ジュリアン・レノン

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ジュリアン・レノン
Julian Lennon
Cynthia and Julian Lennon at the unveiling ceremony of the John Lennon Peace Monument in Liverpool - celebrating John Lennon's 70th Birthday - October 9th 2010.jpg
2010年10月9日にリヴァプールのジョン・レノン・ピース・モニュメントで催されたジョン・レノン生誕70周年記念セレモニーに出席するジュリアンと母シンシア(左)
基本情報
出生名 John Charles Julian Lennon
生誕 (1963-04-08) 1963年4月8日(54歳)
出身地 イングランドの旗 イングランドリヴァプール
ジャンル ロック
職業 ミュージシャン
シンガーソングライター
作家
音楽プロデューサー
写真家
俳優
担当楽器 ギター
ボーカル
ベース
バンジョー
ピアノ
ドラムス
ハーモニカ
活動期間 1984年 -
レーベル カリスマ・レコード
ヴァージン・レコード
アトランティック・レコード

ジョン・チャールズ・ジュリアン・レノン(John Charles Julian Lennon、1963年4月8日 - )は、イギリスミュージシャン、写真家。

生い立ち[編集]

ビートルズのメンバーであるジョン・レノンと最初の妻シンシア・レノンの長男として生まれた。シンシアの妊娠を知りジョンは結婚に踏み切ったのだが、この時期のジョンは家庭を顧みず、1968年には日本人の前衛芸術家であるオノ・ヨーコの元に走ったため、ジュリアンが5歳のときにジョンとシンシアは離婚。その後ジュリアンは母の元で育った。 1970年代初頭まで一切父親との接触はなかったが、ジョンとヨーコの別居中に、ジョンと当時の愛人のメイ・パンに面会し、その後何度かはジョンとヨーコ、ショーンの新しい家庭にも遊びに行くようになった。著書の『ジョン・レノンに恋して』の序文においてジュリアンは以下の記述をしている -「僕が5歳のときに両親が離婚したあと、父には数えるほどしか会っていない。そして実際に会ったその貴重な時間のなかでも、目の前の父の心は遠く離れていて、僕を怯えさせることの方が多かった。……父の人生のなかでは、僕は取るに足らない存在で、拒絶されているようにすら感じていた」。ジョンとヨーコの間の息子で、ジュリアンの異母弟でもあるショーンとは、幼少の頃から共に遊び、現在に至るまで親密な関係を保っている。 その一方で、ジュリアンはジョンの遺産相続人からは外されていた。もっとも彼向けの信託基金は作られていたが、ジュリアンには渡らず、遺産を管理するヨーコが支払いに同意したのは1996年になってからであった[1][2]

5歳の頃、両親の仲が険悪だった時に、ポール・マッカートニーがジュリアンを励ますため、「ヘイ・ジュード」を作ったと言われている。1996年に、ロンドンで「ヘイ・ジュード」のレコーディング用楽譜類譜がオークションに出された際、「ポールが僕のために作ってくれた曲だから」とジュリアンが2万5千ポンドで落札している。

音楽活動[編集]

父・ジョンに影響されてか、音楽活動にも興味を持ち始めたジュリアンは、ジョンの1974年のアルバム『心の壁、愛の橋』に収録の「ヤ・ヤ」ではドラムを叩いている。1984年ビリー・ジョエルなどを手がけたことで知られるフィル・ラモーンがプロデュースした『ヴァロッテ』でレコード・デビュー。チャートでもかなりの成功を収め「トゥー・レイト・フォー・グッドバイ」(1984年)「ソルトウォーター」(1991年)などの全米、全英トップテンの大ヒット曲を生んだ。1993年、日本のアニメーション映画『遠い海から来たCOO』にメインテーマ「CHILDREN OF THE WORLD」を提供。

ディスコグラフィ[編集]

アルバム[編集]

シングル[編集]

CM[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 消えたジョン・レノンの遺書、そして、遺産の意味
  2. ^ Trial & Heirs

関連項目[編集]

外部リンク[編集]