ズバリ!当てましょう

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ナショナル プライスクイズ
ズバリ!当てましょう
ジャンル クイズ番組
司会者 泉大助
鈴木ヒロミツ
辺見マリ
出門英
石坂浩二
酒井ゆきえ
ほか
オープニング 「ズバリ!当てましょうのテーマ」
キューティー・Q
製作
プロデューサー 高田明侑
制作 フジテレビ
放送
音声形式1979年3月10日放送分まではモノラル、同年3月17日以降はステレオ[1]
放送国・地域日本の旗 日本
第1期
放送期間1961年8月5日 - 1972年2月12日
放送時間土曜 21:00 - 21:30
(初期は21:15 - 21:45)
回数550
第2期
放送期間1975年10月4日 - 1982年3月27日
放送時間土曜 19:00 - 19:30
回数315

特記事項:
全放送回数:865回。1967年2月11日及び2月25日以降はカラー放送。
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ズバリ!当てましょう』(ズバリあてましょう)は、1961年8月5日から1972年2月12日(第1期)、および1975年10月4日から1982年3月27日まで(第2期)の2期にわたってフジテレビ系列局ほかで放送されていた視聴者参加型クイズ番組である。松下電器産業(現社名:パナソニック)の一社提供。

正式名称は『ナショナルプライスクイズ ズバリ!当てましょう』(後に『プロ・アマ対抗 ズバリ!当てましょう』→『Nationalファミリークイズ ズバリ!当てましょう』に変更)。通算放送回数は865回。

概要[編集]

テーマに沿って登場したものの値段をノーヒントを当てるクイズで、所謂「値段当てクイズ番組」の元祖である。

ズバリ一発で当てると「ズバリ賞」として当時で100万円相当のナショナルの電化製品一式が賞品としても提供された。放送開始当時はいわゆる家電ブームの真っ直中であり、当時の給与水準、物価から考えると破格の商品、いわゆる「高嶺の花」であり、主婦を中心に出場希望者が殺到したという。また、正解でなくても、「内輪[注 1]で一番近い方は?!」とみなされた解答者には問題となった品物がプレゼントされた[注 2]。そして、最終的にトップ賞になると、ナショナルの電化製品一品(ズバリ賞で出される賞品の中から好きなものを一品選べる)がプレゼントされた。

また第1期末期(1970年前後)にはトップ賞の出場者は翌週も出場し、3週連続トップになるとナショナル製品一品の他に「世界一周旅行」が贈られたが、1971年10月公正取引委員会の規則改正で「賞金・賞品の上限は100万円まで」となったため、同年9月限りでこのルールは廃止された。

オープニングで「明るいナショナル」(作詞・作曲:三木鶏郎)をバックに気球に乗ったナショナル坊やが松下電器本社工場の上空を飛び回る15秒のオープニングキャッチが流れた後、引き続いて解答者席横のドアをバックにタイトルロゴと放送回数のテロップが映し出されながらテーマ曲が流れた。また、1970年頃からはカラフルな色で円を描くアニメ映像をバックにタイトルロゴと放送回数のテロップが映し出されながらテーマ曲が流れるバージョンのオープニングに変更され、1972年の第1期最終回まで使用された。 第2期では、19時の時報とともにナショナルの15秒CMを2本流した後、四角い箱からカラフルな丸い玉が出てきて、「?」マークを形作るオープニングアニメが流れた。その為「ナショナル劇場」や「ナショナルゴールデン劇場」でお馴染みのナショナルのオープニングキャッチは使用していない。なお、「ナショナル プライスクイズ」のタイトルロゴはナショ文字を使用していた。

スポンサーの松下電器がテレビ受像器を製造・販売している事から、いち早く番組のカラー化・ステレオ放送化が行われた。まず1967年2月11日に初めてカラーで放送(その回のタイトルは「カラーで当てましょう」)。フジテレビの自社制作番組では初めて、カラーカメラ・VTRを使用した番組である。翌々週の2月25日からは毎週カラー放送となり[2]、フジテレビの音声多重放送開始から半年後の1979年3月17日[1]からステレオ放送も行われた。

ステレオ放送開始・2チーム対抗戦[編集]

1979年3月17日から[1]ステレオ放送開始。シンキングタイム、ファンファーレなどのBGMはダン池田とニューブリードによる生演奏となった[注 3]。しかしこの際に「バリバリズバリと当てましょう」と言う部分のコーラスが消滅した。この頃は番組のセットが2段になっており下段は解答者席が左右2つに分かれ、中央に登場口がある。一方、上段はダン池田とニューブリードがいるバンドステージとなっていた。

1979年12月には初代司会者の泉大助が降板。翌1980年は司会者がその前までチームキャプテンだった出門英に変更して以降、司会者の変更などリニューアルを繰り返した。

ステレオ放送時代から内容も大幅に変更し、2チームの対抗戦となった。そのチーム編成は、前期は芸能人2チーム対抗戦(当初のキャプテンは鈴木ヒロミツ辺見マリのコンビ。進行役的なポジションでもあった)だったが、「プロ・アマ対抗 ズバリ!当てましょう」となってからの後期は、ハナ肇率いる芸能人チーム「プロ・チーム」と、一般視聴者チーム「アマ・チーム」との対抗戦となった。そしてクイズ内容は次の3種類となる(後に一部変更)。

プライスクイズ
それまで行ってきた金額当てと全く同じ。内輪で一番近い金額を出したチームが10点獲得。双方とも外輪の時は点数無し。「ズバリ賞」も有り。
音楽クイズ
バンドの生演奏を聴いて、曲名を当てるクイズ。早押しで正解したチームは、10点獲得。クイズの構成は、低音楽器から順々に音を重ねていく方式だった。
ショッピングクイズ(1979年12月まで)
10万円相当の買い物をするコーナー。出場者は制限時間1分間の間に、ベルトコンベアーから出てくる商品を自軍までもっていく(よみうりテレビ買ッテ来ルゾト勇マシク』と同形式)。総額が10万円に近い方の勝ち、10点獲得。双方とも10万円を超えたら点数無し。なお、選んだ商品は総額が10万円以内なら全品貰える(負けたチームも)。また、総額が丁度10万円なら「ズバリ賞」の賞品も一緒に貰える。
ノーヒントプライスクイズ(1980年1月以降)
「ショッピングクイズ」に変わって登場。ルールは「プライスクイズ」と同じだが、ヒントは無し。

こうして最高得点を稼いだチームが優勝、松下製品の中から一品貰える。

シリーズの終焉[編集]

1980年10月、司会を石坂浩二に交代して以降、賞品である電化製品がひとしきり一般家庭に普及したという時代背景もあった事、更にはマンネリ化も相成り、1982年3月27日をもって番組は終了し、1961年8月から始まった当番組は中断期間を含めて、20年8か月の歴史に幕を降ろした。

テーマ曲[編集]

「ズバリ!当てましょうのテーマ」 作詞:山上路夫、作曲:いずみたく[3]、歌:ザ・バイオレッツ、小林あけみ(第1期・前期)、キューティー・Q(第1期・中期、末期)、ザ・シャデラックスキューティー・Q(第1期、後期)

第2期の末期の音楽は服部克久が担当していた。

タイトルロゴ[編集]

1961年8月5日 - 1972年2月12日 、1975年10月4日 - 1980年12月

  • 「ズバリ!」「当てましょう 」と2段に別れており、上に「ズバリ!」、その下に「当てましょう 」と書かれたもの。
  • 書体が明朝体

1981年1月 - 1982年3月27日 : 丸囲みの中に「ズバリ!当てましょう」が入っていた。

  • 書体が特殊体

出演者[編集]

司会[編集]

  • 泉大助(1961.8 - 1972.2、1975.10 - 1979.12)
  • 鈴木ヒロミツ(1979.3.17[1] - 9、チームキャプテン・進行役)
  • 辺見マリ(1979.3.17[1] - 1980.9、1979.12まではチームキャプテン・進行役)
  • 出門英(1979.10 - 1980.9、1979.12まではチームキャプテン・進行役)
  • 石坂浩二(1980.10 - 1982.3、ちなみに同番組が一旦終了した後に放送されたクイズ番組『クイズの王様』(1972.2 - 1974.3)も石坂が司会を担当した。また、第2期開始前に放送された『動物家族』のナレーションも担当していた)
  • あかはゆき(1975.10 - 1979.3)
  • 酒井ゆきえ(1979.3.17[1] - 1979.12・1980.10 - 1982.3、辺見・出門時代は出題・進行補佐係として出演)

アシスタント・ホステス[編集]

1951年生。東京都出身。本番組のアシスタント以降はCMタレントを経て、1973年の映画『股旅』や、1974年のテレビドラマ『君待てども』に出演した[5]
  • 矢代久美子(1970年7月から[4]
1950年4月生。神奈川県横浜市出身。高校卒業後、知人の紹介で生命保険のCMに出演。その後、多数のCMに出演。1970年のテレビドラマ『女が階段を上る時』で、主演である小川真由美の妹を演じた[6]

レギュラー回答者[編集]

放送局[編集]

放送開始当初はフジテレビ系列局を中心に、系列が無かった地方ではその地方で最初に開局した局(親局がVHF波で放送されている局が殆ど)で放送された。後に、地方でフジテレビ系列局が続々と開局していったが、新規に開局した局がUHF局であり、当時はUHF受信対応テレビがほとんど普及しておらず、多くの視聴者に番組を見てもらいたい(=物理的な視聴者の減少を懸念した)スポンサーの松下電器の強い意向もあり、ネットの移行はスムーズには行われず、系列局がある地域でも最後まで放送された地域もあった。フジテレビ系列以外のネット局の多くが、日曜日の12:15 - 12:45の枠で放送していた。

系列は現在の系列。○は現在他系列局だが、放送当時フジテレビ系列局や他系列とのクロスネットだった局。

放送対象地域 放送局 系列 備考
関東広域圏 フジテレビ フジテレビ系列 制作局
北海道 札幌テレビ 日本テレビ系列 ○第1期のみ、1963年3月17日から1972年2月13日まで日曜 12:15 - 12:45に放送[7]
北海道文化放送 フジテレビ系列 第2期のみ
青森県 青森放送 日本テレビ系列 一時期青森テレビへ移行
第1期終了時は 日曜 12:15 - 12:45に放送[8]
青森テレビ TBS系列 青森放送へ再移行
岩手県 岩手放送 現・IBC岩手放送
第1期終了時は 日曜 12:15 - 12:45に放送[8]
宮城県 仙台放送 フジテレビ系列 第1期終了時は同時ネット[9]
1980年3月22日より、ステレオ放送。
秋田県 秋田放送 日本テレビ系列 第1期の途中まで
秋田テレビ開局後も1971年3月28日まで放送。[10]
秋田テレビ フジテレビ系列 第1期の途中の1971年4月3日から[11]
第1期終了時は同時ネット[9]
1980年7月5日より、ステレオ放送。
山形県 山形放送 日本テレビ系列
山形テレビ テレビ朝日系列 ○第1期終了時は同時ネット[9]
福島県 福島テレビ フジテレビ系列 1963年4月開局から
福島中央テレビ[注 4]開局後も移行せず放送継続[12]
第1期および1975年10月から1977年3月までは 日曜 12:15 - 12:45に放送。
1977年4月より同時ネット[13]
1981年10月3日より、ステレオ放送。
山梨県 山梨放送 日本テレビ系列
新潟県 新潟放送 TBS系列 新潟総合テレビ開局後もスポンサーの意向により放送継続
東京での1980年11月22日放送分(新潟では当時7日遅れの同月29日放送)より、ステレオ放送。[注 5][14]
長野県 信越放送 長野放送開局後もスポンサーの意向によりしばらく放送したのち、長野放送へ移行。
長野放送 フジテレビ系列 開局当初は『黒い髪の智子』に差し替えていたため未放送[15]
1980年6月21日より、ステレオ放送。[注 6][16]
静岡県 静岡放送 TBS系列 第1期まで
テレビ静岡開局後もスポンサーの意向により放送継続
テレビ静岡 フジテレビ系列 第2期から
富山県 北日本放送 日本テレビ系列 第1期の途中まで
富山テレビ開局後も1970年2月22日まで放送[17]
富山テレビ フジテレビ系列 第1期の途中の1970年2月28日から[18]
石川県 北陸放送 TBS系列 第1期の途中まで
石川テレビ開局後も1970年3月29日まで放送[19]
石川テレビ フジテレビ系列 第1期の途中の1970年4月4日から[20]
1980年9月27日より、ステレオ放送。[注 7]
福井県 福井放送 日本テレビ系列
テレビ朝日系列
第1期の途中まで
福井テレビ開局後も1970年12月27日まで放送[21]
福井テレビ フジテレビ系列 第1期の途中から
中京広域圏 東海テレビ 1979年8月4日より、ステレオ放送。[注 8][22]
近畿広域圏 関西テレビ 1979年3月17日から、制作局のフジテレビと同時にステレオ放送となる。[23]
鳥取県 日本海テレビ 日本テレビ系列 当時の放送エリアは鳥取県のみ、1972年9月まで
電波相互乗り入れに伴い山陰中央テレビに一本化
島根県 山陰放送 TBS系列 当時の放送エリアは島根県のみ
山陰中央テレビ開局後も1970年12月まで放送
島根県

島根県・鳥取県
山陰中央テレビ フジテレビ系列 1971年1月から、1972年9月までの放送エリアは島根県のみ
電波相互乗り入れに伴い鳥取県にもエリア拡大
岡山県 山陽放送 TBS系列 現・RSK山陽放送
当時の放送エリアは岡山県のみ
岡山県

岡山県・香川県
岡山放送 フジテレビ系列 1979年3月までの放送エリアは岡山県のみ
1979年4月から電波相互乗り入れに伴い香川県にもエリア拡大
1980年12月27日より、ステレオ放送。[注 9]
広島県 広島テレビ 日本テレビ系列 ○第1期のみ
テレビ新広島 フジテレビ系列 第2期のみ
山口県 山口放送 日本テレビ系列 1979年12月の音声多重放送開始に伴い、同月放送分よりステレオ放送化。
徳島県 四国放送
香川県 西日本放送 当時の放送エリアは香川県のみ
1979年4月から電波相互乗り入れに伴い岡山放送へ一本化
愛媛県 南海放送 第1期の途中まで
テレビ愛媛開局後もスポンサーの意向により1971年3月28日まで放送。日曜 12:15 - 12:45に放送[24]
愛媛放送 フジテレビ系列 現・テレビ愛媛
第1期の途中の1971年4月3日より。
高知県 高知放送 日本テレビ系列
福岡県 九州朝日放送 テレビ朝日系列 ○1964年9月まで
テレビ西日本 フジテレビ系列 1964年10月から
テレビ西日本のネットチェンジに伴う移行
1980年12月20日より、ステレオ放送。
佐賀県 サガテレビ
長崎県 長崎放送 TBS系列 テレビ長崎開局後もスポンサーの意向によりしばらく放送[25]
テレビ長崎 フジテレビ系列 第2期では1977年4月から同時ネット。
1981年3月21日より、ステレオ放送。[注 10]
熊本県 熊本放送 TBS系列 第1期の途中まで
テレビ熊本開局後もスポンサーの意向によりしばらく放送[25]
テレビ熊本 フジテレビ系列 第1期の途中から
大分県 大分放送 TBS系列 テレビ大分開局後もスポンサーの意向により放送継続
宮崎県 宮崎放送 第1期の途中まで
テレビ宮崎開局後もスポンサーの意向によりしばらく放送[24]
テレビ宮崎 フジテレビ系列
日本テレビ系列
テレビ朝日系列
第1期の途中から
鹿児島県 南日本放送 TBS系列 第2期初期時点で毎週木曜19:00-19:30
鹿児島テレビ フジテレビ系列
沖縄県 沖縄テレビ

備考[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 解答金額が正解を上回らない、の意味。
  2. ^ ただしその品物が余りにも高額だった時は、関連する品物かヒントとなった品物が代わりに贈られた。
  3. ^ これ以前の第1期末期にも、有馬徹とノーチェクバーナによる生演奏を使用していた。
  4. ^ 現在は日本テレビ系列だが、当初はフジテレビ・NET(現在のテレビ朝日)系列として開局。
  5. ^ 新潟でのこの日の放送日は、新潟放送が同県初の、音声多重放送の実用化試験放送を開始した日だった。
  6. ^ この日は、当時の長野の民放テレビ2局に於いて、音声多重放送の実用化試験放送のサービス放送を開始した日だった。
  7. ^ この日は、当時の石川の民放テレビ2局に於いて、音声多重放送の実用化試験放送を開始した日だった。
  8. ^ この日は、ナゴヤ球場のプロ野球「中日対巨人」戦をステレオで放送する予定だったが、雨で中止になり、この日が初のステレオ放送となった。ちなみに同局は同年8月1日より、音声多重放送を開始している。
  9. ^ この日は、同局が、音声多重放送の実用化試験放送を開始した日だった。
  10. ^ この日は、当時の長崎の民放テレビ2局に於いて、音声多重放送の実用化試験放送を開始した日だった。
  11. ^ この回は、金田正一(当時:読売ジャイアンツ投手)・金田留広(正一の実弟。当時:東映フライヤーズ投手)チームが、1番組の中で2回も「ズバリ賞」を達成した。
  12. ^ この回は、A組が「最多出場」の加山雄三小川知子、B組が「最多ズバリ」の金田正一(先述の2度ズバリを含む)と黒鉄ヒロシ、C組が「最多トップ」の勝呂誉荻島真一、D組が「最低得点」の関口宏荒井注。結果はA組が7点、B組が2点、C組が5点、D組が10点で、最低得点のD組が優勝するという波乱。
  13. ^ 但し状況説明・出演者紹介のテロップはない。これは、本放送時にテロップを生で挿入していた名残であり、当時のテレビ番組ではしばし見られたものである。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f 『読売新聞 縮刷版』読売新聞社、1979年3月17日。 ラジオ・テレビ欄及び同面掲載の番組広告
  2. ^ 参考文献:フジ・メディア・ホールディングス決算報告書、当時の朝日新聞縮刷版
  3. ^ ナショナルプライスクイズ「ズバリ!当てましょう」テーマソング - 株式会社オールスタッフ(Youtube)
  4. ^ a b c d 『河北新報』1970年6月28日付朝刊、9面。
  5. ^ 『福島民報』1974年9月13日付朝刊、9面。
  6. ^ 『福島民報』1971年2月22日付朝刊、9面。
  7. ^ 北海道新聞』(マイクロフィルム版) 1963年(昭和38年)3月 - 1967年(昭和42年)3月、テレビ欄と『北海道新聞』(縮刷版) 1967年(昭和42年)4月 - 1972年(昭和47年)2月、テレビ欄から。
  8. ^ a b 河北新報』1971年8月1日 - 1972年2月13日付朝刊、テレビ欄。
  9. ^ a b c 『河北新報』1971年8月7日 - 1972年2月12日付朝刊、テレビ欄。
  10. ^ 秋田魁新報』1971年3月28日付朝刊、テレビ欄。
  11. ^ 『秋田魁新報』1971年4月3日付朝刊、テレビ欄。
  12. ^ 『福島テレビ30年史』福島テレビ、1993年、41頁。 
  13. ^ 福島民報』1963年4月7日 - 1972年2月13日、1975年10月5日 - 1982年3月27日付朝刊、テレビ欄。
  14. ^ 新潟日報 1980年11月29日朝刊 P.24 テレビ欄 及び P.5 BSN新潟放送広告「BSNテレビで、きょう開始 音声多重放送」(新潟日報マイクロフィルム版にて閲覧)
  15. ^ 『長野放送二十年の歩み』(1989年5月25日、長野放送発行)174pより。
  16. ^ 信濃毎日新聞 1980年6月30日 夕刊 P.8 テレビ欄 「SBC・NBSの音声多重放送 あすから本格開始 記念番組を編成しPR」(信濃毎日新聞データベースにて閲覧)
  17. ^ 北國新聞』1970年2月22日付朝刊テレビ欄より。
  18. ^ 『北國新聞』1970年2月28日付朝刊テレビ欄より。
  19. ^ 『北國新聞』1970年3月29日付朝刊テレビ欄より。
  20. ^ 『北國新聞』1970年4月4日付朝刊テレビ欄より。
  21. ^ 『北國新聞』1970年12月27日付、1971年1月3日付各朝刊テレビ欄より。
  22. ^ 朝日新聞名古屋版 1979年8月4日 朝刊 P.22 テレビ欄(朝日新聞クロスサーチにて閲覧)
  23. ^ 朝日新聞大阪版 1979年3月17日 朝刊 P.24 テレビ欄(朝日新聞クロスサーチにて閲覧)
  24. ^ a b 愛媛新聞』1970年10月4日付朝刊テレビ欄より。
  25. ^ a b 西日本新聞』1969年4月6日付朝刊テレビ欄より。
  26. ^ 読売新聞 縮刷版』読売新聞社、1987年3月20日。 テレビ欄
フジテレビ系列 土曜21:15 - 21:45枠
前番組 番組名 次番組
ズバリ!当てましょう
(1961年8月 - 1962年9月)
ズバリ!当てましょう
※21:00 - 21:30
スター千一夜
21:30 - 21:45
フジテレビ系列 土曜21時台前半枠
スター千一夜
※21:00 - 21:15
(30分繰り下げて継続)
ズバリ!当てましょう
※21:15 - 21:45
ズバリ!当てましょう
(1962年10月 - 1972年2月)
フジテレビ系列 土曜19時台前半枠
ズバリ!当てましょう

プロ・アマ対抗
ズバリ!当てましょう

ズバリ!当てましょう
(1975年10月 - 1982年3月)
知ッテレビジョン
(土曜19:30枠から移動)
フジテレビ系列 松下電器一社提供枠
前番組 番組名 次番組
(無し)
ズバリ!当てましょう
(第1期)
クイズの王様
フジテレビ系列 松下電器一社提供枠
動物家族
(プロ・アマ対抗)
ズバリ!当てましょう
(第2期)