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高倉健

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たかくら けん
高倉 健
本名 小田 剛一 (おだ ごういち)
生年月日 (1931-02-16) 1931年2月16日(93歳)
出生地 福岡県中間市
国籍 日本の旗 日本
民族 日本人
身長 180cm
血液型 B型
職業 俳優歌手
ジャンル 映画テレビドラマCM
活動期間 1955年 -
配偶者 江利チエミ1959年 - 1971年
主な作品
網走番外地』シリーズ
日本侠客伝』シリーズ
昭和残侠伝』シリーズ
新幹線大爆破』/『八甲田山
幸福の黄色いハンカチ
南極物語』/『鉄道員(ぽっぽや)
 
受賞
日本アカデミー賞
最優秀主演男優賞
1977年
幸福の黄色いハンカチ』/『八甲田山
1981年
『動乱』/『遥かなる山の呼び声
1982年
駅 STATION
2000年
鉄道員(ぽっぽや)
ブルーリボン賞
主演男優賞
1977年
『幸福の黄色いハンカチ』/『八甲田山』
1999年
『鉄道員(ぽっぽや)』
その他の賞
キネマ旬報賞
主演男優賞
1977年
『幸福の黄色いハンカチ』/『八甲田山』
1999年
『鉄道員(ぽっぽや)』
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高倉 健 (たかくら けん、1931年2月16日 - ) は、俳優歌手。本名 : 小田 剛一 (おだ ごういち)。愛称は健さん。2006年度文化功労者

日本を代表する映画スターで、半世紀以上活躍しており、中華人民共和国でも人気がある。代表作は映画『網走番外地』シリーズ、『日本侠客伝』シリーズ、『昭和残侠伝』シリーズ、『新幹線大爆破』、『幸福の黄色いハンカチ』、『八甲田山』、『南極物語』、『鉄道員(ぽっぽや)』など。いずれも邦画史に残る大ヒットを記録している[注釈 1]

身長180cm体重71kg血液型B型[1]。高倉プロモーション所属。

来歴

生い立ち

1931年福岡県中間市の裕福な一家に生まれる。父は旧海軍の軍人で、炭鉱夫の取りまとめ役などをしていた[2]。幼少期の高倉は、肺を病み、虚弱だった。終戦を迎えた中学生の時、アメリカ文化に触れ、中でもボクシング英語に興味を持った[2]。 学校に掛け合ってボクシング部を作り、夢中になって打ち込み、戦績は6勝1敗だった[2]

英語は小倉米軍司令官の息子と友達になり、週末に遊びに行くなかで覚え、高校時代にはESS部を創設して英語力に磨きをかけた[2]福岡県立東筑高等学校全日制課程商業科を経て、貿易商を目指して明治大学商学部商学科の夜学へ進学。在学中は相撲部のマネージャーを1年間務めていた。卒業後、思ったような就職先がなく一旦帰郷した。

俳優へ

1955年に大学時代の知人のつてで、美空ひばりらが所属する新芸プロのマネージャーになるため、喫茶店で面接テストを受けた。その際、偶然その場にいた東映東京撮影所長で、プロデューサーのマキノ光雄にスカウトされ、東映の第2期ニューフェイスとして入社。同期に今井健二丘さとみ・岡田敏子・五味龍太郎らがいる。当時、ニューフェイスは映画デビューまでに俳優座演技研究所で6か月、さらに東映の撮影所で6か月の修行期間(エキストラ出演など)を経ることが決められていた。

演技経験も皆無で、親族に有名人や映画関係者がいるわけでもない無名の新人だったが、翌1956年の映画『電光空手打ち』で主役デビュー。元々俳優を目指していた訳ではないことから、初めて顔に化粧をした自分を鏡で見た時、情けなくて涙が止まらなかった。その後、アクション喜劇刑事ギャング青春戦争文学ミステリなど、幅広く現代劇映画に出演し、この頃から主演スターの一人として活躍していたが、まともな演技のトレーニングも受けたこともないまま、出演し続けたことがコンプレックスになっていた。1960年代前半まで時代劇映画をメインにしていた東映では、片岡千恵蔵中村錦之助・美空ひばりの映画などにも助演していた。

仁侠映画

1963年に出演した『人生劇場 飛車角』以降、仁侠映画を中心に活躍。1964年から始まる『日本侠客伝シリーズ』、1965年から始まる『網走番外地』シリーズ、『昭和残侠伝シリーズ』などに主演。『網走番外地』は、のちに歌詞の一部が反社会的であるとの理由で一時は放送禁止歌になったが公称200万枚を売り上げ[3]、『昭和残侠伝』シリーズの主題歌『唐獅子牡丹』もカラオケなどで歌い継がれている。当時の風貌は、劇画ゴルゴ13』の主人公・デューク東郷のモデルにもなり、同作の実写映画版への出演は、原作者のさいとう・たかをたっての要望であった[注釈 2]

独立

映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』 (1966年にんじんプロダクション / 國光影業) を皮切りにハリウッド映画など、東映以外の作品にも出演していたが、1970年に高倉プロを設立し、1976年には東映を退社した。同年の映画『君よ憤怒の河を渉れ』(永田プロ / 大映) にて、10年以上、出演し続けた仁侠映画のイメージから脱却。翌1977年には『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』の二作品に主演し、第1回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞と、第20回ブルーリボン賞の主演男優賞のダブル受賞に輝いた。これ以後も数々の作品に出演して、合計4度の日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞、2度のブルーリボン賞の主演男優賞に輝いている。前後してアメリカ合衆国の映画中国映画などに出演しており、1998年には紫綬褒章を受賞した。一方でテレビドラマへの出演は5本である。その出演理由も「故郷にいる母親に、テレビで毎週自分の顔を見て安心して欲しいから」というものである。CMの出演しているが、富士通のパソコンFMVのCMでは『幸福の黄色いハンカチ』で夫婦を演じた倍賞千恵子と再び夫婦の設定で出演し、コミカルな演技を見せ、2006年4月2日の『世界遺産』(TBS)で初めてナレーションを務めた。

近況

2005年、『網走番外地』シリーズの石井輝男監督が死去。翌2006年8月、石井の意思により、網走市内の潮見墓園に墓碑が建てられ、遺骨が納められた。“安らかに 石井輝男”と記されたこの墓碑の碑文は、高倉によってしたためられたものである。

2006年11月に行われた天皇、皇后両陛下主催の文化勲章受章者・文化功労者を招いたお茶会に出席して以来、公の場に姿を見せていなかったが2009年10月、同年8月に亡くなった女優大原麗子の墓参りをしていたことが、2010年8月に伝えられた[4][5]

2011年8月、映画『あなたへ』で6年ぶりに銀幕復帰することが発表された。205本目の映画出演となる。

人物

人柄

義理がたく、人情が厚く、筋を通す、礼儀正しい人物として知られ、すべての共演者に挨拶を忘れず、監督やプロデューサーをはじめ、若い新人俳優やスタッフにも必ず立ち上がり、丁寧にお辞儀して敬意を払う[2][5]

千葉真一は高倉を “ 一生あこがれの存在で永遠の師匠 ” と公言している[6]。「(千葉が)デビューして間もない頃、健さんが食事によく連れて行ってくれたり、取材向きの洋服がない時に健さんからスーツをもらった[6]」、「役者として少し売れてきた後でも(千葉自身の)撮影がない時には、健さんの付き人をしていた[6]」、「(千葉が)離婚した時に健さんから手紙で励まされ、それが心の支えになった[6]」、「(千葉が)東映労働組合委員長と撮影進行で衝突して、映画界を辞めようと思った時に、健さんが思いとどまらせ、一緒に謝ってくれた[2]」など、「健さんは厳しい人だけど、ちゃんと愛がある。そばにいて、俳優としても人間としても、大切なことをいっぱい教わった[6]」と語っている。

他にも役者として人間として尊敬している人物は多く、『幸福の黄色いハンカチ』で共演した武田鉄矢は、100メートルほど離れた所で高倉を発見すると「健さ〜ん!」と叫びながら手を振り、全力疾走で走ってきた[7]石倉三郎小林稔侍板東英二などからもこよなく慕われており、石倉は芸名に「倉」の字をもらい、小林も息子に「健」の名前を付けたりと、影響を受けている。

気持ちの通じ合った共演者に高倉はブライトリングロレックスヴァシュロン・コンスタンタンなどの高級腕時計に、「高倉健」の名前を彫ったモノをプレゼントする習慣があり、千葉真一・田中邦衛渡瀬恒彦・板東英二などが貰っている。田中も高倉をこよなく尊敬し、今も出かける際には、その時計を身に付けている。『ブラックレイン』で共演したマイケル・ダグラス大阪京橋の野外シーンロケで、日本人のファンが高倉に憧れて接する姿を目撃した。その様子をダグラスは「アメリカではブルース・スプリングスティーンの時だけだよ。あんなに尊敬される姿を見られるのは!」と驚いていた[8]

中国でも年配層に知名度・人気が高い。政治闘争に溢れた文化大革命後、外国映画に飢えていた中、『君よ憤怒の河を渉れ』(佐藤純彌監督)が中国に輸入され、高い娯楽性と華やかな日本の風景などで非常に人気を博したためである。中国人の半分が観たともいわれている[9]。宣伝のために田中邦衛と訪中した時、宿泊先のホテルには高倉を一目見たいというファンが大勢詰め掛けた。高倉のファンである映画監督・張芸謀(チャン・イーモウ)は、『単騎、千里を走る。』の撮影の際、高倉が休憩の時に椅子に一切座らず、他のスタッフに遠慮して立ち続けていたことや、現地採用の中国人エキストラ俳優にまで丁寧に挨拶していたのを見て「こんな素晴らしい俳優は中国にはいない」と発言している[注釈 3]2006年4月には北京電影学院客員教授に就任している

非常に謙虚な人物で、『夜叉』で共演したビートたけしがパーソナリティを務めた『ビートたけしのオールナイトニッポン』での発言によれば、真冬の福井へロケに行った際、高倉は休みの日だったが、ロケ現場へ激励に現れた。厳冬下であったので、出演者・スタッフは焚火にあたっていたが、高倉は焚火にあたろうとしない。スタッフが「どうぞ焚火へ」と勧めたところ、高倉は「自分はオフで勝手に来た身なので、自分が焚火にあたると、皆さんに迷惑がかかりますので」と答えた。このため、スタッフだけでなく、共演者も誰一人申し訳なくて、焚火にあたれなかったと発言している。やがて「頼むからあたってください。健さんがあたらないと僕達もあたれないんです」と泣きつかれ、「じゃあ、あたらせていただきます」となり、やっと皆で焚火にあたることができた[注釈 4]。撮影初日が終わり、役者・スタッフの泊まる旅館へ到着し、食堂へ行くと、高倉と監督の前だけ、皆とは違った豪華な料理が並んでいた。これを見た高倉は「自分も皆さんと同じ料理にしてください」と遠慮していた。

「不器用ですから」の台詞が代名詞になるほど、無骨で無口なイメージがあるが、実際の高倉は多弁とのことである。『ビートたけしのオールナイトニッポン』によれば、漫才師から役者業に進出してきたたけしに対抗して、田中邦衛と組んで漫才界に進出しようという話題になったことがあり、田中は「止めといたほうがいい」と制止した。高倉が「それじゃお前は何をやるんだ?」と言うと、田中は「二種免許取ります」と返答したという。たけしは高倉と田中がタクシーの運転手になる可能性を、真剣に検討していることに大ウケした[10]。昼間に高倉とたけしが車に同乗して移動していた時に、渋谷駅ハチ公改札前近くのスクランブル交差点で信号待ちの為に停車したところ、高倉は窓を開けていきなり「お~い、高倉~!」と大声で何度も車外へ叫び続け、信号が変わり車が走り出すとようやく窓を閉めて元に戻り「いやあ、こんなに沢山の人が通っているのに、誰も気が付かないもんなんだなあ、俺がここに居るって」と独りで喜んでいた。高倉とたけしが車に同乗していることを多数の一般人に知れてしまうと、野次馬で混乱が発生する危険性が容易に予想されたにも拘らず、大都会での他人に対する無関心を逆手にとって面白がっていたと同番組でたけしが語っている。

演技

初の松竹出演となった『幸福の黄色いハンカチ』の冒頭で、刑務所から刑期を終え出所した直後の食堂で、女性店員についでもらったグラスに入ったビールを深く味わうように飲み干した後、ラーメンカツ丼を食べるシーンがある。その収録で「いかにもおいしそうに飲食する」リアリティの高い演技を見せ、1テイクで山田洋次監督からOKが出た。あまりにも見事だったので、山田が問い尋ねると「この撮影の為に2日間何も食べませんでした」と言葉少なに語り、唖然とさせた。

「飲む・打つ・買う」の映画界にありながら、自らを厳しく律して酒を飲まず、筋力トレーニングを続けていた。その肉体美による刺青姿の立ち回りは、他のスターとは一線を画した印象を示している。仕事へのこのような真摯な姿勢は、北大路欣也にも影響を与えた[11]

祖先・親族

祖先は鎌倉時代執権北条家の一門である名越氏の一族、刈田式部大夫と言われた北条篤時で、篤時の子孫が西国に移り、大内氏に仕えた後に北九州へ向かった[2]。当地で北条の名を捨て『小松屋』の屋号で両替商を営み、後に筑前国藩主黒田家から名字帯刀を許されて小田姓を名乗るようになった[2]江戸時代末期に『東路日記』を記した、筑前国の庄屋の内儀・小田宅子(おだいえこ)は先祖にあたる。

1959年江利チエミと結婚したが、1971年に離婚。その後は独身を通している。江利の命日である2月13日には、毎年早朝にひっそり一人で墓前を訪れ、花を手向けている。離婚の原因も不仲ではなく、江利の異父姉によるふたりへの誹謗中傷と夫婦の財産横領が原因といわれている[注釈 5]

交友

東京アメリカンクラブのメンバーである高倉は、外国人の友人・知人が多い[2]千葉真一は、高倉に誘われて同クラブへ行った時や、パンアメリカン航空のパーティーへ出席した時に千葉のファンであるフライトアテンダントを高倉から紹介されたりなど、ハリウッド映画出演前から英語に堪能な高倉を、目の当たりにしている[2]

かつて東映内には、千葉真一・梅宮辰夫山本麟一山城新伍など、高倉を慕う人達で集まって遊ぶ「野郎会」というものがあった[2]。名の由来は「男ばかり」なのと「何でもやろう」を語呂あわせにしたもので、何か月かごとに集まってその時の幹事が決めた遊びをしていた[2]。高倉は酒を飲まないので野球をしたり、山城が幹事の時には遊郭に行って、お大尽遊びの真似事をしていた[2]明治大学と東映ニューフェイスの先輩になる山本も、高倉と仲が良く、この集まりに参加していた[2]

長嶋茂雄と交友があり、長男・長嶋一茂1999年12月3日に箱根神社で結婚式を挙げた時、高倉が出席したので、結婚式取材に駆けつけた取材陣が驚いた一幕があった。村田兆治の引退試合中継を見て感銘を受け、それまで面識も無かった村田の住所を関係者に一通り尋ねて調べ、さらに留守中だった村田の自宅前に、花束を置いて帰ったという話がある[12]仰木彬は高校の後輩。石原裕次郎とも付き合い、「健さん」「裕ちゃん」と呼び合う仲だった。

趣味

趣味は旅・車・乗馬コーヒーと夜更かしが好きで、よく撮影に遅刻することがあり、監督を怒らせることもあった。

好きなミュージシャン大塚博堂である。友人にもらったカセットテープを聞いて、自分にない何かがあると感銘を受ける。大塚とよく組んでいた作詞家の藤公之介に、大塚と組んで曲を作ってほしいと電話で頼んだこともあったがこの時は大塚が忙しく、別の作曲家で曲を作るが、その後、まもなく大塚が逝去したため実現しなかった。大塚の曲では『ダスティン・ホフマンになれなかったよ』『旅でもしようか』『ふるさとでもないのに』を特に気に入っている。直接、会ったことはないが、大塚のメモリアルイベントなどに、一ファンとして何度かメッセージを贈っている。千葉真一野際陽子の結婚10周年記念には『ダスティン・ホフマンになれなかったよ』をBGMにして、自ら祝辞をカセットテープに録音してプレゼントしており、千葉と野際からとても喜ばれた。

志村けん岡村隆史のファンである。志村には、自ら『鉄道員(ぽっぽや)』の出演要請を出し、「お笑い一本」と決めている志村を口説き落とした。『鉄道員』公開以降に志村の番組のトークコーナーに小林稔侍が出演した際にはVTR出演し、志村の演技を褒める一方、共演歴の長く交友のある小林を「セリフを覚えて来ない、気持ちを引き締めてほしい」などと、苦言を呈する体で茶化してユーモアを滲み出させた。岡村とは第23回日本アカデミー賞で同席し、長年のファンであることを伝えた。岡村は「将来は高倉健さんのような俳優になりたい」というスピーチで会場に笑いが巻き起こる中、高倉は立ち上がって拍手を送った。岡村が病気で療養中の際にも電話や手紙でメッセージを送っている。

キリン生茶」のCMで共演した総合格闘家宇野薫によると、高倉は格闘技にかなり詳しく「休憩中に健さんから『UFCの試合をよく観ていますよ。応援しています』と話しかけられ驚きました」と語っている。

世界で一番好きな場所はハワイ。このことについて沢木耕太郎に「ドスを片手に敵地に乗り込む高倉健とハワイの取り合わせは意外なようだが、それは何故か」と問われて、高倉は「人が温かい」ことと、東映時代に過酷なスケジュールをこなしている中で、たまの休みにハワイの海岸で寝て過ごす開放感がたまらなかった、と述懐している[13]

その他

バラエティ番組の出演は、『スター千一夜』、『ズバリ!当てましょう』(フジテレビ)、『土曜大好き!830』(関西テレビ)、『徹子の部屋』(テレビ朝日)、1980年の『すばらしき仲間』(中部日本放送)で親交のある田中邦衛北大路欣也と3人での語らいが企画された時ぐらいしか、見られる機会は無かった。平成になってからは、『SMAP×SMAP』(関西テレビ・フジテレビ)に出演したが、後日の同番組特番では視聴者達からの『BISTRO SMAP名場面リクエスト第1位』に輝いた。

本人は、『オレたちひょうきん族』に出演したかったらしく、ビートたけしに「僕にもひょうきん族出演の機会をください」と署名した写真を渡したことがある。それを聞いた高田文夫は、『タケちゃんマン』に弟子の「ケンちゃんマン」を出そうとギャグを言っていた[14]

受賞

  • 第1回 1978年 日本アカデミー・最優秀主演男優賞 - 『幸福の黄色いハンカチ』
  • 第4回 1981年 日本アカデミー・最優秀主演男優賞 - 『動乱』、『遥かなる山の呼び声』
  • 第5回 1982年 日本アカデミー・最優秀主演男優賞 - 『駅 STATION』
  • 第23回 2000年 日本アカデミー・最優秀主演男優賞 - 『鉄道員(ぽっぽや)』
  • 第20回ブルーリボン賞 1977年度・主演男優賞 - 『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』
  • 第42回ブルーリボン賞 1999年度・主演男優賞 - 『鉄道員(ぽっぽや)』
  • 第32回 1977年 毎日映画コンクール・男優演技賞 - 『幸福の黄色いハンカチ』
  • 第2回 1977年 報知映画賞・主演男優賞 - 『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』
  • 第23回モントリオール世界映画祭・主演男優賞
  • 第51回 1977年 キネマ旬報・主演男優賞
  • 第73回 1999年 キネマ旬報・主演男優賞
  • 1978年度アジア太平洋映画祭・主演男優賞
  • 1982年度アジア太平洋映画祭・主演男優賞
  • 1990年度アジア太平洋映画祭・主演男優賞
  • 1999年度アジア太平洋映画祭・主演男優賞
  • 2007年度サンディエゴ映画批評家協会・主演男優賞
  • 紫綬褒章 1998年
  • 文化功労者 2006年

出演

映画

東映

1956年

  • 電光空手打ち - 主演忍勇作 ※デビュー作
  • 流星空手打ち - 主演忍勇作
  • 無敵の空手! チョップ先生
  • 大学の石松 - 主演石田松夫
  • にっぽんGメン 特別武装班出動 - 園川刑事
  • 大学の石松 ぐれん隊征伐 - 主演石田松夫
  • 大学の石松 太陽族に挑戦す - 主演石田松夫
  • 夕日と拳銃 日本篇 大陸篇 - 弟 慎太郎
  • 母孔雀
  • 拳銃を捨てろ
  • 恐怖の空中殺人

1957年

  • 喧嘩社員 - 主演
  • 無敵社員 - 主演
  • 第十三号棧橋 - 主演矢間大吉
  • 大学の石松 女群突破 - 主演石田松夫
  • 多情仏心 - 西山普烈
  • 日清戦争風雲秘話 霧の街 - 結城欽之助
  • 鯨と斗う男 - 主演山上洋介
  • 青い海原
  • 血まみれの決闘 - 主演
  • ジェット機出動 第101航空基地

1958年

  • 娘十八御意見無用 - 井上章吾
  • 多羅尾伴内 十三の魔王
  • 台風息子 修学旅行の巻
  • 台風息子 最高殊勲の巻
  • 非常線 - 主演小堀千代太
  • 恋愛自由型
  • 季節風の彼方に
  • 奴の拳銃は地獄だぜ
  • ひばりの花形探偵合戦
  • 空中サーカス 嵐を呼ぶ猛獣 - 主演千吉
  • 希望の乙女
  • 森と湖のまつり - 主演風森一太郎
  • 娘の中の娘

1959年

  • 旋風家族
  • 無法街の野郎ども - 曽根文雄
  • 黒い指の男
  • 獣の通る道 - 主演
  • 国際スリラー映画 漂流死体
  • 地獄の底までつき合うぜ - 幹男
  • 疑惑の夜
  • 静かなる兇弾 - 主演田口刑事
  • 高度7000米 恐怖の四時間
  • 空港の魔女 - 主演芦沢良平

1960年

  • 天下の快男児 万年太郎 - 主演万年太郎
  • 二発目は地獄行きだぜ - キッドの謙
  • 続 べらんめえ芸者 - 二宮卓也
  • 大いなる旅路
  • ずべ公天使 - 岸田
  • 大空の無法者
  • 天下の快男児 突進太郎 - 主演突進太郎
  • 続々 べらんめえ芸者
  • 砂漠を渡る太陽 - 梁
  • 殴り込み艦隊 - 主演石山
  • 男ならやってみろ - 主演梶村五郎

1961年

  • べらんめえ芸者罷り通る
  • 俺が地獄の手品師だ - 立花丈次
  • 天下の快男児 旋風太郎 - 主演旋風太郎
  • 男の血潮がこだまする
  • 魚河岸の女石松 - 喜多川達也
  • 花と嵐とギャング - スマイリー健
  • ひばり民謡の旅
  • べらんめえ芸者佐渡へ行く
  • 万年太郎と姐御社員 - 主演万年太郎
  • べらんめえ中乗りさん
  • 悪魔の手毬唄 - 主演金田一耕助

1962年

  • 南太平洋波高し
  • べらんめえ芸者と大阪娘
  • 二・二六事件 脱出 - 主演
  • 恋と太陽とギャング - 主演石浜伸夫
  • 千姫と秀頼
  • 黄門社長漫遊記
  • 民謡の旅・桜島 おてもやん
  • 東京丸の内 - 主演
  • 三百六十五夜 - 川北小六
  • 暗黒街最後の日
  • 東京アンタッチャブル
  • 遊民街の銃弾 - 高木健二
  • 裏切者は地獄だぜ - 青野

1963年

1964年

1965年

1966年

  • 昭和残侠伝 唐獅子牡丹 - 主演花田秀次郎
  • 日本侠客伝 血斗神田祭り - 主演新三
  • 網走番外地 荒野の対決 - 主演橘真一
  • 男の勝負
  • 昭和残侠伝 一匹狼 - 主演武井繁次郎
  • 網走番外地 南国の対決 - 主演橘真一
  • 日本侠客伝 雷門の決斗 - 主演
  • 地獄の掟に明日はない
  • 網走番外地 大雪原の対決 - 主演橘真一

1967年

  • 日本侠客伝 白刃の盃 - 主演
  • 網走番外地 決斗零下30度 - 主演橘真一
  • あゝ同期の桜
  • 昭和残侠伝 血染めの唐獅子 - 主演花田秀次郎
  • 網走番外地 悪への挑戦 - 主演橘真一
  • 日本侠客伝 斬り込み - 主演
  • 侠客の掟
  • 侠骨一代
  • 網走番外地 吹雪の斗争 - 主演橘真一

1968年

  • 獄中の顔役
  • 荒野の渡世人 - 主演
  • 侠客列伝
  • 緋牡丹博徒 - 片桐直治
  • ごろつき - 主演大場勇
  • 人生劇場 飛車角と吉良常 
  • 博徒列伝 - 富士上健吉
  • 新 網走番外地 - 主演末広勝治

1969年

  • 緋牡丹博徒 花札勝負 - 花岡彰吾
  • 昭和残侠伝 唐獅子仁義 - 主演花田秀次郎
  • 緋牡丹博徒 二代目襲名 - 矢代幸次
  • 戦後最大の賭場 - 本庄周三
  • 懲役三兄弟
  • 日本侠客伝 花と龍 - 主演
  • 日本女侠伝 侠客芸者 - 島田清吉
  • 新網走番外地 流人岬の血斗 - 主演末広勝治
  • 日本暗殺秘録 - 相沢三郎
  • 昭和残侠伝 人斬り唐獅子 - 主演花田秀次郎
  • 渡世人列伝 佃銀次郎
  • 新網走番外地 さいはての流れ者 - 主演末広勝治

1970年

  • 日本女侠伝 真赤な度胸花
  • 博徒一家 - 桜井良治
  • 捨て身のならず者 - 主演矢島
  • 日本ダービー 勝負
  • 遊侠列伝 - 主演川又辰五郎
  • 新網走番外地 大森林の決斗 - 主演末広勝治
  • 昭和残侠伝 死んで貰います - 主演花田秀次郎
  • 最後の特攻隊
  • 日本侠客伝 昇り龍 - 主演玉井金五郎
  • 新網走番外地 吹雪のはぐれ狼 - 主演末広勝治

1971年

1972年

1973年

1974年

1975年

1976年以降

合作・他社・日本国外作品

テレビドラマ

CM

ディスコグラフィー

著書・参考文献

地元九州・沖縄のNHKラジオ第1)でこの中から3作品の朗読が放送された。

CD

出典

注釈

  1. ^ 『新幹線大爆破』は日本国外で大ヒットした。詳細は『新幹線大爆破』を参照。
  2. ^ 詳細は『ゴルゴ13』の項を参照。
  3. ^ 中国では、大物俳優は現場でも威張り散らしているのがほとんどであるという。
  4. ^ この間、ビートたけしは「健さん。頼むから帰ってくれ」と思っていた。
  5. ^ 詳細は江利チエミ波乱万丈の人生の項を参照。

脚注

  1. ^ 高倉健プロフィール” (日本語). YAHOO! JAPAN 人物名鑑. 日本タレント名鑑 (2010年10月). 2010年10月1日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n JJサニー千葉『千葉流 サムライへの道』ぶんか社、2010年、154 - 171頁。ISBN 4821142694 
  3. ^ 長田暁二 『歌謡曲おもしろこぼれ話』 社会思想社2002年、204頁、ISBN 4-390-11649-5
  4. ^ “高倉健、大原麗子さんの墓参りに来ていた (1/2ページ)” (日本語). 産経ニュース (MSN). (2010年8月4日). http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/100804/tnr1008040755001-n1.htm 2010年10月26日閲覧。  [リンク切れ]
  5. ^ a b “高倉健、大原麗子さんの墓参りに来ていた (2/2ページ)” (日本語). 産経ニュース (MSN). (2010年8月4日). http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/100804/tnr1008040755001-n2.htm 2010年10月26日閲覧。  [リンク切れ]
  6. ^ a b c d e 千葉真一『千葉真一 改め 和千永倫道』山と渓谷社、2008年、82 - 85頁。ISBN 4635340228 
  7. ^ 『ビートたけしのオールナイトニッポン』 より。
  8. ^ 「プロダクション・ノート」『ブラック・レイン』(VHS) より。
  9. ^ 映画パンフレット 『単騎、千里を走る。』 より。
  10. ^ 『ビートたけしの幸か不幸か』(1986年)及び、『ビートたけしの幸せ丸十年』ニッポン放送出版、1990年、184頁。
  11. ^ 北大路欣也 「父の眼力」より [リンク切れ]
  12. ^ 高倉健 「兆治さんへの花」『あなたに褒められたくて』 集英社、1991年、174頁。
  13. ^ 沢木耕太郎 『深夜特急2』 193 - 194頁、新潮文庫ISBN 978-4-10-123506-6
  14. ^ 『ビートたけしの幸せ丸十年』 ニッポン放送出版、1990年、186頁。

関連項目

外部リンク