八甲田山 (映画)

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八甲田山死の彷徨 > 八甲田山 (映画)
八甲田山
監督 森谷司郎
脚本 橋本忍
製作 橋本忍
野村芳太郎
田中友幸
出演者 高倉健
北大路欣也
緒形拳
栗原小巻
森田健作
秋吉久美子
前田吟
大滝秀治
藤岡琢也
島田正吾
小林桂樹
丹波哲郎
加山雄三
三國連太郎
音楽 芥川也寸志
撮影 木村大作
編集 池田美千子
竹村重吾
製作会社 橋本プロダクション
東宝映画
シナノ企画
配給 東宝
公開 日本の旗 1977年6月4日
上映時間 169分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
興行収入 日本の旗 25億900万円(配給収入
(1977年邦画配給収入1位)[1]
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八甲田山』(はっこうださん)は、新田次郎小説八甲田山死の彷徨』を原作とする日本映画。橋本プロダクション・東宝映画シナノ企画の製作で1977年に公開された。テレビドラマ版についても合わせて記述する。

概要[編集]

1902年明治35年)に青森連隊が雪中行軍演習中に遭難し、210名中199名が死亡した事件(八甲田雪中行軍遭難事件)を題材に、一部創作を加えた作品である。

極限状態での組織と人間のあり方を問いかけ、短い上映期間にもかかわらず日本映画として配給収入の新記録(当時)をマークした。高倉健北大路欣也三國連太郎主演。北大路欣也の台詞「天は我々を見放した」は当時の流行語になった。監督は森谷司郎、音楽は芥川也寸志で翌1978年3月の第1回日本アカデミー賞音楽賞を受賞している。

キャスト[編集]

弘前第八師団[編集]

  • 友田少将(第四旅団長)(モデルは友安少将):島田正吾
  • 中林大佐(参謀長):大滝秀治

弘前歩兵第三十一連隊[編集]

  • 児島大佐(連隊長)(モデルは児玉大佐):丹波哲郎
  • 門間少佐(第1大隊長):藤岡琢也
雪中行軍隊

青森歩兵第五連隊[編集]

  • 津村中佐(連隊長)(モデルは津川中佐):小林桂樹
  • 木宮(きのみや)少佐(連隊本部):神山繁
  • 三上少尉(遭難救助隊):森田健作
  • 花田伍長(遭難救助隊):伊藤敏孝
雪中行軍隊
雪中行軍随行大隊本部

雪中行軍隊の家族・親族[編集]

案内人たち[編集]

その他[編集]

あらすじ[編集]

1901年(明治34年)10月、弘前第八師団の第四旅団本部で、旅団長の友田少将と参謀長の中林大佐が青森歩兵第五連隊と弘前歩兵第三十一連隊の連隊長以下を集めて会議を開いた。議題は八甲田の雪中行軍演習であった。日清戦争終了から6年を経て、ロシア満州への進出で日露関係が緊迫して、もはや大陸での日露開戦は不可避と見られていた。第八師団では対露戦の準備に入っていた。そこで課題として参謀長が挙げたのは寒地装備と寒地訓練の不足であった。相手は零下40度の雪原でも闘えるロシア軍であり、日本軍にはそのような経験が無いので、極寒対策や雪中行軍の注意点及び装備品の研究を行うために厳冬期の八甲田山を行軍して調査を実施するものであった。

弘前第八師団の友田少将(島田正吾)は、雪中行軍の実績がある青森歩兵第五連隊神田大尉(北大路欣也)と弘前歩兵第三十一連隊徳島大尉(高倉健)に「二人とも雪の八甲田を歩いてみたいとは思わないか」と提案した。これは実質命令であると双方の連隊長は受け取っていた。会議のあとに弘前歩兵第三十一連隊長児島大佐(丹波哲郎)と青森歩兵第五連隊長津村中佐(小林桂樹)はどうせなら八甲田ですれ違う行軍計画にしようと気軽に口約束する。そして出発前、弘前の徳島大尉の私邸で勉強会を終えた徳島と神田は、雪の八甲田での再会を誓い合った。

徳島大尉は第三十一連隊雪中行軍隊の行軍計画要項を連隊長に提出した。連隊長同士の約束を考慮し、10泊で総距離240kmの強行日程を組み、少数精鋭の27名の隊員(その中には兵卒よりも下士官を多くした)で雪中行軍する計画書であった。「このような計画になった責任は連隊長にあります」と説明して雪の八甲田で両隊が合流する約束をしたため、弘前からは南を迂回して十和田湖を東に進んで、東南の方向から八甲田山に入るコースしか選択肢はなかったのである。小隊規模にもならぬと連隊長から指摘されると、兵卒を少なく下士官を多く参加させて万が一の場合でも申し訳が立つと言い、「自分は安請け合いしたことを後悔しています。冬の八甲田は恐ろしい所です。」と連隊長に語るのであった。

一方神田大尉の第五連隊雪中行軍計画は、弘前とは対照的に青森からいきなり八甲田をめざす3日間の短期日程で、当初は小隊規模を予定していた。ところが、弘前第三十一連隊の小隊にも満たない規模での長い行程を聞いて大隊長の山田少佐(三國連太郎)は、弘前第三十一連隊と比較して、青森第五連隊の内容が貧弱に思えて、規模も行程も特色を出すために中隊規模に拡大した上に大隊本部付きでの大行軍にすることを唱え、実施することになった。

1902年(明治35年)1月20日午前5時、弘前第三十一連隊雪中行軍隊は連隊本部を出発した。青森第五連隊では雪中行軍計画要項が提出されて、連隊長が大隊本部の随行は雪中行軍とは別だなと念を押して決裁していた。連隊長は大隊長の同行に不安を感じていた。雪中行軍の本隊である中隊編成は196名、別途随行する大隊本部は14名、合計210名の規模となった。問題は物資を運ぶ輜重隊が遅れることが心配された。神田大尉は3日間の行程にはならず5~6日かかることを覚悟していた。

1月23日午前6時55分、青森第五連隊雪中行軍隊は連隊本部を出発した。この日の行程は田茂木野ー小峠ー大峠ー賽の河原ー馬立場ー鳴沢ー田代(泊)で20kmを予定していた。しかし、行程半ばで天候が悪化しまた雪山に慣れない人間の集団で行軍に影響が出始め、さらには単なる雪中行軍調査のための随行で指揮権の無いはずの大隊長の干渉によって指揮系統が混乱。神田大尉が想定していた田茂木野での案内人の雇用もなくなり、道案内がないまま行軍することになる。やがて吹雪が吹き荒れて、予断を許さない天候状況に行軍するかどうか判断することになった時、別の中隊長が大隊長に意見具申して大隊長が強行する判断を下した。この時点でもはや神田大尉の指揮権は無かった。輜重隊が遅れたためソリの放棄を大隊長に求めたが大隊長が反対して行軍隊の指揮は決定的に乱れてしまった。そして最初の宿営地である田代への道がどうしても発見できず、日が暮れて暗い雪原の中で寒さに震えながら立ち往生を余儀なくされた。田代までわずか2キロの距離であった。ここでまた混乱が起こる。突然大隊長が行軍を中止して帰営を決断する。そして帰営するため行軍を始めると進藤特務曹長が田代への道筋が分かったとして、方向転換して再び田代へ向かうが峡谷に迷い込んでしまった。特務曹長は錯乱して隊から離れていった。峡谷からは登って行かざるを得ず、氷に足を滑らして多数の犠牲者を出した。神田大尉は馬立場に戻ればと考えたが、もはや過酷な環境と疲労のために雪中行軍隊は四散し、バタバタと倒れていった。2日目の夜も野営を余儀なくされた。神田大尉は徳島大尉に思いを致していた。そして朝になって天候が回復さえすればと念じていた。しかし3日目の1月25日朝を迎えたが天候は回復しなかった。それを見て神田大尉は「天は我々を見放した」と叫んだ。 村山伍長(緒形拳)はこの時に隊から離れて一人で行動を始めた。

一方弘前第三十一連隊雪中行軍隊は一人負傷したが案内人を雇い入れて計画通りに行軍を進めていた。1月25日に三本木に到着したが、この日に第五連隊雪中行軍隊も三本木に到着の予定であったことを知って徳島大尉は不安を覚えるのであった。その三本木に電話を入れて来たのは青森第五連隊本部であった。雪中行軍隊の到着の報に一瞬安堵したが、それが弘前第三十一連隊だったと知って、第五連隊長は全連隊に集合をかけた。第五連隊から行方不明になったとの報を受けた弘前第三十一連隊本部は雪中行軍の中止を決断したが徳島大尉に連絡する術がなかった。

1月27日、賽の河原で神田大尉から先に田茂木野に向かい救援を依頼するように命じられていた江藤伍長を、第五連隊本部から来た遭難救助隊が大峠付近で発見し、第五連隊本部並びに師団本部に第五連隊雪中行軍隊遭難の報が入る。しかし第三十一連隊雪中行軍隊はすでに八甲田山に突入していた。第三十一連隊行軍隊は過酷ながらも順調に八甲田を進むが、道中、斉藤伍長の弟である長谷部一等卒(神田大尉の従卒)の遺体を発見する。これで第五連隊行軍隊の遭難を知るが、徳島大尉は不安を押し殺して行軍を続け一気に八甲田の踏破を目指した。猛烈な風雪にたじろぐが前進して行った。困難な行軍の途中、賽の河原にて徳島大尉は、多数の第五連隊行軍隊員の死体を発見する。その中に神田大尉を発見する。遭難の責任を取り、神田は舌を噛み切って雪中で自決していたのだった。冷たくなった神田大尉の顔に、生前の彼の笑顔が重なり、八甲田までの苦労をねぎらう言葉を徳島にかけてくるように見えた。既に逝った男の前で、徳島は幻の再会を果たした。

悲しみと衝撃を受ける徳島大尉だったが、無事に八甲田山を突破、雪中行軍を成功させる。1月29日午前2時に田茂木野に到着する前に、道案内人に労をねぎらい、手当を渡してから「八甲田で見たことは今後一切喋ってはならない」と忠告するのであった。その後に青森第五連隊の遺体収容所に行き、徳島は、収容された神田の遺体と対面する。第三十一連隊行軍隊が賽の河原に到達する前に、既に第五連隊本部が第五連隊行軍隊員の遺体を収容していたことを知って徳島大尉は動揺するのだった。神田の霊が雪中で徳島を待っていたのか、それともあの再会は過酷な寒さによる徳島の幻想であったのか。徳島は神田の妻はつ子(栗原小巻)から、神田大尉が徳島との再会を楽しみにしていたと聞き、「会いました。間違いなく自分は賽の河原で会いました」と言って泣き崩れるのであった。

弘前第三十一連隊雪中行軍隊は負傷者1名を三本木から汽車で弘前に帰した以外は全員八甲田を無事踏破し生還を果たした。一方青森第五連隊雪中行軍隊は大隊本部の倉田大尉(加山雄三)の引率の下、12名しか生還(内1名は生還後に死去)することができなかった。その中には人事不省のまま生還した山田大隊長もいたが、彼は遭難の責任をとり、病室で拳銃で心臓を撃ち抜き自決する。

やがて時が流れて平和な時代が訪れた。青森ねぶた祭の歓声に沸く頃、ロープウェーに乗って、八甲田の自然を窓から静かに眺める一人の老人がいた。足が不自由で杖をついて歩くこの老人は草木に覆われた穏やかな景色の中、八甲田山系の山々をただ見つめていた。青森歩兵第五連隊雪中行軍隊で生き抜いた村山伍長であった。

八甲田山の美しい景色を背景に、生還者のその後が字幕で語られる。第三十一連隊雪中行軍隊徳島大尉以下の面々と第五連隊で生還した倉田大尉は2年後の日露戦争黒溝台会戦において、零下20度の極寒の中で二昼夜飲まず食わずに奮闘し、奉天会戦を勝利に結びつけて全員戦死した。最後に次の言葉で結んでいた。「今に残るのは、本州最北端の地に 薄れかける記憶で語りつがれる 八甲田山雪中行軍の物語だけである」

エピソード[編集]

  • 映画化の企画は最初に東映岡田茂社長に持ち込まれたが「そんな蛇腹(明治時代軍服)の話(明治物)が受けるかい」と岡田が断った後、東宝で製作され大ヒットを記録した[2]
  • 脚本を書いた橋本忍は、当初群馬県の温泉地で撮れないものかと考えていた。しかし野村芳太郎森谷司郎と八甲田の山々を歩いて見て、ここで撮るしかないと考えを変えた。野村芳太郎から「映画には空気が映る」と言われていたからという[3]
  • 撮影の木村大作は思うような撮影の技術が発揮できず、不満が残った。映像は端正といえず、青森隊が露営する場面では白い雪を背景に兵士たちの顔が黒く潰れている。雪の山道では大きな照明道具を持参することが出来ず、小さな手持ちライトだけで顔に当たったり外れたりしていたという。また内容も兵隊が雪の中で死んでいくだけでは、ヒットするとは思えなかったという[4]
  • 実際に真冬の八甲田山ロケを敢行し、日本映画史上類を見ない過酷なロケとして有名になった。遭難現場は八甲田山北東斜面だが、ロケは八甲田山北西の寒水沢酸ヶ湯温泉付近や岩城山長平奥入瀬などでも行われた。実際に数名の俳優がその過酷さに耐えられず脱走した[要出典]、また裸で凍死する兵卒を演じた俳優の肌が紫色に映っているのはメイクではなく本当に凍傷になりかけたためという話も残っており[5]、主役級も含めて俳優たちの出演料も決して高額ではなかった[要出典]。この過酷な撮影は当時カメラマンだった木村大作にも大きな影響を与えたと言われている[6]。また、高倉健もこの撮影で足が軽度の凍傷になってしまったという[要出典]
  • ラストシーンで登場する青森歩兵第5連隊 村山伍長(モデルは村松伍長)は雪中行軍隊から離れて、単独で田代温泉まで辿り着き、救援隊に田代元湯で発見された。

史実との違い[編集]

  • 原作もそうだが、青森と弘前の両連隊の雪中行軍で八甲田で会う約束をしたことはない。またお互いに連絡しあったこともなく、たまたま偶然に3日違いで出発している。
  • 弘前の連隊と青森の連隊との競争意識の中で、編成などが後手に回った青森側が無理をしたことが原因の一つと設定されたが、史実では二つの連隊間で競争を行ったわけではない。
  • 三國連太郎演じる山田少佐(史実では山口少佐)が無謀な上司として描かれいる点は創作で、そのことからも登場人物はすべて仮名となっている。
  • 青森の連隊の硬直した組織が遭難原因のひとつとされている点も創作である。
  • 神田大尉と徳島大尉とが酒を酌み交わしながら八甲田での再会を約すシーンはフィクションであり、また弘前隊が青森隊の遺体を見る場面も実際には無かったとされている。しかし最近になって福島(徳島)大尉が遺体発見を捜索隊に報告した記録が発見されて、当時弘前隊に同行した東奥日報の「五連隊の惨死者を発見」という記事も発行直後に訂正された(訂正させられた)が、本当であったことが分かった[7]
  • 神田大尉と徳島大尉とも雪中行軍の経験があることになっているが、神成(神田)大尉は実際は経験がなく、また雪中行軍の指揮をとることになったのは行軍の直前であった。
  • 青森隊最高責任者であった山田大隊長は生還後ピストルで自殺したが、公的な記録では心臓マヒで死去している。両手とも凍傷で指が使える状態では無かった。また発見されて病院に入って、次の日に亡くなっていることから、クロロフォルムを使った薬殺説もある[8]
  • 原作では、徳島大尉と衝突した案内人達の悲壮な末路が描写されているが、映画では案内人との揉め事はあまり重点を置いて描かれず、逆にさわ女(秋吉久美子)に対して敬礼する場面が描かれるなどされていた。しかし実際は福島(徳島)大尉は案内人に対してかなり厳しい態度で接したと見られ、八甲田で見たことは喋ってはならないと脅された上に、田茂木野で休息なしで引っ返して、凍傷に苦しめられ、生還後の補償も無いままであった。軍はあくまで軍内部で処理して、外部には一切洩らさなかった。

サウンドトラック[編集]

  • 収録曲:
    1. 『第一部 白い地獄』
    2. 『第二部 大いなる旅』

LPではA面に「第一部 白い地獄」、B面に「第二部 大いなる旅」がそれぞれ収録されていた。2009年にディスクユニオンのレーベル富士キネマよりCDで再発された(規格品番FJCM-006)。

シングル[編集]

  • 収録曲:
    1. 『春には花の下で』
    2. 『大いなる旅』

両曲共にサウンドトラックのテーマ曲に歌詞をつけたものである。上述のCDにボーナス・トラックとして収録された。

テレビドラマ版[編集]

八甲田山
ジャンル テレビドラマ
放送時間 火曜21:00 - 21:55(55分)
放送期間 1978年4月4日 - 1978年5月9日(6回)
放送国 日本の旗 日本
制作局 TBS
演出 森川時久
原作 新田次郎「八甲田山死の彷徨」
脚本 長尾広生
出演者 中山仁
村野武範
ナレーター 山本學
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1978年4月4日から5月9日まで毎週火曜日21:00 - 21:54 (JST) にTBS系列火曜21時枠で放送された。全6回。

映画の大ヒットを受けてテレビドラマ化したもので、大竹まことなど映画版に出演した俳優が数人出演している。

放映リスト[編集]

  • 第一話:「眼前の危機」
  • 第二話:「飛雪・裏八甲田」
  • 第三話:「混乱雪譜」
  • 第四話:「死の彷徨」
  • 第五話:「白炎燃ゆ」
  • 第六話(最終話):「終わりなき雪」

スタッフ[編集]

キャスト[編集]

司令本部
青森第5連隊
弘前第31連隊
その他の軍人
案内人
家族・周辺の人びと

その他、加々美よう子西川洋子矢吹寿子谷中洋子川島栄吉飯田和平菅原司白取雲道臼井裕二長谷川明男

※は映画版にも出演。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『キネマ旬報ベスト・テン全史: 1946-2002』 キネマ旬報社、2003年、223頁。ISBN 4-87376-595-1
  2. ^ 高岩淡『銀幕おもいで話』双葉社、2013年、145頁
  3. ^ 零下40度の体感を撮れ 「八甲田山」朝日新聞2014年11月18日(外部リンク)
  4. ^ 零下40度の体感を撮れ 「八甲田山」朝日新聞2014年11月18日(外部リンク)
  5. ^ 兵卒役を演じた原田君事のホームページには、体験記として「東宝映画「八甲田山」の撮影のとき、体感温度零下30度、雪の中でフンドシ一丁になって、狂い死にのシ-ンを演じたとき、肌は一瞬にしてこげ茶色になり、歯はかみ合わずぶるぶると震えていたが、監督の「よ-い!」の一言で震えはピタっと止まった事を覚えている。」との記述がある。
  6. ^ 零下40度の体感を撮れ 「八甲田山」朝日新聞2014年11月18日(外部リンク)
  7. ^ 零下40度の体感を撮れ 「八甲田山」朝日新聞2014年11月18日(外部リンク)
  8. ^ 零下40度の体感を撮れ 「八甲田山」朝日新聞2014年11月18日(外部リンク)

外部リンク[編集]