曾我兄弟の仇討ち

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仇討ちの場面(曽我物語図絵)

曾我兄弟の仇討ち(そがきょうだいのあだうち)は、建久4年5月28日1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に曾我祐成曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経富士野にて討った事件。赤穂浪士の討ち入り伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。武士社会において仇討ちの模範とされていた[1]

吾妻鏡の記述[編集]

曾我兄弟の仇討ちは、富士の巻狩の際に富士野神野(現在の静岡県富士宮市[2][3][4]にて発生した。『吾妻鏡』によると、源頼朝は建久4年(1193年)5月15日に富士野の御旅館に入り、同16日には富士野で狩りを催している。

事件は同28日に起きた。『吾妻鑑』28日条には「曽我十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推參致し工藤左衛門尉祐経を殺戮す」とあり、曽我兄弟は富士野の神野の御旅館におしかけて工藤祐経を討った。このとき酒の相手をしていた王藤内も討たれた。

傍に居た手越宿と黄瀬川宿の遊女は悲鳴を上げ、この一大事に現場は大騒動となった。平子有長愛甲季隆吉川友兼加藤光員海野幸氏岡辺弥三郎岡部清益堀藤太臼杵八郎といった武将らは傷を負った。また宇田五郎も兄弟に討たれ、兄の祐成は新田忠常と対峙した際に討たれた。

弟の時致は源頼朝めがけて走り、頼朝はこれを迎え討とうと刀を取ったが、大友能直がこれを押し留めた。この間に時致は取り押さえられ、大見小平次が預かることで事態が落ち着くこととなった。その後、和田義盛梶原景時が検死を行った。仇討ちの翌日である29日に頼朝は五郎(弟)の尋問を行い、有力御家人らがそれに同席し、その他多くの者も群参した。尋問を終えた頼朝は五郎の勇姿から宥免を提案するが、祐経の子である犬房丸の訴えにより同日梟首された。

30日には同事件が北条政子に飛脚で知らされ、また兄弟が母へ送った手紙[注釈 1]が召し出され、頼朝が目を通している。頼朝は手紙の内容に感涙し、手紙類の保存を命じた。6月1日にはを始めとする多くの人物に対して聴取が行われ、虎は放免されている[注釈 2][注釈 3]。6月7日に頼朝は鎌倉に向けて出発し、富士野を後にした。このとき頼朝は曽我荘の年貢を免除することを決定し、また曽我兄弟の菩提を弔うよう命じた。

曽我物語の記述[編集]

以下の経緯は主に『曽我物語』による。

「武勇見立十二支 曽我五郎 午」 歌川国芳画

工藤祐経は親族(義理の叔父かつ元義父)の伊東祐親に恨みを抱いていた。一族の先代当主・工藤祐隆による所領分割相続の措置に不満を抱いていた祐親が祐経の所領を奪った上、祐経に嫁いだ祐親の娘・万劫御前とも離縁させたためであった。安元2年(1176年)10月、祐経は郎党の大見小藤太と八幡三郎に狩に出た祐親を待ち伏せさせた。2人の刺客が放った矢は一緒にいた祐親の嫡男・河津祐泰に当たり、祐泰は死ぬ。刺客2人は暗殺実行後すぐに伊東方の追討により殺されている。

祐泰の妻の満江御前(満行とも。なお『吾妻鏡』にも『曽我物語』にも名は表記されていない)とその子・一萬丸と箱王丸(筥王丸)が残された。満江御前は曾我祐信と再婚。一萬丸と箱王丸は曾我の里で成長した。兄弟は雁の群れに亡き父を慕ったと伝えられる。

その後、治承・寿永の乱平家方についた伊東氏は没落し、祐親は捕らえられ自害した。一方、祐経は早くに源頼朝に従って御家人となり、頼朝の寵臣となった。

祐親の孫である曾我兄弟は厳しい生活のなかで成長し、兄の一萬丸は、元服して曽我の家督を継ぎ、曾我十郎祐成と名乗った。ただし『吾妻鏡』では、祐信には先妻との間に実子の祐綱がおり、彼が家督を継いでいる。弟の箱王丸は、父の菩提を弔うべく箱根権現社に稚児として預けられた。

文治3年(1187年)、源頼朝が箱根権現に参拝した際、箱王丸は随参した敵の工藤祐経を見つけ、復讐しようと付け狙うが、敵を討つどころか逆に祐経に諭されて「赤木柄の短刀」を授けられる(のちに五郎時致は、この「赤木柄の短刀」で工藤祐経に止めをさした)。

箱王丸は出家を嫌い箱根を逃げ出し、縁者にあたる北条時政を頼り(時政の前妻が祐親の娘だった)、烏帽子親となってもらって元服し、曾我五郎時致となった。時政は曾我兄弟の最大の後援者となる。苦難の中で、曾我兄弟は父の仇討ちを決して忘れなかった。

兄弟は、仇討ちの成就を願うために箱根権現社に赴き、「この願いが成就するなら祐経の首をください、成就しないなら私達が拝殿を出たらすぐに蹴り殺してください」と祈請した。この時、兄弟が詠んだ和歌が伝えられている[5]

ちはやぶる 神の誓ひの違はずは 親の敵に 逢ふ瀬結ばん ― 曾我十郎祐成[5]
天くだり 塵に交はる甲斐あれば 明日は敵に 逢ふ瀬結ばん ― 曾我五郎箱王丸[5]

祈請を済ました二人は、かつて世話になった別当の元を訪れ、別当は泣く泣く「思い出して来てくれたのはとても嬉しいことだ。あなたたちに引き出物をあげましょう」と言って二人をもてなし、五郎に兵庫鎖の太刀、十郎に黒鞘巻の小刀を与えた(両方とも源義経木曽義仲討伐に上洛した際、討伐の成就を願って箱根権現へ納めたものであった)[5]。別当は「これらの刀は見知っている人も多かろう。くれぐれも「箱根の別当から与えられた」とは言いなさるな。仇討ちが成功した時に「あの別当が兄弟に刀を与えたのだ」と騒がれては大変じゃからの。京の町で買ったとでも言っておきなさい」と二人に言った[5]。二人が去る時間になると、別当は二人を遠くの遠くまで見送りに来て「わしがいる限り、後世のことは心配なさるな。よくよく供養しましょう」と言い、そこで和歌を詠んだ[5]

夢ならで またも逢ふべき 身ならねば 見るおもかげに 袖朽ちぬべし ― 箱根の別当[5]

建久4年(1193年)5月、源頼朝は、富士の裾野で盛大な巻狩を開催した。巻狩には工藤祐経も参加していた。最後の夜の5月28日、曾我兄弟は祐経の寝所に押し入った。兄弟は酒に酔って遊女と寝ていた祐経を起こして、討ち果たす。騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちが兄弟を取り囲んだ。兄弟はここで10人斬りの働きをするが、ついに兄祐成が仁田忠常に討たれた。弟の時致は、頼朝の御前を目指して、向かってきた武士たちをことごとく倒して頼朝の館に押し入った。しかし、時致は館の中でやっと、頼朝に近習していた御所五郎丸によって取り押さえられ、頼朝の危機は救われた[5]

5月29日、時致は頼朝の面前で仇討ちに至った心底を述べる。頼朝は助命を考えたが、祐経の遺児犬房丸に請われて斬首を申し渡す。時致は従容と斬られた。『曾我物語』には、五郎丸が女装して時致を油断させ武士道に反したと書かれているが、『吾妻鏡』や初期の『曾我物語』には女装のことは書かれていない。

事件後に虎は仇討ちの現場であり祐成最期の地である富士野の伊出の屋形を弔問し、その後再度伊出の屋形に訪問するため出立している[6][7][8][9][注釈 5]

事件に関する解釈[編集]

北条時政黒幕説[編集]

歴史学者の三浦周行大正期に北条時政黒幕説を唱え、それ以来学界に大きな影響を与えてきた[11] [12][13]。吾妻鏡や曽我物語では工藤祐経を討った後に時致は源頼朝をも襲っており、これが時政の暗躍によるものとする解釈である[14]。時政は事前に駿河国に入国し準備を行っており[15]、頼朝が富士野に到着した際もあらかじめ参上しており、この説に説得力をもたらした。またそれ以前より時政と兄弟は縁があり、兄が弟である筥王(曾我時致)を連れ時政の屋形を訪れ、時政を烏帽子親として元服している[16]。従来より面識のあった時政が兄弟を頼朝襲撃へと誘導したとする見方が現在でも多い[17]

また、伊東祐親は工藤祐経に襲撃される直前に自分の外孫にあたる頼朝の長男・千鶴丸(千鶴御前)を殺害しており、工藤祐経による伊東祐親父子襲撃そのものに息子を殺された頼朝による報復の要素があり、曾我兄弟も工藤祐経による伊東父子襲撃の背後に頼朝がいたことを知っていたとする説もある[18]

事件後[編集]

富士の巻狩りの後粛清が相次いでおり[19]、巻狩りが契機となった可能性が指摘されている。例えば巻狩りには源頼朝の異母弟である源範頼が参加しておらず、後の流罪に関係するといった見方もされている[20][注釈 6]

この事件の際に常陸国の者が頼朝を守らずに逃げ出した問題や、事件から程なく常陸国の多気義幹が叛旗を翻したことなどが、同国の武士とつながりが深かった範頼に対する頼朝の疑心を深めたとする説もある[21]

曽我物[編集]

幸若舞曲に、同事件を題材とした「曽我物」と呼ばれる一群が認められる。曽我物は曽我物語を原拠とし、特に仮名本との関係性が指摘される[22]。一方曽我物語に拠る記述だけではなく舞曲独自の志向も認められる[23][24]。幸若舞曲のうち同事件に関わる曲名には「一満箱王(切兼曽我)」[注釈 7]「元服曽我」「和田酒盛(和田宴)」「小袖曽我(小袖乞)」「剣讃嘆」「夜討曽我」「十番切」がある[27]。現存する本文は「越前幸若系」と「大頭系」に大別され[28][29]、幸若舞曲の台本を読み物化した版本は大頭系に含まれる。版本はまず古活字版が成立し[30]、江戸時代初期には挿絵を含む揃物として刊行された(「舞の本」)[31]

曾我物の演能で早例とされるのは、『看聞日記』永享4年(1432年)3月14日条に「曽我五郎元服」とある「元服曾我」とされる[32]。「和田酒盛」の上演の初見は『言継卿記』天文15年(1546年)3月9日条であり、その後も繰り返し上演されている[33]。日記には同日「夜討曽我」も上演されたことが記される。現存する諸本の多さから人気曲であることを伺わせ、本作の影響から謡曲浄瑠璃歌舞伎等で派生作品が発生した[34]。「小袖曽我」は能「小袖曽我」と共通しており、また浄瑠璃の「小袖そが」は舞曲から派生している[35]

「剣讃嘆」では文字通り剣(刀)に焦点が当てられ、兄弟は富士野・相沢原へ至る過程の箱根権現にて別当よりそれぞれ刀(兄は黒鞘巻の刀・弟は兵庫作の太刀)を授かる[36]。別当は刀の伝来を述べる。この二振は時の帝の命により長刀が二分されたものであり、それぞれ「枕かみ」「寸なし」と名付けられ、後に寸なしは「友切」と名を改められた。その後二振は源満仲の手に渡り友切は「髭切」と、枕かみは「膝切」と名を改められ、源頼光の手に渡った。さらに髭切は「鬼切」と、膝切は「蜘蛛切」と名を改められ、源氏の嫡流の伝来を経て最終的に源義経により奉納されたとする。一方、仮名本曽我物語では仇討ちに用いた刀は木曽義仲から相伝される「三宝剣」の1つ「微塵」と「赤胴作りの太刀」(奥州丸)となっている[37]。「十番切」の上演の初見は『言継卿記』天文14年(1545年)6月4日条である[38]。十番切の存在を示す史料の初見は「東勝寺鼠物語」(天文6年頃成立)である[39]

これらの派生作品として延宝年間(1673年 - 1681年)頃から続々と曽我物の続狂言が生まれ、宝永から享保年間(1704年 - 1736年)頃にはことに人気が高く人々に好まれたため、江戸では各座、正月狂言として必ず新作の曽我物を上演する慣わしとなり、明治初年まで続いた[40]

墳墓類・社[編集]

曽我八幡宮(静岡県富士宮市猪之頭)

同事件は時代に拘らず影響をもたらし続け、日本全国に曽我兄弟に関する墓所・祠が点在している。また、虎御前のものも全国に点在する[41]。一方曽我兄弟から見て仇にあたる工藤祐経の墓所・祠類は少なく、富士野が位置する静岡県富士宮市に存在する例が指摘されるのみである[42]

曽我兄弟は信仰の対象となり、在地では曽我八幡宮が点在する他、曽我塔等が確認されている[43]

ゆかりの地・行事[編集]

  • 静岡県富士地域の地方新聞である富士ニュース5月21日号(掲載年不明)によれば関東から九州にかけて14ヵ所の墓所があるという。曾我兄弟の墓は現在、願成寺の無縁仏の一群の横にひっそりと置かれている[44]
  • 建久4年(1193年)5月28日に曽我五郎・十郎の兄弟が富士の裾野で工藤祐経を討った際に傘を燃やして松明とした故事から、毎年5月28日に、城前寺付近の家々から古い傘を集めて本堂の裏側にある曽我兄弟の墓前に積み上げて火を放ち、衆僧が列を作って読経をしながらその火を巡って行道・供養する「傘焼き祭り」が行なわれていたが[45]、2011年に寺側からの申し出により祭りでの開催は中止となり、同年より城前寺檀信徒を中心に、城前寺保育園年長組が十郎、五郎、虎御前、稚児として衆僧と共に参列し傘焼き供養会を継続している[46]。尚、保存会では下曽我駅前や公園など市内各所で関連行事を続行している[47]
  • 曾我祐成を討った仁田忠常の陣屋が置かれたという静岡県富士宮市の曽我八幡宮東側の丘の上にも、祐成が討たれたとされる地点に曾我兄弟の墓が建てられている[48]
  • 鹿児島市では毎年7月に郷中教育の一環として、曾我兄弟の仇討ちの故事に倣い、和傘を燃やす「曽我どんの傘焼き」を開催している[49]
  • 千葉県匝瑳市山桑には、曽我兄弟ノ宮がある。これは、曾我兄弟に仕えた当地出身の鬼王兄弟が二人の遺髪・遺品を故郷へ持ち帰り、弔ったものである。

関連作品[編集]

小説
  • 高橋直樹『天皇の刺客』(文庫題:『曾我兄弟の密命―天皇の刺客』)文藝春秋
映画
  • 曾我兄弟狩場の曙』(1908年)
  • 『曾我十番斬』(1916年)
  • 『永禄曾我譚』(1917年、小林)
  • 『小袖曽我』(1920年)
  • 『夜討曽我』(1923年、帝キネ)
  • 『曽我』(1927年)
  • 『日活行進曲 曽我兄弟』(1929年)
  • 『夜討曽我』(1929年、マキノ)
  • 『仇討日本晴 孝の巻 曾我兄弟』(1931年、帝キネ)
  • 『富士の曙 少年曾我』(1940年)
  • 曽我兄弟 富士の夜襲』(1956年、東映、監督:佐々木康
テレビドラマ
漫画
歌謡曲
ミュージカル
  • 刀剣乱舞 髭切膝丸双騎出陣〜SOGA〜

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 「祐成時致最後送書状等」
  2. ^ 事件後の動向は以下の通りである(吾妻鏡)。6月1日に曾我祐成の弟にあたる僧(律師)が尋問され、また曾我祐信は宥免された。6月3日には仇討ち時に逐電した常陸国の者たちの所領が没収された。7月2日には律師が自害している。
  3. ^ その後虎は6月18日に箱根で祐成の供養を営み、祐成が最後に与えた葦毛の馬を捧げて出家を遂げ信濃善光寺に赴いた。その時19歳であったと記されている(『吾妻鏡』)
  4. ^ 静岡県富士宮市に所在
  5. ^ 2度目の訪問では伊出の屋形に至らず曾我の里へ戻っている[10]
  6. ^ 事件の直後、鎌倉ではしばらくの間頼朝の消息を確認できなかった。頼朝の安否を心配する妻政子に対して、巻狩に参加せず鎌倉に残っていた源範頼が「範頼が控えておりますので(ご安心ください)」と見舞いの言葉を送った。この言質が謀反の疑いと取られ、範頼は8月17日に伊豆修禅寺に幽閉されている。
  7. ^ 「切兼曽我」と「一満箱王」は同一である[25][26]

出典[編集]

  1. ^ 今野慶信「曽我十郎/・五郎」/ 小野一之・鈴木彰・谷口榮・樋口州男編 『人物伝小辞典 古代・中世編』 東京堂出版 2004年 186ページ
  2. ^ 海老沼真治「「富士北麓若彦路」再考--『吾妻鏡』関係地名の検討を中心として」56頁『山梨県立博物館研究紀要』5、2011年
  3. ^ 本郷和人・五味文彦編、『現代語訳 吾妻鏡6』180頁、吉川弘文館、2009
  4. ^ 木村茂光「頼朝政権と甲斐源氏」19頁、『武田氏研究』第58号、2018年
  5. ^ a b c d e f g h 「曾我物語」
  6. ^ 真名本曽我物語(「妙本寺本」巻第十)
  7. ^ 二本松(2009) p.197
  8. ^ 小林美和、「真名本『曽我物語』覚書ー<御霊>と<罪業>をめぐってー」、『帝塚山短期大学紀要』(32)1-10、1995
  9. ^ 会田実、「曽我物語における意味の収束と拡散—真名本から仮名本へ—」4頁、『日本文学』No.697、2011
  10. ^ 会田(2004) p.173
  11. ^ 三浦周行、「曾我兄弟と北条時政」『歴史と人物』、1915
  12. ^ 石井進、「曾我物語の世界」『中世武士団』、講談社
  13. ^ 坂井(2014) pp.11-12
  14. ^ 石井進、「曾我物語の歴史的背景」『静岡県史研究第7号』、1995
  15. ^ 坂井(2014) p.120
  16. ^ 『吾妻鏡』建久元年(1190年)9月7日条
  17. ^ 坂井(2014) pp.140-160
  18. ^ 保立道久「院政期東国と流人・源頼朝の位置」『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房、2015年 ISBN 978-4-7517-4640-0
  19. ^ 木村茂光、 『頼朝と街道 鎌倉政権の東国支配』176-177頁、吉川弘文館、2016
  20. ^ 坂井(2014) pp.156-164
  21. ^ 菱沼一憲「総論 章立てと先行研究・人物史」(所収:菱沼 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第一四巻 源範頼』(戎光祥出版、2015年) ISBN 978-4-86403-151-6
  22. ^ 幸若舞(1986) p.30
  23. ^ 幸若舞(1981) pp.64-77
  24. ^ 幸若舞(1986) pp.30-69
  25. ^ 幸若舞(1994) pp.6-12
  26. ^ 幸若舞(2004) p.223
  27. ^ 幸若舞(1994) pp.4-10
  28. ^ 幸若舞(2004) p.103
  29. ^ 幸若舞(1981) pp.6-7
  30. ^ 幸若舞(2004) p.114
  31. ^ 幸若舞(1998) p.19・23
  32. ^ 坂井(2014) p.323
  33. ^ 幸若舞(1981) p.99
  34. ^ 幸若舞(2004) p.229
  35. ^ 幸若舞(2004) pp.231-232
  36. ^ 幸若舞(1996) p.296
  37. ^ 幸若舞(2004) pp.232-233
  38. ^ 村上(2006) p.19
  39. ^ 幸若舞(2004) p.239
  40. ^ 曾我物松竹「歌舞伎公式総合サイト 歌舞伎美人」
  41. ^ 柳田国男、「曽我兄弟の墳墓」『定本柳田国男集第5巻』、1981
  42. ^ 遠藤秀男、『日本の首塚』129-133頁、1973
  43. ^ 高野信治、「病傷治癒信仰のなかの武士 : 〈治癒神〉という見方」、『九州文化史研究所紀要』62号、2019
  44. ^ 『曽我兄弟へ贈る鎮魂歌 / 関東観察図鑑』内、富士ニュース図版。2010年3月18日閲覧。
  45. ^ かさ焼き祭り小田原市デジタルアーカイブ
  46. ^ 「曽我の傘焼まつり」中止、保存会も解散へ/小田原神奈川新聞、2011.03.31
  47. ^ 曽我の傘焼まつり(5月下旬)小田原市、2014年08月20日
  48. ^ 曽我兄弟の仇討ち、富士宮市ホームページ、郷土資料館、「富士の巻狩と曽我兄弟の仇討ち」展。2010年3月19日閲覧。
  49. ^ 曽我どんの傘焼き鹿児島三大行事保存会

参考文献[編集]

  • 坂井孝一『曽我物語の史的研究』吉川弘文館、2014年。ISBN 978-4-6420-2921-6
  • 二本松康宏『曽我物語の基層と風土』三弥井書店、2009年。ISBN 978-4-83823-170-6
  • 村上美登志『中世文学の諸相とその時代Ⅱ』和泉書院、2006年。ISBN 978-4-7576-0347-9
  • 吾郷寅之進「幸若舞曲研究第2巻」、三弥井書店、1981年、 ISBN 978-4-83823-056-3
  • 吾郷寅之進、福田晃編「幸若舞曲研究第4巻」、三弥井書店、1986年、 ISBN 978-4-83823-017-4
  • 福田晃、真鍋昌弘編「幸若舞曲研究第8巻」、三弥井書店、1994年、 ISBN 978-4-83823-037-2
  • 福田晃、真鍋昌弘編「幸若舞曲研究第9巻」、三弥井書店、1996年、 ISBN 978-4-83823-041-9
  • 福田晃、真鍋昌弘編「幸若舞曲研究第10巻」、三弥井書店、1998年、 ISBN 978-4-83823-054-9
  • 福田晃編「幸若舞曲研究別巻」、三弥井書店、2004年、 ISBN 978-4-83823-129-4
  • 坂井孝一『曾我物語の史実と虚構』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2000年) ISBN 4-642-05507-X
  • 坂井孝一『曾我物語 物語の舞台を歩く』(山川出版社、2005年) ISBN 4-634-22460-7
  • 会田実『『曽我物語』その表象と再生』笠間書院〈三弥井研究叢書〉、2004年。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]