ボブ・マーリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
ボブ・マーリー
Bob-Marley.jpg
ボブ・マーリー(1980年
基本情報
出生名 Robert Nesta Marley
別名 タフ・ゴング
生誕 1945年2月6日
ジャマイカの旗 ジャマイカ セント・アン教区ナイン・マイルズ
死没 (1981-05-11) 1981年5月11日(36歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国フロリダ州
ジャンル レゲエロック (音楽)
職業 歌手、ソングライター、ギタリスト
担当楽器 ギターボーカルパーカッション
活動期間 1962年 - 1981年
レーベル ビヴァリーズ、スタジオ・ワンアップセッター、トロージャン、タフ・ゴングアイランド
共同作業者 ウェイラーズボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズリー・ペリー
公式サイト Bob Marley: The Official Site
著名使用楽器
ギブソンLes Paul Special
ヤマハ・SG-1000

ボブ・マーリー(Bob Marley OM1945年2月6日 - 1981年5月11日、出生名ロバート・ネスタ・マーリー Robert Nesta Marley)は、ジャマイカ出身のレゲエミュージシャンレゲエの先駆者の一人とみなされており、レゲエスカロックステディの要素を融合した曲作り、滑らかで独特な歌声と宗教的・社会的な作詞スタイルで知られる。10年以上にわたるポピュラーカルチャーの世界的な人物としての活躍により、ジャマイカ音楽の世界的な認知度を高めることに貢献した。また、彼はラスタファリの象徴、ジャマイカの文化とアイデンティティの世界的なシンボルとみなされている。マリファナ合法化支持者であり、汎アフリカ主義。史上最も売れている音楽アーティストの一人としてランク付けされ、推定売上高は世界中で7,500万枚を超え、彼の音楽と思想は数多くの人々に多大な影響を与えた。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

幼年期[編集]

1945年2月6日ジャマイカセント・アン教区のナイン・マイルズで、イギリス海軍大尉であり、ジャマイカ最大の建設会社「マーリー・アンド・カンパニー」を経営していた白人のノーヴァル・マーリー (英語) と、アフリカ系ジャマイカ人の セデラ・ブッカー (英語)との間に生まれる[1]。出生名はロバート・ネスタ・マーリー(出生名はネスタ・ロバート・マーリーで、1962年にパスポートを取得した際に改名したという説がある)。父親は61歳、母親は16歳だった。両親はボブの誕生後すぐに別れた。ノーヴァルは首都キングストンに住み、ボブはセデラとその家族と共にナイン・マイルズで幼少期を過ごした[1]

出生地ナインマイルズ(2007年撮影)

1951年、キングストンの学校に通わせるという名目でノーヴァルにより引き取られ、キングストンに住むマーリー家の友人である老婆のもとに預けられる。ノーヴァルはボブを預けると、二度と姿を現さなかった。

1952年、行方知れずになっていたが、心配したセデラによって探し出され、ナイン・マイルズへ戻る。ナイン・マイルズ近郊のステプニーでステプニー・オール・エイジ・スクールに通い、そこで後に共にザ・ウェイラーズを結成することとなるネヴィル・リヴィングストン(バニー・ウェイラー)と出会う[1]。キングストンへ連れ去られる前は手相を見るのが得意で、よく村の人を驚かせていた。しかしこの頃には手相を見るのをやめ、歌を歌うようになったという。

少年時代[編集]

1955年、父ノーヴァルが70歳で亡くなる。これによりセデラとボブは、マーリー家と完全に縁を絶った。ボブは「父は自分と母を捨てた憎むべき男だ」「自分に父親はいない」という思いを胸に成長していった。この思いは彼が後にラスタファリ思想に傾倒していく一因にもなる。この年、セデラはボブを祖父オメリア・マルコムに預け、職を求めキングストンへ向かう。

1957年、セデラと共にキングストン郊外のスラム、トレンチタウンの官営地に引っ越す。ボブたちが住む借地には、同じく引っ越してきていたバニー一家も住んでいた。二人は米国のラジオ局から放送される最新のR&Bや新しいスカ音楽などを聴き、音楽への探求を深めていった。新しい学校にも通うようになり、ボブはこの頃から読書、特に聖書に親しんでいた。そして休み時間には友達とサッカーをしていたという。

1959年、クイーンズ・シアターのタレント・ショーで初めて正式に大衆の前に立ち、歌を一曲披露、賞金1ポンド獲得。「歌では食べていけない」と心配したセデラの勧めで溶接工の仕事に就く。しかし仕事中に金属片が目に入り込むケガを負ったことをきっかけに、夢であったミュージシャンを目指す決意を固める。ボブとバニーは、サード・ストリートに住んでいたシンガーのジョー・ヒッグスが開く無料の音楽教室に参加し、音楽的指導とラスタファリ運動の教えを受けた(ボブたちはセカンド・ストリートに住んでいた)。その際にウィンストン・マッキントッシュ(ピーター・トッシュ)と出会う。1961年、ボブは既に作曲を始めており、レスリー・コングのビヴァリーズ・レコードの店へ売り込みに行くも門前払いを食らう。

1962–72:初期[編集]

ビヴァリーズ・レコード時代[編集]

1962年のはじめ、再び店を訪ねオーディションを受け、自身の作曲した「Judge Not」を披露。その後ビヴァリーズ・レコードから「Judge Not」「Do You Still Love Me?」「Terror」の3曲を発表、ボビー・マーテル(Bobby Martell)名義では「One Cup Of Coffee」の1曲を発表した。

1963年、セデラがセカンド・ストリートの家を離れアメリカへ行くと、ボブはトレンチタウンで路上生活をするようになった。この時の体験が1974年発表のアルバム『Natty Dread』収録の名曲「No Woman No Cry』を生んだ。同年、ボブはバニー・ウェイラーピーター・トッシュ、ジュニア・ブレイスウェイト、ビバリー・ケルソ、チェリー・スミスらと共にザ・ティーンエイジャーズを結成。後に彼らは名前をザ・ウェイリング・ルードボーイズ、ザ・ウェイリング・ウェイラーズと変更していくが、スタジオ・ワンのレコードプロデューサーであるコクソン・ドッドと契約する頃、最終的にザ・ウェイラーズになった。

スタジオ・ワン時代[編集]

1963年の暮れにスタジオ・ワンから発表したシングル「Simmer Down」が、1964年2月にはJBC(ジャマイカ放送)などで1位を獲得、約80,000部を売り上げる大ヒットとなった。のちにレゲエの象徴ともなる名曲「One Love」も、この時期にボブによってスカ・バージョンで作られている。1966年までに、ブレイスウェイト、ケルソ、スミスがザ・ウェイラーズを去り、ボブ・マーリー、バニー・ウェイラーピーター・トッシュの3人が残された。ちなみに、「タフ・ゴング」というニックネームがついたのはこの頃である。

1964年、祖父オメリア・マルコムが他界。農地の一部を相続する。

1965年、同じくスタジオ・ワンで活動していたグループ、ザ・ソウルレッツ(リタ・アンダーソンが在籍)の指導を任される。

1966年2月10日、リタ・アンダーソン(19)と結婚。そして翌朝には、職を求め(スタジオ・ワンでは曲がヒットしてもメンバーに金が入ってくることはほとんどなかった)デラウェア州ウィルミントンに住む母セデラの下へ飛び発つ。ドナルド・マーリーという名前でクライスラー社の自動車工場のライン工員、デュポン社の実験研究室の助手として働いた。また、駐車場の係員やレストランの皿洗いなどのパートも経験したといわれている。カトリック教徒として育ったボブだったが、セデラの影響から離れている間にラスタファリ運動への関心をさらに高めており、この頃からドレッドヘアにするため髪を伸ばし始めた。ボブのいない約8ヶ月間、ザ・ウェイラーズは彼抜きで活動を続けた。同年10月にキングストンへ戻った後、正式にラスタファリに改宗。

低迷期[編集]

1966年、デラウェア州での仕事で得た資金をもとに、バニー、ピーターと共に自らのレーベル「ウェイリン・ソウルム」(Wail 'n' Soul'm)を発足。しかし短期間で経営難になり、ウェイリン・ソウルムは業界から姿を消した。1968年までに「Bend Down Low」「Mellow Mood」「Nice Time」「Hypocrites」「Stir It Up」「Selassie Is the Chapel」などが発表されている。このころボブは、髪形をドレッドからアフロに変えている。

1967年、ボブとバニーが大麻不法所持で逮捕、投獄される。ボブは1ヶ月間、バニーは約12ヶ月間。1967年8月23日、リタがセデラ・マーリーを出産。ボブとリタは娘と共に1970年までセント・アンで暮らす。

1968年、ジョニー・ナッシュ、ダニー・シムズと契約する。ピーターが反ローデシア白人政権デモに参加し逮捕される。1968年10月17日、リタがデヴィッド・マーリー(ジギー・マーリー)を出産。

1969年、レスリー・コングの下で10曲レコーディング。これは翌年にアルバム『The Best of The Wailers』として発表される。「Stop That Train」「Soul Captives」「Cheer Up」などが収録されている。なお、メンバーは「そのアルバムタイトルは偽りだ」「もしリリースされるようなことがあれば、おまえは死ぬことになるだろう」などと言いアルバムの発表に反対していた(実際、彼は1970年に心臓発作で亡くなっている)。同年春、家族と共にアメリカへ向かい秋まで再びデラウェア州で働く。この経験から「It's Alright」を作曲。1976年にはこの曲をアルバム用に作り直し「Night Shift」と改題している。

リー・ペリー、そしてバレット兄弟との出会い[編集]

リー・ペリーとそのスタジオ・バンドのザ・アップセッターズに出会い、1969年の後半から1970年にかけて数々のセッションを行い、レコーディングした(「Duppy Conqueror」「Small Axe」「Corner Stone」「Soul Rebels」「Lively Up Yourself」「Kaya」「400Years」「Stand Alone」「Sun is Shining」など)。やがてザ・アップセッターズのメンバー、ベースのアストン・バレット(ファミリーマン)とドラマーのカールトン・バレット(カーリー・バレット)はザ・ウェイラーズのメンバーに加わり、バンドのサウンドに大きな変化をもたらした。

タフ・ゴング・レーベル設立[編集]

1970年の7月頃、アップセッター・レコードからボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ名義でアルバム『Soul Rebels』を発表。デラウェア州で稼いだ僅かな資金をもとに、キングストン市ホープロード56番地に自身のスタジオ、レーベルであるタフ・ゴングを設立。同年暮れにビヴァリーズ・レコードからアルバム『The Best of The Wailers』発表。

1971年の始め(もしくは1970年の終わり)、アップセッター・レコードからボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ名義でアルバム『Soul Revolution』を発表。同じ頃、ジョニー・ナッシュとダニー・シムズに映画のサウンド・トラック制作に誘われスウェーデンへ。

1971年春、ロンドンにてCBSで「Reggae On Broadway」などをレコーディング。夏にタフ・ゴング・レーベルから発表した「Trenchtown Rock」が大ヒット。暮れにはジョニー・ナッシュの英国ツアーに参加。CBSから「Reggae On Broadway」を発表、しかし不発に終わる。

タフ・ゴング・スタジオ外観(2009年撮影)

1972–81:アイランド・レコード時代[編集]

1972年、クリス・ブラックウェルのアイランド・レコードと契約、アルバムのレコーディングを開始。ブラックウェルは「レゲエのリズムよりもゆったりと漂う催眠的な雰囲気」を望み、ボブのミックスとアレンジを再構築。ボブはロンドンへ出向き、ジャマイカ音楽の低音が効いた重たいサウンドのミックスを調整し、2トラックを省略するなど、アルバムのオーバーダビングを監督した。

1973年春、メジャーデビューアルバム『Catch a Fire』を発表(「Concrete Jungle」「Slave Driver」「Stir It Up」「Kinky Reggae」「No More Trouble」)。この頃、トロージャン・レーベルからアルバム『African Herbsman』が発表された。5月、イギリスのラジオ番組「トップ・ギア」にて演奏。6月、厳格なラスタであるバニーは、適切な自然食をとることができないなどの理由からツアーへの不参加を表明。7月、バニーの代わりにジョー・ヒッグスを加え初のアメリカツアー。ニューヨークではブルース・スプリングスティーンの前座を務める。デビューアルバム発表から約半年後の10月19日、アルバム『Burnin'』を発表(「Get Up, Stand Up」「I Shot The Sheriff」「Burnin' And Lootin'」「Small Axe」「Rastaman Chant」など)。

1974年1月、新メンバーを迎えアルバム『Natty Dread』のレコーディングを開始。5月、マーヴィン・ゲイのジャマイカ公演でオリジナルウェイラーズが復活、最後の演奏。その直後タフ・ゴング・レーベルから発表した「Rebel Music (3 O'Clock Roadblock)」がヒット。7月、エリック・クラプトンが「I Shot The Sheriff」をカバーし、全米ビルボードチャート1位を獲得。10月25日、アルバム『Natty Dread』を発表(「Lively Up Yourself」「No Woman No Cry」「Them Belly Full (But We Hungry)」「Natty Dread」「Talkin' Blues」など)。

ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ[編集]

1975年、バニー・ウェイラーピーター・トッシュが正式に脱退、メンバーを再編成してボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズとして再出発。3月、ジャクソン5のキングストン公演で前座を務める。8月27日、前年9月12日にクーデターにより軟禁されていたハイレ・セラシエ一世皇帝が他界。これを受けて9月に「Jah Live」をレコーディングしリリース。「Jahは生きている」というメッセージを送る。10月11日、スティービー・ワンダーのジャマイカ盲人協会のための慈善コンサートに出演、アンコールでオリジナルウェイラーズが「Rude Boy」を演奏。12月5日、7月19日のロンドン・ライシアム公演を録音したバンド初のライブアルバム『Live!』を発表。

1976年4月30日、アルバム『Rastaman Vibration』を発表(「Positive Vibration」「Root, Rock, Reggae」「Crazy Baldhead」「Who The Cap Fit」「War」など)。政治闘争、軍拡競争を批判した「Rat Race」がジャマイカで大ヒットした。ヒットの背景には、マイケル・マンリー率いる人民国家党(PNP)と、エドワード・シアガが率いるジャマイカ労働党 (JLP) の二大政党による対立の激化があった。

ボブ・マーリー銃撃事件とスマイル・ジャマイカ・コンサート[編集]

ボブは、スティービー・ワンダーの慈善コンサートに参加して以来、自分たちでも無料のコンサートを開催したいと考えていた。そこでPNPに協力を呼びかけ、1976年12月5日に「スマイル・ジャマイカ・コンサート」を開催することを計画した。コンサートのために「Smile Jamaica」というタイトルの曲を二種類のバージョンで録音。このコンサートの趣旨は、「二大政党の対立により混迷するジャマイカに微笑みを与えよう」というものだった。しかし、コンサートが近づくにつれ、匿名の警告や脅迫が相次いだ。

1976年12月3日、コンサートのリハーサル中に銃で武装した6人の男に襲撃を受け、ボブは胸と腕を撃たれる。重傷の者もいたが、幸い死者は出なかった。二日後、コンサートに出演。約80,000人の聴衆に向かって「このコンサートを開くことを二か月半前に決めたとき、政治なんてなかったんだ! 僕は人々の愛のためだけに演奏したかった」と言い、約90分の演奏をやりきった(「War/No More Trouble」「Get Up, Stand Up」「Smile Jamaica」「Keep on Moving」「So Jah Seh」など)。演奏の最後には、服をめくり胸と腕の傷を指さして観客に見せつけ、その場を去った。翌日早朝、ジャマイカを発ちバハマへ。後にコンサートに出演した理由を尋ねられたとき、「この世界を悪化させようとしているやつらは休みを取っていない。なのになぜ僕に休むことができるか?」と語った。

ロンドンで活動[編集]

1977年1月、新ギタリストジュニア・マーヴィンを迎えロンドンでアルバム2枚分レコーディング。亡命生活を送っていたハイレ・セラシエの孫に家へ招かれ、皇帝の形見である指輪をもらい受ける。ボブはこれを生涯外すことはなかった。モデルで1976年度ミス・ワールドシンディ・ブレイクスピアと交際を開始。6月3日、アルバム『Exodus』を発表(「Exodus」「Jamming」「Waiting in Vain」「Three Little Birds」「One Love/People Get Ready」など)。ブルース、ソウル、ブリティッシュ・ロックなどの要素を取り入れたこのアルバムは、56週間連続してイギリスのチャートに留まった。

1978年3月23日、アルバム『Kaya』を発表(「Easy Skanking」「Kaya」「Is This Love」「Satisfy My Soul」「Running Away」など)。

ワン・ラブ・ピース・コンサート[編集]

1978年、ジャマイカに帰国し、4月22日にキングストンで「ワン・ラブ・ピース・コンサート」に出演(「Lion of Judah」「Natural Mystic」「Trenchtown Rock」「Natty Dread」「Positive Vibration」「War」「Jamming」「One Love / People Get Ready」「Jah Live」)。

「Jamming」の演奏中、コンサートを見に来ていたマイケル・マンリーとエドワード・シアガの2人の党首をステージ上に招き、和解の握手をさせた。

後年[編集]

1978年6月15日、アフリカ諸国の国連代表派遣団から第三世界平和勲章を授与される。7月21日、シンディがダミアン・マーリーを出産する。11月10日、ライブアルバム『Babylon By Bus』を発表。12月、かねてからの念願であったラスタファリズムの聖地、エチオピアをはじめとするアフリカの国々を訪問。このときの体験をもとにアルバム『Survival』を発表している。

1979年には、4月から日本、オーストラリア、ニュージーランドで公演を行った。7月21日、ボストンで黒人解放運動を支援するアマンドラ慈善コンサートに出演、南アフリカのアパルトヘイトに対する強い反対の意を示した。この頃、シングル「Zimbabwe」が大ヒット。10月2日、アルバム『Survival』を発表(「So Much Trouble In The World」「Zimbabwe」「Africa Unite」「Ride Natty Ride」「Wake Up And Live」など)。アフリカのミュージシャンが次々と「Zimbabwe」のカバー・ヴァージョンを発表。11月13日、ガーナからアシャンティのオサヘネ(元は救世主の意)の称号を受ける。

1980年1月4日、西アフリカのガボンを訪問、滞在中に初となるアフリカでのコンサートを開催。2月6日、自宅スタジオのあるホープロードの支援者やその子供たちを誕生パーティに招待する。4月17日、ジンバブエの独立式典に出席し演奏、群衆がなだれ込むほどの騒ぎとなる。6月10日、アルバム『Uprising』を発表(「Coming In From The Cold」「Work」「Zion Train」「Could You Be Love」「Redemption Song」など)。

5月30日、ヨーロッパ・ツアー開始。6週間の間に12ヶ国31都市をまわり100万人を動員。マイアミで休養、8月に体調を崩す。9月16日ボストンからアメリカ・ツアー開始。9月19日、マジソン・スクエア・ガーデンでコモドアーズとジョイント・コンサート。9月20日、体調を壊し休養。翌日、ニューヨークのセントラル・パークでジョギング中に倒れる。9月22日、脳腫瘍と診断される。9月23日、ピッツバーグのスタンリー・シアターでラスト・コンサートを決行、「Get Up, Stand Up」でコンサートを終える。

病と死[編集]

ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームにあるマーリーのプレート

1977年、ツアー中に足の親指を痛め、医師に悪性のメラノーマと診断される。親指を切断することを勧められたが、宗教的な理由でこれを拒否。代わりに爪と爪床が取り除かれ、腿から皮膚を移植。病気にもかかわらず彼はツアーを続け、1980年にはワールド・ツアーを予定していた。脳にできていた腫瘍はやがて全身に転移し、手を付けられない状態まで悪化した。

1980年10月7日、ニューヨークで放射線療法を開始。11月4日、母セデラや妻リタの勧めで、セラシエ皇帝が属していたエチオピア正教会の洗礼を受ける。洗礼名ベラーネ・セラシエ(三位一体の光の意)。11月9日、西ドイツの病院に移り自然療法を受ける。集中治療のため、ドレッド・ロックも切り落としてしまう。同月、エチオピアへ静養に出かける。12月、再びドイツで治療を受ける。

1981年4月、ジャマイカの名誉勲位であるメリット勲位が贈られる。5月9日、チャーター機で母のいるマイアミに戻り、シダーズ・オブ・レバノン病院に入院。5月11日、午前11時30分過ぎ、妻と母に見守られながら他界。息子ジギーへの最後の言葉は、「お金は命を買えない」だったという。最終的な死因は脳腫瘍と腫瘍の肺への転移によるものとされている。36歳没。14日、マイアミの自宅で葬儀と追悼式が行われる。19日、遺体がジャマイカに戻る。21日、キングストンにて国葬。葬儀の前には、残されたザ・ウェイラーズのメンバーによる演奏が行われた(「Rastaman Chant」「Natural Mystic」)。葬儀は、エチオピア正教会とラスタファリの伝統の要素を組み合わせたものだった。その後、セント・アンの生家近くに、お気に入りのデニムジャケットに身を包み、元に戻されたドレッド・ロック、ギター、指輪、聖書と共に埋葬された。当時のジャマイカ首相エドワード・シアガは、次のように言い、追悼の辞とした。

彼の声は、この電子工学の発達した世界のどこへいっても聴こえてくる叫びでした。彼の鋭い顔立ち、雄大なルックス、そして飛び跳ね踊る姿、その一つ一つが我々の心の中に鮮やかに刻まれています。しかし、我々はもう二度とそれを目にすることができなくなりました。ボブ・マーリーにはもう会えないのです。彼は、出会うものすべてに、決して忘れ去ることのできない、神秘的な印象を残していきました。彼のような人間を心から消し去ることはできません。彼は国家の集団意識の一部です。

死後[編集]

1983年5月23日、アルバム『Confrontation』が発表される(「Chant Down Babylon」「Buffalo Soldier」「Blackman Redemption」「Stiff Necked Fools」「Rastaman Live Up」など)。大ヒット曲「Buffalo Soldier」を含む未発表曲とジャマイカ産シングル曲を集めたタフ・ゴングとアイランドの共同制作作品となっている。

1984年5月、最大のヒット・アルバムとなるベストアルバム『Legend』がアイランド・レコードから発売される。これは史上最高の売上げを記録しているレゲエ・アルバムであり、2014年12月の時点で、世界中で3,300万枚以上販売されている。2003年に、Rolling Stone誌の史上最高の500アルバムのランキングで46位にランクイン、2012年の改訂リストでも評価を維持した。2020年1月現在、ビルボード 200アルバムチャートで合計609週間チャートイン。これは歴史上2番目に長い記録である。現在、このアルバムの販売数は週に約3,000〜5,000部。

使用楽器[編集]

愛用のギターはボディとネックにワンピースマホガニー、指板はローズウッドを使用し、ピックアップにP-90を2基搭載したギブソンLes Paul Specialであるが[2]、1979年の来日公演時にヤマハ・SG-1000を贈られ、日本オーストラリアニュージーランドでの公演時にはこれを使用した[3]

影響[編集]

2011年エジプト革命の際使用されたプロパガンダポスター。ウェイラーズの「Get up stand up」の歌詞が引用されている。

家族[編集]

ボブ・マーリーを題材とした作品[編集]

ディスコグラフィ[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c 藤川 (1996) p.40
  2. ^ Bob Marley Les Paul Special Guitar - www.zuitar.com
  3. ^ Feud Brewing Over Marley Guitar”. www.riddimjamaica.net. 2008年12月15日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。

参考文献[編集]

  • スティーヴン デイヴィス『ボブ・マーリー—レゲエの伝説』晶文社1986年 ISBN 978-4-7949-5066-6
  • 『ボブ・マーリー レジェンド』(2006年)ISBN 978-4-86020-147-0
  • 藤川毅、高橋瑞穂、五味俊之、イアン・ボイス、ヤマン・ジャン・ピエール「ボブ・マーリィ 1945 - 1981 LIFE & HIS MUSIC」『RM レゲエ・マガジン』第47号、株式会社タキオン、1995年6月。
  • 菅原光博、藤田正『ボブ・マーリー よみがえるレゲエ・レジェンド』ISBN 978-4-907276-28-7
  • KAWADE 夢ムック 文藝別冊『ボブ・マーリー』 ISBN 978-4-309-97768-3
  • イアン・マッキャン&ハリー・ホーク『全曲解説シリーズ ボブ・マーリィ』 ISBN 4-401-63023-8

関連項目[編集]

外部リンク[編集]