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相撲 2017年8月19日 (土) 04:57‎ (UTC) より転記。
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{{告知||記事の改稿について|date=2017年8月}}
'''大坂相撲'''(おおさかずもう、大阪相撲)は、[[江戸時代]]から[[大正]]の末まで存在した[[相撲]]の興行組織。
{{参照方法|date=2012年1月}}
{{Infobox_武道・武術
|読み= すもう
|画像名=Kunisada Sumo Triptychon c1860s.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=相撲絵([[歌川国貞]]、1860年代)
|別名=
|競技形式=[[神事]]・素手・打撃・組み合い・投げ合い
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|派生種目=[[組討]]・[[大相撲]]・[[アマチュア相撲]]・[[新相撲]]
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|オリンピック=
|公式ウェブサイト=
}}
{{ウィキプロジェクトリンク|相撲}}
[[ファイル:Reproduce of Sumo by Hiroshige.png|thumb|290px|[[隅田川]][[テラス]]にかかる[[歌川広重]]の「相撲の図」の[[模写]]]]
'''相撲'''(すもう)は、土俵の上で[[力士]]が組合って戦う形を取る[[日本]]古来の[[神事]]や[[祭り]]であり、同時に[[武芸 (日本)|武芸]]でもあり[[武道]]でもある(「弓取り式」の本来の意味から)。古くから祝儀(懸賞金という表現)を得るための興行として、'''[[大相撲]]'''が行われている。日本由来の[[武道]]・[[格闘技]]・[[スポーツ]]として国際的にも行われている。

== 概要 ==
相撲は日本固有の[[宗教]]である[[神道]]に基づいた神事であり、日本国内各地で「祭り」として「奉納相撲」が地域住民により、現在も行われている。健康と力に恵まれた男性が神前にてその力を尽くし、神々に敬意と感謝を示す行為とされる。そのため、礼儀作法が非常に重視され、その一環として[[力士]]は[[まわし]]以外は身につけない。その名残は現代の興行形式である[[大相撲]]にも見られる。また、古代から現代に至るまで[[皇室]]との縁は深い。

他方で、格闘技として見れば、裸身(に極めて近い状態)で道具を用いず、つかみ合い、相手の体を倒しあうことを競う[[レスリング]]系統の競技である。英語では「{{読み仮名|{{lang|en|sumo}}|スモウ}}」または「{{読み仮名|{{lang|en|sumo-wrestling}}|スモウ・レスリング}}」と表記される。類似の格闘技の中では、特に常に前に出て押すことを重視するところに特徴がある。

日本国内外で同じような形態の格闘技としては、[[沖縄本島]]の[[沖縄角力]](シマ)、[[モンゴル]]の[[ブフ]]、[[中国]]の[[シュアイジャオ]]、[[朝鮮半島]]の[[シルム]]、[[トルコ]]の[[ヤールギュレシ]]、[[セネガル]]の[[セネガル相撲|ラム]]などがある。それぞれ独自の名前を持つが、日本国内で紹介される場合には何々相撲(沖縄相撲(琉球角力)、モンゴル相撲、トルコ相撲など)、といった名で呼ばれることが多い。

なお、日本では組み合う[[格闘技]]的な[[競技]]を総じて相撲と呼ぶ。用例には[[腕相撲]]、[[足相撲]]、[[指相撲]]、拳相撲、[[草相撲]]などがある。他に、相撲を模して行われるものに[[紙相撲]]がある。

== 相撲の歴史 ==
{{出典の明記|section=1|date=2012年1月}}
江戸時代以降の詳細は[[大相撲#歴史]]も併せて参照。

=== 古代 ===
相撲の起源は非常に古く、[[古墳時代]]の[[埴輪]]・[[須恵器]]にもその様子が描写されている。
*『[[古事記]]』の[[神代]]([[日本神話]])においては、[[タケミカヅチ|建御雷神]](タケミカヅチ)の派遣([[葦原中国平定]])の際、出雲の[[タケミナカタ|建御名方神]](タケミナカタ)が、「然欲爲'''力競'''」と言った後タケミカヅチの'''腕を摑んで投げよう'''とした[[描写]]がある。その際タケミカヅチが手を[[氷柱]]へ、また氷柱から[[剣]](つるぎ)に変えたため掴めなかった。逆にタケミカヅチはタケミナカタの手を葦のように握り潰してしまい、勝負にならなかったとあり、これが相撲の起源とされている。

=== 弥生時代 ===
*『[[日本書紀]]』には、神ではなく、人間としての[[力士]]同士の戦いで最古のものとして、[[垂仁天皇]]7年([[紀元前23年]])[[7月7日 (旧暦)]]にある[[野見宿禰]]と「當麻蹶速」([[当麻蹴速]])の「'''捔力'''」(「'''すまいとらしむ'''・'''スマヰ'''」または「'''すまい'''・'''スマヰ'''」と訓す)での戦いである(これは[[柔道]]でも柔道の起源とされている)。この中で「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」「各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之」とあり、試合展開は主に[[蹴り技]]の応酬であり、最後は宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り、更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃して腰骨を踏み折り、絶命させたとされる。これらの記述から、当時の相撲は打撃を主とする格闘技であり、既に勝敗が決した相手にトドメの一撃を加えて命までをも奪った上、しかもそれが賞賛される出来事であった事から見ても、少なくとも現代の相撲とはルールも意識も異なるもので、[[武芸 (日本)|武芸]]・[[武術]]であったことは明確である。

宿禰・蹶速は相撲の始祖として祭られている。<ref>[http://www.izumooyashiro.or.jp/nominosukunesouken.html 野見宿禰神社創建]</ref>

さらに
*『[[古事記]]』の垂仁記には、「ここをもちて軍士の中の力士の軽く捷きを選り聚めて、宣りたまひしく、その御子を取らむ時、すなわちその母王をも掠取れ。髪にもあれ手にもあれ、取り穫む隨に、掬みて控き出すべし。とのりたまひき。ここにその后、かねてかその情を知らしめして、悉にその髪を剃り、髪もちてその頭を覆ひ、また玉の緒を腐して、三重に手に纏かし、また酒もちてその御衣を腐し、全き衣の如服しき。かく設け備へて、その御子を抱きて、城の外にさし出したまひき。ここにもの力士等、その御子を取りて、すなはちその御祖を握りき。ここにその御髪を握れば、御髪自ら落ち、その御手を握れば、玉の緒また絶え、その御衣を握れば、御衣すなはち破れつ。」とあり、初めて「'''力士'''」('''ちからひと・すまひひと''' と訓す)の文字が現れる。

=== 古墳時代 ===
*[[記紀]]には、[[景行天皇]]40年([[110年]])に[[ヤマトタケル|日本武尊]]が、[[大和国]](現在の奈良県)の息吹山<!--これは伊吹山の事でしょうか?(奈良県ではありませんが)-->の神を'''素手'''で倒そうと、[[天叢雲剣|草薙剣]]を持たずに、素手で山に入ったことが記されている。
*『[[日本書紀]]』の[[雄略天皇]]13年([[469年]])には、秋九月、雄略天皇が二人の[[采女]](女官)に命じて[[褌]]を付けさせ、自らの事を豪語する工匠[[猪名部真根]]の目前で「'''相撲'''」をとらせたと書かれている。これは'''記録に見える最古の女相撲'''であり、これが記録上の「'''相撲'''」という文字の初出でもある。

=== 飛鳥時代 ===
*『[[日本書紀]]』の[[皇極天皇]]元年([[642年]])[[7月12日 (旧暦)]]に「乙亥 饗百濟使人大佐平智積等於朝 或本云 百濟使人大佐平智積及兒達率 闕名 恩率軍善 乃命健兒相撲於翹岐前」とある。[[百済]]の「大佐」(太政大臣クラス)の使者と、先に亡命していた王族の翹岐をもてなすため、'''健児'''(こんでい・ちからひと)に相撲を取らせた。
*『日本書紀』の[[天武天皇]]11年([[682年]])[[7月3日 (旧暦)]]にも「大隅隼人与阿多隼人相撲於朝庭 大隅隼人勝之」とあり、7世紀には、7月に相撲が行われていたことがうかがわれる。

=== 奈良時代 ===
*『[[続日本紀]]』の[[養老]]3年([[719年]])[[7月4日 (旧暦)]]に「初置抜出司」と見える「抜出司は、諸国から集められた相撲人の中から選抜する臨時官で、のちの相撲司に当たるものと考えられている。
*'''突く殴る蹴るの三手の禁じ手・四十八手・作法礼法等'''が[[神亀]]3年([[726年]])に制定される。([[吉田司家]]・[[志賀清林]]を参照)
*『[[続日本紀]]』の[[神亀]]5年([[728年]])[[4月25日 (旧暦)]]に、諸国の国司や郡司が相撲人を王族や貴族に献上してしまい朝廷に貢進しないことを諫める詔が出ている。これによって、すでに各貴族が相撲人を保持していたことが想像される。
*『[[万葉集|萬葉集]]』の巻五には、[[天平]]2年([[730年]])の大宰府からの「相撲部領使」と、翌年([[731年]])の肥後国からの「相撲使」の記述が見える。中央まで引率する官で、後者は大宰府を[[6月17日 (旧暦)]]に出発していることがわかる。
*『[[続日本紀]]』では、[[天平]]6年([[734年]])[[7月7日 (旧暦)]]に[[聖武天皇]](在位724年 - 749年)が「相撲戯」を観覧したことを記している。これが、7月7日の節日に相撲が行われた明確な最初の記録である。

=== 平安時代 ===
*;王朝
:[[宮廷]]では各地から[[力士|相撲人]]を選出し、相撲大会を催した。[[天皇]]が出御した行事を[[節会]]と称し、天皇御覧の元に相撲を行ったため、「'''[[相撲節会]]'''(すまひのせちえ)」と呼んだ<ref name="akizawa">秋澤 亙・川村 裕子  『王朝文化を学ぶ人のために』 2010年 世界思想社 ISBN 4790714888</ref>。当日は「召合(めしあわせ)」と言う十数番までの取組があり、[[紫宸殿]]の庭で行われ、その後には[[近衛府]]による「相撲の還饗(かえりあるじ)」というもてなしが開かれた。

:当初は、[[当麻蹴速]](たぎまのけはや)と[[野見宿禰]](のみのすくね)の相撲対戦にちなんで7月7日に催したが、弘仁15年([[824年|824]])7月7日に[[平城天皇]]が崩御、命日と重なり7月16日に日程を改める。しかし、平安中期にはまた別の諸事情により、開催日は7月下旬が慣例となった。<ref name="akizawa"/>

:[[平安時代|平安後期]]になると相撲節会は徐々に衰微して行き、承安4年([[1174年|1174]])以降は行われなくなり、宮廷行事としての相撲大会は終結する。<ref name="akizawa"/>

:相撲節会を行った[[旧暦]]の7月は凡そ現在の8月であり、時期が[[秋]]の収穫前であったことと、古来より相撲には五穀豊穣の祈願と作柄を占う、神事の意味が存在したことから、相撲節会も同様の儀礼を基底に催したと捉えられている。<ref name="akizawa"/>

*;一般
:宮中で行われた相撲節会のほかには、民間の相撲も大いに行われていた。一般の庶民による相撲は「[[土地相撲]]」、または「草相撲」と呼ばれていた。一方、「[[武家相撲]]」は武士たちの実戦で用いる[[組討|組み打ち]]の鍛錬であり、また心身を鍛える武道でもあった。また「[[神事相撲]]」は、農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するための農耕儀礼であった。

*『[[源平盛衰記]]』には、[[伴善男]]と[[紀名虎]]が相撲で勝負をした記述がある。
*『[[今昔物語集]]』などの当時の説話には、相撲節会におもむく全国各地の力士たちにまつわるエピソードが紹介されている。
*『[[類聚三代格]]』に相撲の記載あり。
*『[[倭名類聚鈔]]』に相撲の記述があり、当て字の「'''須末比(すまひ)'''」や「[[古布志宇知]](こぶしうち)」という武術らしき名称が見える。
*『[[御堂関白記]]』に相撲の記載が多数あり。
*『[[平安朝相撲絵巻]]』には相撲節会が描かれている。
*『相撲人形』[[滋賀県]]、[[御上神社]]には相撲を取る力士と、行司の人形が現存している。
*『[[続日本紀]]』『[[日本後紀]]』『[[続日本後紀]]』『[[日本文徳天皇実録]]』『[[日本三代実録]]』『[[類聚国史]]』『[[日本紀略]]』『[[小右記]]』『[[中右記]]』等にも、相撲の記述が見られる。

=== 鎌倉時代 ===
*『[[吾妻鑑]]』によると[[源頼朝]]は、上覧相撲を開催している。
[[ファイル:Sumo at the great amphitheatre at Veddo-J. M. W. Silver.jpg|thumb|250px|『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より、1867年刊]]
*[[鎌倉時代]]には、[[源頼朝]]が相撲を奨励した。御家人では[[畠山重忠]]が相撲の強者であったと伝えられる。[[曾我兄弟の仇討ち]]も、この頃に起きている。

また、[[和田常盛]]・[[朝比奈義秀]]兄弟が[[陸奥国|奥州]][[ウマ|馬]]を巡って、相撲で競った[[逸話]]がある。
*『[[古今著聞集]]』に相撲の記載がある。

=== 南北朝時代 ===
*播磨[[赤松氏]]の[[赤松円心]]の三男で、当時有力な武将・[[守護大名]]であった[[赤松則祐]]がいたが、『[[梅松論]]』には則祐に関し、京での相撲人としての武勇伝が記されている。
*[[正平 (日本)|正平]]年間、[[紀伊国|紀伊]]の[[粉河寺]](現在の[[紀の川市]]にある寺)で書かれた『粉河寺寺務御教書』という書物によると、粉河寺周辺で毎年六月に行われる粉河寺祭の奉納相撲の祭礼参加をめぐり、東村と荒見村との村同士の争いが起こった。
*[[室町時代]]以前には着衣で相撲を楽しむ庶民の絵などがあり遊戯としては土俵も無く着衣で行なわれていた。
*『[[太平記]]』に相撲の記載がある。

=== 室町時代 ===
*[[室町時代]]から、[[足利将軍家]]による[[上覧相撲]]及び諸国の[[大名]]達が相撲見物をするようになる。
*『[[看聞御記]]』『[[満済准后日記]]』『[[多聞院日記]]』『[[朝倉始末記]]』等に相撲の記載あり。

=== 戦国時代 ===
*[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には、[[織田信長]]が相撲を奨励した。また、信長は[[土俵]]の原型の考案者とされる。
*『[[信長公記]]』にも相撲の記載あり。

=== 織豊時代 ===
*[[安土桃山時代]]には、[[豊臣秀吉]]が[[明|明国]][[平定]]の為の[[文禄の役]](1592)のおり、[[田浦]](現在の[[山口県]][[岩国市]][[通津]]地区)に留まった時に、力自慢の家来をかき集めて上覧相撲を開催し、それ以後毎年地元で相撲大会を開いたと言う地元伝承があり、それを伝える碑が立っている。
*『[[義残後覚]]』『[[武将感伏記]]』等に相撲の記載あり。


== 歴史 ==
[[ファイル:「勧進相撲興行の地」記念碑.jpg|サムネイル|大阪市西区の南堀江公園内にある「勧進相撲興行の地」記念碑]]
=== 江戸時代 ===
=== 江戸時代 ===
*[[江戸時代]]には寺社建立修繕の資金集めとして'''勧進相撲'''が興行されていた。これが[[職業]]としての[[大相撲]]が始まりとされ、以降[[渡世]]文化としての相撲が定着した。このとき、[[徳川将軍家]]の[[上覧相撲]]もたびたび開催された。
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[日本]]では[[土地相撲]](興行相撲)が勃興し、上方では[[勧進相撲]]と名乗っていち早く興行様式が浸透した。江戸時代初期の勧進相撲は[[浪人]]が参加するなどしたため暴力沙汰が絶えず、[[慶安]]年間(1650年頃)を境に数十年間の中断を余儀なくされる。元禄15年(1702年)、堀江開発の地代金の確保のための興行が認められて、およそ半世紀ぶりに相撲興行が再開した。享保4年(1719年)以降は力士経験者のみに勧進元を許すようになり、享保7年(1722年)からは勧進元を前年にクジで決定するようになった。{{Sfn|酒井|p=78}}。
*[[江戸時代]]から、また[[座頭相撲]]とそこから派生した[[女相撲]]の興行も存在し昭和30年代後半まで存続した。
*江戸期には都市の発達に伴い大都市のみならず地方都市においても相撲興行が行われ、[[歌舞伎]]や人形浄瑠璃などとともに催された。それに伴い多くの[[浮世絵師]]が相撲や[[力士]]の[[錦絵]]を製作し、力士絵は[[浮世絵]]のジャンルとして確立した。
*『[[北斎漫画]]』等に相撲の記載あり。


=== 明治維新以降 ===
宝暦年間(1750年代)に入ると江戸相撲も整備され、江戸、京都、大坂の三都が中心となり、本場所を年4場所(東京2場所、京都1場所、大坂1場所)開くようになる。大坂商人の後援とを背景に、18世紀後半までは江戸相撲(のちの東京相撲)をしのぐ隆盛を誇った。そもそも当時の力士はそれぞれの勧進元に所属しているわけではなく、[[抱え (相撲)|抱え]]の大名が勧進元と合意に至れば基本的に4場所すべてに出場することは可能であった。実際、1780年代に黄金時代を築いた[[谷風梶之助 (2代)|谷風梶之助]]と好敵手となった[[小野川喜三郎]]は大坂相撲の出身で、上方相撲でも両者は覇を競っている。しかし時代が進むにつ入れて、江戸相撲では[[雷電爲右エ門]]ら花形力士が次々と現れ、[[参勤交代]]制度で江戸詰めを強いられる諸大名が[[抱え (相撲)|抱え]]力士を江戸相撲に出場させることを好む様になり、徐々に相撲の本場の座を江戸に奪われることになった。
[[File:Michi-no-miya Hirohito 1913 Sumo.jpg|thumb|相撲を取る[[皇太子]]時代の[[昭和天皇]]]]
*[[1936年]](昭和11年)6月相撲は[[尋常小学校]]の正課授業となった。
*[[大正8年]]から全国学生相撲大会が始まる。
*[[戦時中]]に、南洋の占領地の[[パラオ]]及び[[トラック諸島]]などで、現地人と共に相撲が行われた。
*[[昭和]]後期には[[アマチュア相撲|アマチュア]]の[[女子相撲]](新相撲)が行われ「[[日本新相撲連盟]]」という組織が存在する。
*[[平成]]から'''廻し'''の下に「[[短パン]]」や「[[スパッツ]]」などを履く者が増える。
*[[2008年]](平成20年)には、[[日本ビーチ相撲連盟]]というアマチュアの組織が結成された。
*[[2012年]](平成24年)からは、[[義務教育]]に武道必修化の[[必修科目]]として、''相撲''・[[剣道]]・[[柔道]]の三種を基本として加味される。


== 神事としての相撲 ==
力量の差は当初は東西でさほどでもなかったが、やがて有力力士の流出によって、[[幕末]]の頃には江戸相撲に大きく水をあけられる形になった。[[文久]]3年([[1863年]])[[6月3日_(旧暦)]]に大坂北新地で壬生浪士組(後の[[新選組]])と死傷事件を起こしたのは大坂相撲で、中頭の[[熊川熊次郎]]([[肥後国|肥後]]出身)が死亡し多数の負傷者をだしたが、和解し、手打ちとして京都での相撲興行では壬生浪士組と親しい[[京都相撲]]、大坂相撲が共同で行われた。<ref>大坂角力乱闘事件 新選組 斎藤一 2009年9月12日</ref>
[[ファイル:Sasagawa-sumo,suwa-shrine,tonosho-town,chiba,japan.JPG|thumb|250px|奉納相撲([[東庄町]][[諏訪神社]])]]
相撲は[[神事]]としての性格が不可分である。
[[祭]]の際には、[[天下泰平]]・[[子孫繁栄]]・[[五穀]]豊穣・[[大漁]]等を願い、相撲を行なう[[神社]]も多い。そこでは、[[占い]]としての意味も持つ場合もあり、二者のどちらが勝つかにより、五穀豊穣や豊漁を占う。そのため、勝負の多くは1勝1敗で決着するようになっている。和歌山県、[[愛媛県]][[大三島]]の[[大山祇神社#一人角力|一人角力]]の神事を行っている神社では稲の霊と相撲し霊が勝つと豊作となるため常に負けるものなどもある。場合によっては、不作、不漁のおそれがある土地の力士に対しては、あえて勝ちを譲ることもある。また、土中の邪気を払う意味の儀礼である四股は重視され、神事相撲の多くではこの所作が重要視されている。[[陰陽道]]や[[神道]]の影響も受けて、所作は様式化されていった。


* 神事相撲の一例
=== 明治時代 ===
** 唐戸山神事相撲:[[石川県]][[羽咋市]] 羽咋神社
[[明治]]には、大阪相撲協会ができた。この頃には、大阪で[[大関]]だった[[梅ヶ谷藤太郎_(初代)|初代梅ヶ谷]](のち横綱)が、東京相撲に移籍した際、[[本中]]から取り進むことを余儀なくされるほど、東西の格差は広がっていた。ただ、このケースは例外で、一般的には、東京と大阪との移動については、実力相応のところに付け出されることが普通である。また、東京相撲の横綱[[常陸山谷右エ門]]は[[1896年]](明治29年)に名古屋相撲から大阪相撲へ。後広島相撲から東京相撲へと移籍を繰り返している。このように東京から大阪に移った者としては、横綱になった[[宮城山福松]]が有名である。
** 延方相撲:[[茨城県]][[潮来市]]延方 鹿嶋吉田神社
** 琴平相撲:茨城県[[北相馬郡]][[利根町]]布川 琴平神社


=== 大相撲の神事 ===
[[1910年]](明治43年)、[[大木戸森右エ門]]を独自に横綱に推挙したことから、[[吉田司家]]から[[破門]]、東京相撲からも絶縁される。2年後に和解、大木戸も後に司家免許を受け、現在では公認の[[横綱一覧]]に名を残している。
* 江戸中期以降の[[大相撲]]は特に[[神道]]の影響が強く、[[力士]]の[[土俵入り]]の際に[[拍手 (神道)|拍手]]をうち、[[横綱]]が[[注連縄]]を巻くようになったのは、相撲の宗家とされた[[吉田司家]]の許可に基づくものである。東京での[[本場所]]前々日には東京都墨田区の野見宿禰神社に[[日本相撲協会]]の幹部、審判部の幹部や[[相撲茶屋]]関係者が出席して、[[出雲大社教]]の[[神官]]によって神事が執り行われる。


* 土俵祭
===大正時代===
: [[土俵祭]]とは、本場所の前日には立行司が祭主となって行なう祭事である。介添えの行司が清祓の祝詞をあげた後、祭主が神事を行い、方屋開口を軍配団扇を手にして言上する。この後、清めの太鼓として、呼び出し連が土俵を3周して式典が終わる。[[寛政]]3年(1791年)[[征夷大将軍]]・[[徳川家斉]]の上覧相撲の際に[[吉田追風]]が「方屋開」として始めたものである。
東京相撲との合同興行も大正期まで恒例として行われたが、戦力差はいかんともしがたく、そのため出身地別対抗戦などの苦肉の策も考案された。また[[龍神事件]]など内紛が続き、運営に[[侠客]]が関与するようにもなり、多くの関係者が廃業したこともあったために、さらに力が落ちることになった。


* 相撲場は明治中期まで[[女人禁制]]で、[[明治]]になるまで観戦することもできず、現在でも土俵上に女性が上るのを忌避している。<!-- 前記文章には対応する出典がない -->しかしながら、伝統的な慣習であるという点については異論が出ている。[[女相撲]]という言葉は古くは日本書紀に見られ<ref name="female_sumo_1">吉崎 祥司. 稲野 一彦. 相撲における「女人禁制の伝統」について. 北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編 / 北海道教育大学 編.. 59(1) 2008.8. 71~86 {{ISSN|1344-2562}}</ref><ref name="female_sumo_2">金田 英子. 興行としての女相撲に関する研究. 日本体育大学紀要 / 紀要委員会 編.. 22(2) 1993.03. p97~102 {{ISSN|0285-0613}}</ref><ref name="female_sumo_3">金田 英子. 1212505 北九州地方における女相撲について : 長崎県・佐賀県の場合. 日本体育学会大会号 / 社団法人日本体育学会.. 43 1992.12. p907 {{NCID|AN00388942}}</ref>、江戸時代以降は興行記録も残っており<ref name="female_sumo_1" /><ref name="female_sumo_2" />、戦前まで女相撲の興行が行われていた<ref name="female_sumo_2" />からである。また、俵を使った土俵の登場は江戸時代からである<ref name="female_sumo_1" />。神事としての相撲は、九州地方では現在も伝統行事として行われていることが知られている<ref name="female_sumo_3" />ように、必ずしも女性を忌避するものではない。
[[両国国技館]]の落成など、東京相撲が隆盛を極めると、対抗して[[1919年]](大正8年)、[[新世界_(大阪)|新世界]]([[スパワールド]]北側の階段付近)に両国に匹敵する規模の「[[大阪国技館]]」を建設したり、東京にならって[[東西制]]の団体優勝制度や[[優勝額|個人優勝掲額]]を発足させたりしたが、協会内部の内紛は続き実力は低下の一途をたどった。[[1923年]](大正12年)には、幕内力士の半分近くが廃業する紛擾([[龍神事件]])がおき、幕内を片番付で発行したこともあった。東西の合併が議論されるようになったが、大阪側が東京に吸収される形になるのを嫌い、東京側も既得権益について譲らず、条件面での妥協点がなかなか見出せずにいた。


*土俵
[[1925年]](大正14年)、当時の皇太子(後の[[昭和天皇]])が東京相撲を台覧、奨励金を下賜したことは大きな転機になった。下賜金から摂政宮[[賜杯]](現在の天皇賜杯)を作成した東京相撲側は、大坂相撲側に対して大きなイニシアティブを握ることになり、公式に「摂政宮賜杯を東京相撲の力士だけで独占するのは忍びない、ぜひ大坂相撲の力士にも持つ機会を与えたい」と大坂に告知し、東西合併を強力に推し進めた。<ref>大空出版『相撲ファン』vol.4 100頁</ref><ref>合併を進める口実になったとする説もある。</ref>
{{main|土俵}}
<!--ちなみに、行司が仕切るときの「はっけよい」とは「発勁よいか」という語のもじりです。すなわち、気合十分か?という意味です。」←この説は聞いたことがないわけではありませんが、どれも冗談としてのものでした。(FeZn)←八卦用意の意味、と聞いたことがありますが--[[利用者:っ|<font color=#008000>っ</font>]] 2004年12月23日 (木) 15:09 (UTC)-->
<!--「はっけよい」とは「発気用意」とする説もあるようです。-->


== 相撲の呼び方 ==
1925年(大正14年)に東西合同に関しての原則合意がとりかわされ、同年[[11月]]から[[1926年]]にかけて、番付を統合すべく技量審査のための東西合同の興行が都合3度行われ、それを参考にして[[1927年]](昭和2年)[[1月]]の番付は編成された。また、この合同興行で、[[不戦勝 (相撲)|不戦勝]]の制度が初めて試みられた。
* 「'''すもう'''」の呼び方は、古代の「'''スマヰ'''」から「'''すまひ'''」→「'''すまふ'''」→「'''すもう'''」に訛った。
* 「'''角力'''」、「'''捔力'''」(『[[日本書紀]]』)、「'''角觝'''」(江戸時代において一部で使用)、などの表記が有る。これらの語はもともと「力くらべ」を指す言葉であり、それを「'''すもう'''」の漢字表記にあてたものである。19世紀から20世紀初頭までは「すもう」は「角力」と表記されることが多かった<ref>『大相撲ジャーナル』2017年8月号 p59</ref>。
* 古代には'''手乞'''(てごい)とも呼ばれていたと言う説も有る。('''手乞'''とは、相撲の別名とされ、相手の手を掴む事の意、または、'''素手'''で勝負をする事を意味する。)
* 大相撲を取る人は「'''力士'''」(りきし)や「'''相撲取り'''」といい、会話では「'''お相撲さん'''」とも呼ばれ、英語圏では「相撲レスラー」と呼ばれる事もある。


== 相撲の戦い方 ==
1926年(大正15年)[[1月]]に[[日本統治時代の台湾|台湾]]の[[台北市|台北]]で大坂相撲最後の本場所が開催された。
* 競技の形態としては、直径4.55m(15[[尺]])の[[円 (数学)|円]]形または四角形をした[[土俵]]の中で[[廻し]]を締めた二人が組み合って(取り組み)勝ち負けを競う。土俵から出るか、地面に足の裏以外がついた場合、もしくは反則を行った場合、負けとなる。その判定は[[行司]]([[アマチュア相撲]]では[[主審]]と呼ぶ)が行う。
* 相撲の取組は、伝統的に力士の年齢・身長・体重に関わらずに行われる。(無差別の戦い方)
* 相撲司家の[[吉田司家|吉田家]]の故実では、禁じ手制定以前の相撲の戦い方について「'''相撲の古法は、突く・殴る・蹴るの三手である'''」と伝えられている。


普通は以下のような流れになる。
===解散へ===
1927年(昭和2年)、東京相撲協会と大阪相撲協会は解散し、大日本相撲協会が発足した。この時、横綱[[宮城山福松]]は、[[吉田司家|司家]]の本免許を持っていたためにそのまま横綱として位置を保障されたが、それ以外の力士は合併興行の結果で、それにふさわしい地位に配属された。そのため、関取として加入した大坂力士は少なく幕内6名、十両5名にとどまり、大坂大関も、[[荒熊谷五郎]]は前頭9枚目、[[錦城山勇吉]]は同10枚目、[[若木戸鶴五郎]]は幕下3枚目に組み込まれた。荒熊と錦城山は結局三役に上がれないまま[[引退]]しており、実力審査自体は公平であったとされている。元大関の関脇[[真龍栄太郎|真竜榮太郎]]は合併興行には参加したが東京加入を断念する等、大坂相撲解散に際して廃業し東京に加入しなかった力士や親方も多かった。その中で、若手の[[真鶴秀五郎]]はよく健闘し、小結から幕内上位で活躍した。また、幕下に組み込まれた[[磐石熊太郎]]はまもなく十両に昇進し、その後関脇まで昇進した。


=== 大阪相撲の名残 ===
=== 塵手水 ===
{{main|塵手水}}
大阪相撲の歴史はこうして幕を閉じることになったが、現在でも[[時津風_(相撲)|時津風]]、[[三保ヶ関]]などの[[年寄名跡|名跡]]や、後援者を指す「[[タニマチ]]」などの隠語にその名残を残している。また、本場所のポスターに大坂相撲の[[錦絵]]が使用されたこともあった。
*私は武器を持っていません、素手で正々堂々と勝負します。


=== 仕切り ===
大関[[増位山大志郎|初代増位山]](9代三保ヶ関)の師匠が大坂相撲出身の[[滝ノ海調太郎]]で、初代増位山の弟子に[[増位山太志郎|二代目増位山]](10代三保ヶ関)、[[北天佑勝彦|北天佑]](13代[[二十山]])の2大関、そしてのちに[[日本相撲協会]]理事長となる横綱[[北の湖敏満|北の湖]]がいる。現役の関取経験者では[[臥牙丸勝]]・[[北太樹明義]]・[[鳰の湖真二]]などが、師匠の系譜をたどれば大坂相撲に遡ることができる。
{{main|仕切り}}
* 円形の土俵に入り、最初はやや離れて立ち、互いに顔を見合わせ、腰を落とし、仕切り線に拳をついて準備する。これを'''仕切り'''といい、立ち会いが成立するまで繰り返す。仕切りは何度行ってもよく(制限時間がある場合はその範囲で)、繰り返さなくてもよい。
* [[1928年]](昭和3年)1月12日から[[日本放送協会]]の[[ラジオ]]放送による[[大相撲中継]]が始まった際、放送時間内に勝負を納めるため幕内10分、十両7分の制限時間設定と共に仕切り線が設けられた。現在の制限時間は幕内4分、十両3分である。


=== 立合い ===
大阪由来の部屋として現存している相撲部屋は[[山響部屋]]・[[尾上部屋]]・[[木瀬部屋]]の3部屋でいずれも元は三保ヶ関部屋から独立した部屋である。[[朝日山部屋]]は17代朝日山の[[若二瀬唯之]](部屋の師匠としては7代目)まで直系の弟子で相続されていて、東西合同以前から存続してきた最後の部屋だったが2015年1月末に閉鎖された。
{{main|立合い}}
* 拳をついた状態から互いに目を合わせ、両者同時に立ち上がってぶつかる。普通は正面からぶつかり合うものであるが、必ずしもそうしなくても良い。この試合の始まりを立合いという。
* '''立合い'''は世界では見られない日本独自の方法で、その開始は両者の暗黙の合意のみで決まる。仕切りを繰り返すうちに両者の気合いが乗り、共にその気になった瞬間に立ち上がるのが本来の形で、行司は一般のスポーツのように開始を宣言するのではなく確認するだけである。ただし、現実には時間制限などが設けられる。
* 土俵に拳をつける立ち合いは江戸時代の[[元禄]]の大相撲力士の鏡山仲右衛門が始めたものが広まったものである。
* 仕切り線ができたことにより発達した。それ以前の時代の写真から立会いの距離制限が無く頭と頭をつけた状態から開始されることも多かったことがうかがえる。


=== 勝ちの確定 ===
なお、[[時津風部屋]]は名跡は大坂相撲に由来するが東京相撲系の[[双葉山定次|双葉山]](12代[[時津風 (相撲)|時津風]])が興した部屋で系譜上のつながりはない。双葉山が名跡を取得した際に「それは大坂相撲の評判の悪い親方の名跡だから」と諫める者があったが「年寄名跡は皆同じ」と答えたという逸話がある。
勝ちが決まるのは次の場合である。
* 相手の体のうち足の裏以外の部分を土俵の土に触れさせた場合。投げて背中を着けても引っ張って掌を着けてもよく、極端な場合は相手の髪の毛が着いてもその時点で相手の負けが決まる。
* 相手を土俵の外に出した場合。相手の体の一部が土俵の外の地面に着いた時点で勝ちが決まる。

日本の相撲以外の多くの相撲系の格闘技は[[レスリング]]における[[フォール]]のように相手の背中が地面に着かないと勝ちにならない。また、試合場の外に出ることを反則としても即座に負けと認める例も少ない。この二点のために相撲は勝負がつきやすいと共に勝敗の行方がデリケートである。[[体重別階級|体重制]]を取らなくても勝負が成立する理由の一つもここにある。

=== 相撲の攻め手 ===
* 離れた状態から'''ぶちかまし・喉輪・突っ張り・張り手・足払い等'''の'''攻め手'''を用いる'''立ち合い'''により優位な状況をつくる。
* 触れ合った状態で押す。胸に手の平を当てたり、廻しを握って押し出す。
* 廻しを掴んで引き寄せ合う。両者が同じ側(右と左)で横より後ろの廻しを取り合った場合に互いの手が交差するが、その際内側にある手を下手、外側にある手を上手という。「上手は浅く、下手は深く」というのが廻しの取り方の基本である<ref>石浦外喜義『弱くても勝てる 強くても負ける』(幻冬舎、2017年)p8</ref>。
*急に後ろに引いたり、体を開くなどによって相手のバランスを崩す。

相撲においてはまず押すことを良しとする。廻しを取った手は引くが、その場合も体全体として常に前に出ることを心がける。「引かば押せ、押さば押せ(相手が引こうが押そうが押せ)」との言葉もある。実際には引き落としなど引く技もあるが褒められない。また、引かれた場合も引かれる以上の速さで前に出ることで攻勢を取るのが良しとされる。

=== 相撲の防ぎ手 ===
{{節スタブ}}

== 相撲の組み方 ==
* 力士同士のお互いの組み方として'''四つ身'''と言う組み方があり、'''右四つ・左四つ・手四つ・頭四つ または外四つ(もろ差し)等'''がある。
**互いにまわしを取り合う場合、標準的なつかむ位置として相手の腰の横から少し後ろとなる。すると、両者の腕が交差することになるが、このとき相手の腕の外を回る腕を[[上手]](うわて)、内側に入る腕を[[下手]](したて)という。両者互角に組む場合、それぞれ片腕が上手、もう片腕が下手となる。ここで互いに右手が下手になっているのを右四つ、左手が下手になっているのを左四つという。
**片方が両腕ともに下手でまわしを取るのを[[もろ差し]]という。このとき相手も両手でまわしを取ると、両手とも上手となるのが外四つである。
**両者が互いの向き合う手をつかみ合った状態で押し合うのを手四つという。大相撲で見ることはほとんどない。むしろプロレスで見ることが多い。
**互いの頭を押しつけあうのを頭四つ(ずよつ)という。そのまま相撲が進むことは少なく、その状態から互いの肩を押したりといった形になる。

これらは両者互角、あるいはそれに近い組み方であるが、当然ながら相手にそうさせない方が自分には都合がよい。自分がまわしを取っても、相手にとらせないのは重要な手法であるし、取られた手を離させる、たとえば『上手を切る』のは大切な技法である。

=== 決まり手 ===
* 勝敗が決したとき、それがどのような技によるかを判断したものが[[決まり手]]である。当然様々な場合があるが、公式な決まり手として、'''投げ・掛け・反り・捻り'''を中心にしたものがある。かつては'''四十八手'''といわれたが、現在では大相撲協会が82の技名と技でない決まり手5([[勇み足]]など)を決めており、そのどれかに分類される。

=== 禁じ手 ===
:[[志賀清林]]・[[吉田司家]]を参照のこと。

== 相撲の構え ==
* 日本古来から伝わる「[[手合]]」と呼ばれる'''相撲の構え'''が江戸時代中期まであったが、現在まで、その名残として「[[三段構え]]」が存在する。('''手合'''と'''三段構え'''は世界中では見られない'''日本独自の構え''')
* 力士が、「'''両手の手(拳)を土俵に付けてから立ち会う'''」事は、[[江戸時代]]中期の人物で[[紀伊国|紀伊]]出身の'''鏡山沖右衛門'''から始まった、これは、土俵を用いる相撲に適応し、徐々に浸透していった。
* 現在まで伝わっている相撲の「'''追っ付けの構え'''」は、相撲の攻防に適した'''構え'''である。

== 相撲の鍛練法 ==
* '''受け身・鉄砲・四股・摺り足・股割・ぶつかり稽古等'''

== 相撲の段級 ==
* [[日本相撲連盟]]が、[[段級位制]]を取っている。黒いまわしの着用が許されるのは初段以上である。

== 相撲の用語 ==
: →[[相撲用語一覧]]を参照のこと。

=== あんことソップ ===
重量級の力士を[[あんこ (相撲)|あんこ]]、軽量の力士を[[そっぷ|ソップ]]と称する。軽量力士は一般的には不利とされるが、軽量ゆえの動きを生かした技で大型のあんこ力士を倒す取組は大きな見所となる。近年では[[筋力トレーニング]]を重視した[[千代の富士貢|千代の富士]]や[[霧島一博|霧島]]といった、いわゆるソップ体型の名横綱、名大関が登場している。

== 相撲と日本人移民 ==
相撲は、日本移民とともに[[ブラジル]]に渡り、南アメリカにも持ち込まれた。

ブラジルでの最初の相撲大会は[[1914年]]8月31日、[[天長節]]を祝して[[サンパウロ州]]グアダバラ耕地で、開催された。福岡県、熊本県出身の30人余の若者が参加し、日本の本式の土俵で行われた。

* [[1962年]]、アマチュアの普及発展を目的に、伯国相撲連盟が結成。1966年にはブラジル政府公認のスポーツ団体となった。相撲推定人口は約4000人、本部はサンパウロ市にある。
* [[1983年]]、日本とブラジルの両相撲連盟が発起人となり国際相撲協議会を発足。
* [[1985年]]にはパラグアイ、アルゼンチンの相撲連盟が同協議会に加盟する。
* [[1986年]]、パラグアイへの日本人移民50周年記念事業として、全パ相撲大会が開催される。日本、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイの4か国から選手が参加した。

日本からの遠征は[[1951年]]、全伯青年連盟の招聘による[[笠置山勝一|秀の山]]一行の渡伯を皮切りに、大相撲から[[アマチュア相撲]]の選抜選手が現在も遠征が続けられている。

== 大相撲 ==
{{main|大相撲}}

== 行司家 ==
* 相撲司家の宗家吉田司家以外に、全国には'''行司家'''というものがあった。[[行司家]]は、[[五条家]]をはじめ、吉岡家、服部家、尺子家、一式家、岩井家、式守家、木村家、木瀬家、鏡山家、長瀬家など、その他多数存在した。
* 現在では、'''木村家'''と'''式守家'''のみが残っている。''([[行司]]も参照のこと。)''
一般的に、吉田司家は五条家の目代と言われているが、一切そのようなことは無く、関係あるのは二条家のみである。

事実、吉田家の19世、吉田追風が寛政年間に徳川幕府に提出した故実書に「五条家は家業牢人の輩の道中絵符人馬宿駅の帳面免許す」とあり、又、「木村庄之助の先祖書きにも旅行の節御由緒これあり、京都五条家より御絵符頂戴いたしきたり候」と記されているように、相撲の宗家とは云い難い。

== 相撲の今後の課題 ==
: 大相撲に関しては、→[[大相撲]]を参照のこと。
* 相撲司家である「'''吉田家'''」や「'''五条家'''」に伝わる[[故実]]・[[伝書]]などの[[調査]]・[[研究]]。
* 各[[行司家]]に伝わる故実・伝書などの調査・研究。
* 吉田司家の相撲界への復帰。
* 相撲の指導者および後継者の更なる育成。
* 防犯。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
日本の文化としての系譜
* [[年寄名跡]]
* [[若嶌權四郎]]
* [[歴史書一覧]]
* [[宮城山福松]]
* [[神道]]
* [[預り (相撲)]]
** [[奉納相撲]]
* [[京都相撲]]
** [[野見宿禰神社]]
* [[名古屋相撲]]
** [[白川伯王家]]
* [[広島相撲]]
** [[国技]]
* [[武芸一覧]]
* [[春秋園事件]] - 大日本相撲協会を脱退した[[天竜三郎]]らが関西角力協会を一時結成
** [[志賀清林]] - 相撲の作法などを定めた太古の行司。
** [[吉田司家]] - 相撲の宗家。
** [[手合]] - 古くに定められた相撲の構え。
力士の違いによる相撲の種類
* [[独り相撲]] - 古くから奉納相撲やその儀式の一つとして行われ、[[猿楽]]などの旅芸人の芸としても知られる。
* [[童相撲]]
* [[大相撲]]
* [[アマチュア相撲]] - [[日本武道協議会]]加盟の[[現代武道]]。
* [[女相撲]]([[女子相撲]])
相撲に関わる事柄
* [[相撲用語一覧]]
* [[相撲甚句]]
* [[好角家]]
* [[廻し]]
世界にある日本の相撲と似た競技
* [[世界の相撲一覧]]
相撲からの派生
* [[腕相撲]]/[[足相撲]]/[[指相撲]]/[[紙相撲]]/[[昆虫相撲]]/[[ロボット相撲]]
相撲に関する神話
*[[ヤコブ (旧約聖書)|ヤコブ]]と[[ラファエル]]の闘い
*[[オピーオーン]]

== 関連書籍 ==
* 神宮司庁『古事類苑 武技部』吉川弘文館
* 荒木精之『相撲道と吉田司家』相撲司会
* 肥後相撲協会編『本朝相撲司吉田家』
* 吉田長孝『原点に還れ〜国技相撲廃止の危機を突破した男 吉田司家二十三世追風 吉田善門』発行 熊本出版文化会館 発売 創流出版 ISBN 978-4-915796-88-3
* 次田真幸『古事記』 全訳注 上・中・下 講談社学術文庫
* 宇治谷孟『日本書紀』 全現代語訳 上・中・下 講談社学術文庫
* 宇治谷孟『続日本紀』 全現代語訳 上・中・下 講談社学術文庫
* 森田悌『日本後紀』 全現代語訳 上・中・下 講談社学術文庫
* 森田悌『続日本後紀』 全現代語訳 上・下 講談社学術文庫
* 『ボンジュール ジャポン―フランス青年が活写した1882年』ウーグ クラフト 著 後藤 和雄 編


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
{{reflist}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Professional sumo|Sumo}}
* [http://sumo.goo.ne.jp/ozumo_joho_kyoku/yomu/001/006.html 昔栄えた京阪相撲] 大相撲コラム集(大相撲あんなこと・こんなこと) - [[goo]] 大相撲
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; 公式
* [http://www.amateursumo.com/ 国際相撲連盟] {{en icon}}
* [http://www.sumo.or.jp/ 日本相撲協会 (大相撲)] {{ja icon}}
* [http://www.nihonsumo-renmei.jp/ 日本相撲連盟] {{ja icon}}
* [http://yoshidatukasa-ke.net/index.html 吉田司家公認一味清風会] {{ja icon}}
* [http://www.jbeach.jp/beachsumo/ 日本ビーチ相撲連盟] {{ja icon}}


; その他
* [http://ci.nii.ac.jp/naid/110001919260/ 「寛政の上覧相撲」(1791年)の開催経緯について : 19代目吉田善左衛門の登用をめぐって] {{ja icon}}
* [https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/handle/10291/4978 相撲技術名称の変遷] {{ja icon}}
* [http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/shis/ss00.html 日本相撲史概略] {{ja icon}}
* [http://www.geocities.co.jp/Athlete-Sparta/1008/kosumou.htm 古流相撲(古代相撲)] {{ja icon}}
* [http://www.beemanet.com/essay/sumo/ 「日本社会における相撲の変容」―文化史としての日本相撲史―] {{ja icon}}
* [http://park11.wakwak.com/~tsubota/door1.html 相撲評論家之頁] {{ja icon}}
* [http://libw01.kokushikan.ac.jp/data/000638/0000/registfile/0389_2247_18_10.pdf 新相撲の発足と今後の課題] {{ja icon}}

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2017年8月20日 (日) 11:04時点における版

Susuka/sandbox
すもう
相撲絵(歌川国貞、1860年代)
相撲絵(歌川国貞、1860年代)
競技形式 神事・素手・打撃・組み合い・投げ合い
発生国 日本の旗 日本
発生年 古代
創始者 不明
源流 スマヰ
派生種目 組討大相撲アマチュア相撲新相撲
テンプレートを表示
隅田川テラスにかかる歌川広重の「相撲の図」の模写

相撲(すもう)は、土俵の上で力士が組合って戦う形を取る日本古来の神事祭りであり、同時に武芸でもあり武道でもある(「弓取り式」の本来の意味から)。古くから祝儀(懸賞金という表現)を得るための興行として、大相撲が行われている。日本由来の武道格闘技スポーツとして国際的にも行われている。

概要

相撲は日本固有の宗教である神道に基づいた神事であり、日本国内各地で「祭り」として「奉納相撲」が地域住民により、現在も行われている。健康と力に恵まれた男性が神前にてその力を尽くし、神々に敬意と感謝を示す行為とされる。そのため、礼儀作法が非常に重視され、その一環として力士まわし以外は身につけない。その名残は現代の興行形式である大相撲にも見られる。また、古代から現代に至るまで皇室との縁は深い。

他方で、格闘技として見れば、裸身(に極めて近い状態)で道具を用いず、つかみ合い、相手の体を倒しあうことを競うレスリング系統の競技である。英語では「sumoスモウ」または「sumo-wrestlingスモウ・レスリング」と表記される。類似の格闘技の中では、特に常に前に出て押すことを重視するところに特徴がある。

日本国内外で同じような形態の格闘技としては、沖縄本島沖縄角力(シマ)、モンゴルブフ中国シュアイジャオ朝鮮半島シルムトルコヤールギュレシセネガルラムなどがある。それぞれ独自の名前を持つが、日本国内で紹介される場合には何々相撲(沖縄相撲(琉球角力)、モンゴル相撲、トルコ相撲など)、といった名で呼ばれることが多い。

なお、日本では組み合う格闘技的な競技を総じて相撲と呼ぶ。用例には腕相撲足相撲指相撲、拳相撲、草相撲などがある。他に、相撲を模して行われるものに紙相撲がある。

相撲の歴史

江戸時代以降の詳細は大相撲#歴史も併せて参照。

古代

相撲の起源は非常に古く、古墳時代埴輪須恵器にもその様子が描写されている。

  • 古事記』の神代(日本神話)においては、建御雷神(タケミカヅチ)の派遣(葦原中国平定)の際、出雲の建御名方神(タケミナカタ)が、「然欲爲力競」と言った後タケミカヅチの腕を摑んで投げようとした描写がある。その際タケミカヅチが手を氷柱へ、また氷柱から(つるぎ)に変えたため掴めなかった。逆にタケミカヅチはタケミナカタの手を葦のように握り潰してしまい、勝負にならなかったとあり、これが相撲の起源とされている。

弥生時代

  • 日本書紀』には、神ではなく、人間としての力士同士の戦いで最古のものとして、垂仁天皇7年(紀元前23年)7月7日 (旧暦)にある野見宿禰と「當麻蹶速」(当麻蹴速)の「捔力」(「すまいとらしむスマヰ」または「すまいスマヰ」と訓す)での戦いである(これは柔道でも柔道の起源とされている)。この中で「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」「各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之」とあり、試合展開は主に蹴り技の応酬であり、最後は宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り、更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃して腰骨を踏み折り、絶命させたとされる。これらの記述から、当時の相撲は打撃を主とする格闘技であり、既に勝敗が決した相手にトドメの一撃を加えて命までをも奪った上、しかもそれが賞賛される出来事であった事から見ても、少なくとも現代の相撲とはルールも意識も異なるもので、武芸武術であったことは明確である。

宿禰・蹶速は相撲の始祖として祭られている。[1]

さらに

  • 古事記』の垂仁記には、「ここをもちて軍士の中の力士の軽く捷きを選り聚めて、宣りたまひしく、その御子を取らむ時、すなわちその母王をも掠取れ。髪にもあれ手にもあれ、取り穫む隨に、掬みて控き出すべし。とのりたまひき。ここにその后、かねてかその情を知らしめして、悉にその髪を剃り、髪もちてその頭を覆ひ、また玉の緒を腐して、三重に手に纏かし、また酒もちてその御衣を腐し、全き衣の如服しき。かく設け備へて、その御子を抱きて、城の外にさし出したまひき。ここにもの力士等、その御子を取りて、すなはちその御祖を握りき。ここにその御髪を握れば、御髪自ら落ち、その御手を握れば、玉の緒また絶え、その御衣を握れば、御衣すなはち破れつ。」とあり、初めて「力士」(ちからひと・すまひひと と訓す)の文字が現れる。

古墳時代

  • 記紀には、景行天皇40年(110年)に日本武尊が、大和国(現在の奈良県)の息吹山の神を素手で倒そうと、草薙剣を持たずに、素手で山に入ったことが記されている。
  • 日本書紀』の雄略天皇13年(469年)には、秋九月、雄略天皇が二人の采女(女官)に命じてを付けさせ、自らの事を豪語する工匠猪名部真根の目前で「相撲」をとらせたと書かれている。これは記録に見える最古の女相撲であり、これが記録上の「相撲」という文字の初出でもある。

飛鳥時代

  • 日本書紀』の皇極天皇元年(642年7月12日 (旧暦)に「乙亥 饗百濟使人大佐平智積等於朝 或本云 百濟使人大佐平智積及兒達率 闕名 恩率軍善 乃命健兒相撲於翹岐前」とある。百済の「大佐」(太政大臣クラス)の使者と、先に亡命していた王族の翹岐をもてなすため、健児(こんでい・ちからひと)に相撲を取らせた。
  • 『日本書紀』の天武天皇11年(682年)7月3日 (旧暦)にも「大隅隼人与阿多隼人相撲於朝庭 大隅隼人勝之」とあり、7世紀には、7月に相撲が行われていたことがうかがわれる。

奈良時代

  • 続日本紀』の養老3年(719年)7月4日 (旧暦)に「初置抜出司」と見える「抜出司は、諸国から集められた相撲人の中から選抜する臨時官で、のちの相撲司に当たるものと考えられている。
  • 突く殴る蹴るの三手の禁じ手・四十八手・作法礼法等神亀3年(726年)に制定される。(吉田司家志賀清林を参照)
  • 続日本紀』の神亀5年(728年)4月25日 (旧暦)に、諸国の国司や郡司が相撲人を王族や貴族に献上してしまい朝廷に貢進しないことを諫める詔が出ている。これによって、すでに各貴族が相撲人を保持していたことが想像される。
  • 萬葉集』の巻五には、天平2年(730年)の大宰府からの「相撲部領使」と、翌年(731年)の肥後国からの「相撲使」の記述が見える。中央まで引率する官で、後者は大宰府を6月17日 (旧暦)に出発していることがわかる。
  • 続日本紀』では、天平6年(734年)7月7日 (旧暦)聖武天皇(在位724年 - 749年)が「相撲戯」を観覧したことを記している。これが、7月7日の節日に相撲が行われた明確な最初の記録である。

平安時代

  • 王朝
宮廷では各地から相撲人を選出し、相撲大会を催した。天皇が出御した行事を節会と称し、天皇御覧の元に相撲を行ったため、「相撲節会(すまひのせちえ)」と呼んだ[2]。当日は「召合(めしあわせ)」と言う十数番までの取組があり、紫宸殿の庭で行われ、その後には近衛府による「相撲の還饗(かえりあるじ)」というもてなしが開かれた。
当初は、当麻蹴速(たぎまのけはや)と野見宿禰(のみのすくね)の相撲対戦にちなんで7月7日に催したが、弘仁15年(824)7月7日に平城天皇が崩御、命日と重なり7月16日に日程を改める。しかし、平安中期にはまた別の諸事情により、開催日は7月下旬が慣例となった。[2]
平安後期になると相撲節会は徐々に衰微して行き、承安4年(1174)以降は行われなくなり、宮廷行事としての相撲大会は終結する。[2]
相撲節会を行った旧暦の7月は凡そ現在の8月であり、時期がの収穫前であったことと、古来より相撲には五穀豊穣の祈願と作柄を占う、神事の意味が存在したことから、相撲節会も同様の儀礼を基底に催したと捉えられている。[2]
  • 一般
宮中で行われた相撲節会のほかには、民間の相撲も大いに行われていた。一般の庶民による相撲は「土地相撲」、または「草相撲」と呼ばれていた。一方、「武家相撲」は武士たちの実戦で用いる組み打ちの鍛錬であり、また心身を鍛える武道でもあった。また「神事相撲」は、農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するための農耕儀礼であった。

鎌倉時代

『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より、1867年刊

また、和田常盛朝比奈義秀兄弟が奥州を巡って、相撲で競った逸話がある。

南北朝時代

  • 播磨赤松氏赤松円心の三男で、当時有力な武将・守護大名であった赤松則祐がいたが、『梅松論』には則祐に関し、京での相撲人としての武勇伝が記されている。
  • 正平年間、紀伊粉河寺(現在の紀の川市にある寺)で書かれた『粉河寺寺務御教書』という書物によると、粉河寺周辺で毎年六月に行われる粉河寺祭の奉納相撲の祭礼参加をめぐり、東村と荒見村との村同士の争いが起こった。
  • 室町時代以前には着衣で相撲を楽しむ庶民の絵などがあり遊戯としては土俵も無く着衣で行なわれていた。
  • 太平記』に相撲の記載がある。

室町時代

戦国時代

織豊時代

江戸時代

  • 江戸時代には寺社建立修繕の資金集めとして勧進相撲が興行されていた。これが職業としての大相撲が始まりとされ、以降渡世文化としての相撲が定着した。このとき、徳川将軍家上覧相撲もたびたび開催された。
  • 江戸時代から、また座頭相撲とそこから派生した女相撲の興行も存在し昭和30年代後半まで存続した。
  • 江戸期には都市の発達に伴い大都市のみならず地方都市においても相撲興行が行われ、歌舞伎や人形浄瑠璃などとともに催された。それに伴い多くの浮世絵師が相撲や力士錦絵を製作し、力士絵は浮世絵のジャンルとして確立した。
  • 北斎漫画』等に相撲の記載あり。

明治維新以降

相撲を取る皇太子時代の昭和天皇

神事としての相撲

奉納相撲(東庄町諏訪神社

相撲は神事としての性格が不可分である。 の際には、天下泰平子孫繁栄五穀豊穣・大漁等を願い、相撲を行なう神社も多い。そこでは、占いとしての意味も持つ場合もあり、二者のどちらが勝つかにより、五穀豊穣や豊漁を占う。そのため、勝負の多くは1勝1敗で決着するようになっている。和歌山県、愛媛県大三島一人角力の神事を行っている神社では稲の霊と相撲し霊が勝つと豊作となるため常に負けるものなどもある。場合によっては、不作、不漁のおそれがある土地の力士に対しては、あえて勝ちを譲ることもある。また、土中の邪気を払う意味の儀礼である四股は重視され、神事相撲の多くではこの所作が重要視されている。陰陽道神道の影響も受けて、所作は様式化されていった。

大相撲の神事

  • 土俵祭
土俵祭とは、本場所の前日には立行司が祭主となって行なう祭事である。介添えの行司が清祓の祝詞をあげた後、祭主が神事を行い、方屋開口を軍配団扇を手にして言上する。この後、清めの太鼓として、呼び出し連が土俵を3周して式典が終わる。寛政3年(1791年)征夷大将軍徳川家斉の上覧相撲の際に吉田追風が「方屋開」として始めたものである。
  • 相撲場は明治中期まで女人禁制で、明治になるまで観戦することもできず、現在でも土俵上に女性が上るのを忌避している。しかしながら、伝統的な慣習であるという点については異論が出ている。女相撲という言葉は古くは日本書紀に見られ[3][4][5]、江戸時代以降は興行記録も残っており[3][4]、戦前まで女相撲の興行が行われていた[4]からである。また、俵を使った土俵の登場は江戸時代からである[3]。神事としての相撲は、九州地方では現在も伝統行事として行われていることが知られている[5]ように、必ずしも女性を忌避するものではない。
  • 土俵

相撲の呼び方

  • すもう」の呼び方は、古代の「スマヰ」から「すまひ」→「すまふ」→「すもう」に訛った。
  • 角力」、「捔力」(『日本書紀』)、「角觝」(江戸時代において一部で使用)、などの表記が有る。これらの語はもともと「力くらべ」を指す言葉であり、それを「すもう」の漢字表記にあてたものである。19世紀から20世紀初頭までは「すもう」は「角力」と表記されることが多かった[6]
  • 古代には手乞(てごい)とも呼ばれていたと言う説も有る。(手乞とは、相撲の別名とされ、相手の手を掴む事の意、または、素手で勝負をする事を意味する。)
  • 大相撲を取る人は「力士」(りきし)や「相撲取り」といい、会話では「お相撲さん」とも呼ばれ、英語圏では「相撲レスラー」と呼ばれる事もある。

相撲の戦い方

  • 競技の形態としては、直径4.55m(15)の形または四角形をした土俵の中で廻しを締めた二人が組み合って(取り組み)勝ち負けを競う。土俵から出るか、地面に足の裏以外がついた場合、もしくは反則を行った場合、負けとなる。その判定は行司アマチュア相撲では主審と呼ぶ)が行う。
  • 相撲の取組は、伝統的に力士の年齢・身長・体重に関わらずに行われる。(無差別の戦い方)
  • 相撲司家の吉田家の故実では、禁じ手制定以前の相撲の戦い方について「相撲の古法は、突く・殴る・蹴るの三手である」と伝えられている。

普通は以下のような流れになる。

塵手水

  • 私は武器を持っていません、素手で正々堂々と勝負します。

仕切り

  • 円形の土俵に入り、最初はやや離れて立ち、互いに顔を見合わせ、腰を落とし、仕切り線に拳をついて準備する。これを仕切りといい、立ち会いが成立するまで繰り返す。仕切りは何度行ってもよく(制限時間がある場合はその範囲で)、繰り返さなくてもよい。
  • 1928年(昭和3年)1月12日から日本放送協会ラジオ放送による大相撲中継が始まった際、放送時間内に勝負を納めるため幕内10分、十両7分の制限時間設定と共に仕切り線が設けられた。現在の制限時間は幕内4分、十両3分である。

立合い

  • 拳をついた状態から互いに目を合わせ、両者同時に立ち上がってぶつかる。普通は正面からぶつかり合うものであるが、必ずしもそうしなくても良い。この試合の始まりを立合いという。
  • 立合いは世界では見られない日本独自の方法で、その開始は両者の暗黙の合意のみで決まる。仕切りを繰り返すうちに両者の気合いが乗り、共にその気になった瞬間に立ち上がるのが本来の形で、行司は一般のスポーツのように開始を宣言するのではなく確認するだけである。ただし、現実には時間制限などが設けられる。
  • 土俵に拳をつける立ち合いは江戸時代の元禄の大相撲力士の鏡山仲右衛門が始めたものが広まったものである。
  • 仕切り線ができたことにより発達した。それ以前の時代の写真から立会いの距離制限が無く頭と頭をつけた状態から開始されることも多かったことがうかがえる。

勝ちの確定

勝ちが決まるのは次の場合である。

  • 相手の体のうち足の裏以外の部分を土俵の土に触れさせた場合。投げて背中を着けても引っ張って掌を着けてもよく、極端な場合は相手の髪の毛が着いてもその時点で相手の負けが決まる。
  • 相手を土俵の外に出した場合。相手の体の一部が土俵の外の地面に着いた時点で勝ちが決まる。

日本の相撲以外の多くの相撲系の格闘技はレスリングにおけるフォールのように相手の背中が地面に着かないと勝ちにならない。また、試合場の外に出ることを反則としても即座に負けと認める例も少ない。この二点のために相撲は勝負がつきやすいと共に勝敗の行方がデリケートである。体重制を取らなくても勝負が成立する理由の一つもここにある。

相撲の攻め手

  • 離れた状態からぶちかまし・喉輪・突っ張り・張り手・足払い等攻め手を用いる立ち合いにより優位な状況をつくる。
  • 触れ合った状態で押す。胸に手の平を当てたり、廻しを握って押し出す。
  • 廻しを掴んで引き寄せ合う。両者が同じ側(右と左)で横より後ろの廻しを取り合った場合に互いの手が交差するが、その際内側にある手を下手、外側にある手を上手という。「上手は浅く、下手は深く」というのが廻しの取り方の基本である[7]
  • 急に後ろに引いたり、体を開くなどによって相手のバランスを崩す。

相撲においてはまず押すことを良しとする。廻しを取った手は引くが、その場合も体全体として常に前に出ることを心がける。「引かば押せ、押さば押せ(相手が引こうが押そうが押せ)」との言葉もある。実際には引き落としなど引く技もあるが褒められない。また、引かれた場合も引かれる以上の速さで前に出ることで攻勢を取るのが良しとされる。

相撲の防ぎ手

相撲の組み方

  • 力士同士のお互いの組み方として四つ身と言う組み方があり、右四つ・左四つ・手四つ・頭四つ または外四つ(もろ差し)等がある。
    • 互いにまわしを取り合う場合、標準的なつかむ位置として相手の腰の横から少し後ろとなる。すると、両者の腕が交差することになるが、このとき相手の腕の外を回る腕を上手(うわて)、内側に入る腕を下手(したて)という。両者互角に組む場合、それぞれ片腕が上手、もう片腕が下手となる。ここで互いに右手が下手になっているのを右四つ、左手が下手になっているのを左四つという。
    • 片方が両腕ともに下手でまわしを取るのをもろ差しという。このとき相手も両手でまわしを取ると、両手とも上手となるのが外四つである。
    • 両者が互いの向き合う手をつかみ合った状態で押し合うのを手四つという。大相撲で見ることはほとんどない。むしろプロレスで見ることが多い。
    • 互いの頭を押しつけあうのを頭四つ(ずよつ)という。そのまま相撲が進むことは少なく、その状態から互いの肩を押したりといった形になる。

これらは両者互角、あるいはそれに近い組み方であるが、当然ながら相手にそうさせない方が自分には都合がよい。自分がまわしを取っても、相手にとらせないのは重要な手法であるし、取られた手を離させる、たとえば『上手を切る』のは大切な技法である。

決まり手

  • 勝敗が決したとき、それがどのような技によるかを判断したものが決まり手である。当然様々な場合があるが、公式な決まり手として、投げ・掛け・反り・捻りを中心にしたものがある。かつては四十八手といわれたが、現在では大相撲協会が82の技名と技でない決まり手5(勇み足など)を決めており、そのどれかに分類される。

禁じ手

志賀清林吉田司家を参照のこと。

相撲の構え

  • 日本古来から伝わる「手合」と呼ばれる相撲の構えが江戸時代中期まであったが、現在まで、その名残として「三段構え」が存在する。(手合三段構えは世界中では見られない日本独自の構え
  • 力士が、「両手の手(拳)を土俵に付けてから立ち会う」事は、江戸時代中期の人物で紀伊出身の鏡山沖右衛門から始まった、これは、土俵を用いる相撲に適応し、徐々に浸透していった。
  • 現在まで伝わっている相撲の「追っ付けの構え」は、相撲の攻防に適した構えである。

相撲の鍛練法

  • 受け身・鉄砲・四股・摺り足・股割・ぶつかり稽古等

相撲の段級

相撲の用語

相撲用語一覧を参照のこと。

あんことソップ

重量級の力士をあんこ、軽量の力士をソップと称する。軽量力士は一般的には不利とされるが、軽量ゆえの動きを生かした技で大型のあんこ力士を倒す取組は大きな見所となる。近年では筋力トレーニングを重視した千代の富士霧島といった、いわゆるソップ体型の名横綱、名大関が登場している。

相撲と日本人移民

相撲は、日本移民とともにブラジルに渡り、南アメリカにも持ち込まれた。

ブラジルでの最初の相撲大会は1914年8月31日、天長節を祝してサンパウロ州グアダバラ耕地で、開催された。福岡県、熊本県出身の30人余の若者が参加し、日本の本式の土俵で行われた。

  • 1962年、アマチュアの普及発展を目的に、伯国相撲連盟が結成。1966年にはブラジル政府公認のスポーツ団体となった。相撲推定人口は約4000人、本部はサンパウロ市にある。
  • 1983年、日本とブラジルの両相撲連盟が発起人となり国際相撲協議会を発足。
  • 1985年にはパラグアイ、アルゼンチンの相撲連盟が同協議会に加盟する。
  • 1986年、パラグアイへの日本人移民50周年記念事業として、全パ相撲大会が開催される。日本、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイの4か国から選手が参加した。

日本からの遠征は1951年、全伯青年連盟の招聘による秀の山一行の渡伯を皮切りに、大相撲からアマチュア相撲の選抜選手が現在も遠征が続けられている。

大相撲

行司家

  • 相撲司家の宗家吉田司家以外に、全国には行司家というものがあった。行司家は、五条家をはじめ、吉岡家、服部家、尺子家、一式家、岩井家、式守家、木村家、木瀬家、鏡山家、長瀬家など、その他多数存在した。
  • 現在では、木村家式守家のみが残っている。行司も参照のこと。)

一般的に、吉田司家は五条家の目代と言われているが、一切そのようなことは無く、関係あるのは二条家のみである。

事実、吉田家の19世、吉田追風が寛政年間に徳川幕府に提出した故実書に「五条家は家業牢人の輩の道中絵符人馬宿駅の帳面免許す」とあり、又、「木村庄之助の先祖書きにも旅行の節御由緒これあり、京都五条家より御絵符頂戴いたしきたり候」と記されているように、相撲の宗家とは云い難い。

相撲の今後の課題

大相撲に関しては、→大相撲を参照のこと。
  • 相撲司家である「吉田家」や「五条家」に伝わる故実伝書などの調査研究
  • 行司家に伝わる故実・伝書などの調査・研究。
  • 吉田司家の相撲界への復帰。
  • 相撲の指導者および後継者の更なる育成。
  • 防犯。

関連項目

日本の文化としての系譜

力士の違いによる相撲の種類

相撲に関わる事柄

世界にある日本の相撲と似た競技

相撲からの派生

相撲に関する神話

関連書籍

  • 神宮司庁『古事類苑 武技部』吉川弘文館
  • 荒木精之『相撲道と吉田司家』相撲司会
  • 肥後相撲協会編『本朝相撲司吉田家』
  • 吉田長孝『原点に還れ〜国技相撲廃止の危機を突破した男 吉田司家二十三世追風 吉田善門』発行 熊本出版文化会館 発売 創流出版 ISBN 978-4-915796-88-3
  • 次田真幸『古事記』 全訳注 上・中・下 講談社学術文庫
  • 宇治谷孟『日本書紀』 全現代語訳 上・中・下 講談社学術文庫
  • 宇治谷孟『続日本紀』 全現代語訳 上・中・下 講談社学術文庫
  • 森田悌『日本後紀』 全現代語訳 上・中・下 講談社学術文庫
  • 森田悌『続日本後紀』 全現代語訳 上・下 講談社学術文庫
  • 『ボンジュール ジャポン―フランス青年が活写した1882年』ウーグ クラフト 著 後藤 和雄 編

脚注

  1. ^ 野見宿禰神社創建
  2. ^ a b c d 秋澤 亙・川村 裕子  『王朝文化を学ぶ人のために』 2010年 世界思想社 ISBN 4790714888
  3. ^ a b c 吉崎 祥司. 稲野 一彦. 相撲における「女人禁制の伝統」について. 北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編 / 北海道教育大学 編.. 59(1) 2008.8. 71~86 ISSN 1344-2562
  4. ^ a b c 金田 英子. 興行としての女相撲に関する研究. 日本体育大学紀要 / 紀要委員会 編.. 22(2) 1993.03. p97~102 ISSN 0285-0613
  5. ^ a b 金田 英子. 1212505 北九州地方における女相撲について : 長崎県・佐賀県の場合. 日本体育学会大会号 / 社団法人日本体育学会.. 43 1992.12. p907 NCID AN00388942
  6. ^ 『大相撲ジャーナル』2017年8月号 p59
  7. ^ 石浦外喜義『弱くても勝てる 強くても負ける』(幻冬舎、2017年)p8

外部リンク

公式


その他