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ダウンタウン (お笑いコンビ)

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ダウンタウン
DOWN TOWN
メンバー 浜田雅功
松本人志
結成年 1982年
事務所 よしもとクリエイティブ・エージェンシー東京本社
活動時期 1982年4月4日 -
出身 NSC大阪1期生
出会い 尼崎市立潮小学校
旧コンビ名 松本・浜田
まさし・ひとし
青空てるお・はるお
ライト兄弟
現在の活動状況 テレビ(全国区)中心
芸種 漫才コント 
ネタ作成者 松本人志
現在の代表番組 ガキの使いやあらへんで!!
HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP
ダウンタウンDX
リンカーン
爆笑 大日本アカン警察
過去の代表番組 ダウンタウンのごっつええ感じ
夢で逢えたら
4時ですよーだ
同期 トミーズ
ハイヒール
前田政二
内場勝則
浜根隆など
公式サイト 公式HPトップ
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ダウンタウンDOWN TOWN)は、浜田雅功松本人志から成る日本お笑いコンビよしもとクリエイティブ・エージェンシー吉本興業)所属。

本業のかたわら、CM、ドラマ、映画、文筆、音楽等でも活動する。

メンバー

  • 浜田 雅功(はまだ まさとし)1963年(昭和38年)5月11日身長165cm
    • 立ち位置は向かって右でツッコミ担当。
    • 戸籍上表記である「濵」は「浜」の旧字体の異字体。
  • 松本 人志(まつもと ひとし)1963年(昭和38年)9月8日身長172cm
    • 立ち位置は向かって左でボケとネタ作り担当。

※出身地は二人とも兵庫県尼崎市

経歴

1982年4月、浜田が競艇選手養成学校の試験に落ち、友人であった松本を誘って吉本興業の新人タレント養成学校吉本総合芸能学院のNSC1期生として入学。(松本は就職先が決まっていたが、そこを辞退してNSCに入学した。)。同期生では、トミーズハイヒール内場勝則浜根隆前田政二などがいる。同年7月に第3回今宮子供えびすマンザイ新人コンクールに「松本・浜田」で出場し福笑い大賞を受賞し、8月1日~5日のなんば花月に特別出演して初舞台を踏み、翌月の8月にはフジテレビ笑ってる場合ですよ!のワンコーナー「お笑い君こそスターだ!」に「ひとし・まさし」で出場し、5周勝ち抜きグランドチャンピオンに輝き無名ながら注目されるようになる。


1983年4月、同期生のハイヒール・銀次・政二(後に解散)と共に阪急ファイブオレンジルームで「ごんたくれ」という定期的ライブを開催する。5月にコンビ名を「ダウンタウン」に改名しNSC卒業後の6月には、なんば花月上席の「フレッシュコーナー」に出演して劇場デビューを果たす。この時期にはNSCの同期生達はテレビラジオで活躍し、漫才の新人コンクールでも賞を受賞していたが、世間からまだ知られていなかった彼らは劇場回りなどの厳しい下積み時代を過ごしていた。


1985年5月、デビュー当時から影響を受けていた紳助・竜介が解散を発表し、その解散記者会見で島田紳助は、「阪神・巨人やサブロー・シロー・ダウンタウンには勝てない」と語り、周囲からの注目が多くなり、同年10月に関西テレビ深夜番組今夜はねむれナイト」のミニコーナーとして「ダウンタウン劇場」がスタートし、ラジオ大阪でも「おっと!モモンガPart2 おもしろREVOLUTION」という初めてのラジオ番組を獲得し若者や関係者からも徐々に人気を博していった。


1986年5月、若手芸人のホームグラウンドとして「心斎橋筋2丁目劇場」がオープンし、関西の若者からの支持が多くなり、翌年1987年4月には毎日放送の夕方帯番組「4時ですよーだ」でブレイクし、関西では人気絶頂となり「夕方の大阪の街は『4時ですよーだ』を観るため人が居なくなる」と言われ、アイドル的な存在となり人気を得るようになる。


1988年5月、関西では人気絶頂の中で東京のラフォーレ原宿で「おでかけでっせ、ラフォーレまっせ」というライブを開催すると、500人以上が詰めかけ大成功に終わり、10月にはウッチャンナンチャンらと共に「夢で逢えたら」が深夜でスタートし(のちに全国ネットとなる)、東京での仕事が増えていく。翌年の1989年4月には、「森田一義アワー 笑っていいとも!」のレギュラーになり、同年10月に東京進出を成し遂げ、「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」も開始し東京での知名度も大きくなる。


1991年12月、フジテレビで特番で放送されていた「ダウンタウンのごっつええ感じ」がレギュラー化され、1993年10月には「ダウンタウンDX」(日本テレビ)・1994年10月に「HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP」(フジテレビ)がスタートし、現在も続く長寿番組を生み出すようになる。


1997年11月、人気番組であった「ダウンタウンのごっつええ感じ」が急遽打ち切りとなり、その後はピンでの単独番組が増えてしまいコンビでコントを演じる機会が減ってしまったが、松本は独自で精力的にコントを制作し「一人ごっつ」・「モーニングビッグ対談」・「HITOSI MATUMOTO VISUALBUM」などを作り出している。

2011年現在でもコンビで、バラエティ番組ドラマCMなどの色々な分野で活躍している。

主な代表ネタ

ネタの台本の大部分は松本が作成していたが、初期は浜田と共同で行うこともあった。

  • カモシカの足
    • デビューして初めて作った漫才ネタ。初めて出場した漫才コンクールで優勝し当時審査員だった関西の重鎮香川登志緒に絶賛されたネタでもある。
  • 誘拐
  • クイズ
    • 松本がクイズ司会者、浜田が回答者という設定の漫才。「花子さんがみかんを買いました。さて、どうでしょう」など、シュール・不条理な松本の出題(ボケ)に、浜田が激怒しながら突っ込んでいくというネタ。出題内容や進行が異なる数パターンが存在する。
  • 医者
    • 「ガキ使」のフリートークにてボケとツッコミを入れ替えた即興漫才が披露された。
  • ヤンキー
    • 浜田がうんこ座りしながら舞台上を走りまわるネタ。
  • 「あ」研究家
    • 他にも「み」研究家や「フィリピン」研究家がある。
  • 童謡シリーズ
    • ジャックと豆の木」…基本的なジャックと豆の木の話をし、横で浜田はジャックの行動を身振り手振りし、松本が「ジャックは庭に豆を埋めると、朝には大きな豆の木がなっていて、気になりジャックは登ってみました」と浜田が木に登る真似をし、体を上下に動かしていると「ジャックは段々と気持ち良くなりました…」というオチで終わる。
    • 赤頭巾ちゃん」…松本が「狼が先回りしてお婆さんを食べてしまって、お婆さんに成りすました狼に…」、赤頭巾ちゃんが狼に「どうしてお婆さんの耳は大きいの?」、「どうしてお婆さんの鼻は大きいの?」と聞き、狼が「人の嫌がる事言うな!」と淡々と語る。
  • 野球部
    • ガキ使フリートークにてボケとツッコミを入れ替えた即興漫才が披露された。
  • ローリングサンダーマン
    • 少年(浜田)がのりの佃煮の蓋が開けられなくて困っていると、雷と共にアリスの「冬の稲妻」の曲が鳴りローリングサンダーマン(松本)が現れ蓋を開けて帰っていく。その後も別のことで困る度に助けられるので少年には正義のヒーローであったが気ついたときには少年の家に住み着いていたばかりか肝心なときに助けてくれなくなり少年に呆れられるというネタ。
  • 森の妖精
    • 新人時代のシュールなコント。内容はハイキングに来た浜田が妖精の松本に遭い、浜田が「こんにちは!妖精さん」と通り過ぎようとしたらなぜかその妖精にキレられて説教されるコント。その後「ごっつええ感じ」の初期にリバイバルされた。
  • 二人羽織
    • 有名なのでは「ごっつええ感じ」で一度披露されたがその時は「探偵物語」だったが、その昔「今夜はねむれナイト」で披露された時は「傷だらけの天使」のパロディコントで松本が浜田にやられるパターンだった。
  • グルメ
    • グルメ番組風の設定で浜田がレポーター、松本が自ら生産した豚の角煮を提供する農家の役回り。食べようとする度に料理された豚の「花子」がいかに愛らしく手塩にかけて育てたかを語り始める松本に動揺する浜田、挙句泣き叫ぶ子供まで松本が演じ、まるで番組が進行しない、というコント。

漫才師としての評価と影響

漫才ブーム隆盛当時、一般の芸風としてボケとツッコミを早口で捲し立てる「掛け合い喋繰り」が幅を利かせていたが、その中において松本と浜田の妙に間の開くシュールな漫才スタイルは異質な存在であった。この喋りのテンポが遅い点を指摘した島田紳助は芸風の方向性を松本に問いただすと、問われた松本は模索中ながらもある程度の確信がある旨を明かす。後に紳助は、ダウンタウンの漫才(の方向性が正しかった事)に衝撃を受け、同時にそれまで培った漫才がすでに通用しなくなっている現状を自覚する事になる。これが漫才を引退するきっかけとなり[1]紳助・竜介を解散した紳助は、記者会見の席上で解散の理由について、「うめだ花月で巨人・阪神とか、サブロー・シローとか、ダウンタウンを見てると(自分達は)明らかに負けている。それが悔しくて辛い」と述懐した。

かつて関西ローカルで放送されていた番組等で番組観覧者に若年の女性層が多かった事から、芸風が若年層に向けた漫才のスタイルのイメージが幅広く定着する事になるが、舞台上では子供から老人まで幅広い年齢層を笑わせ、その場の観客に合わせたネタを即興で駆使するテクニックがズバ抜けており、それを舞台袖で観ていた芸人達は、そのネタの的確さと柔軟なスタイルに感心していたという。上岡龍太郎は「昔はボケもツッコミも観客から見下されていた。それがコント55号ではツッコミ(萩本欽一)が客よりも高い位置に行った。ツービートはボケ(ビートたけし)が客よりも高くなった。ダウンタウンは2人とも客よりも高い位置で芸をやっている。これからの漫才(≒コンビ芸)はどうなるんやろ」と評した。

ダウンタウンの漫才は、前述の島田紳助を始め一部の芸人からは高い評価を受けていたが、漫才師や演芸評論家の中には酷評する者も少なくなかった。特に横山やすしは、『ザ・テレビ演芸』内のコーナー、新人勝ち抜きオーディションにライト兄弟の名で出場した際、家庭内暴力についてのネタを披露したところ、二人の漫才を「チンピラの立ち話」と酷評し、「テレビでやるものではない」と叱責した。やすし以外にも、NHK上方漫才コンテストでは大爆笑をとったにも関わらず、最優秀新人賞を逸す(トミーズが受賞)。同時期にABC漫才・落語新人コンクール(現:ABCお笑い新人グランプリ)では、第4回大会に「松本・浜田」として予選会に出場するも予選落ちする(その年はトミーズが最優秀新人賞を受賞)、翌年も吉本から「2年目も出ろ」と言われ去年とまったく同じネタで出場すると本選まで残り最優秀新人賞を受賞するが、一部の審査委員から「理解出来ない」「(観客には)受けていたようだが、どこが面白いのか分からなかった」と酷評されている。後に、松本はやすしが酷評した事に対し、「チンピラの立ち話で結構。チンピラが立ち話をしていて聞いてみたら面白かった、それこそがオレの目指す漫才」「ベテランの『漫才とはこうあるべき』という押し付けが漫才を衰退させる」と、自身の著書『遺書』において反論している。他にも読売テレビで生放送された『100万円争奪!爆笑エンターティナー全員集合』という特番でネタを披露した際、持ち時間を余らせて終了したところ審査員だった藤本義一に「真面目にやれ!」などと怒られ松本が「こんな所、二度と来るか!!」と生放送中に憤慨したという。この様な事がありその後、松本は自著『遺書』において藤本を「素人以下」など痛烈に批判している。 

お笑い芸人を劇的に増やしたのは、この2人の芸風が簡単に見えて、誰でも出来そうに思われた事が影響したとも言われている。これは、ダウンタウンが1期で卒業したNSCの創設も関係しており、島田紳助はダウンタウンとの対談でそのことに言及し、「ダウンタウンはしっかりとした漫才ができているうえでの芸風だが、初めからダウンタウンと同じような芸風でやろうとしている芸人が多い」と過去に指摘していた。ダウンタウンと同期で友人のトミーズ雅も「みんな松本のダラダラしたしゃべりの表面だけ真似してるけど、それだけじゃ駄目。松本は本当は150km/hの球を投げることができるのに、それをわざと100km/hで投げている。他の奴らは110km/hしか投げられないのに100km/hで手を抜いている」と評している。

アメトーーク!』での東野幸治曰く、若手芸人たちは一度はダウンタウンの芸風に感化されて、特に松本のポーカーフェイスなボケのスタイルを真似してしまう事が多いらしく、そう言った状態のことを「ダウンタウン病」と評している。その時に山崎弘也アンタッチャブル)は、デビュー当時の芸風が現在と全く違っていたことを突っ込まれると、「(当時は)松本さんの様に、ボケをクールにやらないと売れないのかと思っていた」と回顧している[2]

ダウンタウンとしての本格的な漫才は、ビデオ『ダウンタウンの流』を最後に披露していないが、その後も自身を「漫才師」と称している。『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』でのフリートークと漫才では、もしかしたら調子の良い時のトークに漫才が負けてしまうかもしれないと語っていた。ダウンタウンの漫才の大半は、2009年現在、ビデオ・DVD化されておらず、見ることが難しい状況になっている。しかし、松本と浜田の二人の間ではコンビ解散のときは最後になんば花月で漫才をやろうと決めている[3]

第10回(2010年)M-1グランプリに審査員として松本が出演した際は「漫才の歴史は彼(ダウンタウン)以前、彼以後に分かれる。」「全芸人がリスペクトする、笑いの生きる伝説」と登場時に紹介された。

ウッチャンナンチャンとの関係

最初の出会いは、当時日本テレビで放送されていた「お笑いスター誕生!!」にウッチャンナンチャン(以下、ウンナン)が番組オーディションに行くと、偶々ダウンタウンがディレクターの前でネタを披露しているの見ていたという。その数年後に関西テレビの『2丁目ヒミツ倶楽部』という番組で初共演を果たす。その後、フジテレビ深夜番組冗談画報』に出演したウンナン・ダウンタウン・野沢直子清水ミチコそして番組スタッフなどが集結し、『夢で逢えたら』がスタートしウンナンとは非常に仲が良くなった。1990年代前期まではダウンタウンとウンナンが一緒に仕事をしたり、また互いの番組に出演したりということもあった。レギュラー出演していた『笑っていいとも!』では出演する曜日こそ違っていたものの、年末の特大号で共演するときは楽屋が一緒だった。また、南原の結婚式(1993年)に出席したり、また南原に子供が生まれた際や内村の結婚に際し祝福のメールを送ったとされるなどプライベートでも交流がある。『笑う犬』が日曜8時に移行する際に内村は、日曜8時は『ごっつええ感じ』の枠だったため「それなら松ちゃんに許可をもらわなきゃ」とわざわざ松本に連絡を取った。「そんなこといちいち俺に聞かなくてもいいのに」と思っていた松本は、「ウッチャンはいい子すぎる」と著書で内村を評している。
また、毎年正月には電話で新年のあいさつをしているらしく、松本がラジオ番組『放送室』で、自宅の留守電に内村から新年の挨拶のメッセージが残されていたエピソードを語っている。 松本は「ウッチャンとはたまーに、一年に1回くらいどちらからとも無く連絡を取って一緒に食事をする」とテレビで語ったことがある。松本の結婚式には吉本興業の関係者以外は式場のホテルに入れなかったが、内村は松本たっての希望で出席した。

一方でコンビ同士としての共演は1998年放送の『いろもん・豪華特別版』(ゴールデンタイムのスペシャル版にダウンタウンがゲスト出演)を最後に10年以上実現していない。ただし、個人それぞれの出演では実現している。2003年に開催された第3回M-1グランプリでは松本と南原清隆お笑い第三世代代表として決勝戦の審査員を務め、しかも、隣同士の席順であったために、貴重なツーショットとなった。その後第6回・第10回のM-1決勝戦でも、南原と隣の席で審査員を務めた。いずれの最終審査でも2人とも同じコンビに投票した。(第3・10回:笑い飯、第6回:チュートリアル)また、ミュージシャンとして内村光良ポケットビスケッツNO PLAN、南原はブラックビスケッツの一員として『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』に度々出演している。2009年1月3日放送の『史上空前!! 笑いの祭典 ザ・ドリームマッチ』では、内村と松本が「即興コンビ」を組み、『夢で逢えたら』以来のコントを披露し、見事優勝にあたる「ベストカップル賞」を受賞した。

松本はウンナンの二人を「戦友。二人が売れすぎるのは芸人として嫌やけど、売れてないのも嫌」と評している。また、自身の著書で「ウンナンがおれへんかったら、ダウンタウンは(全国区で売れるのが)もう少し時間がかかったんちゃうかなあって思いますよ」と語っている。

エピソード

デビュー以前

  • 松本は浜田と出会う前に、ゲイではないかと疑われるぐらいに仲の良い友人・伊東がおり、漫才などをして青春を送っていた。中学で浜田と出会い、三人で遊ぶ事も多くなったある日、浜田と伊東が喧嘩を始め、伊東を倒した浜田が「もうええわ、まっつん行こうや!」と言い、松本はついていったという。これが無ければダウンタウンは誕生していなかった等とよく松本が話している。その後、伊東とはよそよそしくなって、あまり遊ぶ事はなくなったという。(伊東は、元相方としてTVに出演したり、ラジオの公開録音に出席したりしている)
  • 浜田は三重県にある全寮制の高校に入学したため、松本とは以前のようにいつも一緒にいるような関係ではなくなったが、厳しい環境であったため、浜田は山間にある寮から何度も脱走を繰り返し、その手段として時には無賃乗車もした為、松本に電話をして電車賃を払ってもらっていた。

ダウンタウン結成

  • NSCでネタ見せの発表会を行うに当たり当時、人気絶頂でファンでもあった紳助・竜介の漫才が吹き込まれているテープを、全く同じ事が出来るようになるくらいまで繰り返し聴いた。当時NSCには一線で活躍している吉本興業の先輩芸人が講師として赴くことがあり、島田紳助明石家さんまオール巨人も講師として赴いていた。その三人がある時、たまたま集まった席で「NSCにめぼしいのはおるか?」という話になり、「二人すごい奴がおる」「1組だけ(ダウンタウン)やな」と、三人ともダウンタウン(松本・浜田)で意見は一致していた[4]
  • スナックでアルバイトをしていた頃、スナックから自宅まで帰る電車賃がなくてミナミから尼崎まで(距離は約12km)、1本のコーヒー牛乳を分け合い飲みながら歩いて帰った事がある。
  • NSC在学中に初めて東京発の全国ネットに出演した番組は、当時フジテレビのお昼の帯番組として放送していた「笑ってる場合ですよ!」であった。その番組内で「お笑い君こそスターだ!」という5週勝ち抜きの若手の登竜門的なコーナーで「ひとし・まさし」で出場し、順調に勝ち抜いていったが、予選は5日間で土日が入る為、1週間ホテルで缶詰め状態で次の日のネタ合わせをしたり、5週分の衣装がないので原宿竹下通り不二家ペコちゃんの柄の入ったお揃いで買いに行ったという。ホテルで缶詰めになっている時に、腹が減ったので近くで焼きそばを買ってきたが箸がなく仕方なく洗面所の櫛の歯を取り、焼きそばを引っかけて食べていたという辛い経験もしていたと後に番組などで語られている。その甲斐もあって見事5周勝ち抜きグランドチャンピオンに輝いた際に、観客の女性から握手を求められたが浜田だけで松本には来なかったという。(『放送室』 2008年03月22日放送)それだけではなく新人タレントをスカウトする芸能プロダクションの関係者も同席しており、契約したい出場者には札を上げ、選ばれた者はプロへの道が開けるという仕組みがあり、大手芸能事務所の太田プロダクションB&Bが所属していた事務所からも札が上がり、番組収録後には楽屋に各プロダクションの関係者が来て「後日、改めてお話しましょうか」と誘われスターへの道に近づいたと思い、大阪に帰ると吉本から呼び出され「お前らいらん事考えてるやろ?もう、断りの電話入れたから」と言われ、会社からスカウトした事務所に「2人はNSCの生徒です!吉本ものなんで」とクギを刺したという。
  • NSC在学中のコンビ名は「松本・浜田」だった。当時は舞台で漫才披露していても、ダラダラと淡々と掛け合う漫才だった為周りのベテラン芸人達が「陰気な漫才しやがって!」「若いのに元気がない!」と言われていた。その時吉本興業の富井善晴に「名前だけでも明るくしろ!」と言われて「てるお・はるお」と命名されて短期間活動していたが後にコンビ名を「ダウンタウン」に改名。

下積み時代

  • 現在吉本興業社長の大崎洋とはデビュー当時から接点がある。当時東京本社で平社員だった大崎が、大阪にNSCが出来るので連れ戻され担当社員になり、当時ダウンタウンもデビュー間もない頃は周囲からは注目されていたが、徐々に周りの注目が離れていき、同期生だったトミーズハイヒール銀次・政二(のちに解散)がNSC卒業後直後にテレビのレギュラー番組が決まっていたが、自分達の仕事もなく劇場回りの頃に大崎と常に一緒にいたという。特に松本とは2人で映画館に行ったり、サウナに出掛けたりし頻繁に会っていた。ある日大崎の家に泊まり込んでいた際にコンビ名を決めようと朝方まで2人で悩んでる時に真剣に考えていた大崎の眼鏡陰毛が付いてあり松本は唖然としたと後にラジオで語っていた。その後ダウンタウンが大阪でブレイクし、東京進出後は番組のプロデューサーと数多く制作している。
  • 彼らがコンビ名を変えた大きな理由は、1983年5月に吉本の大阪本社に約千人もの署名が送られてきた為。その内容は、「もっと彼らをテレビや劇場の出番を増やしてほしい」と多く書かれていた。その直後、コンビ名を「松本・浜田」から「ダウンタウン」と改名した。
  • コンビ名を決めた際に、自分達の出囃子佐野元春の「ダウンタウン・ボーイ」を使用していたという、だが花月の音響の人に頼みに行かないと曲を流してくれない為、2人でタバコのワンカートンや一升瓶などの手土産持って行ったりしていたという。当時の劇場での仕来りは厳しく漫才などで舞台に上がって行くとセンターマイクが腰の辺りまでしか出してくれなく声を張って漫才をしたという。その厳しい教訓があった為に声を鍛えられたと番組などで語っている。
  • 花月で漫才をしていた時、客席から「真面目にやれ!金返せ!」と罵声を浴びせられた浜田は、「おう!返したらぁ!いくらじゃボケェ!」と、ポケットの中の小銭をその客に向かって投げつけた。
  • デビューの頃、京都花月の出番が多く1週間缶詰状態の頃もあった。その頃ポケットミュージカルという劇の合間に歌が入る芝居があり、それに出演していたが観客が数十人の頃や酷い時は一桁もあり笑いが全くなく舞台に立っているのが辛く、緞帳が閉まる時には我慢できずに閉まる前に2人で飛び出したという。その頃劇場ギャラが自分達が通う電車賃よりも少なく漫才の出番が終わった後、松本と浜田は自分達の母親に作ってもらった弁当を食べていた。
  • 漫才ブームが終わった頃にデビューしたため、劇場に出ても来ている客は団体客や年寄りばかりで納得のいかない笑いだったので、若い客の前で自分達の実力を試すべく、朝日放送紳助・竜介が司会をしていた「ヤングプラザ」という当時大阪の若者がたくさん観覧に来ていて、その番組の前説へ出演を自分達で頼みに行った。そこでは笑いを取ることができ、自分達の漫才が間違っていないことを確認した。その前説をしていた頃に、収録現場のABCホールから最寄りの駅まで行こうとタクシーに乗り込もうとした際に運転手に「バス乗って行けや!」と罵声を浴びせられ松本がキレたところに浜田が止めに入って収まったが、再び運転手が「わかった、早よ乗れや!」と言った瞬間に我慢できくなった浜田が運転手をタクシーから引きづり出し凄い剣幕で怒ったという。(『ダウンタウンDX』 2002年12月5日放送分)「ヤングプラザ」の前説を頼みに行ったエピソードは2011年8月23日放送のリンカーンでもこの話題を出しているが、この日は皮肉にも島田紳助の引退会見がこの時間帯に行われていた。
  • ダウンタウンはデビュー当時から一部のベテラン芸人達から絶賛されていたのにも関わらず飛ぶように売れるには時間が掛っていたが、吉本が出版・発売している雑誌『マンスリーよしもと』の1985年4月号で「ダウンタウンはどうして売れないのか?」という異例の特集が組まれた。内容は吉本芸人達がダウンタウンについて色々と語っている。なかでも紳助・竜介解散直前の島田紳助は「一言では語り尽くせませんね… 2時間は掛る」、間寛平は「結構売れてますやん!売れてないのは会社が悪いですよ」、オール巨人は「もう少し礼儀というものを知ったらええと思う。いい感性をもってるんちゃいますか」と数多くの芸人達がコメントしていた。
  • 下積み時代に二人がお世話になった先輩芸人は少ないが唯一太平サブロー・シローの二人には可愛がってもらい、お世話になっている。サブロー・シローがラジオ番組「おっと!モモンガ」(ラジオ大阪)のリニューアルに伴い番組を降板する事になり、番組側が新たな出演者を探している時2人から「次はダウンタウンにやらしたってくれ」「こいつら面白いからやらしてやってくれ」と言ってくれ、ラジオ大阪も冒険だった(松本談)が、逆茂木無名にもかかわらず番組の新レギュラーとしてダウンタウンが出演する事になり、これが初めてのレギュラー番組となったという。後年、松本は「ものすごくいい勉強になった、『ガキの使い』のフリートークの原形みたいなものだった」と振り返っている。[5]現在ではダウンタウンとサブロー・シローとの共演はないが、今もって若手の頃に良くしてもらったことを感謝している。「ごぶごぶ」(36回)では浜田がサブローと偶然出会い、握手を交わしている。「えみちゃんねる」ではサブローが松本から笑い飯を紹介されたことなどを話している。「さんまのまんま」では松本・サブロー・オール巨人・島田紳助で会合が合ったことを明かしている。
  • 若手時代、松本が浜田に3千円貸したエピソードがあり、「3千円返してくれ!」と未だに言っている。『タウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』で何度もネタにするため、番組内のコーナーできっちり3千円返すことになったが、松本が受け取りを拒否、未だにネタにしている。
  • 梅田花月での舞台、松本は2時間遅れるほどの大遅刻。そんな中劇場の支配人が浜田に「お前一人でやれ」と言うので浜田は仕方なく舞台に一人で立つが、案の定2分程で行き詰まってしまう。そこに登場したのが一緒に共演する紳助・竜介。紳助は登場するやいなや「お前の相方が遅刻するのが悪いんや!!」と舞台のふちに浜田をガムテープで固定させ、落ちそうな浜田に対して「暴れたら下に落ちるよー」「お前、落ちるでー」と言いながら漫才を始めたという。一見イジメのようだが、これは行き詰まった浜田を助けるための芸人流の愛情であった。

2丁目時代

  • 2丁目時代、あまりの人気ぶりに「ダウンタウンが道頓堀を歩くと自衛隊が出る」と言われていた。
  • うめだ花月、なんば花月、京都花月の三館回りをしていた頃の二人の現場までの交通手段は、浜田が初めてローンを組んで買ったマークIIであった。また、そのマークIIを遅刻しそうになって走らせていた時、オービスに撮られ、その後、何年も警察のハガキを無視していた為、『4時ですよ~だ』終了後に逮捕される事になっていた。逮捕予定当日、浜田がなんとなくふらりと警察へ行ったので、未遂に終わった。ちなみにオービスには浜田、松本の胸から上がしっかり写っていた。

その他のエピソード

  • ダウンタウンのごっつええ感じ』の「青春プレイバック」と題した企画で尼崎の商店街を訪れた松本は、「浜田に吉本入りを勧誘されてなかったら、自分は今と違って太ったオッサンになって、嫁にコキ使われて生きていただろうな」と、しみじみと語った。
  • 付き合いが長いせいかプライベートで2人が会うことは皆無。そのため普段仕事以外で喋る状況が無く、照れくささもあり楽屋などで二人きりになる事を極度に恐れ、打ち合わせ等では担当マネージャーがトイレに行ってしまわない様に延々としゃべり続けてしまうらしい。しかし両者がお互いを尊敬しており、相方として信頼しあっていると浜田は語っている。松本も著書『遺書』で尊敬する(おっとこまえな)芸人の中に浜田をあげている。
  • 浜田が体調不良などで仕事を休んだ際、松本は強い口調ながらも浜田のことを人一倍心配する。ある番組の収録で、浜田が体調を崩し来られなかった日も、松本は一人そわそわと落ち着きのない態度を取り、収録後みんなで集まっていた際も、一人部屋の隅で寂しそうにしていたこともあった(ウンナンさん・南原やコリコリ・田中の証言より)。
  • 『浜ちゃんと』で浜田が志村けんと対談をした際に、志村が「松本のこと好きなの?」と質問すると、「ああ、好きですよ」と即答し「ウチは仲ええとか悪いとかそういう感覚じゃないですよ。仲ええほうやと思いますよ、ぼくら。」と続けた。さらに志村は「俺から見るとダウンタウンは互いに尊敬し合ってる、そこがダウンタウンの一番いいところだよ。」と述べ、浜田も「それは絶対あります、じゃないとやっていけないですよ。」とうなずいた。
  • 両者とも下戸の為、二人の酒に関するエピソードは少ない。ただし全く飲めない訳ではなく、レギュラー番組で酒を交わしながらトークする様子も見られ、浜田に至ってはお酒のCMの出演経験がある。また、両者共に高所恐怖症であり、絶叫マシンが苦手。その為か、番組内で絶叫マシンに乗る事は少ない。
  • キャラに反して天然ボケの傾向がある。収録後にスタジオから出る際セットに躓いてコケたり(松本はダウンタウンDX、浜田はHEY!HEY!HEY!)、企画のルールを忘れていたりとエピソードが多く、その際は出演者につっこまれる。浜田に至ってはガキの使いにて「天然裁判」という企画が組まれている。

作品

シングル

以上がダウンタウン関連のシングル。

2004年11月「浜田雅功槇原敬之」という音楽ユニットのクリスマスソング『チキンライス』の作詞は松本が担当したりと、共同作業もある。

アルバム

  • GOBU-GOBU(1988年10月21日)
    • CBSソニーより発売されたミニアルバム。歌手デビュー作でもある。所ジョージが詞曲を提供している。
  • 万力の国(1991年3月21日)
    • シングル「生きろ・ベンジャミン」(松本バージョンと浜田バージョンの2種類発売)の発売後にリリースされた。松本、浜田のソロ歌唱曲も収録し、宇崎竜童所ジョージ奥田民生島田紳助などが詞曲を提供している。
  • 夢で逢えたら メモリアルアルバム(1992年9月18日)
    • 同番組のサントラ盤
  • GEISHA "Remix" GIRLS(1994年8月19日)
  • THE GEISHA GIRLS SHOW - 炎の おっさんアワー(1995年5月19日)
  • THE GEISHA GIRLS "Remix" SHOW 続・炎のおっさんアワー(1995年6月21日)
    • 坂本龍一プロデュースにより、ニューヨークでCDデビューした際には、"THE GEISHA GIRLS"というユニット名がつけられた。
    • 日本においては、下町にも住宅地があり、山の手にも繁華街があることが多いため、ダウンタウンを単に「下町」と訳すと意味が違ってくるためこの名になった。
    • ただ、この命名の理由についてはあくまで便宜的なものであり、実際の命名のきっかけとなった出来事がある。これは、『ガキの使い』のトーク収録に坂本龍一が観覧に訪れており、後日のトーク収録にてこのことについて触れられた。そこから「坂本プロデュースでCDデビューしよう」と及び、「ユニット名は?」との浜田のフリに対し、松本が思わず発した「坂本龍一プロデュース、ゲイシャガールズ!」と発したことが直接のきっかけ。
    • この収録のあと、乗り気になった番組スタッフがニューヨークにある坂本の事務所にプロデュース依頼のオファーを出し、坂本が「ダウンタウンの2人が(レコーディングで)N.Y.に来られるのなら」という条件付きでこれを快諾、ダウンタウンと坂本龍一らによる『THE GEISHA GIRLS』が結成されることになった。アメリカの人気DJオービー・トライスも参加している。
  • ダウンタウンのごっつえぇ感じ 音楽全集(1997年12月15日)
    • 番組『ダウンタウンのごっつええ感じ』のサントラ盤
  • look up to the sky ~明日があるさ~(2002年3月27日) ※Re:Japan名義

ビデオ

  • ダウンタウン物語(1988年)
  • OH! MY ハレルヤ(1988年)
  • ダウンタウンホラー・大魔神怒る(1989年)
    • ウッチャンナンチャンがゲスト参加したコメディ。
  • ダウンタウンの流(1991年)
    • 漫才、ショートコントを収録。
  • ダウンタウンのごっつええ感じ Vol.1-10(1995年 - 1998年)
    • 同テレビ番組から傑作コントを厳選。
  • ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! Vol.1~7(1995年 - 1998年)
  • ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 10周年記念傑作トークベストセレクションVol.1~4(1999年)
  • 明日があるさ(2001年)

DVD

  • The Very Best Of ダウンタウンのごっつええ感じ Vol.1~5(2003年)
  • Vol.1「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 罰 浜田チーム体育館で24時間鬼ごっこ! +名作&傑作トーク集」(2004年8月25日、よしもとR and C
  • Vol.2「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 罰 松本一人ぼっちの廃旅館1泊2日の旅! +名作&傑作トーク集」(2004年9月29日)
  • Vol.3「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 罰 松本チーム絶対に笑ってはいけない温泉旅館の旅!+名作&傑作トーク集」(2004年10月27日)
  • Vol.4「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 話 抱腹絶倒列伝! 新作トーク集 +15年間の罰ゲームの系譜他」(2004年11月25日)
  • Vol.5「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 罰 絶対笑ってはいけない温泉宿1泊2日の旅 in 湯河原+名作 & 傑作トーク集」(2005年6月29日)
  • Vol.6「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 負 山崎vsモリマン 男と女の真剣勝負! 笑の神が降りた奇跡の名場面集」(2005年7月27日)
  • Vol.7「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 話 笑魂投入伝! 傑作トーク集!!」(2005年9月21日)
  • Vol.8「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 罰 放送800回突破記念永久保存版 松本・山崎・ココリコ絶対に笑ってはいけない高校」(2006年11月29日)
  • Vol.9「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 話 放送800回突破記念永久保存版 笑神降臨伝!傑作トーク集!!」(2007年1月31日)
  • Vol.10「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 罰 ダウンタウン結成25年記念永久保存版 浜田・山崎・遠藤絶対に笑ってはいけない警察24時」(2007年12月19日)
  • Vol.11「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 話 ダウンタウン結成25年記念永久保存版 唯我独笑伝!傑作トーク集!!」(2008年1月30日)
  • Vol.12「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 罰 絶対笑ってはいけない病院24時」(2008年12月26日)
  • Vol.13「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 罰 絶対笑ってはいけない新聞社24時」

出演

ダウンタウンとしての出演番組を記載。ピンでの出演作品は浜田雅功松本人志出演の項目を参照。

現在放送中のレギュラー番組

スペシャル番組

過去に出演したテレビ/ラジオ番組/CM

受賞歴

イベント/コンサート/公演

  • 1982年
  • 1983年
    • 1月『第3回NSC寄席』(吉本総合芸能学院)
    • 4月『ごんたくれVOL.1 仮免漫才と笑説桃太郎くずし30分戦争』(阪急ファイブオレンジルーム
      NSC1期生の松本・浜田(「ダウンタウン」改名以前)・銀次・政二(後に解散)・ハイヒール3組の合同ライブ。
    • 6月『なんば花月上席 フレッシュコーナー』(なんば花月)
      おかけんた・ゆうたと出演し、この舞台がNSC卒業後の劇場デビューとなる。
    • 7月『第4回今宮子供えびすマンザイ新人コンクール』(今宮戎神社)
      …前年の受賞者としてゲスト出演する。今大会の福笑い大賞はNSC同期生の銀次・政二が受賞した。
    • 8月『京都花月下席 吉本新喜劇 嘘のような話』(京都花月
      池乃めだかやなぎ浩二・NSC1期生の浜根隆などが出演。
    • 8月『NSCオールナイトデスマッチ演芸大会』(吉本総合芸能学院)
      …NSC2期生の特別教室にNSC卒業生としてゲスト出演する。
    • 10月『ごんたくれVOL.2 仮免卒業漫才プラスなるほど・ザ・・・・』(阪急ファイブ・オレンジルーム)
    • 12月『うめだ花月中席 フレッシュコーナー』(うめだ花月
  • 1984年
    • 1月『京都花月特別興行 若手漫才受験必笑講座‐無情良品研究会‐』(京都花月)
      やすえ・やすよ(のちに解散)・トミーズ・ハイヒール・おかけんた・ゆうたなども出演。
    • 3月『ごんたくれVOL.3 初心者漫才プラスことのほかクリニック』(阪急ファイブ・オレンジルーム)
    • 3月『京都花月中席 ポケットミュージカルス』(京都花月)
      劇団インスタント内場勝則などのNSC1期生で結成されたグループ)と出演する。
    • 4月『京都花月上席 特撰ヤングお笑いフェス』(京都花月)
      …やすえ・やすよ・大木こだま・ひびき桂小枝が出演。
    • 4月『なんば花月下席 特選新人漫才』(なんば花月)
      …ハイヒール・トミーズの3組で出演。
    • 5月『なんば花月上席 特選コーナー』(なんば花月)
      …大木こだま・ひびき・やすえ・やすよの3組で出演。
    • 5月『うめだ花月下席 特選コーナー』(うめだ花月)
      …大木こだま・ひびき・やすえ・やすよの3組で出演。
    • 5月『うめだ花月特別興行 お笑い新撰組』(うめだ花月)
      …やすえ・やすよ・トミーズなどが出演。
    • 6月『なんば花月下席 新結成 ダウンタウン笑劇場』(なんば花月)
    • 6月『京都花月特別興行 パラノキッズの冒険 京都の夏』(京都花月)
      …劇団インスタントとの合同の特別企画。
    • 6月『うめだ花月上席 特選新人コーナー』(うめだ花月)
      …やすえ・やすよと出演。
    • 7月『心斎橋筋2丁目劇場』(南海ホール
      …南海ホールで開催されていたイベント。以前行われたイベント『ごんたくれ』を受け継ぐ形で新作の漫才・コントなどを毎週末披露していた。
    • 7月『京都花月特別興行 ナツナツ無印良品闇市』(京都花月)
      …トミーズ・ハイヒール・銀次・政二・劇団インスタント・ざっと31大阪笑ルームなどが出演。
    • 8月『心斎橋筋2丁目劇場』(南海ホール)
    • 8月『心斎橋筋2丁目劇場』(南海ホール)
    • 8月『心斎橋筋2丁目劇場 -完全犯罪捜査線-』(南海ホール)
    • 8月『うめだ花月特別興行 夏忘れお笑い大会』(うめだ花月)
      のりお・よしお今いくよ・くるよ月亭八方・やすえ・やすよなども出演。
    • 9月『心斎橋筋2丁目劇場 神戸公演』(神戸国際会館
    • 9月『心斎橋筋2丁目劇場』(南海ホール)
    • 10月『うめだ花月下席 ポケットミュージカルス』(うめだ花月)
      …マブ(当時吉本興業に所属していた歌手)と共に、当時世間を震撼された「グリコ森永事件」のコントを披露した。
  • 1985年 
    • 1月『うめだ花月上席 ワイドショー』(うめだ花月)
      ザ・パンチャーズ・大木こだま・ひびき・池乃めだかなども出演。
    • 1月『なんば花月中席 ワイドショーⅠ』(なんば花月)
      …ザ・パンチャーズ・高石太太平かつみ・ひろみ太平かつみが組んでいた漫才コンビ)らも出演。
    • 1月『心斎橋筋2丁目劇場 かかってきなさい・ダウンタウンショー』(南海ホール)
      …漫才の他に、「ローリングサンダーマン」・「森の妖精」などのコントを披露。
    • 1月『京都花月特別興行 爆笑!梅まつりこれが一番だ!!』(京都花月)
      …バラエティショーと銘打った興行。月亭八方・紳助・竜介ザ・ぼんち笑福亭松之助若井小づえ・みどりなども出演。
    • 3月『なんば花月下席 ワイドバラエティ』(なんば花月)
      …ハイヒール・桂小枝や東京からのゲスト栗田貫一も特別出演した。
    • 3月『心斎橋筋2丁目劇場 かかってきなさい・ダウンタウンショー』(南海ホール)
    • 3月『なんば花月特別興行 陽春スーパーバラエティ 新鮮コント』(なんば花月)
      …ハイヒール・前田政二も出演。
    • 4月『なんば花月下席 吉本新喜劇 春色の幸』(なんば花月)
      間寛平浅香あき恵未知やすえ・NSC1期生の前田政二・杉本美樹らが出演。ハイヒールと共にゲスト出演。
    • 5月『うめだ花月上席』(うめだ花月)
      …この上席に出演していたオール阪神・巨人太平サブロー・シロー・ダウンタウン3組の漫才を舞台の袖で見ていた
      同じ出番だった島田紳助が漫才の限界を感じ紳助・竜介の解散を決意し、同年5月20日に解散記者会見でコンビ解散を発表した。
    • 5月『なんば花月特別興行 なんば花月スペシャル 初夏に笑えば』(なんば花月)
      …月亭八方・太平サブロー・シロー・オール阪神・巨人・桂文福・ハイヒールなども出演。
    • 5月『京都花月特別興行 五月まつり 私はこれで笑いました』(京都花月)
      …紳助・竜介解散直後の島田紳助と共にコントを披露。その他に中田カウス・ボタン・若井小づえ・みどり・木村進末成由美なども出演。
    • 7月『心斎橋筋2丁目劇場 かかってきなさい!正直編』(南海ホール)
    • 7月『京都花月特別興行 ダウンタウンのちょっとかかって来なさい』(京都花月)
      …前田政二と共にコントを披露。のりお・よしおもゲスト出演した。
    • 8月『なんば花月特別興行 夏休みファイナル ポケットミュージカルス サブロー・シロー版 ミスター・レディ,ミスター・マダム』(なんば花月)
      …太平サブロー・シロー主演の芝居に出演。
    • 9月『激笑コント 上方漫才を越える日』(扇町ミュージアムスクエア
      コント赤信号主催のライブにゲスト出演し、コントや漫才を披露した。
    • 12月『心斎橋筋2丁目劇場』(南海ホール)
      …第1部は当時ラジオ大阪で放送していた「心斎橋お笑い探検隊」の公開収録、第2部はダウンタウンが「キララとウララ」のコントを披露。
    • 12月『OSAKAおもしろファッションショー』(うめだ花月)
      …紳助・竜介のモノマネで漫才を演じたり、持ちネタの「森の妖精」を披露した。
  • 1986年 
    • 4月『心斎橋筋2丁目劇場』(南海ホール)
      …南海ホールで行われた最後のイベント。翌月から「心斎橋筋2丁目劇場」と正式な劇場名になる。
    • 5月『心斎橋筋2丁目物語 VOL.1』(心斎橋筋2丁目劇場
      …2丁目劇場オープニングイベント。第1回公演ではダウンタウン主演の芝居で2人が踊りながら登場。
      以前(南海ホール時代)まで通称「心劇」と呼ばれていたが「2丁目」・「2丁目劇場」と呼ばれるようになる。
    • 5月『2丁目お笑い探検隊』(心斎橋筋2丁目劇場)※1987年1月2日公演で『2丁目探検隊』になる。
      …2丁目劇場レギュラーイベント。主な出演者ダウンタウン・ハイヒール・まるむし商店・おかけんた・ゆうた
      ピンクダック(後に解散)・非常階段のメンバーで構成され毎回新作ネタを披露する定期的のライブ。
    • 6月『心斎橋筋2丁目物語 VOL.2』(心斎橋筋2丁目劇場) 
    • 7月『心斎橋筋2丁目物語 VOL.3』(心斎橋筋2丁目劇場)
    • 8月『心斎橋筋2丁目物語 VOL.4』(心斎橋筋2丁目劇場)
    • 8月『おさわがせ2丁目探検隊 来てもうた大阪城』 (大阪城野外音楽堂)
    • 9月『心斎橋筋2丁目物語 VOL.5』(心斎橋筋2丁目劇場)
    • 11月『虹の彼方』(阪急ファイブ・オレンジルーム)
      …阪急ファイブ15周年記念公演として劇団☆新感線と共演した。
    • 12月『'87新春LIVE 551蓬莱2丁目劇場』(心斎橋筋2丁目劇場)
      …2丁目劇場初のオールナイトイベント。イベントの途中で当時関西テレビ放送されていた
      エンドレスナイト」の年末スペシャルの中継が入りトークやネタなどを披露した。
    • 12月『心斎橋筋2丁目物語 VOL.6』(心斎橋筋2丁目劇場)
    • 12月『憂歌団withダウンタウン』(心斎橋筋2丁目劇場)
      憂歌団とのジョイントライブ。おかけんた・ゆうたとの合同コントなどを披露。
  • 1987年
    • 3月『心斎橋筋2丁目物語 VOL.7』(心斎橋筋2丁目劇場)
      …全7回にも続いた公演の最終公演。シリアスな内容となっていた。
    • 5月『心斎橋筋2丁目劇場 1周年記念ですよーだ ラジオが泣いた夜・放送されない公開生放送』(心斎橋筋2丁目劇場)
    • 6月『突撃!ぶっちぎり探険隊』(うめだ花月)
    • 8月『551蓬来 2丁目おでかけ探険隊 お笑い世界歌謡祭in大阪城野外音楽堂』 (大阪城野外音楽堂)
      …2丁目メンバーが衣装やメイクをして歌などを披露し、会場には約3000人が入場した。この模様は毎日放送で同年9月6日に放送された。
    • 9月『DOWNTOWN SCANDALS』 (大阪厚生年金会館
      …初のコンビでのコンサートで内容は漫才やコントではなく歌を披露し、ラストで2人は感極まり涙を流した。入場動員1100人という異例の動員数。
    • 12月『'87ホノルルマラソン』(アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島ホノルル市
      …間寛平と共に「ホノルルマラソン」に参加。浜田は途中リタイアしたが、松本は最終地点付近でファンの女の子と共に約10時間でゴールして涙を流した。
      (松本と共にゴールしたファンとは後に日本テレビの特番で再会した)この模様は翌年1月7日に読売テレビで放送された。
  • 1988年
    • 4月『OSAKA NEW AGE SPECIAL ダウンタウンライブおすな!いうてるやろ!』
    • 5月『おでかけでっせ、ラフォーレまっせ』 (ラフォーレ原宿
      …初の2丁目メンバーによる東京公演。今田耕司東野幸治・まるむし商店
      ハイヒール・メンバメイコボルスミ11などの2丁目劇場で活躍中だった芸人達が出演し月一回で行われていた。
    • 7月『2丁目おでかけ探険隊in韓国』
      …2丁目メンバー達とダウンタウンのファンが韓国で観光をしたり韓国語でコントなどを披露した、この模様は同年8月14日に読売テレビで放送された。
      番組内で後に『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ、1991年 ‐ 1997年)で披露される「オジャパメン」を2丁目メンバーで歌っている。
    • 8月『DOWNTOWN SPECIAL ダウンタウンのスチャラカ騒動』(なんばグランド花月
    • 8月『ダウンタウンスキャンダル~あやまらへんで~』(大阪厚生年金会館)
    • 8月『よしもとニューエイジスペシャル太陽編 ジェイワンてっぺんライブ』 (大阪球場
      …このライブの模様は、同年8月26日に毎日放送で放送された。 
  • 1989年
    • 1月『ダウンタウンスペシャルinNGK』(なんばグランド花月)
      …その他に今田耕司と東野幸治が出演。
    • 8月『2丁目おでかけin大阪城ホール 平成元年大阪城ホールまるめ込め!』(大阪城ホール
      …ダウンタウンと清水圭・和泉修との合同ライブ。
  • 1990年
  • 1991年
    • 2月『吉本新喜劇東京極楽公演 再び、帝都でへたらして来たったで!!』(新宿シアターアプル)
      …今田耕司、130Rらと共に持ちネタの「刑事」を披露。
      この模様は4月12日にTBSテレビ(関西地区では毎日放送で6月7日に放送)で放送された。
  • 1993年
    • 10月『吉本広小路小劇場 オープニングイベント』(吉本広小路小劇場)
      …このオープニングイベントに「謎の漫才師ラ・マン・オンステージ」としてダウンタウンが怪傑ゾロの格好で特別出演した。
  • 2012年
    • 4月『吉本興業創立100周年記念 特別公演初日 ポケットミュージカルス』(なんばグランド花月)

書籍

関連書籍

  • タモリの、ダウンタウンも世紀末クイズ それ絶対やってみよう2(1991年、扶桑社)ISBN 4594008542
  • タモリ・ウッチャンナンチャンのダウンタウンもみんないっしょに世紀末クイズ それ絶対やってみよう3(1992年、扶桑社)ISBN 4594009255
  • ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 1~6(1995年 - 2003年、ワニブックス)
  • 発明将軍ダウンタウン(1996年、日本テレビ放送網)ISBN 4820396064
  • ダウンタウンの理由(1997年、集英社ISBN 4087802388
  • ダウンタウンのごっつええ感じ完全大図鑑(1998年、扶桑社)ISBN 4594024688
  • ダウンタウンDXのお願い! 名前を呼んで!(1998年、ワニブックス)ISBN 4847012992
  • ダウンタウンDXのスーパー国民投票結果発表(1999年、ワニブックス)ISBN 4847013085

写真集

関連人物

※ 「「奥村明日香」」

脚注

  1. ^ ダウンタウンDXゲスト:島田紳助から
  2. ^ 2009年6月23日放送回『雨上がり決死隊のトーク番組アメトーーク! 後輩の山崎に憧れている芸人』より
  3. ^ 松紳にて島田紳助からのダウンタウンの最後はどうするのか? という問いに対しての松本の発言などより
  4. ^ 2006年10月9日放送『メントレスーパーG秋の2時間大放出スペシャル』、2009年11月22日放送『行列のできる法律相談所』より
  5. ^ 松本人志さん著 「松本坊主」
  6. ^ チンパンジーのアフレコ、声のみの出演。関東のみの放送で、パターンは13通りあったという。

外部リンク