采女

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采女(うねめ)とは、日本朝廷において、天皇皇后に近侍し、食事など、身の回りの雑事を専門に行う女官のこと。平安時代以降は廃れ、特別な行事の時のみの官職となった。

概略[編集]

発祥ははっきりしないが、『日本書紀』によると、既に飛鳥時代には地方の豪族がその娘を天皇家に献上する習慣があった。一種の人質であり、豪族が服属したことを示したものと考える説が有力である。しかし、延喜17年(917年)の太政官符に、出雲国造が「神宮采女」と称して妾を蓄えることを禁止しつつも神道祭祀に必要な場合には1名に限り認める内容のものがあることを根拠に、地方の祭祀を天皇家が吸収統合していく過程で成立した制度で、祭祀においては妾と同一視され後述のとおり子供が出来る行為を伴ったと推測した説[1]など、神職である巫女との関連性を采女の起源に求める説も存在する。

主に天皇の食事の際の配膳が主な業務とされているが、天皇の側に仕える事や諸国から容姿に優れた者が献上されていたため、妻妾としての役割を果たす事も多く、その子供を産む者もいたが、当時は母親の身分も重視する時代であったため、地方豪族である郡司層出身の采女出生の子供は中央豪族や皇族出生の子供に比べて低い立場に置かれることがほとんどであった。

大宝律令の後宮職員令によって制度化される。その内容は以下の通りである。

中務省が発する牒により、諸国に定員を割り振って募集されるが、名目は「献上」という形を取った。
募集条件は
  1. 13歳以上30歳以下であること。(采女献上が一旦廃止された後に復活した嵯峨天皇の代の規定では16歳以上20歳以下)
  2. 出身は郡少領以上の姉妹か娘であること。
  3. 容姿を厳選すること。
宮内省の配下にある「采女司」が彼女たちの人事等を管理しているが、実際に所属するのは後宮十二司のうち「水司」に6名、「膳司(かしわでのつかさ)」に60名となっている。定員は計66名であるが、大宝律令の軍防令によると全国の郡の三分の一から采女を募集することとなっており、そこから推測される采女の貢進数はそれを大きく上回っている。この事から、女嬬の代わりとして他の部署に配置される者や職制の定員外にいる者[2]、あるいは皇子女付きの者等も存在すると見られている[3]。また飯高諸高のように、より上位の役職(典侍掌侍掌膳典掃)に昇格した者もあり、これらの例も上記の采女の定員外となる。

こうした律令制に組み込まれた時代の采女は、天皇の妻妾という性格が薄れて後宮での下級職員としての性格が強くなっていく。

平城天皇の改革により采女献上の制度は廃止されたが、それに伴って「采女司」も廃止になり、大蔵省「縫部司」と共に「縫殿寮」に統合された。しかし嵯峨天皇の時代に采女献上が復活し「采女司」も復活した。 延喜式では采女の定員は削減され、「膳司(かしわでのつかさ)」に41名、「掃司(かにもりのつかさ)」に6名となった。また以後は采女は中央貴族の子女から選ばれる事が多くなり、形骸化してゆく事になった。江戸時代以降は天皇即位式の時のみ女官から選抜されるようになった。この時には、女官の正装たる十二単ではなく丈の短い特殊な采女装束を着用した。

采女の語源[編集]

「うねめ」という言葉の語源に関しては、本居宣長の「嬰部(うなげえ)」説、荻生徂徠の「項意(うなゐめ)」説、賀茂真淵の「氏之女(うのめ)」説、壺井義知の「畝女(うねめ)」説など古来より諸説があるが、結論は出ていない。

また「采女」という漢字を当てた理由は中国の後宮における采女を模したと思われるが、中国の采女は単に後宮における下位の妻妾を指す言葉であるため、配膳などの職掌や地方豪族の忠誠の証としての性格を持った特殊な存在である日本の采女とはやや意味合いが異なっている。

憧れの対象としての采女[編集]

采女は地方豪族という比較的低い身分の出身ながら容姿端麗で高い教養を持っていると認識されており、天皇のみ手が触れる事が許される存在と言う事もあり、古来より男性の憧れの対象となっていた。 古くは『日本書紀』の雄略紀に「采女の面貌端麗、形容温雅」と表現され、『百寮訓要集』には「采女は国々よりしかるべき美女を撰びて、天子に参らする女房なり。『古今集』などにも歌よみなどやさしきことども多し」と記載され、また『和漢官職秘抄』には「ある記にいはく、あるいは美人の名を得、あるいは詩歌の誉れあり、琴瑟にたへたる女侍らば、その国々の受領奏聞して、とり参らすこともあり」との記述がある。 また『万葉集』には、藤原鎌足天智天皇から采女の安見児を与えられた事を大喜びした有名な歌「われはもや安見児得たり 皆人の得難にすとふ安見児得たり」が収められている他、「采女の袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたずらに吹く」という志貴皇子の歌もあり、美しい采女を憧れの対象とした男性心理が伺える。

歴史上有名な采女[編集]

  • 伊賀宅子娘
伊賀国豪族・伊賀氏出身で天智天皇長男大友皇子を産む。
  • 因幡八上采女
因幡国八上郡の豪族・因幡国造氏出身で、『万葉集』に載せられた安貴王との悲恋で知られる。藤原麻呂長男浜成を産んだ稲葉国造気豆女と同一人物と言う説が有力。桓武天皇の寵愛を受けた因幡国造浄成女とは同族とされる。
  • 飯高諸高
伊勢国飯高郡出身。長命で、80歳で没するまでに元正天皇聖武天皇孝謙・称徳天皇淳仁天皇光仁天皇の計5人6代に仕え、典侍従三位にまで上り詰める。その功績により、宿禰を賜る。

伝説上の采女[編集]

猿沢の池/山の井伝説[編集]

大和物語に登場する"ならの帝"(葛城王)と"采女"(春姫)にまつわる伝説である。
なお、伝説にまつわる万葉集の和歌についての解釈が前者と後者では異なっている(「安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに」が恋情を伝える歌か真心を伝える歌か。「吾妹子が 寝くたれ髪を 猿沢の 池の玉藻に みるぞ悲しき」が藻のように浮かぶ水死体の髪を想起する歌か藻を見て生前の髪を想起する歌か)。
この伝説を縁に奈良市郡山市姉妹都市となっている。
  • 猿沢の池
    大和物語による記述や奈良市に伝わる伝説においては、"ならの帝"(奈良時代のさる天皇)の寵愛を失ったある"采女"が猿沢池に投身自殺したというものである。「采女」という謡曲のモチーフである。采女の霊を慰める祭りとして、奈良市の猿沢池畔にある采女神社で毎年中秋の名月の時期に例祭采女祭が行なわれる。
  • 山の井伝説
    郡山市に伝わる伝説においては前日譚・後日譚が存在する。陸奥国に巡察しにきた葛城王が安積の里長の娘・春姫を見初め都に連れ帰ったが、春姫は許婚の男を恋しく思い猿沢の池への入水を偽装して里に帰る。しかし男は山の井の清水に身を投げた後で、春姫も後を追い投身自殺するというもの。こちらについては、郡山市と安積郡合併のおりに伝説をモチーフとしてつくられた郷土祭郡山うねめまつり[4]や、ミスコンテストにより選考される観光大使「ミスうねめ」が存在する[5]

古事記伝説[編集]

雄略天皇の御代に、「伊勢の国の三重の采女」が、宴会で天皇に捧げる盃に木の葉が入っていることに気付かず酒を注いでしまい、天皇の怒りに触れて殺されそうになった。そこで采女は即興で天皇を讃え繁栄を祈った歌を詠んだところ歌の出来が大層素晴らしかったで天皇が感心し命拾いをしたという記述が古事記にある。三重県四日市市には、采女という地名がある。
また、雄略天皇は実際に采女に手を出したこともあり、一晩を共にした采女との間に出来た皇女(春日大娘皇女)が、後に仁賢天皇の皇后となっている。

脚注[編集]

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  1. ^ 『古代豪族』青木和夫
  2. ^ 『郡司及び采女制度の研究』礒貝正義
  3. ^ 『奈良の都』青木和夫
  4. ^ 郡山うねめまつり2013. 郡山商工会議所. 2013年6月28日閲覧。
  5. ^ ミスうねめブログ. 郡山市観光協会. 2013年6月28日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]