京都花月劇場

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京都花月劇場
京都花月劇場

京都花月劇場(きょうとかげつげきじょう)は、かつて存在した日本の劇場映画館演芸場である。吉本興業が経営し、京都市中京区新京極に所在した。閉館後解体され、現在は同社が経営する商業ビル「パッサージオ」が立地している。

沿革[編集]

  • 1936年(昭和11年)、芝居小屋・中座を買収し、跡地に新築の上開業。漫才主体の演芸場。
  • 1946年(昭和21年)、洋画専門館となる。ただし、楽屋が残っていたため定期的に歌手の実演興行も行われた。1950年代には吉本所属の江利チエミのショーが度々行われている。のち東映封切館となった。
  • 1962年(昭和37年)6月1日、再び演芸場となり、演芸や吉本新喜劇舞台中継などが行われた。
  • 1987年(昭和62年)3月31日、建物の老朽化と演芸興行をなんばグランド花月へ統合することに伴い閉館。最後の興行となったのは「チャンバラトリオ コンビ結成25周年記念リサイタル」で3月29日~3月31日までの3日間やすし・きよし、桂三枝(現在の六代目桂文枝)、笑福亭仁鶴のりお・よしおなどが日替わりゲスト出演した。
  • 閉館後しばらく吉本興業は京都に劇場を持っていなかったが、2011年5月に祇園によしもと祇園花月を開場させた。

劇場について[編集]

  • 収容人数は約千人弱程度。大阪市内のうめだ花月・なんば花月と比して格下の劇場と位置付けられており、出演する芸人も、(時間に余裕のある)人気の低い若手芸人や旬を過ぎた芸人が多くを占めた[1]。うめだ・なんばと異なり、一時読売テレビ吉本新喜劇を『上方お笑い劇場』として放送したことがある以外は定期的なテレビ中継は入らなかった。番組構成はうめだ・なんばと同じで原則1日2回公演であり、1回目と2回目の出演者は同じで入れ替え制は採っていなかった。漫才を中心に演芸番組が進行し、途中「ポケットミュージカルス」と名付けた吉本専属歌手の歌と吉本コメディアンによるミュージカルコントコーナーが中程にあり、トリは吉本新喜劇の公演であった。なお、この吉本新喜劇の演目はうめだ花月と共通であった(ただし、1983年8月から京都花月単独の新喜劇が上演されるようになり、新喜劇公演も1986年10月下席で終了となった)。
  • 10日ごとに番組が入れ替わり、上席(1 - 10日)・中席(11 - 20日)・下席(21 - 30日)があった。うめだ・なんばと同じく31日は特別興行が行われた。なお、毎年7月中席は「宵山寄席」と銘打った興行が行われていた。
  • 日本芸能界初のプロ和太鼓集団であった「王将太鼓」の京都花月における舞台初日は、1966年(昭和41年)6月1日である。(関連人物:高山正行
  • ダウンタウンも若手の頃に出演。なお浜田雅功は、幾度か楽屋に寝泊りしたことがあり、その時に人の気配がしたが誰もいなかったことがあったと語ったことがある。他の芸人も楽屋でよく心霊的な現象を体験したと語っているが、この土地は寺に囲まれており、かつて墓場であったといわれていた。
  • 吉本新喜劇の演目・中堅の演者がうめだ花月と共通となりがちなのは、うめだ花月至近の現在の大阪梅田駅 (阪急)と京都花月劇場最寄りの京都河原町駅阪急京都本線の優等列車で距離の割に極めて迅速に移動できたことも理由で、例えばうめだ花月1回目⇒京都花月1回目⇒うめだ花月2回目⇒京都花月2回目という形で演者が上がった(果ては舞台のつかみとした)例も多くあったからである。

主な出演者[編集]

漫才[編集]

落語[編集]

ショウ[編集]

漫談[編集]

奇術[編集]

音頭・浪曲・講談・その他[編集]

関連項目[編集]

出典・脚注[編集]

  1. ^ 松本家の休日朝日放送 平成26年12月4日放送分)
  2. ^ 当初は笑福亭松之助の元で落語を演じており、初高座も京都花月において「西の旅」を演じた。(『なるみ・岡村の過ぎるTV』2015年1月11日放送分)

座標: 北緯35度00分19秒 東経135度46分03秒 / 北緯35.00534度 東経135.76754度 / 35.00534; 135.76754