌いだ経緯から、労働党を支持している。

また紙媒体での本の重要性を説いており、電子書籍による自著の販売に反対していたが、オフィシャルストア「ポッターモア」でのアンケートなどを経て、2012年からハリー・ポッターシリーズ の電子書籍版を販売している。

2012年には、初の大人向け長編小説 『カジュアル・ベイカンシー 突然の空席』 (The Casual Vacancy) を発表した。

2016年公開予定のハリー・ポッターシリーズのスピンオフとなる映画『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』(Fantastic Beasts and Where to Find Them)では、脚本を担当する。

ロバート・ガルブレイス名義[編集]

2013年、ロバート・ガルブレイス(: Robert Galbraith)という男性のペンネームで『カッコウの呼び声 私立探偵コーモラン・ストライク英語版』(邦題)という探偵小説を出版していたことが、サンデー・タイムズの調査により発覚した[13]。本人は「もう少し長く秘密にしておきたかった」と語った[13]

ロバート・ガルブレイスは2003年から民間の警備保障会社に勤務している英軍警察の元隊員だと説明していたが、初めて書いたにしては出来が良すぎるのではないかと疑問を抱いたサンデー・タイムズ紙が、正体について調査した[14]

資産・金銭[編集]

年収約1億2500万ポンド(日本円で約182億円)は、「歴史上最も多くの報酬を得た作家」とされている。(Rags to riches

2003年5月、イギリスのお金持ちリストが発表され、ローリングがハリー・ポッターの本、映画、その他関連商品から手にした金額が560億円だったことがわかった。この金額はエリザベス女王よりも多く、イギリス国内では上から122番目の富豪になるという[15]

2007年1月、経済誌フォーブス誌がエンターテイメント界で活躍する女性で資産の多い女性トップ20を発表し、総資産1210億円で2位にランクインした。

2008年The Sunday Times ich Listでは資産は5億6000万ポンドでイギリス人女性の12位にランクインした。[16]

2010年1月、英大衆紙The Sunによると、スコットランドに260万ポンド(日本円で約3億7500万円)で5軒目となる新たな豪邸を購入したという。この豪邸は31部屋もある大邸宅であるが、J・K・ローリングは2、3部屋を見ただけで購入を即決したという。担当をした不動産屋は「彼女は2、3部屋を見ただけで即決しました。所有者が『2階は見なくてもいいですか?』と聞くまでは2階も特に見ようとはしていなかったです」と明かしている。さらにJ・K・ローリングは2010年のクリスマスは家族とこの家で過ごしたいと熱望し、現在の所有者がクリスマスまでに出ていくのであれば30万ポンド(日本円で約4500万円)を購入金額に上乗せして支払ってもいいと言っているという。総資産が5億6000万ポンド(日本円で約840億円)もあるJ・K・ローリングは今回の豪邸以外にもスコットランドに3軒、ロンドンに1軒の豪邸を所有しているという[17]

影響を受けた作品[編集]

  • 本にまつわる一番古い記憶は『たのしい川べ』を父親に読んでもらったことである。
  • 幼いころはリチャード・スカーリーの作品に夢中になった。
  • 『宝さがしの子供たち」などを書いたイーディス・ネズビットに大きな影響を受けた。
  • 『すてきなケイティ』、エニッド・ブライトンの作品、C・S・ルイスの『ナルニア国物語』シリーズをよく読んでいた。ジェームズ・ボンドも好きになった。[6]
  • ジェーン・オースティンの『エマ』は20回以上読んだ。
  • ジェシカ・ミッドヴォード(ミットフォード姉妹の五女)の自伝『令嬢ジェシカの反逆」を読んで、ジェシカの勇敢で理想に燃える人物像に憧れを抱いた。[6]
  • 中学時代にはウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』、J・V・マーシャルの『美しき冒険旅行』を読んでいた。
  • 学校の行事で『リア王』を観に行ったことで演劇にも興味をもつようになる。シェークスピアを好きになり『冬物語』に出てくるハーマイオニーという名前を自分の作品の登場人物の名前につけた。[6]
  • パリの留学中は日曜日は一日中部屋にこもってチャールズ・ディケンズの『二都物語』を読んでいた。
  • 大学在学中に『指輪物語』を読みこの壮大な物語の熱烈なファンとなった。全巻で1000頁に及ぶこの本は長年の間繰り返し読まれたせいですっかりくたびれてしまった。
  • ローリングはエリザベス・グージの『まぼろしの白馬』こそ「ハリー・ポッター」に一番の影響を与えた本だと語っている。
  • クラシックもかなり好きでベートヴェンのピアノ・ソナタ『熱情』を好んだ。
  • キャラクターの名前は地名辞典や『ブルーワー英語故事成語大辞典』を利用して考えた。[6]

慈善活動[編集]

ロンドンに本部を置くシングルペアレント・ファミリーのための全国協会への50万ポンドの寄付をした。2000年9月には同協会の慈善大使を務めることになった。「ザ・サン」へのイギリスの官僚主義的な福祉についての寄稿も行った。[6]

エディンバラの地元ではガン患者とその家族に対してするカウンセリングや支援を行っているマギーズ・センターズに援助した。スコットランド各地で朗読会を開催してグラスゴーダンディーに新しい支援センターを開設するための資金集めを行った。[6]

母の闘病生活を通じて関わりを持つようになったスコットランド多発性硬化症協会の後援者になった。「スコットランド・オン・サンデー」に特別寄稿をした。これは後に「オブザーバー」でも取り上げられた。[6]

堅いイメージの慈善事業をお祭り感覚で演出しているコミック・リリーフ(Comic Relief)に2冊の本を書き下ろした。いずれも〈ホグワーツ校指定教科書〉でタイトルは『幻の動物とその生息地』と『クィディッチ今昔』。少なくとも一冊に付き2ポンドの印税がコミック・リリーフに寄付された。[18]

略歴[編集]

作品リスト[編集]

ハリー・ポッターシリーズ
タイトル 原題 発売日 日本発売日
1 ハリー・ポッターと賢者の石 Harry Potter and the Philosopher's Stone 1997.6.26 1999.12.1
2 ハリー・ポッターと秘密の部屋 Harry Potter and the Chamber of Secrets 1998.7.2 2000.9.1
3 ハリー・ポッターとアズカバンの囚人 Harry Potter and the Prisoner of Azkaban 1999.7.8 2001.7.18
4 ハリー・ポッターと炎のゴブレット Harry Potter and the Goblet of Fire 2000.7.8 2002.10.23
5 ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団 Harry Potter and the Order of the Phoenix 2003.6.21 2004.9.1
6 ハリー・ポッターと謎のプリンス Harry Potter and the Half-Blood Prince 2005.7.16 2006.5.17
7 ハリー・ポッターと死の秘宝 Harry Potter and the Deathly Hallows 2007.7.21 2008.7.23 [19]

関連[編集]

短編[編集]

  • ハリー・ポッター前日談Harry Potter prequel (2008.7)

大人向け[編集]

『私立探偵コーモラン・ストライク』シリーズ[編集]

  • 『カッコウの呼び声 私立探偵コーモラン・ストライク』(The Cuckoo's Calling)2013.4.18
  • 『カイコの紡ぐ夢 私立探偵コーモラン・ストライク(仮)』(The Silkworm)2014.6.19
  • 『(邦題未定)』(Career of Evil)2015.10.20(未出版)

※ロバート・ガルブレイス名義での出版。日本では講談社が出版。

その他[編集]

ノンフィクション[編集]

賞・学位[編集]

ローリングはセント・アンドルーズ大学エディンバラ大学エディンバラネーピア大学エクセター大学アバディーン大学ハーバード大学から名誉学位を受けている。ハーバード大では2008年卒業式でスピーチを行った。2009年フランス大統領ニコラ・サルコジからレジオンドヌール勲章を授与した。

その他賞:

脚注[編集]

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  1. ^ Flood, Alison (2008年6月17日). “Potter tops 400 million sales”. The Bookseller. 2008年9月12日閲覧。
  2. ^ Record for best-selling book series”. Guinness World Records. 2012年10月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月18日閲覧。
  3. ^ Movie Franchises and Brands Index”. Box Office Mojo. 2012年12月19日閲覧。
  4. ^ Transcript of Oprah Interview". hpthedailyprophet.com. 2010. Retrieved 18 November 2010.
  5. ^ CBC Interview #1, 26 October 2000
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『J.K.ローリング その魔法と真実』ショーン・スミス著 鈴木彩織訳 2001年
  7. ^ 竹内エミコ (2011年7月17日). “ハリポタ構想の原点はここに?原作者J・K・ローリングが子供時代を過ごした家が売りに出される”. シネマトゥデイ. http://www.cinematoday.jp/page/N0033789 2013年7月15日閲覧。 
  8. ^ ディーンの森は、ハリー・ポッターシリーズ7巻前半で、スネイプの守護霊によってハリーがグリフィンドールの剣を見つけ、ロンと再会する場所である。
  9. ^ a b BBC放送インタビュー、2001年12月28日
  10. ^ ワシントンポスト紙、1999年10月20日
  11. ^ All about Harry Potterボストン・グローブ紙、1999年10月18日
  12. ^ The eight-year-old girl who saved Harry Potter” (英語). The New Zealand Herald紙(2005年7月3日). 2012年5月19日閲覧。
  13. ^ a b 共同「チャイム」『産経新聞』2013年7月15日付け、東京本社発行15版、23面。
  14. ^ “「ハリポタ」のローリング氏、新人名義で探偵小説を出していた”. (2013年7月15日). http://www.afpbb.com/article/entertainment/entertainment-others/2955911/11038540 2013年7月17日閲覧。 
  15. ^ “J・K・ローリング、女王陛下よりお金持ち?”. シネマトゥデイ. (2003年5月1日). http://www.cinematoday.jp/page/N0003280 2013年7月15日閲覧。 
  16. ^ “Joanne Rowling”. The Sunday Times. (2008年4月27日). オリジナル2011年6月12日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110612080035/http://business.timesonline.co.uk/tol/business/specials/rich_list/article3761853.ece 2015年1月6日閲覧。 
  17. ^ “4億円近い家をチラ見でお買い上げ!「ハリポタ」J・K・ローリング5軒目の家”. シネマトゥデイ. (2010年1月18日). http://www.cinematoday.jp/page/N0021887 2013年7月15日閲覧。 
  18. ^ 『J.K.ローリング その魔法と真実』ショーン・スミス著 鈴木彩織訳 2001年
  19. ^ 映画版part2では製作にも携わる
  20. ^ 講談社はJ.K.ローリング氏(『ハリー・ポッター』シリーズ著者)の最新作の独占翻訳権を取得しましたのでお知らせいたします。
  21. ^ Alison Flood (2014年4月10日). “JK Rowling to become Woman's Hour first guest editor for 60 years”. The Guardian. http://www.theguardian.com/books/2014/apr/10/jk-rowling-guest-editor-womans-hour 2014年5月7日閲覧。 

外部リンク[編集]