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石毛宏典

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石毛 宏典
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県旭市
生年月日 (1956-09-22) 1956年9月22日(67歳)
身長
体重
180 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手三塁手一塁手
プロ入り 1980年 ドラフト1位
初出場 1981年4月4日
最終出場 1996年7月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

石毛 宏典(いしげ ひろみち、1956年9月22日 - )は、元プロ野球選手内野手)・監督実業家・プロ野球リーグ運営者である。四国アイランドリーグplusの創設者。元関西独立リーグ最高顧問。愛称はポレミスターレオハチ

経歴

現役時代

千葉県旭市出身。銚子市立銚子高等学校3年生時の1974年にドラフト会議ロッテオリオンズから6位指名を受けるが入団を拒否。駒澤大学へ進学。東都大学リーグ通算107試合出場、378打数114安打、打率.302、7本塁打、57打点。ベストナイン6回。4年生秋季のリーグでは首位打者になる。通算114安打は藤波行雄の133安打、高木豊の115安打に次ぐリーグ3位。

この時点ではプロ入りの意志はなく、最初は教員を目指していたが、野球と教職課程修得の両立は無理と諦め、社会人野球入りして、ゆくゆくは駒澤大野球部監督になると目標を立てた。野球漬けで普段は授業はもちろん、入学式にも卒業式にも出られなかったが、試験前10日間程度のみ与えられる勉強時間で、クラスメイトの協力も得て、何とか卒業することはできた。

プリンスホテルを経て、1980年のドラフト会議で西武ライオンズ阪急ブレーブスから1位指名され、西武が石毛の指名を引き当て入団。指名前、父親に「お前には多少大学に金使ってるだろ。プロ行って契約金もらって、少しは恩返ししろ」とプロ入りを勧められ、「(プリンスホテルと同じ)西武グループの西武ライオンズに指名されたら行く」と答えたやりとりがあったという。1981年、新人で開幕スタメン(遊撃手)出場を果たし、ロッテオリオンズの落合博満首位打者争いを演じるなど1年目から活躍。長嶋茂雄以来の新人打者として規定打席に達しての打率3割を達成し、新人王を獲得。

以後、常勝ライオンズのチームリーダーとして活躍。巨人との「盟主決戦」と謳われた1983年の日本シリーズでは第6戦で1点ビハインドの9回裏1死満塁で同点打を放つなどの活躍。1986年は打撃三冠王の落合博満や高卒新人記録を次々と塗り替えた清原和博らを抑え、パ・リーグMVPを獲得。膝の故障もあり、1987年にショートからサードへコンバートされるが、日本シリーズではセ・リーグ優勝チームの本拠地での試合の場合は指名打者が使えない事もあり、その後もたびたびショートを守る事になる。中日との1988年の日本シリーズでは全5試合で遊撃手としてフル出場。日本一を決めた第5戦では1点リードされた9回裏、リリーフエース郭源治からバックスクリーンへ起死回生の同点本塁打を放つなど活躍し、シリーズMVPを獲得。この年にパ・リーグの野手として初の一億円プレイヤーになる。

現役時代の前半は主にトップバッターとして活躍していたが、辻発彦の成長、オレステス・デストラーデの入団などのチーム事情もあり、現役時代後半は三番や六番の打順を任されるようになる。ゴールデングラブ賞の常連でもあり、通算成績で200本塁打を放ちながら200盗塁・200犠打を決めているように走攻守三拍子揃った選手でもあった。石毛の入団と共にライオンズが黄金時代を迎えていったものあり、その象徴として、そしてチームに対して献身的な姿が「ミスターレオ」と言われる所以である。

1994年オフ、辞任した森祇晶の後任監督を打診されるも固辞し、FAを行使して1995年福岡ダイエーホークスに移籍。翌1996年、現役引退。

引退後

引退後もダイエーに籍を置き、1997年ロサンゼルス・ドジャースにコーチ留学。1998年ダイエー2軍監督に就任するが、1年間のみで事実上解任される。1999年から3年間はNHKスポーツニッポン野球解説者

2002年オリックス・ブルーウェーブ監督に就任。しかし、正式発表前にNHKにメジャーリーグのポストシーズン解説を依頼され、断るためやむなく就任を打ち明けたところ、NHKニュースで報道されることになり、こうなっては仕方がないと、スポニチにも監督打診の話を打ち明けた。これが「内部機密を外に漏らすようなやつは信用ならん」と宮内義彦オーナーの不興を買い、石毛も反発して「この話、白紙に戻しましょうや」と応じた[1]。結局NHKとスポニチに事前報道しないよう依頼し、両社も自粛に応じた。最終的に監督就任は実現したが、同年は最下位に終わった。翌2003年も開幕から低迷。20試合(7勝12敗1分け)を終了した4月23日に解任される。采配振りから監督としての資質が疑問視されたが、球団も積極的に補強を講じていないとして石毛に対する同情の声もあった。石毛によると、解任の引き金となったのは、新入団の外国人選手(ブラウンオーティズ)が不振で、日本野球に慣れさせるため二軍に落としたことにあった。これが採用した岡添裕球団社長への意趣返しと見なされ、解任されたという[2]

2004年、株式会社IBLJを設立し代表取締役に就任、四国アイランドリーグ(現四国アイランドリーグplus)を設立。2007年3月10日、IBLJ代表取締役を退任し、コミッショナー専任となる。同年12月31日、四国アイランドリーグとの契約満了に伴い、リーグ運営から完全に撤退。ただし、同社設立時(100%)から現在も主要株主の中に名を残している。コミッショナー退任について、自身のブログで「自分から言い出したものではなく、リーグ側で契約の更新を行わないと決めた」と説明した。2008年1月、愛媛マンダリンパイレーツのシニア・チームアドバイザーに就任。

また、同年3月には関西独立リーグの構想を表明。2009年、関西独立リーグ発足後は最高顧問に就任した。しかし、同年5月に発覚したリーグから球団への分配金の未払問題に関連して、リーグ発足後はほとんど運営にタッチしていないことが報じられた。リーグ運営から撤退した株式会社ステラに代わる運営会社の代表に就任した木村竹志は、5月28日に開いた会議後の会見で、「(石毛との)関係には区切りが付いたと考えてもらっていい」と発言し、新会社発足後のリーグ運営に石毛が関与しないことを示唆し、石毛は最高顧問を辞任した。これに関して石毛は「オレは(リーグの)広告塔みたいな感じ(で参加した)」「(最高顧問なのに何もしてくれなかったという各球団の声に)立ち上げの前段階でいろいろやったのに、これまで礼もなければ報告も相談もなく、こうなってから『何もしてくれなかった』って言い方はない」と話す一方、「自分が悪者にされても、存続して(独立リーグが)広がってくれればいい」とも述べている[3]

2009年9月1日付で城西国際大学の客員教授に着任した。

2009年、石毛は西武ライオンズが黄金期の1980年代の復刻ユニホームを着用して試合を行い、当時を回顧する様々なイベントを行う『ライオンズ・クラシック2009』のエグゼクティブプロデューサーに就任し、始球式も行った。

人物

  • 1980年代後半に、東京都練馬区内に一軒家を建てた。本人は「東京都内」と喜んでいたが、同僚の東尾修は、「03(東京の市外局番)は03でも、次が9じゃね…」と、埼玉県境に近いことを冷やかしていた。
  • 阪神との1985年の日本シリーズで、遊撃後方への飛球を追い左翼手の金森永時と衝突し右膝の靭帯を損傷。このケガがきっかけで1987年以後は三塁手に転向。
  • ダイエーの二軍監督時代、スタメンをあみだくじジャンケンで決めていたことが発覚し、解任された。石毛自身は「プロとして自分で考え、行動できる選手を育成するため」という意図があったと述懐する。石毛によると、一軍監督の王貞治は、石毛の進言で選手を一軍に上げても、一度結果を出せないと見切りを付ける性格だった。二軍に戻された選手が、次に調子が上がってきたと進言しても、「いや、そいつはもういい。もうわかっているから」と、なかなか再度のチャンスは与えられなかった。こうしたことから、さまざまな打順を経験させることで、たとえば二軍で主砲であっても、一軍でバントを命じられて失敗しないようにといった狙いがあった[4]。また、解雇になった原因はスタメン選びではなく、球団の管理部長にダイエーの強化策について聞かれ、進言した内容にあったという。「(西武では)根本さん(西武管理部長→ダイエー専務)がまず素材のいい人間を集めた。これはある面では編成の仕事だ」という部分が、ダイエーの選手、あるいはスカウトに対する批判と受け取られ、球団側の怒りを買ってしまったという[5]
  • オリックスの監督に就任して、仰木彬前監督は選手が一堂に会したミーティングを開いたことがなく、指示は選手に個別に伝えていたと聞いて驚き、早速マネージャーにミーティングの場所を確保させた。石毛は仰木のやり方について、「小さなことかもしれないが、そういう面で、仰木さんが九年間、監督指揮をとっていたオリックスが、すべてにおいて多少ぬるくなり、その結果弱くなっていったのかなと思った。仰木さんは、野茂[6]イチロー長谷川吉井[6]田口といったいい選手を育て、彼らにとってはいい指導者、いい恩師だったかもしれないが、みんなアメリカに送り出してしまい、客観的に見れば日本の野球界にとって財産ともいえるような人材をみんな放出してしまったのはなぜなんだろう、どうなんだろうという思いもある。仰木さんは優勝経験もある名将、知将と言われる人なので、私の知らないやり方があったのかもしれないが、選手に個別に伝えていくやり方は、チームとして、組織として、機能していたんだろうかとも思ったりした。[7][8]」と批判している。
  • オリックス監督を解任された後、IBLJの設立を思いついたことについては「(監督が)3年契約で、残り1年8ヶ月分の給料はもらえる。どうせあぶく銭だし、活動資金になるなと思ってね」と述べている[9]
  • 四国アイランドリーグの発足後はリーグの事務局が置かれた高松市を拠点とし、香川県の観光ポスターに起用されたこともあった。しかし、運営会社であるIBLJの社長を退いてからは松山市に活動の中心を移している。リーグのコミッショナー退任後の2008年1月に、愛媛マンダリンパイレーツのシニア・チームアドバイザーに就任した。
  • 野茂英雄ロサンゼルス・ドジャース在籍当時、主砲として君臨したエリック・キャロスは、石毛をこれまで出逢った人物のなかでは最高レベルの人間と評している。
  • 新人王を獲った翌年、当時監督であった広岡達朗に「お前、それでよく新人王が獲れたな」と挑発を受けている。このことを広岡は、「守備はそう上手いと思わなかったが打撃で活躍して意気揚々としていた。もう少し上手くなれる選手だと思ったから、あえて挑発した。また、セの原辰徳かパの石毛かと言われていたので、『今、人気からすると原のほうが上だが、その実力では力でも勝てない。もっと勉強しろ』とも言った。」と振り返っている[10]
  • 上記のこともあって最初は広岡の言うことを素直に聞かなかったが、石毛のライバル選手に広岡が手取り足取り教えるうちに言うことを聞くようになっていった[11]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1981 西武 121 492 409 82 127 21 3 21 217 55 25 9 31 4 44 2 4 96 5 .311 .380 .531 .911
1982 124 537 464 64 120 17 2 15 186 54 22 4 15 2 55 2 1 112 5 .259 .337 .401 .738
1983 128 525 439 86 133 26 7 16 221 64 29 5 21 0 59 0 6 63 10 .303 .393 .503 .896
1984 124 523 452 91 117 28 1 26 225 71 26 10 11 4 53 0 3 82 4 .259 .338 .498 .836
1985 130 607 504 96 141 26 4 27 256 76 11 3 8 5 88 4 2 86 4 .280 .386 .508 .894
1986 129 586 514 91 169 23 0 27 273 89 19 10 13 7 46 2 6 71 6 .329 .386 .531 .917
1987 130 582 525 80 141 20 0 11 194 41 14 3 5 2 47 5 3 89 6 .269 .331 .370 .701
1988 130 594 508 84 144 15 1 21 224 63 22 4 12 6 66 7 2 79 10 .283 .364 .441 .805
1989 130 612 486 78 131 21 4 16 208 63 28 5 17 5 98 5 6 66 16 .270 .395 .428 .823
1990 100 413 359 48 107 21 1 8 154 47 7 1 9 5 39 2 1 41 12 .298 .364 .429 .793
1991 122 487 417 49 112 24 1 13 177 61 8 4 22 6 41 1 1 64 9 .269 .331 .424 .755
1992 125 504 438 64 130 27 0 8 181 52 11 3 22 1 39 0 4 80 16 .297 .359 .413 .772
1993 122 506 434 64 133 26 2 15 208 53 12 5 13 0 59 1 0 83 10 .306 .389 .479 .868
1994 111 439 380 60 101 13 2 11 151 46 8 4 15 3 41 1 0 79 13 .266 .335 .397 .732
1995 ダイエー 52 134 120 11 24 6 0 1 33 11 0 1 3 1 8 0 2 31 4 .200 .260 .275 .535
1996 18 29 23 1 3 0 0 0 3 1 1 0 1 1 4 0 0 5 2 .130 .250 .130 .380
通算:16年 1796 7570 6472 1049 1833 314 28 236 2911 847 243 71 218 52 787 32 41 1127 132 .283 .362 .450 .812
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績

年度 チーム 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム本塁打 チーム打率 チーム防御率 年齢
2002年 オリックス 6位 140 50 87 3 .365 39 102 .235 3.58 46歳
2003年 -- 20 7 12 1 .368 (33.5) (174) (.276) (5.95) 46歳
通算成績 160 57 99 4 .365
  • 2001年から2003年までは140試合制
    2003年に途中解任、括弧内の成績はその年のシーズン記録。

表彰

記録

  • 初出場・初安打・初盗塁:1981年4月4日、対ロッテオリオンズ戦(川崎球場) 1回村田から中前安打・同回に二盗
  • 初打点・初本塁打:同上、5回・村田兆治から左越ソロ
  • 日本シリーズ17試合連続安打(1985年第5戦 - 1988年第1戦)※シリーズ記録。
  • 通算初回先頭打者本塁打:30本(表18本、裏12本)※歴代4位。
  • シーズン初回先頭打者本塁打:8本(1986年)※当時の日本プロ野球タイ記録(2007年高橋由伸が9本で更新)。現在も1972年福本豊・96年ロブ・デューシーと並びパ・リーグタイ記録。右打者としては1978年デイブ・ヒルトン1999年緒方孝市とならび日本プロ野球最多タイ記録、パリーグ記録
  • 1イニング2本塁打(1994年6月11日)
  • 23試合連続安打(1986年7月29日 - 8月27日)
  • シーズン守備率:.991(1990年)※三塁手としてのパ・リーグ記録。
  • オールスターゲーム出場:14回 (1981年 - 1994年)
  • 通算1000試合出場 1988年9月23日(279人目)

背番号

  • 7 (1981年 - 1994年、1996年)
  • 0 (1995年)
  • 78 (1998年)
  • 87 (2002年 - 2003年)

関連情報

著書

出演

脚注

  1. ^ 石毛宏典『石毛宏典の「独立リーグ」奮闘記』 pp.86-87
  2. ^ 石毛、前掲書 pp.97-98。皮肉にも、石毛の解任後、両選手は活躍するようになった。
  3. ^ “関西独立リーグ立ち上げに尽力・石毛宏典氏(上)”. ZAKZAKスポーツ. (2009年7月30日). http://www.zakzak.co.jp/spo/200907/s2009073018_all.html 2011年2月28日閲覧。 
  4. ^ 石毛、前掲書 pp.72-74
  5. ^ 石毛、前掲書 pp.79-80
  6. ^ a b 野茂が渡米したのは、近鉄バファローズで仰木退任後の鈴木啓示監督の時、同じく吉井が渡米したのはヤクルトスワローズ野村克也監督の時であり、いずれも「仰木がアメリカに送り出した」わけではない。なお、吉井は2003年に帰国し、オリックスに入団した。
  7. ^ 石毛、前掲書 p.97
  8. ^ オリックスに所属していたイチローは2000年、田口は2001年を最後に渡米しており、石毛の就任時はチーム力が大きく低下していた。なお、田口は2010年にオリックスに復帰している。
  9. ^ 「明日へ 地域独立リーグ 1」2008年7月31日付読売新聞大阪版夕刊
  10. ^ 日本経済新聞 私の履歴書2010年8月23日付夕刊
  11. ^ 日本経済新聞 私の履歴書2010年8月23日付夕刊

関連項目

外部リンク